船宮町の歴史     17(これは唐津新聞に連載された番号)昭和55年6月25日掲載
「お船官の人」と敬称
水軍所属の武士、船頭たちが住む


 現在の船宮町は藩政時代の「お船宮」の西半分と新堀といわれた地域の東半分から成っている。
 船宮は藩政期「御船宮役所」があり、水主町の住民が「カコマチンモン」と呼ばれるのに対して「お船宮のヒト」と敬称され、住民の大半が藩の御船手(水軍)に属する武士や船頭、水夫たちであった。
 船宮の地名については松浦要略記に「播州明石より国替にて御船手並町人等御越被為候」とあり、現在明石市にも町名に船宮があり、唐津の船宮も、それにゆかりのある明石以来の地名であろう。
 御船手の長官は御船奉行で二人が交替で奉行を務めた。その役所は現在の宮島醤油工場あたりにあり、最後の奉行の一人は市原氏であった。なお、この奉行所のところは寺沢藩時代は松浦党の武将で、のちに寺沢家に仕えた有浦一族が居を構えていた。
 御船奉行の下には大船頭以下の職制があり、奉行は藩の中級武士が任ぜられたが、大船頭以下の船手の者達は「立切」と称せられ、藩主が国替えで代っても、転出することなく、そのままの職を引き継いで永住している。
 唐津藩の御船手は大船頭以下約百拾軒で、小島、松下、太田、浮須、原田、阿賀、梅田、小宮、柿村、渋谷、高浜、藤田、湯浅、湊、山崎、堤、西川、橋本、野崎、吉崎などは明石以来の家柄である。
 大船漁であった松下家には藩政期の船手の記録を残しており、現在も昔の屋敷に住んでいる。大正天皇の待従武官を務めた松下中将や唐津の音楽界の長老松下先生はその裔である。
 水主町、新堀、船官は藩政期は藩の公用地であるが、水夫の多くが必要なとき公役で勤める日高水夫といって各浜浦の漁士か当てられるようになってから空き地が多くなす、商人や職人が移り住むようになり町並みができたが、城下町とは別のあつかいがなされ、郷方として庄屋がおかれていた。
 水主町の川沿い地区が新堀であり、新堀の川上の川沿いが船宮で、そこには土場といって藩の船をつなぐ船溜りがあって、船溜りは、河に面して枡型に仕切られ河中に石畳が築かれていた。しかし、明治に入り御船手が廃止され船溜りも不用となり順次埋め立てられ、新堀の渡し場だけが明治三十年初期まで昔の面影をとどめていた。
 新堀から船宮にかけての川岸は現在のバス通りの国道204号線である。
 船宮町の地区の変更は明治から昭和にかけて数回行われ、そのため町の境は現在でも複雑に入りまじっている。
 廃藩と共に新行政区画で大石村に属していたか明治九年に東村として分離し、明治二十二年には唐津町に編入され大字東町となった。しかし、一船には船宮、新堀と呼ばれる方がわかりやすい地名である。
 昭和二十二年町名変更により藩政期の船宮の西半分と新堀の東部とで船宮町となり、船宮の東半分は東町となっている。
 唐津の古老にとって懐かしい新堀の渡しは藩政期、松浦川対岸への唯一の交通路であったが、明治二十九年奥村五百子などの尽力で松浦橋が出来、渡しは廃止された。渡しの前面の河中に三坪ほどの築島があり、イゲ様と呼ばれる神様が祭られていた。大正ごろまでは川祭りかここで行われ、七夕様のように笹竹が飾り立てられていた。しかし、この築島も埋め立てられ、現在材木町の一部となっている。このイゲ様も現在新堀稲荷の境内に移祀されている。
 渡し舟は廃藩後は民間の請負になり、明治初年水主町庄屋長谷川助七郎が請負っている。
 藩政期の渡し舟の定員は五名で渡し賃は一人三文、出水など危険の多いときは倍の六文であり、藩士及び家族は町人と同乗は禁じられ無料であったが深編笠のままでは賃金をとられた。
 新堀の庄屋屋敷は現在の福井木材の倉庫あたりで最彼の庄屋は江口三左工門であり、明治になって新堀の惣代役を務めている。
 新堀には船乗り相手の小宿があり、呼子の殿の浦同様客の相手をする女がいた。川口屋、諸国屋、淡路屋などの名が知られている。淡路屋は姓を内山といい、苗字を許され、現在の福井木材店あたりにあった。川口屋は大崎姓で現在の清掃衛生社あたりにあった。そのほか新堀には浦田、井手、後藤など長く続いた家があった。(唐津市図書館提供)