平成31年4月8日より工事中
4月29日ネット化完成
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題 簽 小 笠 原 長 生 氏
装 画 田 邊 路 平 氏
王 莽 鏡
昭和十九年十一月五日、唐渾市櫻馬場四丁目西岡廣志氏の屋敷内、地下三尺のところから發掘された一群の甕棺遺物は、近年もつとも注目すべき出土品として考古学史上ながく記憶されるだろう。
こゝに掲げた写真は右の遺物中、特に目立った二面の白銅鏡のうち完形をなしている方のもので.鉛黒の銅色が滑沢を帯びて美しく、所謂方格規矩八乳渦文大山鏡である。
径五寸一分、縁厚一分八厘、反り一分弱。中國からの舶載品なることは疑うべくもなく、鑄造の時代は蓋し西暦一世紀の前半と見るべきで、背面の紋様が恰もローマ字のTLVに見えるところから一名でLV鏡とも呼ばれ、国宝格の逸品である。(京大教授梅原末治博士の報告参照)
序
松浦潟! 松浦潟の名が、近頃にわかに世間に持てはやされるようになった。そも/\これは如何なる理由によるものであろうか。
博多−唐津を経て、伊万里、佐世保に至る沿道の風景が、明媚のためであろうか。これも確にその一つの理由であろう。だがそれだけではあるまい。試みに地図を開いて、松捕潟の位置を検べてみることとしよう。
東の方、筑紫の海辺には、神秘をこめた香椎宮や、沖の島があり、中部には、鯨の潮吹く玄海、北の方には壱岐や對馬、西の方には平戸、五島の島々が、雲か山かとかすみ、中国の呉や越に連なっている。
されば、これらの島カに遺された~話や、傳説や、史跡等を探るときは、日本民族の由来や、世界人類の発達、移住の過程までも明かにすることが出来るのではあるいか。
従来、観光といえば遊興気分で、旅先の人情風俗などを探って、それで満足していたものだ。ところが新時代の日本人はそんな浮薄なものではなく、より廣く、より大きく、より深く掘り下げた研究に、より大きな興味を持つようになった。
一体、こんな條件を備えたところがどこにあろうか。見渡したところ、この松浦潟をおいて他にはないようである。これが観光地として、松浦潟が大きく浮び上ったゆえんであろう。
× ×
本書は、唐津商工会議所会頭金子道雄氏の依頼によって執筆したものであるが、出版に際しては金子道雄氏の強力な援助は勿論のこ之、唐津市當局の協力と、その間における友人常安弘通氏の助力に対し共に厚く感謝の意を表する次第である。また本書の上梓を機会に、松浦郷土史刑行会の創設を見たるは、多年郷土史研究に没頭したるものとして欣快に堪えない。
昭和二十七年三月二十一日
著 者
上 篇
第一節 大陸文化の入り口
南洋諸島を経て、我國の近海に流れ来る海流は、台湾・琉球のあたりで二つに分れ、その本洗 − 黒潮 −は、九州島の南岸から、四國・本州の南岸を洗って、遠く北太平洋に進み、支流 − 對馬海流−は、朝鮮海峡を通って日本海に入り、北海道の西岸から北岸を洗ってオホーツク梅に入っている。
昔、我が遣唐使が中國に渡航するには、多くこの松浦の地から出帆していた。また、かの中國や朝鮮を荒した倭寇(わこう)も、この松浦の地を一根據としての活動であった。
その頃、この両地間の航海に要した日数は、順風に乗れば五、六日に過ぎなかったとのことである。この事實は、松浦地方が大陸との交通の要衝に當つていることを如實に物語るものであろう。
然りとすれば、人類の發生が大陸の彼方であり、その移住に伴って、彼等の持つ文化が傳えられたとすれば、松浦地方は大陸文化の入口であり、日本文化の揺籃であらねばならぬ。
幸にも、松浦潟一帯に点在する島々には、太古の遺趾が破壊から免かれ、昔ながらの風俗習慣が保存されている部落が多いため、古代文化の研究には、最も貴重な存在となっている。これすなわち松浦潟の研究が最も意義あり、最も興味あるゆえんであろう。
第二節 先史時代の松浦潟
@旧石器時代
今から二十万年乃至五十万年の、遠い/\昔とされている。これは人類の骨や、 人類以外の動物では製造することの出来ない、石器や、骨器や、土器等の發見によってそう推定されるのである。
この時代を、石器時代・銅器時代・鐡器時代と大別し、石器時代の最も古い時代を旧石器時代と言い、我國ではこの時代の遺跡は、まだ發見されていない。
ところが、昭和五年七月号の科学朝日に、杉原荘介先生が群馬県新田郡笠懸村岩宿から.旧石器時代の遺物が發見されたことを戟せている。もし、旧石器時代が−−−或は新石器時代に移る中間の石器時代が發見されたとすれば、これは考古学上の大發見として、大に喜ぷべきことである。
A新石器時代
旧石器時代の次に来るものは新石器時代で、我が國では方々から發見され、松浦地方でも澤山發見されている。この時代石器は打製や磨製や半磨製である。それで例をこの地方の出土器によって、いさゝか當時の文化状態を説明することゝしよう。
B縄文武士器時代
松浦地方から石器とゝもに出土する素焼の土器のうち、最も古いものは縄文土器で、最近(昭和二十四年)相知町干束の山腹で、竪穴住居の跡と破片が發見され、次で昭和二十五年に唐津港の海底−深さ三米ほどの土砂の中−から多数發見された。それでこの地方に縄文式文化民族が住んでいたことが明かとなりた。この民族はまだ狩漁を主業としていたことが推定されるが、その確かな年代は不明である。
縄文といっても、、縄や蓆などを押しつけて作ったのではなく、紙撚(こより)などをない合せたものを押當てゝ作ったものであろう。
C彌生式士器時代
縄文式の次に現われるのが彌生式土器で、明治十七年(一八八四)東京大学の隣り合せの、向ヶ丘彌生町の貝塚から發見されたもので、その地名を取ってこう呼ぶようになった、この土器は我が國の所々に廣く分布している。
松浦地方では、この種類の土器とゝもに、石器や銅器や、鉄器なども出土せるので、石器と金属と併せ用いていたことが知られる。こんな時代を金石併用時代とも言つている。
鏡村宇木の貝塚よりは、籾の押形の着いた土器が發見されたので、米作即ち農耕も営む定住の民族となっていたことが分る。
、また北波多村徳須惠で河川改修工事の際、河道を変更するため、右岸の泥土を取り除くと、その中から多くの彌生式かめ棺が出た。そしてその中の一つから、細身の銅鉾一口が發見された。
また他のかめ棺には、周圍に支え石を置き、その上に大きな蓋石を覆うた−ドルメン式−のものが十個ばかりあった。但しこの中よりは何物も發見されなかった。
こんな工合に、人間が居たことは分っても、その年代は明確でない時代を、先史時代と言っている。但し彌生式のある時代は、紀元前一世紀頃から、紀元後の一世紀位のものと考えても、大きな間違いではないことが、次の事實によって証明される。
第三節 T L V鏡発見さる
前に述べた通り、彌生式遺跡は先史時代に属するが、次に揚ぐるものは、これを原史時代と見ねばなるまい。
@TLV鏡
唐津市楼馬場で、昭和十九年に彌生式かめ棺の中から發見された鏡二面は、まごう方ない漢鏡で、王莽(おうもう)時代に盛んに造られたゝめ、一名王莽鏡とも言われている。
王莽は紀元二十三年に殺された人だから、この鏡は一世紀頃の物と見ることが出来る。従って櫻馬場のかめ棺も同株、一世紀頃の物と見なければならぬ。どう考えても、一世紀を多く逆ることは無理であろう。こんな工合に何物かを根拠としておぼろげながら、年代を推測することの出来る時代を原史時代と称する。そうすると松浦の原史時代は、起源一世紀頃からと考えても間違いない。
A原史時代の遺跡と遺物
さて松浦の原史時代は、盛んに大陸地方と交通して種々の品物を輸入していたことが分る。序にこの地方で彌生式かめ棺から發見された物を擧げて見よう。
(イ)久里村柏崎から、有柄銅剣が出た。これは無論大陸傳来の品で、現在は東京博物館に保存されている。
(ロ)鏡村宇木から出た銅剣二本、銅鉾二本は重要美術品に指定され、現在は宇木農業組合に保管されている。
(ハ)鬼塚村千々賀から出た銅鉾一口、銅戈一口(重要美術品指定)は、著者が保管している。
(ニ)鬼塚村千々賀から出た銅釧八個−他に四個同時に、同所から發見されたそうだが、散逸して在所が分らない−これも重要美術品に指定され、久里村久里の熊本敬太郎氏の所有となっている。
(ホ)北波多村徳須惠のかめ棺の中より出た銅鉾一口は、重要美術品に指定された。現在は同村の岡の下に埋められているとのことである。
(ヘ)前記の唐津市櫻馬場かめ棺から出た鏡二面・鋼釧二十六個・巴形銅器三個は、山口毅氏所有で松浦史談会に保管されている。(口絵写真参照)
第四節 変遷する古墳の形
古墳は古代人の死体を葬った墓である。松浦地方で發見されたものを例に取つて、その埋葬方の変遷を記すこととしよう。
@死体遺棄
久里村柏崎の貝塚の一部から人骨が一体出た。これは何の手當も加えた模様はなく 全く棄てられたものと思われる。
Aかめ棺埋葬
彌生式かめ棺に納めて埋めたもので、その納め方は、体を伸ばして納めたのか、膝を曲げて納めたのか不明であるが、多分棺は屈葬で、差合せた棺は伸ばして葬ったものであろう。
徳須惠出土のかめ棺には、口を差合せたもの、単一のもの、二重のもの、その置方は水平に横たえたもの、斜に倒したもの、垂直に伏せたもの、そして、その方向は全く不定であった。
その中から銅剣・銅鉾・銅釧・勾玉・管玉等が出た。また数個の石片を入れたもの、この種の石が五、六斤の重さのものも出た。
Bドルメン式埋葬
徳須惠のかめ棺のうちには、その周囲に支え石を置き、その上に大きな蓋を覆うたものを十個ばかり、但しこの中よりは前記の石以外には、何物も發見されなかった。
C組合式石棺
各処で發見される例の多いもので、中でも鬼塚村石志で發見されたものは、長さ十七センチ・巾六センナ・深さ五センチ位の、板石を加工して組合せたもの、中に人骨が二体、互い違いに入れられ、管玉や滑石製の勾玉、鉄の刀子が副えられ、全面にベンガラ(酸化鉄)がふりかけられてあった。思うにこの二体は、同時に葬られたものらしかった。
D竪穴式石室古墳
石を桝形に組合せ、天井には石を渡しし、入口がないので竪穴式古墳と言っている。
E横穴式石室古墳
この地方の主な古墳は多くこの式のもので唐津市佐志のじよ山(女山)浜崎町横田下・鏡村今屋敷の島田塚・玉島村谷口・北波多村田中などの古墳はこの種類に属する。その構造は大体竪穴式石室で規模が大きく、且つ高くなって、これに用いた石材は却って小さくなっている。横から入口(羨道せんどう)がついているので、横穴武石室古填と言われている。石室内には死体を入れた石棺の他に、金環・銀環・勾玉・管玉・小玉(なんきん玉)鏡・鉄製の直刀。鉄製の矢尻・馬具・鐙・甲などで、土器には埴輪や・土師器(彌生式後期の物)・祝部土器などがある。このほか半田から純金の耳飾・五反田(玉島村)から純金の六角空筒製の耳飾などが出土している。以上の二品はは石室古墳から出たようで、その作製技巧から見ると、なかなか精巧で、大陸から傳来の品らしい。
F前方後圓墳と圓墳
普通に古墳を前方円墳とか円墳とか称えているのは、古墳の石室全部を覆うた封土(もりつち)の形状を、外部から見た称え方で、一般に周囲の土地よりは高くなっているから、高塚古墳とも言っている。
前方後円墳の最も盛んな時代は、應~・仁徳頃で、大化頃から衰えた。
G土師器と祝部土器
古墳時代となると、彌生式系の土師器が現はれ、次に祝部土器使用の時代となる。祝部土器は鼠色の硬く焼き占めた素焼の土器で相當後代まで使用されていた。
軸薬のかゝつた焼物を造るようになつたのは、鎌倉時代以後のようで、この時代となれば、中國の宋時代の焼物 − 青磁−が盛んに輸入されたとみえ、唐津地方からもその完全なものや、破片などが澤山出土している。
第五節 群がる古墳を探る
以上の記述で、ほゞ考古学的観察の緒はついたことゝ思う。それで、これから鏡山を中心として唐津市附近の古墳めぐりを試みることゝして、さて唐津市大手口から昭和バスを利用するか、または唐津驛から汽車に乗り、虹の松原驛で下車し、まづ鏡山周辺の古墳を探り、次に玉島川沿岸地方の古跡を訪ねることにしよう。
本筋の記事は、前節に記されたものゝ中から再録したものが多い。車のこれを思い浮べ、実地に引當て研究されるならば、明確な知識が得られることゝ信ずる。
@島田塚
鏡山の西北麓−−惠日寺の北隣にある前方後円墳で、この地方では島田塚と呼んでいる、その形が島田まげに似ているところから、かく名づけたものである。
明治四十三年?・鏡村の物好者が盗掘したもので、出土品全部はこれを駐在所に差押え、後に東京博物館に収納された。その貴重なものを擧げると
(イ) 鉄かぶとの残欠一個
(ロ) 碧玉製の勾玉二個
(ハ) 硬玉製の勾玉一個
(ニ) 銅碗の破片一個
(ホ) 鉄器の破片(三折)一個
(へ) 刀身の残片一個
(ト) 鮫貝の残片一個
(チ) 白銅製六獣鏡一個
(リ) TLV鏡一面
(ヌ) 碧玉製の管玉二十二個
(ル) 銅釧四個
(オ) 金銅製の金具四個
(ワ) 水晶の切子玉一個
(カ) 金環一個
(ヨ) 鉄に銀張りの金具残片二個
(タ) がらす玉十二個
(レ) 金銅製三輪玉形装具一括り
(ソ) 鉄鏃一包
(ツ) 鉄鎧残片一包
この墳は横穴式で入口は南についている。盗掘後荒廃していたゝめ、松浦史談会で昭和八年にこれが修復のため、内部の土砂を取除いてみると、次のような物が取残されていた。この時の出土品は惠日寺に保管されている。
(イ) 割竹式くり抜き石棺一個、竹を真二つに割ったようで、蓋は無く、把手は打欠いである。
(ロ) 直交文鹿角製つば一個
(ハ) 直刀一口
(ニ) 槍の石突一個
(ホ) 鉄製小札鐙の残片多数
(へ) 銑鏃 正倉院刀子型 片刃の鏃 その他数種類多数
(ト) くつわの引手
(チ) 金銅製金具の残片多数
(リ) 砥石一個
その他、歯・水玉・管玉・祝部土器など多数
A御燈坊古墳
山丘の突端部の一部を切り放ちて円墳となしたもの。前に盗掘されてあったのを再調査し、櫛形波状文のある祝部土器の破片一個と、無文の破片数個を得た。
B山添古墳
前に盗掘され、その時、鏡二両、勾玉四個出土したと傳えている。
この墳の上方に当って一つの古墳がある。これを玉葛の窟と言い傳えている。
C半田宮の上古墳
金環・勾玉・純金製耳飾等の出土品がある。これらの品は東京博物館に藏められている。この古墳は全く取除かれ、今は水田となっているので、その構造も位置も分らない。
D横田古墳甲
横田下西谷という処にある。古墳そのものは南方から連亘した丘陵の北端全部で長さ百十尺、高さ十二尺、北の方は三・四段の楷段をなしている。但しこれは墳丘の原形か、または後に木を植える際の工作かは不明である。墳の中央に玄室があり、その入口は一枚石で塞ぎ羨道の高さ三尺五寸、長さ五尺、入口より三尺下って玄室となりこの下底より天井までの高さ七尺八寸、長さ十三尺、幅は南の方が五尺九寸、北の方が七尺五寸で四周の壁は石の小破片でたゝみ、天井は一枚石で蓋をし、全面に朱(ベンガラ)をぬつてある。遺骨は八人分であった。副葬品の主なものは、土器は總て彌生式の土師器で、高杯四個、壷二個、管玉大小十五個、鏡は獣帯鏡一面、TLV(方格規矩鏡)一面、とん(筒形青銅器・銅釧、剣の破片、直刀(長さ二尺三寸)等があった。
E 同 乙
鉄鏃数十本、鏃を巻きつけた樹の皮がまだ腐敗せず、櫻の皮であることが分つた。
F 同 丙
鏡二面、勾玉、土器も多数出た。
G 同 丁
砥石二個、短甲一個の出土を見た。
H柏崎具塚並にかめ棺地帯
柏崎の衆落地は總て差合式のかめ棺地帯で、前にかめ棺中から銅剣二本と、勾玉一個も掘出したことがある。この剣は有柄銅剣と称せられるもので、世界でも珍貴なものである。
I宇木貝塚
鏡山の南方約三十キロ、柏崎貝塚に隣接している。出土品は柏崎のそれとよく似ている。貝殻はかき・にな・にし・あかがい・はまぐり・しゞみ・つめた貝などが最も多い、石斧・石包丁・鹿角・鹿骨・猪牙・彌年式土器等が主で、あった。
この貝塚地帯のかめ棺の中から狭鉾形銅剣二本、銅鉾二本、勾玉一個、細形管玉六個、素焼の紡錘器?、他の小形のかめ棺中より、幼児の歯数個が發見された。
J淵上古墳
石廓の大きさは長さ三間に幅一間半、内部は板を以て前後二室に区切り出土器は石斧四個、石鏃二個滑石製の三寸許の右棒一個などであった。但しこの石器は副葬品か、發掘の際混出したものかは判明しない。
K谷口古墳甲
金環四個、銀環四個、勾玉一個、管玉多数、祝部土器などが用土した。
L 同 乙
勾玉七個、管玉三百個許、小玉一升許、鏡五面、石環十一個、蒲鉾形石棺一個、祝部土器など多数出土した。
M 同 丙
鏡二面、鉄剣一本、石棺一個、土器多数出土した。
乙・丙からの出土品は東京博物館所蔵となっている。納入當時の目録によれば
(イ)勾玉七個 (ロ)緑玉五個 (ハ)方解石玉一個 (ニ)硝子玉一個 (ホ)鏡七面 直径七寸のもの五面、仝二寸のもの二面(へ)車輪石十一個 (ト)管玉三百五十個 (チ)丸玉 大小一千五百個
以上、博物館に納めたものゝ他に、刀剣、矢根、斧など数十個あつたが、何れも腐蝕していたので納めなかったということである。
この内の位至三公鏡は、我國では出土例の少い珍しいもので、また~獣玉二面は同一の鋳型で作られたものとされている。
N五反田古墳
正六角形の中空の純金製の金環一個が現存してその他の出土品は不明である。
O玉島古墳
玉島神社の後方−南山にある。出土品は管玉十七個、勾玉八個、小玉多数、鏡四面、金環、耳飾−短冊形の純金の小片を、細い環を以て継ぎ合せた耳飾様の品であったと言っている。
第六節 松浦の名称の起り
@~功皇后と松浦
仲哀天皇の二年、筑紫の熊襲か叛いたので、天皇の御親征となり、九年の二月に陣中でおかくれになった。それで~功皇后が代つで軍を督し、同年四月に松浦の玉島に至り、小川のほとりで昼食を取り給うた時、針を曲げて鈎とし、飯粒を取って餌となし、裳(も)の糸を抜き取って釣糸とし、河の中石の上に立つて、鈎をなげ入れ「この度の戦に勝つことが出来るなら、河の魚よ、この鈎を食え」と祈って、竿を揚げ給うと、鮎がかゝつた。皇后が「こはめづらしきもの」と仰せ給うたので、そこを梅豆羅(めずら)の国と名づけ給うた。今は靴つて「まつら」言うようになつた。と日本書記に書いてある。
ところで、この書物よりも前に出来たことになっている國造本紀には、成務天皇の朝に、松浦の國造が置かれたことが出ている。して見れば松浦という地名は、~功皇后以前からあったようである。
また、中國人の書いた三國志という本に
「韓國を経て・・・・・・・末盧(マツロ)に至る、四千余戸あり、山と海に沿って行くと、草木が茂って前が見えない。人は好んで水中にもぐって、魚やあわびなどを捕える、東南に陸行すると伊覩(いと)國に至る」
……と書いてある。一体、人間が住んでおれば、そこには必ずその地方の名がわかるはすだ。すると無名の地に~功皇后がおいでになってから、マツラと名がついたと解するよりも、マツラと呼ぶ地方に、~功皇后がおいでになったと考える方が、無理のないようで、つまりこの傳説は、風土記や日本書紀の編纂の頃に、一般に行われた地名の解釈方と見るのが、妥當ではあるまいか。
注意@ 松浦はマツラとよむべきで、マツウラとよむのは、文字にとらわれた誤りである。たゞし現在マツウラと呼んでいる地名や、苗字などは、これをマツラと改めると、却って誤りとなるから、注意せねばならぬ
注意A 鮎の字もアユとよむのは、~功皇后の故事から、魚片に占(うらのう)という字を当てたもので、一体、飴の字は漢字の辞典によれば、テンまたはネンと発音し、なまずに似た魚と書いてある。
このアユは稚魚の時は、虫などを食うけれど、成長すれば水ごけを食う魚で、年越しが出来ず、一年限りで死ぬるから、年魚と書いたものである。また清流のアユは、その水苔の香を受けて、独特の風味を持っているので、香魚とも書いてある。
A伊覩縣主
仲哀天皇が筑紫にお下りになった時、伊覩の縣主の祖五十(イト)迹手(テ)が十五百枝(いほえ)の賢木(まさかき)をぬき取り、船の舳艫(ともへ)に立て、上枝には八咫瓊(やさかに)を、中枝には白銅鏡を、下枝には十握の剣をかけ、穴門(あなと)の引島(彦島)に出迎えたと、日本書記に書いてある。
そも/\この五十迹手は、新羅(しらぎ)の王子天日槍の後で、怡土~社の祭~となっている。すると天日槍の後なる五十迹手が、同じ天日槍の後なる~功皇后を助け奉ることは、當然あり得ることゝ思われる。従って松浦地方に新羅系の民族が、多数住んでいたことが想像されるのである。
第七節 おく床しい古傳説
@わにの浦の由来
~集島は對岸の湊浦とともに、一つの良港をなしているが、この港には次のような傳説がある。
昔、この浦に一人の児を持った寡婦がいた。ある日のこと、その児が行衛不明となったので、寡婦は泣きながら探していると、何処の者とも知れぬ一人の漁師が、その児を探し出してつれて来た。
この漁夫は漁の名人だつたので、二人はついに好い仲となり、夫婦の契りを結んだのだった。
ある日のこと、村の漁師たちは天候を気遣って、誰一人として漁には出なかった。しかるにこの漁師だけは、舟を出して沖に出た。ところが海上が俄に荒れ出したので、婦は大に心配して、濱邊に立つて夫の歸りを待った。その日はとうとう歸らなかつた。翌日も、その翌日も歸らなかった。
かくて数日の後、海岸に一疋の大きな鰐の死体が打ち上けられた。見れば澤山の魚を紐に通じて、これを体に結びつけていた。よくよく見ればその紐は婦のたすきであった。
それからこゝを鰐の浦と言うようになったと傳えている。
Aみるかし媛と見借庚申
昔、景行天皇が火の國を御巡幸なされた時、大屋田子という者を遣わし、賀周(かす)の里の土くも−−−−かるかし姫−−−を討たせ給うた。この時、賀周の里あたりは、かすみがこめていたので、かすの里と言うようになった。と肥前風土記に書いてある。
唐津市の西南部に見借という部落がある。ここに見借庚申という~社があり、猿田彦命を祭ってある。地方民の尊崇最も厚く、毎年正月の最初の庚申の日は初庚申といって、参拝者が特に多い。
中には庚申に當る日毎に、欠かさず参詣する信者もある。
、みるかし媛とこの~社の関係は、今日では全く不明であるが、昔は深い因縁があるものと思われる。
B灰降祭
湊村に須佐雄尊を祭った、八坂~社がある。もと疫~社といつたのが、、明治推新の後にいまの名に改められた。毎年旧正十五日、早朝から祭典が行われ、村人達は目籠(めかご)に灰を入れ、これを脊に負うて~社に詣で、その途中、籠をゆすぶって灰煙を立てながら歩き回る。民衆はその灰を被ぷると病を払うことが出来ると言い傳えている。
その由来を尋ねると、昔~功皇后が此処にも出ましになった時、深くかすみが立籠めて、物の文目(あやめ)が分らなかったので、その昔を忍んで、灰を降らしてお祭をするのだということになっている。これは景行天皇が見借姫征伐の時、かすみ立籠めて物の文目が見えなかったという傳説と同じ構想から来たものと思われる。
C大 耳
景行天皇は松浦御巡幸の時、別府あづみのむらじ百足(ももたり)を遣わし、西南の島々を視察せしめ給うた。
島は大小合せて八十余もあり、中でも大近・小近の二つが最も大きく、これには人が住んでいたが、他の島にはいなかった。小近には大耳・大近には垂耳という土ぐもがいた。百足がこの大耳を捕えて歸り、天皇に申上げると、この時大耳が願うて申すよう「もし情を垂れ給うならば、お禮物としてこのような物を造って、常に御膳に供えることにいたしましょう」と、鮑を以つて種々の形のものを造って献上した。それで天皇はこれを許したまい、この島は遠いけれど近く見えるから近島と言うことにしようと仰せられた。よって値賀島(ちかしま)という。と肥前風土記に書いてある。西南諸島が我が國の領土となつたことは、随分古い昔のことであるのがこれで知られる。
Dからの津
崇~(すじん)天皇の朝、おうから國の使者が来て、我國の保護を請うた。よって天皇が任那(みまな)に日本府を立て、鎮將を遣わしてこれを治めしめられた、これから外國のことをー般にからと言うようになり、また、交通の港をからの津というようになつた。と言われている。
E田島~社
田島大明~は呼子町加部島にある。その由来をたずねると
天照大~と御弟~ 素盞鳴尊(すさのをのみこと)と、互に和平を誓はれた時、大~が素尊の剣をうけて、これを三段に打折り、天真名井(あめのまない)の水にふりすゝいで、かつ/\と音をたててかみ砕いて、吐き出し給うと、その息吹の中から、初めて生れ給うたのが田心姫尊(たきりひめのみこと)、次に湍津姫尊(たきつひめのみこと)、その次に市杵島姫尊(いちきしまひめのみこと)の三女が生れ給うた。田島~社には即ちこの三女が祭られている。
なお、この相殿に稚武王(わかたけおう)が祭られている。思うに仲哀天皇が熊襲征伐に當り、十城別(とうきわけ)王を下松浦の志自岐島(しじき)に、稚武王を上松浦の加部島に駐めて、それぞれこの地方を鎭撫せしめられ、そして~功皐后が松浦の住民を率いて、征韓の大事業を成しとげられたのであろう。
第八節 領巾振山と佐用姫
@弟日姫
昔、大伴狭手彦連(さてひこのむらじ)が、船を出して任那(みまな)に渡るとき、弟日姫子が山に登り、ひれをふり招いたので、その山をひれ振峯と名づけた。
ところで、弟日姫子が狭手彦と別れて五日を経たのち、顔も姿も狭手彦によく似た男が、夜半に来て明け方早く歸るので、姫はこれを怪しみひそかに男の着物に麻糸をぬいつけておき、翌朝その糸をたどって行ってみると、峯の頂の池に着いた。そこには寝た蛇がいて、身は沼の底に沈み、頭は蛇で沼のふちに寝ていた。これが忽ち人と化して
篠原(しのはら)の弟日姫(おとひめ)の子を、さ一夜(ひとよ)ゆも、いねてんしたや、家に下ださらんやと歌った。それで姫の従女が走り下って、これを親族の者どもに告げると、大勢の者が上って来た。この時は早や姫と蛇とは死んでいて、たゞ沼の底に人のしかばねがあるのみだった。各々たちはこれを姫の骨だというので、それを拾つて、峯の南部に墓を造って葬った。その墓と称するものがいま現にある。と肥前風土記に書いてある。
A松浦佐用姫
唐津湾頭に、東西二里にわたる虹の松原の後にそびえた、富士形の綺麗な山がある、この山の名をひれふり峯と名づけ、その名の起りを次のように書いてある。
昔宣化(せんか)天皇の朝に、大伴狭手彦が新羅征伐に向うとき、船を出して、少し沖に出たころ、妾(つま)の松捕佐用姫が別れを惜んで、この山に登りて、はなれ行く舟をのぞみ、領巾(ひれ)をふり招いた。可憐な若い乙女が、涙ながらに振り招くさまは、いもにも痛々しいので、側で見ている人たちも、涙を流さぬものはなかった。それで歌を作って日く
遠つ人、松浦佐用姫つまこいに、ひれふりしより、おえる山の名
山の名と、いひつけとかも佐用姫が、この山のへに、ひれをふりけむ
よろつ代に、語りつけとしこの岳に、領巾ふりけらし、松浦佐用姫
海原の沖ゆく船をかへれとか、領巾をふりけん松浦佐用姫
行く船を、ふりととみかねいかはかり、こほしくありけん、松浦佐用姫
さて、佐用姫は、肥前風土記によれば、日下部氏の出とあるから、彼のみるかし姫を討滅ぼした大屋田子と同族であろう。するとこの地の名族であったにちがいない。
一体この話は、大伴狭手彦が新羅征伐の途中、松浦に滞在中のことで、彼が旅のつかれを慰めるために呼んでみると、世にも稀な美人で、且つ、その素姓は日下部氏と言うのだから、彼が姫に対する愛情のほども、さこそと推察される。
また狭手彦は、時の最高の権力者−大連大伴金村の二男で新羅征伐の大將軍であるから、姫のー族が彼に対する尊敬のほどは言うに及ばず、姫が彼に対する思慕の情も一層熱烈なものであったことゝ思われる。
それで、この佳人と才士の奇遇の話が、想像力の強い万葉歌人の耳に入つたとすれば、あの人と蛇との交婚−グロテスクな、重苦しい~話は一変して、純情無垢の美人が、涙で領巾を振り招くという、情緒てんめんたる哀話と美化され、これが都人の琴線をゆすぶって、かくは後の世までも持てはやされるようになったものであろう。
B望夫石
つぎに佐用姫が石になったという話について、一考を加えよう。
中國の人の書いた本に、昔、夫が出征するとき、その妻が子をつれて、武昌(ぶしょう)の北の山まで送って来て、夫の行くのを涙ながらに見送った。
その夫は歸らなかった。妻は子を負うて立もながら死んで、それが石となった。その形が、人が子を負うて立っているようなので、この山を望夫山と言い、その石を望夫石と言うとある。
この外にも望夫石のことは、唐の大詩人李白を初め、多くの詩人によって歌われている。
我が日本では、平安朝になって、唐の文化が盛んに輸入されるとともに、この傳説も各所に取入れられ、ついには望夫石といえば、佐用姫の化石と思うようになったものであろう。
C名古の君
松浦に今一つの傳説がある。筑前風土記逸文という書物に、狭手彦が打上の濱に行って乗船した時、船が俄かに進まなくなった。これは名古君−佐用姫の別名か−を、海~が求められるのであろうといって、この君を草蓆にのせて、波の上に洗したとある。これは日本武尊と弟橘姫の話によく似ているが、多分この話から転化して出来たものと思われる。
ところが、これが更に変化して西松浦郡西山町では次のようになっている。
佐用姫は、ある罪によって島流しとなり、九十九の浦々を経た後でなければ救うことはならない定めになっていたので、九十九浦までは生きていたのが、百浦目の浦の崎に流れ着いた時は、哀れにも最早こと切れていた。これを見た浦人たちは、いたく同情して手厚く葬り、佐用姫~社として崇め祭ることゝした。いま、浦の崎にある佐用姫~社が即ちこれである。
現在この~社の境内にある数本の大きな杉の樹は、相當の年代を経たもので、この傳説も昔からあったことを物語っている。
第九節 万葉歌人の相聞歌
万葉集に次のような、歌問答が載っている。
「余しばらく松浦の縣(あがた)に行って、ぶら、ぶらと玉島川の川べりを、ぶらついていると、魚を釣る乙女等にあった。世にも稀な乙女等なので」
「あなたの郷は?」
「あなたの家は?」
「もしや神仙というものではあるまいか」
というと、乙女は笑みかけていうよう
「妾どもは漁夫の児でござります、いやしい草屋の者で、郷もなく、氏もない、名を申上げるほどの者ではござりませぬ、たゞ水や山が好きなので、川の魚を眺めたり、峡谷の石の上に寝ごろんで、雲や煙を見て楽しみます、今日はたまたま高貴なお方にお遇い申して、感激のあまり、心の奥を申上げます、どうぞ今後いつまでもいつまでも優しゅう………お願い出来ませんでしょうか」というので
『おゝ、つゝしんで御好意をお受け申す』といった。時に日は西の山に落ちて、乗馬もいなゝいて歸りを促すので、遂に思うことを歌によんでこれを贈つた。その歌
漁(あさり)する、海夫(あま)の児等(こら)と人はいヘど、見るに知らへぬ、うま人の子と
答えの歌に
玉島の、この川上に家はあれど、君を恥(や)さしみ、あらはさずありき
蓬客等、更に贈れる歌に
松浦河、河の瀬光り、年魚(あゆ)つると、立たせる妹(いも)か裳(も)のすそぬれぬ
松浦なる、玉島川に年魚釣ると、立たせる子等が、家路(いへじ)しらずも
.遠つ人、松浦の河に若年魚(わかゆ)釣る、妹が袂(たもと)を我こそまかめ
娘子等、更にこたゆるに三首
若年魚釣る、松浦の河の河浪の、なみにし思はゞ、我こひめやも
春されは、我家の里の河門(かはと)には、年魚児(あゆこ)さばしる、君待ち難(が)てに
松浦川、七瀬の淀はよどむとも、我はよどまず、君をし待たむ
後人追加の歌三首
松浦河、河の潮早み、紅の、裳のすそぬれて年魚かつるらむ
人みなの、見らむ松浦の玉島を、見ずてや我は、戀いつゝおらむ
松浦河、玉島の浦に、若年魚釣る、妹らを見らむ、人の羨(とも)しさ
松浦仙媛(おとめ)の歌に和する一首
君を待つ、松浦の浦の仙媛(おとめ)らは、常世(とこよ)の国の、天少女(おとめ)かも
さてこの神仙歌について考えるに、名もない賤の乙女を引き出して来て、これに絶世の美貌と、たぐい稀なる威儀を持たせ、その上に、自然を友とする神仙女に作り上げた万葉歌人の想像力の偉大さには、實に驚嘆のほかはあるまい。
第十節 由緒ふるき鏡の宮
@一の宮
鏡の宮は、昔は松浦第一の霊廟(れいぴよう)として、大屠盛んな宮であつた。この一の宮には、~功皇后を祭ってある。
君にもし、心たがはゞ松浦なる、鏡の宮をかけて誓はむ(源氏物語)
あひ見んと、思ふこゝろは松浦なる、鏡の宮やかけて知るらむ(千載集)
右の古歌によって、鏡の宮は古くより、世に知られていたことが知られる。
A二の官
二の宮は藤原廣嗣を祭ってある。その由来を尋ぬるに、天平十二年(七四〇)の秋太宰少弐藤原廣嗣が上表して、時の政治を批評し僧玄ムと吉傭眞備とを除くことを口實として兵を擧げた。それで朝廷より大野東人を大將軍に、紀飯麻呂を別將として、東海・東山より西方、五道の兵を發してこれを打たしめ、別に佐伯常人・阿部虫麻呂等を援兵として差遣わされた。廣嗣は
隼人(はやと)族の軍を先鋒に立て、板櫃(いたびつ)川にむかえ戦うて、もろくも大敗して、松浦より韓國に渡ろうとし
て、海上で逆風に遇い、値賀(ちか)島の長野村に流れつき、阿部虫麻呂のために捕えられ、護送される途中に、松浦で斬られた。時に天平十二年十一月一日のことであった。
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乱が平定して後、天平十七年になつて、玄ムは筑紫に貶(へん)せられ、翌年廣嗣の残黨に殺され、眞備は勝寳二年に、筑前守より肥前守に貶せられた。
廣嗣が、松浦の宗廟(そうびょう)として祭られるようになったのは、何時頃からのことだか分らないが、多分平安朝の中頃よりのことであろうと思われる。なぜかと言えば、忠誠でありながら、不遇に終つた菅原道真を、菅公廟に崇め祭る宗教思想を、廣嗣にも移して、同じく忠臣でありながら、逆賊とされて不幸に終わったとして、松浦の霊廟に祭るようになったのではあるまいか。
第十一節 殿原寺の盛時思う
@東寺と松浦の荘
松浦の荘は初め筑後守國兼の私有地で、これを、その子國通に傳え、國通はこれをその女大江氏に、大江氏はこれを政子にゆずり、政子はこれを建春門院(高倉天皇の生母)に譲った。建春門院は東寺の内に最勝光院を建て、その御料地として松浦の荘を寄進し、門院の薨去の後は、寺とともにこれを東寺(京都)に寄せられた。
さてこの東寺は、西寺と共に桓武天皇の建立であるが、嵯峨天皇の弘仁十四年(八二三)に僧空海に賜わり、空海はこれを教王護國の寺と号して眞言の道場にあてた。これより眞言宗の勢力は次第に盛んとなり、醍醐天皇以来、新義眞言の勢力がこれに加わり、加持祈祷の風が大に起った。
この気運に会して、松浦の荘にあつた殿原寺は、真言宗の修験場としで俄に有名となった。それで鏡の宮の神官や寺僧等は、殿原寺の座主(ざす)職を、鏡の宮の手に収めようとして、こゝに紛争を生じ、この裁判を寶蓮院に願い出たところ、その判決は鏡の宮の方が敗訴となった。
以後四十五年間は、殿原寺の最も盛んな時代で、鵜殿岩窟(うどのいわや)へ相知町相知)の石佛や、座主(玉島村平原)の観音の勧請も、この時代のことであろうと思われる。
A草野の荘
平安朝の末頃から各地に武人が起り、松浦地方には松浦黨が起り、松浦荘は数氏に分割されて終った。中でも草野氏は鏡の官の大宮司として、この地方を合せ領し、別に一荘を分つて草野荘を建てた。
この時に當つて、一方には黒髪山修験道が起り、殿原寺の勢力は次第に衰え、それに加えて天正ニ年には龍造寺隆信のために焼かれ、文禄二年には豊臣秀吉のために、披多・草野両氏が滅ぼされたので、草野の荘も寺澤廣高の所領となり、殿原寺も全く廃寺となって終った。
B座主の観音
現在玉島村に残っておる座主の観音堂は、三間四面の小さなもので、脉敬の書いた殿原寺いう顔面がかゝげられ、堂の内には、中央に安置された本尊仏は、昔は秘佛として、一般人が見ることを許されなかった。こゝに傳わる縁起は、寛永五年に書かれたもので、松浦佐用姫供養のために、椿の大木を立木のまゝに彫んだものとされてあった。ところが大正の初め頃に開帳してみると、佛像は聖観音で−顔には薄化粧を施し、口邊に墨で口ひけを画いてある。作行は胸部から上部が割合に太く、下単身との均合が取れていなく、且つその面相も日本人の相貌とは異った
至つて無格好のものである。
松浦拾風土記に、大伴狭手彦が、百済から凱旋の時、百済の僧曇惠(どんえ)・道探(どうたん)の二僧をつれて松浦に来た時、都では蘇我・物部の両氏の争いが甚だしかったので、この二僧は持って来た佛像を松浦に留めて、本國に歸ったと記されている。あるいは、この佛像を百済人の作と見て、こんな傳説を作り上げたのかも知れぬ。
この他に、泣きべす観音と称せられる高さ二尺許の−幼い児を抱いた−観音の木像がある。
像は古く朽て、幾度も修繕された、いまでは原像とは全く異つたものとなり、卑俗な面相となっているが、この地方ではこの観音を信仰すれば、泣く児の病気がなおるといって、この像を借受けて自宅に持歸り、数十日、あるいは数ヶ月間も祭り、全く直った後、返すという奇風がある。ある古老は、これをキリストの生母マリヤを祭った隠匿キリスト教の信仰対象、マリヤ観音ではないかと言っていた。
第十二節 松浦黨の発展辿る
@源 久
松浦黨とは松浦地方−肥前國の西北部−に分布した、源久の子孫と称せかれる氏族の総称である。
そもそも1、何々黨とか、何々一揆とかいうのは、自家の利益のために結びついた団体の名で、この松浦黨もまた、単一氏族の団体ではなく、多数の異った氏族の連合体である。
この地方の傳説では嵯峨天皇の皇子源融(とうる)から出た源久が、延久元年(一〇六九)の大晦日に、松浦の今福に着き、ここの小さな社で一夜を明し、翌二年の正月元旦を迎え、これより附近の土民を手なずけ、加治屋(かじや)城を築き、次第に地盤を固め、久安四年の九月十五日に、八十五歳で死んだことになつている。
ところがこの説に従えば、久の松浦入は七歳の時に當る。七歳の小供が松浦経略の第一歩を踏み入れることは、とても出来るものではない。それで次のようなことが考えられる。
一條天皇の寛仁三年(一〇一九)に、刀伊(とい)の賊が入冦したとき、前に肥前介(國司の次の役)であつた源知(しる)と言う者が、兵を發して松浦郡で、敵を防いだことがある。これは知が私兵を持っていたことを物語るもので、久の松浦入よりは、正に五十一年前に當る。して見れは久は知の予か、孫か、またその縁者に當るのではあるまいか、もしそうだとすれば、漸く出来かけた松浦黨の一派が久を迎えて首領にいただいたのではあるまいか。と想像することも出来る。
A松浦黨の形成
源久が松浦を経営するに當つて最初に足を入れたところは伊万里湾の西岸、今福とすれば、ここは肥前國の西北部の島々とは、海上の交通は便利でも、背後の陸上との交通は、至って不便な土地でもある。もと/\肥前國には、早くから高木氏・後藤氏・大村氏などの名族が豊饒な平坦部を領していたので、後から入って来た源久は、これ等の諸氏が、まだ手を着けていない今福の不便な土地に、住民を定めるよ仕方がなかったのであろう。
久の今福腰営がほゞその緒につくと、その子を方々に派遣して、第二段の松浦経営となり、その結果は次のように、發展したのであった。
松浦直
久の長男で、父の後をうけて御厨の庄七百五十町の地に、彼杵(そのき)郡と壱岐を領した。
波多持
久の次男で、松浦郡の東部−波多郷−に居り、波多氏と名乗った。のち分かれて、波多・鶴田の両家となった。
石志勝
久の第三子で、同じく郡の東部−石志に居り、石志と称した。
. あら√h卜
新久田聞
久の四男で、新久田(あらくた)に居り、新久田氏を称し、のち壹岐に移った。
~田廣
久の五男で、~田に居り、~田氏と称した。
佐志調
佐志に居り佐志氏と称した。
松浦高俊
久の養子で、養家の姓を取つて松浦氏と称した。この松浦氏はのち相知氏と向氏とに別れた。
以上のうち~田・佐志・向の地は、皆上松浦地方にあるが、新久田は不明である。
さて、御厨を受けた直の諸子は、最もよく繁昌して、松浦黨の中心勢力となった。建久元年(一一九〇)に源頼朝が、六十六國の總追捕使となると、直の子峯披(ひらく)は、兄弟うち揃って闊東の御家人となり、政所の下文をもらつて、領地の所有権を認められた。
頼朝が薨じ、子の頼家が將軍となると、峯披・有田栄(さかえ)・山代圍(かこい)・大河野遊(めぐる)。津吉(つよし)重平等は、また打ち揃って鎌倉に至り、頼朝から旧領安堵の命を受けた。これは一黨結束の勢力を以て、鎌倉將軍の再認可を得たものであろう。
この頃の松浦黨諸氏の分有を見ると、波多。石志・~田・佐志の諸氏は郡の東部に、大河野・峯・伊万里・有田・山代・松浦・値賀の諸氏は、郡の西部にいた。
以上の諸氏は、年を経るにつれて分家も多くなり、所謂松浦四十九黨をなすに至った。
B松浦黨中の異姓
松浦黨の中には、源久の子孫とは異つた氏族が澤山いるようだ。その主なるものを擧げてみよう。
安倍氏
安倍氏は安倍宗任の後と称せられている。平家物語に、宗任は筑紫に流されけるが子孫繁昌して今にあり、松浦黨とはこれなりとある。また鎮西要略には、貞任の弟宗任・則任は、俘となって松浦に配せられるとあり、筑紫軍紀には、宗任は降人となって、八幡太郎義家に助けられ、肥前国に流され、渡遡源次の娘を妻とし、下松浦におり、その子を實任といったとある。
何れにしても、宗任が筑紫に流されたことを眞なりとすれば、彼の子孫が松浦にいることを認めていゝことゝなろう。
この他に、怡土郡の松浦黨の中村氏は、本姓は藤原氏であり、志自岐は家の字を持つ二字名の源氏であり、日高・呼子・奈留・吉井・佐里・田平・小浜・大杉・干北・船原・小田・寒水井(そうずい)・北村・塩津留・大石・久保田・和多田・別府・筑瀬・波多島・五島・その他の諸氏がある。
C平氏と松浦黨
平家物語の壇之浦の合戦の條に「さる程に、平家は千余艘を三手につくる。まず山鹿の兵藤次秀遠、五百余艘で先陣に漕ぎむかい、松浦黨三百余艘で二陣につゞく。平家の君達も二百余艘で二陣につゞき給えり」とあるのをみると、この頃の松浦黨は、西海の大勢力となつていたことが知られる。
D元寇と松浦黨
文永十一年(一二二四)十月、蒙古軍が来襲し、對馬、壹岐をほふり、進んで松浦に攻めこんだ。松浦黨は防禦の第一線に立つて、よく防戦し山代諧(かのう)を始め、多くの者が戦死した。十一月になって賊は大風にあつてのがれ去つた。
時の執権時宗は、蒙古の再来を予期し、鎮西の諸將に令して、東は多々良濱より、西は今津に至る海岸一帯に、防塁を築かしめた。
この時上松浦黨では、波多太郎・鴨打次郎・鶴田五郎馴・下松浦黨では、松浦丹後守定・峯五郎省(みる)・平戸五郎答(ことう)・伊万里源次入道如性・山代又三郎榮・以下両黨の領袖等が博多に馳せ参じて、この大役を勤めた。
弘安四年(一二八一)五日になって予期のとうり、蒙古の大軍が押寄せた。松浦黨は他の豪族と共に、之を迎え討つて、山代又三郎榮・佐志次郎継等は負傷した。賊は進んで博多に迫った。この時上松浦黨では草野経永(つねなが)(筑後の草野と松浦の草野を併せ領していた)を初め、石志兼(かね)・相知比(たぐい)下松浦黨では、御厨源右ヱ門・同六郎兵ヱ尉・平戸五郎湛(たとう)・津吉圓性房・有田次郎等が善く防戦た。
かくて七日晦日になつて、暴風が起り、賊船を覆没(ふくぼつ)させたのだ、賊は遁れて平戸に至り、転じで本國に逃け去つた。この時賊の敗残兵が、鹿島にいるのを見つけた松浦黨の者たちは、少貳景資等と共に、星鹿(ほしか)半島の血崎(ちさき)と、青島の間の御厨(みくりや)海上で、悉くこれを撃滅してしまつた。
戦終つて後諸將はそれぞれ恩賞に預ったことは無論のことで、山代榮・斑島又次郎・~田五郎糺・松浦次郎延・相~浦次郎入道その他の諸將の名が擧げられている。されば松浦黨の勢力はますます強大となり、西海の一大勢力とはなった。
E吉野朝と松浦黨
北條氏は天の祐と人の和とによって元寇を退けることが出来たけれど、戦後の政治が思うようにゆかず、且つ北條高時が暗愚と来たので、遂に人心を失い、後醍醐天皇の建式の中興の政治を見るようになった。ところがこの中興の政治は、足利尊氏の叛逆によって、またまた大混乱に陥った。
時は建武三年(一三三六)の二日、叛旗をひるがへした尊氏が、京都の戦に破れて、九州に逃げ下つた時、肥後の菊池武敏が義兵をあげてこれを多々良濱に迎え討った。この戦の眞最中に、松浦黨の波多・~田・佐志・松浦などの諸將が俄に尊氏に降ったので、戦局は一変して、官軍の大敗北となり、菊池氏は急いで兵をまとめて退却した。菊池氏と行動を共にしていた阿蘇の大宮司惟直(これなほ)は、逃走の途中、小杵の山内で、土民軍のために殺された。九州治乱記にはこの時の有様を、次のように書いている。
阿蘇の大宮司は、兄弟三人と家来二百人が、肥前の國小杵の山を越えるところを、千葉大隅守所嶺の郷氏どもが、雲霞のように集って、落ち人を遁すなと取りかこんだ。阿蘇の兵がこれを防いで山上より大石を落しかけて、打ち破って通ろうとすると、土民等は、千鳥がけに石をよけて、大宮司と戦うので、大宮司の兵は戦いつかれて、百六十余人討たれ、太宮司惟直、同弟次郎大夫惟成は一緒に討死した。その弟惟澄も二ヶ所のきずを負いながら、當の敵十四人を切り伏せ、追い来る者を追い拂い、兄の死骸をかつがせ、ようようのことで、肥後の國に歸りついた。
この記事によって、この地方の土民は、忽ち賊徒と早変りする半農半賊の民衆であったことが知られる。
さて多々良濱の戦に勝った尊氏は、九州の兵を率いて京都に攻め上り、湊川の一戦に勝って、京都に至り、光明院を奉じて後醍醐天皇の吉野朝と對立したので、これから六十年の問は、日本全土の棍乱となつた。
これより前、官軍に従って方々で戦っていた松浦定は、湊川の戦に敗れて郷里に歸つてみると、上松浦黨と行動を共にしていた弟の勝が、兄を容れなかったので、定は己むなく小値賀に隠れ、下松浦黨もまた尊民に属するようになつた。
そもそも大義名分をかえりみず、時の勢を見て、行動を二、三にする者は、義理も、人情もかえりみなくなるのは。當然のことで、足利氏が、父子、兄弟、君臣等が、亙に殺し合うようになるのも、また當然のことであろう。
されば、松浦黨でも、これに見做って、遂には黨内に黨を立てて相争い、自ら崩壊するようになつた。
第十三節 黨各家の浮き沈み
@伊万里氏
松浦諸氏の名称は、最初に居た地名から起ったものである。それで伊万里という名の起りを尋ねてみよう。
天平年中に、紀飯麻呂が、藤原廣嗣征伐のため、松浦に下ったとき、こゝで祖先を祭り、その跡に~社を建てたのが、伊万里町にある岩栗~社で、飯麻呂の名にちなんで、この地方の名とした。
いまは訛ってイマリと言うようになったのだと傳えられている。
然し、これは昔の地名解説の風に做って、紀飯麻呂に附会したものではあるまいか。多分昔の條里制の、里から来たものであろうと思われる。
さて、この地方は辯済公司眞高(ばんさいこうしさねたか)という者の領地であったのを、治承年中(十二世紀の後半)には耕作者がいなかったので、これを鎌倉に返上した。ところが幾ばくもなくして、墓崎(つかさき)(いまの武雄町)の地頭藤原宗明のものとなった。すると峯披(みねひらく)がこれに異議を唱えたので、宗明はこれを辞退して、再び峯氏の領地となつた。
この披の妻は眞高の女で、津吉重平の妻の妹であるところから双方協議のうえ重平一代を限つて、伊万里浦は彼が交配することゝした。然るに重平は鎌倉に申出て、伊万里捕は津吉島と共に、津吉氏代々の領地であるから、元々通りに、我に領知せしめられたいと願い出て、將翠源實朝の許しを受けた。
これより前に峯披は自分の領地の中、伊万里と福島・楠泊などを、次男の上(のぼる)に譲ることにして置いたので、上はその譲状を証拠として、重平の領有に反對を申出で、遂に重平の死後は、上の手に返ることゝなつた。ところが上には嗣子がなかったので、大河野遊(めぐる)の孫にあたる留(とむる)を養子となし、こゝに移住せしめ、伊万里を以て氏とすることゝした。
留の子勝は元寇の際、大いに活動した人で、勝の予充(みつる)は暦應年中(十四世紀半頃)、高良(こうら)山の戦に足利氏に属し、充の子は尚、尚の子は貞、この貞は大保原の戦に菊池氏に属して奮戦したが、後には今川貞世に属し足利方となり、貞の後は高−満−正−廣−仰−直−治と相続いた。
治は後藤貴明の女を妻として、名を家利を改めた。天正三年(一五七五)龍造寺隆信が武雄を攻むるとき、家利は兵を送つて貴明を援けたので、隆信は翌年大軍を似て伊万里に押寄せた。家利は力及ばず、利を請うて、鍋島信房の三男純治に、已の女を妻わし、これを養子に迎えることゝした。後に純治は姓を大島と改めたので、伊万里氏の各は史上から消え終った。
A山代氏
山代氏は御厨直の第五子圍(かこい)の後である。圍は正治年中(十二世紀の終頃)、松浦黨の諸氏とともに、鎌倉に行って、將軍源頼家から、本領安堵の許しを得た。圍の曾孫諧の代になって文永の役となり壹岐で戦死し、その子榮も父についで、大に外敵防禦に奮戦し、役後には戦功によって、山代郷のほかに、~崎の庄をも併せ領するに至った。
榮の後は正−弘、この弘は正平中大保原の戦に足利方に属し、弘の子勤を経て、勤の子の榮に至り延徳二年(十三世紀の中頃)に少貳政資に降った。この頃より山代氏の勢は大に衰え、その後継者もまた不明となった。
天正四年(一五七六)龍造寺隆信が、兵を下松浦に進めた時、山代佛王丸は彼に敵することが出来ないのを知って、自ら出て降り、姓名を鍋島茂貞と改めたので、山代氏の名は史上より消えて終つた。
B平戸松浦氏
松浦氏の起りを尋ねるに、松浦直の子峯披は、源頼朝から領地の所有を認めてもらって、鎌倉の家人(家来}となった。その後は、持(たもつ)−繋(つなぐ)−湛(たとう)−答を経て、定の代になった。この時は丁度吉野朝の、争乱の際に當っていた。定は大に勤皇に励んだけれども、弟の勝は尊氏に属して兄を逐い出し、、自ら平戸の主人公となつた。
この頃、平戸島の河内浦に大渡長者(おうわたりちようじや)と呼ばれた富豪があった。表面は塩や鯨油の商人で、實は多くの船もつて、海賊を働いていた、八幡(ばはん)船の頭目であった。
勝はこの長者の一人娘と結婚し、後には彼の財産をも受けついで、確固とした地盤を作り上げた。
勝の後は理(おさむ)−直−勝−芳を経て、是興(これおき)となった。是興は生月(いきつき)、紐差(ひもさし)、津吉(つよし)を征服し、次の豊久は佐々を取り、その子弘定は江迎を合せ、弘定の子興信(おきのぷ)は五島を合せ、ついで相~浦を合せようとして、こゝに多年に亘る戦争となり、その子隆信の時になつて、漸く和平を結んだのだった。
隆信は中國人汪直(おうちよく)を平戸に招き、またポルトガル人の入國を許して、海外貿易の利益を獨占し且つ鉄砲や大砲を購入して、大に國力の充實を計り、つぎの鎭信(しげのぷ)は相~浦を合せ、南の方は大村氏と境堺を協定し、この方は壹岐の日高氏を幕下に附け、その勢は、益々盛んとなり、こうして豊臣秀吉の時代に及んだのである。
さち平戸松浦氏が、下松浦地方を統一するに至った事情は、いま少し詳しく記すことゝしよう。
C相~浦と平戸の攻争
平戸の松浦定は、かねてより南の方の本陸部に、領地を廣めようと、その機会をねらっていた。この野心を知った相~浦丹後守政は、有馬貴純(たかずみ)入道仙岩・少貳放資等と謀って明應三年(一四九九)上松浦に攻め入り、波多・鶴田・草野・佐志等を従え、仙岩は平戸に攻めこんだので、弘定は敗れて大内義興にたよつた。それで少貳政資は相~浦政に、己の女を妻は
し、仙岩には平戸を與えた。仙岩は前に平戸を逐われた田平(たぴら)(峰)昌に平戸をわけ與えることゝした。これより相~浦政は有馬と少貳とを背景として威を下松浦に振うようになった。
こうして少貳氏の勢がますます盛んとなるのを見た大内義隆は、明應六年大兵をもって、政資を小城に攻め殺し、有馬仙岩に迫って、平戸を旧主弘定に返さしめた。そこで弘定は、峯氏より輿信を養子に迎えることゝして、こゝに田平と平戸の両家は合一することゝなった。
さて平戸に歸った輿信は、相~浦政を恨み、翌年八月俄に太智庵(たいちあん)城を襲い、政を攻め殺し、その子幸松丸と、その母を捕えて平戸に歸った。
D幸松丸
幸松丸は當年わずかに一才、母は二十才で、花のような美人であった。興信はこれを殺すに忍びず、平戸の河内浦に邸を與えて、こゝに居らしめ、成人の後は、本領をかえし與えることを約束して、彼の心を慰めた。けれど後室は、夫を殺され、身は虜となっている悲しさ、やゝともすれば自害しそうなので、待女が慰め、昔は三人の子のために、平相國清盛公に身を任した、常盤御前のためしもあることゆえ、ゆめゆめ幸松君の行末を忘れ給うな。と懇に諌めるので、後室も少しは心やわらいで見えた。
さて興信の家来、一部・籠手田(こてだ)の二人が、幸松丸を成長さすることは、虎を野に放つようなものゆえ、早くなきものとして、後のうれいを断ちたまえと、主君にすゝめるけれど、興信はこれを許さなかつた。それで二人は幸松丸を除くことは、これ即ち主君えの忠義と考え、その時機の来るのを待つていた。
後室はこれを感づいて、密にこのことを待女に言いふくめて、有田の庄山、池田に送った。侍女は庄山が一味の者で、首尾よく有田に知らせると、庄山からの返事に、今bフ年の宮は、幸松丸君の氏~のことゆえ、今年の年の宮の祭りに参拝し給え、誓って奪い取り申すとのことであった。それで年の宮の参拝を興信に願うと、興信は何の疑いもなく、これを許した。
幸松丸親子が年の宮参拝のことを知った一部等は、心の中で時節が到来したと大いに喜び、その帰途に討取ることゝし、殊更に時刻をおくらし、夕闇せまる頃に、年の宮につくように取り計らった。
いよいよ幸松丸親子が年の宮に詣で、拝殿に昇って、~楽太鼓につれて、鈴の音が起った。恰度その時だつた、寶殿のうしろから怪しの者が躍り出て、二人を捕え忽ち行方をくらました。一部等はこれを知って歯がみして怒ったけれど、もはやどうすることも出来なかった。
有田では、唐船城に家の子、郎薫等が馳せ参じて、幸松丸を奉じ、やがて相浦~に飯盛城を築いて、これに移った。時に永正九年(一五一九)の五月のことであった。
、E飯盛合戦
幸松丸は成長して、名を丹後守親(ちかし)と改め、飯盛城に居て密に戦備を修め、専ら勢力の回復に心を砕いていた。
平戸では興信が歿し、その子隆信が後を継いだ。隆信はかねてより幸松丸を奪われたことを遺憾とし、遂に翌年九月兵を發して飯盛城を攻め圍んだ。相~浦ではかねて期していたことゝて、よく防いだので、勝敗はなかなか決しなかった。
これより前、丹後守親(幸松丸)は有馬仙岩の援助を得るため、彼の五男五郎盛(さこう)(左高とも書く)を養子とした。ところが盛は相~浦には姿を見せず、また有馬方よりは援兵を送らなかった。それで丹後守はカつきて、隆信の三男九郎親を養子に迎えることゝして和約を結んだ。これより相~浦は全く平戸の勢力下におかれることになった。
F有田氏
有田氏は御厨公直の子榮の後である。榮の子は究、究の子は重、重の後は宗家より、給が入つて、有田家をついだ。袷の後、持と實の二代は、他家よりの養子であるが、その家系は明らかでない。
實の後は勝−延−進−盛−定−政と相つぎ、何れも宗家の御厨城主が、丹後守と称して、有田城主をかねていた。政が平戸興信に殺されて後、その子幸松丸は同じく丹後守と称し、名を親と改め相~浦に居り、平戸と相争っていたが、のちこれと和して隆信の子九郎親を養子としたことは、前節でのべた。
ところが和議の後、二十余年を経て永禄十年(十五六七)になって、前の養子−有馬五郎盛が、突然帰って来た。
實は前に平戸と和議を結ぶ時、有馬とは離縁の話合をつけていなかったので、丹後守は大に困りやむを得ず領地を二分し、その西半分を九郎親にあたえて、飯盛城に居らしめ、東半分を九郎盛にあたえて、丹後守と称し、唐船城に居らしめ、自分は相~浦のとある草庵に隠居することゝした。
ところが丹後守盛は、九郎親に旧領の西半を取られたことを遺憾とし、これが回復を計り、元亀三年(一五七二)正月相~浦征伐を行い、却って大敗北してしまった。
こんな事情で、有田家では戦争の痛手が、まだいえていないところ、佐賀の龍造寺隆信が大軍を以て押寄せた。この時丹後守盛が病死したので、後室は使を送って龍造寺信周(のぶちか)の三男信脇を養子に迎えることゝした。時に天正四年のことであった。
G波多氏
波多氏は源直の弟持(たもつ)の後である。持の子は親・親の子は勇、勇以後数十年の間は、波多姓を名乗る武人の活動が、しばしば見受けられるけれど、その継承の次第は明かでない。
戦國時代になつて、波多下野守興の代には有馬仙岩や、相~浦親や、平戸興信など、婚姻閥係を結んで次第に勢力を張り、ついに上松浦全土に号令するようになったのである。
波多下野守の後は、その子壹岐守盛が継いだが、盛には子がなかったので、盛の後室は己の妹の子−有馬仙岩の三男−藤童丸を迎えようとすると、鶴田・相知・日高の諸將は、壹岐守の弟の子を立てようと反對した。後室はこれを、日高大和守の陰謀と信じて、密にこれを毒殺させた。大和守の子甲斐守はこれを怨み、永禄二年(一五四八)十二月晦日に、にわかに起って岸岳城を焼討して後室を逐い、鶴田越前守前(すゝむ)を奉じて、波多氏の主と仰いだ。これより鶴田氏の勢力が強大となった。
すると、初め鶴田方に属していた相浦大和守と、値賀伊勢守は、もとは同じく波多氏の臣下であったI田越前守が、君主顔して権力を振うのをみて、反感を起し、草野鎮永(しげなが)方に匿れている後室に内意を通じて来た。後室は今時の人の頼み甲斐のないのを痛感し、なかなかこれを信じないので、七枚の起請文(きしようもん)を出して二心のないことを誓つて、漸くこれを信じさせ、こうして共に計を立て、一方には佐賀の龍造寺隆信の援助を借り、永禄十二年十二月晦日に兵を擧けて、岸岳城を奪い返し 藤童丸を迎えたのである。これ即ち三河守親(初の名は鎮)である。
日高氏は遁れて壹岐に帰ったが、波多氏の来攻を恐れ、平戸に使を送ってその保護を請うた。以後壹岐は全く波多氏より離れ、平戸松浦氏の配下に入ることゝなつた。
これより後は波多氏の勢力は俄におとろえ、龍造寺氏の圧迫はますます加わり、天正十年(一五八二)には隆信の養女安子と婚し、龍造寺政家の子彌太郎を迎えて、養子とせねばならぬようになった。
それから二年の後(天正十二年)、薩摩の島津義久が有馬仙岩を授けて兵を島原に進めると、隆信は自ら大軍を以てこれを攻め、却って島津軍のために殺された。それで龍造寺氏の所領は鍋島加賀守直茂の手に移り、波多氏もまた直茂の支配をうけることゝなった。
ところが、天正十五年になって、豐民秀吉が島津征伐のため九州に入り、九州の大名に出兵を命じると、三河守は島津氏が、父仙岩を援けた恩に報ゆるため、一兵をも出さなかった。
つぎに天正十五年六月、秀吉が箱崎八幡宮で、九州の諸大名を引見した時、三河守はその時刻におくれたゝめ、ついに大名としての会見は許されなかった。
越えて文禄の征韓役となり、波多三河守は、順天山の戦に、敵の大軍に包囲されて戦功が擧ら
なかったので、日本一の卑怯者と極印を打たれ、領地は没収され、身は常陸(ひたち)國に流されることゝなった。持(たもつ)この方四百余年をつゞけた波多氏は、こゝに全く滅びてその領地は寺澤志摩守廣高の所嶺となったのである
第十四節 岸岳城を回る秘話
@心月尼
波多三河守親の奥方は、青山采女の妹円子と言つて、優しい婦人であった。天正七年渡多氏が龍造寺氏に降ったその翌年のことであった。
ある日のこと、隆信よりの使者がきて、円子姫が死去されたとして、吊詞をのべ、香華料を差出した。三河守は意外の言葉に驚いて、円子姫は達者でいることを言うと、使者は私の役目は、この包をお届けすることですといつて、そのまゝ包を置いて帰って行った、城中ではこの始末に困っていろいろと協議をこらしていると、このことを知った円子姫は、自分が居ては夫の不幸と考え、密に城中を披け出て、近松寺に入り髪を下し、名を心月尼と改め、山本村に小さな庵を結んで、こゝに隠れたが、まもなく病気でこの世を去った。
いまの心月寺は、その庵の跡に、尼の冥福を祈って建てられたもので、今なお寺の寳物として遺愛の琵琶が保存されている。
A秀の前
波多三河守の後妻−秀の前−については次のような話が傳えられている。
秀の前は、初の名は安子といつて、龍造寺胤榮(たねしげ)の娘で、幼い時に父に死なれ、母が隆信に再婚する時、連れられて隆信の養女となつた。二十三才の時、蓮池城主小田弾正鎮光(しげみつ)の妻となったが、鎮光が隆信にそむいたゝめ、多久に移される。安子は佐賀に引取られた。こうして寂しい年月を送っていたが、あるとき、隆信が安子に命じて、父上の怒りも全くとけたから、早々御機嫌伺いにお出で下さいと認めさした。もとより隆信に深い計略があってのことゝは知るよしもない安子は、言われるまゝに手紙を書いて、これを鎮光に送つた。鎮光は安子の手紙を見て、早速佐賀に出かけて行った。すると納富但馬の家に迎えられ、無残にも斬り殺された。安子は養父の残忍な仕打を恨み、また現世の無情を悲み、聖n宸フ湖心禪師について、観音の信仰に入った。
ところが、天正十年になって、隆信から三河守に再婚するよう命じられた。安子は養父の仕打を恨み、断食して死を待っていた。するとある夜のこと不圖観音のお告げを蒙り、大いに覚るところがあって心を改め、民衆救助の大念願を超し、三河守の妻となってその名を秀の前と改めた。
それもら凡そ十年の後、豊臣秀吉が征韓の軍を起して、名護屋城中に居るとき、この地方の大名の奥方が、名護屋に伺候するので、秀の前も城中に伺候した、この時どうしたことかは分らないが痛く秀吉の不興を蒙って、数日間城中に留めおかれた。
この時の風説では、秀吉が秀の前の美貌に懸想したので、万一の場合を覚悟して、匿し持っていた懐剣を見とがめられ、その理由の申開きが立たぬうちは、城中に溜め置くとのことであった。のち岸岳に謹慎を命じられて、城に帰った。
文禄三年になって、三河守は卑怯の行いのため、領地を没収され、身は常陸の國に流罪となったので、秀の前は佐賀に帰り、妙安尼と称し、妙安寺を建てゝ不幸な人々の冥福を祈っていた。寛永元年(一六二四)七十九才でこの世を去った。
・′
B鶴田氏
鶴田氏は、波多持の次男来(きたる)の後である、来の子起(おきる)は大河野知(しる)の娘を妻として馴(ならし)を生み、馴は鎌倉將軍から、松浦郡の一部を領することを認められた。これより以後室町時代の末頃までは、その勢は振わなかった。
天文年中になって、因幡守傳(つとう)のとき、大河野氏と婚し、その子兵部大輔直は、大河野氏に子がな
かったので迎えられて大河野日在(ひあり)城主となった。これよりその勢が俄に大きくなった。
天文十三年(一五四四)龍造寺盛家が日在城を攻めた時、鶴田直はこれを立川に迎え討って盛家を殺し、弟の越前守前(すゝむ)は獅子城を守って、よく防いだので、これから鶴田兄弟の勇名が謳われるようになった。
それより隆信は、鶴田氏征服は容易のことではないのを知って、表面は親密のように交際し、内實は征服の機会をねらっていた。
元亀元年(一五七〇)となつて、大友宗麟(そうりん)が大軍を以て龍造寺氏を改めた時、隆信は二人の子を因幡守に預けた。鶴田兄弟は、一方には大友氏に通じ他方には龍造寺氏と通じでいた。戦國時代の諸侯の信義は、おうむねこのようなものであった。若し罷り違えば、一家一族の不幸を来すので、こんな用心が肝要であったのであろう。
さて、この時の戦は隆信の大勝利で、龍造寺氏の勢力は益々強大となつた。
天正元年になって、隆信が波多三河守を攻めた時、越前守は獅子城を守って屈しなかった。しかし味方の損害の多いのには困った。それで因幡守の子勝(まさる)が中に立って、越前守父子は龍造寺の幕下につくように、話をつけて和約を結んだ。
天正三年になって、波多三河守が龍造寺隆信の孫彌太郎吉を養子とすると、隆信は勝に對して、三河守の幕下につくよう要求した。
これまで、永い問對立して来たI田氏が三河守の臣下となることは、どうしても耐えられない屈辱なので、あくまで反抗の決意を固めた。すると隆信が大に怒って攻めつぶそうとした。この時隆信の子後藤家信は鶴田氏の恩義を思い、父を諌めて、あくまで勝を攻められるなら、家信は勝の陣中に行って、彼と共に切腹すると言ったので、隆信もやっとこれを許した。それで勝は武雄の客分として迎えられることゝなった。
後藤家信が、このように勝をかばったのには、次のような事情がある。
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初め、武雄の領主後藤貴明(たかあき)には子がなかったので、平戸から松浦隆信の予惟明(これあき)を迎えて養子としていた。ところが、のち貴明に男の子が生れたので、惟明との仲が悪くなって、貴明は惟明に逐われて、住吉村に匿れた。これを知った鶴田勝は貴明を援け、隆信もまた貴明を援けたので、惟明は敗れて平戸に帰った。それで貴明は龍造寺氏から家信を迎えて養子とし、いわば家信は鶴田氏のおかげで武雄城主となったので、その恩義に報ゆるため、かくは勝を保護したのであった。
中 篇
第一節 謡曲 関の清次の物語
九州松浦の荘に、関の清次という剛力者がいた。ある時、他郷の者と口論してこれを殺したので、捕えられて牢屋に入れられた。清次は大力に任せて、牢を破って逃走した。それで領主の松浦殿が、清次の妻を捕えて入牢させ、夫の在所をいえば許して遣わすというと、妻は「一向存じませぬ、知りませぬ、よしや知っていても、偕老同穴(かいろうどうけつ)を誓った夫です。その所在を知らせて、夫を失うようなことは申しませぬ、それよりも夫の身代りとなって、この牢に居ることが、妾の本望でございます」とついに気狂となって、牢に懸けてあった太鼓を打って狂い回っているので、領主は女の眞心に感じて、清次夫婦を許してやった。
以上は、謡曲籠太鼓(ろうたいこ)のあらましである、これには松浦の何某というだけで、年代も場所も分らないので、後の人が作りかえて、次のように書いている。
弘安八年松浦郡梅豆羅(めづら)の里に、関の清次というものがいた。恰土郡(筑前糸島郡)二重岳の濱くぼ治郎というものと仲よく交際していた。ある時、清次が「我は給田の他に、百貫の隠田を持っているので、かくは楽な生活が出来るのだ」と語り、この事は他に口外し給うなと口止した。然るに治郎はこれを漏らした。まもなくそれは清次の耳に入った。清次はきいてカットなり、治郎が宅に押しかけ、口論のすえ打果して終った。村中のものが大勢で清次を捕え、これを領主に突き出した。
清次は直に牢に下された。もとより強力無双の者なれば牢を破つて何れえか逃亡した。領主は清次の妻を捕らえて、そのありかを尋ねると、妻はもとより知らぬことゝて、知りませぬ、存じませぬと言うので、彼を牢に下し、そこに懸けてあった太鼓を打たせ、これを合図に、その子を責めて、清次のありかを問うことゝした。
母は我が子の苦しむのを見て、これを助けようとすれば、忽ち夫の命を召されるであろう。と言って子の責められるのを見てはいられぬ。如何しようかと悶え苦しむほどに、とうとう心乱れて、歌をうたつて太鼓の拍子に合せ「我は太宰府に縁のある者ゆえ、こゝを頼って忍びいることゝ思われる、あわれ召し返して、親子三人一緒に置き給え」と物狂い、狂い倒れた。
これを見たその子は、両親がかくも浅ましくなり給ううえは、生き長らうて何かせんと、自ら舌をかんで果てた。清次はこの事を傳えきゝ、自訴して罪を待った。領主は妻の貞節を賞でゝ、清次を許し、妻子の塚を立て、自ら出家して二人の後を吊えよと命じられた。されど痛く悲嘆に落ちた清次は、自ら命を絶つてその後を追った。
この三人を葬った処に一本の松が生えて、その葉は三本づつ連って出るので、清次松といゝその墓を三葉の松塚というとある。
明治の初め頃(今より七十年前までは、玉島小学校の北方五町ばかりの処に、一本の松と、その下に三個の五輪塔があつたということである。
第二節 佐用姫謡う松浦鏡
松浦を題材とした謡曲に、東國の僧が都に上り、博多から浦づたいに松浦に入り、こゝで松浦佐用姫の霊に逢うという筋書のものがある。
道行 「箱崎や、明けゆく空の旅ごろも/\、げに不知火(しらぬひ)の筑紫潟、わだの原ゆく沖つ舟、汐路はるかの浦づたい、松浦潟にも着きにけり/\」
詞「これは早や、松浦の浦にて候、委しくは知らねども、山の粧、海の景色、世にすぐれて面白く、見所多く候、折節雪ふりて、山河草木色めきたり」と
松浦潟は夏ばかりでなく、多の景色もすぐれていることを歌っている。そこで私はそのあらましを、現代風に記してみよう。
さて旅僧は、そこに釣乙女がいるのを見つけ
「もし/\、釣人にお尋ね申します。こゝは松浦潟でござるか」
「左様でござります。海、山、河に至るまで、音に名高い松浦潟でござります」
「これなる川は?」
「松浦川でござります。こゝで佐用姫が、鏡を抱いて身を投げましたので、その霊が残つて今も鏡の宮に祭られてあります。お参りなされませぬか」
「左様でござるか。さてあの雪の積った山は?」
「松浦山でござります、領巾山(れいきんざん)と書いてひれふる山と読みます、そも/\この山をひれふる山と申すのは、昔、狭手彦と言う人が、遣唐使となつて船を出した時、佐用姫という乙女が、船のあとを慕うて、あの山に登り、沖行く舟を見送りながら、ひれを振り招いたので、ひれふる山と申すのでござります。されば万葉歌人が読んだ歌にも
海原の、沖行く舟を、かえれとか、ひれふらしけん、松浦佐用姫
と、あるように、いま見てもひれふる雪の、松浦山でござります。沖の波間を行く舟を見ても、今なお哀れが知られます」I
と物語ると、僧は
「うれしくも承りました。とてもの事に、佐用姫と狭手彦の話を、聞かして下さいませんか」
と言うので
、「さらばお話し申しましょう。昔、狭手彦が遣唐使として、この松浦に下り、暫く旅宿にあった時、一夜のとぎに呼んだ乙女は佐用姫でござりました。狭手彦は姫の高い香にふれて、一夜の仮枕が幾夜ともなくかさなつて、小夜の睦言に心の程も見え、ついには朝寝髷をも打ち解くる共寝とはなりました。
かくしているうち時節が来て狭手彦は吉日を選んで首途となりました。姫はつきぬ名残に、その後を追うて、さすらいました。れいきん山でなくとも、渚にひれふす姿はげに哀れでござりました」
「れいきん山のいわれは承りました。なお鏡のいわれも、お話し下さいませ」
「そもこの鏡は狭手彦の形見の品で、その後、姫は~と現われたので、眞の鏡を御~体として祭り、鏡の宮とは申すのでございます」
僧は聞いてうなづいた。時に乙女が
「御僧、妾はお願いがござりまするが……」
「何事でござるか」
「御僧のそのお袈裟を、妾にお授け下さる事は出来ませんか」
「お望みとあらば、いとやすい事でござる」
とその袈裟を脱いで授けると、乙女はこれを受け、掌を合せ座を改めて
「善哉解脱(ぜんぎいげだつ)、ふくむそうふく」云々と言って
「この御布施(御禮)には、狭手彦の形見の鏡を、お見せしよう。暫くお待ち下さいませ、まこと妾は佐用姫の霊でござります」
というと、れいきん山に澄んだ月が、俄に隠れると共に、乙女も消えうせてしまった。
「始めより不思議の乙女と思つたが、さては佐用姫の霊であつたのか」と獨語しながら、鏡を取つて顔をうつして見ると、こは不思議や、面は映らず、衣冠正いし美しい男の顔である。僧は
「愚なことでござるぞ、煩悩即菩提心でござる、その一念をひるがえし、早く成佛あれよ」と言うと
「承知いたしました。さりながら今宵一夜のざんげに、昔の有様をお見せしましよう」
と言うと、忽ち明るい松浦の海邊となつて、沖行く舟に、舟子の掛声が波間にひゞき、松浦の川瀬の音、ないだ海面に、千鳥、鴎の飛びこう景色も見えたが、それがまもなく変つて、海山が震動すると見えると、そこには乙女が地に倒れ、また立上がつて転々する間に、舟は沖の彼方に遠ざかつて行く。乙女は松浦山にかけ登り、声を限りに
「その舟しばし、その舟留めてよ」
と呼はわりながら、ひれをふって招き、かざしては招き、果は狂乱となつて山を下り、遂に形見の鏡を身に添えて、舟からざんぶと身を投げた。僧が驚くとたんに、松風が強く吹き渡った。とみれば、こは松浦の浦風が夢路を覚ますのであった。
第三節 奢る太閤名護屋城
@名護屋築城
朝鮮役の原因や、戦争の模様などは、他の書物で見ていたゞくことゝして、こゝではこの地方に傳わる史實や、史話を記すことゝしよう。
名護屋城は、東松浦半島が玄海洋に突き出た丘陵地に築かれたもので、東に呼子(よぷこ)湾、名護屋湾、西に串(くし)湾、外津(はかわず)湾が深く入りこみ、前に加部(かペ)島・加唐(かから)島、松島・馬渡(まだら)島・小川(おがわ)島が並んで、自然に防波堤となっており、南方は高さ百米内外の丘陵があって、背面の防壁となっている。
もと、名護屋越前守経述がいた垣副城に大改造を加え、城地の面積が一万四千坪、建坪が千五百十三坪という、實に堂々たる城郭を造り上げ、その他にこの附近一帯を区劃して、諸大名の陣地に充てたので、全体では東西二里、南北一里半にわたる、廣大な地域となつている。
工事は天正十九年(一五九一)の十月に始まり翌年二月には完成し、四月には秀吉の入城となつた。誰もが、一度城址の上に立って見れば、これほどの大工事を僅かな日数で、よくも完成したもぼだと驚くであろう。
一体この工事は、諸大名に割當て普請なので、もしも期限におくれて、太閤殿下のご機嫌でも損じようものなら、それこそ大変、身の破滅だと、一同命がけで働いたので、こんなに速く出来上ったのであろう。工夢を命じられた大名中には、始めの予定は、建築材料や、人夫などは、松浦地方で用足すつもりであったのが、現地に来てみれば、交通が不便な上に、人夫がなかなか得られないので、これには大いに困って、処々方々から、大工や、石工や、瓦工や、土工などを連れて来て事に當らしめた。中でも佐賀の鍋島氏から送った石工の徳永九郎右衛門は、見事た城壁の築造を終つた功で、唐津地方では、何処でも勝手に石を採つてよいという秀吉の朱印状をいただいた。いま現に値賀河内(東松浦郡値賀村)にある徳永姓は、彼の子孫であると言われている。
また、瓦工の家永彦三郎は、佐賀の多布施川のほとりで瓦を焼き、これを名護屋に運ぷため、多くの人夫をならべ、てん供取(てんぐとり)にして運んだということである。
また、小川總右衛門は天守閣の瓦を焼いて、それが速くて、しかも見事に出来たので、この二人もまた、秀吉の朱印状をいた挺ゞいたと傳えられている。
その他、優れた技術を持つた木工なども澤山集ったことゝ思われるけれど、惜しいことには、その名が傳えられていない。今現に唐津市に残っている建物には、近松寺の門と、聖持院の客間とがある。何れも名護屋から移もれたもので、近松寺のは、門の一部を切り捨てて縮小されてあり、聖持院の欄間は、丸竹を切り組んだ、簡単な細工であるが、その考案は凡人の作でないように思われる。
次に諸法令について申上げておこう。名護屋に集まった諸國の士卒や、人夫等は、度々附近の民家に入りこんで、強奪同様の押買をしたり、無理に雑役に引き出すので、これを奉行所に訴え出ると、奉行は、そのような不都合なことを言いかけられた時は、その場でとがめ立てゝ、口論にならぬようにしておき、その者の主人や組頭の名を記して、後でこれを届け出るようにせよといって、殆んど取上げないので、百姓や町人の迷惑は甚だしいものであった。
また文禄二年正月に出された秀吉の朱印状によれば、名護屋往復者の一夜泊の木賃料は、一人につき一文、馬一匹につき二文となっている。この一文とは、この時代に我が國に最も適用していた永楽通寶や、これとよく似た−−−中國で鑄造された穴明銭をいうのであろう。これによって、その頃の物価を想像することが出来る。
さて、大本営となった名護屋には、十数万の大軍が駐屯しているので、これに要する種々の物資や、これを取扱う雑役夫等も、澤山必要であったことは無論のことで、一時は数万の人口が集まったものと思われる。
それで利を追う商人達が、諸方から集まって、俄造りの商店街が出来た。すなわち、、材木町・板屋町・刀町・塩屋町・魚屋町・海士町・水主町・その他二十数個の町名が、今なお田畑の地名となって残っている。寺澤廣高の唐津城構築と共に、これらの町名はこの方に移されたと傳えられている。
A得意の秀吉
秀吉は文禄元年(一五五九)三月京都を發って、廣島・小倉を過ぎ、深江を経て四月廿九日には名護屋についた。
これより前、我が軍の先鋒は四月十三日に釜山に上陸し、五月二日には京城を取り、七月廿三日には二人の朝鮮王子を虜にし、八月廿九日には、早や明國から講和の申込を受けた。秀吉の得意のほどが察しられる。
ところが、この間にたゞ一つ、秀吉を悲しみに陥れたことがある。それは秀吉の母君が七月の初め頃から病気だつたのが、だんだん重くなったので、急いで帰ってみると、母君は早やなくなっていた。秀吉は悲みのあまり卒倒したのだった。
少年の項は手におえなかった彼を、よく可愛がって、関白、太閤にまで育て上げた母上の苦心のほどを思えば、かくもあろうと、側近くに居た人達も、共に涙を流したということである。
葬儀をすまして、大阪をあとに、小倉から佐賀を経て、再び名護屋に帰ったのは十一月三日のことであった。かくて秀吉はこゝで新年を迎えることにした。
間もなく文緑二年の正月が来た。西海の片田舎のことゝて、見るもの聞くもの、何一つとしてみやびやかなものが無いので、秀吉は痛く無聊に苦しんでいた。そこに能師の暮松新九郎が年頭祝儀に来て、秀吉の意中を察し「能は~慮を慰め奉り、天下を安んずるものなれば、殿下もお稽古を始め給はゞ、御心ものどまり、在陣諸士の気分も和らげることが出来ましよう」と、勧めたので、秀吉はいよいよ稽古を始めることゝした。心ある人々の中には、六十近い年をして今さら能の稽古とは…………と苦々しく思う者もあつたという。
だんだん稽古が積むにつれて、二月の末には今春(こんばる)八郎と観世左近を呼びよせ、四月九日に城の本丸で、能の大会を催すことになった。この日、見物の諸將には酒肴を配り、出演の太夫にはそれぞれ御服を與え、その中でも今春八郎には菊の紋の附いた、唐織の小袖二夕重を賜うた。八郎はその小袖を着て、改めて殿に御禮を申述べた。
何事にも豪奢を好む秀吉のことゝて、この大会の入費も、相當かゝつたことゝ思われる。
ついで六月九日には豪華な舟遊が催された。これより前、五月十五日に明國の使者が名護屋についた。秀吉はまず徳川家康と、前田利家に命じて、明使の接待に當らしめ、後は他の大名に命じて十日間づゝ接待さすることゝした。
B舟遊び
六月九日秀吉は名護屋湾内で明使慰安の舟遊を催すことゝし、数百の大船には、家家の紋所を染めぬいた幕を張り、旗や指物などを飾り立て、乗組の水夫等にも、歌や踊などを繰り廣げて、見るもの、聞くもの、総てを花やかにして異國の空のさびしさを、慰めてやろうとの心づくしであった。秀吉がこの日の出立は、いかにも若々しく装うて、召船には虎の尾の投げ鞘をかぶやた槍や、金の金具の長刀を飾り立て、赤木綿の羽織を着た水夫三百人を乗込ませ、その他の者には、思い思いの綺羅をかざらせた。
やがて秀吉が船に入り、一同に膳を配り、酒宴となったので、明使も興に乗って、首をふり、手を打つて詩などを吟じ、その日は、異国にあるのを忘れたようであった。
C道化遊び
名護屋條約が出来て、明使が帰国の途につくと、秀吉は諸將の長い間の陣中の労を慰めるため仮装会を開いた。
六月廿八日、この日は廣い瓜畑のあとに、俄か作りの商店や、旅館などの模擬店を設け、秀吉を始め、諸將が各々趣向をこらした道化模様であった。
秀吉の出立は、柿色の帷子(かたぴら)を着け、わらの腰みのを當て、黒の頭巾に、菅笠(すげがさ)を肩にかけ「味よしの瓜、爪召され候え」と、呼び歩いたのは、少しも商人たちとちがわないで、よく似合っていた。
徳川家康は、あじか(網代に編んだ籠)売りにやつし、「あじか買わし、あじか買わし」と、おうように呼んで通った。これもよく似ていた。
前田利家は、高野ひじりの姿で、おいづるを肩にかけ、「宿う、やどう」と声を長く引いて、いかにも宿を借りそこねたような声で、これはいさゝか哀れに思われた。
蒲生氏郷は荷い茶売りになって、秀吉に極上の茶を献じ、その代金を強くねだったのも一興であった。
織田有楽は旅僧の出立で、「修行者に瓜を施して下され」と請い、秀吉が手づから瓜二つ與えると「いやこれは熟していないから、いま少し良いのを‥‥・‥」と、せがんだのもおかしかった。
前田玄以は比丘尼(ぴくに)になっていた。背の高い、肥え太った比丘尼の、にくらしい顔つきで、おかしげな声で「唯今念佛をつねに申せば、必ず佛になるぞ」と説き「されどまづこの世を第一に心がけ来世の事は第九、第十に行い、念佛にも飽いた時は昼寝をして少し氣を休め心を正しう持つて、一向に現世の理にそむかぬようにとのみ、行うべし・‥…」と説いた。
その他、禰宜(ねぎ)・虚無僧(こむそう)・鉢叩(はちたゝき)・猿遣(さるつかひ)など、さまざまの仮装であった。
また、宿屋の亭主に蒔田権助がなり、嬶(妻)には藤つぼという太閤の仲居(女中)が、すゞし(絹織物)を着、黒緞子の前掛けに、紅糸のたすきをかけていた。
茶屋の亭主には三上與三郎、嬶には常夏という殿下(秀吉)の側女を貸し、身なりは、荒い廣袖の浴衣に、繻子のおかるさん、南蛮頭巾をかぶっていた。「お茶お上り候え、あたゝかな饅頭もあります」と言って呼んだ。
藤つぼはまた「御飯参り候え。あま酒も、切麦も候」と言って、殿下の手を取つて請じ申すと、ことの外の御機げんで、布袋の笑うたように、目も口も一つになって見えた。
以上のことは、甫菴(ほあん)という人の書いた、太閤記の一部から採ったもので、この人は太閤の側近の人と、親しかつたということだから、いくらか参考になると思われる。
D廣澤局
豐臣秀吉の名護屋入城は、文線元年四月廿五日のことであった。この日秀吉は鏡の宿で志摩守の出迎を受け、彼の先導で名護屋城に入り、一通りの検分をすまし、山里丸に入ると、志摩守が
「恐れながらお願ひ申上げます。名護屋越前の妹廣子が、お茶を献上仕りたいと、お待受け申しております。お許し下さらば、この上もない光榮に存じます」
聞いて秀吉は軽くうなづき、直に室に入って設けの座につき、そこに額突いている廣子に向い、
「面を上げよ」
廣子は恐る恐る面を上げた。秀吉は愛くるしい廣子を見て意味ありげな微笑をもらし、
「廣子と申したのう」
と優しい言葉をかけた。廣子はかしこまつで茶を立て、これを進めると、秀吉はつくづくと廣子を見守りながら、更にまた一服を求めた。
年の頃十七、八、飽くまで白い、b竄ゥな下膨れの顔に、ほんのりと紅を帯びたさまは、彼の祖先藤原経平卿の面影を、昔ながらに傳えているように思われて、秀吉の感情は一入なごやかになった。
「見事なお手前、褒美としてこの室を、其方に遣わすことにしよう。名を廣澤局と改めたがよいぞ」
意外の言葉に、廣子は恐縮してうなだれた。この一瞬秀吉の眼は、ちらと志摩守に向けられた。
秀吉の意を読むのに敏感な廣高は、恭しく頭を下げ
「身に余る光榮、廣澤駿には感激に震えて見ます」
こう言って、すかさずその場を取繕った。これより廣子は山里丸の一室に、秀吉のとぎを勤める身とはなった。
かくて文祿二年には、明國との間に平和が成り、五月廿六日には、名護屋在陣諸將の慰労会が催された。
この日、秀吉を始め、諸將は思い思い趣向をこらした仮装をして、会場にねりこんだことは前に言った通りで、この仮装会は七つ過ぎになって散会した。秀吉はそれより山里丸の数寄屋に入り一風呂浴びて涼を納れていると、そこに志摩守が来て「殿下にお願い申上げます、廣繹殿には仮装をこらして殿下のお成りをお待ちかねでござりますが……」
と誘いかけると、秀吉はにっこりとうなづいて見せた。
まもなく、秀吉が廣澤のところに行くと、奥の彼方より、妙なる琴の音が流れて来るので忍び足で伺い寄った。すると廣澤の局は、總髪をすべらしに束ねて、長く後ろに垂れ、几帳の外に打掛の裾を引きはえ、琴糸を押さえるたびに、彼のふくよかな顔と、あでやかに画かれた眉墨とが見え隠れするさまは、昔語りの小督局を思い出され、そつと抱きしめてやりたい氣持となって、つと進み寄った。廣澤局はこの無言のちん入者に、ハッと驚いて逃げようとした。秀吉は局の袴の裾を抑え
「お許は、太閤が嫌いになったのか」
この声に、それと氣づいた局は、直に形を正して、そこに座り
「殿下におわしましたか、失禮いたしました」
と恭しく首を下はると、秀吉は不満の色を見せ
「お許は、この爺が嫌いになったのじゃな」
「いえ勿体ない事……‥」
胸とゞろかして打消す様が、いかにもうぷうぶしいのに
「いやそれは違いはあるまい、いまお許は強く振切って逃げようとしたではないか」
眞顔でとがめかけた。廣澤は両手をつかえ
「妾は、関白経平十六代の後、名護屋経述の妹とは申せ、この片田舎に、むなしく朽ち果てる身でござります。この不遇な妾が、今を時めく関白−太閤殿下の御側に、お仕え申すことが出来たのは、この身の仕合せ、家門の光榮と、心から感謝いたしております。それがまだ殿下には、お分り下さらないのでござりましょうか」
と、かき口説きながら、ぢつと仰ぎ見た両眼には、水晶のような涙の玉がこほれて、画かれた眉墨の間に、嘆きの波が、微かに動いている様は、何とも得言われぬ痛々しさだった。
秀吉は俄に機嫌を直し
「お許の、その涙が見たかつたのじゃ……」
と、そつと引き寄せると、廣澤はきまり悪そうに
「殿のお人の悪いこと、人を泣かして…」と、はたと笑顔に返った、その口元の無邪氣さ、秀吉の眼には、それがまた、堪らなく可愛く見えるのだった。
こえで八月九日になって、大阪より秀頼出生の報告が着いた。
「去る三日男子御出生、お二方とも御健在にあらせられます」
との事に、秀吉の喜びは例えようもなく、諸事手につかず、梶X用意をとゝのぇて、二十五日の早朝名護屋を發つて、大阪歸還の途についた。
これを見送った廣澤局は、これが永久の別れとなろうとは、夢にも思わなかった。
越えて慶長三年八月十八日、秀吉薨去の報が名護屋に傳わると、廣澤局は直に髪を下し、秀吉の冥b祈つた。寺沢廣高は、一寺を建て廣澤の名を取って、廣澤寺と称し、寺領五十石を給することゝした。
第四節 海賊八幡船の基地
昔、欽明天皇の朝、肥後國で生れて僅かに二つになる幼児が~がゝりして「我は譽田(こんだ)八幡である」と言ったので、應~天皇の御名が、譽田別と言うところから、天皇を八幡宮として祭るようになった。
奈良朝になって、~と佛とは同体であると考えるようになり、菩薩号を加えて八幡大菩薩と称するようになった。
それから鎌倉時代になって、京都の東n宸フ僧円珍が中國に渡る時暴風雨にあって 一行の船二艘が沈没し、円珍の船には八幡大菩薩が現われ、その保護によって助かることが出来た。それで八
幡大菩薩と海上保護の~として崇めるようになった。中國人がバハン船と呼ぶのは、この幡(はた)を読んでのことである。
さて、この八幡船は、宋の末頃から元・明の頃になると、盛んに中國の沿岸を荒し回ったので、中國はこれを倭寇と呼んで、大層こわがった。
八幡船が海賊を働くようになったのは、何時ごろからのことかは、よくわからないが、十三世紀の中頃に、鏡~社の社人が、高麗(こうらい)から多くの品物を掠奪して歸り、これが問題となったことが、吾妻鏡という本に出ているから、松浦地方の者が、海賊を働いていたことが知られる。
下って十六世紀頃になると、朝鮮では我が海賊の鎮圧に困って、朝貢という名儀で、毎年、一艘か二、三艘の船が朝鮮に来ることを許した。朝鮮人の書いた、海東諸國記という本によると、その許された者には、上松浦では、呼子壹岐守源義・佐志源次郎、那護野寳泉寺の源祐位、~田能登守源徳、下松浦では、一岐州太守志佐源義、平戸の寓鎭肥前太守源義、五島宇久守源勝。その他両地方合せて、三十余の名前が記されている。
中國で倭寇か最も盛んだったのは、汪直(おうちょく)の時である。汪直は安緻省の者で、日本では五島のm]に、中國では浙江省の双嶼島に根拠を置いて、互に連絡を取って明國の沿岸を荒し回っていた。かくて天文十年(一五四一)になって松浦隆信に招かれ、平戸に来て宮の町に大きな邸宅を與えられ
自ら徴(き)王と称し豪奢な生活をしていた。それより十数年間は彼が最も猛威を振った時で、弘治三年(一五五七)になつて明將胡宗憲(こそうけん)に殺されるに及んで、倭寇の勢力は俄に衰えた。
首領を失わた倭寇は、その後十数年間は勢も振わなかった、豊臣秀吉の朝鮮征伐となり、明國が兵を出して朝鮮を救うに及び、明國の沿岸警備が弱くなり、またまた海賊の横行を見るようになった。
この時、l囂ネに顔思斎(がんしさい)という者が起つて、海賊を糾合してその長となった。思斎は前に平戸に居たことがあるので、知合いの日本人と結び、台湾に根拠を置いて近海を荒し回つた。
この顔思斎の部下に、鄭芝龍(ていしりゅう)という青年がいた。芝龍認はl囂ネの生れで、平戸に来ていたので、思斎の部下に入った。処が思斎が俄に死んだので、部下の者が芝龍を推して首領に戴いた。
これより前、芝竜は平戸の田川七左衛門の娘お松を妻としていた。鄭成功は實に彼が長男である。
成功は幼名をoシ、又森といった。平戸島の河内浦に居り、七歳のころ父に引取られて泉州に至り、長じて明の唐王に仕え、國姓朱を賜わられ、名を成功と改めたので、國姓爺(こくせんや)と呼ばれていた。
しゆ
のち、父の芝龍が明に背いて清朝に降るに及び、成功は別れて台湾に入り、和蘭人を逐うて台湾島を取ってゝの王となつた。成功がこの成功の裏面には、倭人の援助によることは無論のことである。
成功はよく島民を手なづけ、一時はその勢力も大いに振つたけれど、時はまさに清朝が興隆の際に當り、獨力では敵し難いので、使を我國に遣わして援助を求めた。我國では徳川幕府の始め頃でちようど内政整理に忙がしかったので、援兵は送らなかった。そこに不幸にも成功は熱病にかゝつて倒れた、時に寛文二年(一六六二)の事である。
こんな事情で、倭寇の余勢も何時の間にか消え、眞面目な商人のみが、徳川幕府の許しを得て眞面目に貿易をするようになった。
第五節 唐津城と寺澤廣高
松浦潟を知るには、まづ、その中心部の唐津を知ることが第一歩である。
文祿三年、波多氏が豊臣秀吉に滅され、その後に寺沢志摩守廣高が封ぜられた。それで廣高は、松浦川口の左岸にそびえ立つ満島山を見立てゝ、新に一城を築き、これを中心に城下町を造った。
これが即ち唐津町、今の唐津市の起原である。
唐津市の南部は松浦川の沖積平野で、この河谷に沿うて南に行くと、佐賀に達することができ、北は玄海洋に臨み、直に中國・朝鮮に渡ることが出来る。
一体、我國の城は、多くは對内的防衛陣地であるが、この唐津城は對外的活動の基地として、築かれたもので、慶長七年に始まり、七ヶ年の歳月を費し、同十三年に完成したものである。
その頃の松浦川は、久里村の前淵から二筋に分れ、その一筋は赤水の処から濱崎の方の流れ、玉島川と一つになり、他の一筋は赤水の邊から西に流れ、満島山の東裾を流れて海に入っていた。
波多川は鬼塚村の養母田(やぶた)を通って、和多田の愛宕(あたご)山を回って、唐人町の方から、二の門の方に流れており、町田川は長松の邊から、江川町と双子の間を流れて、海に注いでいた。.以上の河水を一つに集めて、満島山の裾に流したので、今のような河口となった。現在では水か浅くて、大きな船の出入は出来なくなっているが、これが三百年前には、海外渡航の船も、自由に出入することが出来たものである。
城の建築資材は、名護屋城の建物を移したものだが、現在残つているのは、近松寺の門と聖持院の茶室とに過ぎない。
さて廣高が、城をこゝに構えた動機を案ずるに、廣高は秀吉の小姓より身を起した小身着でって唐津・平戸・大村・長崎等を視察し、これ等の地方人が海外と交易して、莫大な利益を得ていることを知り、自分も他日、志を得るならば、大に海外貿易を起そうと、大きな希望を抱き、これを盛んにするには、海外の事情を詳にすることが必要であり、これがためには彼等の信仰するキリシタンを知ることが早道であると考え、自ら進んでキリスト教の洗禮まで受けた。されば長崎奉行となると、巧に外國人を操縦して、その間に在って巨額の利益をせしめることが出来。成り上りの俄大名が、十万石相當の城廓を築くことを得た裏面の事情が、成程とうなづかれるであろう。
第六節 安田作兵衛も居た
寺沢廣高の臣に、天野源右衛門という者がいた。もとは明智光秀の臣で安田作兵衛と言つた。古川九兵衛・箕浦新左衛門と共に、明智の三羽烏と言われた勇士で、本能寺の変に森蘭丸を殺し、織田信長も刺したが、山崎の一戦に光秀が敗死するに及び、姓名を変じて天野源右衛門と改め、京都附近に流浪していた。寺沢廣高がこれを知って、食祿五千石を以て、これを抱えることを約した。
當時廣高は、僅かに五万石の藏米を受けていたので、その中から五千石を割くことは、なかな思い切って、高祿の家来を抱えたものと言わねばならぬ。
文祿元年となり朝鮮役が起ると、筑後の立花宗茂が、源右衛門とは實は安田作兵衛なることを知つて、戦場に於ては、かならず一番槍を條件として、一万石の知行をもって召抱えた。翌二年正月
碧蹄館(へきていかん)の戦に、源右衛門は敵將李如松(じょしょう)を傷げたものゝ、惜しいことにはこれを取逃したので、いたくこれを恥じ、立花氏を去つて、再び廣高の下に歸った。この時、廣高は波多氏の旧領に封ぜられ九万三千石を領することゝなっていたので、一万石を割いて源右衛門を迎えることゝした。
さて慶長三年八月、豊臣秀吉が薨去すると、天下は忽ち粉乳の兆が現われたので、徳川家康は密に人を遣って、廣高を自己の陣営に引き入れようと誘いをかけた。一方、石田三成派は、廣高は當然、秀頼に属するものとして、高圧的に出兵を要求して来た。廣高は秀吉の恩義のほどを思うと秀頼を捨てゝ家康につく訳にも行かず、さりとて三成につくのも不満なので甚だ去就に迷つて、これを源右衛門に謀った。源右衛門はあざ笑いながら、
「戦争は負ける方に味方すると拙者のような目にあいますよ。なあに恩義などと、そんなものは世間態の言葉です。聞けば、浅野や、加藤、sなどは、徳川方という噂じゃありませんか」
と言って、口を廣高の耳によせてさゝやいた。それから数日のゝち、源右衛門は多額の金子を持って唐津を發った。
かゝる間にその年は暮れ、明れば慶長五年の正月、とうとう関ケ原の戦争となった。戦は西軍(石田方)の大敗北となった。この時、西國の大名で家康についたものは、一人もなく、ひとり廣高のみが、いち早く兵を出して関東方を援けたので、家康は大に喜び、これに報ゆるため、天草四万石を廣高に加増して十二万三千石の大大名とはなしたのである。
源右衛門は、我が献策が見事に成功したので、だんだん慢心がつのり、後には廣高までが、いささか嫌悪の情を抱くようになった。そこに源右衛門は、不幸にも腫物が首に出来て、強い痛みに苦しみながらとうとうこの世を去った。世人は、これは信長を刺した天罰だと言っていた。
いま、唐津市弓鷹町浄泰寺に、作兵衛が信長を刺した槍と称するものがある。また作兵衛の墓も浄泰寺にある。
第七節 大黒井手と可休様
唐津藩の開祖、寺沢志摩守廣高は、土木事業については、優秀な知識と技能を持っていた人で、その工事に當つては、自ら實地に臨んで、縄張をしたり、水準を計つたりして、部下を指導督励した。されば唐津領内の農地は、全く廣高の功績に歸すべきものである。数ある開拓地のうち大黒井手構築については、次のような話がある。
慶長十五年、大川野村に、井手普請の命が下ると、村民一同が建n宸訪れて、住持の可休に
「この度、いよいよ井手普請が始まることゝなりましたが、私共はこれまで七年間のお城普請に疲れ切つております。それで長くとは申しませぬ。ここ、一二年の御猶豫を願つて頂けないものでしょうか。お住持様に御盡カを、お願いに参りました」
これを聞いて可休は
「井手普請のことはかねてから聞いていたが、いよいよ始められるのか、それは眞に結構な話、これまでのお城普請は殿様のものだが、こん度の普請は全く百姓のものだよ。よくよく考えて御覧よ。川西に大きな溝が出来たとして、殿様は一盃の水をも飲まれる訳でもあるまい。こん度の普請は恐く百姓のためで、毎年水不足に困っていたところに、房々と稔る稲穂を想像したら、苦しくもあろうが、この勤労の報酬は、確實に現われるよ。これは子々孫々まで、感謝されるにきまっている。人は目先きのことばかり考えなくて、後世まで感謝されるような仕事して置くことが大切だよ」
と、意外の言葉に、百姓共は互に顔見合せて、不承々々に引き取った。
工事は毎年十月から、翌年三月までの、農閑期を利用して、三ヶ年完成の豫定であった。ところが第三年目の八月になって、大洪水が起り、九分通り出来上った井堰を、跡形もなく押流して終った。これにはさすがの廣高も困りはてた。この時可休は密に献策して
「川中に中島を築き立て、水流を二分し、その一方に用水の取入口を設けることゝしたら、工事も容易く、被害も軽くて済むと思います」
と、彼の考案の設図を差出すと、廣高はこれについて一々説明を求め、その明確な答辯に納得して、これに従うことゝした。
これより工事はすらすらと進行し、元和元年の三月には、一應水路も完成して、用水の疏通を見た。それで廣高は、可休の功に報ゆるため、十石の作取りを許し、井堰の大石に大黒天を刻んで、大黒井手と名づけた。
ところが図らずも意外の珍事が突發した。元和三年十一月のことであった。唐津藩の家老原田伊豫が、吉祥天参拝のため建n宸ノ至り、その木像を取上げて見ると、その下からー枚の画像が現われた。これは茨の冠を頂いたキリストの繪像であった。原田はかねてより、自分の設計した井手普請が失敗し、可休の設計が成功したのを心よからず思っていたところに、天下の大禁にそむいてキリストの画像を匿していたので、直に可休を捕えて糾問を始めた。
一体この画像は、前に山本三鉄と言う僧が秀の前に贈ったマリヤ観草が、岸岳没落と共羞に焼失したことを開いてわざわざ中國から送って来たもので、可休はこれを吉祥天の下に匿して置いたのだった。それで可休は如何に責められても、事實を語らなかった。
この時、廣高は、江戸滞在中だったので、原田は事が長引いて、表面に現われては一大事と考え、「不都合のかど是あり.死罪申付ける」と翌日、長野原で斬罪に処したのだった。
村の者は可休の残骸の前に泣き伏し、中には家老の無情を詰り、悪罵を浴せるので、原田は一同を退散させるため、本堂に火をつけた。民衆尊崇の的であった吉祥天も、忽ち灰燼となった。それで群衆の憤怒は忽ち爆發して、大川野庄屋方に押寄せ、めちやめちゃに打こわした。これに驚いた伊豫は、直に唐津に騒け戻り、城兵二百を練り出す手筈を定めた。
この時、塚本伊織が汗馬を駆って建n宸ノ乗付け
「静に、皆さんお静に願います。あとは拙者にお任せ下さい」
と呼ばわると群衆は漸く退散して、大事に及ばずして済んだ。
第八節 大騒ぎ黒船焼打ち
唐津城址の上段の北端に一門の大砲が、玄海洋に大きな口を向けている。こう言えばえらそうに聞こえるが、實は口径二十センチ、砲身の長さが二米五十の、錆はてた古い砲身だけである。この大砲の由来について、そのあらましを記すことゝしよう。
時は正保元年(一六四四)の六月八日の早朝、唐津湾内〜高島と姫島との中間〜に、一艘の黒船がいるのを見つけて各所の遠見番から報告が来るので、城主寺沢兵庫頭堅高が、直に天守台に登って、遠眼鏡でこれを見ると、小山のような黒船と、乗組員四・五百人も居りそうで、旗や兵器をつらね、数十艇の西洋砲を揃えているので、城中はもとより、城下も大騒ぎとなった。堅高は直ちに命を下して、船奉行池田新介を始め、それぞれの掛りに出船の用意を命じた。九日の暮方には唐津藩の先陣は、数十艘の小舟で黒船を遠巻きに取囲んだ。十日の午頃には、筑前黒田藩の先陣も、姫島の南方四里ばかりの処に碇を下して待ち構えた。十一日の朝には黒田藩の後陣も、数百艘の小舟で黒船の北方を取巻いた。かくて両藩の舟数百艘が、十重、廿重と取巻き、筒口揃えてだんだんと近寄るので、黒船は大いに驚いて、唐津勢の方をさし招き、何やら呼びかけたけれど、言葉が通じないので、近寄る船は一艘もなかった。やがて午の刻頃、黒船から銅薙、チャンメラを吹きながら、年の頃二十歳ばかりの大將が、金の冠に赤地の装をして、五、六十人の供を連れ、船矢倉に登り、我が方に向つて頭を下げて拝んだ。
唐津藩の先陣岡田七郎右衛門の船から、佐々木兵介が三十匁筒で、彼の大將をねらい打ちに、一發どんと放つと、大將は船矢倉から眞逆様に落ちた。彼の左右の者は大に驚き口々に騒ぎ立った。
そこに黒田勢から二、三十匁筒で撃ちかけ、三人を打ち落した。乗組員は皆船内に逃げこんだ。すると直に二十四挺の大筒から、一度にどつと打出した。その声は百千万の雷が、一度に落ちたように、山海を震撼させた。けれども余りに近寄っていたゝめ、弾は遠く飛んで高島の北側の岩を、十丈ばかり崩したのみで、我が方には一人の死傷者もなかった。この時両藩で用意していた柴舟に火をかけ、風上から流しかけると、火は遂に黒船に燃え移り、焔硝箱が爆發して、大地も崩るゞばかりに震動し、海面は一面の火と燃え上り、四、五百人の者は、哀れにも高島沖の藻屑となり、さすがの大船も忽ち海底に消えて終った。
かくて両藩では、沈んだ船から大砲の引揚げを申合せ、海士を入れて、網を以て巻き上げた。その品は唐津藩に八挺・iェ藩に六挺、このほか十挺ほどは海底に残しでおいた。
現に唐津城址にあるのが、その中の一であると傳えられている。
さて、その時の模様を想像すると、彼の蒙古襲来の記憶が、まだまだ強く残っていた時だったので、我が方の驚きは無理もあるまい。とはいえ、何の抵抗もしなかつた点から見ると、何か故障を起して救助を求めていたものらしい。言葉が通じなかつたため、無理打に打沈めたとは、實に無慈悲なことをしたものである。またこの船は何國のものか、王冠もようの紋章があるけれど、余りに腐蝕しているので、何とも判定がつかぬ。正保元年と言えば、紀元一六四四年に當り、ヨーロッパでは、恰度三十年戦争の末頃で、各國とも多年の戦争に困りはてゝいる時である。さて何処の國の船であったのか知ら?
第九節 島原の乱と唐津藩
唐津藩初代の領主寺沢廣高は前世天主教の洗禮を受けていたが、後には再び佛教に歸つた人である。関ケ原の戦後、天草島を領することゝなつてから、領内の天主教徒に對しては、別に害を及ぼさない限り、検べあげて罰するようなことはしないで、割合に寛大に取扱っていた。されど一般領民に對しては、なかなか過重な税を取り立てゝいた。
例えば、桑木税とか、紙木(堵)税、茶の木税などを設け、この税は米を以て納めさせていたので、これら畑地の農民は、殆んど食う米はなく、稗や粟などに野菜を混ぜた粥をすゝつていた。佐賀領の百姓が、米の飯を食っているのを見て、佐賀領に出稼に出たものが多かった。ということである。
廣高自身は粗衣粗食で範を示していたけれど、二代兵庫堅高になると、次第にぜいたくとなり、そのため費用の不足を来し、租税の他に種々の運上金を取立たので、領民の不平は高まる一方であった。これは唐津地方の農民の實情であるが、天草島の人民も推して知ることが出来よう。
@知名の浪人たち
さて、天草・島原地方に隠れていた浪人の中には、天主教信者が多く、その中には、前には、相當の地位にあった知名の士も多かつた。ではその中の主な人々の素姓を調べて見ることゝしよう。
大矢野松右衛門 もと本多出雲守の家臣で、主君の待遇に不平を起こして脱走し、天草に隠れて、剣法や兵書を教えていた。
森宗意 もと小西行長の臣で、関ケ原の役後は天草に隠れていた。佛教にも、キリスト教にも精通していた人である。
戸塚忠右衛門 小西行長の臣で、関ケ原の役後天草にかくれ、村の子弟に武術や、学問を教えていた。
千々輪五郎左衛門 加藤清正の家臣で、父も五郎左衛門と言って、秀吉の朝鮮彼に、勇名をとゞろかせた人である。子の五郎左衛門は、加藤氏の没落後天草に移った。
赤星宗帆 宗帆の租父は赤星主馬と言って、岐阜秀信の近臣であった。父の主膳は大阪城で討死し、子の内膳は遁れて天草に入り、宗帆と名を改め、針醫者となっていた。器用な性質で、表具など紙組工をして、生活の糧を得ていた。
天草甚兵衛 本姓は阿曾沼と言った。昔、藝州中村の城主であったが、落ちぶれて天草に移り、代々天草氏を名乗り、この地方人から尊敬を受けていた。性質が無慾淡泊で、次第に貧乏となり、後には妹聟の渡邊小左衛門から、仕送りを受けて、さゝやかな生活をしていた。
天草玄札 甚兵衛の伯父に當る人で、醫腑を業として、淡泊で仁慈の心が厚く、且つ名家の一族のことゝて村人の信用も厚かった。
渡邊小左衛門 本姓は増田氏とか、もと長崎の生まれとも言った。島原領原村の大庄屋渡邊家に養子に来た人である。この渡邊家は十三ケ村−一万石−の大庄屋なので、家産も富裕で、村民をよく救助するので、村民から親のように尊敬されていた。
天草四郎時貞 渡邊小左衛門の子で、母は天草甚兵衛の妹である。容姿秀麗、性質至って鋭敏で十六才の時にキリスト教の教義に通じ、~童の譽れ高く、天草に渡り伯父甚兵衛のもとにいて、千々輪五郎左衛門の門弟となって、武藝を修めていた。それで芦塚や大矢野等を始め、多くの浪人と知合となった。たまたま寛永十四年十月天草鳥に行って見ると、丁度一揆が超つている時であった。かねてより藩士の横暴を憤慨していた四郎は、民衆を救助し、宗門を再興しようと義憤を起し同志に推されて一揆の統領となったのだった。
A島原藩の暴政
一揆が蜂起するに至った事情をたづねると、この地方の住民は宗教上の自由を奪われ、その上に重税を課せられ、重く奴隷の境遇に、追い詰められていたので、ひたすら救世主の降臨を祈つていた。そこに前に述べた名士達が、前途の光明もない生活をつづけているので、決然起って運命の開拓を計ったのも、やむにやまれぬことゝ思われる。一体この氣運を作り上げたのは、寺沢氏と板倉氏の暴政であることは言うまでもない。
唐津藩の悪政は前に述べた通りであるが、島原藩の暴政は、更に甚だしいものであった。領主板倉重政は大のキリシタン抑圧者で、自らキリシタンの本國を攻めつぶそうと、幕府に願い出たほどの人で、その子勝家もまた父に劣らぬ抑圧者で、領内のキリスト信者を検べ出して、これを斬罪に処するやら、島原の温泉地獄に投げこむやら、この世の地獄をまざまざと領民に見せつけて、改宗させようとした。けれど領民の信仰は却って固まるばかりで、表面は改宗したように襲うて、内心は益々固まるばかりであった。
この内情を知った小左衛門は、村民を諭して、陰忍に陰忍を重ねていた。
前にキリスト教厳禁の令が出た時、これに従わない者は國外に追放された。この時天草の上津村にいた一人の宣教師が、今後何年かの後に、暴君は皆死んで、救世主が現われる。その時は天が紅く焼け、諸々の木は時ならぬ花を開く。と預言して去った。
それから二十数年後の寛永十三年の夏から、時の将軍徳川家光が病氣となって、十四年の夏になっても引きこもっていたので、將軍薨去の噂が立った。恰度その頃、九州地方は好天氣つゞきで、西の空には毎日赤い雲が現われ、種々の木には時ならぬ花が咲いた。この時天草島の大矢野村に、四郎時貞という美少年が現われ、十六歳でキリスト教の教義を説いたので、信者共は彼を救世主の降臨と信じ、宗門再興の時が来たと考えるようになった。
實は大江村の庄屋に治兵衛という者がいて、その家に隠していたキリストの画像を、天草玄札が盗み出し、これを赤星宗帆に表装させ、密に治兵衛方の佛壇にかけておいた。治兵衛がこれを見て打ち驚き、早速玄札を呼んでこれを見せた。玄札は眞しやかに、宗門再興の時が来たと説き聞かせた。治兵衛を始め、家族一同がこれを聞いて、涙を流して喜んだ。この事が忽ち四方に傳わり、村村の男女が連れ立って参拝に集った。
これを知った代官等が、治兵衛方に行ってその画像を取ってひき破ると、一人の百姓が、あまりの乱暴に驚いて、これを止めようとすると、代官が抜き討ちに斬り倒した。これに驚いて立騒ぐ百姓を、また一人斬り倒した。これを見た大矢野松右衛門が耐えかね、代官十左衛門を斬り倒すと、芦塚忠右衝門が立ち向う他の三人を切り倒した。これに恐れて他の役人は逃け出した。
あとには百姓共の、重なる日頃の恨が一時に爆發して、棒や鍬を取ってその死体を滅多打ちに斬りきざんだ。
かくて時間がたつにつれて、百姓共はだんだん鎮静すると、画像は破られ、代官は殺されていることに氣がつき、たゞぼう然としていた。これを見て玄札が
「天下の大禁を犯した上は、とても死罪は免れぬ。こうなるからは、一同團結して、宗門再興のために、一命を捧けようではござらぬか」
と言うと、一同は忽ちこれに従った。時に寛永十四年(一六三七)十月廿日のことであった。
B唐津藩から援兵
天草富岡城では、城代三宅藤兵衛が手下に、武士三千騎、小銃五十挺、雑卒百人ばかりが居るのみで、数千の賊徒に對しては、如何ともすることが出来ないので急を本國唐津に知らせ、至急援兵の派遣を請うた。
唐津では知らせによって家老原田伊豫を指揮者として、八十余人の武士に、雑卒千八百人を添えて十一月五日唐津を出帆し、折からの難航をおかし、天草に着いたのは同月十日であった。
この原田伊豫は、かねて三宅藤兵衛に不満を抱いていたので、直に富岡城には行かず、島子村の西方寺に屯することゝした。西方寺には芦塚忠右衛門が僧服をつけて、住職と偽り、酒肴を用意して、大に歡待し、その油断に乗じて兵器、弾薬を盗み、夜半になつて寺に火を放ち、俄に起って攻め立てたので、唐津勢は散々に打ち負され、賊は勝に乗じて富岡城を攻め圍んだ。然し城は要害堅固で、守將は用意周到の三宅藤兵衛である。なかなか落ちそうにないので、賊は方向をかえて島原に渡り、原城の古地を取ってこれに據った。
これより前、島原領ではキリスト教徒を圧迫すること残酷を極めていたので、これに耐えかねて遂に暴動を起したのだった。
寛永十四年の十月廿五日、島原額有馬村の百姓等が大勢集まってキリストを拝んでいることを知つた代官林兵左衛門が、部下数人を連れて逮捕に向つた。すると百姓共は、かねて深く憎んでいた代官が来たので、これに反抗して遂に殺して終った。大罪を犯したことに氣づいた百姓共は、却って反抗心を昂め、村々を説き回って、原村を始め、十三ケ村悉く團結するに至った。
島原城ではこのことを聞いて、少数の兵を以て鎮圧に向つた。すると賊は眼に余る大勢なので驚いて城下に引返した。賊はこれを追撃して城門に迫り、破壊に取りかゝつたゝめ、城兵は必死に防戦して、漸くこれを退けることが出来た。この時城中に内應者があることを知って、その内應者三十余人を誅し、日田(豊後)に知らせ、一方には熊本の細川氏と、佐賀の鍋島氏に、援兵の派遣を請うた。
この両藩では、武家法度に、隣國に如何様のことがあつても、幕府の命がなければ、兵を動かしてはならぬとあるので、たゞ兵を集め三て國境を守っていた。それで天草の賊徒が島原に渡って、原城に合同することが出来た。
十二月四日、急報が大阪城に着いた。城代阿部正次等が、京都所司代板倉重宗と謀って、板倉重昌(重宗の弟)に命じてこれを征伐さすることゝした。重昌は島原に至り、原城を取り圍んだが、要害堅固でたかなか攻め落すことが出来ず、空しく時日を過すので、幕府では討伐が長ひくため、改めて老中松平信綱を派遣することゝした。重昌はこれを以て自己の不名譽と考え、急に攻め落そうとして戦死した。
C農民軍戦ふ
さて、信綱が實地に来てみると、原城は三方両に圍まれた断岸絶壁の上に築かれているため、容易に攻落することが出来ないのを知るや、長圍の策を立てゝ、兵糧攻めにすることとした。これから賊の勢は次第に衰えて来た。かくて信鋼は賊勢の衰えたのを察し、二月廿六日(寛永十五年一六三八)を期して、総攻撃を始めること定めた。ところが、二十五日から犬雨なので、決行を廿八日に延ばすことゝし、廿七日は早朝から、戸田氏鉄の陣所に諸將と会して、軍議をこらしていた。
この日巳の刻(午前十時頃)になって、鍋島勢の陣地から、敵状をうかがっていると、三の丸から二の丸には、敵兵が見えなくなったので、榊原左衛門佐と言う當年十七歳の青年が、原城の一番乗と呼ばわって、二の丸に騒け上った。これを見た父の榊原飛弾が、我が子討たせてなるものかと、後を追うて駆け上ると、他の鍋島勢も一度にどっと攻めかけた。これを見て他の陣所よりも、一斉に總攻撃を始めたので、浮足立った賊徒は忽ち崩れかけて、増田四郎を初め、領袖等一人も残らず、花々しく戦死をとげた。翌廿八日、原城は全く官軍の手に歸した。
乱が平定してのち、島原領主松倉勝家は斬罪となり、家は断絶となつた。
寺沢堅高は天草の四万石を削られ、もとの波多領八万三千石となつた。
この騒動は、三万五千の農民事に對して、官軍の出動したもの凡そ十二万四千、戦死者千二百、負傷者七千と記されている。その中で寺沢軍の戦死者は三十二人、負傷者三百五十人であった。寺沢軍の死傷者が少かったのは、出兵数の少かつたことゝ、籠城戦であつたゝめである。
また賊徒の方は、天草四郎を初め、領袖皆討死し、農民の殺された者は、その数は明かでないが天草・島原の住民が盡きたと言われたほどだから、如何に多数であったかは、想像のほかであろう。
この一揆に對する幕府の對策を見るに、僅か三万の農民軍に對し、鍋島・細川・黒田の雄藩を初め、九州の大名ほとんど全部を動員し、オランダの商船までも参加させるとは、あわて方も甚だしと言えよう。まして一番乗の戦功者鍋島直茂を、上司の命に背いた科で、閉門申付けたり、必勝を期した攻撃に戦死した板倉重昌を以て、無謀の戦をしたとの理由で、その子重矩に逼塞を命ずるなど、珍妙な処罰である。とはいえ、松平倍綱は時の將軍家光の懐刀であり、老中中の智者である。
されば彼の目標は他にあったことゝ思われる。
下 篇
第一節 運命の子 塚本伊織
この日は大河野建n宸ノある吉天の祭日で、近郊近在から、盛装こらした村の若い男女を始め、大人も子供も、打連れて参拝する紋日なのである。
天正十七年三月十日のことであった。波多三河守親が、小姓の塚本伊織を連れて、吉天参拝に見えた時、可休の養女お雪と、伊織がよく似ているところから、その素姓を尋ねて、お雪は山本右京の嚢お才が、西の岳の雪の中で産んだ子で、伊織とは従兄妹に當ることが明かとなったので、三河守夫婦の媒酌で、夫婦となしたのであった。
さて、山本右京の一子に勝之助というものがいた。彼の母がお雪を産んで、直に死んだとき、勝之助は村の者に助けられ、のち總持寺(西松浦郡山の寺)の玄海和尚に助けられて、舟出島の普濟寺に入り、僧となって名を三鉄と改めた。三鉄はこゝに居ること五年のゝち、天台山に登り、こゝに居ること三年にして、山を降って台州に至り、これより舟山島に帰る途中、大風に遇って船が難破し、漂流しているところを、通りかゝりの南蛮船長マテオ・リッチに助けられ、南京に行って、キリシタン信者となった。
天正十五年、豊臣秀吉がキリシタン禁止令を出した時、マテオ・リッチが三鉄に頼んで、禁止の實情を探らしめた。三鐡は旨を受けて日本に帰り、その序に父母の墓参に拝すると、墓前には建n專c代可休・塚本伊織・同お雪と記された供物が、捧げられていた。それで建n宸訪れて見ると可休は父の無二の親友であり、伊織は従弟に當り、お雪は實妹であることが分り、且つ三河守夫婦の媒酌で、二人は夫婦となっていることも分った。それで三鐡はお禮のため、可休の先導で岸岳城に至り、厚く謝辞を述べ、中國から持参の、白大理石で刻んだマリア像を献上した。この時三鐡が観音教に説いてある大慈大悲は、マリア様の愛の教えと同一で、つまり観世音菩薩を信仰することは、マリア観音を信仰することゝなると説いたので、これより岸岳城中にはマリア像が祭られるようになった。
三鐡は岸岳城に留ること一月ばかれで、こゝを辞して総持寺に去った。伊織は三鐡の博学を慕い、三河守の許しを得て、その後を追うて山の寺に行った。寺には六助という青年がいて、外國貿易に關する、いろいろの研究をしていた。伊織は志を同うする先輩に遇って、大に意を強うし、互に肝胆相照らして語りあう仲とはなった。こうして居ること毎年ばかりで、六助は本國堺に帰った。
これより前、寺沢廣高は秀吉の内意を受けて堺の商人に変装して、九州各地を視察した際、總持寺に行って玄海和筒に遇い、海外貿易の有利なことを開き、密に家臣の並河六郎兵衛を商人に変装させ、その實情を研究させていた。六郎兵衛は事情を藩に知る把は、キリシタン信者となるのが、早道と考え、廣高に勧めて共にキりシタンに入ったのであった。
それから一年余を経て、文祿三年となり、波多氏は没落し、寺沢廣高がその遺領を支配することとなった。この時、近松寺の耳峰禪師が、領民懐柔策として、塚本伊織の登用をすゝめた。
伊織は前に總持寺に留学していたが、三河守が朝鮮出陣の留守役として、呼びかえしていたので廣高は六郎兵衛を遣わ、伊織の出仕を懇請させた。伊織は六郎兵衛に遇って見ると、先年の六助なので驚いた。六助は腹蔵なく内意を打明けて、波多領民のために、彼の出仕を懇望するので、好意もだし難く、嗣子彌太郎君の取立を條件に、寺沢氏の下に留ることになった。
それで伊織は彌太郎の名代として、領内を巡回して、各々家業を励んで、彌太郎君の復活を待つよう説き勧めた。元来松浦地方の住民は、半農半賊で、この度の朝鮮役には、飽いているところに主君が流罪となったので、彼等もあるいは祖先の地から逐われるのではないかと、内心不安にかられていた。そこに伊織が来て、情理をつくして説き諭したゝめ、一同は安心して、家業に精進するようになった。
廣高の伊織登用は、豫想外の効果を収め、領民は至って平穏に、その年も無事に過ぎ、翌文祿四年も早や暮近くなったのに、何ら動揺の色も見えなかつた。されば秀吉が廣高に對する信用は益々厚くなるばかりであった。こんな事情のもとに、彌太郎の病氣は俄に悪化し、とうとう十二月の中の八日に、この世を去ったので、廣高は名實ともに波多領の君主とはなった。
伊綾は、これまでの苦心が水泡に帰したので、妙安尼に逢って、寺沢氏から辞去したいと語ると妙安尼はこれまでの、一切の秘密を打明けて、伊織の翻意を求め
「先年名護屋城中で、朝鮮陣の即時引揚げを願つたところ秀吉公は殊の外の御立腹で、妾は城中留めおきとなり、お手討となるところを、志摩殿の嘆願によって、御助命となった。また彌太郎取立の嘆願をしてくれたのも、志摩殿であった。それでお前を彌太郎の名代として、岸岳に留め置いたのも、その好意に報ゆるための、妾の心づくしであったのじゃ」
との話に、伊織は始めて廣高の好意のほどを知り、衷心より感謝の念を起し、寺澤氏に留まることゝしたのであった。
かくて慶長元年となり、二度目の朝鮮役が起ると、廣高は伊織を留めて、領内の治安に當らしめたので、伊織夫婦は幸に平和な家庭を楽しむことが出来、翌二年には長女お露をもうけた。
翌三年には秀吉の薨去となり、在韓軍の引揚となった。だが、この頃から国内は何となく不穏の空気が起り、超えて慶長五年には、とうとう関ケ原の大戦争となった。
この戦争に寺津廣高は徳川方に協力した功によって、天草四万石を加増され、一躍して十二万三千石の大大名となり、新に唐津城を築いて、唐津藩の開祖となった。
唐津城の構築に當つては、伊織は人足奉行となり、直接領民と接触していたため、彼等の苦痛の實情は、最もよく知っていたので
「皆の衆の苦労のほどはよく分つているが、この御普請は我々に負わされた借金見たようなもので、お互に協力して、一日も早く返済するより他に仕方はないから、まあまあ我慢してやってくれよ」
と優しく諭して回った。
かくて七ヶ年の年月を経て、慶長十三年の秋になって、漸く出来上ったのだつた。
ところで、この長い間の苦労に封して伊織が報いられた恩賞は、たゞの一本の短刀一口であった。おもうに、廣高として多年の入費で、多額の賞與を與える余裕はなかったのであろう。さればこの財政の窮乏を切抜ける手段として、領内各処に、開墾や、干拓を始めた。この工事は慶長十四年に始まり、元和二年になって、ほぼ完成したので、改めて領内全体の検地を行うことゝした。
すると、これまで各処た散在していた隠田の摘發となり、石高六万六千石のものが、新高八万三千石となり、且の段當りの石盛は改正され、茶畑や、桑畑や、楮畑までも、米租を以て納めるよう
定められたので、百姓の苦痛は益々甚だしくなり、三河守の旧政を慕うようになった。
これより前、慶長十四年伊識はお雪との間に、男児伊太郎をもうけたので、二人は俄にこの世が明るくなり、ひたすら伊太郎の成長を楽しんでいた。
然るに、元和三年になって一大不祥事が突發した。即ち田代可休がキリシタンの疑を受け極刑に処せられ、寺は焼かれ、吉祥天も灰燼に帰した。この時お雪は吉祥天を助け出そうとして大火傷を負い、それが因となって翌四年の正月、ついに不帰の客となった。伊織はこれより世をはかなみ、娘お露に市助の倅平太郎を養子に迎えて、家を譲り、自ら久保に隠居して、伊太郎相手にわびしい年月を送つていた。
その後、元和八年になって山の寺總持寺から三鐡死去の通知状が来た。開けて見ると昨年十月三鐡がoBで病死の際の遺言状で、泉州堺の美濃屋に預けておいた品物全部を、伊繊夫婦に贈与する旨が記されてあった。その目録中の主なるものを擧けると、珊瑚や、ひすいの玉、青磁の香炉や万歴赤繪の鉢、ペルシャの緋毛氈、南蛮裂のギヤマンの盃、ガラスの鏡、ジャ香や白檀香など、日本人にとっては實に珍貴な品々ばかりであった。伊織はこれを読んで有難涙で押戴いた。
これより数日の後、伊織は伊太郎を伴つて久保村を去った。時に伊太郎が十四歳の頃であると言われている。この伊太郎はすなわち後の幡随院長兵衛である。
この話は後人がでつち上げた物語であり、大川野地方では、かく信じている人が多いようである。
第二節 唐津藩主六代替る
@寺澤氏
寺澤氏は紀氏の出で、尾張に住んでいた。廣正の時、織田信長に仕え、信長の死後は、子の廣高と共に豊臣秀吉に仕えたが、その領地は明かでなく、あるいは丹波rm山で、二万石を領したとも言われている。
初代廣高は秀吉に認められ、抜んでられて波多氏の旧傾八万三干石の地に封ぜられ、一城を築いて唐津藩の開組となった。関ケ原の戦に、東軍に属し、功を以て天草四万石を加増され、十二万三千石となり、平戸、五島、壹岐、大村、伊豫の高原氏などを與力として、西海の重鎮となつた。
二代堅高は、廣高の第二子で長子高清が早く没したので、その後を継いで領主となった。寛永三年天草一揆の騒動となり、ために領地は没収され、改めて旧領八万三千石を與えられて、僅に滅亡を免れていた。然るに正保四年發狂して自殺したので、所領は没収され、家名断絶となり寺澤氏は僅か二代、三十二年で滅亡した。
缺主時代
堅高の死後、唐津藩は一時公領となった、この期問は正保四年から、慶安二年まで、僅かの間であった。
A大久保氏
大久保氏は本姓は藤原氏で、戦國時代の末から徳川氏の家臣となり、忠俊の時初めて大久保氏を名乗るようになった。
慶安元年寺澤氏が滅びるに及び幕府は大久保忠職を擧げて唐津に封じ、兼ねて西海の大藩監視の役に當らしめた。ところが唐津は邊境のことゝて、江戸に於ける枢要の会議に加わることが出来ないので、その不便が少くなかった。それで忠朝の時になって、總州左倉に転封となった。時に延寶七年で、三十二年続いた。
B松平氏
松平氏は徳川家康五代の組親忠の後で代々徳川氏に仕え、乗久のとき転じて唐津藩主となり、祿高一万石を減じて七万三千石となった。乗春を経て乗邑に至り、志州鳥羽に転封となった。延寶六年より元祿四年に至る三代十四年間であった。
C土井氏
土井氏は土岐源氏の流で、利勝のとき姓を土井と改めた。元祿四年、利益の時に至り、唐津にに転封され、以来七十二年の間、利實、利延、利里の四代を無事に過ごし、寶暦十二年に至り、突然總州古河に転封となり、唐津を去った。
G水野氏
水野氏は清和源氏の出で、多田満仲の弟満政の後と称せられ、尾張國(春日井郡水野村)に居たので、水野を以て氏とした。代々徳川氏に臣事し、幕府の枢機に與かっていた。
寶暦十二年、忠任が三河國岡崎よら移つて、唐津藩主となり、入部以来緒制度を改め、主として租税収入の増加を計ったので、領民の反感を買い、明和八年には百姓一揆の爆發を見るに至った。騒動は領主の譲歩によって解決された。
忠任の後、忠弼、忠明二代は無事に過ぎ、次の忠邦に至り、唐津領六万石は、實績はこれ以上ありとして、その余剰分一万石を割いて葛府に献納し、功によって遠州濱松に転封となつた。
案ずるに、水野氏は宝暦十三年入部以来、五十五年の間に、一度は百姓一揆を誘發し、また唐津を去るに當つては、莫大の農地を削減して、領民に永久の背痛を遺した暴君であったと言わねばなるまい。
E小笠原氏
小笠原氏は新羅三郎義光の後と称せられる。小笠原秀政の時、徳川家康に属して、その女と結婚し、徳川氏と最も縁故の深い家格となった。
長昌の時、文化十四年(一八一七)奥州棚倉より唐津に移封となり、長泰、長会、長和を経て、長國に至り、明治二年の藩籍奉還に及んだ、この間實に五十有二年であった。
因に、幕末の老中長行は、長國の養子で、藩主としてではなく、養父に代って藩政を見た名君であった。旧藩士子弟の東京遊学にえて明治十一年十一月三日邸内に学塾久敬社を創設、今日なお現存している。
第三節 義民富田才治起つ
@一揆の原因
江戸幕府も明和時代となると、所謂田沼の悪政期に入り、綱紀はゆるみ、物価は騰貴し、民衆の生活は益々困難を告ぐるに至った。この時に當つて、享保以来奨励された庶民教育の効果が、漸く現われ、農民は最早昔の愚味、盲従から覚めて、嘆願、強訴等、多勢の力を集結して、諸税の軽減を計るようになっていた。されば幕府も禁令を出して、これらの運動を厳禁したことも度々であった。
こんな時勢に當つて、唐津藩では七十余年の間、平穏無事の政治をして来た土井氏が、突然總州古河に転出し、三州岡崎から水野氏の転入となった、時は正に宝暦十二年であった。そもそも水野氏は、元和の初めは僅かに三万石の小祿であつたのが、寛永より宝暦に至る約百二十年の間に、封を替ゆること五回、祿高六万石となった。然し度々の転封に、財政は充實する暇なく、常に新領地の遺利を追求するに急であった。されば今度新に唐津藩に臨んで、領内を一巡すると、永川、砂押水洗など、御用捨地と称する免税地が、数多く存するのを見て、これに課税する時は、一万数千石を得られる見込が立った。
永川とは河邊の遊水池のことで洪水の時は忽ち水浸しとなる低い処で、川と同様に無税地としてあった。これは寺澤廣高が、特に洪水の害を免れるために、保存させていた処である。
水洗とは洪水のため、土壌を洗い去られた處で、砂押とは洪水のため土砂が押被さつた処で、この二者はまだ耕作地とならない間は無税地であるが、復旧の上は無論租税を納めることゝなっていた。
さて租税の収入を増す事ばかりを考えていた松野尾嘉勝治、小川茂手木の両人は、以上の三地目に課税する時は、約一万五千石を得られることを説いて、いよいよこれを實施することゝし、明和八年の三月から、實地の測量に取りかゝつた。
また草野組の諸村には、楮三万本の植付を命じ、毎日これを駆使したので、農民は家業に従事することが出来ず、怨嗟の声が至る処に起っていた。
A虹の松原に勢揃い
明和八年七月十九日の正年頃、名護屋村の城番から、昨夕の夕方から、今日の明け方まで、城山の頂上に、燈籠大の火の玉が見えたと唐津奉行所に報告して来た。
翼二十日の朝八時頃、鏡村の郷足軽脇山茂左衛門から、何処のものとも分らぬが、百姓風の者凡そ七八百人、みの、かさ、鍋などを持って、宮の原−鏡~社前−を通りぬけて虹の松原に行った旨を報告して来た。すると松野尾がこれを受けて直に郡奉行所に行つた。郡奉行古市四郎右衛門がこれを受けて登城すると、その後にまた一人の足軽が、私の村の百姓共が、夜前から行方不明となりましたと報告して来た。
こんなに翌廿一日の朝にかけ、村々から同様の報告が集まつたので、城中では大騒ぎとなって、家老、郡奉行、代官等が相ついで登城し、種々評議をこらして見たが何ともよい方法が決らないので、取りあえず代官から庄屋に對して、その方共、早く松原に行って、早速村々に引きとるようにいたせ。願の筋があれば申出でさせ、事柄によっては、これを取り次げと申し渡した。
さて松原では、御料地(幕府直轄地)濱崎村との境に近い処に、庄屋共は小屋を作り、高張提燈を掲げ、警戒を厳重にした。
庄屋共が百姓の屯所に近寄ると、百姓は一丸となって、御料地に逃げこんだ。これは幕府の法度に、他藩の役人が他領に入つて、勝手なことをしてはならぬようになっているので、兎も角唐津領に移るように諭すと、百姓共は何の應答もしないので、庄屋共は何とも手の着けようがなかつた。
一方百姓共は、まだ参加しない村々に對して、早く参加しないと赤牛(火)をかけるぞとおどかしたので、村々よりは急いで参加し、人数はますます増加した。
廿一日の午後三時頃になって、六人の代官が松原に行って「その方共は何故に集まつたか。願の筋があるなら申出でよ。事柄によっては勘辯してつかわすから、兎も角早速村々に引き取れ」と申渡した。この時御領地と唐津領との境界のところに、願書一通を竹に狭んで、立てゝあるのを大庄屋が見つけて、これを取って代官に差出した。願書の要点は
一、永川は志摩守様が調査の上、永川となされたもの故、先代通りにして頂きたい事
一、砂押、水洗は、田畑に復旧の上で、年貢を納めるようにして頂きたい事
一、年貢米を御蔵に納める時の四方霜降は、先代通りにして頂きたい事
(四方霜降るとは、桝の面を、かき均らさずにおくことで、霜の降らし方で、分量に違いが出て来る)
一、刺抜米は戻して頂きたい事
(刺抜米とは、米質検査のため、米俵に刺を入れて取り出した米のことで、各俵から取り出した量は、相當の最に達したものである)
一、楮は諸國の賣買値段で、持主が自由に賣つてよいようにして頂きたい事
(水野氏は楮を藩で安く買い上げ、他は高く拂下げて、その間に利益を収めていた)
一、諸運上は先代通り、物納にして頂きたい事
(運上とは、今の営業税のようなもので、商工業者著に課せられた税金である)
一、新規の運上は、取止めて頂きたい事
一、運上係の役人が、勝手に決める事を止めて頂きたい事
この願書を受取った後、松野尾が百姓の方に進み出て「その方共はお上を恐れず、法度にそむき大勢徒黨を組むとは不届の至り、きつと処分さるべきの処、特別のお慈悲を以て、この度はお免し遊ばされるから、早く村々に引取れ」と高声に呼ばわると、群衆中の一人が笑い出した。すると多くの者が手を拍つて騒ぎ出した。それで渡邊三太夫が穏かに「こうして居られては、我々の役目相立たぬから一同早く引き取ってくれ、願の筋は何でも申出ると、よいように取計ってつかわすことにする」と言うと、百姓共は静に平伏していた。それで代官は、こゝから二三町後ろに退いて、その後の模様を見ていると、百姓共は一向に引き取る様子が見えず、夜もだんだん更け行き、群衆の動揺が見え出したので、松野尾を初め、代官一同は引き揚げた。
B立派な統制ぶり
さて一揆の統制は、實に立派なものであった。屯所の処々に張られていた注意書を見ると
一、無益のことに上に對して雑言をいたすまじき事
一、役人衆より引きとるように言われても、決して物言うまじき事
一、同士喧嘩を堅くいたしまじき事
一、屯の内え疑はしき者入りこんだ時は、直に召し捕り、拷問にかけ申すべき事
一、百姓の内、一人にても捕えられた時は、直に申合せの通りいたすべき事
右箇條の趣き、堅く相守るべきもの也
とあった。これ等の條々は、一同よく守っていたようである。
これより前へ十二、三日頃、一通の回文を持って、郡中を回った者があった。その回文には
一、永川の事
一、御蔵米、桝の上の事
一、刺米御取りなされる事
一、楮御買上の事
一、諸運上の事
そのほか何事によらず、御先代御仕置の通りに願い上げるから、當月廿日朝六ツ時より、二里の松原御領境え、お出でなさるべく候事
但し村役人には、堅く知らせまじき事
この時、口上で「差し定めの日に出て来なければ、赤牛をかけるぞ」と呼ばわっていつた。
さて二十二日には、総勢二万三千の領民が、虹の松原に集まった。これは當時の唐津領の總人口の三分の一に當るから、農村、漁村の壯者は、悉く参加し、家に残つた者は、老人と女子供ばかりであったことゝ思われる。
一揆の噂が忽ち隣りの藩に傳わると、佐賀藩との境には、新に関所を設けて、警戒を厳重にし、濱崎宿には、iェ、佐賀を始め、久留米、柳河等より、事情調査の諸役人が、続々と入りこんで、今明日のうちには、日田(豊後)の代官も到着するとの噂が盛んに飛んだ。
城中では、百姓提出の願書について、会議を始め、一方には庄屋共と協議を重ねて、双方の間に一通りの協定が出来たので、奉行の剣持嘉兵衛が、庄屋を連れて松原に至り、願出の條々のうち、許可を與える分を読み聞かせ、一日も早く、村々に引取るよう申渡して、彼は直に引揚げた。
ところが御領境の石に、またまた次のような訴状が張られた。
一、五分一鮪綱、魚立値の事
一、諸浦鮪綱二分五厘の事
一、干賀(肥料用の乾鰯)運上の事
一、問屋の事
一、長崎梅野新左衛門二分五厘掛りの事
御領分總浦中
とあった。漁師どもの願書のことゝて、文章も整わず、意味も通じない。役人がこれをはぎ取ろうとすると、忽ち騒ぎ出し、鯨波の声を上げて、城下に向つて進行の氣配を見せた。役人は急いでこれを寫し取り、張紙はそのまゝにして、逃げるように引き揚げた。
城中ではこれに驚き、百姓共が城下に押寄せ、どんなことを仕出すかも知れぬので、弓、鐡砲、その他の兵器を揃え、それぞれ各方面の持場を定め、合図の銃声によって、直に出動するよう、物物しい警戒を始めた。
廿二日は暮れ、廿三日も早や正午を過ぎた。百姓の結束はいよいよ固く、諸方面からの噂には、日田の代官所から、警固の役人が、今にも到着しそうなので、城中ではあせり出し、代官の入國前に解散さするよう庄屋共に申付けた。それで庄屋一同は評議のうえ、御領の庄屋横田太左衛門を証人に頼んで、百姓と庄屋と太左衛門の三人が立会の上で、條件を決めて、それぞれ居村に帰ることとなった。但し協定の條項が容れられない時は、庄屋を先頭に立て、強訴するか、庄屋の家々を踏みつぶすか、焼拂うか、勝手たるべし。との條件が含まれていた。庄屋はこの條件を百姓に示して懇に説き聞かせたので、彼等も漸く納得して、引きとることになった。
さて、許可されることゝなった條項は
一、藏納めの節の刺抜米は、その俵に返す事
一、諸浦の鮪綱は二分五厘を免除する事
一、楮の買上値段を引上ぐる事
一、楮や干賀の値段を協定の上で、藩の買上に應ずる事
一、長崎問屋の口銭は、先代通りとする事
などで、百姓の要求は殆んど聞届けられ、無事に村々に帰ることゝなった。時に明和八年(一七七一)八月九日、事件の發生より十九日目のことであった。
この時、領主忠任より、庄屋の代表者に對して「無事に解決がついて、満足に思う」との挨拶があり、庄屋より「庄屋一同を始め、百姓總てが、上様の御仁慈のほど、誠に厚く感謝しております」と申上げると、古市四郎右衛門が進み出て「御領内一人の怪俄人もなく、無事に治りましたことは、全く上様の御仁徳によることで、我々一同感涙のほかはござりません」と謝辞を述べると忠任公は目に涙をたゝえられた。
一方騒動の原因を作った松野尾、小川の両人は閉門となり、それ限りで行衛不明となった。
如何に抵抗力の弱い愚民でも、死の直前まで追い詰められると、強い反抗を起すことは、前に天草騒動で教えられていたのにも氣づかず、こんなことになったのは、當然の結果と言わねばなるまい。
Cあと始末
一揆は短時日で治まった、されど藩士の感情は、ななか治まらなかった。この一揆を統制の取れていた点から見ると、これは必ず有力な指導者があつたに違いないと見込みをつけて、その検擧に取りかゝつた。その検索の辛辣なこと、庄屋は元より、村の重立つたものは恐怖し仕事も手につかないので、これを見た平原村の大庄屋富田才治と、半田村の名頭麻生又兵衛、同じく常楽寺の智月和尚、同市丸藤兵衛の四人が名乗り出て「この度のことは我々四人の計いで他には一人もありません」と自訴して出た。
代官等はこれを取調べると、他には連累者は、一人もないことが分つた。それでこの四人を捕えて、唐津西の濱で死刑に処し晒首とした。百姓は痛く悲しんで、その死骸を盗み取り、南山村の称念寺に葬り、のち平原村の彼の住所の側に改葬して、小さな祠を立てこれを祭った。
第四節 厳木村の幕領一揆
@義民さまの石碑
東松浦郡厳木村大字浦川内の山の中に、義民様と呼ばれる小さな石碑がある。これは天保十年(一八三九)この地方に起った百姓一揆の犠牲者、町切元三郎・本山此助・川西儀左衛門三氏の紀念碑である。これからその由来をお話申上げることゝしよう。
文化十四年(一八一七)時の唐津藩主水野越前守忠邦が、唐津領六万石は七万石に相當する広さがあると言って、その中の平原組・大河野組の三地方、凡そ一万石を割いて、これを幕府に献上し功を以て遠州濱松に転封となった。その後に小笠原主殿頭長昌が封ぜられたのだった。
小笠原氏はこれより前、遠州掛川に居る際、こゝに町道場を開いていた濱島庄兵衛が、日本左衛門と呼ばれた大盗賊だったので、その素姓も確めず、城下に圍っていたかどにより、奥州棚倉に貶せられた。この棚倉は今の相知町位の片田舎で氣候もよくないところなので、忠邦は唐津額六万石の中から、一万石を減じても、棚倉に居るよりは増であろう。との好意で、こんな工作をしたのだった。
小笠原氏は、唐津入部の際に多顔の移転費を要したので、領民から租税の前借をして、やつと入部が出来たのだつた。それで直接領民に接觸する庄屋に對しては、内實頭が上らなかった。
こんな事情の下に、前に幕領となった前記の三地方は、幕府から小笠原氏に、租税の徴収を委託され、實際上の政治はほとんど庄屋の手中にあった。
この地方の租税は、検見取と言つて、二、三年毎に秋の出来高を調べて、これに課税する方法で検査の際には多額の費用が入った。これは勿諭農民の負担であつた。
また、この租米は長崎に運んで、そこの御用藏に納めねばならなかった。それで途中、運搬の際に散失する量を、一石につき三升と見込んで、それだけ多量に徴収していた。
ところで、この欠米の収支も、検見の入費も、余剰はみな役得として庄屋が着服していた。されば農民の不平は、だんだん昂まる一方であった。
たまたま広瀬村の庄屋周平が、日田代官所に出張のおり、盗難にかゝり、その損失を百姓各戸に賦課したことが、農民の知るところとなり、非難の声が大きくなった。これに驚いた庄屋共は、これがもみ消し方を協議した。正直者の東田代村の庄屋大助は、その不都合を責めたので、却って彼等の反感を買い、庄屋仲間から別鍋を喰わされた。これを知った農民は大助に同情し、庄屋に對する憎悪の念が益々昂まって来た。
こんな時に當つて、唐津藩では数年来の饑饉には、何の救恤の手を差延べなかったのみか、この度、巡検使の来藩について、多額の費用がいるので、人別銭と畳銭の新税を起した、それで農民の不平はいよいよ昂まり、今にも爆發しそうになった。この有様を見た大助は、訴状を携えて小倉に至り、巡検使にこれを提出した。
この事を知って驚いたのは、唐津藩と、御料地の庄屋であった。殊に庄屋共は、大助の口から年来の不正行為が暴露されるのを恐れ、一同相謀って、大助の吟味免除と訴状の下渡しを願い出た。庄屋共のこの策動を知った川西村の伊右衛門が近村の百姓を川上~社に集めてこれが對策を協議した。然し、この時は何のまとまった話は出来なかったので、本山村の此助の發議で、再び平山村の五社権現に集まることゝした。この時、一同は代表者数人を選んで、町切村の元三郎のところに至り、事情を打明けて、今後の運動方法を尋ねることゝなった。
さて、教えを請われた元三郎は、暫く考えていたが、静に月を開いて
「この節はなかなか容易ならぬことでござるぞ。一命を捨てる覚悟がなければ、決して成功するものではござらぬ。近い例は富田才治様でござる」
とやうと、伊右衛門が
「大助様がお気の毒でござります。我々のために一人で骨折って下さっているのに、こうして居ては‥……‥」
と涙を流しての發言に、川西村の儀左衛門が進み出て
「私の一命は差上げます」というと、此助を初めとし、伊右衛門・儀平等が続々と同調した。すると元三郎が
「口の先では、一命を捨てることは何んでもないが、實際は命を捨てる以上の苦痛がありますぞ。この苦痛に堪え得る人が果して何人ありましょうかな」
いと冷かな眠つきで一同を見回した。すると儀左衛門が
「元三郎様、あなたの御迷惑になるようなことは、決して口外いたしません。お取調に遇つてもあなたが強くお止め下さつたことを申しますから、どうぞ智慧を貸して下さい」
と強い決心のほどを見せた。すると元三郎が形を正し
「私は先年、日田の一揆に加わって追放の身となり、流れ流れてこの村に参りましたところ、皆様の厚い御同情で、今日までこうして居ることか出来ましたが、最早こうなる上は、私も皆様えの御恩報じに一命を差上げねばならぬ時が来ました」
と覚悟のほどを見せた。すると儀左衛門初め、一同は涙を流して喜んだ。それで元三郎は重立つ数十人の者を集めて密儀をこらし、自ら筆頭となり、回状に署名した。
この回状は傘状と言って、各々の名前は輪形に並べ、始めと終りが分らぬようになっており、また筆者の手跡が分からぬよう、筆を吊して書いたものであった。
回状は、某月某日の某時、中島村の長者原に集合するように認められ、幕領全部の村々に回された。
この日はここに集まった者の中より、伊右衛門と十四郎が、隣接の小侍(佐賀領)の番所に願書を提出し、次で元三郎が出頭して、願書の趣意を陳述し、佐賀領の百姓として下さるよう哀願し、その時は飯米など、當分の間取替えおき下されたし。と願って深い決心のほどを示した。これと同時に、池の峠の番所にも同様の願書を提出したものがあった。
唐津藩では大に驚き、代官等が飛んで来て、言葉やさしく説き諭し、佐賀藩士の犬塚利兵衛も中に立って斡旋したので、百姓も一應納得して無事に退散した。時に天保九年の五月某日のことであった。
A一揆の進行
さて、一旦ことが治まると唐津藩では俄に態度をかえ、一揆の不都合を詰り、承服者には捺印を迫り、拒絶者は捕縛するなど、高圧手段に出たので、民衆は大に激昂し、遂に広廟村の金比羅岳に上り、小屋掛を始め、村婦は焚出をするなど、おさおさ龍城の準備に取り掛った。
この時、浪瀬村の庄屋甚平が、村民を説諭しているのを見て、村民は怒って彼を捕えて来て、詫び状を書かせ、また中島村の各頭只四郎を捕えて、数日間山上に留めおくなど、民心は益々激化の一途をたどった。
さてこの騒動を鎮定に向つた唐津藩兵は、初めより武力討伐の意志はなく、徒に厳木村の宿に雑談にふけりており、佐賀藩もまた、小侍の番所に多数の兵を駐屯さしているも、武力討伐の意志は持たなかつた。
唐津藩が、かく緩慢の処置をとつたのは、幕額のことなれば、進んでこれを討伐して、事態を拡大せんことを恐れ、幕府にこれが對策の指示を仰いだからであり、佐賀藩では常の責任者でないから、うっかり手を出して、後日のかゝわりを来たすようなことがないよう傍観的態度に出たからであった。
これより前、佐賀藩は、老中水野忠邦まで、九月一揆の内報を送つていたが、今回は犬塚利兵衛を江戸に遣わし、勘定奉行内藤矩佳に再度騒動の内情を開陳せしめた。これを知った矩佳は、同じ勘定奉行の深谷盛房の處置を緩慢なりとして非難を加えた。
唐津藩では、事件を自藩のみで處理しようとして、幕府の役人に取り入り、事態を過小に報告していたので、そう信じていた盛房は、佐賀藩の熊度を怒り、その不協力を詰問し、その地佐賀藩士の事件に關與したものを、訊問することゝした。但しこれは佐賀藩の辯明によって、無事に解決が出来た。これより佐賀藩の態度は俄に硬化し、領内に遽入者は悉く捕縛する氣配を示し、唐津藩もまたその緩慢を叱責されたので、先發の高畠隼人に加うるに、家老雨森惣兵衛等に五百人の藩兵を授けて、いよ一揆襲撃の腹を固め、佐賀藩と合図して、小麦原の郷足軽組の鐡砲隊十七人をして、まづ一撃をその屯所に加えしめた。この攻撃に遇った百姓等は忽ら瓦解し、何の抵抗もせず、手を束ねて縛につくもの、四百五十余人、佐賀領に逃げこんで捕えられたもの五十余人。時に天保十年二月廿八日のことであった。
かくて後、唐津藩に對して、公事方勘定奉行深谷盛房から、次のような通知があった。
「この度、宮寺五平次・大森八郎を留役として下向せしめ、立花左近將監の御領所に於て、吟味させるから、かねて召捕おいた者や、御料所の者共の呼出が有り次第、諸事差支えなきよう取計うべし」と
B数百人を處罰
その處分は大要、次のようなものであった。
一、唐津藩では、御料地を取上げ、日田代官所の支配に移し、郡奉行杉江宇左衛門・大林八郎の両人は、一揆鎮定の處理を誤り、事態を拡大せしめた科によつて、役儀を取放し押込められた。
一、佐賀藩では、この事件に関係した田中平太夫、中島和兵衛、犬塚利兵衛は、取調の結果不都合の点なきを以て御構なし。との申渡しがあった。
一、一揆に加わつた農民は罪の軽重によって、それぞれ處罰された者数百人、その中首脳者と目すべき本山此助は重追放、川西儀左衛門は中追放、町切元三郎は遠島申付けらるべきのところ、何れも既に死亡しているので、刑の執行は出来なかった。
但しこの三人は首謀者として、最も活躍したゝめ、三池え護送される途中死んだ、これは悪庄屋のために毒殺されたと傳えられている。
無宿者敬吾は軽追放、のち長崎で處刑されたと傳えられている。
川西伊右衛門は田畑取上の上所拂。
田代大助は長い間入牢仰付けられていたので御宥免。
この他、軽追放、江戸十里四方などの處罰を受けたものがある。
一方、この度の事件の原因を作った不都合の庄屋に對しては、次のような處罰があった。広瀬村庄屋周平以下、岩屋村新藏・立川村祐藏・星領山孫兵衛・平山下村太十郎・本山村信助・中島村庄三郎・波瀬村甚平・浦河内寛三郎等は、家財取上のうえ所拂。
取鎮方不行届のため、過料銭を課せられた庄屋も多数あつたが、この過料銭は三賞文・五貫文・
十貫文の三種であった。何れも長崎奉行所に納むべきことゝなつていた。
第五節 因縁深い国宝物語
@惠日寺の梵鐘
領巾振山の西麓、惠日寺という禪寺にある梵鐘は國宝に指定されている。
鐘の高さ二尺四寸、笠形以下の部分が二尺三分、日径一尺七寸、竜頭に旗挿がある。竜頭の竜の足は二本で上方に向い、その瓜五本で、その間に玉を抱えている。
上下両帯には、各四十六個の輪が、蛇行状の唐草によつて連ねられ、その輪には直交紋・菊花紋・渦状紋・梅花紋が浮彫になっている。
乳帯は四つで、各帯に九個の突起が、三重の輪の中に小さな乳頭となっている。
撞座は二個、竜頭の線と直角の位置にあり、天人像は二体で、これは撞座と直角の線−竜頭と−平行の線−にある。
銘は陽刻で、大平六年丙寅云々とある。この鐘に關する傳説は、日本書記の欽明天皇の條に、天皇が大伴狭手彦を遣わして、高麗を討たしめられた時、狭手彦が百済の國より分捕って来た種々の品の中に、銅鐘が二体有ったことが記されているので、その時の鐘の一つが即ちこれである。とこの寺では言つている。
ところが、この鐘の銘の太平六年丙寅は、遼の年号で、日本の後一條天皇の万壽三年(一〇二六)に當り、狭手彦の出征より四百六十四年後のことに當る。されば、これは狭手彦傳来の品でないことは明白である。世の中にはまゝこんな風に、誤り傳えられているものがある。
それで、狭手彦とは切離して、この鐘だけについて考えてみると、この鐘が出来たのは、今から丁度九百二十五年前のことで、その作りといゝ、音色といゝ實に立派なもので、歴史上實に貴重な品である。
さてこの鐘については、次のようなエピソードがある。明治四年頃のこと、惠日寺の隣村の砂子という處で、村芝居を催したことがある、その時、この鐘を借りて、芝居の用に充てた。多分寺の坊さんも一口加わつて一儲けしようと目論だのであろう。ところが連日の雨天つゞきで、芝居は大損となり、その穴埋めに、この鐘を溝江某という濱崎町の質屋に売りとばした。
この時
佐用姫が、涙の雨にぬれ芝居
鐘は流れてみぞえ(溝江)落ちけり
こんな落書をした者があった。、
鐘を典物に取つた溝江氏は、これを大阪に送って賣物に出し、多年店頭に転がしていた。明治十四年に、惠日寺の時の住職がこれを見つけ出し、この買戻し方を相談した。恰度この時は外國人から、買取の交渉が始まつていた時で、溝江氏は住職の懇望を快諾して、無償でこれを寺に寄進したので、鐘は無事に寺に還ることが出来た。
こんな因縁のある鐘が外国に売却される直前に、くい止められたことは、獨り惠日寺の幸bホかりでなく、實に我が國の幸福でもあった。
A東光寺薬師如来
東光寺は唐津市の西方、約三里、有浦村緒浦にある小さな禪寺である。この地方は、古来海外交通の要衝で、朝鮮、中國の沿岸を荒し回った倭寇の一派、日高氏の根據地で、東光寺は實にその菩提寺である。
文祿年中、豊臣秀吉がこの地方を擧げて、寺沢広高に與えると、有浦地方は忽ち衰微して一塞村となつた。
さて、今から百五、六十年前、有浦村の隣村値賀村の佛崎という海底から、二体の佛像が、漁師松右衛門の綱にかゝつて引揚げられた。一体は千手観音で、一体は阿彌陀如来である。常時の鑑定では、平重盛が六体の佛像を造って、流水供養をした時のものであろうということになっていた。
阿彌陀如来の方は、松右衛門が唐津市の弓鷹町浄泰寺に奉納したので、寺ではこれを中央に、その周圍に二十五体の天人像を造って、天人舞楽の祭壇を設けて祭っている。
他の一体−千手観音−は、東光寺の破れた小さな御堂に安置されて今日に及んでいる。こうして年月は流れて大正二年の初め頃となった。ある時、iェ縣若松の骨董商が来て、この観音像の買受方を申出でた。時の住職がなかなか承知しないので、商人の方から値段をせり上げて、千円まで出し、その土にこれと同様の佛像を作ってやるから、譲ってくれと懇願した。住職は益々惜くなり、寺の總代たちと相談のうえで返事をしようと言うと、商人はあざ笑いながら、若し火事にでも遇つたら、一文にもならないじやないかと、捨せりふを残して去った。これを開いて住職は俄に心配し出し、早速駐在巡査に報告し、一方には村の青年に頼んで夜警を始めた。巡査は直に唐津警察署に通知したので、唐津署より縣警察え通知された。この事はやがて縣より文部省え報告され、文部省よりは審査宮の出張となった。
ところが、この佛像は長い間海中に沈没していたゝめ、腐蝕の箇所が甚だ多く、美術的価値は無くなっていたので、審査官はいたく失望し、住職に向つて、この寺の本尊は何佛であるかと尋ねた。住職は
「本尊は秘彿で、御開帳すると眼がつぶれると言っているので、今日まで誰一人として、拝んだものはありません」
と言うと
「それでは拙者が一人で開帳しよう、他の者は彼方に行っていてくれ、眼がつぶれると大変だから」
と、寺の者は庫裸の方に逐いやつて開帳された。
「さて内院を見ると、眞黒に煤けた、高さ四尺許りの薬師如来の座像である。眼は半眼に開き、慈愛に満ちた口元に、女のような豊満な胸、左手に藥壷をのせ、右手を擧げて開いた五本の指のうち中指と薬指と心持ち曲げ、衣紋のひれは浅く、その線は至って柔かで、全体を通じて慈愛が溢れるように感じられる、作者は不明だが、藤原初期の特徴が最もよく顯はれている」と
以上は東光寺の住職が、審査官から教えられた言葉で、なお
「やがては国宝にも指定さるべき名作だから、大切に保存しておいてくれ」
と懇ろに諭しおいて、かえった。かくて大正五年五月になって、その筋から國宝に指定されたのだつた。
B玉島神社の太刀
~功皇后を祭る玉島~社に、長舶家助の太刀が國宝に指定されている。この國宝については次のようなエピソードがある。
明治初年頃のことであった、唐津市の石河某という者が、木綿町の牧原駒太郎氏の宅に、一振の太刀を持って来て、さる方の依頼であるが、その方が急に金子五十円の入用があるから買ってくれとの相談であった。鞘を拂ってみると少しは曇がかゝつているが、その出来榮といゝ彫刻といゝ實に見事なものだから、言われるまゝの価格で買い受けたのだつた。
それより数ヶ月の後、玉島村の草野某氏が牧原氏を訪れた節、この太刀を一見に供した。すると草野氏はこれに惚れこんで、是非譲ってくれとの相談であった。牧原氏はこの品は容易に手に入るものではないから、私が家宝としようと断ると、草野氏は心を残して帰った。それから度々訪れて「是非譲って頂きたい、あなたの家宝を無理に所望するのだから、私方の所蔵品の中から何なりとも差し上げることにしよう、どうそ交換して頂きたいとの強いての相談であった。
このときから程経て−明治十年−東京では初めて内國博覧会が開かれるので、是非見物に来いと東京の知人から案内があった。それで草野氏所蔵の頼三樹の書一軸と、金子百五十円とを取って、交換することゝした。草野氏は喜び勇んで持帰り、朝夕愛玩していた。超えて二、三年後のことであった。格好の見すぼらしい易者風の−六十余りの男が来て、草野氏の家宅を不思議そうに見回わしながら「御宅には御病人が絶えないのではありませんか」
「そんな事はない」
「唯今は御病人は無いでしょうが、この数年来御病人が続いてお有りでは………」
「そんな事はない」少し声を荒立てゝ
「なんでそんなことを言うのだ」
「お家には不相應な品が有ります。それが有る間は、この不幸は絶えますまい」
こう言って立去った。
草野氏は氣にも留めないでいた。ある夜のこと、ふと思いついたのは、彼の太刀を家に持ちこんで以来、次ぎ次ぎに柄人が有つたことを思い起した。すると自分の氣持が勝れなくなり、それから次ぎ次ぎに種々妄想が起り、ついに家助の太刀まで思いが走せ、
「彼の家助は五百円や千円で手に入る品ではない‥…‥‥」
こう考えて来ると、何となく恐ろしい氣が湧いて来たので、近所の功岳寺の住職智海和尚に事情を話して、寺に保管方を頼むと、和尚は
「太刀を寺に持込むのはふさわしくない、それは~社に献納する方がよかろう」
との言葉に、草野氏もこれに同意して、玉島~社に奉納したのだった。
それから数十年を経て、大正の初頃のことであった。古社寺保存会委員松平頼平子が玉島~社に来てこの太刀を一見し、慎重な鑑定の末、大正九年四月十五日付で、國宝に指定された。鑑定書によれば、長さ二尺四寸二分、幅一寸、反り一寸五厘、刃紋は乱れ、表の樋下手に眞の剣巷竜、裏面の棒樋下に梵字蓮座の彫物があり、銘は備前漁船家助、應永二十一年二月〇日刻とある。
以来國宝として、また玉島~社の~宝として、鄭重に保管していたところ、偶々大東亜役争の終戦の結果、個人所有の刀剣は勿論、社寺所蔵の物も届出ることとなり、其筋の命によって提出したのが最後で、それが如何なつたか、その取扱者が誰であったか、全く不明となった。
第六節 満島山の社寺など
唐津神社には、一ノ宮に磐土命(いはつちのみこと)・赤土命(あかつちのみこと)・底土命(そこつちのみこと)・大直日~(おほなほぴのみこと)・大綾日~(おほあやびのみこと)・海原~(うなばらのみこと)を祭り、二ノ宮には、表津少童~(うはつわだつみのみこと)・中津少童~(なかつわだつみのみこと)・底津少童~(そこつわだつみのみこと)と國象女~(みづはめのみこと)(水ノ~)を祭ってある。
~社の縁起を尋ぬるに、~功皇后が三韓征伐の時、海上が浪高かつたので、天に祈り給うたところ、程なく浪が静まった、それで三韓平定して御凱旋の後、こゝに勧請されたと傳えてある。
また、松浦記に、~田五郎宗次を祭ったように記されてあるが、これは、採るに足らぬ後世の偽作である。思うに延文二年に五郎宗次が唐津大明~に、田地を寄進した古文書が現存している。今なお~田の西浦に宗次の墓があるので、この人は實在の人であったことは疑いの余地はない、それで後の人が合せ祭ったものであろう。
慶長年中、寺沢廣高が唐津城構築に當つて、満島山−舞鶴公図−にあった諸社の中、八幡宮を満島に移し、熊野権現社と、彦山権現社と、天満宮とを、今の大石天~山に移し、草野不動と、松浦不動とを聖持院に移し、津守観音を渡口−新堀−に移した。これより渡口観音と称するようになった。本尊は聖観音である。この観音はむかし唐土渡海の船がこの津より發船したので、海上安全の 祈願を込めたものである。
大久保氏は江戸参府の節、海上安全の祈願米として百五十石を寄進した。
次代松平氏も尊崇厚く、毎年正月二十日の祭日には、雲集する参拝者をあてこんで、諸方の商人が多数集り、この日の市場には馬の角まで賣っていると言われたほど、殷賑であった。現在は古びた小さな堂の正面に掲けられた「松浦山」の額が、唐僧道本の書いたものとして存すろに過ぎない。
第七節 巣林子住し近松寺
近松寺は臨濟宗南禪寺派の寺で、唐津市西寺町にある。
後二條天皇の乾元々年(一三〇二)の創立と信えられるが、その詳細は明かでない。のち永祿年中に波多三河守親が、博多聖n宸フ僧湖心禪師を請うて、満島山に一宇を立て近松寺と号した、これが近松寺の開山であるが、天正二年火災にかゝり、僅に一小宇を残すのみとなった。
慶長中寺沢廣高が、豐公の命によって長崎奉行となり、且つ波多氏の旧領に封ぜられるに及び、湖心禪師の高弟耳峰禪師に、外國通辞となるよう懇請すると、耳峰は近松寺を再興して、先師の遺業を傳えることを條件としてこれに應じたのであった。
かくて廣高が、慶長七年満島山に築城するに當つて、近松寺を現在のところに移し、堂塔を建立し、寺領を附し、領内第一の大寺となったのであった。
@寺の山門
名護屋城の大手門を移したものといわれ、名護屋城の遺物としては、現存する貴重なものである。一説には薬醫門という型の山門で、城門でなく室町時代に逆って古いといわれる。
A舞鶴園
近松寺の後苑で舞鶴園と称し、曾呂利新左衛門の築造と称せられている。苑の正面の築山は満島山(いまの舞鶴公園)を移し、左側の数株の松は虹の松原を形どり、右側は現在の西の濱を模し、前面の白沙は海面になぞらえ、全体を總じて唐津湾頭の風景を模寫した図案的の築造である。
この苑については、昭和八年八月發行の佐賀縣史跡名勝天然紀念物第二集第八号に、東京大学教授龍居松之助氏の實地調査の記事が揚げられている。それによると、
「この庭園が曾呂利新左衛門作であるか、また何時頃の作であるかは不明であるが、江戸時代中期のものであろう。唐津地方の自然の縮寫より、一歩を進めて図案化したいもので、これと類似の庭園は京都本法寺の庭園(本阿彌光悦作)で近松寺のはこれが一屠優美に出来ている、京都地方に出しても、見劣りはせぬ第一流の各作であると信じて疑わぬ。希くは今後永く保存されるようお勧 めする次第である」とこれが保存方を歡めている。
ところが、先年松喰虫の害を受けて、その一部の松が枯れたのは實に惜しい次第である。
B茶室と織部燈籠
舞鶴園の右方に茶室がある、これは旧小笠原侯の茶室であったものを「昭和三年本堂の改築と同時に、宗偏流の家元、中村宗a師が再興されたものである。
茶室の左方に一基の燈籠がある、これは所謂、織部燈籠と称するもので、その形式が普通のものと異つているので、キリシタノン信仰の對象となっていたものではないかと言われている。
C近松門左衛門の墓
近松寺本堂の前面左手にある。墓碑銘によれば「門左衛門が少年の頃、當寺の四代遠室禪師について業を修め、のち京師に至り姓名を変じて近松門左衛門と改め、浄瑠璃作家となり、享保九年(一七二四)十一月廿二日浪華で卒し、遺言によって當寺の墓地に葬った。享保十乙巳年六月廿四日、當山六世現住 鏡堂識之」とある。
近松門左衞門については、種々の説があり、その墓も各所にあるが、何れもまだ確認されていない。
第八節 浄泰寺と無量軒趾
@浄泰寺
唐津市弓鷹町にある。天正二年(一五七四)眞譽上人が~田の山口に實蓮社を結んで、浄業を修めていたのが開基で、文祿中、寺澤廣高の父越中守廣正が豊太閤に任えて名護屋に居り、病を得て卒した。廣高が城を唐津に築くに及び、遺骨をここに移し、父の法名浄泰の二字を取って寺号とした。
同寺の宝物として、安田作兵衛が織田信長を刺した六尺長柄の槍と、小野篁の作と称せられる閻魔大王の木像と、生死塚の婆々がある。なお當寺の本尊佛の阿彌陀如来は、惠心僧都の作と称せられ、豊公の遺物と称せられる五三桐の陽刻がある茶釜と、臺子、他に奥深く安置された佛像と、狩野崇信の筆になる地獄極楽の繪がある。何れも眞偽のほどは拝観のうえ判定されたい。
なお、東松浦那仮屋湾の佛崎から、網に掛って引揚げられた阿彌陀如来一体、並に二十五菩薩像等は、一見の価値がある。
A無量軒
後村上天皇の貞治二年(一三六三)の建立で、菅原秀春の母無量尼の菩提のため、瀬戸左衛門督が建立したものである。秀春は庶民を愛撫すること我が子の如く、慈愛深い人だったので、民衆も力を協せて工事を助けた。阿彌陀如来と勢至菩薩と慈母観音の三体を合せ祭った。元禄中波多氏の没落と共に寺はついに頽廃して終った。
享保十七年に大飢饉が起り、死者が続出した、この時ある僧の勧めにより、屍体を拾い集めて、海士町の山の手に合葬し、傍に草庵を立て、寺号を捨て無量軒と号し、その僧を請うて庵主となし藩主に願って回向袋を配り、その喜捨によって無縁佛の供養を営むことを許されていた。
寛政の始めに至り、庵の後方の峯が崩れ、精舎を圧潰した。以後は再建の篤志者もなく、今はかかる由緒を説く人も無く、その遺跡のみが寂しく残っている。
第九節 山笠くんちの唐津
唐津名物として特筆すべきものは、唐津大明~の秋季大祭と、これに従って市中を引回る山笠とであろう。
@唐津供日
唐津大明~の祭~は、底筒男命・中筒男命・表筒男命、大直日~・大綾日~・海原 ~とである。
祭日は十月廿九日(昔は陰暦九月廿九日である。この日、各町では、早朝から~輿の御巡幸に従つて、山笠を引回すので、これを見物しようと近郷近在から、老若男女が雲集する。これを目當に各種の興業物や、賣店が開かれるので、一段のにぎやかしさを加える。それで唐津市の町民は元より、これ等の親類縁者が、綺羅をまとうて参拝に出かける。また旧藩の家臣達はこれを見物しようと、町家に来遊するものが多く、町家では家中(士族)との交際の多いのを誇とし、御馳走を用意して歓待した時代もあった。日頃の堅苦しい生活に飽いていた若侍達は、あるいは変装して、町人に紛れて飲み歩くものもあつた。
一面商家では、供日に飲みに来た者は、これが縁となって、後日買物の際にはよく立寄るので、機敏な商人は、これを客引なり、広告なりに利用して、大に歓迎したもので、この風は明治以来一段と派手に行われるようになり「唐津の供日には、どの宅でも自由に飲み食いさせる」と言われるようになったのは、こうした由来によるものである。今日では、これを迷惑がるものは、一般家庭ばかりでなく、商家でも同様で、これを改めようとしてもなかなか改まらず、總て困っているようだ。
A山笠の由来
文政の初頃、刀町の石崎嘉兵衛氏が伊勢参宮の途次、京都で祗園の山笠を見て痛く感動し、帰國のゝち有志と謀り、塗師大木小助等と趣向をこらし。赤塗の大獅子頭一個を作つたのが、即ち唐津山笠の初めで、出来上ったのは文政二年(一八一九)のことである。
ついで、文政七年(一八二四)中町の辻利吉氏等がこれに做って造ったのが青獅子である。
これから次ぎ次ぎに十五台の山笠が出来た。左に、この山笠一覧表を掲げることにしよう。
山 笠 一 覧 表
所有町名 | 山笠名称 | 製作者と年代(西 紀) | 製作者 | 製作技術者 |
刀町 | 赤獅子 | 文政二年(一八一九) | 石崎嘉兵衛 | 大木小助 |
中町 | 青獅子 | 文政七年(一八二四) | 辻 利吉 | 儀七 |
材木町 | 浦島子に亀 | 天保十二年(一八四二) | 須賀仲三郎 | 不明 |
呉服町 | 義経の兜 | 天保十五年(一八四四) | 石崎八郎右衛門 | 脇山卯太郎 |
魚屋町 | 鯛 | 弘化二年(一八四五) | 不明 | 不明 |
大石町 | 鳳凰丸 | 弘化三年(一八四六) | 永田勇吉 | 小川次郎兵衛 |
新町 | 飛龍 | 弘化三年(一八四六) | 中里宇衛重廣外一名 | 中島艮吉春近外五名 |
本町 | 金獅子 | 弘化四年(一八四七) | 不明 | 原口勘二郎 |
紺屋町 | 黒獅子 | 安政五年(一八五八) | 不明 | 不明 |
木錦町 | 信玄の兜 | 明治二年(一八六九) | 近藤藤兵衛 | 畑重兵衛 |
平野町 | 謙信の兜 | 明治二年(一八六九) | 富野式藏 | 須賀仲三郎 |
米屋町 | 酒呑童子と頼光の兜 | 明治二年(一八六九) | 吉村藤右衛門外一名 | 仝上 |
京町 | 珠取獅子 | 明治八年(一八七五) | 富野淇園 | 大木卯兵衛 |
江川町 | 蛇宝丸 | 明治九年(一八七六) | 宮崎和助 | 須賀仲三郎 |
水主町 | 鯱 | 明治九年(一八七六) | 富野淇園 | 川峰峰治外三名 |
附記 一、紺屋町の黒獅子は明治二十年誤って破壊した。
二、鳳凰丸の製作費は千七百五十両を要した。
この表によると、~聖な祭器の獅子頭が五台、武士の威容を誇示する兜が四台、魚類關係のものが三台、船が二台、浦島子が一台、合計十五台となっている。
思うに昔、敬~尚武の思想が盛んな時代に、これとは全く別箇の、享楽主義のシンボルともいうべき、龍頭(蛇宝丸)げき首(鳳凰丸)の豪華船と、夢のような浦島子とを採択したことは、唐津民衆に優美と、平和愛好の情操とを與えたことを、明記すべきものであろう。
第十節 玄海の大捕鯨偲ぶ
@捕鯨の起原
唐津に於ける捕鯨業の起原は不明であるが、松浦風土記によれば、寺沢志摩守廣高が鯨組(捕鯨業)を思い立つて、漁師雇入のため紀州熊野に遣わされたが、漁師は得られなかった。その後兵庫頭堅高や、大久保加賀守忠季の時になって、捕鯨をやるものが諸方より集まったように記されている。これによって今から三百年前ころ(寛文年間、一六〇〇年代)唐津藩に捕鯨組が出来ていたことが知られる。
また、こんなことが記されている。大村領松島組の太祖助次郎というものが指南して、初めは小舟八艘で業を始め、その後、追々舟を増し、チロリという小網が出来、ほどなく大網となり、十五人乗の勢子船(鯨を追う船)三十隻、双海船(網積み船)四隻結びで、大船は八艘、網は用心物共に二百反ほどで八十九尋四方なり、常に納屋の中に八百人の従業員が居り、鯨が捕つた時は更に三四百人も増した。以上の組出しまでに、正銀五百貫の仕込が入用であったとのことである。
A小川島捕鯨會社
また小川島捕鯨会社沿革記によれば、唐津領主水野氏の宝歴十三年(一七六三)より、小笠原氏の慶應三年(一八六七)まで百四年の間に、捕鯨業を主宰した者は、呼子の中尾甚六氏十二回(六十九年間)を最高とし、その間に唐津京町常安九右衛門保道氏との共同による十二、三年間がある。壹岐の土肥氏が三回(十四年間)、他は一年または二年の営業で、もし適當者が無い時は、領主の御手組経営とした、この間が七回(十二年間)で、かくして明治年間に及んだ。明治以後は営業者を替ゆること五回、明治十二年坂本氏の主唱により、合資で小川島捕鯨組を組織し、のち小川島捕鯨株式会社と改めた。
かように営業主は度々交替したけれど、捕鯨業は百余年間に亘って継続されて来た。年によって漁獲の多少はあったけれど、長年月に及んで継続して来たのは、全く唐津藩の保護によるものといえよう。
因に、いま現に舞鶴公園下、松浦川口の西側に鯨の鰐骨で建てられた門がある。これによつて鯨の大きさの程が推測される。
B捕鯨の實景
毎年十一月の中頃に入ると、かねて設けられた小川島の本據を開き、處々に山見場(見張所)を置いて、鯨の来泳を待受けた。
さて山見場に「鯨見ゆ」との信号が揚ると、各船がこれを見て勇み立ち、双海船は直ちに出動を始めて網の手配を整え、勢子船は鯨を追尾して、網代近くに追い来たり、いよいよ網代に泳ぎ込んだのを認めると、麾持の波座士(はざし)(捕鯨専門の漁師)は、時機を見定めて網を張るように命令する。網船はこれに應じて網を下し、勢子船と双海船は舷を叩き、鬨の声をあげて追い迫り、いよいよ張網の中に追い込めば、直に口網を張って、後方を遮断し、一層烈しく舷を叩き、鬨の声を揚げて鯨を驚かす。かくて鯨が網に掛ると、勢子船と持双(もっそう)船(鯨を縛りつける船)より先を争うて大小のもり(銛さや)を投げ刺し、これが五六本におよぷと、波座士の一人が.手形庖丁を持って海中に飛び込み、鯨の鼻を突通して綱を付け、次に劒をもつて突殺しにかゝる。勢美は五百振、座頭は二百振以上、長須は百五十内外、突を入れると次第に衰弱して来る。この機を逸せず持双船に鯨体を挟み、波座士は胴綱を持って海中に潜り、鯨体を船に縛りつけ、勢子船と共にこれを納屋場に漕ぎつけて、轆轤(ろくろ)に掛けて巻き寄せ、直に解体に取掛る。
さて、この持双に掛ける時機の見定めが最も大切で、もし時機が早やすぎれば、鯨が息吹き返して荒れ狂い、苧綱は切れ、船は破れ、漁師は海中にはね飛ばされて大損害を蒙る。もし時機が遅るれば、鯨体が海中に沈んで、何一つ得られなくなる。さればこの持双に掛ける時期は、最も熟練の波座士の仕事となっている。
C解体
解体は最も迅速に、順序よく行わねばならぬ、もしこれを過るときは仕事が進まず肉の味が落ちるので、大損失を来たすからである。
解体は、まづ第一番に背の身を左右に割り、第二に脇の皮身ともに左右に開き、第三に大骨を切る。大長刀を振ってすらすらと切捌くその手際は、實に鮮やかなもので、かくて第十番、十一番と次ぎ次ぎに解体して、例えば十二尋のものであれば、夜明に取掛れば、正午には終るのが普遍である。
さて切捌いた肉片は、人夫が荷つて納屋に運びこむ。この際これらの人夫を初め、多くの見物人までが集って、カンダラ(鯨肉を盗み取ること)をするので、一方にはこれを監視の役人が、棒を持って追拂う、拂えば散じ、また集って来る、この有様は他所では見られぬ光景であった。
(おわる)
著者略歴
明治三十三年、和歌山縣田邊中学校教諭を振出しに、昭和九年、郷里唐津中学校を退くまで、三十四年間の教職生活を続け、その間、大正末期に文部省の史蹟名勝天然記念物調査会佐賀縣調査員となり、爾来松浦郷土史の研究に没頭した。現に松浦史談会を主宰し古墳の發掘、考証の判定に奔走する傍ら肥前風土記の研究、縣史編修に當るなど郷土史開拓のため老体なお奮闘中である。明治七年四月十二日生。なお著述、研究には左の如きものがある。
一、松浦叢書 一巻、二巻
二、詩と史の松浦潟
三、松浦紀行
四、唐津案内
五、奥村五百子傳
六、松浦党史(未刊)
七、唐津發達史(未刊)
唐津焼の新研究(焼物趣味に發表)
昭和二十七年三月二十五日発行
定価 百五拾圓
著 者
唐津市城内大手小路二三四
吉 村 茂 三 郎
発行所
唐津市大名小路三一〇
唐津市役所内
松浦郷土史刊行會
印刷所 iェ市土手町 文 社