郷土先覚者列伝
昭和55年10月20日
唐津郷土先覚者顕彰会
麗わしい自然の景観と由緒ふかい史話伝説に満ちた郷土、唐津・松浦の地域に生れ育ち、あるいは居住して、その才幹識見を縦横に発揮し、時代の指導者的人物と謳われる人々に対し私たちは感謝と敬意を表するため先覚者≠ニ仰いでその在世中の人格を敬慕し且は業蹟を称えている。
先覚者はかような意味合いからいちように私たちの郷土における尊敬すべき共同の祖先である。幸に唐津郷土に於ては、つとに先覚者の徳沢を称えてその霊を慰め、その業を顕彰する行事が行なわれて来た。
唐津・松浦地区における先覚者の顕彰が提唱されたのは昭和二年前後のことで、当時の東松浦郡教育会頭・鶴田定治氏が先頭に起ち教育会が主宰して、昭和七年第一回先覚者顕彰祭を執り行ったのが始まり。かくて昭和十五年、唐津神社神苑広場に先覚者顕彰碑が建設され、初回以来逐年祭典は催おされたが、昭和二十年から二十四年まで中絶の巳むなき事情に逢着した。
その前後、鶴田会頭の切なる懇請により久敬社唐津本部が継承して、郷土先覚者顕彰会を設置し、昭和二十五年秋、復活式典を挙行、爾来ひき続き毎年の秋、定期に祭典を執行して来た。
昭和三十五年以来、唐津市長、東松浦各町村長が式典の趣旨を理解して祭典費を補助することになった為め、式典は従前に比し盛大に行なわれるようになった。この頃以来、新たに隠れたる先覚者の調査か始める方針のもとに市町村各教育委員会から推挙される先覚者は漸時増加し、同四十二年秋までに百六十人余に達した。
かくて、年々先覚者祭は順調に催おされていたところ、折から明治百年の掛声もあり、従来よりは更に盛大な祭典でありたい念願に駆られたため一般有志者に呼びかけ、祭典費の浄捨を請い経続しているうち突如襲来した石油ショックの余波を防がなければならなかった。
そこで改めて、その間の事情を打ち明け、昭和四十九年以来特定の方々に特別援助を仰いで祭典の施行を続け今日に及んでいる。特に旧藩主小笠原家一門では祖先が長く郷里に世話になったということで従前か.ら祭典費の喜捨を続けておられる。
〔郷土先覚者顕彰会長 常安弘通〕
先覚者顕彰について
唐津・松浦地域における先覚者の顕彰が提唱されたのは、昭和二年前後のことで、唐津市・東松浦郡教育会が主宰して昭和七年第一回先覚者顕彰式典を執り行ったのがその始まりである。
昭和十五年には、唐津神社神苑に先覚者顕彰碑を建設して大祭典を催した。初回以来年々祭典は催されたが、終戦前後の騒乱時には、一時中絶のやむなき事情に逢着したこともあった。
時勢の変革で市郡教育会は解散したため、顕彰事業は財団法人久敬社唐津本部が継承して、先覚者顕彰会を設置し、昭和二十五年秋復活式典を盛大に挙行し爾来ひき続き毎年秋に例祭を催して来た。
久敬杜唐津本部は昭和三十九年末解消したため、翌年より松浦史談会が顕彰会を引き継いで従前どうりの式典を開催して今日に及んでいる。四十六年秋の小笠原家祖霊祭は先覚者祭と合体して唐津市文化会館で執り行なった。
回想・・先覚者祭
昭和十五年には先覚者霊位通計百一柱となり、時あたかも皇紀二千六百年に際会するため、かねて教育会で企画していた先覚者顕彰碑を唐津神社社頭に建設、この年十月二十日小笠原長生公の西下を仰ぎ、顕彰碑除幕式をかねて先覚者祭を挙行。この日社頭には市、郡各町村から有志五百人並びに各小学校生徒代表千人が各校校旗を先頭に掲げて参集した。
顕彰碑の建設資金三千四百八十円は権門富豪にたよらず、小学校先生諸氏の零細なる給料からの醵金に據るものであるという誇りが当時内外の賞讃を博したと伝えられている。
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時は移り物替り、支那事変に端を発したる東洋の悲劇は、全世界にひろがり、幾千年の史上不敗をほこった日本は敗戦の苦杯をなめたりとは言え、世界の平和を念願しつつ祖国再建に踏み出したのであった。
かかる状勢の下で、鶴田定治先生は、顕彰事業の一切をあげて育英財団久敬唐津本部に引継ぎを依託したのである。これを受けて当時久敬社理事常安弘通は快く引継ぎを承け、復活第一回顕彰祭を昭和二十五年十一月三日近松寺を会場にして五年ぶりの祭典を執り行った。爾後、毎年の秋、参列者の多少に拘わらず祭典を催おしている。
▼特別援助者の芳名
特別援助者の芳名を掲げて衷心より感謝の念を捧げます。
金子 宜嗣 牛草 栄喜 藤原 藤吉 馬渡 雅雄
瀬口 勝利 木下 修 白井 努武 大原 令光
脇山 英治 竹尾 彦巳 北村 政男 岩本 建市
中里太郎右衛門 宮島伝兵衛 辻 庚一 福井正一郎
野崎和一郎 小笠原家 県立高校長会 県議員団
市町村校長会 市町村婦人会 市駐在員会
唐津東松浦医師会
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1 草野経永 一三〇一 鏡神社大宮司
通称次郎。性豪毅にして胆力があった。筑後、草野城より鏡に移って鬼ケ城を築き、弘安四年蒙古の大軍が筑前の浜に攻め寄せたとき、兄永綱(筑後三井郡草野・竹井城主)と共に馳せ参じて少弐、大友、島津、秋月、菊池、河野、竹崎らの諸族と共に奮戦。同年七月五日には一方の大将として少弐経資その他の兵船と舳艫相ふくんで敵艦を襲撃し抜群の戦功を立て、松浦党の面々と肩を並べた人物。正安三年没。昭和六年従四位を追贈された。
2 相知蓮賀 一三四一 相知城主
元弘三年菊池武時肥後より出て北条英時を襲ったが勝たないまま死んだ。この時、蓮賀勤皇のため少弐、大友両氏に大義を説き共に兵を出して英時を討った。その後、京都に於て足利尊氏、直義と戦いこれを敗ったが、吉野軍ようやく振わず、西下して再挙を図っているうち素志を達成できないまま逝く。大正四年十一月従四位を追贈さる。興国三年没
3 鶴田前 一五七六 獅子ケ城主
越前守と称し大川野城主鶴田伝の次子。天文十四年厳木村岩屋獅子ケ城主となる。資性豪胆、而も人情に厚く龍造寺、波多、大友氏らの中に介在し能くその地位を守り大いに治績をあげた。村人悦服し、後世その徳を慕って祠を墓側に建てて祀った。天正四年没。墓は浪瀬にある。
4 値賀長 一六一五 普恩寺開基
値賀伊勢守源長のことで波多参河守親の第二子、値賀城に拠る。敬神崇祖の念厚く慶長二年値賀神社を、次いで普恩寺を開基した。また民事に心を用い荒地の開拓、農事の開発に窄めた。村民その徳を称え、その墓地を御館長様(おたつちょさま)と唱えて崇拝している。元和元年没。
5 寺沢広高 一五六三 一六三三 唐澤城主 70
先祖は尾張から出て福智山二万石を領していた。織田から豊臣、豊臣から徳川に事えた。秀吉は征韓の役に際し広高を普請奉行として名護屋築城を進めた。秀吉の不信を買って退けられた波多参河守親の領地と草野領とを与えられ、慶長二年唐津城主におさまった。領主としてすぼらしい恩恵を後世に残したことは有名である。墓は鏡神社境内にある。寛永二年隠居のあと二男堅高が跡を継いだ。広高時代、関ケ原戦の功績で天草四万石を加増され一時は十五万石の大領主であったが、堅高時代その領国に天草島原の乱が起り責任を問われ領地没収。堅高に後嗣がなかったので唐津城初代城主寺沢氏は二代で断絶となった。
6 幡随院長兵衛 一六二一 一六五〇 侠 客 29
江戸の侠客として有名な長兵衛は波多参河守の家臣塚本伊織の子。幼名は伊太郎。性剛勇にして義を好み仁侠の風があった。江戸に出て紛争闘伐の間を奔走しその間柄を和せしめその名声都下にひびく。当時、幕府麾下の士にして党を立て大小神祇組と称した水野十郎左衛門はその党長。双方意気の衝突より血を見ることもあった。彼が知りつつ甘んじて死に赴くところ一代の大親分の面目躍如たるものがあった。千載のもと懦夫をして起たしむるに足る。その生地相知町久保に、長兵衛の記念碑が建ったのは昭和六年のことである。
7 大久保忠職 一六〇四 一六七〇 唐津城主 66
播州明石の藩主であったが、慶安二年移封、唐津城主となり、民治辺防を忽にしなかった。資性、敦厚篤実にして浮華虚飾を憎み、身を守ること薄く、庶民を愛撫すること子の如くであった。寛文七年従四位下に叙せられ、翌八年西海九州の鎮護職に補せらる。寛文十四年(一六七四)春、江戸にて卒す。六十七歳。墓は和多田にある。
9.8 金助・伍助 一七五七 農 民 61
名護屋村に兄弟で住んでいた二人の百姓兄弟。当時村人は藩の苛税に苦しんだ。義に強い兄弟は黙視することができなくて藩主に直訴した。直訴の罪は死刑なり−という藩吏の声に応えて、願い叶わば極刑を辞せず−と従容として捕使の縛に就いた。のち村民その徳を追慕し、記念の墓碑を名護屋城の入口に建て、正月、お盆には村民出でて祭祀を執り行っている。宝暦七年土井時代の頃。
10 吉武義質 一六八三 一七五九 塾 師 76
号は法命。土井侯の家臣。三宅尚斉の門人にして深く程朱の学に長じ専ら実践窮行を本旨として天人一体の心法を説いて子弟を教育した。享保年間、家臣を辞退して相知、浜崎、玉島、徳須恵、佐志、吉井、平原の七ヶ所に塾を設けて民間の子弟に朱子学を講じた。旧唐津藩における教育の勃興はそのたまものだと言ってよい。墓は唐津市神田官の町の丘にある。
11 中尾甚六 一六九〇 一七六九 捕鯨業 79
初代中尾甚六は元禄三年玄海捕鯨に着手した。呼子小川島を中心に漸次その漁場を拡大し、姫島、烏帽子、壱岐におよび、西は伊万里湾に、長崎県二神、平戸五島にまたがった。捕鯨数も次第に増加し地域経済に多の大貢献をした。天保二年には鯨千本捕獲の記念に供養の千本塔を呼子龍昌院に建てた。二代甚六は土井侯より士格を賜わった。
12 向平蔵 一七一〇 一七七一 塾 師 61
吉武義質の薫陶を受けた馬場村の大庄屋で、隠居してのち相知復斉と号し、希賢堂を開いて塾師となった。平原の大庄屋富田才治は復斉を崇拝し、肝胆相照らした心の友であった。二人の間には俳句の贈答も相当あった模様である。深い交りを結んだ仲ではあったが、明和五、六年頃から絶交状態に入った。塾師として立つ復斉と農民を塗炭の苦しみから救わんとする才治には相容れないものがあったのであろう。大庄屋、平蔵の跡をついだ二男林八は松原一揆に際して藩と農民との間に立って奔走し無事にことをおさめた。
13 富田才治 一七二四 一七七二 大庄屋 48
享保二年平原に生れた。唐津藩主水野忠任の時代に苛税の重きに苦しむ藩民の窮状を見るに忍びず死を決して上書し、同志と相謀り城下虹の松原に農漁民二万余人を結集して一揆を起した。後世松原一揆と呼んでいる。藩主、民心の動揺を察して旧法に復せしめ、人心ようやく安らぐ。才治は一揆の最高責任者たるを申し出で、明和九年三月十一日西ノ浜刑場にて斬首の最期を遂げた。
四十七歳。墓は浜玉町中原の丘にある。
14 常楽智月 一七三七 一七七二 和尚 35
富田才治と謀り衆民を塗炭の苦しみより脱せしめた。智月、文を能くし、書もまた巧みであったため当時の飛檄回文は皆んな智月の作であろうと伝えている。鏡村半田常楽寺住職。
15 市丸藤兵衛 一七二四 一七七二 庄屋 48
祖先は藤原氏の出にして半田砦の館主であった。資性寛容であったが、深慮ある寡言な人物。義を重んずること泰山の重きに比すべしと言われた。半田の庄屋。松原一揆の参謀格。墓は半田狐迫にある。
16 麻生又兵衛 一七二五 一七七二 名頭 47
資性剛勇にして恐れを知らず、一身これ胆なりと言われた。富田才活ことを謀るや直ちに参加して平原に通い枢機に与かった。
藤兵衛と終始一貫、一揆を成就せしめた。鏡村半田の名頭。墓は半田岸高にある。
17 吉武敬親 一七二五 一七七七 剣道師範 52
吉武義質(法命)の長男。聡明強記、家訓を承けて学業に丈け特に古学に通じた。また武事に多能、飛矢を握り鈍刀にて堅石を断つと言われた。藩侯は特に命じて藩中の剣技教師とした。宝暦十二年、土井侯古河移封に際し禄を加増された。墓は城外正定寺にある。
18 宇井黙斉 一七二五 一七八一 儒官 56
名は弘篤、通称小一郎。家累代唐津藩に仕えた。京都の久米訂斉に従って理学を研究すること三年、のち江戸に出て服部南郭の門に入り修業。土井侯古河転封に従ってその儒官となる。晩年官を辞し京都で教授業を営んだ。
19 中里太郎右衛門 一七一九 一七八六 陶工 67
唐津藩に生れ、吉武義質に学んだ。陶工として藩に仕え、優秀な作品を出し名工の誉れ高かった。土井侯転封のあと水野侯に仕えた。資性剛直、権威に屈せず、威武を畏れず、侃諤の論を吐く宴席の戯言よく時弊を突き、衆人その私心なく公平無私なるに服したという。墓は自南寺にある。
20 伊藤祐久 一七一〇 一七八一 庄屋 71
代々日向に居住していたが、六代以前に東松浦郡に移住。果断邁進の気象に富み、全国を遊歴十数年に及び田園開拓、潮干満と堤防の関係を視察研究して帰国、大串を開村し初代庄屋を命ぜらる。藩主土井侯の勧説を受け大串新田を完成し新田兵衛の名を得た。更に梅崎新田を開発した。天明七年没。
21 常吉太郎左衛門 一七二八 一七九二 庄屋 64
常吉家は代々幕府領の庄屋として浜崎、玉島、七山、鏡地方を統轄していた。太郎左衛門は明和八年松原一揆のおり、唐津藩当局が鳩首連日の協議も空しく、不穏な形勢となり、幕領庄屋組への調停依頼となったとき、太郎左衛門は専ら奔走し毅然として挺身、大いに折衝これ努めて衆意を上達し、而も藩側の体面を傷つけることなく無事解決の任を果した。隠れたるその功績はまことに偉大である。墓は横田上にある。
22 常安九右衛門保道 一七四〇 一八〇一 商人 61
岸岳城主の末商と称し鏡村の矢作に隠れていたが、のち唐津京町に出て商業を営み、次第に財を成し、中尾組と共同して小川島捕鯨を十二年間継続した。安永、天明、寛政年間に諸事業を営なみ巨万の富を積み上げたが私すること少なく、神仏に奉納するやら唐津町に寄附するやら佐賀、大坂にまで寄進の手をのばしたため肥前唐津の豪商日野屋九右衛門の名声は江戸までも聞えたという。墓は西寺町長得寺にある。
23 落合与吉 一七四二 一八〇四 儒臣 62
浜崎の船大工職・落合与平の子。二十七、八歳のころ相知の向復斉の平原の塾でその門人となり、相知希賢堂に留学し学業大いに進む。復斉の遺命により京都に遊学した。のち、伊勢国長島領主の儒臣に推選される。長島領主増山侯に従って江戸に出たが、儒臣を辞退して柴野栗山塾に入門して学業の薀奥を極めたのち浜崎に帰って来た。吉武義質の実学に従って郷里の子弟を教導するほか、相知の進藤確斉の希賢堂の教授もした。墓は浜崎にある。
24 世戸? 一七六〇 一八二一 大庄屋 61
宝暦十年七山村白木の庄屋草場新五郎の次男として生れ、出でて世戸雅の養子となる。天明二年山本、同五年下平野また神田、名護屋の大庄屋を勤めたが、到るところ治績大いに挙る。名護屋在任中、野元新田を開拓し、波戸岬に松樹を栽培して舟人の目標を作るなど殖産公益に尽力した。墓は名護屋にある。
25 進藤確斉 一七六〇 一八二一 塾師 61
相知の酒造家伝兵衛の三男。誠之と言い確斉は号。朱子学を唱道し明倫塾を開く。その教育主義は吉武義質の意を承け、名聞功利を退ぞけ孝悌忠信を主とし、日常の出入りにも礼と敬とを重んぜしめた。その教えを請うもの庄屋、商人、郷足軽や隣藩の子弟など二百余人に及んだ。水野侯より教育扶助として年々米十俵を下賜され、小笠原侯になっても同様であった。墓は相知にある。
26 松隈杢右衛門 一七六〇 一八二二 大庄屋 62
七山村池原に誕生。天明元年二十二歳のとき池原村庄屋となり、寛政七年馬場村(相知)の大庄屋となる。在役二十四年に及ぶ。この間、杉野(和田山)に、また押川に大溜を築き、また横枕大堰の水によって相知、山崎、中山、横枕、鷹取にまたがる百町歩の潅漑をよくした。水野忠鼎侯より多年の労苦を賞して紋服と米十俵を賜う。文政元年平原村大庄屋に移る。墓は池原村東ノ辻にある。大正八年には関係村民によって相知熊野神社前に彰徳碑が建設された。
27 富田楽山 一七五四 一八二八 塾師 74
宝暦四年平原村に生る。幼にして向復斉に学び、のち楢崎克斉に師事。郷校を横竹に設けて門人を誘掖した。水野侯これを聞いて白銀を賜う。晩年原郷に移り門人ますます増加。孝悌忠信諄々としてその説くところ牧童少豎といえども親しまないものは無かった。墓は唐津龍源寺にある。富田才治は楽山の叔父。
28 菊池俊蔵 一七八〇 一八三七 兵学家 57
肥後の菊池武敏の後裔。安永九年、神集島に生る。幼にして学に志し吉武義質の教えを尊信し請献遺言を暗誦しておった。十七歳のとき水野侯の臣三好兵馬に随って越後流の兵学を修め、その奥義を許可された。伝書は大草愚斉に伝授したと言う。文化八年丸田村庄屋に抜擢され、のち後川内に移った。文政五年神集島庄屋になった。
29 山村周平 一八四一 庄屋
湊村相賀の人。寛政年間亡父の後を継いで庄屋となり爾来二十三年間その職にあって村治上の功績は多大であった。勤倹力行十ヶ条を定めて村民に実行せしめ、田畑の畦道に水仙花を栽培せるは周平の発案である。藩庁の賞讃を受くること数回におよぶ。村民その徳を景仰して供養塔を建てた。
30 大草庄兵衛 一七七九 一八四一 塾師 62
寛政七年十七歳のとき江戸に赴き文武両道を学び多芸多能、砲術は求玄流を創案し、一家の門を張って兵法火術槍柔術みな免許皆伝。漢学経書に通じ、数学は関流の極神を伝え、天文暦年通ぜざるなし。のち諸国を遊歴して砲術を教え甲府、八王寺に多年留まった。天保十二年牛込神楽坂の旅宿で死んだ。四谷笹寺に葬る、唐津生れ。
31 保利文亮 一七五八 一八五〇 藩医 92
寛政十年保利春益の次男として生る。文渕、鹿門と号す。家業を継いで医者となり、始め筑前鹿家に住し、医業の傍ら子弟を集めて医学を教授していた。天保三年小笠原長会(ながお)侯に知られ、召されて唐津呉服町に移る。同七年三月、橘葉医学館が京町に設けられると、その守護を命ぜられた。その傍に家居し藩中の医師を教育した。時に三十九歳。嘉永二年藩医に登用された。翌三年五十三歳で病没、子無く文溟が養子となって後を嗣いだ。墓は西寺町大聖院にある。
32 山口義生 一七九六 一八五八 塾師 62
大内多門介義信七代の裔山口弘充の四男。寛政八年西松浦郡古川に生る。向雅山について経書を学び、京都に出て国学を修めた。養母田村に居住したとき藩庁に請って大池を築いた。府招、田代に歴任ののち職を辞し、新木場に村塾濯纓堂を設けて在郷の子弟に教授した。晩年久里村に移り濯纓堂を徳竹に開設した。学和漢に捗り、国学の名を萱の舎と言い和歌を好み秀歌も多かった。
33 松本退蔵 一八〇九 一八五八 大庄屋 49
文化六年今村に生る。学を好み諸家の門に出入し漢籍に通じ国学を善くした。天保十二年徳末大庄屋に任ぜられ在任十三年間。この間、私塾を開いて有志の子弟を教授。村名徳末を徳須恵と改めたのはこの人だという。のち鏡村大庄屋に転じここでも私塾を開いた。墓地は今村にあるが、子弟の建設である。
34 本田虎山 一八六二 住職
入野村寺浦の生れ。慈恩寺第十世大虚悦童師について得度、漢詩文に秀づ。四十年の久しき間、住職の傍ら附近の子弟を教授し、老壮を集めて農桑の道を勤め、土木交通の事業の今に残れるものがあるのは虎山の努力によるものである。
35 石崎嘉兵衛 一八六二 曳山創始
唐津の秋を賑やかに飾る唐津神社の秋祭りは、引山十四台の道中行進で一段と盛り上りを見せる。唐津くんちの一大景観でもある。いわゆる「ヤマ」は土井時代、水野時代もあったが、小笠原時代に入って、長昌侯領主のとき一番山、刀町の赤獅子が作られ城下十四の町々が次々にヤマを作った。この一連のヤマの最初のもの刀町の赤獅子を考案したのが刀町の住人石崎嘉兵衛であった。嘉兵衛はお伊勢詣りの帰途、京の祇園ヤマを見て帰り、大木小助らと共にこのヤマを作ったと伝えられ、ヤマの内側にその作者名が書いてある。
36 三井令輔 一八一四 一八六八 勤王家 54
小笠原の藩臣。幼少時より藩侯に学びその俊才は群鶏の一鶴といわれた。代官を初め諸役に歴任し元治元年藩の石炭掛となった。薩摩藩との交渉中に五代友厚らと交わったため心ひそかに勤王の精神を包蔵した。慶応三年江戸に出向し、機を見て小笠原壱岐守長行に謁し、錦旗反抗の汚名を免れしめんと意図していたが、志を果さないうち慶応四年二月二十四日、米渓新助のため殺害された。五十五歳。墓は唐津十人町来迎寺にある。
37 小笠原胖之助 一八五二 一八六八 彰義隊 16
唐津藩主小笠原長泰の子で、嘉永五年生れ。資性剛毅。寡言、幼にして林大学の塾に寄宿して勉強した。明治戌辰の際、一片耿々の義心に燃えて身を彰義隊に投じて奮戦したが、戦利あらず輪王寺宮を奉じて奥州に走り、爾後幕府の脱兵と共に各地に転戦。十月二十四日、函館の七重浜で戦死した。時に十七歳。墓と記念碑は唐津近松寺小笠原家廟所にある。
38 宗田運平 一七八七 一八七〇 塾師 83
宗田家は唐津藩初代の大名寺沢広高時代より見借村の庄屋である。運平は黒川村の生れ。十一歳のとき横竹村の由義塾で富田楽山に学び、二十五歳のころ水野侯の儒臣司馬広人について大和流の弓術を修めた。筑前武村の原田春種に算術、天文、暦法を究め、後年五十歳を過ぎて見借に愛日亭を開いて経書、近思録を講じた。弘化二年五十九歳で江戸に出で和算の大家長谷川善右衛門に学ぶ。藩侯より褒賞を賜わること二十回に及ぶ。小笠原長行はしばしば見借に運平を訪問している。
39 後藤飛弾 一八〇三 一八七一 教育家 68
打上村生れ。幼少より陰陽道を学び、八歳にして烏帽子着用手強を懸くることを許された。天保十四年、四十一歳にして黄絹衣の着用を許された。私塾明倫舎を居村に開いて、藩内各庄屋の教育に勉めまた楽しみとした。安政三年寺社奉行から表彰された。
明治四年卒去。六十八歳。
40 秀島鼓渓 一七八五 一八七一 塾師 86
義剛と言い、通称寛三郎。天明五年厳木村浦川内に生れた。家 は代々庄屋で弱冠にして父の職を継いだ。上に事うるや恭、下に臨むや恵。藩主からしばしば金品を賜わった。程朱の学を尊信し、詩文を能くし、実践力行を旨として私塾明倫塾で子弟を教育した。門人数百人に及び、老年に至り専ら著述に没頭。易経本義解、五品訳義、稽古録、天徳録、松浦記集成、積慶録など多数に上る。明治四年八十七歳にて病没。
41 野辺臨堂 一八二五 一八七一 教育家 46
字は英輔。文政元年城内大手小路に生る。代々小笠原侯に仕えた家である。嘉永四年抜擢されて馬廻兼助教となる。明治二年藩主小笠原長国は英輔を参事に任じようとしたが固辞して承けなかった。自宅を塾として子弟に学問を授け諄々として誘掖これつとめた。門下生には辰野金吾、天野為之、曽弥達蔵、掛下重次郎、保利真直兄弟、長谷川芳之助など、この国中に名をなした人々が輩出した。墓は唐津十人町来迎寺にあるが、篆額は小笠原明山、撰文は昌平校出身の島田重礼、書は巨匠大島尭田。由緒ふかい格調高き墓である。
42 山村敬吾 一八七二 大庄屋
山村周平の嗣子。父周平の遺志を承けて勤倹貯蓄、風儀改良に力をつくし、特に殖産に留意して溜池の改修、漁場の拡張に治蹟大いにあがる。藩主、父子の功を嘉賞して今村組大庄屋となした。耕地の開墾、農法の改良に尽力し藩庁から得たる金を村基金設定の基とするなど、その余沢は後世に及んだ。村民記念碑を建てて徳沢を表彰した。
43 大草銃兵衛 一八〇三 一八七三 教育家 70
愚斉と号し、享和三年唐津に生る。母に事えて恭敬、孝行人として有名であった。文政四年小笠原侯に仕え、弘化二年甲州に赴き、叔父庄兵衛の門人佐々木高陳に就て砲術を学びその秘を伝承、文武兼ね備わる。嘉永元年唐津に帰って藩侯に仕える傍ら邸内に学堂を設けて子弟を教育した。その門に出入して学んだものの数六七百人を下らない。
44 隈本愚 一八二一 一八七六 神職 55
虹洲と号し、笈を負って筑前の亀井昭陽の門に学ぶ。学成り帰郷して塾を開き、門下に集るもの皆その学徳を慕った。その名声次第に高く遠くに響き江戸から任官を促されるほどであった。明治二十二年門弟たち追慕の情やむ能はず諏訪神社の傍に、勝海州の揮毫になる「虹洲先生の碑」を建てた。
45 小笠原長国 唐津城主 文化九年−明治十年 65
信州松本城主松平光庸の次男賢之進。天保十二年五月、小笠原長和の後を継いで第五代唐津城主となる。長国は藩政改革に熱心で、新しい時代に対処して教育制度の改正に着手、藩に英語学校を開校した。向学の志に燃えていた城下の俊秀はここに学び、後年国家有為の人材となった。明治維新、廃藩置県に及ぶ唐津藩の知事となり、善後処理を完了して明治四年東京に引揚げた。唐津藩最後の城主である。(小笠原長勝)
46 小田周助 数学者 文政三年−明治十一年 58
文政三年唐津藩士水谷正純の第二子として生れ、藩士小田忠有の嗣となる。藩公に従い江戸で学び、また京都で暦法を研究。長崎で欧米人に就て測量術、弾道の理論実地を研修。慶応三年関流の奥伝を受く。明治三年、文武算三学所教授に任ぜられ、廃藩置県後伊万里、佐賀二県に仕え、唐津に帰って中学校教官を三カ年勤務。唐津人で苟も算数に丈けたるものは皆その学恩に浴した。日本海軍部内で有名な小田式機械水雷の発明者小田喜代蔵はその次男。唐津新町浄泰寺に顕彰碑がある。(小田龍夫)
47 小笠原長光 藩政指導 文化八年−明治十二年 68
長光は幕末における唐津藩最高の実力者。通称「修理」といい「誠斉」と号し、士民からは「朱門公」と呼ばれて敬愛され、また「お住居(すまい)さま」と呼ばれて親しまれた。小笠原氏唐津藩に移封前、棚倉藩主長尭公の第十三子として江戸で生れ、文政元年、兄長昌公の唐津移封に従って唐津の人となる。壮年に及んで江戸藩邸に出向き執政の役を勤めたが、一方元治元年藩主長国公は長光を「御政事御依頼」に就任してもらい、藩内の紛争を初め財政の遣繰り、長州征伐など多事多難の藩政に対処させた。晩年盲目となり吟詠をたのしみながら大名小路の自邸で悠々自適の生涯を送った。基は近松寺境内小笠原家廟所にある。(小笠原長勝)
48 菅野光彦 勤皇家 弘化元年−明治十三年 36
浜玉町浜崎の町家落合次郎左衛門の次男で儒者落合子曠の孫。少年時代から神影流の剣法を学び、長じては勤皇の志を抱き国事に奔走。のち長州藩に加わって伏見、鳥羽、会津に出陣。廃藩置県となるや当初の堺県警察署長に就任、また大阪控訴院判事に補せられた。墓は堺市南旅籠(はたご)町大安寺境内。(大場直光)
49 豊田朔 学者 文化七年−明治十五年 72
小笠原家の家臣、儒者豊田輪台の一女。長昌公転封のとき父に従って唐津に来た。輪台は志道館東側に塾を設け藩子弟の教育に当ったが、終始側近で修学し、その学問は群を抜き父の代行を勤 めた。文政四年輸台卒去の後、豊田塾を続け明治初年に及んだ。朔女の薫陶を受けた多くの人々が大正初め追慕の建碑を企図したが実現しなかった。(豊田茂)
50 豊原百太郎 造幣局長 嘉永二年−明治十七年 35
唐津藩士長谷川久誠の長男。尊皇の大義に生き、累を藩主、父兄に及ぼすを憂い姓を変じて豊原を名乗り勤王志士の間を往来。明治になってドイツに留学、帰国後、札幌農大に教鞭を執る。有名な地理学者故志賀重昂は当時の教え子。幾何もなく抜擢されて大阪造幣局長となり敏腕を奮う。(豊原廉次郎)
51 田崎権十郎 大庄屋 文化十一年−明治十八年 71
田崎猪八郎の長男として旧鬼塚村山田に生れた。文政十一年、十五才にして父の後を承け相知組の大庄屋。安政五年鏡村大庄屋となる。当時鏡村の疲弊困窮は甚だしく、権十郎これを見るに忍びず、安政四年大救済の法を講じ、鏡新田の造成に着手、起工後三カ年人夫一万人を使用して見ごと竣工。移住民に田畑地、宅地を分配して農業に従事させた。明治四年伊万里県庁の顧問に任ぜられ土地の改制、地区制定に尽力した。(田崎シメ)
52 松浦顕龍 教育者 安政元年−明治十九年 32
唐津新町安浄寺副住職。皇典を吉井法蓮に漢籍を大草愚斎に、漢詩を草場船山に英学を飯田勝貞に学ぶ。明治七年志道小学校教員となり、十二年唐津中学校教員、十四年抜擢されて壱岐中学校長。十九年東本願寺大学寮教授となり大いに前途を嘱目されたが京都で入寂。安浄寺に碑が建っている。(如来真城)
53 富野淇園 画家 天保元年−明治二十年 57
唐津本町御使者宿に生れた。明治に入ると御使者宿の仕事も無くなったので私塾を開いて良家の子女に学問を教えまた絵を描いていた。唐津くんち行列図は明治十六年五十四才の作品。七幅続き大幅に西ノ浜御旅所から西ノ門附近に及ぶ十五台の曳山と曳子のほか大名行列、奉納相撲、侍、町人、物売りなど千人に上る人物を配した江戸時代末期の風俗画。本町の金獅子、水主町の鯱は淇園がその原画を描いた。佐賀師範学校の初期に同校で絵の先生。墓は十人町法蓮寺にあるが、明治四十一年夏、墓のほとりに塾生山内小兵衛、古館正右衛門ら十数人が彰徳碑を建てた。(松下宏)
54 田中廉平 教育家 天保七年−明治二十年 51
浜玉町玉島加茂宣種の三男。隈本虹州に就て学ぶ。長じて田中家を嗣ぎ、文久元年浜崎村庄屋となり次で大村粗大庄屋。専心教育のことに拘わり、当時小校分立を慨き併校の議を建て明治十三年四月、大規模の校舎を建造、郡内一と称せらる。労務委員、勧業委員に任じ、名誉戸長に推された。村民碑を建てその業績を不朽に伝う。(田中敏昭)
55 中沢見作 教育家 文政五年−明治二十二年 67
唐津藩士中沢安僊の息。初め田辺石庵の門に入ったが、のち杉田成郷に就て蘭学を学び長崎に遊学、勝安房らと共に海軍養成所に入って英学を修めた。文久元年藩の西洋砲術教授となり軍政改正に与る。明治二年権大参事、次で衆議院議員となる。同十一年司法省に出仕、同二十年帰郷して大成校に教鞭を執った。機堂と号し資性きわめて硬直。依田百川評して曰く「明山の鋭敏、機堂の堅剛相合わずと雖ども以て唐津の双璧と称すべし」と。(岸川欽一)
56 保利文臺 医師 文化十一年−明治二十二年75
保利玄洞の長男で唐房に生る。父祖の業を継ぐために医術を志したが、叔父の藩橘葉医学館長保利文亮の許で叔父の代講をやり、藩公の御前講演をなし藩主から激賞された。のち上京の途中、厳木里正保利香六宅にて宿泊、時勢を談じて意気投合。帰郷後は居を厳木に定めて開業名声あがる。博学にして詩文をよくし、傷寒論註解、病因備考の遺著がある。(保利長)
57 長谷川雪塘 絵師 天保七年−明治二十三年 54
奥州の人、庄内藩松田稔左衛門の息、安政三年二十才にして狩野永*(直心とく)に就て絵を学ぶ。慶応三年、雪堤の門人として唐津藩に仕え、ここで姓を長谷川と改めた。北宋画家に属し僧雪舟−長谷川雪旦−雪堤−雪塘の系譜、永鱗と号した。廃藩後、唐津江川町に住み一般の需めに応じたので唐津界隈に遺作が多い。墓所は江川町松雲寺にあったが、昭和四十年西宮市甲山霊園に移した。(長谷川守通)
58 小笠原長行 老中 文政五年−明治二十四年 69
唐津城主小笠原長昌公の嗣子、文政五年五月十一日唐津城で生れる。行若と称す。安政四年三十六才で藩主長国の養嗣子となり長行(ながみち)と改む。長国の名代として藩政を見るため安政五年四月唐津に帰国。文久元年四月再び江戸に上るまで三年間在藩したが、その間多くの治績を挙げた。文久二年九月老中格、元治元年九月壱岐守と改称、慶応元年十月老中、同二年老中再任、明治元年二月老中職解任。同三月江戸を脱走して東北、北海道に踏晦同五年七月東京に帰る。老中職の時、生麦事件の解決、兵庫開港など大いに活躍したが、長州征伐では敗戦の悲運を見た。晩年、駒込動坂に閑居、世俗を絶って悠々風月を友として暮した。(小笠原長勝)
59 村瀬文輔 藩士 文政九年−明治二十七年 68
文輔幼にして学を好み、弘化三年藩公の命を受け江戸に遊学、朝川善庵の塾に入りまた佐藤一斉の昌平坂学問所に学び遊学十年安政三年帰藩藩士に教授す。同五年長行帰国するや信任厚く、長行東上に従い枢機に与る。嘉永七年蝦夷地に入り樺太に渡って踏査。藩公の使者として大村、長崎、福岡にそれぞれ重任を果し、当時の学者志士との交りも厚かった。(村瀬文司)
60 伊藤仲興 大庄屋 文化十四年−明治二十八年 78
遠祖は藤原鎌足に発し世世日向に居住したが、故あって打上村横竹に移住。父仲照別に一家をなし大野組大庄屋。仲興十三才のとき兄死亡、その職を継いで切木村大庄屋となる。仲興が嘉永六年に企劃植栽した切木牧野地の防風林は延長東西六百問に余り鬱蒼としてその功績を現わしている。(伊藤愛興)
61 増田敬太郎 巡査 明治二年−明治二十八年 26
熊本県菊池郡泗水村出身、明治二十八年佐賀県巡査を拝命、唐津署詰となり入野に駐在した。時たまたま高串にコレラが流行、防疫作業に挺身、死体運搬、埋葬など手伝い三昼夜に及ぶ不眠不休の活動したが、不幸自身も感染し僅か十二時間後に死亡した。臨終に際し「余死しても防疫の為に尽さん。向後この地に悪疫を入れしめず」との言葉を残した。区民こぞってその熱意と功労を称え、英霊を慰めんが為に神位に奉じ増田神社として紀る。(増田キヌエ)
62 鶴田謙三郎 教育家 文政十年−明治三十四年 75
入野村鶴巻に生れ、七才にして慈恩寺住職本田虎山和尚に就て経書を学び、長じて唐津藩の儒者大草愚斎の門を叩く。三十才で父の職を継いで庄屋となる。地方古老の政治教育に関係あるものは大半その薫陶を受けた。入野の地僻遠にありながら比較的多くの識者を出したのは謙三郎の学徳に与かるところという。明治維新学制発布とともに教職に就き、また閑地にあって悠々十年読書を楽しみ蔵書十筐に及んだ。(鶴田伝)
63 松尾直太郎 大庄屋 天保八年−明治三十五年
名護屋村に生れ、弘化四年より漢学を専攻。嘉永六年六月名護屋組七ケ村大庄屋代役申付けられ、爾来村政に従い再三選ばれて村長となる。自治の伸長、学校造営、就学奨励、道路開発、溜池増築などその尽力顕著なるものがあり、明治四十一年二月にその生前の功労に対し、賞勲局総裁より銀盃を下賜された。(松尾悠)
64 坂本経懿 大区長 天保十三年−明治三十六年 61
佐賀藩士坂本経道の二男。明治八年佐賀県第五大区長となって唐津定勤所に勤務、明治十一年末には杵島郡長に転出した。唐津在勤四カ年は唐津地方近代化の基礎が確立された時期。郡内経済交通の基幹となるべき厳木、唐津、呼子間の道路の改修、公立綜合病院の設立、唐津准中学校の新設、小川島捕鯨の建直し、捕鯨会社の設立に尽力した。明治十四年杵島郡長を辞任して永住の居を唐津に求め、唐津のことを思い、唐津の為に多くのことをした。水上警察の誘致、税関出張所の誘致、海軍予備炭田の廃止請願、唐津開港の請願、唐津興業鉄道の発起など「明治唐津」の主たる事業に彼の参劃しないものはない。その間、初代唐津町長(明治二十二年)に選ばれた。(山口シナ)
65 戸川俊雄 神職 天保十二年−明治三十七年 64
唐津神社の宮司で、父は惟誠。明治初年から神職取締所の講師として神官養成の任に当り、県下各地を巡って神道を説き、日本精神の昂揚に務めた。かたわら歌道を修めて雅号を芝園と称し門弟を養う。唐津国風会の創設者、その門に福地隆春、河内野弘道、宮田直太、菅野芳雄たちがいた。(戸川健太郎)
66 小林安兵衛 鉱業 安政元年−明治三十七年 51
北波多村坊中岩崎友右衛門の二男。岸山小林家の家督を相続、家業の酒造業を廃して鉱業に貢献。村議、郡議、県議を歴任。のち村長となって教育、勧業、衛生の改善を図る。慈善心に富み、その援助を受けたるもの数を知らず、巨万の富も義侠的に頒ち与えたものが多かった。(小林カメ)
67 保利文溟 医学者 文政八年−明治三十八年 81
名は貢、字は享甫、松浜と号す。佐志村神官宮崎但馬正の二男。弱冠にして儒を筑前今宿亀井雷首に学び、二十二才で唐津藩医保利文亮の養子となる。父に就て医を学び、父没後、秋月藩江藤養泰に師事。安政二年帰郷医学館主護となる。元治元年御医師に召抱えらる。明治三年橘葉医学館都講に任ぜられた。医業のかたわら書画、詩歌、俳句を能くし著書に戎衣論あり、賦するところ鶴城八景は広く世に伝わる。(保利哲郎)
68 草場見節 医師 弘化元年−明治三十九年 63
世々医業の草場家の第六代で、第二世見節をいう。十七才にして熊本の旧藩医深水玄門に裁て七カ年漢法医学特に内科を修業して帰国、明治元年唐津京町で開業。同三年橘葉医学館の盟主に任ぜられた。翌四年、藩の命によって肥後玉名の田尻宗彦に就て産科の修業をして帰郷。当時、産科医として九州一円に名声高く、繁忙を極めたが、財力は日増しに豊かになった。唐津焼の復興を試み「見節窯」の名いまに残る。茶人としてもその名が知れわたった。(草場幸雄)
66 奥村五百子 愛国者 弘化三年−明治四十年 65
唐津中町高徳寺に生れた。父は了寛、高徳寺十二代の住職。父の感化を受け勤皇の志を抱き、十七才の頃より国事に奔走。明治二十三年国会開設に普って天野為之の選出に懸命の努力を惜しまず、唐津海軍用地の払下げ、松浦橋の架設、鉄道敷設、蚕業奨励、唐津開港など公共事業に対する功労多く、就中、愛国婦人会の創設は世界中でも稀に見る婦人運動の最たるものである。(奥村靖)
70 岸田音吉郎 大庄屋 天保十四年−明治四十年 69
佐志村の生れ。先見の明に富み、従来唐津港は東港のみ物資の輸出港として発達しているが、港湾としての将来の発達は西港にあるとして東港西港の利害得失を論じ西港の優越性を提唱。西港の発展に努め明治二十二年唐津港が特別輸出港となるや西港の改築を劃策。西港の発展は実に岸田の功績といえる。(岸田往夫)
71 鳥越美澄 神職 文化十五年−明治四十一年 92
唐津神社宮司戸川惟成の二男。十六才にして湊村八坂神社神官鳥越出雲の嗣子となる。一生を神社の神威発揚と郷党子弟の薫育に尽す。明治大正を通じ湊村の中心人物は氏の薫陶を受けないもの無く湊十傑の名声近郷に響く。村民その高風を慕って先生と呼び、近隣には「湊の先生」として聞えた。(鳥越太郎)
72 進藤寛策 医師 嘉永二年−明治四十一年 60
鏡村原に生れ、長じて多久の草場船山の門に入る。明治二十年、大阪に出て、花岡良平に就て医術を修めて帰郷、鬼塚村で開業す。当時は近代医学創業時代で大いに名声を博した。遠藤竹之助、松尾房二の両医師はその門弟である。墓所は和多田片草の丘にあるが、玉垣は鬼塚村民有志の拠金に依るもので、近隣の人人その人徳に慕い寄った。(進藤束)
73 山辺浜雄 神職 文化十五年−明治四十三年 64
佐志村山辺歓敬の長子。代々修験を職とし黒崎坊といった。少年時代両親を喪い、爾後独学を以て国書漢籍を研鑽。明治維新を機として修験を抛って神職となり、かたわら教職、学務委員、村長、郡県議、農会長の職を執ること三十余年。その間、学校、神社を建築、耕地整理を行うなど村治の統一を図る。郷党、県郡の知人その功労を称えて記念碑を建設した。(山辺斉)
74 常吉八太郎 教 師 安政四年−明治四十三年 89
浜崎町横田上に生れ、幼にして聡明、漢字、国学に精進し明治九年、小学校教師となる。在職三十余年十年一日の如く精励格勤、生徒また慈父の如く敬慕、父兄の信頼とくに篤かった。大正十年七月、門弟相図って頌徳碑を建立して報恩の微衷を表した。
(常吉享)
75 大野右仲 藩士 天保九年−明治四十四年 74
昌平黌に学んで交友きわめて広く、北越の豪傑河合継之助と最も親密にした。老中小笠原長行の知遇を受け側近にあって献替。長行の東北行に従って一時幽囚の身となる。こと鎮って長野、青森、秋田各県の警察部長を歴任、のち東松浦郡長となって官途に終りを告げた。東京にて病没(川原篤)
76 市川理三治 商業 嘉永三年−明治四十五年 62
湊村の豪商の家に生れ、鳥越美澄、豊田周造の私塾に就て学んだ。慶応三年より家業に従い、かたわら教育に力を傾け、明治九年の学校建築、同二十年の改築、同三十三、四年の増築などすべて建築委員長として難局に当った。郡会議員、村農会員など諸公職に就き犠牲的精神に富んでいた。(市川憲治)
77 小田喜代蔵 水雷長 元治元年−明治四十五年 49
父は小田周助。海軍兵学校に入って水雷の研究に意を用い、卒業後、水雷艇に乗って全国の海岸を周航。日清戦役では威海衛攻撃に勲功を樹て、水雷研究の為め英国に派遣さる。日露戦役に際しては「小田式機械水雷」を旅順港外に沈設して敵旗艦ペトロボーロスク号を轟沈。累進して海軍少将、呉海軍工廠水雷長に補せられた。小田式水雷発明の功績を賞し従四位勲二等の叙勲に浴した。(小田恒夫)
78 長谷川芳之助 鉱山業 安政二年−大正元年 57
慶応二年大阪に出て英学を学ぶ。明治三年唐津藩貢進生に推されて大学南校に入る。明治八年南校留学生としてアメリカに渡りコロンビヤ大学に、帰途ドイツのフライベルヒ大学で鉱山学を修得、明治十二年帰国。三菱に入って諸鉱山の開発に従い、三菱退社後も筑豊、肥前の炭鉱開発に尽し、製鉄事業調査委員として八幡製鉄所の設置に奔走した。宗教哲学政治に関心ふかく、政論家としても有名だった。鳥取県から代議士に選出されたこともある。工学博士。(長谷川真一)
79 脇山暢 鏡村長 嘉永五年−大正元年 60
明治五年八月、壮兵として鎮西鎮台に入営、佐賀の乱を初め台湾の役、鹿児島の役から日清役に従軍、一兵卒から陸軍歩兵少佐に任ぜられた。帰郷後、その人格を称える村民に推されて村長に就任、治績大いに挙がるうち日露の役に出征歩兵第六十聯隊大隊長として渡満、抜群の功によって中佐に昇進、従五位勲四等功四級並に銀盃一組を下賜さる。居を仙台に移し同地で病没。(香村茂富)
80 奥村円心 勤皇僧 天保十四年−大正二年 70
唐津中町高徳寺第十二世住職奥村了寛の長男。九才のとき得度、父了寛と共に京都の祖父寛斎に面接して感銘、更に東京に上り縁故の前田、黒田両侯を仰いで感化を受けた。日田の広瀬青村、多久の草場船山に学ぶ。文久三年二十一才の頃から国事に奔走。明治元年父の死に逢い家を継ぐ。明治十年本山の命により朝鮮布教、十二年に釜山別院を創設し三十年光州に五百子と協力実業学校を創立。三十二年には千島に出張して色丹島の事業を完了。再度朝鮮に渡って教化諸事件の解決に貢献した。(奥村靖)
81 麻生政包 鉱山技師 安政四年−大正三年 57
唐津藩英語学校で高橋是清の薫陶を受けて上京、明治十二年工部大学に入り採鉱治金科卒業と同時に福岡県鉱山監督局次長に就任した。明治日本の興隆期に際して筑豊の鉱山業者、貝島太助、安川敬一郎らの相談相手だった。一時、三井鉱山の技師にもなり、また北海道文珠炭鉱、長崎県香焼島炭鉱の開発にも手をつけた。(麻生政一郎)
82 牧川茂太郎 商業人 明治元年−大正三年 46
風光明媚を以て知られる郷土唐津を逸早く観光宣伝に乗り出し「唐津名勝案内」を著作刊行。大石町の旧家に生れた牧川は三十才にして唐津町会議員に推され、十数年間町政に参劃、その間に遺した功績は舞鶴公園裏側の登り道を造成したことである。時局認識に敏で、明治三十二、三年ころ東京、大阪、福岡の大新聞の取次販売を始め地方文化の向上を図った。日露戦争がはじまると大連に物資を輸送し彼地に牧川洋行を開店、大陸発展を期した。(牧川洋二)
83 西川春洞 書家 弘化四年−大正四年 69
唐津藩医の家に生れ、名を元譲、字を子謙という。別号を稚学園、石巷子、如瓶人、大夢道人など。父に従って江戸藩邸にあり、医術のかたわら厳谷一六、金井金洞らと共に中沢雪城に書を、杉田彬斉に漢学を学ぶ。三十五才にして一家をなし、草篆隷を能くし篆刻詩画にも通ず。明治初年、一時大蔵省に出仕。書道の教授に従い門弟二千を数えた。(西川寧)
84 堤静雄 教育家 安政元年−大正四年 71
北波多村徳須恵神官堤伊賀守清度の次男。文久二年京都に遊び公卿の間に出入、志士と結び劃策。明治八年帰郷、徳須恵小学校創設で校長に推され、また東松浦郡全学区取締役に挙げられ、同志と謀って唐津教育会を組織。教育会頭、北波多村長に任じ、明治諸般の開発に努力。文部大臣表彰、のち更に菊花紋章の三組盃下賜の恩典に浴す。(堤正典)
85 大川謙治 教育家 安政元年−大正五年 63
唐津藩士の家に生れ、明治十年身を教育界に投じ、鹿児島、宮崎両県に歴任。同十七年唐津小学校長。明治十八年同志と共に唐津教育会を創設、三十一年に郡教育会頭に挙げられ勤続七年に及ぶ。昭和四年門弟相寄り校庭に銅像を建設した。(大川直士)
86 山口用助 忠僕 天保五年−大正五年 82
嘉永元年十五才の折り打上村菖蒲の田舎に母一人を残し唐津城の賄方下役に出仕、当時江戸住居の小笠原長行に招かれてその側近を護衛、側室美和夫人の身辺を護るなどひたすら小笠原家の安泰に腐心。唐津城主長国公、老中長行公、宮中顕問官長生公の三代六十四年間に及ぶ忠勤ぶりに対し東京府知事の表彰を受け、小笠原家出入りの東郷元帥、乃木大将から忠僕″と称えられ人間の活手本″と賞讃された。墓は東京府中の小笠原家廟所にある。(山口喜一)
87 原英一郎 庄屋 嘉永二年−大正五年 66
湊村庄屋原慶太郎の長男。幼時大草愚斎の門に入って学ぶ。湊では鳥越美澄の家塾で漢学国学に精進。長崎県時代に松田正久らと共に県会議員となる。明治三十三年東松浦郡水産会長、三十九年には湊村長に推され晩年に至る。大正三年から五年に亘る湊大防波堤の築造など家産の傾くをも知らず村治県政に心魂を傾けた。(原圭典)
88 安住百太郎 教育家 弘化三年−大正六年 71
杵島郡北方町志久出身、読書を好み詩文に勝れ、十七、八才の頃東原庠舎に学ぶ。戊辰の役に参加し、明治七年佐賀の乱の時は唐津藩士百二十人を率い、七山越えで佐賀に向った。敗れて除族二年の刑を受けた。波乱の前半生を過したが、公証人となって明治二十三年以後唐津に永住した。晩年、河村藤四郎らと交友し舞鶴吟舎を起し一白と号して風雅を楽しんだ。墓は大乗寺。(安住正夫)
89 宮島伝兵衛 醤油業 弘化三年−大正七年 71
宮島家では第七世。明治初年、唐津炭の松浦川運搬で時運に乗り順風満帆の家運。醤油業を創始して更に家産を充実。大正五年古稀の賀寿を迎えて、石炭五十年、醤油三十五年の祝意をかね私邸で祝賀の大盛宴を張った。記念に学生奨学資金として壱万円を郡教育会に寄託、その恩沢に浴した学生は数十人に及んでいる。(九代宮島伝兵衛)
90 長谷川敬一郎 実業家 弘化二年−大正七年 73
久里村の生れ。十五才で平野組の庄屋、累進して久里村庄屋。県会議員を経て大正二年五月に衆議院議員に当選。大正三年十二月には「三十四年間県会議員を勤め公共の為に尽せり」ということで三っ組金盃を受けた。その間、唐津石炭合併社社長、郡町村組合議長、西海商業銀行役員、唐津製塩社長などを歴任。その他久里村住民に施したる施策は厚く、住民は頌徳碑を建設して功績を称えた。(長谷川庫治)
91 峰? 相知村長 嘉永四年−大正七年 66
相知村相知に生れ、文久二年梶山村庄屋となる。明治六年相知村ほか四ケ村村長となり、同八年佐賀県第五大区六小区副長。同十一年相知村、梶山村、山崎村戸長。同十七年六月相知村ほか十五ケ村戸長に就任。同二十二年四月町村制実施に伴い相知村長に推され、引続き大正四年三月まで実に二十五年間村政の衝に当った。その間に藍綬褒章を受賞。(峰タツエ)
92 辰野金吾 建築家 安政元年−大正八年 64
明治時代の建築を代表する偉大なる建築家。唐津町坊主町の藩士姫松家に生れ、のち辰野家の養子となる。高橋是清の英語学校に学び上京、明治十二年工部大学を卒業して欧州に留学、十六年帰国して工部省御用掛、東京帝国大学教授。工科大学長にも就任。東京駅、日本銀行本店の建築は後世まで「辰野建築」として称揚さる。工学博士。(辰野明)
93 宮崎雅香 歌学者 嘉永元年−大正八年 70
戸川惟誠の二男で宮崎福足の養子となる。慶応四年藩公の命を受け堤静男らと共に京都に上り、漢籍を梅辻平格に、国学を諸陵頭谷森善臣に就て学び、明治四年東京に転じ本居豊頴に就て歌学を研究。明治五年神祇宮内諸陵寮大属拝命、ほどなく帰郷し佐志八幡宮司宮となる。後年実兄戸川俊雄と共に唐津国風会を起し歌道研究と後進の指導に当った。(宮崎みよ)
94 松隈鉞造 有浦村長 安政六年−大正八年 68
玉島村に生れたが、九才のとき有浦村松隈杢太郎氏の後を嗣いで移住。大草銃兵衛に就て漢学を修め志道館に入って修学。明治二十年有浦小学校に教鞭を執る。間もなく村長に推され大正二年に至るまで六期二十四年間在職。当時有浦村をして郡内優良村の名を得しめたるは氏の努力と徳に俟つ。大正四年県会議員にも当選。(松隈矩夫)
95 井手豊助 商業 弘化三年−大正十年 75
相知村の素封家田代安兵衛の三男に生る。北波多村井手豊兵衛の養子となる。明治二十二年北波多村初代村長に選ばれ、二十余年間その職に当りその後、佐賀県農工銀行の設立に尽力、役員となる。また県会議員にも選ばれた。(井手金治郎)
96 関根義幹 教育家 明治元年−大正十年 53
佐賀師範学校第一期の卒業。東松浦郡最初の科長視学として教育革新の灯明台となる。明治三十三年郡視学となり在職六年、三十八年朝鮮に赴き普通学校の教監に就任したが静養のため帰郷。唐津町子弟の常識低級なるを慨き私立唐津商業学校を創始、これを町当局に委ね再び渡鮮。雄志を抱きながら病に倒れた。(関根諭)
97 矢田進 唐津町長 嘉永四年−大正十一年 71
文久元年十一才にして志道館に学び、明治元年京都に上って勤王家の門にあること三年、また鹿児島藩立学枚に在学三年。明治十年帰郷戸長を経て郡書記、十九年郡第一科長勤務中二十九年唐津町長に推され五期二十年間在職。その間、呼子灯台の建設、捕鯨会社の設立、電気会社の創設、唐津小学枚改築、高等女学校新設などに尽力した。(矢田良之助)
98 井山憲太郎 柑橘栽培 安政六年−大正十一年 63
玉島村平原草場の出。南山草場逸馬の私塾に通い、また多久草場船山の塾で漢学を修めた。十六のとき医学を志し佐賀、長崎の医学所で理学、解剖学など学び更に上京、外国学校でドイツ語を学ぶ。十九才で東京医学校に学んだが、在学中病に倒れて帰郷。医学を断念して村の勧業、殖産、教育に従事、明治二十二年請われて教職に就く。以後四十二年間、退職するまで教育者として一生を送ったが、寝食を忘れて蜜柑の普及に献身したのはこの教職時代であった。学校退職の後は玉島村農会長、東松浦郡園芸会長、玉島村同志研農会長などに推された。(井山民男)
99 中村宗a 茶匠 天保十三年−大正十三年 82
安政六年八月、小笠原長光の命により家老に随って江戸に出で、茶道宗偏流第六世宗学の門に入る。七年間修業して唐津に帰り藩主長国に召抱えられ御役部屋坊主御雇を仰せつけらる。明治維新後は茶道廃滅に近い世情、同志と共にこれを憂えて復興普及に乗り出し、晩年に至るまで五十年、家元代理として尽瘁、家元では宗aの労を慰めるため師範代を以て遇せられた。近松寺に頌徳碑がある。(中村ハナ)
100 山内喜兵衛 事業家 安政四年−大正十三年 67
二十九才にして第一期唐津町会議員となり連続終生その任にあること三十年。幾多公職のほか唐津銀行の創立に努力、また唐津物産会杜を設立して諸外国と石炭売買の契約を結ぶ。その他軍隊用器の請負製作、野菜乾燥工場、魚類缶詰工場などを設立し地方産業の開発に努めた。また九州炭鉱汽船会社、北九州鉄道の敷設、商工会議所の創立など事業大小となくその関与せざるはなく奮闘努力。世人の賞讃を受けた。
101 永江景徳 鬼塚村長 安政三年−大正十二年 68
この年十一月朔日水江門左衛門景明の一人息子として生れた。藩校志道館で和漢の学を修め、明治九年唐津変則中学校に進んで英語、理化学を修む。同十五年東松浦郡書記となり、三十年抜擢されて郡役所第一科長となる。大正六年懇請されて鬼塚村長に就任、十年再選されて十二年九月中途病没。郡役所在任、二十余年衆望一身に集まり水江郡長の世評があった。特に労務当路者として教育実務家を尊重、その眼識は敬服された。(水江金之助)
102 吉岡荒太 女子医学校 明治元年−大正十三年 58
東松浦郡高串に呱々の声を挙ぐ。家系世々医を業とした。明治十九年上京、ドイツ語学校に入り後ち第一高等学校に転じたが療養のため中退。明治二十四年東京至誠学院を興し独逸語を教授。二十八年八月吉岡弥生(旧姓鷺山)と結婚し校運日に隆昌に向う途中、弥生の希望を容れ東京女子医学校を創設、多年苦心の功あ りて明治四十五年三月医学専門学校の認可を得、更に進んで大学昇格の計画中病没。特筆すべきは愛郷の情切にして母校小学校への数々の寄贈、上京する郷人に対し金品を惜しまず便宜を与え、養成する生徒も多かった。(吉岡博人)
103 中原南天棒 傑僧 天保十年−大正十四年 87
唐津十人町、小笠原藩士塩田寿兵衛惟和の子。幼にして母を失い世の無常を感じて仏門に入る。近松寺の陽溟和尚に就て仏法を聴き、平戸の雄香寺麗宗和尚の許で四書五経、漢詩、仏典を修学。二十三才の時、久留米の梅林寺僧堂に転じ羅山老師の印可を受け、臨済禅の奥義を体得するため、師を尋ね道を求めて風山露宿。明治二年三十一才より六十四才の三十三年間、明暗迷悟を打ち破って、南天の一棒を提げて天下を横行した。その間、山岡鉄舟の尽力で東京市ヶ谷道林寺を道場として乃木、児玉を打ち出し、松島瑞巌寺に住職するなどした。明治三十五年六十四才で西宮の禅窟海清寺に住職し、八十七才まで二十二年間、東奔西走、全国坐禅会を指導した。墨蹟十万余枚に及び、参禅者三千人を数えた。七十才で禅僧の最高位を受け、八十才で生き葬式をしたことも有名な話である。幼名は慶助、姓を中原と改め、戸籍名は中原ケ州、通称を南天棒といい、この名高し。(海清寺)
104 村田保 経世家 天保十三年−大正十四年 83
唐津藩士浅原耕司の長男。十才のとき村田姓を名乗り江戸の若山荘吉塾に入門。明治維新後、昌平校出仕から元老院などの諸役を経て十五年元老院議官、同二十三年勅選の貴族院議員となった。前半生を法律の勉強に励み、未決囚の即決、拷問の廃止、一夫一婦制の確立、陪審制度の研究に尽力したほか水産博覧会の開催、水産講習所の創設にも熱中した。明治天皇から星栗毛二見号の名馬を下賜されたほどの乗馬人、小松宮彰仁親王から水産王の称号を、司法大臣山田顕義から「馬法魚」の印形をもらい馬術と法律と水産の三つの功労者たるを表彰された。(麻生ツ子)
105 竹下千賀松 教師 明治八年−大正十五年 51
明治二十七年郡立大成学校を卒業、爾来三十有余年間、鬼塚小学校教員として諄々教えて倦まず、郷党呼んで村夫子という。学生時代つねに首席、教員在職中読破せる書籍無数、同僚から生字引と称えられた。独り敢然として名利の外に立ち一教育者としその職に甘んじたるその徳を慕い、郷党は頌徳碑を建てて鴻徳を伝えた。(竹下 勇)
106 居石瀬山 塾師 天保五年−大正十五年 92
厳木町瀬戸木場で代々庄屋の家に生れた。居石直意の後嗣。直興といい楽山とも号した。万延の頃、中島の五惇堂で鼓渓に師事し、また草場船山の門で経学詩文を学んだ。遠近の子弟その徳風を慕って集まり、多くの人材を出した。一時推されて厳木村長の任に就いたこともあったが、隠徳上聞に達し木盃並に酒饌料下賜の光栄に浴した。(居石直人)
107 高取伊好 炭鉱業 嘉永四年−昭和二年 78
多久の人。元老院議官鶴田晧の弟。出でて高取家を継ぐ。幼にして経詩文を草場佩川に学び、明治四年大学南校鉱学寮に入り、七年卒業。直ちに鉱業に従事す、刻苦精励実に四十有余年、唐津の住人となり、業を遂げ功成るや巨費を喜捨して奨学育英に、また殖産興業に且は救災救恤、社寺復興に寄与。その功績勲功は緑綬褒賞となり従六位の叙位となった。漢詩に長じ、詩文集「西渓遺稿」がある。(高取紀子)
108 堤三男 教育家 明治二年−昭和二年 59
岸岳城波多氏以来仕神の名家・河内守堤朝宗の三男に生る。佐賀師範学校を明治二十四年卒業。佐志小学校に奉職、時の村長山辺浜雄と協力して佐志部落の融和革新を志し、その功空しからず農漁村の父、部落の母とまで敬愛尊信を受け全国的模範学校黒崎校の基礎を築いた。のち抜擢されて県立農学校生徒監に就任、明治三十六年新潟県農学校に、また新設の大阪府立職工学校に転じては全国の模範校たらしめ、大正四年住友職工養成所の創設に迎えられて学監に就任。その敏腕は県内外に響きわたった。(堤貞次)
109 山崎常蔵 村長 天保十四年−昭和三年 86
大川野村に生れ、文久元年満島村山崎治吉の養子となり、家業の醤油醸造を経営。明治九年戸長職、また村長、村会議員、学務委員、所得税調査委員など名誉職に選ばれ一村の中心人物として地方啓発に尽瘁すること三十四年。同志と図り満島倉庫会社、唐津物産会社、満島馬車鉄道会社の設立に先鞭をつけ、唐津銀行、唐津貯蓄銀行の設立にも参画した。
110 山崎四男六 内蔵頭 明治元年−昭和三年 86
唐津藩士石井直信の四男。山崎峯次郎の継嗣となる。明治二十九年東京帝国大学法科を卒えて大蔵属、司税官、主計官、大蔵書記官、銀行管理官、条約改正準備委員会委員、国債局長、関税局長、理財局長、帝室林野局長官事務取扱などを歴任、大正末期宮内省内蔵頭に就任した。
111 河村藤四郎 西松浦郡長 嘉永五年−昭和四年 61
旧唐津藩士。草場船山、佩川および村上仏前の門に学ぶ。長崎師範を卒業。時勢に鑑み、瓢然笈を負って明治大学に学ぶ。末松謙澄たちと共に同学第一回の卒業生、佐賀師範設立幹事、県会議員、西松浦郡長、東松浦郡教育長などに就任。炭鉱長、石炭会社社長、銀行諸会社の重役に選任され、常に重きをなした。身長六尺、威厳衆に秀で徳望高く世に「河村先生」の尊称を受く。晩年城内二ノ門に沈流亭を構えて俗界を脱し、詩文に没頭「蘇禅詩稿」の詩文集がある。
112 草場猪之吉 北鉄社長 明治元年−昭和五年 63
世々薬種問屋を営む唐津魚屋町草場三右衛門の嗣子。唐津中学校から福岡薬学校に進み薬剤師の肩書を得て家業を継ぐ。傍ら社会的活動に乗り出し電信電話の架設促進、私立唐津病院の設置、唐津銀行の創立に参画、唐津貯蓄銀行の発起、新聞の創刊、青年団の結成などその事績枚挙に遑あらず。就中、唐津、博多間の交通路線、国鉄筑肥線の前身、北九州鉄道の創設経営に尽力。北鉄社運停滞に際しては粉骨砕身挽回を図るうち、昭和五年四月十四日東上中客死。聞くもの痛惜せざるなし。
113 掛下重次郎 大審院判事 安政四年−昭和六年 75
唐津藩士掛下従周の二男、明治九年司法省法律学校に入学、十七年卒業して福岡始審裁判所判事に任ぜられ、爾後長崎、名古屋、大阪の裁判所を経て三十一年大審院判事となる。旧藩主小笠原家の顧問格として同家の庇護に当り、育英財団久敬社の経営に腐心する一方郷党の指導誘掖に熱心であった。郷土先覚者顕彰事業の相談役。従三位勲三等瑞宝章を受く。
114 峰是三郎 学習院教授 安政五年−昭和六年 74
唐津の町田生れ。幼時、入野村で成人し鶴田謙三郎に師事。のち唐津に出て大草愚斎の門に入る。明治九年笈を負って上京、東京高等師範学校を卒業。佐賀、福岡、大村の各中学枚、広島師範の教師を歴任、同二十年学習院教授となる。二十九年以後、岐阜、愛媛、山梨、大分各師範学校長を勤めた。大正九年退官後は悠々文墨に親しみ、青嵐の俳号は有名だった。(堤貞次)
115 柿村重松 漢学者 明治十二年−昭和六年 56
唐津十人町に生る。唐津大成校を経て明治三十一年東京高等師範学校専修科に進む。業卒え八代中学、長崎師範に奉職したが、再び上京、高師研究科に入る。卒業後、大阪地方陸軍幼年学校教官となる。漢文が国文に影響して人心を鼓舞せる所以を論証せんと志し、日本漢文学史、本朝文粋註釈、和漢朗詠集考証、新撰朗詠集考証、近世文林、国詩遺韻などの著作を志し、先づ「文粋」の註釈を始めた。病魔と闘いながら旧制福岡高等学校の教授にも就任。大正十一年三月「本朝文粋註釈」を刊行した。この著述に対し帝国学士院賞、恩賜賞を授かる。東京唐津人会並に郷里唐津でもその栄誉を称えて祝賀会が催おされた。(柿村峻)
116 長谷川_五郎 実業家 慶応三年−昭和六年 68
唐津藩士長谷川久誠の五男。明治二十九年分家して一家を建てた。唐津中学校に進んだが、中途退学して三井物産長崎支店に入社、ロンドン支店を経て神戸、香港、門司の各支店長を歴任。三十六年退職して門司、神戸で海運業を営み、のち廃業して大連土地建物会社、明治製煉会社などを創立、各専務取締役に就任。また昭和六年には土肥金山の社長にもなった。唐津市郡にて図書館の必要を痛感せるも財源に窮せし折り、二千五百円を提供して大正八年見ごと建築成る。(長谷川又二郎)
117 山下善市 松浦漬 明治四年−昭和七年 62
呼子町に生る。十七歳のころ小川捕鯨組の重役となり在職十五年。明治三十年呼子銀行の経営に参画し三十五年頭取に就任。東松浦半島北部農山漁村では欠くことの出来ない金融機関であった。いっぽう明治二十一年、名産「松浦漬」を創始、その販路は日本は勿論、外地外国まで延び年々莫大な収益を上ぐるようになった。昭和五年東洋捕鯨の重役に就任のかたわら、呼子町初代の社会事業方面委員に歴任、貧民救済、産業開発、教育充実に努め年々多額の金員を呼子小学校に寄贈した。ために町民からは教育功労者として欽仰された。(山下喜市)
118 佐久間退三 唐津町長 嘉永元年−昭和八年 86
唐津藩士佐久間知致の長男。十九歳で郷関を出で東都に遊学。小笠原胖之助公子に従って国事に奔走、戊辰の役に彰義隊に加わって破れ、会津に入り奥羽の間に転戦。北海道七重浜で胖之助公子の戦死に逢い榎本武揚の配下で奮戦せしも利あらず、榎本とともに帰順。のち郷里に帰り一時湊村長になったが、明治二十三年四月第二代唐津町長に就任した。辞任後は唐津鉄道会社の創立、また、唐津馬車鉄道会社を創立して社長となる。この間、郡会議員などの公職にも就いたが、明治四十三年以後一切の職務を辞し閑雲野鶴を楽しんだ。長州征伐、戊辰役、佐賀の乱で三度とも退却しなければならなかった悲運を諦観して始めの名「銀太郎」を「退三」と改名した。(佐久間次彦)
119 常吉徳寿 専売局長 明治十二年−昭和九年 56
浜崎町横田上、旧対州領代官の家に生れた。明治三十七年東京帝国大学卒業後、税務属、大蔵属に任官。渡台して新竹州、台中州の両知事を経て台湾総督府専売局長に就任した。知事時代は海岸飛砂防禦造林工事、台湾青果会社を設立してバナナ取引の改善を行い、専売局長としては酒専売事業の発展に寄与その他ビール専売の計画を立て塩田の整理、産業の振興、富源の開発など台湾統治の功績は顕著であった。(常吉斉)
120 栗原鑑司 満鉄中央試験所長 明治十二年−昭和九年 55
唐津城内大名小路出身。十二歳のとき辰野金吾を頼って上京。仙台二高を経て明治三十八年東京帝国大学応用化学科を卒業、東大助教授在任中、四十三年明治専門学校創立と同時に教授に招かれた。ドイツに留学の後、鉄道院、海軍省の依嘱により専ら燃料研究に没頭したが、昭和七年三月、満鉄中央試験所長に就任し燃料工学の研究指導を続けた。明専の栗原、栗原と石炭液化の合言葉があるほどで、石炭液化研究の先駆者として有名だった。(栗原美代)
121 高橋是清 教育者 安政元年−昭和十一年 82
旧唐津藩の幕末時代、藩知事小笠原長国は新文明の諸制度採用
を計画しその一つとして藩英語学校を設立した。藩大参事友常典膳を江戸に上らせて英語教師を探すうち、たまたま当時志を得ずして放蕩三昧中の「東太郎」こと高橋是清を紹介され、友常典膳も意にかない彼は唐津行を決心した。唐津の英語学校の名は耐恒寮といい、藩中の俊秀五十人が選ばれた。高橋が英語学校の教師をした期間は明治三年前後わづか一年半であったが、その薫陶を受けて後年名を成した人々に辰野、曽弥両工学博士、天野為之博士、掛下大審院判事、銀行家大島小太郎、鉱山技師麻生政包、吉原政道、化学者渡辺栄次郎たちがいる。高橋は後年、日本有数の財政家として幾度か大蔵大臣の要職に就き、内閣総理大臣の最高位にものぼった。不幸昭和十一年二月二十六日日本軍部のクーデターで兇弾に斃れた。(高橋是彰)
122 曽彌達蔵 建築家 安政三年−昭和十二年 71
江戸の唐津藩邸に生れたが、のち唐津に帰って志道館に学び藩英語学校で勉強した。明治六年工学寮に入り十二年工部大学造家学科を卒業。十四年には工科大学助教授に補せられ、二十年には呉鎮守府並に佐世保鎮守府の設計建築委員となった。二十六年東京帝国大学より米国へ出張、鉄道家屋の調査に専念した。三十四年三菱岩崎社長に随行イギリス建築を視察、三十九年三菱の建築顧問となり、自ら東京に建築事務所を開設した。東京海上ビル旧新館、日本郵船ビル、慶応義塾図書館など明治大正期の日本の代表的建築を手掛けた。
123 天野為之 早大学長 安政六年−昭和十三年 79
唐津藩士天野松庵の長男。江戸で生れたが、明治維新に際会して母とともに唐津に帰る。高橋是清に英語学校で訓育されて上京、東京帝国大学文学部政治理財科を明治十七年卒業、同志とともに大隈重信を翼けて早稲田専門学校(早稲田大学の前身)の創立に参画した。明治二十三年佐賀県第二区より第一回衆議院議員に選出されたが一回にして絶縁、専ら学者教育家の道を歩いた。著述頗る多く、中でも明治十九年出版の『経済原論』は当時日本における経済学の宝典として洛陽の紙価を高からしめた。大正四年早大学長に就任したが六年に辞し、早稲田実業学校校長として教鞭を執り経営に当った。坪内逍遙、高田早苗とともに早稲田の三尊と称えられた。
124 河村嘉一郎 唐津市長 明治十八年−昭和十八年 58
唐津市に市制が敷かれたのは昭和七年二月、その初代市長に選ばれたのが河村嘉一郎であった。東京帝国大学法科を卒業の後、帰郷して岳父大島小太郎が頭取をしていた唐津銀行の支配人となる。かたわら双子に唐津電気製鋼所を設立して社長をしていた。製鋼所は火災を起し全焼解散。市政施行で衆望を担って市長に選任されると「唐津は他の市に比べ二十年後れている」との日頃の認識に基き矢継早やに施策を推進した。唐津築港、鏡山登山道路、上水道敷設、松浦橋の移転架橋、材木町裏の埋立(栄町、千代田町)シーサイドホテル(旧)青年学校の設立など、その業績は今日でも高く評価されている。市長は一期のみ勤めて東京に移住、東京で没した。(河村四郎)
125 小形菊太郎 七山村長 明治七年−昭和十九年 70
三十四歳で村長となり十六年間。引つづき村議八年に及び一途村行政に心魂を傾け、村財政確立のため基本財産林の造成に着眼、幾多の障害を克服して二百六十余町歩の林野を開拓した功績は大きい。この基本財産林より生ずる収入は文教施設、産業土木の振興に多大の寄与をした。小形は専心社会教育、民心善導に努力し、挙村勤倹力行、納税完納の美風を作興するなど七山村今日の隆昌を築きあげた。村では役場玄関前に頌徳碑を建てて小形の功績を顕彰している。(小形雄一)
126 松下東治郎 久敬社理事 明治九年−昭和十九年 68
唐津藩士松下森治の次男。明治二十九年海軍兵学校卒。大正三年第二艦隊参謀、同四年大佐に進級し対馬艦長、同五年軍令部参謀、同六年侍従武官に就任。七年から八年にまたがり勅使として地中海の特務艦隊に差遣さる。大正十四年三月侍従武官退任。海軍中将正三位勲二等。小笠原長生子爵の信任厚く、郷党の育英塾指導のため久敬社理事に推せんされ大正末期から昭和初期まで長くその任に精励した。その間大正十四年に「東松浦郡史」の増補再版を企て、また昭和十七年末刊行した「小笠原壱岐守長行」出版の際には小笠原家との接触交渉の矢表に立った。編修印刷の実際面には常安弘通が当った。(久住忠男)
127 田崎正勝 教師 文久元年−昭和二十年 65
相知村に生れたが、明治三年、父九郎が徳須恵大里正に転じたため北波多村に移住。穏健清廉にして時流を追わず、慈愛よく人を容れた。明治十六年長崎師範を卒業後北波多小学校訓導に奉職、教職にあること四十有余年、北波多小校長になる。子弟の欽仰厚く村民の信頼ふかく為に文部省、賞勲局、知事表彰を受けた。校庭に頌徳碑が建っている。
128 富永鏗之助 新聞人 明治十四年−昭和二十一年 65
唐津本町の冨永屋という小間物商の家に生れた。母は旧唐津藩士長谷川久誠の娘。大成校に進学し神戸で商業学校に学び、のち東京専門学校(早大の前身)に入った。明治三十九年九月二十九日、帰郷して唐津新報社に入社、新聞人としての第一歩を踏み出した。大正三年十月唐津日日新聞の編集に携わったが、八年二月社長に就任。昭和四年四月県議選に出馬し上位で当選活躍した。富永の本領は第一に新聞人として才能を発揮、次で議会人としてであった。唐津ツ子一流の「山キチ」振りを見せ、庶民性たっぷりの人柄であった。
129 田原理太郎 打上村長 元治元年−昭和二十二年 83
明治三十八年打上村長に就任、昭和十六年までの三十六年間の長期間村長を勤めた。加倉の人。収入役、助役の期間を合せると村治五十年に及ぶ。その間学校の合併建設、電灯の架設、道路改修、葉煙草栽培導入など現在打上地区の教育、産業、文化は全く同氏の功績に拠る。東松浦郡畜産組合、馬匹組合の創設、一市九ヵ町の煙草耕作組合設立、専売局の唐津誘致、県種畜場誘致などに尽力、県議二期を勤めた。(田原理一郎)
130 古賀義一郎 金融業 安政六年−昭和二十二年 88
佐賀区裁判所の執達吏から明治四十年唐津区裁判所に転勤した。職務柄金融業者の悪徳ぶりに義憤を抱き、大正二年以来地域商工業者のため無尽金融の改善発展と信用の向上に終身努力した。大正六年唐津商工会結成に際しては副会長に選ばれ、その後十数年に及んで会長を勤めた。青年時代は肥前日報で筆陣を張り、また県会議事録の編纂に従事した。京町筋にあった産業無尽会社の社長として知られた。出生地は杵島郡江北町(古賀**)
131 岸川善太郎 実業家 明治十年−昭和二十二年 70
昭和十五年七月、第四代唐津市長に就任。第二期岸川市政は任期を待たずに終末、公職追放令に引つかかって同二十一年十月二十四日辞職。先代善七の代に小城から唐津魚屋町に移住した。青年時代、日鮮海上交通の国家的重大使命に着目、明治三十六年四月、貨客船若津丸(四二七トン)を唐津・釜山間に定期就航せしめたのち山陽鉄道の関釜連絡船が開始されたが、これに対抗する如く岸川は単独で汽船香椎丸、東照丸を借入れて仁川、郡山、木浦、大連に就航せしむるなど意気旺んであった。このほか唐津築港の建直しに参画したり、筑肥線の前身北九州鉄道敷設に努力したりしたがこれらは皆、岸川の公益心の発露にはかならなかった。第二次世界大戦の終末に巻きゲートル地下足袋姿で走り回った岸川市長の姿に全市民は心から頭を下げた。(岸川欽一)
132 大島小太郎 銀行家 安政六年−昭和二十二年 88
代々旧藩主小笠原家に仕えた家柄の出で、廃藩時の藩財政を一手に牛耳っていた大島興義の長男。藩英語学校耐恒寮に学び上京して三菱商業学校、二松学舎に進んだ。帰郷して父興義らの発起で明治十八年十月設立した唐津銀行の頭取となる。明治十八年から二十三年にかけて県会議員を勤め、その間、呼子県道や渕上から鹿家、福吉に通ずる海岸道路の開削に奔走。また九州鉄道、唐津鉄道、筑肥線の発起。特設電話、唐津電灯の設立、唐津開港など郷土経済発展の基礎を築いた。(大島裕)
133 宗留蔵 島の開拓 明治六年−昭和二十三年 86
加唐島は漁業主体の兼業農で、島民の間に貧富の差が甚だしかった。宗留蔵は大正八年に島民協同経営のきんちゃく網を作ったが、その結果は島民全部の大収益となり、生活は次第に平均し島民の融和がかもされ今日の加唐島が出来上った。防波堤、水道、農道の工事開発改良、電信電話取扱所の開設昇格など島の諸施設はすべて宗の肝入りで完成した。少年時代相撲が強く、記憶力抜群。本省に陳情の際は紋付姿で泊り込みの強談判で有名だった。
(宗京一)
134 松隈武彦 天文学者 明治二十二年−昭和二十五年 61
浜玉町平原、松隈建二の次男。唐津中学、五高を経て東京帝国大学理学部を卒業。江田島の海軍兵学校、六高、一高に教鞭を執った。英国ケンブリッジ大学に留学、帰国して東北大学教授となり理学博士の学位を受く。天体物理の研究に専念、アインシュタインの「相対性原理」学説を日本に紹介し、石原純博士とともに「相対性原理」研究の双壁と謳われた。天文学の学識は日本随一と称えられ、著書に天文学新話、日食行などがある。仙台市名誉市民に推された。(柳沢のぶ)
135 林毅陸 慶応学長 明治五年−昭和二十五年 79
肥前町田野の名家中村清七郎の四男として生れた。故あって中村家から四国の漢学者竹堂林滝三郎の養子となり慶応義塾大学に学んだ。明治二十八年卒業、留州留学を終え三十八年政治学科教授となり以来昭和二十二年講壇を去るまで半世紀に亘り義塾の重鎮として名声高かった。一時、政界に志を寄せたが大正十二年塾長に選ばれ在職十年。退任後は学士院会員、枢密顧問官として学界政界に重きをなした。外交史学の開拓者で「欧州近世外交史」三巻、「欧州最近外交史」一巻の大著がある。
136 山村直太 経世家 文久二年−昭和二十八年 91
旧唐津藩時代、今村の大庄屋を勤めた山村政太郎の長男。元来山村家は赤木村の総大庄屋を継いだ山村敬吾を始祖とする相賀村庄屋の裔。歴代貯蓄思想家として経世家として多くの功績を残した家柄である。山村直太は敬吾から五代目、明治二十二年値賀村長に探され、三十年には県会議員に当選。地方産業の発展には資本力が絶対必要であることに深く思いをいたし、明治三十一年に唐津に西海商業銀行を設立して頭取となった。これより先、祖先の実績を手本に勤倹節約貯蓄を村民に説いて実行せしめた。現玄海町今村の旧宅前には敬吾、政太郎の顕彰碑と並んで直太の紀功碑が建っている(山村直資)
137 鶴田定治 先覚者祭創始者 明治四年−昭和二十八年 83
明治二十五年佐賀師範学校卒業後、東松浦郡各小学校訓導、校長を歴任し、大正十四年相知小学校長を最後に教職を退く。肥前町鶴巻の人。農家の出であるが少年時代より気概すぐれ、その性格は凡庸でなかった。教職退任後直ちに推されて東松浦郡教育会頭に就任。かねて抱懐していた先覚者顕彰のことに手を染め、全郡にまたがって先覚者の調査を行い、先覚者四十二人の伝記を整え昭和五年二月発行の教育会報に発表、同七年五月さらに八人の先覚者を加え、第一回の先覚者祭を行った。その間も亦その後も、上京しては小笠原子爵、掛下重次郎、天野為之両郷党の大先達の指導を仰ぎ先覚者選奨には極めて慎重な態度であった。終戦後、先覚者祭の復活を企図し、米軍佐賀司令部と折衝を重ねたが、容易に許可承認されず、困憊を極めた。幸に多年の知己であった常安弘通(育英財団久敬社理事兼唐津本部長)に相談の結果、顕彰事業を引継ぐことが決ると、安堵の胸を撫でおろして喜んだ。
138 吉村茂三郎 郷土史家 明治七年−昭和二十八年 79
玉島村平原尋常小学校を経て浜崎の霓林高等小学校卒。佐賀師範に進み二十九年卒。満島、浜崎各小学校勤務中に中等教員検定拭験に合格。和歌山県田辺中学校を振り出しに唐中、鹿島高女のち唐中、佐中、佐賀女子師範、武雄中などで教鞭を執り前後六十三年間の教壇生活を過した。その間、唐津地方の史跡調査や考古学的研究に入り、昭和元年龍渓顕亮らと松浦史談会を設立、郷土研究の指導的先駆者となる。「松浦叢書」二巻、「奥村五百子伝」「史話伝説の松浦潟」「松浦史」「平原史」の著述公刊のほか佐賀県史蹟調査員としての調査研究論巧も多い。(酒井溝代)
139 下村湖人 教育家 明治十七年−昭和三十年 71
始めの名は内田虎六郎。下村家を嗣ぐ。有名な「次郎物語」の著者。五高を経て東京帝国大学英文科を卒えて母校佐賀中学校に勤務。大正七年佐賀中学校から唐津中学校教頭(三十四歳)九年二月鹿島中学校長、十一年三月再び唐津に舞戻り今度は校長(三十八歳)十四年六月台湾に去った。唐中在任前後三年十カ月の間、その卓越せる識見と気力と進歩的精神とが相俟って全校の職員生徒の信望を一身に集めた。現に唐津東高等学校(旧制唐津中)の前庭には同窓が建てた下村湖人を偲ぶ記念の「校歌碑」がある。
140 竹尾年助 唐津鉄工所 明治六年−昭和三十三年83
明治の末年、相知の芳谷炭鉱に使用する機械を製作していた竹内明太郎に招かれて来た蔵前高工出の優秀な青年エンジニアであった。大正五年四月、竹内鉱業から機械製作工場を分離独立して鉄工所を経営、今日まで六十余年に及び引きつづき堅固な経営と優秀な製品を出している。年助は高工を卒え、米国のスティーブンス工業大学に留学研修を経て大阪鉄工所の機械技師だった。年助はその技術に非凡な才能を持っていたのみならず経営者としても優れていた。愛知県加茂村出身。(竹尾彦巳)
141 横尾龍 造船業 明治十六年−昭和三十二年 74
小城郡芦刈村道免出身。明治二十九年佐賀県尋常中学校唐津分校に入り、三十四年佐賀県立第三中学校(同年唐津中学校と改称)の第一回生として卒業。五高を経て東京帝国大学工学部に進んだ。島国日本は造船業の発展によって隆昌が望まれるとして造船界に身を投じ、播磨造船の育成隆昌に心魂をかたむけた。第二次吉田内閣の通産大臣になったが、退任後は再び造船業界で手腕を発揮、鶴城同窓会の優れたる一人物として称えられる。(横尾崇)
142 松代松太郎 郷土史家 明治七年−昭和三十三年 84
鎮西町名護屋出身。明治二十九年佐賀師範を卒業、佐志、唐津小学校に勤務中、中等学校教員検定試験に合格。西洋史、日本史を専門に長崎中学、佐賀各高女、唐津中学校に教鞭を執った。大正十四年公刊された「東松浦郡史」はその後も版を重ね、複刻判さえ出版された。旧藩唐津領の郷土史の始まりとして声価は高い。その他「唐津松浦潟」や「賢君寺沢志摩守」などの著述がある。昭和二十九年末公刊した「唐津古寺遍歴」は八十一歳前後の高齢で纏められた著述である。唐津郷土史家として晩年に至るも郷土史の考察以外に余念なかった。(松代栄嘉)
143 小笠原長生 宮中顧問官 慶応三年−昭和三十三年 91
幕末の老中小笠原壱岐守長行の長男として江戸の老中役宅で生れた。生母は江戸の儒者松田迂仙の末女美和。出生の翌日から他家にあづけられ、六歳の時ようやく実家に帰って生母の許で同棲わづか三月にして母に死別、数奇な運命に奔弄されながら成人した。明治六年長国の後嗣となって小笠原家の正統を継ぎ、同十七年子爵を授けられた。海軍兵学校に進み、海軍大学校を卒え海軍大尉に任ぜられたのは明治二十六年。日清戦役に従軍、日露戦争の時は大本営海軍参謀であった。明治四十四年学習院御用掛、大正三年東宮御学問所幹事として陛下の教育に従った。大正七年海軍中将、同十年宮中顧問官。昭和二十九年沼津御用邸に於て特別拝謁を賜わる。文筆に秀で明治二十八年刊行の「海戦日録」を筆頭に三十五巻に及ぶ著述がある。また書に優れ旧唐津藩にはその揮毫が溢れるほどある(小笠原長勝)
144 吉岡弥生 女子医大創始 明治四年−昭和三十四年 88
静岡県城東郡嶺向村に生れた。父は鷺山養斎といって漢方の開業医、のち江戸に出て西洋医学を学んだ村の新知識であった。父の感化とともに社会正義感が強く、明治二十二年上京、済生学舎に入学した。医術開業の免許を受けたのは明治二十六年。かたわらドイツ語勉強のため私学東京至誠学院に通った。学院院長吉岡荒太と結ばれたが、弥生は至誠医院を経営して至誠学院の経営に助力、両人困苦の末、女性が安心して勉強出来る女医学校の設立を決意、明治三十三年十二月両夫妻は至誠病院の一隅に「東京女医学校」を開いた。現在の東京女子医科大学はここに胚胎したのである。(田口半四郎)
145 栗田金太郎 事業家 明治六年−昭和四十年 92
唐津坊主町出身。十四歳で父を失い明治二十三年佐賀中学校を卒えて上京、蔵前の東京高等工業を卒業して石川島造船会社に入る。日清戦役に出征のあと複帰して大正十一年同社取締役に就任しかたわら同社が経営していた東洋電機製造K.K横浜工場の興隆に敏腕を揮った。昭和十三年国策パルプK.K創立に際し請われて専務取締役に就任。第二次大戦終了後は石川島造船の最高顧問、国策パルプの顧問として悠々たる晩年を過した。昭和十九年以来二十三年まで育英塾久敬社の理事として物心ともに同社塾の発展に心魂を傾けたが、同社では理事辞任後も名誉理事の尊称を贈ってその功績を称えた。(栗田政朗)
146 山久知文次郎 後進指導 明治十八年−不詳
明治の始め青雲の志を抱いて上京した唐津の俊秀を、自ら経営する学問塾耐恒学舎に入塾させて指導した旧唐津藩士。のちの辰野金吾博士は特に「山久知文次郎の忠告指導がなかったならば我が人生行路は間違っていたかも知れない」と述懐するほど山久知先輩に感謝している。唐津大名小路に住んでいた。旧姓「田辺」で、後また旧姓にもどったためでもあろうか、田辺文次郎之墓と刻まれた碑が十人町法蓮寺にある。建てた人の名前の一人に耐恒学舎で世話になった吉原政道がある。(法蓮寺)
147 中尾ハナ子 殉難者 大正四年−昭和六年 17
旧鬼塚村山本、中尾信一の長女。唐津高等女学校四年生の夏、昭和六年八月一日、松浦川双水附近にて溺れんとする二人の児童を救い上げたが、自らは力尽き水中に没し去り不帰の客となった。当時の東松浦郡教育会は彼女の勇敢なる行為と犠牲的精神とを永遠に表彰せんがため最寄りの県道沿いに殉難記念碑を建て、鬼塚村は現場に観音菩薩を建てて冥福を祈った。(中尾幸一)
148 本化日将 宗教家 明治元年−昭和七年 66
江戸の旧唐津藩邸で生れたが、幕府の瓦解で父母とともに唐津に帰って来た。幼にして両親に死別し、十人町法蓮寺にあづけられて成人するうち、日蓮宗の僧となた。宗祖日蓮の理想顕現のため東奔西走、護国の教化大遊説を試み、朝鮮、満州にも渡って布教に奮闘した。日蓮宗門の偉材として名声後の世にも伝わる。(吉倉前誡)
149 坂本満次郎 徳望家 慶応二年−昭和三十五年 94
唐津城内の生れ。明治十八年佐賀師範学校を卒えて伊万里小学校に奉職、のち同校校長、有田小学校校長。大正十四年退職するまで教職四十年。伊万里町長に推され、西松浦郡教育会頭に選任されるなど徳望一身に集まる。昭和三十三年伊万里市最初の名誉市民に推され、同市はまた市葬の礼を手向けた。墓は法蓮寺にある。(坂本義鑑)
150 龍渓顕亮 郷土史家 明治二十一年−昭和三十六年 73
唐津新町正円寺住職のかたわら大正初期から考古学的調査を志ざし、佐藤林賀、吉村茂三郎とともに唐津領内の古墳、遺蹟を踏査し、その都度諸誌に調査報告を発表した。昭和三年に柏崎の貝塚発見、また十六年に帯隈山麓の神籠石を発見するなど郷土研究の先達。梅原末治、水野清一、原田大六たちも生前の故人を訪ねて教を請うた。(龍渓顕雄)
151 内田寛一 地理学者 明治二十年−昭和四十四年 81
鎮西町名古屋に生れる。内田家は代々神官の家柄で寛一は次男。唐津中学校から東京高師、京都大学に進み地理学を専攻した。昭和三年から二年間、英独に留学して帰国、東京高師、東京文理科大学、東京教育大学の助教授、教授となって教壇に立った。日本地理学会会長を勤め、地理学の内田先生で有名だった。(内田良男)
152 鈴木乗X 文教推進家 文政十年−明治四十年 83
小笠原長昌の家臣鈴木乗光の裔。明治五年志道学舎も耐恒寮もともに閉鎖された唐津の教育界で、鈴木乗Xの首唱による志道義舎が設置された。ところが明治七年の佐賀の乱で学校学問どころではなく志道義舎も潰れてしまった。志道義舎が無くなると、有為の青年たちは去就に迷った。たまたま明治七年東京遊学から帰った大島小太郎の肝いりで中学校「余課序」が設けられ、やがて生徒も増えて「共立学校」と改称されたが、教員不足を補うため明治九年ごろ鈴木乗Xは教員養成所を設立した。その生徒中の優等生には大島小太郎、田辺新之助の名があげられる。有名な辰野金吾の叔父であるが、金吾に野辺英輔塾で漢字を学ぶように勧めるなど明治初期における学問の推進者であった。(鈴木武X)
153 前田武英(たけふさ) 旧切木村長 弘化二年−明治四十二年65
打上村庄屋前田貫蔵の三男。幼にして唐津大草銃兵衛塾に学び、十七歳にして石室村庄屋代役を勤めた。明治四年杉野浦里正に転じ、湯野浦里正を兼務した。性剛毅、熱誠而も清廉であるため村民の信頼を一身に集めた。町村制施行とともに切木村初代村長に挙げられた。のち県会議員に推されたが村治に尽瘁すること二十有余年。難易を撰ばず物ごとに処し、教育施設、産業奨励、道路改善など大小の対策一として関与しないものは無く、旧切木村に多大の功績を残している。郷党、県郡の有志、知人たち追慕の情禁じ得ず、その功労を称えて大正十年二月、杉の浦田島神社境内に記念碑を建て永くその徳を伝えている。(白水敬四郎)
154 保利実直 侍医 万延元年−昭和四年 69
唐津藩医学校橘葉医学館保利文冥の長男。一高を経て東京帝国大学医科大学を明治二十年卒、大学院に進んで眼科学を専攻したが、軍籍に入り、独墺仏に留学駐在、二十九年帰国。明治四十四年軍医学校長を拝命やがて軍医監、近衛師団軍医部長に補せらる。その間眼科学上の業績としては明治二十一年「脚気の眼病」に就て研究論文を発表、以後内外専門誌に眼科に関する諸研究を発表してその傑出した学力、識見を世に問うた。明治期における日本眼科学界では実に驚嘆すべき数々の業績を挙げ、就中、保利式検眼鏡はドイツ学会でも頗る好評を博したものである。大正七年宮内省侍医寮御用掛を仰付られいわゆる「侍医」の地位に就いた。(保利五郎)
155 保利磯次郎 医師 慶応元年−昭和二十三年 84
厳木の医師保利文台の次男。幼にして学を好み明倫堂に入門、甲種福岡医学校から東京帝国大学医学に進み、業成るや明治三十一年厳木に開業。当時、近代医学創業の先駆者として名声高く、遠く長崎、熊本から治療に蝟集した。特に学校保健の重要性を提唱し、極めて精力的に研鑽を極め、再三中央学会に発表、常に高く評価された。明治四十三年東松浦郡医師会の創設に尽力した。県校医会長、日本医師会代議員として医業振興に貢献。私費を投じて「佐用姫」の史蹟顕彰に、また厳木、木両校に図書館を寄贈した。郷党挙ってその徳を慕い昭和四年に頌徳碑を建てた。文部、厚生大臣より表彰された。(保利長)
156 常吉太郎 浜崎町長 明治五年−昭和二十二年 75
浜玉町横田上に生れた。明治二十八年東松浦郡書記に登用され四十年退官。同年県会議員に当選し三期に及んだが、県参事会員となり、鏡山登山道路の開削に尽力したことは大方の知るところである。また大正十一年には推されて浜崎町長となり、四期十六年間その地位にある間、地方自治に精魂をかたむけた。その後浜崎郵便局長を勤め、また佐賀県水産会副会長なども歴任。敬神の念殊にふかく、玉島神社、鏡山神社の名誉社掌にも推されていた。少年時代、大変な腕白小僧で両親も持てあましたという。当時、教育家として有名だった玉島の田中廉平にあづけられて訓育され、後年その豪放な性格を謳われた。(常吉眞佐志)
157 矢野康州 茶道師範 明治二十一年−昭和三十六年 73
福岡の生れ。十五歳の時、博多幻住庵韜光禅師の門に入り得度し叡山大学、東洋大学を卒業の後、京都建仁寺竹田黙雷禅師の専門道場で修業した。大正十三年、近松寺第十五世住職となる。生来、器用酒脱な性格がよく世俗にも受け、俳句を作り、漢詩をものにして学のあるところその片鱗を表した。茶禅一味に徹し、唐津における茶道宗偏流の興隆に努力した功績は大きかった。昭和三十四年二月、家元より宗偏流師範代を許され最高位の茶匠となった。これより先、昭和三十年南禅寺派本山宗務総長に就任し、境内に茶室不識庵を新建、京都でも茶道の興隆を図った。また南禅会館の建設を企図し、その落成を寸前に控えて四月三日南禅寺で卒去した。(矢野晴子)
158 吉田久太郎 佐志町長 明治六年−昭和二十六年 78
佐志村唐房に生る。三十有余歳で村会議員に挙げられ、また漁業組合長を経て昭和三年佐志村助役、同十年東松浦郡水産会長、同十二年町制実施とともに初代町長に就任。治政の刷新、産業の振興などその功績顕著であった。佐賀福岡両県漁場境界の葛藤に際しては佐賀県側の劣勢を挽回して松浦潟漁民の恒久資源確保と福利を増進した。共同墓地の移転を断行しては敬虔の美風を顕揚せしめ、漁獲物共同乾燥場に埋立工事を完成、また防波堤、船溜、蓄養漁場の築造を実現し、県道湊線の変更拡張に尽瘁するなど佐志唐房各般の施設は挙げて尽く氏の手腕に俟つところ多かった。
唐房入口道路沿いに不朽の功績を称える紀功碑が建っている。 (吉田明石)
159 豊田濟 教育家(唐津) 明治四十三年 26
唐津藩士豊田家を嗣ぎ、藩校志道館の助教を勤めた。やがて志道館は閉鎖され新学制による小学校が誕生、推されて長崎師範学校に学んだ。帰郷して唐津小学校の前身舞鶴小学校首座訓導。後に郡内各小学校に勤務したが西涯と号して書を能くし漢籍に長じ学校教育の先達として尊敬された。(豊田稔 豊田茂)
160 田辺新之助 教育家 (東京)昭和十九年 82
小笠原家江戸藩邸で誕生。六歳のころ両親と共に唐津に移住。先進的な藩風に育くまれ激動する明治初期の時勢に誘発され、明治十一年上京、大学予備門に学ぶ。漢詩人として名をなしたが、明治三十年東京開成中学校校長、逗子に第二開成中学校を、また鎌倉女学院を次々に設立して校長に就任経営するなど生涯を教育一途に打ちこんだ。哲学の田辺元博士は長男。
161 杉山正則 唐津町長(唐津) 昭和二十二年 77
唐津藩士杉山正直の長男、明治三十二年陸大を卒業、基隆要塞司令官を最後に大正六年退官帰郷、大正九年から十一年まで第六代唐津町長に就任。その間大きな視野と観点に立って町政を推進、将来の市制施行に備えた。唐津納涼博覧会の開催や導水堤(現千代田町)造成など今に残る業績として称えられ、杉山将軍の愛称で親しまれた。
162 田久保実太郎 学者 (厳木)−昭和二十九年 59
厳木町天川生れ。佐賀師範から広島高師さらに京都大学に進み理学部で地質鉱物学を専攻電気探鉱の実地応用化に励んだ。鉱物の電媒常数の研究で理学博士。昭和八年助教授次で教授に累進。その間近畿北陸の地で資源開発に多大の貢献をした。人格高傑、明敏の学才を抱いて超人的の努力を続けた。
163 渡辺賢助 経世家 (唐津)−昭和三十一年 87
波多三河守の重臣、渡辺三郎左衛門十二代の裔。寺沢志摩守から取立てられて相知村楠の庄屋となった康に続く旧家の出である。明治三十九年町切に出、後ち唐津町に移住、新聞経営に携わったこともある。侍気質で世直し論議に風格を見せ、町議、市議にも選ばれ地方政治に熱意を傾けた。
164 三吉野晴吉 七山村長 (七山村)昭和三十六年 77
村役場を振出しに助役を経て四十一歳で村長に就任(十二年間)幾多の団体長を兼務したが、就中教化運動の先頭に立って郷党の青年と融合し後継者の育成に貢献した。多趣味で生花、俳句、短歌、漢詩、謡曲、書道いづれも素人の域を超え、仏典にも造詣ふかく、村民から今なお慈父と仰がれている。
165 飯田一郎 郷土学者(唐津)−昭和四十年 59
唐津市上神田、通称飯田観音£チ座の旧家に生れる。唐津中学から佐賀師範二部を経て東京文理科大学に進み、国史学を専攻。昭和十九年帰郷、唐津高女教頭次いで伊万里高校副校長勤務中に迎えられて唐津一中校長に就任。後ち北波多、厳木中学校長に転じたが、傍ら佐賀大学講師を勤めた。郷土研究の諸論策は没後「神と仏の民俗学」と題して公刊された。(飯田富子)
166 畑津百三郎 郷土史家(唐津)−昭和四十三年 78
唐津市刀町太田兵之助の二男、後ち江川町畑津家を嗣ぎ、博多に出て博多織を修業、木綿町で博多織業に従事したが、大正十三年江川町に戻り町内で各種世話人に選ばれ感謝状や表彰状にあづかること十数回、少年時代より古書画に興味を抱き有名郷土人の調査に意を注いだ。昭和三十四年以来「だるま会」を組織し禅と書画鑑賞で同好の士を集め啓蒙的指導に当った。(畑津壽一)
167 奥東江 儒官(近江)−宝永元年 65
近江国蒲生郡小口村に生れ、通称清兵衛、号は東江、幼にして俊敏、母、その明を知り家什を売って京都に遊学せしむ。京都で諸儒の門を叩き経伝群書を修む。郷に帰り塾を開いて孝悌廉恥を説く。教を請うもの遠近より集まる。土井侯、家老よりその盛名を聞き唐津に移封の時秩禄を増し儒官とする。元禄十一年世子利実の教育係として江戸詰となる。
168 松尾兵左衛門 大庄屋(名護屋)−明治十三年 67
文化十年井手野組大庄屋の次男に生れ、天保八年二十二歳で半田村庄屋。十三年父死去によって家督を継ぎ岸山村庄屋を経て弘化四年有浦村大庄屋。有浦組庄屋当時有浦新田の豪雨による被害を復旧完成。名護屋組に来てから寺小屋「亀井館学舎」を建て郷党の教育に力を注いだ。万延元年壱岐守の訪問を受け藩政に対する意見適切の廉により破格の褒賞を受けた。(松尾悠)
169 前場行景 礼法指南(唐津)−明治三十八年 65
祖先前場景昌は小笠原忠知に仕え代々皆家老。行景の先考景福もまた家老。幼名を景利と称したが壱岐守の親愛厚く特に行の一字を賜わり行景と改めた。行景若年から藩主の側近にあって熱心に礼法を稽古した。名声遠近に広がり薫陶を受けた男女子弟千有余人。近松寺境内にある墓碑は弟子達が醵金して建てた追慕の墓である。
170 林万次郎 漁業家(名護屋)−大正九年 77
明治二十年代まで玄海の海士は水中眼鏡を知らなかった。万次郎は苦心の末、真鍮製の眼鏡を発明、使用許可を県に願い出たが近村の海士は猛反対。県が使用を許可したため水中眼鏡の使用が普及し海士漁業振興の基礎をつくった。万次郎はまた太閤のお墨付「玄海沿岸無償入漁」の特典を実行するため農商務省に願い出た。沿岸漁民反対のうちに許可、東は湊、西は長崎県境まで名護屋海士は無償入漁の権利を獲得、漁民から「玄海海士の父」として功績を称えた彰徳稗が名護屋に立っている。
171 片峰閑齎 書家(鏡)−大正十年 66
少年時代から農作業のかたわら字を書くことが好きだった。虹の松原に松葉かきに出かけ地面に字を書いては消し首をひねっていた。大正八年上京、大隈重信や武富時敏の後援で書展を開いたが好評で日本書家番付にも載った。自ら漢詩を作り草書を得意とした。当時、絵は雪塘、書は閑斎と評判され、作品は額となり軸に仕立てられ各地の旧家にある。
(片峰 彪)
172 岩野直英 宗教家(東京)−昭和十八年 71
明治三十一年東京帝国大学造船学科を卒業するや海軍に籍を置き三十四年には海軍造船大技士に任ぜられ艦政本部出仕となる。造船大監を経て大正八年造船少将、日蓮宗に深く帰依し、小笠原長生、藤井日達との親交厚く生涯を法華経の研究に没頭した。昭和初期に久敬社理事に就任したが、長生公の懇望により大久保時代の塾監となり郷党後輩の指導誘掖に終始した。東海道線大船の無我想山に仰ぎ見る大観音像の建設には主任技師として活躍した。唐津坊主町出身。
173 野崎斧雄 教育者(打上)−昭和二十七年 83
鎮西町打上地区に学区制が布かれるや請われて若冠十五歳で呼子小打上分教場で明治十八年から子弟教育に当った。やがて打上小学校発足に伴い打上潟学校教師兼主任として教育に尽し教職にあること四十年。該地区の人々は永く師父として敬仰、旧打上村民は挙げて先生の人格に敬慕の情を捧げた。また古流派の歌人としても秀れ他面神職としても信頼された。名利に恬淡だったと村民の讃仰を一身に浴びた。
174 木下吉六 商業人(唐津)−昭和三十五年 84
小城郡三里村西川より明治二十三年唐津に移住、大手口で文房具、書籍の店舗を構えた。「愛文堂」と呼ばれて一般に親しまれた。昭和八年愛文堂の近くに近代コンクリート造りの地上三階地下一階の大手ビルが出来上った。現在のまいづるデパートは実に木下氏創建の大手ビルが土台となって出来上った。氏は性来進取の気性に富み、つねに社会の先頭に立つ心構えを抱蔵していた。唐津町の消防組頭、曳山総取締に就任したほか、県会議員にも打って出たほど活発だったが、余生は悠々自適の境涯を送った。
175 豊田稔 徳望家(唐津)−昭和四十四年 89
明治三十四年海軍機関学校卒業、三十九年には大尉に昇進して機関学校教官に任ぜられた。日露戦争中、広瀬中佐の旅順港閉塞隊に率先参加した。功により金鵄勲章を賜わる。後ち機関大佐に昇任軍令部出仕となったが、軍縮のため大正十二年退役唐津に帰る。唐津では杉山正則(陸軍少将)兼子c(海軍大佐)に次で軍人出身連続三人目の町長に推された。(大正十四年十二月−昭和二年二月)旧藩以来の名家の廉によって徳望おのづから高揚され、長老耆宿として畏敬された。(豊田茂)
176 牧川鷹之助 学者 (唐津)−昭和四十四年 73
東京帝国大学理学部(植物学専攻)を大正十一年卒業、旧制六高、福岡高教授を歴任、九州大学教授となり昭和三十四年退官、名誉教授。近年に及んで非常に利用度の高い「肥前国物産絵図」の調査研究に先鞭をつけた。同絵図が一般に流布され出したのは偏に牧川教授の研究調査のお蔭である。小川島捕鯨、鯨供養塔に関する著述もある。
177 宮崎林太郎 地方議員(七山)−明治三十三年 34
七山村瀧川庄屋宮崎林平の長男。若くして政治家を志し佐賀新聞に屡々政論を寄稿して論陣を張り、郡会、県会議員に選出されては長谷川敬一郎、松田正久、川原茂輔たちとともに縦横に活躍。玉島、七山地区と北山古湯を結ぶ県道開発には献身的努力を払った彼の功績と偉業とを永久に讃えるため当時の政界並に村内外有志たちは瀧川の県道沿いに彰徳碑を建てた。
178 中澤孝政 構築技師 (唐津)−明治三十七年 72
天保四年生れ、尼ケ崎藩に仕えた士族。代々築城や造営の業に従った。孝政は明治初期に民部省並に工部省の役人となり、佐多岬燈台、釣島燈台の建設監督に当ったが、明治六年には烏帽子燈台を手掛けた。機械力の無かった明治初期の構築で、セメントも無かったのか石畳の継ぎ目に鉛が流しこんであるのが注目された。明治二十六年の松浦橋架設では設計施工を担当、二十八年唐津興業鉄道会社の創立に参画して相談役となる。唐津港の構築にも関係し腹案を企画に組込み着手せんとする際、俄かに斃れ西唐津の自宅で死去。
179 小林安兵衛政 学者 (岸山)−明治三十六年 75
九歳にして徳須恵組大庄屋前田武継の門に入り、前田庫右衛門に「関流算術」を梅窓軒古流に「玉尺流古易」を学ぶ。長じて特に俳句をよくし郡内俳壇の重鎮として令名高く、多くの文人と交わり俳風の振興に尽した功績は大きい。また「徐風句集」「唐津記」「唐津略記徐風随筆」「御布令並官事記録」「明治三庚午屯集一件記録」など幕末維新の唐津藩諸事を記録した著述と文書があり、郷土史料として重要視される。
180 吉原政道 鉱山技師 昭和二年 75
小笠原藩家中の貧乏侍の家に生れ、尊皇攘夷の騒然たる時代に桜馬場、山下に育ち藩の表坊主役で唐津城出仕をしているうち、明治四年高橋是清の英語学校が開設、大草塾から転学して高橋の薫陶を受けた。明治五年上京苦学して工部大学校に入り鉱山学を修めた。卒業後は三池鉱山に勤務したが三池を辞任して牟田部炭坑開発、明治二十八年秋には杵島炭鉱経営に乗出すなど炭鉱経営一筋に活躍した。明治三十七年杵島を辞めて以来すっかり自由人となり唐津の吉原山に豪華な山荘を建てて住み求道生活に入った。(吉原政智)
181 山口平治 写真家(相知)−大正十五年 51
相知町辺保木で出生、幼にして父に死別、母を助けて農業に励み十五歳にして志を立て独学にて漢学、法律書、宗教書に親しんだ。その頃より写真の将来性に着目、写真師として身を立てんと決心、唐津に出て写真技術の修得に努めた。明治四十年三十一歳にして山口写真館を中町に開業、郡内各町村に出張して役場、学校、名所、古跡の集団及び風景写真を撮影、特に小学校の卒業記念写真の意義を説き、今日現存する各校の時代写真、唐津名所絵葉書作製など観光宣伝の一翼を荷った。唐津尋常高等小学校に鼓笛隊の発足を見たのは同氏が器具一式を寄贈した大正五年のことである。郷土における写真界の始祖である。(江川平春)
182 中野霓林 唐津焼 昭和二十六年 78
日本陶磁界の名門である唐津焼、人間国宝の栄誉にかがやく十二代太郎右衛門とは別に中野窯の第二代中野霓林の作陶もまた高く評価されている。明治初期に飄然と京都から来て町田に窯を築いた松島弥五郎窯に出入りするうち修練の功あり、弥五郎没後を継いで同じ場所に窯を開いたのが中野窯第二代中野末蔵である。霓林と号し特に細工物に秀でていた。九電舞鶴荘の庭にある高砂の夫婦(みょうと)、加部島天登岳に建っている佐用姫の陶像などは霓林の遺作。明治末年には明治天皇に「馬」を献上した。唐津京町通りに店を構えたのは明治二十八年頃と伝える。(中野陶痴)
183 藤生安太郎 衆院議員(西唐津)−昭和四十六年 76
天野為三、長谷川芳之助、長谷川敬一郎、神崎東蔵たちに次で国政に参画した唐津人の一人で、少年時代から名打ての腕白。唐津中学校を退学、門司の豊国中学校から東京外語学校に進み、支那語科を卒えて「森永」に暫時勤務の傍ら久敬社の学生監督だった。中央政界に志を立て昭和七年二月唐津地方から立候補、連続五回当選、終戦で追放。緒方竹虎、石井光次郎たちが初めた「国政審議調査会」の理事長になり各界最高位の名士の論文随筆を収録した月刊誌「道義」を刊行、柔道七段の猛者、身の丈六尺の大男だった。
184 市原源之助 鉱山技師 (唐津)−昭和四十七年 79
素晴らしい景色の唐津湾に九州電力が唐津発電所を計画した。美景を損傷するべら棒に高い煙突三本が建ったのは昭和四十二年秋。唐津市が発電所誘致に凱歌をあげたのは昭和三十七年春、その頃以来二年に及んで勇敢に反対の警鐘を打ち鳴らし、煙害の恐怖、毒害を訴えたのは生粋の唐津人市原源之助であった。心ある市民は一斉に市原に支援を惜しまなかったが、当時の政治的支配勢力を覆えすほどの力には成り得なかった。市原源之助は名ある旧唐津藩士の裔。唐津中学校から熊本高工採鉱冶金科を卒え住友の別子銅山に永年勤務、昭和三十二年以来帰郷、城内埋門小路に住んでいた。
185 山口千平 俳人(相知)−昭和十一年 73
相知千束の人、一水庵秋浦と号し俳句の宗匠でもあり、花道教師を兼ねた。十三歳の若さで鴻山の門に入り研鑽を重ね、同志とともに相知に蕉青社を興し、後ち京都の不議庵聴秋に入門二十四歳にして宗匠を許された。華道は明治二十年東山流に深く通じ昭和三年紫房に昇進、同色位一等の教師となる。農民俳句の先駆者として地方文化の発展に寄与、後進を誘って蕉青社の名を広く世に宣揚した。千束に建つ頌徳碑に「人はただ流れて人は師走かな」と刻まれている。
186 田辺虹城 俳人(唐津)−昭和四十八年 85
坊主町の田辺病院と言えば、院長先生は俳句の虹城さんと呼ばれるほどに、唐津地方における俳壇の大御所だった。門司で基礎医学を修業のあと、大津で開業していた義兄に招かれて修業中、義兄がホトトギス派の俳人だった因縁からいや応なしに俳句の道に引きずりこまれ「日本及び日本人」の俳壇、また京都の俳誌「懸葵」に投句していた。明治四十四年大津を去り、長崎、福岡時代が続く。大正七年六月唐津で開業、医師会の創業などできりきり舞の歳月を送迎した。句歴四十年、昭和三十八年ホトトギス同人に推された。(田辺厚)
187 栗原荒野 葉隠研究 (浜玉町野田)−昭和五十一年 89
幼名は伊勢次郎。後年讃美歌にある文句から取って荒野と改名。唐津中学校二年から陸軍幼年学校に進んだが、中退して明治学院神学部に学んだ。教師を断念して帰郷、唐津で新聞記者になり、後ち佐賀に出て大阪毎日新聞に入り、大正五年初代佐賀支局長に就任した。昭和四年頃から初めた「葉隠」研究に後半生を捧げ「校註葉隠」に初まる諸著述がある。葉隠の栗原、栗原といえば葉隠を連想せしむるほど「はがくれ」の虫となった。歌誌「ひのくに」同人ともなり、万葉ゆかりの草花を庭に育てて、晩年を楽しみ、清貧に徹した。
188 原清 久敬社理事(相知)−昭和五十一年 88
相知町平山、原権市の長男。平山小、唐津中学校を経て海軍を志し、兵学校、海軍大学校へと進んだが、いづれも成績一番、恩賜の軍刀組である。昭和十七年第二遣支隊司令長官に就任、それ以前に佐世保海軍工廠長で在任二ヶ年、郷土人あげての誇りでもあった。海軍中将。終戦後は久敬社理事に推せんされ、久敬社塾経営復興のため献身的努力を払う一面、在京郷土人の融和団結に尽力、その手厚い配慮による「在京唐津人会」が今日の盛況を見るのは偏えに原清の奔走に拠る。多忙の中に「小笠原長生と其の随筆」の編著がある。熱海の自宅で永眠。(次男 原裕)
189 岩本幸太郎 土建業(唐津)−昭和四十九年 83
個人企業の岩本組から出発し、その実績と信用を積みかさね、昭和十年に合資会社岩本組を設立して一段と業勢を拡充してゆくうち唐津市初代市長河村嘉一郎の積極的建設諸事業に随伴、市が関係する一切の土建部門を受持った。かくて合資会社岩本組を唐津土建工業株式会社に改組再出発したのは昭和十九年五月のこと唐津、東松浦地方に於て「唐津土建」は今や名声嘖々。(岩本享)
190 長井天嶂 画家 (鏡)−昭和三十六年 70
天嶂は画号で本名は知覚。豪快な禅坊主と謳われた唐津西寺町長得寺の住職、長井英山大和尚に可愛がられて大正元年から長得寺に坐った。すでに東京美術学校日本画科を卒業していたので、住職のかたわら唐津高等女学校に絵の専任講師として永年勤務した。美校在学中に岡田秋嶺、橋本雅邦の両大家に就て特別修業しただけに画業はめきめきに上達、唐津地方では、現在に至るもなお天嶂に比肩する画家は皆無だといわれている。昭和十六年から恵日寺に移住、画業に熱中した。遺作は市中の旧家に点々とある(長井康郁)
191 山下英市 役場吏員 (東唐津)−昭和三十二年 53
旧満島(東唐津)に土着した旧家山下三太郎の長男。満島小学校から佐賀師範に進んだが中退して唐津区裁判所に五年間奉職、のち満島村役場に転職。大正五年二十四歳で収入役に、四年後に村助役に抜擢された。義人・富田才治顕彰のため、安養寺住職とともに私財を投じて松原一揆の映画を作製したのは有名な話、満島村史を執筆上梓したほか、唐津湾の海苔養殖今日あるは全く氏の尽力に負うところが多大である。(山下四郎)
192 保利大作 農業(山本)−昭和二十七年 70
旧鬼塚村の旧家の生れ。全国に魁けて発足した産業組合の初代組合長となり、二十五年間に及んで営々と努力をつづけたが、その職見と人格には何人と雖も頭を垂れないものはなかった。氏の人物と業績を顕彰するため唐津市農業協同組合は山本の鬼塚農協前に、昭和三十九年秋、青銅の胸像を建設した。
193 天中軒雲月 浪曲師(唐津)−昭和二十年 57
大正末期から昭和初期にかけ、日本の浪曲界を風靡した有名な雲月。本名は清水完治。唐津市石志(旧鬼塚村)の農家清水卯右衛門の次男。鬼塚小学校卒業後十五歳ころから唐津市江川町に住む浪曲師原田宝山に弟子入りした。大正初め東京明治座で開催された浪曲全国大会に出場「南部坂雪の別れ」に「赤垣源蔵徳利別れ」で優勝、一躍天下に名声を挙げた。当時、錚々たる顔振れの顕職、高橋是清、東郷平八郎、金子堅太郎、小笠原長生は雲月を各自の私邸に招いてその名調子を聞いた。昭和六年春発病、長く病床に臥していたがついに再起不能。直弟子伊丹秀子が二代目雲月を襲名した。
194 落合輿司右衛門 回船業 (呼子)−明治九年 69
毛利藩の料理方もしていた三田尻回船問屋の出身、唐津藩に移り住み唐津水主町から呼子に移住した。叔父落合冶十郎の養子となり、山崎屋と号し回船問屋を営んだ。呼子港は入出漁船が多いため、現在尾の上公園の一角に明治三年常夜燈の灯明台を建造した。輿司右衛門は玄海航路の安全を図った先駆者であり、乱立していた魚市場の統合をも実現した功労は高く評価されている。
195 森勇太郎 農業(唐津)−大正十二年 52
唐津の旧市街地の南部町田は、昔ひろびろとした田畑であった。従って野菜畑も多く町方に供給する日常野菜は殆んど町田の百姓で賄っていた。今日のビニールハウスは当時は硝子張りの温床で、逸早く速成温床栽培を初めたのは森勇太郎。後ち勇太郎の指導を受ける農家は相継ぎ、百姓もくらしが豊かになり唐津の町々も助かった。森勇太郎に感謝する町田区民は公民館敷地に彰徳碑を建てた。
196 佐藤林賀 考古学 (唐津)−昭和十三年 80
代々小笠原藩の士族。明治末期、大名小路で乳牛を飼い、窄乳業を初めたのが唐津における牛乳営業の始まり。また古墳発堀に熱心の余り、神集島にある古代の墳墓を支石基と誤認、巨石文化ここにありと呼号し、東京帝大白鳥博士を招致し大宣伝をした。大正九年「開国、日本五千年史」と題する著述を公刊。世人の注目を浴びた。唐津地区における考古学の草分け的人物としてその名後世に残る。
197 金丸金五郎 教育家 (北波多)−昭和二十一年 73
郡内各小学校に教職勤務三十年に及ぶ。退職後北波多村助役に就任したが、教育と行政の功労で村民の敬慕を一身に浴びた。
198 江川留平 町長 (横田下)−昭和四十二年 73
旧浜崎町産業組合書記を振出しに、県農協中央会長に挙げられ、昭和三十一年浜玉町最初の町長に就任、人望一身に集まる。豪放磊落、天衣無縫で鳴る。
199 加茂関治 徳望家 (久里村)−昭和五十年 83
大正十四年佐賀県庁入り、知事官房秘書課長を皮切りに各課長を歴任。後ち佐賀新聞社に迎えられ常務また専務取締役をつとめた。県課長時代からの徳望が重厚さを加え、佐賀に「人物加茂」ありの声を聞くに至った。その酒脱な人柄は衆望を集めた。
200 瀬川喜代治 農業(唐津)−昭和三十二年 68
県農事試験場農業練習生を卒業、大正十五年唐津村農会の技術員となり農業指導に熱中しているうち同十九年には唐津市農業会初代会長に抜擢され次で二十一年には県農業会東松浦支部長就任次で唐津農業協同組合長初代に推されるなど農業指導者として貫録十分。大正時代は西瓜の人工交配による増産により「唐津西瓜」の名を高からしめ、また和牛飼育を得意とするなど農業教育の普及によって地域民の農業知識の高揚をはかるため農業高校独立の基礎を築いた。多年の功労を顕彰するため唐津西浦の屋敷に記念碑が建っている。
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