末廬國より
(昭和41年6月1日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

唐津 新町・平野町



 大工職の多い新町
 惣行事なしの町
   平野町に寺があった



 新町、平野町は、所謂「唐津十二ケ町」には含まれない。したがって、惣行事や、惣町の事務を処理するための月番なども受持つことがなかった。たまたま、慶応三年には、江川町と連名して三ケ町で、十二ケ町並の諸役受持ちも嘆願したが、十二ケ町側の反対で成就しなかった。
 新町は文字どうり、十二ケ町の町割以後に出来たので、そう呼ばれたものだろうが、平野町については、名護屋の城下に平野町というのがあって、これが移ったものだと説明されることがある。いづれにしても、十二ケ町に含まれぬことからして、もとは、弓町や鷹匠町のような、小役人か足軽の町だったのかもしれない。


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 新町は大工職の多い町である。白井、中島、吉村、佐々木、高崎、石崎などの姓はいづれも大工職で、白井久助、中島弥七の両人は、藩政末の大工棟梁。白井久助は現在の加山氏の宅辺りで、中島弥七は正円寺の北辺り。吉村喜助なども藩の御用大工を勤めたそうだが、この人の屋敷は現在の袈裟丸氏辺り。この家には米屋という屋号があり、天保年中には町年寄を勤め、酒造の株も持っていたらしいので、もとは米屋町の吉村姓の別れと思われる。佐々木、石崎の姓は八百屋町にも大工職の旧家があり、高崎姓は米屋町に多い。


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 安政以降、新町の町年寄を勤めた人は、石田伊兵衛と前川仁兵衛の両人。石田家は屋号を石田屋というが、もとは油屋ともいったらしく、また同族の石田作兵衛家は河内屋といったらしい。石田伊兵衛家は現在の「清ずし」辺りか、のちに角の鶴田忠吉の屋敷辺まで手に入れ、裏は弓町に入ってお り、嘉永年中に酒造株を町内の米屋兵左衛門(吉村姓)から譲り受けている。
 前川家の屋号は岡口屋。屋敷は現在の松尾質屋の辺り。糀屋、醤油屋の株仲間筆頭をも勤めた。前川五兵衛はその分家で屋敷は現在の中山商店辺り。
 

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 安政以前に町年寄を勤めた三浦屋庄兵衛の屋敷は、現在の小松屋旅館辺りか、姓を福井といい、明治になって木綿町に移った。現在の熊川洋裁店辺りの屋敷は鶴田忠吉のもの。角にあるエビス様は、弘化年中の作で、鶴田忠吉の名がはいっている。鶴田家は屋号を木村屋といい道を挟んで東側に分家があった。鶴田家分家の北隣りに呉服屋株仲間筆頭の山口嘉右衛門が住んでいた。屋号を三島屋といい、現在でも二階の戸袋みたいなところに大きな「三」の字がみられる。三島屋といえば、刀町通りの岩本氏あたりに住んだ稲山家も三島屋といった。、


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  新町は、もともと職人の多い町で、町勢もあまりふるはなかったが、名護屋口寄りには可成の商人が住み、浄泰寺前の勢溜りでは一寸とした市もたっていたらしい。
新町の曳山が弘化年中の作であることも、そうしたことからかと思われる。
 新町の南端にある稲荷社は、もと庄崎山観龍院という彦山山伏が祀ったもので、観龍院の姓は上田氏。上田という姓は旧唐津村では旧い姓で、また庄崎というのは現在の潮の先辺りの旧地名。この稲荷社にある天保年中作の燈寵には鶴田忠吉とともに、河添九兵衛の名がみられる。河添姓については、弘化年中の記録にも「新町・河添九郎兵衛」と書いたものがあり、いづれも鍛治職の、それも刀剣に関係のある家らしい。


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 平野町も新町に似て、職人の町らしい。木村姓の家が七、八軒もあって(但し明治初年の記録による)、いづれも大工職らしい。その木村姓のうち、木村利右衛門といった人と、木村市兵衛といった人は平野町の組頭を勤めている。木村利右衛門家は米屋町筋への角屋敷。市兵衛家は、現在の佐々木印刷所の辺り。
 この町の町年寄家をみてみると安政以降、伊藤恒左衛門家と渡辺重右衛門家。廃藩少し前の記録では、渡辺家にかわって木村市兵衛となり、重右衛門の子の忠助が組頭となる。伊藤家の屋敷は、現在唐津駅に通ずる道路敷地となっている、第一電気の前辺り。渡辺家は、佐々木印刷の前辺りで、豊後屋といった米屋町の渡辺家の別れである。


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 平野町には、以上の旧家のほかに、寺村、野崎・佐々木、原、片山などの姓の家は、旧藩以来のものと思われるが、その屋敷について若干変化があって確かめ難い。寺村などは、大阪屋といった京町の寺村姓と関係がありそうだし、野崎は高島の出身、佐々木姓は唐津町には少なくないし、原姓は旧郡部にある。片山姓だけは、唐津界隈では一寸珍らしい。
 現在の藤松眼科の辺りは、木浦山千量院という当山派の山伏が住んでおり、現在は唐津神社の境内に祀られている白玉稲荷社を祀っていた。千量院の姓は神原氏。神原氏にしても、観龍院の上田氏にしても、明治の戸籍法では士族となっている。いづれも、御目見格の山伏で、山伏というのは、旧藩時代の藩の軍制では、山伏の吹くホラ貝の音で、全軍の進退を指揮していた。それから、新町には正円寺、安浄寺という二軒の真宗寺があるが、平野町にも伝明寺という真宗寺があった。伝明寺は明治の初年に寺格を失ない、安浄寺が管理していたが、明治二十年頃には建物も墓地も整理されてしまった。伝明寺の屋敷地は現在の人気門旅館辺り。
 平野町にも、伊勢の御師高向二高太夫の出張場である伊勢屋が、現在の掘ガラス屋の辺りにあった。また明治三年の藩制改革で陌正(旧大町年寄)となった細田翁助は伊勢屋のあと辺りに役場を開いている。明治になって管野節造という医者が、島田菓子店の辺りに開業するが、彼は筑後の久留米辺りから明治十二年頃に移ってきた。


註:は管理人吉冨 寛が記す
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