水主町の歴史     16(これは唐津新聞に連載された番号)昭和55年6月7日掲載
 大石町続きの水主町は藩政時代から商人職人が住みついていたが、郷方の地区で唐津村に属していた。しかし、土井候時代から唐津村の枝村として新堀と共に庄屋が置れていた。郷方と町方の違いは、郷方に属する地区は地方代官が支配し土地・家屋に税がかかり、町方は町奉行支配で土地・家屋は無税で運上金という一種の営業税がかかることである。
 初代藩寺沢時代の絵図をみると、ここは「加古町」と書かれ、唐津藩の水軍である御手船の船頭・水主たちが住んでいた。しかし、寺沢家が断絶し大久保家が入部するとともに常備の水主は廃止され、必要なときだけ傭う日高水主役と呼ばれ、沿岸の漁村から出役する水主が務めたので、住みつく水主たちは少なくなり、大半は商人職人となった。
 水主町の庄屋屋敷は現在の佐賀設備にあり、最後の庄屋長谷川助七郎は明治になって新堀渡しを請負っている。
 藩政期中頃、松浦川中流地区に石炭が発見され、幕末から明治にかけて、この地方の主要産業となり、石炭は藩の専売品で地方役所が支配したが、実務は御用石炭問屋二軒が請負った。一軒は吉井といい、屋号を米星と称し、現在の唐津履物店の東側あたりにいた。ここは明治に入り石炭業で財をなしたのち大名小路の綿星の建物を建てた田代政平が住んでいた。もう一軒の屋号を松本屋といった松本姓の問屋は現在の唐津履物店にいた。
 幕末から明治の中頃にかけては石炭をはじめ郡内の産物は松浦川を上下する舟で運ばれ、その船頭の多くは水主町・新堀に住み、船頭かしらの神田安兵衛は中道屋のあたりに住み、その一族で御用紺屋を務めた神田嘉右工門は米屋のさらに東側あたりにいた。
 水主町の旧家としては横浜屋田中惣吉がいる。筑前糸島郡横浜村の出で船問屋を業とし、御用焼石問屋を務めた。焼石とは石炭をむし焼きにした所謂「ガラ」(コークス)のことである。ガラを大々的に版売して産をなしたのが宮島伝兵衛家で、横浜屋の前に富田星を屋号としていた。代々魚屋兼小料理屋を営んでいたが清左工門の時代廻船業に手をつけ、仕法方役所の蝋や紙方役所の紙それに石炭を回船し成功を収めている。初代伝兵衛は清左工門の孫で石炭の販路を大阪、東京へ拡張しただけでなく、回船以外に直接石炭の販売も行い宮島家盛運の基礎をつくった。醤油業に手をつけたのは明治十五年頃で、時代の流れと共に事業の種類をかえる先見の明が今日の宮島家となったといえる。なお、船官町に属するが、宮島醤油工場の位置は寺沢時代は松浦党の武将有浦氏の屋敷があった。
 中道屋の前には柳川屋林五平の家があり米屋を営んでいた。浦野菓子店の角は米屋の一族吉井藤兵衛が住み焼石問屋をやり、明治になって水主町の惣代役を務めている。
 現在の中村ブリキ屋あたりには菓子屋卯兵衛こと西尾卯兵衛が住み、水主町の名頭を務めている。
 文化から安政にかけ湊屋権右工門という商人がいた。彼は対馬の殿様から宗姓を名乗ることを許されている。その一族に九宗公園の宗家があるが、彼は青木理容あたりに住んでいた。この宗家は元来は権藤といった。
 そのほか藩政時代、苗字を許された家に岩瀬、坂本、竹内がいた。岩瀬は小島金物店の東隣に、坂本はもと唐津新開主筆坂本又七の祖で屋号を塩屋といい、現在も同じ場所に住み、竹内は現在の藤本燃料店あたりに住んでいた。竹内文斎は保利文亮の弟子で医者をしていた。
 水主町のヤマ鯱は明治九年に新調され作者は富野淇園、塗師は川崎峰治である。これは現存するヤマでは最終のもので、ヤヤ行列の順番について江川町と紛争をおこし、現在の順番となった事件である。またこのヤマは昭和四年に破損がはげしいので破棄され、同五年に作り替えられた。そのときもとのより縮少された。
 最近鯱ヤマについて原形はオコゼだと唱える人も出て来て、新たな話題となっている。これもヤマに関心の深い人が増えた証拠であろう。
   (市図書館提供)