呉服町の歴史     7(これは唐津新聞に連載された番号) 昭和54年10月24日掲載

 呉服町は唐津総町十二町の一つである。町名の由来は、この町が城の玄関口に当る大手門に直接通ずる町であり、呉服屋が軒を並べて賑やかな町になるようにと期待して名付けられたであろうと、言い伝えられている。
 現在、呉服町は唐津一番の繁華街として自他共に許している。この町が現在のようになったのは、明治後期唐津駅ができ、人の往来が激しくなってからである。この町の栄えと対照的な刀町の状態を見ると、町並の盛衰と交通環境は密接な関係があり、駅とかターミナルの位置を何処にするかは町に住む人にとって極めて重大なことだということを歴史が示しているといえる。
 江戸時代にこの町に住んでいた人たちの跡を辿っでみると、町並は変らなくても、人の世の浮き沈みの激しさをしみじみ感ずる。唐津町大年寄の筆頭とされているのは石崎氏である。石崎氏は作り酒屋を業として、現在のアメリカ屋あたりに居を構えていた。屋号を菊屋といい、刀町の石崎氏と同族であったが、明治十年頃没落して、この町から姿を消している。この石崎氏は代々嘉兵衛を名乗っていたので、刀町の赤御子の創始者石崎嘉兵衛を、この石崎嘉十郎賢と混同して考えられていたことがある。
 呉服町には煙草屋、樽屋、亀屋と呼ばれる三軒の辻姓の富商がいた。煙草屋は呉服屋を業とし、現在の「なかの」あたりにあった。辻甚兵衛の頃は.御腰物師、御綿屋として藩の御用を勤めていた。甚兵衛の父辻利吉は中町の青獅子の製作者として名を残している。樽屋は辻氏の総本家で、明治初年の辻富太郎は町会議員として活躍した。亀屋の辻亀太郎は作り酒屋を業とし、現在の東京堂あたりに店を構えていた。
 安楽寺の左側、大手口に面する一角に具足屋山内氏がいた。この家は江戸初期からの家で、木炭問屋をはじめ、城内の日用品の御用を勤めた。又廻船も業とし、大手ロの濠端の八軒町まで舟を入れ、日用品を町中に運びこんでいた。この山内利右工門は町年寄を長く勤め、明治十一年戸長制度が設けられたとき、内町戸長、内外町戸長となり、明治十六年まで勤めている。
 中町側への横町にある大橋氏は寺沢藩時代の武士で、町人となり、御肴屋として薄の御用を勤め、町年寄にもなっている。
大橋氏の右隣の前田理容店あたりには吉村儀助の屋敷があり、屋号を肴屋として称していたが、儀助の子儀七は酢屋をやったので酢屋とも呼ばれていた。儀七の弟儀三郎は宮嶋伝兵衛と肩を並べる石炭問屋で、唐津銀行の重役を勒め、唐津財界の大立物であった。
 唐津藩には百工方という役所があり、藩の財政、経済を握っていた。その役人には町人で有力者が任ぜられていたが、呉服町からは吉村儀助と瀬戸屋峯清兵衛が選ばれている。瀬戸屋は今の「ふじや糸店」あたりに店を構えていた。
 米屋町側の横町の松尾印刷あたりに米屋岩下氏がいた。船問屋と作り酒屋を業とし、利左ヱ門の代に町年寄を勤めている。この家のほか、今の福屋からキシヤあたりに岩下姓の家が二軒あった。
 呉服町の安楽寺は名護星六坊の一つ端坊にはじまる眞宗の寺である。毛利元春の三男端坊順了が豊太閤の名護屋在陣中に名護屋に開いた坊で、唐津城築城の折、この町に移った。この寺には本願寺教如上人真筆のご題目の軸を存し、本尊阿弥陀如来像は行基の作仏と伝えられ、もと天川村(現厳木町)にあったが示現により、この寺に移ったと伝えられる。この寺の本堂は名護屋城の遺構の一部を移したものとされていたが、近年改築され姿を消している。また、寺庭は曽呂利新左ヱ門作と伝えられ由緒あるものであった。江戸末期、総町の会所となり、年寄たちの集会が、しばしば行なわれている。
 呉服町の曳山義経の兜は天保十五年作で、製作者として石崎八右ヱ門、脇山夘太郎の名が記されている。