宗徧流の歴史と唐津

  京町 岩下忠正遺稿

 佗茶の完成と利休の死
 東山期に将軍足利義政を中心に貴族の間に荘重な台子飾りと、厳格な書院の室礼を要請した「真」の茶道が始まった。その後村田珠光、武野紹鴎によって「佗」の風を一歩深めた「真」にも「草」にも通ずる中庸の美意識である「行」のこころの茶風が戦国の乱世の中に求められ、「行」の茶道が普及した。そして千利休が茶頭となるにおよんで真の茶道の対極は「草」の茶道であり、書院に対する草庵の、権力者に対する民衆の心にこそ「草」の茶道が生れると説いた。「カネ」(規矩)を離れ、わざ(技)を忘れ、心味の無味に帰することが「草」の茶の湯の理念であると語り、彼の茶道の理想も実践もここに集約されたのである。後年、紹鴎が利休に、「佗び」ということを説いた手紙の中で、「おん身は、ただ人にてましまさず候」と言ったことを見ても、利休の人となりを知ることが出来る(露路の一風の奥の草庵に長次郎の黒楽の茶碗が佗びしく静まりかえって座っているこのような「草」の茶風の極致を尊ぶ利休には、黄金作りの豪華絢欄を誇る組立式の太閤自慢の茶室は、室内を飾る華麗な道具揃いと共に、利休の求道心が絶対に許し難いものであった。
 秀吉の美意識が利休の求道心に対しての反撥、否、挑戦とまで受け取られるものであったと思われる。
 ここに茶道の極致を究め、「草」の茶風を完成し、茶聖と仰がれた利休の悲しい破局の渕が待っていた。太閤秀吉による利休の賜死の直接の理由が何であれ、美意識に対する断層の溝の深さこそ痛ましい運命へ転落することを知りつつも、利休の最後の自己表現ではなかったろうか。
 天正十九年二月十五日、一旦聚楽第より堺に下向を命じられていた利休は、再び京都に連れ戻され、葭屋町聚楽屋敷の自宅に入った。この堺の幽閉中に大徳寺門主古渓和尚は秀吉に詫びを入れて許されている。また利休も何らかの形で詫びを入れる時間を幽閉という名で与えていたのであろうが、取持った政所、北政所の仲介にも耳をかさず、利休は自分の節操と主張を曲げることを拒んで詫びを入れなかった。そして悲運の二十八日を迎えた。この日は大雨が降り、雷鳴がとどろき、大霰が降る荒天であった。上使の侍大将岩井信能から切腹の下文が伝えられた。この時利休は一期一会の茶会を願い、不審庵に蒔田淡路守ら三検使を迎え入れて、心静かに茶会を催している。終って切腹!間髪を入れず介錯役の蒔田淡路守の紫電一閃、一瞬不審庵の窓の障子に血しぶきが飛んだ。
 利休の首は直ちに戻橋に曝された。丁度この三日前に磔にされた大徳寺山門の上の自分の木像に踏みつけにされた形で。


 千宗旦と三千家、四天王
 利休死後、その子少庵(利休の後妻宗恩の連れ子)は蒲生氏郷に預けられ、会津若松に二年間過したが、文禄三年の暮れに許されて帰落し、本法寺前(現在表千家裏千家のある所)に落着いた。慶長五年(一六〇〇)隠居して、子の宗旦に家督を譲って慶長十九年(一六一四)九月七日、六十九歳の生涯を終った。また利休の実子道安(利休の先妻の子)については諸説があり、不詳であるが、少庵と共に赦されたと考えるべきで、慶長二年三月、伏見の家に、神谷宗湛を招いて茶会を催したり、堺の家で松屋久政と茶会をもった記録がある。そして慶長十二年二月十七日に没するまで堺の家に居住し、その後何時しか堺の家も自然消滅して終ったようである。かくて堺の町衆茶頭の時代は終り、その地位を博多の町衆茶頭に譲り、経済的主導権も大坂商人に奪われ、その衛星都市となって、堺は歴史的推移が集約されたような地盤沈下をしたのである。
 その頃宮廷貴紳の間にその優美さを謳われた金森宗和の茶道を「姫宗和」と称し、それに対して「佗び」に徹した宗旦の茶風を「乞食宗旦」といわれた。これは、宗旦が経済的不如意にあったにも拘わらずまた、子供達から奨められても大名に仕官せず、祖父利休の死の教訓を厳しく見つめ、千家の再興を期した宗旦の生き方を端的に現わした呼称であったろうと思われる。宗旦は、自分は固く仕官を拒んだが、子息や弟子の大名仕官は認めた。彼の三男の江岑宗左は、寛永十九年(一六四二)に紀州徳川頼宣に仕え、表千家を興した。四男の仙叟宗室は寛文六年(一六六六)に加賀前田家に仕え、裏千家の流祖となった。また次男宗守は一時、塗師屋吉岡家に出たが、後に武者小路で一流を立てて、武者小路千家の祖となった。かくて表千家不審庵、裏千家今日庵、武者小路千家官休庵の三千家と称されるようになったのである。また、千宗旦には山田宗徧、杉本普斎、藤村庸軒、久須見疎安(または三宅亡羊)という数ある弟子の中にも有名な高弟があった。これを宗旦の四天王と呼んでいた。久田家の出身で千家の後見とも言われた「茶博士」藤村庸軒、自ら「日本茶楽人」と称して利休の正風、宗旦の茶道を伝えた杉本普斎、茶道の啓蒙書を版行した久須見疎安等よりも、延宝三年に利休正統の茶道を実に詳細に記述した 『茶道要録』を、同じく八年に『茶道便蒙抄』を、元禄十四年に『利休茶道具図録』 を刊行した山田宗徧は宗旦四天王中の第一人者であった。そして宗旦の全幅の信頼を受けて全権大便として小笠原家に仕官したのである。それから三年目の万治元年も暮れんとする冬の日、恩師宗旦は京都で八十一歳の天寿を完して他界した。

 
 小笠原氏と山田宗徧
 小笠原氏は、清和源氏の流れを汲む新羅三郎義光より出自している。義光の曽孫の遠光は、甲州加々見の地に居を構え、加々見次郎と称し、源平合戦の折、平家を討って勲功をたて、信濃守に任ぜられた。この時長子の長清が甲州の小笠原の館で生れたので、加々見氏を改めて小笠原氏と称し、父の信濃守を継いだ。これが小笠原氏の始祖である。
 子孫は代々信濃の守護となって深志の城に名将家として栄えていた。然し長清より十五世の孫の大膳太夫長時の代より戦国乱世の渦に巻き込まれ、時に会津の蘆名氏に走り、また、その子の右近太夫貞慶は、漸く深窓の城に帰ったが、徳川・上杉・北条の群雄の中に介して盛衰常ならず、遂に豊臣時代に徳川氏に属した。
 貞慶の子幸松丸は元服して秀吉より秀政と名付けられて兵部大輔に任ぜられた。そして家康の孫女を要り、徳川氏と姻戚関係になった。
 その後秀政は、下総の古河にて二万石の大名となり、信州飯田に転封されて四万石となった。慶長十八年に至りて同国松本に移封されて六万石となった。松本は元の深志の地で、秀政の為には祖先以来の世襲の地で、念願の父祖の地に帰ったのである。
 然し元和元年大坂の役に不覚にも戦機を誤り、遂に長男忠修と共に憤死を遂げた。秀政には八男二女があったが、長子忠修は父と共に戦死したので、次男忠真が父秀政の遺領を継いだ。三男忠知は天真公と称して我が唐津小笠原氏の始祖となった人である。天真公忠知は幼名を虎松と言い、長じて信州中島井上に於て五千石を賜い、壱岐守に任ぜられた。
 その後書院番頭、大番頭、奏者番を経て、寛永九年豊後杵築に於て四万石の大名に封ぜられた。この時の兄の右近将監忠真は播州明石より豊前小倉十五万石の大名として移封され、長男忠修の遺子長次は播州龍野より豊前中津八万石の地に移封され、弟の松平丹後守重直は、摂津三田より、豊後高田三万七千石の大名となり、一家兄弟の領地は優に三十万石を超え、鎮西の要地を占めて繁栄を誇示した。
 正保二年天真公忠知は、杵築より三州吉田に転封となり、四万五千石に加増された。そして千宗旦の推挙により山田宗徧を茶頭として召抱え、長男山城守長矩(初め長頼)に家督を譲り、隠棲したのである。そして寛文三年に不帰の客となった。二代の長短は奏者番と寺社奉行を兼務すること十三年、遂に江戸にて死去し、嗣子は長子壱岐守長祐が嗣いだが、長祐に嗣子がなく、弟の佐渡守長重(後に長亮)に封を譲った。長重は五代将軍綱吉に仕えて六代将軍家宣の世子時代西丸付となり、一万石を加増された。そして寺社奉行、京都所司代職に補せられ、遂に老中職に挙げられ従四位下侍従に叙せられた。
 その後、元禄十年武州岩槻(埼玉県)五万石の大名として移封された。然し長重は長子長道が早逝したので致仕し、次子壱岐守長寛(後に長熙)に封を誘って剃髪し「峯雲」と号し幡ヶ谷の地に隠棲した。間もなく壱岐守長寛は遠州掛川に移され、孫の能登守長恭が遺封を継いだが、また奥州棚倉に移された。
 次で長子佐渡守長尭が嗣立し南萼公と称して善政を施し、奏者番になった。長尭の嗣子も早逝したので二男の主殿頭長昌が嗣立した。即ち霊源公と称し、唐津に移封されたのである。時に文政元年にして唐津城主としての小笠原氏の第一祖である。文政六年九月二十六日享年二十八歳にて卒し、江戸駒込龍興寺に葬った。明治維新の折、徳川幕府の老中として、身命を投げ打って時局の収拾に尽力した名君の明山公長行は実に長昌の遺子である。
 かくの如く主家の小笠原家は転封相次ぎ世襲はげしい中にあったが、山田宗徧は茶頭として元禄十年(一六九七)に四代小笠原長重が武州岩槻に国替えになるまで忠知・長矩・長祐・長重の四代四十三年間に亘り、吉田(現在の豊橋市)にて宗徧流の育成普及に努めたのである。以後二世宗匠宗引(不審庵留学)、三世宗匠宗円(不審庵江学)はじめ歴代の宗徧流宗匠は茶道を通じて小笠原家に献身尽瘁し命運を伴にしてきたのである。


 不審庵第四世周学・
  宗徧の人となり

 流祖山田宗徧は京都二本松の東本願寺派の長徳寺の第五世住持となるべき僧侶として寛永四年に生れた。幼時から茶道を学び、十八歳の時還俗して千宗旦に入門した。それから八年、二十六歳で宗旦から茶道の奥儀を伝授された。そして京都洛西鳴滝の八宗兼学の道場である三宝院内に茶室を構え、日護上人の薫陶を受けつつ侘び茶の精神を体得したのである。
 このころ師の宗旦は宗徧に利休伝来の「四方釜」を贈り、禅の師の大徳寺翠巌和尚はこの釜に因んで「四方庵」の額を与えている。初め周学宗円と号したが、これより宗徧は「四方庵宗徧」と名乗ったのである。承応元年(一六五二)東本願寺の法主琢如上人が「四方庵」を訪ねることになった。宗徧は無上の光栄に師の宗旦に相談し、助言を求めた。宗旦は喜んで利休伝来の「大事の火ばし」と南蛮の水壷など秘蔵の茶道具を宗徧に与え、当日は四方庵の水屋に詰めて宗徧を手助けして何くれとなく世話をしたと言われる。琢如上人は、宗徧の心尽しの茶会に非常に感激し満足して帰った。この時宗編は師の宗旦の手を押し頂いて共に成功を喜び、師の恩愛に感泣したという。
 明暦元年(一六五五)三州吉田の城主であった小笠原忠知は、この頃「破格の茶道」の華美な茶の遊楽と、異様を好み、格調を破る茶風を忌み嫌い、自由の天地に茶の湯の深奥を求め、草庵の侘び茶の中に悠々自適しい宗旦の茶風に心を打たれ、三顧の礼を以って、宗旦を茶頭として吉田の城に迎えようとしたのである。然し宗旦は「齢七十八歳」の高齢を理由に、これを辞退し、代りに高弟の山田宗徧を推薦した。この時宗徧は二十九歳であった。
 宗徧が吉田城に向い、京都を後にする時、千宗旦は宗徧に、利休伝来の古渓和尚筆「不審庵」の額と、玉舟和尚筆「不審」に宗旦自ら偈を添書したものと、自筆の「今日庵」の書を贈し、「不審庵」「今日庵」の庵号を使うことを許した。また利休辞世の遺偈に由来する「力囲斉」も与えた。そして周学と言い、如箭子、如竿子、とも号した。かくの如く宗徧は宗旦の第一の高弟であり、愛弟子であり、分身であり、自分の身代りとして宗徧を小笠原家に送ったものと思われる。




 宗徧流各代の宗匠


 二世宗引

 福与久庵の子で宗徧の甥である。名を竣嘉と称し、宝永四年四月山田家を継いだ。留学と言い、不審庵と号し、*酉間酬斎と呼んだ。三州吉田小笠原家の茶頭となり、特に茶杓を削ることに妙を得ていた。享年五十七歳で享保九年三月二十九日に逝去した。静岡県掛川の円満寺に葬る。


 三世宗円

 流祖宗徧の三男の武人生駒宗逮(権平)の子である。江学と称し、不審庵及び力囲斎を号した。初め山田体善の養子となり、茶道を二世宗引に学んだが、宗引の死後流祖宗徧の門家岡村宗伯の子岡村宗恕について学んだ。小笠原侯の命により山田家を継ぎ茶頭として仕えた。宝暦七年三月二十日逝去。享年四十八歳であった。墓は江戸浅草本願寺門の願竜寺にある。


 四世宗也

 流祖宗徧の曽孫になり、三世宗円の子息である。茶道を父の宗円について学び、なお、木兆子体善(宗徧居士の次男宗屋の男、即ち宗徧の孫)、神谷松見について奥義を究めた。そして漸学と言い、不審庵、陸安斎と号した。父宗円の後を嗣いで小笠原家に茶頭として仕え、江戸八丁堀に茶室を構えて宗徧流の興隆につとめた。特に宗也の茶人としての名声は高く、その清楚・優雅な生活は有名であった。そして世に宗徧流の中興の祖として仰がれた人である。文化元年四月一日享年六十二歳で長逝した。墓は父宗円の墓地と同じく東京浅草願竜寺にある。その門弟には、徳川幕府の寄合衆や火事場見廻りを経て寛政三年に致死した松窓庵久世道空広成をはじめ、福岡黒田藩の水田藤右衛門や中西元立、また肥前佐賀鍋島藩の志波四郎次等の名茶人が輩出している。


 五世宗俊

 四世山田宗也の子である。名を靖学といい、不審庵、力囲斎と号した。父宗也について茶道を学び、また父の後を嗣いで小笠原家に茶頭として仕えた。文化十四年小笠原長昌は奥州棚倉から肥前唐津に転封となった。茶頭山田宗俊も領主に従って唐津に入部した。これが唐津の地に宗徧流の茶風が生れ育ち花咲いた歴史の第一歩であった。
 門人にも小笠原家臣以外に長州毛利藩の三好内蔵や永井家々臣で竹林軒晴学と号した磯野宗弥などの有名な茶人がいた。そして文政六年九月二十六日主君霊源公主殿頭長昌が齢二十八歳にて長逝し、二代壱岐守長泰も天保四年病を得て致仕し、養子の三代能登守長会に封を譲ったが、宗俊はこの三代に仕えて天保六年四月三日四十六歳で没した。墓は東京浅草願竜寺にある。


 六世宗学

 五世宗俊の高弟で、奥州一の関の領主田村右京太夫の茶頭吉田宗意の次男で、名を義明と言った。茶道は父宗意に学び、奥義を究めた。唐津小笠原藩に茶頭として伝統を保持していた宗徧流茶道の家元も、五世宗俊に嗣子がなかったので十数年間家元は空席となり、断絶の境地に立った。このことを憂慮した小笠原藩の家老西脇東左ヱ門は嘉永年間に主君佐渡守長国に願い出て、吉田宗意の次男義明を迎えて宗徧流六世家元を継承させ、不審庵宗学と号し、小笠原藩の茶頭として召抱えた。かくて宗徧流家元の再興は成ったのである。

 この頃唐津六万石小笠原家の江戸の上屋敷は今日の東京日比谷公園新音楽堂の辺りの日比谷御門内にあった。また下屋敷は深川の新大橋を東へ渡った所にあってその庭園は合江園と呼び、山あり、流あり、谷あり、丘ありて広大なる名園であった。小笠原家が奥州棚倉から移封となって唐津に入国し、その第一代の領主となった壱岐守長昌が死去したのちその嫡子長行は未だ部屋住みの幼少のころ、ここで不遇の毎日を送っていた。長行は幕末の騒乱の時徳川幕府より召出され、芙蓉の間出仕から遂に老中職に補せられ、一身を抛って時局の収拾と国家の安泰を計らんと東奔西走したのである。後日明山公と称し領民挙って敬慕した名君であった。
 然しこの合江園に住んでいたころはこの庭を山野として武を練り、技を磨き、また邸門の背山亭に学者、文人を招いて勉学に、風流に、毎日を過していた。当時義明宗学は小笠原家の茶頭であったので明山公長行に茶道の指南を通じて薫陶に励んでいた。
 文久二年七月長行は幕府出仕を命ぜられ、奏番者に任ぜられた。宗学は長行と共にこの出世を如何に喜び合ったことであろう。しかし惜しくも翌文久三年四月二十四日五十三歳を以て不帰の客となった。墓所は各世と同じく浅草願竜寺にある。その門人には筑前黒田藩の高木弥八郎(方円庵)、肥田郡治(松柏庵)、末竹静哉(不雪庵)や肥前佐賀鍋島藩の侍医久保文斎などが安政、嘉永年間に活躍している。また肥前唐津小笠原藩の中村宗珉も十七歳の時上京してその門を叩き修業に励んでいる。


 七世宗寿尼

 宗寿尼は第六世宗学居士の夫人である。北条相模守の家臣、井手権左衛門の娘で文政年間に生れた。そして山田家に嫁として迎えられ、宗学の妻となり、宗徧流興隆のため尽力した人である。夫宗学が文久三年に没して七世の家元を継ぎ不審庵を号とした。この頃世相は幕末、明治維新と混乱の中に急変転し、人心も不穏に陥り、茶の湯など顧る人も少なく茶道は地に墜んとしていた。この様な混乱期にも宗寿尼は、節を屈せず、宗徧流の茶風を堅く守っていた。
 この頃一時宗学の養子となった宗叔が唐津に移住したが故あって離縁となったという説もある。明治二年版籍奉還と共に山田家は世禄も失い、宗寿尼は遂に喧騒の街東京を捨てて領主小笠原の茶頭として遠路不便な道を唐津に向って歩いた。途中京都にて流祖宗徧居士の出生の寺の長徳寺に詣り、また日頃薫陶を受けていた唐津出身の大徳寺四百七十一世の管長牧宗和尚を訪ね、小笠原家絵師長谷川雪塘が画いた夫君宗学居士の肖像を携えて賛を請うた。そして禅を聞き、茶を談じた。牧宗和尚は快く宗寿尼に賛を書き、別に不審庵の木額と「仏法如水中月」の軸を贈った。唐津に到着して坊主町に住んだ宗寿尼は、旧藩士大島興義や、夫宗学の門人中村宗珉等と楽しく毎日を送り、子弟の育成と宗徧流の普及に努めていた。特に宗寿尼は大島興義の茶室に「敬日庵」の庵号を与え、また「宗寿」の花押のある「松の木盆」(盆点)を贈っている。なお多趣多技であった宗寿尼を偲ぶものとして、唐津東寺町少林寺所蔵の御所丸茶碗を筆写した明治十三年銘の見事な軸が残っている。その後宗寿尼は唐津大石町の元酒屋で富豪の兵庫屋(小牧氏)の邸内に居住していたと言われる。最近その旧家は取毀わされたが、奥庭には築山の巨石や大樹が見られた。
 明治十三年頃、宗寿尼は再び単身東京に帰って日本橋浜町に庵を構え、宗徧流茶道の普及に努めた。この時に八世宗有も宗寿尼の許で茶道の修養に励んでいた。また東京向島長命寺の近所にも山田家の草庵があり、ここでも茶道の教授をしていた。ある夜盗賊がこの草庵を襲ったことがあった。宗寿尼は従容として賊に対して「茶道具は我家の大切な物である。その他の物は好むままに持ち帰りなさい」といって内弟子の女達と衣類等多数荷造りをして賊に与えたという。誠に宗寿尼の風格躍如たるものを察することが出来る。かくして明治十六年八月二十二日、六十六歳の天寿を終った。墓は夫君宗学居士と共に山田家の菩提寺である東京浅草東本願寺内願竜寺にある。
 宗寿尼の門人には内藤紀伊守、牧野備前守始め、牧野家の老女岩野久子と、末竹伊右衛門、坂口大蔵、及び加賀宰相室、同じく加賀家の老女染山、駒野、蔦山、並びに長岡牧野家の茶頭加納友斎(花濃と称す)など有名茶人の外に、唐津と東京には多数の門人が居て、多士済々で今日の宗徧流繁栄の基礎が築かれた時期と言えよう。


 八世宗有

 八世宗有は、上州沼田藩土岐家の家老中村雄左衛門の次男として、慶応二年八月二十三日、江戸の芝、江戸見坂の土岐家上屋敷にて出生した。幼名を寅次郎と言い、十六歳の春、父と親友で七世宗寿尼とも茶友であった前田国橘氏の仲介により目出度く養子縁組が定り、山田家を継ぐこととなった。それより茶道を宗寿尼に学びつつ、横浜の英和学校に通い、また、フランス人サラベルの仏語塾にて仏語も修学した。明治十六年八月二十二日六十六歳にて養母の宗寿尼は長逝した。宗寿尼なき後は宗徧流家元の後見であった脇坂安斐に茶道を学んだ。
 明治二十三年、トルコ皇帝アブデル・ハミッド二世より、明治天皇へ親善使節が派遣されトルコ軍艦エルグルール号が来朝した。この軍艦が帰路紀伊半島の沖で遭難して沈没した。宗有は同情に堪えず、遭難したトルコ軍艦乗組員の遺族に贈る義損金の募集に奔走した。そして外務省に寄託したが、時の青木外相はトルコへ渡航することを命じた。
 宗有は日本海軍軍艦に便乗を許されてポートサイドに行き、エジプト国首相に面会し、それよりトルコの首都コンスタンチノーブルに着いて皇帝アブシュルハミット二世に拝謁し、日本よりの義損金を海軍省に手渡した。

 トルコでは皇帝をはじめ朝野の非常な歓迎を受け、遂に彼の地に滞ること十八年の永きに亘った。その間、日土通商の条約締結に尽力したり、日露戦争の時に、露国のパルチック艦隊がボスフォロス海峡を通過するのを日本政府に打電したり、また、トルコ陸軍士官学校の日本語教官を務め、トルコ博物館東洋部顧問となった。
 この頃、トルコ国貴族より日本の茶の湯の披露を所望されたので、日本より茶道具一斉、屏風、畳迄取り寄せて点前一斉を行った。列座の貴賓はその礼法や作法に感嘆し、大いに賞讃されたという。海外に於いて茶の湯を実際に披露紹したのは日本人で宗有が最初の人である。
 大正三年第一次世界大戦が勃発し、日本は連合国側と結び、トルコは独逸側に加盟したので、宗有のトルコ在留も危惧が感じられた。それで門流中からも、友人知己からも一時帰国を勧めた。特に旧藩主小笠原長生子や唐津の高取伊好(杵島炭坑社長)同じく盛(当時大蔵省事務官、現宗徧流佐賀支部長高取宗幽の父)等が、盛の親友で宗有と特に親しかった森賢吾(佐賀出身大蔵省財務官)と協力して、宗有の帰国を側面から推進した。漸く帰朝した宗有は、大阪内淡路町に住居を定めた。
 このころジュネーブより帰った高取盛は、森賢吾を始め、長岡の渋谷善作、福島甲子三、東京の坂誠一などの門流の多くの茶人と連絡し、徳川頼倫、酒井忠正、小笠原長生、石黒忠悳、渋沢栄一、久原房之助、徳富猪一郎など各界の多数の貴紳の賛助を得て、大正十二年五月六日、東京市浜町の旧蜂須賀公別邸の日本橋倶楽部にて宗徧流第八世襲名披露大茶会が開かれた。唐津よりも時の町長兼子昱と大島小太郎が賛助員に名を連ね出席した。
 茶会は式後家元八世宗有の献茶式に始まり、八席の茶席は門流の茶人雲の如く集まって空前の盛会裡に目出度く終了した。
 その後、宗有は全国の門流の地の歴訪を思い立ち、先ず大正十四年五月夫人の宗珉および森賢吾、桜木、小杉の諸氏と共に宗徧流と最も縁故の深い小笠原藩の唐津を訪問した。これは当地唐津の高取伊好氏の夫人品子(松風庵宗音)の熱意により高取盛の招待したものであった。そして城内の高取南邸で唐津の門人が集まり、茶会が催された。また、翌日は天下の名勝虹の松原で一会の茶会が持たれ、それから大島小太郎邸の「敬日庵」に立寄り、深山幽谷の如き築山の風情、老樹のたたずまいに市井の俗塵を遠くに懐石の滋味を楽しんで帰路につかれた。
 この時僅か十歳で茶席に出た現宗徧流佐賀支部長高取宗幽(綾子)はその時の宗有の印象を「御立派な風貌と御威厳を感激のうちにじっと拝見し……」と書き、その謹厳にして端正な姿に立派なお髭が印象深かったと言われている。
 また昭和三十一年五月、宗有は長女宗伯(後の九世)と長男宗囲(後の十世)を伴って佐賀を訪れ、その時病床にあった高取盛を佐賀の邸に見舞い感激の対面をした。昭和二年四月十日、流祖宗徧の生家の京都西洞院の長徳寺の依頼で茶室の設計をし、この日開席披露があった。
 この茶室は流祖好みの三州岡崎明願寺の茶室を摸したもので、宗有は流祖の如箭子の号に因み「如箭庵」と庵名を与えた。これより四月十五日に宗徧忌茶会を催すようになった。そして昭和三年四月二日宗徧居士の忌日を期し、『知音』第二号を刊行した。宗徧流茶道に志す全国の門流の人々の縦の糸、横の糸となり、流派の歴史、遺品、記録などの研究、紹介や、各地茶会の報告、門流相互の消息まで報道すべく、春秋二回『知音』は発行され続けられた。この『知音』の誌名は宗有が『碧巌録』より選んだもので、真に心を知り合いたる友という意である。
 なお、昭和十九年十一月九日には、当流の全国的組織を目的とした明道会が宗有により結成された。この時も唐津支部はいち早く組織され、流派の興隆に努力を傾けた。また、昭和二十九年四月、京都南禅寺の亀山法皇六百五十年遠忌に当り、この年が宗有の米寿の賀の歳になったのを記念して、全国門流の芳賛を受けて、茶禅一如の修養道場として茶室「不識庵」を南禅寺に建立寄進した。そして毎年流祖忌と南禅寺開山忌を催すことになった。
 しかし昭和三十二年二月十三日九十二歳の天寿を全うした宗有は、天に召されて長逝した。密葬は南禅寺宗務総長で、唐津近松寺住持の矢野康州(拈華庵宗玄)師などにより行われた。そして南禅寺にはその見事な八字髭を納めた「ひげ塚」が建立された。
 小笠原長生子はその追悼文の中で「私は宗有さんを以て宗徧茶道中興の祖と称えております」と言っている。
 弔句
  主もなく棚に淋しき髭徳利
        大阪 深野吾水


 九世宗白

 父の八世宗有の長女で明治三十四年七月二十日大阪今橋にて生誕した。宗有の没後その遺志により宗白が九世継ぎ、宗囲が十世を襲名することになったので、昭和三十二年に九世を継ぎ不審庵幽香と称した。そして五年間家元として宗徧流の隆昌に献身努力した。昭和三十八年三月弟の宗囲に家元を譲り、宗徧流庵老となった。昭和四十六年四月三十日、六十九歳で没した。葬儀は京都南禅寺で行われた。


 十世宗囲

 八世宗有の長男で明治四十一年三月に生れ、長守と言い、不審庵成学と称し、また「四方斎」「申抱子」と号している。東京帝国大学を卒業し、茶道を父の宗有と姉の宗白に学び、昭和三十八年三月、十世を襲名した。永く鎌倉に住み京都の一条恵観公の山荘の茶室を邸内に移築復元して国の重要文化財の指定を受けた。
 著書に『茶を語る』二巻と『山田宗徧全集』などがある。





 唐津における宗徧流

 清和源氏の流れで、新羅三郎義光を祖とする小笠原家は、元和元年に大坂夏の陣で、秀政と長男忠修が共に戦死したので、次男忠真が父の遺領の深志(現在の松本市)を継ぎ、三男忠知は信州川中島井上にて五千石を賜って壱岐守に任ぜられた。その後幕府の要職に就き、寛永九年には豊後杵築四万石の大名に封ぜられた。この忠知は天真公と呼び、唐津小笠原の始祖となった人である。またこの時兄の左近将監忠真は播州明石より豊前小倉に移り、十五万石の大名となった。正保二年天真公忠知は、杵築より三州吉田(現在の豊橋市)四万五千石の領主に移封となったが、家督を長男の山城守長短に譲り隠居した。この時忠知は佗び茶の興隆を志し千宗旦の推挙により山田宗徧を茶頭として召抱えたのである。時に明暦元年、宗徧二十九歳の春であった。
 その後長矩ほ武州岩槻へ、長寛は遠州掛川へ、能登守長恭は奥州棚倉へと次々に移され、主殿頭長昌の時肥前唐津六万石の領主に移封されたのである。この主殿頭長昌は霊源公と称L、唐津城主小笠原氏の第一祖となった。時に文政元年であった。以来第二代長泰、第三代長会、第四代長和、第五代長国と明治二年版籍奉還まで五代五十一年間小笠原氏は唐津の城主であった。
 長昌の唐津移封に従って小笠原家の茶頭の宗徧流第五世宗俊も唐津に移り住んだ。これが唐津に宗徧流茶風が今日絢爛と花咲き、洋々と大河の流れとなった宗徧流茶風の芽生えであり、源流であった。宗俊は長昌、長泰、長会と三代の主君に仕え、天保六年四月、四十六歳で逝去した。この時宗像に家元を継ぐ嗣子がなかったので、止むなく宗徧流家元は十数年空席となって、絶家にならんという苦境にあった。これを憂慮した小笠原家の家老西脇東左衛門は、主君佐渡守長国に懇請して、宗俊の高弟吉田宗意の次男義明に宗徧流六世家元を継がせ、不審庵宗学と号して茶頭として小笠原藩に仕えさせたので、家元も安泰を取り戻したのである。このころ小笠原家の下屋敷であった大名小路の江月楼(現在富久屋旅館)は外戚の長光が風流を楽んで歌会や月見宴、茶会などを催していたので宗学も出仕していた。
 この江月楼は明治十二年三月十三日、小笠原長生が大工高崎伊平に命じて茶室に改造し、江月楼と称して、宗徧流師範代中村宗珉などと茶を楽んだ所である。
 宗学は文久三年に江戸で没したので、七世を妻の宗寿尼が継ぎ不審庵と号した。このころは幕末の尊王嬢夷と明治維新の改革期で、世相は混乱し、人心は不安に陥り、茶道などは顧る人もなき荒廃した巷となっていた。宗学は在世中に宗叔を養子として、江戸在府中の自分の代りに唐津の家元を任せていたが、故あって離縁となった。それで宗寿は夫の死後七世を継ぎ、小笠原の茶頭として遠路遥々唐津に来任して坊主町に住んだ。そして旧藩士で茶人の大島興義や、夫君宗学の門人中村宗珉などと茶道に励み、門人の薫陶に努めた。
 その後宗寿尼は、大石町小牧氏(兵庫家)の家に住んだと言われている。明治十三年単身東京に帰った宗寿尼は、日本橋浜町に庵を構え、宗徧流の隆昌に努めた。明治十三年、宗寿尼が唐津を引き揚げて上京した時、後事を大島輿義と中村宗珉に懇ろにゆだねた。旧藩士で茶道に堪能な大島輿義は、中村宗珉を授けて宗徧流の育成と普及に努めた。
 興義の娘の大島おさい女は才色兼備の女で父の死後は宗現につき茶道に精進し、武雄家に嫁して武雄釵子と言い、観月庵宗釵と号して師範代允許を受けた人である。また小関虹松庵宗代は宗釵の娘で、祖父の興義や母の宗釵に茶道を教えられ、宗釵に学んで師範代となった。杵島炭坑社長高取伊好も、その養子高取盛も、中村宗珉を応援し、伊好の妻品子、盛の妻静子、その娘綾子は共に宗珉の門に入り、茶道に勉め、品子は松風庵宗音と号し、師範代を允許され、綾子も宗珉に入門して、唐津小学校裏の伊沢家の茶室で小学生の頃から宗珉に茶の湯を学んでいた。今日茶道宗徧流佐賀支部長の重責にある微笑庵宗幽その人である。
 なお大正十三年博多崇福寺幻住庵にて禅宗の修行をしていた矢野康州が唐津近松寺の住職となった。彼は大島興義や高取伊好の勧めで、それまで学んだ表千家を捨て宗徧流に入り、宗珉の弟子となった。師は後に京都南禅寺の宗務総長となった人で、拈華庵宗玄と号した。
 これらの唐津城内居住の人々の外に、町方にも多久島仲子という宗現の門弟で一石庵宗仲と号し、師範代となった人や、八百屋町の佐々木角治などが居た。大正の初め多久島宗仲は茶道研究のため度々上京し、家元にて新しい点前など学び、特に長岡の茶人関嶺宗や、三州岡崎鈴木玄海に私淑して変った点前を勉強して帰り、これを唐津にて披露していた。このことが師の宗珉始め、城内派の高取宗音や武雄宗紋、小関宗代等を刺戟し、遂に町方派と感情的に溝を距てることになった。
 そして城内派は近松寺を道場として子弟の薫陶に励めば、町方派は近松寺の向側の大乗寺に茶席を構えて多久島宗仲、佐々木角治、頗羅堕宗鶴などが門人を育成した。宗珉は宗徧流の祖式の乱れと秩序の混乱を憂い、家元八世宗有の帰朝の翌年の大正十三年建白書を提出して、その年の十二月に逝去した。
 漸く昭和七年七月に到り、両派の門弟たちの斡旋と努力により和解が成立した。そして相共に提携して親睦を旨とし、毎月二日に近松寺と大乗寺を交互に会場として、両派一堂に会して、茶を談じ、茶を楽しむことで申合せが成立した。そして会名の命名を家元に請うた。
 家元八世宗有は「和敬会」の三字を選び与えた。これにより唐津の宗徧流も一体となり、面目一新して流派の隆昌に努めることになった。尚、和敬会の幹事は近松寺住職矢野宗玄と多久島宗仲の夫利作が就任し、交互に会長を務めることとなった。
 かくて大同団結した和敬会の活躍は目覚しく、奥義許状の英才、俊女が続々と輩出した。昭和十五年は特に華々しい年で、十月七日、宮島邸にて虹松庵小関宗代より静浪庵宮島宗悦、芳草庵原宗悦両嬢の奥伝許状及び庵号授与式が行われ、同月十九日には、近松寺にて天保十二年十月二十三日逝去の唐津小笠原第四代長和公祥鳳院殿瑞巌宗輝大居士の百年忌大法要の茶会が開催された。東京より旧藩主の嗣子小笠原長生(子爵・海軍中将)が令息、令嬢と共に十七年振りに帰国され、市民の熱狂的歓迎の中に和敬会の追悼大茶会が催された。尚、二十三日には相知村久保の幡随院長兵衛生誕地記念碑を訪ねられた長生と小笠原旧藩士大島小太郎一行に、相知の和敬会員武重宗添が野点を催して相知町長塚本平一等と共に旅情を慰めている。
 しかし昭和十九年十一月、家元八世宗有により、全国の宗徧流茶道の会の「明道会」が結成されたので、唐津の和敬会も発展的解消することになり、和敬会も多彩な歴史を残しながら解散した。そして「茶道宗徧流明道会唐津支部」として再生したのであ。その後「宗徧流不審庵会」と衣替えした。そして昭和三十五年六月五日、全会員は八世宗有の遺徳を偲び、近松寺に遺髪塔を建立して供養の茶会を持っている。多数の宗匠と無慮三千人を数える会員を有する唐津の宗徧流の宗匠達は毎週水曜日に茶の湯の研究会を開いて切瑳琢磨し、宗徧流茶道の弘布発展に孜々として努力を重ねている。また今日では不審庵会も「茶道宗徧流唐津支部」と改称されている。



 宗徧流の唐津の人びと

大島興義
 この人は唐津小笠原藩の第一代長昌が、文政元年奥州棚倉より移封となって唐津に入国した時、藩の勘定方として唐津に移り来たった旧藩士である。茶道を五世宗俊、六世宗学に学び、大茶人であったが、庵号、称号を好まず、ただ茶を嗜むという人であった。維新後そのまま唐津に居住し、七世宗寿尼を授け、しばしば自宅の茶室に招いて茶を楽しんでいた。宗寿尼はその茶室に「敬日庵」と名付けて、宗寿の名と花押を塗書した盆点の「松の木盆」を贈っている。彼の長男は小太郎といい、唐津の教育界の先達であり、恩人であり、経済界の大黒柱となり、唐津銀行(現在の佐賀銀行)の創立者で永年頭取を務めた人である。姉の宗釵(そうさい)は武雄家に嫁したが、才色兼備の才媛で、茶道を父の興義や八世宗寿に学び、父の没後は中村宗珉に就いて師範代となり、観月庵宗釵となった人である。今日の唐津宗徧流の宗匠たちは殆どその門人で当流の大先輩である。昭和十八年二月四日、九十六歳の天寿を全うして逝去した。

 師範代小関虹松庵(こうしょうあん)宗代はその娘であり、大島鎮子翠松庵宗静は小太郎の長男裕の夫人で、正教授として活躍中で、唐津における当流の重鎮である。なお、小太郎は高取伊好および盛と共に八世宗有を献身的に後援し、襲名披露大茶会にも招待され、また宗有を唐津に招くなど、当流の功労者であった。その縁故で宗静も度々家元へ伺い、茶道の研究に励んでいたが、特に東京にて、長岡の人玉木宗高から「宗徧流回し茶菟」の点前を習い、その妙手を体得した人である。

高取品子松風庵宗音
 杵島炭鉱社長高取伊好の夫人である。主人の奨めで娘静子、孫綾子と共に中村宗珉に入門して茶道を学んだ。後に松風庵宗音と称し、師範代となり、夫君伊好と共に唐津宗徧流のバックボーンとなった人である。大正十二年八世宗有のトルコからの帰朝や襲名披露にも側面から高取盛と共に尽力したり、大正十四年五月、八世宗有を唐津に招待して、高取邸で大茶会を催したり、昭和五年十月には、近松寺の茶室の建設に尽力したが、惜しくも昭和七年七十一歳で他界した。同年三月六日、茶友、門人相集い、近松寺にて松風庵追悼茶会が催された。この日刀自が多年愛蔵された茶道具一切が展示されたのは一大偉観であった。

献詠       佐藤林賀
 深き谷高き山をも踏み越えて
 真如の月の如何にさやけき

 その孫の綾子は現宗徧流佐賀支部長微笑庵宗幽で、五歳の頃から祖母より茶道を学び、小学生の時は、唐津小学校裏の伊沢家の茶室で中村宗珉に教えを受けた。そして大正十三年に宗珉が逝き、十九歳の時松風庵を失って後は、八世宗有に就いて永年研鎮修養し師範代となった人である。


中村義宝心外庵宗珉
 今日の唐津宗徧流の基礎を築き隆昌に貢献した心外庵宗珉中村義宝は、天保十四年三月晦日唐津城内大名小路にて生まれた。父は信州の人で中村甚五兵衛の三男で中村忠吾といい、小笠原の分家(長行の季父)修理頭長光(朱門公)の御膳職を務めていた。安政六年八月、宗珉十七歳の時、主君長光の命によって、家老高畠勘解由に随い、江戸に出府し、茶道宗徧流六世山田宗学の門に入った。修業勉励七カ年、遂に皆伝を許されて、慶応元年旧十一月、唐津に帰った。翌二年正月廿七日、小笠原長国に召抱えられ御役部屋坊主御雇を仰付けられた。元治元年正月二十七日すでに兄唯之助より分家していたので坊主町(現坊主町郵便局辺り)に居宅を賜った。そして同年十二月二十五日、御役部屋坊主茶道見習を命ぜられ、知行高五石二人扶持となり、明治元年十二月二十六日には、列座末席となり六石二人扶持の知行となった。明治三年十二月に、現米三十六俵の知行となったが、廃藩置県で失た。かくて世は幕末、明治維新と動乱期が続き、茶道は顧る人もない状況であった。然し宗珉は節を屈せず、門流を守り通した。
 七世宗寿が唐津を去って上京して以来、流派は愈々衰微に陥ったが、旧藩士大島興義はじめ、僅かに残った門人の太田橘衛、南大鑑、寺沢大典(近松寺住職)等と復興に努めた。そして唐津町は勿論佐賀・伊万里・相知・武雄・鹿島・浜・久留米・広島まで出向いて流派の普及発展に献身努力した。この姿に感銘した高取伊好は、積極的に援助の手を伸し、武雄宗釵、小関宗代、多久島宗仲などの門人も宗珉を助けて宗徧流の興隆に努めた。然し門人中に確執を生じ、宗珉も宗徧流の祖式に反するとして家元八世宗有に意見書を提出し、門弟の反省を促したこともあった。そして八世宗有はトルコから帰朝後、宗珉の功労を賞して師範代の栄誉を贈った。また、宗徧流門人譜の中に、六世宗学の直門として明記されている。
 然し大正九年二月十三日隠居して家督を長男の宗亀に譲ったが、宗亀は茶道に志す意志がなく、遂に宗珉夫妻は宗亀の勤務先の福岡県飯塚町鯰田三菱炭坑の社宅に移り、妻マツは大正九年七月三十一日、その社宅で死去した。宗珉は再び唐津に帰り、親戚の本町大西猪之太郎の家で大正十三年十二月十一日、八十二歳の人生を終っている。墓所は近松寺にあるが、恵まれざる晩年であったようだ。宗珉の門弟は各地に広がり、その数三百人を超えるほどであった。宗珉より後事を托された高弟の武雄宗釵は、宗珉の功績を不朽に讃えんと、その碑の建立を発起した。偶々高取伊好がこの美挙に賛同され、大正十五年七月二十七日、近松寺にて建碑除幕式が行われた。碑面の文字は八世宗有の筆であり、碑の裏面には、

 このめにる かほり高しも
 とこしえに くちせぬ御名を
 あふく石文
          門弟 さい子

 いつ来ても静かなるかな松の風
          門弟 志づ子

     武雄宗釵高取品子建立


と書かれている。除幕式は観月庵宗釵の献茶で始まり、高取綾子の手で除幕が行われた。
 現在、茶道宗徧流唐津支部は、
 支 部 長 岸川欽一
 支部長代理
 江月庵宗栄 溝上栄子
 翠松庵宗静 大島鎮子
 好日庵宗華 里内はな子
 無想庵宗政 古田政子
 瑞雲庵宗春 矢野春子
 唐津青年部長
 行雲庵宗夫 佐間野行雄
などの宗匠たちの献身的努力により、宗徧流唐津支部は日に日に隆盛の道を進んでいるのである。
 最後に「喫茶呪文」をとなえて稿を終る。

喫茶呪文
  若飲茶時
  当願衆生
  供養諸仏
  掃除睡眠
 若し茶を飲む時は当に衆生とともに諸仏に供養し睡眠を掃除せんことを願ふべし
             合 掌


先覚 中村宗珉翁
宗徧流の復輿普及に献身

郷土史誌 末廬國 より


 茶道・宗徧流は今や唐津の茶道とも言ってよいくらい唐津地方に普及している。裏千家流・表千家流渡の各流派も勿論あるが、唐津で茶の稽古をしているといえば、何流かとたづねるのはヤボッタイほどに宗徧流一色である。それは宗徧流か旧藩主小笠原家につながる茶道であることの一言に尽きるとはいえ、宗徧流の普及に献身的努力を払った先達の功業に負うところが多い。忘れられているわけではなかろうが、宗徧流各社中、相寄り相語って先達・中村宗珉宗匠に対し感謝供養の献茶を一席もうけられては如何なものだろう。唐津郷土先覚者顕彰会では今秋あげられる先覚者顕彰祭で、翁を先覚者に追記する。
 大名小笠原家に伝わる茶道宗徧流は江戸時代から明治、大正、昭和に至る間、幾多の消長はあるが、幕末の唐津藩主小笠原長国の代、嘉永年間に家老・西脇東左衛門は、五世宗俊のあと家元断絶を慨き、長国侯に請うて支流吉田宗意の門弟宗学(六世)をして家元再興を図った。
 維新の際、宗学の養子宗叔は唐津に移住したが故あって離縁。宗学の妻宗寿(七世)の歿後また家元断絶したため、宗徧流を修むるもの、その皆伝を得ても支流に属して、家元の免状を得ることが出来ない経韓もあった。
 かような中にあって、中村宗珉は、安政六年(一八五九)八月小笠原長光(朱門公)の命により家老高畠勘解由に随い江戸に出て六世宗学の門に入った。時に宗珉よわい十七歳。七年間の修業、皆伝を許され慶応元年十一月唐津に帰って来た。宗珉はかくて慶応二年正月二十七日、小笠原長国に召抱えられ、御役部屋坊主御雇を仰付けられた。また、明治元年十二月には列座末席仰付けられ知壱人口増高六石三人扶持の待遇を受けた。その後累進十石八斗となったが、明治四年廃藩置県にともなって職は廃せられた。
 世は国内多事に加えて、欧米の学問文化を競い茶道の如きは顧みるものもない状態であった。この間、宗珉は宗徧流茶道の廃滅を憂えて太田橘衛、南大鑑、寺沢大典、大鳥輿義らと復興に努めた結果ようやく流行のきざしか見え出したため宗珉は勢いを得て奮闘努力、唐津町は無論のこと、相知、武生、伊万里に、また蔵宿、鹿島、浜、久留米。遠くは熊本、広島、京都にも宗徧流の普及に乗り出し各地に門弟を養成したので同好の士は百人を超える多数におよんだ。
 晩年に至るまで五十年、家元の代理として苦心を重ね、汲々として尽瘁これ力めたため直接の門人のみでも三百人を算えるほどになった。大正十二年五月、家元再興により、宗珉の労を慰むるに師範代を以て遇せられた。宗珉はかくて大正十三年十二月十一日、八十二歳の高齢で永眠したが、その遺霊は西寺町近松寺に葬られ、頌徳碑も建立された。
 中村宗珉自筆による免許伝授の記録によると慶応二年、太田橘衛を筆頭に鎌田貢、松沢典光、太田兼三郎、南大鑑等(光孝寺住職)佐々木角治、富永仁兵衛、同喜兵衛、大島興義、頗羅堕日好、伊沢正熙、多久鳥なか子、大島千代子各氏がある。大正十二年五月、宗徧流再興山田宗有襲名によりて、それ以降は免状宗有氏よりあると紀されている。明治二十八年以後の免許には、武生、新潟、京都、伊万里、近江国、相知、福岡県など二十六人がある。
 遺族は長男宗亀、次男七十治、三男八十治の三子息がありたが、長次男ともすでに故人。三男八十治は川崎市に在住して健在である。宗亀の養子として唐津本町大西家より大西三郎、城内浅原家より浅原ハナ子が迎えられて、ともに嗣子となったが、三郎戦死のあと未亡人ハナ子が継承し唐津市双夕子に住んでいる。
(令和六年五月九日)