常安九右衛門日記
常安九右衛門日記
太宰府天満宮銅華表鋳立日記−と表記した常安九右衛門自筆の和綴本冊子がある。この日記の冒頭は(原文のまま)
筑前太宰府天満宮は某(それがし)若年の砌より信仰の御宮にて某(それがし)三十四歳に相成候巳の冬、佐嘉表と銀取引につき大難生じ候節御神慮を以て大難は吉事と相成候。その後御神慮弥増にて若年より不束の身分当所御上佐嘉御上御双方の御恵みにて斯迄相成候儀偏に御神慮と徹し天満宮に何ぞ一際の御益に相成候寄附仕度存立(おもいたち)宿坊満盛院に相伺候処御神前に御聞上被下候へば石の灯寵か唐金(からかね)華表かと御啓示に在之候故両品の内にて御寄附致候様にと有之候。
唐金華表と申候ては大造成の儀にて身分不相応には相心得候えども、我が念力を以て成就仕る可しと三十八歳に相成候酉の年より存立(おもいた)ち大坂にて数度佐嘉、筑前その外近国所々にて照合候へども何分他所にて請負の鋳立(いたて)不定に相聞へ侯故某(それがし)引受け鋳立申より外無之趣に相決候。
天明二年寅二月晦日朝五ツ時より多々羅相立候て鉛白味共に地金高三千三百斤七ツ頃までに漸く吹仕候。
華表も追々出来いたし侯へばこの節に英彦山へ銅灯籠一対鋳立候て寄進いたし候筈に存立(おもいたち)候但灯籠高さ一丈六尺五寸別紙絵図あり候。
豪商・常安九右衛門保道
唐津の日野屋
甘木の佐野屋、加布里の東屋に加えて唐津の日野屋と並び称せられたのは今や遠い昔、江戸時代の豪商の話である。唐津の豪商、日野屋の呼称を知っている人々は大たい大正時代で終りを告げたと言ってよい。
日野屋の構えは、京町全体がそうであったとも言われたが、西日本相互銀行唐津支店のある場所が日野屋の本陣で、それから東へ北側の屋並が皆んな日野屋の店舗だったと伝える。これがほんとうのことのようだ。常安治右衛門治道という人物が明治二十二年に東詰(現亀井洋服店)の家で終焉を告げたことがはっきりしておるし、且つ明治八年に出来た唐津曳山のうち京町珠取獅子の世話人として治右衛門の名前が誌されている。
日野屋は豪商だったと言うが、一体何を家業としたのであろうか。郷土史書のあちこちに常安九右衛門(初代)が小川島の捕鯨に携って巨富を得たと見えるが、これは水野時代のことで約七年間に及ぶ。
太宰府天満宮に青銅の大華表、また英彦山の登口に青銅の大燈籠を献納したことで、捕鯨で巨富を獲得したであろうことも察せられるが、九州大学名誉教授桧垣元吉氏の調査によれば、大坂との間に青田買や棉花などの取引があったからこそ日野屋の名前が大阪界隈まで知れ渡ったのである。
唐津西寺町の長得寺は以前長徳寺と呼ばれた寺だったそうだが、常安九右衛門が祖先供養のため建て直し、天明元年以後長得寺と寺号を改めたと言う。道理で位牌には「本寺中興の開基」とある。
常安九右衛門墓誌銘
千齢翁名保道肥前唐津人姓源氏族為常安常称九右衛門其先*蓋自言岸嶽城主波多三河守之庶*撃也豊王西伐城陥波多氏滅撃子潜匿以免其後為道士在矢作村者之子来唐津京坊為街正即翁之父也翁年少不事事又甚一旦奮激折節勤力*見銀為*鄭邦相往来殖貨精壱之所致当隆隆以起*蓋市*費舎広其区宅名聞乎近遠佐嘉侯召見与富国之議贈数矣其官工忠吉造大小刀及槍力以至章服鹿島蓮池各召見佐嘉賜*凜会益至三十口佐嘉大臣多久氏給十口皆以其所議適宜也翁為本藩服勤尽心力耳侯嘉之且以他邦侍接之優聴帯双刀賜*廣以仕者題*克則使植槍歳例賜白金例外数有章服之賜侯一再過其宅過則賜物及妻子翁出銭穀助凶*(食幾)振救之類不可枚挙於是給俸増加至三十五口翁無親疎恤人類苦唐津外溝直鍛治里者自前無橋里人病回路翁講以私財若干金作橋佐嘉市街有土橋四所動則把堕街人為煩翁請以更作之其費三百金亦用私財也翁奉神仏不愛*貿嘗*儲浪華工人数輩於別舎銅華表三年而成建之太宰府菅公廟神道用度凡二千二百金先是唐津長得禅寺幾傾*翁*摘数百金理新之去歳罹病以之茲寛政十三年辛酉二月六日卒年六十二葬夫禅寺(以下百五十字省略) 唐津儒宮司馬弼撰
覚(大町年寄宛の書翰)
兼々惣町の御為に相成候儀、仕残しおき度き念願に存上候へども、未だ不足のみに罷在候へば存念の通りに行届き不申候。
然しながら寸志を表はし候までに、この度七弐銭五貫目惣町へこれを進上し仕候。
御受納被下たく候。尤も相成るべくは右五貫目の銭、御貸付け成し下され、年々その利銭を以て惣町にて難渋なる仁に御相談の上、お救いつかはされ被下度候。なお又、お救い用利銭より余り申候年は元銭におさし加へお貸付け被下べく候ように各々様、お世話を以て遣々(ゆくゆく)は何卒銭高も相増し一際の御用にも相立ち申候ように相成侯へば本望至極に存上候。
偖て又右銭取計らいを以て時々お知らせ被下れ候には及ひ不申候、さりながら格別の御相談も御座候節は私方へもお聞かせ被下るべく候こと。
この度の五貫目銭の利銭当年柄につき前借り成され下され候て攻めて少分の利銭にても此節惣町へ右利銭より御割付被下れ難渋なる人人へお救いつかはされ下され候へば、尚又此の上もなき幸に存上候。すべて私身分不思議の念願なども数々相達し申候ように一生しばらくの中に罷成り、本望に存上候へども遣々(ゆくゆく)は如何様なる不慮の難渋出来仕候ほどもはかりがたく存上候。
もし又変なる儀も御座候節は仰せ合はされお心添へ成し被下度くお願中上置候。以上。
常安九右衛門
保道 花押
天明四年四月九日
唐津町(総町)大町年寄面々の名前が連記してある。
常安家墓碑
常安家一門の墓碑は長得寺御堂真裏に二列に並んで二十基ほどあったが、昭和五十二年春、御堂改築に伴い大部分は御堂地下に埋葬され、初代九右衛門保道夫妻、二代九右衛門保寿夫妻、三代九右衛門保秀夫妻の順に八基ほどは新たに場所を替えて建てた。保道の墓碑は写真左から二番目(高さ約3メートル)正面は隷書で法号「修善院鶴丹千齢居士」とあり、他の三両は保道の経歴(墓誌銘)が六百字ほど楷書でぎっしり埋まっている。