唐津曳山を紐解いていく上で、忘れてはならない資料があります。 既に「坂本智生遺稿集 唐津曳山の歴史」としてからつ歴史民俗研究所という所から出版されている本があります。坂本智生先生は生涯を郷土史に捧げた尊敬すべき先達で、これは唐津曳山を知る上でこの上ない一冊だと思います。 また、下に記した文は松浦史談会の機関誌「末盧国」昭和55年6月・9月に投稿されたものです。敬意を表し御紹介致します。 勝手にネット上に載せておりますが、何れ松浦史談会様にお許しを頂きたいと思っております。 管理人 吉冨 寛 |
||||
唐津曳山考 坂本智生 唐津曳山及びその曳山行事については、昭和三十三年佐賀県重要有形文化財として、また昭和五十五年には国の重要無形文化財として、それぞれ指定を受けたものである。 曳山については、旧藩時代からそれぞれの曳山所有の町内では、ささやかな誇りとして自負されてきたものだが、今日では唐津市の文化財として全市民の誇りにまで昇格し、本来の姿からして、批判めいた見かたもあろうが、市民のレクリエーション行事として、或は観光資源として充分評価できるものである。 さて、唐津曳山及びその曳山行事がこれほど有名になってくると、相応の歴史的背景についても、然るべき説明が求められてくるが、元来文書的な史料はもとより、意識のうえでも、その必要を感じない状況にあったものと考えられ、記憶された口碑の類も、今日的な曳山とその曳山行事の外は誠に少ない現状である。が、しかし、それにも拘わらず、少しでもその説明をしてみたいという気持から、改めて、曳山およびその曳山行事について考えてみたい。 最初に「唐津曳山」という名称について。 佐賀県が県の文化財として指定した当時は「唐津山笠」と称したが、昭和三十九年頃から「曳山」と改めるよう、取締会や神社、観光協会などで申し合せがなされ、一般にも普及するに及んで、昭和四十九年県の指定名称を変更するよう由請、決定された。 元来、明治以前の記録には「山笠」という文字は殆んど見えない。ただ大石町山の、旧藩時代の修理銘にこの文字があるように思う。 このことに対し、「曳山」或は「引山」という文字は度々見かける文字で、「引山順番」という書だしで、年ごとに曳山の順序を町名により指図した大年寄の文書があり、また「曳山之儀につき云々」といった文書がある。
以上の文書は文久二年のものであるが、この年の唐津くんちに曳き出された曳山は十四台、当時建造されていた所謂「唐津曳山」は九番山の紺屋町までなのだから、江川、塩屋、米屋、木綿、京町の山をどの様に説明するか気掛りである。もっとも、江川町の山は鳥居を、塩屋町の山は仁王さまを、それぞれ和紙の張貫きで造出したものであったことは文書の上でも確かであるが、その他の町の山は、京町が屋台の上で踊りをみせていたというほか、明らかでない。また、この文書に「引歩行(ヒキカチ)」という文字がみられるように、当時「荷い歩行(ニナイカチ)」という文字も出ており、祇園山(造り山)を担って町内を巡行することもあった。 現存の一番山刀町の制作は文政二年ということであり、当時の様子を記録した大石町役中の写文書に次のものがある。
明神様の西ノ浜御幸は寛文年中に始まると伝えられる。御幸には氏子中から、何らかの供奉が行なわれたことも当然なことで、土井の時代には惣町から傘鉾が差出され、水野の時代には役町十二ケ町から山鉾が奉納された。 文化年中の、次のような文書がある。
役町十二ケ町から差出された山鉾がどのようなものか明らかでないが一般に山鉾には「担ぐ山鉾」と「曳く山鉾」とがある。ところで、少なくとも文政二年には『曳く山鉾』が出現したことが文書の上で確認できるし、一番山刀町として現存する。 旧藩時代の十七力町には各町に町年寄二〜三名、組頭二〜三名が置かれたが、総町の大年寄が設けられたのは水野の時代の明和年中である。それまでは十七力町のうちの十二力町、即ち本、呉、八、中、木、材、京、刀、米、大石、紺、魚屋町から交替で『惣行事』を勤め、惣町に係る一切の事務を処理した。 唐津町大年寄が設けられることにより惣行事の仕事の殆どがその方に引継がれたが、唐津大明神祭礼のことだけが残されたもののようである。 惣行事を交替で受持つ十二力町は、大年寄設置後も惣町に係る事務の具体的な実施面に於いて大年寄の指図を受け、協力し参加する名誉を与えられていたが、このことについては、平野、新、江川町の三力町にとって承知し難い事であった。もっとも、塩屋、東裏の二力町は、町年寄が材木町、大石町とそれぞれ兼帯となっており、町並も小さいので気にしなかったようである。三力町は大年寄に対し、十二力町並の取扱いを歎願しているが、これに対する十二力町側の対応を示す文書が残っている。
一番山刀町について 一番山刀町の本体内側には、その製作年と関係者の氏名が漆書されている。その製作年については「文政二年己卯九月吉祥日」とある。これは勿論文政二年のおくんちに奉納された、という意味で、数年以前から計画され、工作されていたことは相違あるまい。 それから「獅子作者」として、「石崎嘉兵衛、大木小助、同儀右衛門」とある。石崎嘉兵衛とは何者か。一般には刀町・中の菊屋の当主とされている。しかし、中の菊屋の石崎嘉兵衛は文政四年の生れで、明治二十一年に死亡していることは、彼の墓碑により確かめられる。彼のフル・ネームは石崎嘉兵衛長則とある。 石崎嘉兵衛は石崎八右衛門の三男で、天保年中に中の菊屋の石崎常左衛門の養子になっている。常左衛門は文久二年に死去しているが、常左衛門と同じ頃、石崎常七という名の造り酒屋が刀町にある。 曳山の漆書によると、「組頭」として「石崎兵左衛門、石崎常七」の名がある。石崎兵左衛門は、所謂西の菊屋であるが、石崎常七が何れの菊屋か明らかでない。明治になって、菊屋という旅館が記録にみえるが、この辺りに東の菊屋があったかもしれない。 ところで、文政二年の段階で、石崎嘉兵衛という名前は、刀町には見当らない。石崎嘉兵衛という名はむしろ呉服町の菊屋ではないかと推定される。 石崎嘉兵衛というのは、明和年中に設置される初代の大町年寄の名である。この嘉兵衛は菊屋総本家五代の治郎右衛門の二男である。菊屋の総本家は材木町、現在の中央大劇辺か。嘉兵衛はその後、呉服町の分家石崎嘉吉を継ぎ、文化の初年に死亡、二代の大町年寄を二男の嘉十郎が継ぎ、三男の源八郎は、後嗣の絶えた材木町の本家を継いだ。 二代の嘉十郎は又嘉兵衛とも称したが、文化十四年に死去し、三代目の大町年寄には、その子茂十郎が為る。茂十郎が嘉兵衛といった証拠はないので、筆者は二代嘉十郎即ち嘉兵衛が「獅子作者」ではないかと思う。文化十四年の翌年は文政元年だから、余り無理な推定ではないと思う。 呉服町石崎氏はまた、初代嘉兵衛以来、藩政の終えん期まで、代々「嘉左衛門」という名も使っているので、嘉の字はこの家の通字になっている。 また、四番山呉服町の作者として石崎八右衛門の名があるが、この人が刀町中の菊屋の石崎嘉兵衛の実父としても、年代に無理はないが、八右衛門が何処の菊屋なのか今の処見当がつきかねる。石崎氏の関係者には一統の系図書があることも承知しているが、性来の無精で確かめていない。 ついでに、大木小助という名について述べると、この名の人が明治十年代迄本町の、現在の中野陶園の辺に住んでいたし、旧藩時代の記録にも本町・大木屋小兵衛という名がみえる。昔は同名が二代、三代続くことがしばしばあるので、刀町の「獅子作者」の一人が本町の人であった可能性も強い。 『曳く山鉾』が即ち『曳山』ということになるが『曳山』即『唐津曳山』とはならない。『唐津曳山』とは、現存する唐津特有の曳山である。 唐津案内の最初の活版本とし明治三十五年大石町の大和屋が発行した「唐津名勝案内」という冊子があるが、その内の「唐津神社」の項は次の如くであり、「曳山」に対する順当な記述がなされている。 陰暦九月二十九日は毎歳の祭日なり、神輿は字西の浜に渡御の途次各町を巡幸せらるる。此日の見物とも言うべきは曳山とて、各町より曳出す処の山鉾なり、山鉾とは鯛又は獅兜等を形る張り貫きの模造物にして高さ三間、幅之に適ひ粉色工みに施され云々″ つぎに惣行事という事 唐津大明神の祭礼は、明神さんの社僧歓松院から惣行事受持町に対する依頼に始まり、惣行事の町は月当番の受持町に協力を依頼して実施にかかる。観松院は明治になって廃止されることになった。 唐津では惣町十七力町という言い方が旧藩の時代から明治にかけて使われている。その十七力町とは、本、呉、八、中、木、材、京、刀、米、大石、紺屋、魚、平、新、江川、塩、東裏、であるが、明治になると塩屋町は材木町に、東裏町は大石町に合併し、従前郷方に属した水主町、新堀が加えられて十七力町には変りなく、惣町十七力町という町民意識は明治を通して強烈なものであった。 歓松院のこと 仏教が伝来したのち、奈良時代の前後から神仏習合の傾向があらわれ有力な神社に神宮寺がつくられて、ここに住する僧侶が神祇のために仏事とを修する風が起こり、別当が置かれ社僧して一社を統括するようになった。唐津大明神に於ても高松寺がおかれ歓松院別当として奉仕し、その開祖は快頓と言い天禄年中(九七〇)と言われる。神主には戸川、安藤、内山の三社家があり、共に祭祀をつかさどった。明治元年、一千有余年に亘って行なわれて来た神仏混淆を禁止し二者を分離せしめた行政方策が行なわれた。 明治政府は王政復古、諸事一新、祭政一致の制度に復し、神祇官を復興するという方途を決定し、従って古来の神仏習合の風潮を一洗しようとして明治元年三月十七日諸国神社の別当、社僧復飾の令、同月二十八日神仏の区別に関する布告その他の神仏判然の令を発した。これにより高松寺歓松院は廃寺となった。 (戸川) |