貞女の鏡

佐世姫物語
資料提供者 石井信生様

表紙の裏には
謹呈 石井鉄三郎様  前田印

石井鉄三郎氏は資料提供者石井様の祖父にあたり、永年教員(唐津小学校などで)をしておられた方です。
前田銑之助氏はその教え子だと付箋に記しておられました。


平成19年7月14日 ネット化完成
管理人:吉冨 寛
 緒言

 日本百景観光松浦潟は古来大陸交通の要路に当り、日本生気が海外に発展した起点であります。往古海外に使する者の危険難渋は今日に於て到底想像することは出来得なかったのです。往昔の朝臣、学者、僧侶等が天皇の命あり次第直ちに難に赴き使命を果したので其純忠至誠の魂は只々感じ入るのみで御座います。
 松浦潟には斯くした偉才が大陸行の際必ず一度は足を止めた所で、従って其感化は自ら松浦人士に及び茲に松浦党の名を以て称せらるゝ松浦魂を結成したのであります。又使臣の往来と天与の景勝とは表裏一体となって幾多詩、傳説を生んだのであります。それら幾多の傳説中、松浦佐世姫の如く尤も詩的にそして又尤も高く女性美を発揮したものはないでしょう。
 松浦佐世姫の望夫の念が凝って石となったと言う事を思って見ても佐世姫の貞節心が岩の如く堅きを示して居るのではないでしょうか。
 傳説は決して理論でなく科学を超越するものであり、魂の芸術的表現に外ありません。
 朝鮮半島を失った現在、日本の辺境としてこの松浦の地が漸く世人の関心を引く時、千四百年前この地は日本大和朝の辺境として重要視され、男児の精鋭が防人として出陣の防に其の魂胆を砕いて来たのであります。
 大伴狭手彦はこの精鋭の将としてこの地に赴き、その精魂を國に報いたのであります。松浦の地が松浦潟と呼ばれ山紫水明如何に風光明眉とはいえ、千四百年前の文化は容易に吾々にも想像されますし、狭手彦の苦労の程がしのばれます。この時に当り、貞節無比絶世の佳人佐世姫が狭手彦の壮心を強くしたことは言う迄もありません。
 佐世姫は狭手彦の最愛の妻ではあったが未だ母ではなかったのです。若し佐世姫が人の子の母なりしならば.恋いこがれて石となる純情と熱意を以て母の責分を盡したであろうことは容易に首肯出来ることで、母性は貞節心の異名同体であるし一國の興亡は実に女性の貞節心にかゝる。然るに近次唯物思想は日本婦人の絶対に誇りとする貞節心への動揺を来したことは実に寒心に堪えません。
 かゝる時に於て貞節心の権化松浦佐世姫の千四百十五年祭を呼子町大字加部島の佐世姫神社に於て催さるゝことは眞に意義深いことであります。
 それは実に女性貞節心の宣揚祭であります。著者は此の感を一入深くし郷土松浦の里に最もゆかり深き佐世姫物語の概要を著し、松浦佐世姫とは如何なる女性なるかを一般に識っていたゞきたいと思う次第であります。そして著者は日本の母に封する感謝の聲であり日本女性の貞節心賛仰の姿に他ならないのであります。幾分にても松浦佐世姫を之に依って識っていたヾかば著者は是れに至く悦びはないのであります。
 特に日本の洋画の大家伊原宇三郎先生、京都美術大学講師黒田重太郎先生の著者に対し本書挿画として御揮毫を賜りしことを謝深奉ります。
 尚著書に関係深き厳木町長殿、村上村長殿、湊村長殿より題字の御揮毫を賜りしことを大なる悦びと致します。
 著書に際し呼子町の城谷壽男氏、同町の落合鶴之亮氏、福岡県朝倉郡大福村の本田忠男氏の絶大なる御援助に対し深く御礼を申上げます。



  昭和廿八年九月


   佐賀県呼子の里にて

        
前田銑之助識



松浦佐世姫を哀れむ歌


一、谷間を洩るゝ小流の
  いとし佐世姫面痩せて
  写す姿や水鏡
  去りにし盛りを忍びては

二、曇る眼鏡を外ぬぐふ
  白雲絹の羽衣を
  溢れて落つる涙かも
  今宵一夜を仮寝とし

三、しばし仮寝の草枕
  青葉打ちしく千百花の
  玉ははえあるきらきらと
  流れを慕ひ寄りそへる

四、一叢うすのさヾめけに
  尾花波より小手かざし
  夜分の風を招く時
  姫を哀れむ虫の歌

     昭和廿八年九月

          佐賀県呼子の里にて

                
前田銑之助識

松浦潟郷士傳説
 貞女の鏡 佐世姫物語

 佐賀県東松浦郡呼子町大字加部島に田島神社と云う由緒ある神社があります。夏は日暮の鳴く音を聞き、冬は松籟の音怒涛に消える此の社の境内に朱塗の末社があります。
 土地の人はこの末社を佐世姫神杜と言い、此の社の御神体を望夫石と言い、四季参詣人が絶えることがありません。
 頃は人皇第廿八代宣化天皇の二年十月初め、今から千四百十五年前、朝鮮の南端に任那国と云う日本の同盟国がありました。当時隣国に新羅と云う国があって盛に任那国を侵略致しましたので、任那国金明国王は日本国に救援を請むる為め王宮に於て重臣会議を開き、国王は金鴻義、李白明、閻季白の三名の高官を使者に立てることに定めましたので、王命を奉じた使者は其の大任を負い従者十人を引倶し、宣化天皇の二年十月半、任那国迎日湾浦項の港より乗船来朝、任那国金明王より宣化天皇に対し奉り丁重なる国書を呈し救援を請めて参りましたので、天皇は御所面接の間に於て宮中大官侍立の上、其の使者に謁し種々御下問がありまして直ちに御前会議を開催、茲に任那国救援すべきことに朝議決定しました。

松浦佐世姫誕生の地一名佐世姫屋敷


 使者に対しては救援すべき勅命を伝えしところ使者は大いに之を悦び手の舞い足の踏むところを知らず天皇に拝謁、厚く礼を述べ直に帰国し国王に其の旨服命したのであります。
 我が国に於ては宣化天皇は直ちに大伴金村に新羅国征討を命じ給われたので、勅命を奉じた金村は老齢にて韓土に渡ることの困難なることを知り、代理として天性英邁なる第二子大伴狭手彦を三軍の将たらしめ韓土に遣わす事に定めました。当時狭手彦は齢二十五才の元気溌刺たる男盛りでした。
 父の命に依り狭手彦は宣化天皇の二年、木枯吹きそめて庭の紅葉門の銀杏の葉翩々として翻り落ち昼は書窓を掃う影鳥かと疑われ、夜は軒を撲ちて晴夜に霰を想う十月末、諸準備を整え陸路勇躍将士を率いて都を出発することになりましたので兄の大伴盤と共に宮中に参内、天皇に拝謁其旨奏上せしところ天皇も之を深く御喜び給い、狭手彦は優詔を拝し引続き天皇御臨席の下に宮中大広間に於て新羅国遠征将士に対し盛大なる送別の宴が催されたのであります。
 愈々出発の当日が参りました。宣化天皇を始め奉り宮中の各大官、在都の各将士、遠征将士の親戚、友人、知己、一般民衆の見送人総数十数万人の多きに達したのであります。
 狭手彦は遠征約三千人の将士を卒い、意気昇天の勢を以て歓呼の声に送られ懐かしき都を出発、各地に泊まりを重ね翌三年正月上旬、遠征の順路に当たる松浦の里に到り、一方には兄の盤と作戦計画を樹て大いに其の準備を整えつゝ将士の英気を養う為め、しばらく松浦の里篠原邑に滞在することになりましたので、将士一同も大いに之を悦び狭手彦に対し益々誠忠を誓ったのであります。
 其の頃松浦の里篠原邑には、通称篠原長者と言われる豪族が住んで居りました。都よりはるばる勅命を奉じた大将軍大伴狭手彦が三千人余の将士を卒い威風堂々松浦の里に入来したことは、古来誠忠の念厚き松浦の郷人を代表する篠原長者をして非常に感激させたことでした。
 長者は早速狭手彦の御前に罷り出で祝詞を述べ、且つ舘に招き狭手彦の部下一般将士にいたるまで、急造せる仮屋にて酒池、肉林、山海の珍味田野の佳肴処せまきまでにおき併らべ、眞心こめてもてなし長途の慰安を与えたので将士一同其の懇切を非常に悦んだのであります。
 狭手彦は長者に請いて其の舘を新羅国遠征の本陣と定めました。狭手彦が篠原長者の舘に着きしより数日後には長者の奥座敷はいとも美麗に整頓され、すべての装飾も奥床しく上品にして如何にも長者らしき趣味と唐及三韓より輸入されし珍らしき器物との配合もよく調和し、庭を遙に筑紫山脈が縦走しているのが見え、篠原邑の背には八幡嶽が雄大に聳え、厳木邑第一の高山作礼山が東方に其の英姿を表し、又松浦山が天山の脈続きより少し離れて深い謎の如くに姿を表し、谷川の囁きがいろいろの小鳥の囀ずる声と共に自然の音楽を奏するように静に響いて来るさまと言い、時あだかも正月中旬のことゝて翩々として降りしきる雪の中に野生の白梅の花は今を盛りと咲き匂うて居る状景は、都に於ては所詮見ることが出来ないことゝて狭手彦は申すに及ばず、将士一同も大いに心の慰めとなったのであります。
 篠原邑滞在中の各種戦闘訓練や軍馬及武器の手入れの余暇に催さる野獣狩、其他歌舞音曲は一入将士の慰安となったことでしょう。
 狭手彦は将士の仮宿舎の急造にも一入心を砕き、且つ又附近一帯の地理状況等を細部に亘り調査し、唐土の浦及其の附近に居住せる全部の船大工一同を篠原邑の長者の舘に集め、韓土渡航用大型兵船数十隻の新造註文を命じたので、船大工一同は何れも悦び勇さみて其の兵船註文を引き受け、昼夜兼行建造に奮斗せし甲斐ありて数十隻の兵船も宣化天皇の三年六月上旬見事に新造完了、同月中旬玉島川の河口に於ける船下式はいとも厳粛に且つ盛大を極め、河口一帯は之を祝福せんとて近郷より集り来りし見物人の山を以て埋りし程でした。
 此の日天清く澄み渡りて一片の雲なく、茲にいとも目出度兵船の船下名命式も無事終了しましたので、狭手彦の満足これに越したるものなき程でした。
 当時篠原長者の娘に佐世姫と呼ぶ容姿佳麗天女の如き齢十九才になる乙女がありました。姫は篠原長者の一人娘のことゝて父母の慈愛殊に深く育てられ性質も至極従順でありました。姫には特に部屋も与えられ唐、三韓より輸入された各種の貴重なる器物に依って部屋の装飾も目覚むる許りにて、姫が文机に凭れている様は雨に打たれし海棠か雪にいためる紅梅か実に天女の天下りしには非らざるかと疑う程にて、筑紫長者の娘楓姫と共に篠原邑の天女と謳われ近郷知らぬ者もなく、殊に佐世姫と楓姫とは齢も同じことゝて姉妹も及ばぬ仲睦じき間柄でした。

大伴狭手彦及将士滞在の地長者原


 勅命を奉じて万里に赴く英雄狭手彦と風光明眉な松浦潟の環境と父母一族の純愛に育てられた麗人佐世姫とは、狭手彦が松浦の里篠原邑の長者の舘に到着当時より次第に心の琴線の柏振れ合うを感ずるようになりました。
 遂に狭手彦は長者より請い受けて絶世の麗人佐世姫を己が最愛の妻として迎えることになり、茲に吉日を撰び篠原長者の舘に於ける結婚の式典もいとも盛壮を極め、将士及一般邑人に対する披露の宴も盛大に行われ、これを祝福する邑人達の歌舞、音曲の音は篠原邑の山間に韻々として響き亘ったのであります。
 二人の仲は愈々睦じく鴛鴦も羨む程でありました。然るに袂別の日は来ました。
 新羅国遠征の準備も漸く成り、玉島川の河口に碇泊せる旗をかゝげた兵船より響き来る鼓角の音は無情に鳴り渡り、うすせみの声は人情のきづなを断ち、燃え上る慕情をやがて押えねばならぬ時が来ました。
 新羅国征討軍出発の日は日一日と近ずきました。しかも狭
手彦の此の渡韓たるや生還を期し難いと思わなくてはなりません。両人の胸中察するに余りあるものがあります。
 然し何時迄も斯くあるべきでないのです。狭手彦ほ佐世姫の韓土への扈従も切なる願いも、勅命を奉じた使命重ければとて之を許さず、しばしの形見にとて鏡一面と小太刀一振、軸物一巻を与えて扈従を断念させ武装の姿も勇ましく天晴大将軍の威容を以て将士を卒い永らく滞在せる篠原邑を歓呼の声に送られ堂々と出発、松浦の里厳木邑の山々打ち越えて玉島川の河口に繋留せる御座船に進みました。
 大丈夫涙無きに非らず義は山岳よりも重ければ狭手彦は人知れぬ心の苦痛を感じたのであります。佐世姫とても日本女性なればこそ寸時も背の君に侍して離れじと一度は韓土へ従い行くことを願いつれども、それは夫の義心を噸らすと知りては何んで別れに望んで女々しい振舞を致しましょう。夫を励し其の船出を誠心こめて祝ったのであります。
 是時宣化天皇の三年八月上旬の吉日、狭手彦等の乗った数十隻の兵船は多数の人に盛大なる見送り受け、いとも勇ましく順風に帆を上げ画の如き松浦潟玉島川の河口を舳艫相ふぐみて船出し、男浪女浪を押し分けて進み行く程に漸く其の船影も次第に遠ざかり、果ては水平線の彼方に消え失せんとするを見れば、男々しく別れはしたものゝ流石に優しい女性のことゝて今は恋慕の情に堪えかねて、佐世姫は玉島川の河口より唐土の浦を経て鐘邑の里に聳え立つ松浦山の麓迄引き返し、かよわき体もいといなく草茅の根にすがりつゝ松浦山に挙じ登り、とある松の限方に佇みて西北の海を打眺め、汗と涙に濡れし領巾衣をぬぎ其の老松の枝になげかけたのであります。「其の松こそ名高い領巾振松と申しまして星霜茲に千四百有余年、其の老松は当時より三代目の松とかや然し惜しい哉昭和二十年盛夏八月、日本無條件降伏の月に枯死してしまったのです。」
 佐世姫は領巾衣取り上げて「吾が恋しき夫よ船よ」と限りなき離苦哀別の涙潜々腕も切れん計りに振り招きしも風は南風の追手風、水夫は勇気溌刺たる壮者、満風の白帆は、辷るが如く玄海の彼方へ立ち去りました。
 佐世姫は悲しみに陥ち入り掌中の玉を奪われた姫の哀れさ気も狂わん計りに松浦山を走せ下り松浦川を渡る時、狭手彦が形見にと与えし鏡の緒が切れて川の中に落ちこみました。
 夫居なくは其の間せめて夫の姿しのばんと心に愛でた手鏡が怪しき縁の松浦川、吾が眞心を拒むのか姫は一心になり、或は狂人の如くになり探し求めしが、水魔の呪に勝ち難く其の甲斐もなく鏡は再び姫の懐に還らなかったのです。姫は天を仰いで叫び地に身を投げ伏し悲嘆に暮れ、髪は蓬に振り乱し瞼は忽ち憧れ上り流るゝは只血の涙前後不覚に泣き沈みました。
 幾時過ぎて日暮と秋蟄の鳴く音に目覚めた佐世姫は梢に洩るゝ黄昏の斜陽を浴びて立ち上り、かくてはならじと川の中の浅瀬をつたいて老松と雑木の繁茂せる小高き岩山に挙じ登り潮に濡れた領巾衣をしぼりて干し、しばし身心の憩も合せとりました。
 更に又佐世姫は積る慕情に堪え兼ねて紫なせる鬼塚和多田邑の山を越え線に拡る野を走り、加羅津の浦に聳え立つ山の嶺に登りました。
 これぞ名にし負う衣干山の草茅に未だ乾き得ぬ領巾衣干して葉月の南風に想いを託す暇もなく、夜明も待たず姫は又尚一層の勇気を出し、松浦打上邑の山々打ち越えて影を慕いて海に出で夫を求めて呼ぶ声も仇し松風波の音、何んでとゞかん海のはて想い叶わぬ身なれども想いにまかす己が足着きし所は松浦の北のてはてなる呼名の浦。
 やがて佐世姫は釣舟に便を請い対岸の姫神島に渡り、田島神社に詣でて海路の安穏と夫狭手彦の武運長久を祈念し、暫らく此の島に足を留めることに覚悟を定め、姫は雨の日も風の日も毎日田島神社に詣でゝは夫の無事と遠征将士の武運長久も合せ祈願し、島の西北端に聳ゆる島第一の高峯伝登岳に登りてははるか韓土とおぼしき空を打ち眺めては夫の名を呼び続けるのが哀れな姫の明け暮れなりしが姫は遂に病魔のおかすところとなり次第に病勢もつのり、今は快癒もおぼつかなくなり島民も姫の哀れな身の上に同情し、眞心こめて介抱も怠りなく一心に全快を祈ったのであります。

篠原長者の墓(佐世姫両親の墓と言ひ傳う)


 島民を支配する長老夫婦の情け深き計いにて姫の郷里なる松浦の里篠原邑の父母の許に二人の使者を立てることになり、せめても今世の別れをなさしめんとの思いやりも一入哀れをそゝるものがありました。
 長老の命に依り使者は直ちに出発、野越え山越え道なき道をたどりつゝ松浦の里篠原邑に向け路を急いだのであります。
 姫は両親の来る日も待たで長老夫婦は申すに及ばず看病の為め付添える島民の止めるのもきかず、病気の体を押して一人寂しく伝登岳にはうが如くにして挙じ登り息も切れぎれに夫の名を一声呼んではしばらく休み、又一声実に鳴いて血を咄く時鳥潜々と泣く哀れさ姫神島に囀ずる小鳥も沖に鳴く鴎も皆同情の涙をしぼったことでしょう。
 然し如何に泣き慕えばとて今は韓土新羅遠征の狭手彦が帰還する筈もなく、姫の涙も盡きはてゝ観るが如く泣き伏した姫は再び立ち上らず、魂は山を越え海を渡り戦場の夫の許へ飛んで行ったことでしょう。そして夫を想う姫の純情の一念は凝り固って其の身は遂に伝登岳頂上の堅い石となりました。
 時は宣化天皇の三年十月半、木枯の風吹きそめて落葉樹の葉翩々として翻り落ち一入の哀愁をそゝる頃でした。
 姫神島よりの使者は佐世姫が伝登岳頂上の堅い堅い霊石と化した翌日夕方、松浦の里なる篠原長者の舘に到着、親しく姫の両親に面会、佐世姫の病気重態なる旨を告げしところ両親は気も狂わん許に打ち驚き筑紫長者の娘楓姫も佐世姫と日頃親しき間柄のことゝて之を聴き悲しみの余り暫らくの間言葉もなき有様にて、姫の乳母葛葉と共に唯々泣き入る許りでした。
 佐世姫の両親は直ちに旅装をとゝのえ使者の案内にて篠原邑を出発、翌日夕方呼名の浦に到着、漁船の情にて姫神島に渡り長老夫婦及島民一同に面会これ迄の深甚にして筆舌を以て言い盡すことの出来ざる高恩に対し涙と共に心から厚く礼を述べ、長老夫婦始め島民多数の案内にて伝登岳に登り、既に霊石と変りし佐世姫の化身に取りすがり潜々と泣き叫ぶ有様は他の見る目も一入哀れにて全島民一人として袖を濡さぬ者はなかったのです。姫の両親も今は何時迄嘆いても返らぬ前世の因縁と諦め、一と七日の供養を済ませ島民と盡きせぬ別れを告げ、しおしおとして帰り行く様は殊に悲哀をそゝるものがありました。

佐世姫が夫を恋ひ慕ひて逐に霊石と化した傳登岳山頂



佐世姫が松浦川の浅瀬を渡り身心の憩をとりし佐世姫岩


 島民は何れも喪服を着け七日間哀悼の情けを表しければ、天照る日も光を薄し空吹く風も音をなみ実に心なき草木までも悼むが如く思われました。
 一方韓土新羅の国馬山の港に到着した狭手彦は兄の大伴盤と共に新羅兵の僅かな抵抗を排除整々堂々として上陸し直ちに進軍を開始各所に転戦しある時は破竹の勢を以て新羅兵を討征し、又ある時は非常に苦心せしこともありつれど遂に新羅国を討ち平げ降伏せしめ茲に任那国を救い新羅国王楊俊亭に対し任那国の侵略地返還をなさしめつ狭手彦は任那国の兵制改革を行い政治、経済、産業、農事、税制、衛生、法制等に到るまで懇篤なる指導をなししを以て任那国はいとも安隠に治まり国民の悦び一入大きく狭手彦を救援の神父と敬ったのであります。
 狭手彦ほ宣化天皇の勅命の大任をはたしましたので人皇第二十九代欽明天皇の二年任那国王金明王に別れを告げ国王始め大官及一般国民の盛大なる見送りを受け、三ヶ年の星霜を経て初秋の風静に吹き渡る八月上旬、軍馬の行列整々堂々前駈後従列を正し馬山の港に到宿、こゝにても新羅国民の盛んなる見送りを受け上陸当時繋留保管せしめし兵船に将士一同乗船、錨を巻いて直ちに出港し海路平穏無事遠征大将軍狭手彦の御座船を先頭に途中対馬に二泊、壱岐に一泊、島民より大いなる歓待を受け加唐島、姫神島、神集島を指呼の間に眺め、目出度凱旋して松浦の里唐土の浦に上陸して見ると、凱旋将士を出迎う為め近郷は申すに及ばず、遠くは筑前方面より集り来りし老若男女は歓呼の声を以て之を迎え、其の数実に数千人の多きに達し唐土の浦海辺は時ならぬ賑いを呈し、凱戦将士に対し湯茶、菓子、果物、酒肴、赤飯等を饗応し誠心こめてもてなしましたが、狭手彦を喜び迎えると思いし恋しき妻の佐世姫の姿はなく、姫は既に帰らぬ人となっていたのです。狭手彦の落胆の程如何許りであったことでしょう。

佐世姫の化身霊石を祀りし佐世姫神社


 流石に猛き狭手彦も涙潜々恋愛の情止めあえず、長途の疲れもいといなく将士一同に対しては唐土の浦及其の近郷に軍律正しく滞在を命じ置き、任那国より伴い来りし曇恵、道深という二人の僧侶を連れ姫神島に渡り、伝登岳頂上に島民の情にて小社を建立して杞りある佐世姫の化身霊石に取りすがり、さながら生きたる人に物言う如く涙ながらに別れを告げ、姫神島の東部に当る眺望最も良き場所を撰び、天台宗伝登山恵心寺(現在の龍雲寺)を佐世姫の菩提寺として建立を姫神島の長老他島民の主だちたる者七、八名に懇願し曇恵、道深を同寺初代の住職となし佐世姫の菩提をねんごろに弔うよう呉々も依頼し、狭手彦は島民に対し別れを惜しみ多数の見送りを受け将士の滞在せる唐土の浦にと路を急いだのであります。

貞女松浦佐世姫領巾絵
黒田重太郎先生の画


 更に狭手彦は姫への追善供養にと松浦山の山麓に一堂を建立し、これに高麗国王明王より狭手彦に贈られし閻浮檀金観世音の像を祀り、別に任那国金明王より贈与されし梵鐘を留め、篠原邑に到り佐世姫の両親及邑民一同に対し厚く礼を述べ、涙ながらに永遠の別れを告げ断腸の想いを抱きつゝ将士を卒い陸路寂しく篠原邑を出発せんとせし折り亡き佐世姫の無二の友楓姫の両親筑紫長者及佐世姫の両親は楓姫を伴い、狭手彦の御前に走せ参じ楓姫を此の世に亡き佐世姫の身代りとして都に連れ帰られん事の切なる願に依り、狭手彦も之を深く悦び給い「吾が希望と悦びこれにこしたるものなし」とて改めて筑紫長者に請いて楓姫を最愛の妻として迎え、篠原長老の舘に於ける式典と披露の宴もいと簡略に之を済ませ、楓姫を伴い仲睦じく篠原長者及筑紫長者其の他篠原邑の住民一同より盛大なる見送りを受け都に上りました。
 狭手彦及兄の盤は将士を卒い欽明天皇の二年十月初め、満山の草木既に紅葉し高天肥馬の好季節、各地に泊りを重ね目出度都に凱旋、宮中の重臣在郷の将士其の他遠征将士の親戚、友人一般民衆より絶大なる歓迎を受けたのであります。

大伴狭手彦が新羅国遠征の途 指呼の間に眺めて航行せる怪洞七ツ釜


 狭手彦は兄の盤及主なる将士を伴い宮中に参内、天皇に拝謁し重臣侍立の上凱旋委細上奏報告しましたので天皇深く之を喜ばれ、其の労を犒い給われ狭手彦以下出征将士全部に対し厚く恩賞がありました。
 後人皇第四十五代聖武天皇の神亀四年、天皇は玉津島大明神の神祇官に勅命して「篠原邑の長者の娘佐世姫という貞女が夫狭手彦の渡韓を悲しみ、死して其の姿は霊石と化した。直ちに其の霊石を祀れよ」と託宣せられたのであります。其の時より世を挙げて佐世姫神社と崇め、幾多の人が心から貞女の鏡として信仰参詣するようになりました。
 又太閣秀吉も肥前名護屋城在陣中此の望夫石を見て感に堪えず祭祀料百石を与えて祀らしめました。
 今より百七十年前佐世姫の化身望夫石を伝登岳の小社より田島神社境内に移し祀ったのであります。
 厳木町長者原は今より千四百十五年前、大伴狭手彦が人皇第廿八代宣化天皇の勅命を奉じた任那国救援に赴く為め滞在地として名高く、又佐世姫屋敷は松浦佐世姫誕生の地として余りにも有名であります。長者原も佐世姫屋敷も県道より南へ谷川の清流にそうて山道を登ること約一里、今尚残る史蹟老松風を呼んで往時を語る四季縁結の神社として参詣者が絶えることがありません。
 毎年陰暦六月十五日は佐世姫神社の夏季大祭が佐世姫誕生地跡即ち佐世姫屋敷跡で盛犬に行われ、色々の余興等があって参詣者が非常に多く賑うのであります。

大伴狭手彦が佐世姫の追善供養に建立せし赤水観世音
 海原の沖行く船をかへれとて
       領巾振りけらし松浦佐世姫


 遠つ人松浦佐世姫夫恋に
       領巾振りしより負へる山の名


 行く船を振り留めかね如何ばかり
       恋しくありけん松浦佐世姫


 佐世姫が領巾振山の跡とへば
       昔ながらの松風の音


 松浦潟ひれふる山の時鳥
      あかでも聲の遠ざかり行く


 佐世姫の袖かと見れば松浦山
       裾野に招く尾花なりけり


 忘るなよ契りし末を松浦潟
       領巾振山はへだてはつとも


 領巾振りし昔の人の面影も
       うつる鏡の山の端の月


 友したふ千鳥鳴くなり領巾振りし
       松浦の山の秋の潮風


 松浦山夕こえ来れば玉島の
       里のつゞきに立つ煙かな


 松浦姫木末のもみぢ色そめて
        秋ふる袖は錦なりけり


篠原邑は佐賀県東松浦郡厳木町の一部長者原。

唐土の浦は佐賀県東松浦郡浜崎町のことなり。

松浦山を鏡山、領巾振山、又は七面山とも云う。

佐世姫が松浦川の小高い岩山に登りし其の岩山を松浦岩又は佐世姫岩とも云う。

大伴狭手彦が高麗国王明王より拝受せし閻浮檀金観世音像及任那国王金明王より拝受せし梵鐘は現在佐賀県東松浦郡鏡村鏡山麓の曹洞宗曹源山恵日寺に保存されあり梵鐘は大正二年国宝に指定せられたり。

鏡山の麓の観世音は現在の赤水観世音なり。

傳登岳を田島岳又は天童嶽とも云う。
昭和廿八年十月   日印刷
昭和廿八年十月   曰発行

著者
前田銑之助
発行人
前田銑之助

発行所
佐賀県東松浦郡呼子町
 大字呼子三、七六四番地第一五
 株式会社呼子観光物産舘

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     佐賀県呼子町
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     薬剤師 前谷七郎
       佐賀県呼子町
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一度泊れば又泊り度い
     高串一の八千代館
 旅館 八 千 代

      館主 宮崎 齊
      佐賀県高串港
      電話 四番


百選観光之地
 生洲料理
  油屋旅館
       館主山口小太郎
       唐津市外湊村
       電話 七番


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