一般に城下町の中心となる大手門前の町並を本町と呼ぶが、唐津の本町は大手門前をはずれているので珍らしい町名である。しかし、惣行事役の町順を「本、呉、入、中‥…:」と言い馴しているので、本町が城下の首町と言う人もある。
藩政時代の本町は商人職人半々の町であった。商家としては藩の御用米問屋を勤めた米屋中川家日田御用達を勤めた鶴田屋谷崎家、料理屋のお多福屋深見家、そのほか、糸屋寺村家、紙問屋の菱屋立花家、富永屋、伊賀屋草野家などが裕福な商家として知られている。
職人としては屋根師棟梁吉岡家、樋屋師棟梁大西家、木挽棟梁楠田家、御用仕立屋副田家がある。
中川家は現在の中川茶舗の位置、現在平岡家の店あたりにも中川氏一族が住んでいた。立花家は現在の塗料店、菱屋文蔵は数寄者で、当時の文化人として知られていた。富永家は現在新岩井屋前のビル辺りにあった。富永*金堅之助は明治大正の当地の新聞記者、政治家として唐津の歴史を色どる人である。草野家は現在松尾精麦の住宅あたりに住んでいた。吉岡家は横町の木綿町寄りのバー小吉あたり、大西家は現在のありのいえあたり、楠田氏は丸善理容店たり、副田家は京町通りのもと牧川書店の隣にあった。
この町には楠田姓の家が五、六軒あった。木挽棟梁の楠田氏は町年寄を勤め、また、「出雲宿」といって出雲大社の社人の札配りの定宿もしていた。皮座の楠田倉右工門は樋屋師棟梁大西儀七の前にいた。また、ここにあった稲荷社は現在唐津神社境内に移されている。
この町には平野姓の家が五、六軒あった。現在の平野仏壇店は明治末頃までは荒物屋であり、現在の石田印刷所あたりには売楽行商人の定宿があった。
現在の田村設備あたりに「御使者屋」か土井候時代でき、他藩からの公式の来訪者や幕府の役人などを泊めた。平戸の殿様も参勤交替の途上ここに泊っている。幕末にはあまり使われず、町会所郷会所として町年寄や庄屋の事務連絡所として使われ、また、町人の宗門改めの人別もここで行われた。明治初年の町役場制度のはしりともいうべき戸長役場も最初は、ここに設けられている。
ここの最後の「御使者屋守」の富野武蔵は、また、藩の払下げ米を扱う商人で一族の富野淇園は絵師で曳山の原図を多く書いている。
本町の曳山金獅子は弘化三年に作製され、塗師原口勘三郎である。
「肥前物産図絵」に本町の線香屋が画かれている。線香屋としては明治中頃まで馬場家が現在の上滝家辺りにいた。その筋向いに大木屋大木小助がいた。現在の新岩井屋の北隣に町年寄を勤めた三浦家がある。
廃藩後の明治九年頃大名小路から本町へ抜ける「本町橋」が壕堀に架けられたが明治末、唐津銀行が建つ時埋立てられ橋は消失した。唐津銀行は現在の佐賀銀行唐津支店で、赤練瓦と石材で外装された建物は明治の辰野式建築の美しい面影を今にもとどめ、唐津の貴重な文化財となっている。
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