平野町の歴史     4(これは唐津新聞に連載された番号)昭和54年9月13日掲載
 平野町は、寺沢志摩守が築城のときの町割の十二町には含まれていない町である。従って、城下町の惣行事や惣町の月番の務めない町である。
 平野町の名は元和検地帳に居住者名が記されているので、通称名としては、町造成の初頭からあったと推定されるが、町名が、城下町の諸行事に現われるのは、江戸期の中頃からである。一説には、豊臣秀吉の名護屋在陣の時の平野町の人々が唐津城ができた時移り住んでから、平野町と呼ばれるようになったと言われる。
 平野町から熊原に通ずる道は元来は私道で、これについては次のような史実がある。
 藩政期は、この町も外濠に囲まれ、西方は行づまりの町であった。旧来、内町に出入できる道は、東は札之辻、(現、札の辻遊園地前)、南は町田口(唐津駅前)、北は大手ロ、西は名護屋口(浄泰寺前)の四カ所で、外は外濠がめぐらされていた。
 明治に入り、この町の住人、木村幸助は屋号「釘屋」と称し、仕出しを業としていたが、西寺町、熊原への通路のない不便を憂い、町内有志と計り、明治九年頃、当時丘となり樹木か繁り、その下は岩松先生、営善方大火災(明治五年二月二十五日)の濠で蓮根がおい生っていた処を切開き、埋立て、通路を造りあげた。これが現在の平野町から熊原への通路である。
 平野町は江戸期は職人の多い町で、木村姓の家が七・八軒あり、いづれも大工を職としていたらしい。この町の町年寄は伊藤恒左ヱ門家と渡辺重右ヱ門家、廃藩時は木村市兵衛も町年寄をつとめている。又、以上のほか、
寺村、野崎、佐々木、原、片山などは旧藩以来の家である。
 現在の藤松眼科の辺りに木浦山千量院と云う山伏があり、現在唐津神社の境内に祀られている白玉稲荷神社があった。
 現在の人気門旅館辺りに伝明寺と云う真宗寺があったが、明治二十年頃、廃寺となっている。
 又、現在の堀ガラス屋辺りに伊勢講の高同二頭太夫の出張所があり、明治三年藩制改革で陥正となった細田翁助が町役場を開いている。
 なお平野町のヤマの「謙信の兜」は明治二年の作で、作者近藤藤兵衛、塗師畑重兵衛となっている。