佐賀県の地名より (平凡社 1980年3月10日初版)        


唐津市   面積一二七・〇二平方キロ

 佐賀県の北西部、松浦川流域に位置する。東松浦郡・伊万里市に接し、東は浜玉町、南は厳木町・相知町、南西は北波多村・伊万里市、西は肥前町・玄海町、北西は鎮西町・呼子町。北は玄界灘の唐津湾に面し、神集島・高島などを含む。
 東部は松浦川の沖積地で穀倉地帯をなし、東端に鏡山がある。南部は背振山地から延びる低い丘陵地で、花崗岩層が露出している。松浦川左岸の西北部は玄武岩からなる上場台地で、標高二〇〇メートル内外の丘陵地。第三紀末の地殻変動により形成された唐津湾には、その頃の火山活動でできた島々が浮かぶ。鏡山も同時期に出現した。唐津湾は古代は奥深い入江で、河川による沖積作用により、潟を形成していた。近世初期には寺沢志摩守広高の松浦川改修などもあって海岸線は後退し、虹の松原は海浜になっていた。北西部の玄界灘の海岸は玄武岩の岩壁で、波濤の浸食が激しく、荒々しい景観を呈する。

〔原始〕
 昭和二五年(一九五〇)鏡山山頂より先土器時代の細石刃が発見され、その後、上場台地に属する唐川(とうのかわ)・竹木場(たけこば)・太良(たいら)・枝去木(えぎるき)・佐志(さし)・湊(みなと)の各地から同時代の遺物が発見された。縄文時代の遺跡・遺物も上場台地を中心に出土している。西唐津築港海底遺跡では、水深1.5メートルの海底から縄文前期から後期に至る遺物がおびただしく出土している。
 弥生時代の遺跡は鏡山周辺が主体となり、農耕の中心になったことがうかがえる。弥生後期になると、桜馬場(さくらのばば)遺跡の後漢鏡、字木汲田(うさくんでん)遺跡の銅剣・銅鉾等の出土、葉山尻(はやまじり)支石墓遺跡の存在などが大陸との関係を物語り、また墓地群が各所から発見されている。「魏志倭人伝」にいう「又渡一海千余里、至末廬国、有四千余戸、浜山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深浅、皆沈没取乏」は、この時代の唐津の状況をさすといわれる。古墳時代に入っても、鏡山周辺および松浦川の支流地域が生活の場の中心である。島田塚(しまだづか)古墳・樋の口古墳・外園(ほかぞの)古墳などのほか、旧鏡村や旧久里村の山麓地には数多くの円墳や表土のなくなった石室等が存在する。半田(はだ)の宮の前古墳などからは大陸渡来の金製杏葉形垂飾付耳飾などが出土し、大陸との交流を立証している。

〔古代・中世〕
 唐津の古代の説話として、神功皇后の朝鮮出兵に伴う物語や大伴狭手彦の新羅出兵の折の佐用姫伝説がある。これらは唐津の地が大陸への渡航地であったことを示すものであろう。
 だが大和朝廷により、大陸への渡航地が筑前博多地方に移るとともに、歴史の舞台に上る機会は少なくなった。なお大化の改新に始まる律令制による条里制はこの地にも実行され、そのなごりとしての地名がある(大字神田(こうだ)の「五の坪」など〉。

 なお鏡神社(鏡宮)の社領は奈良時代からあったと思われ(→鏡圧)、平安末期には東寺百合文書に松浦(まつら)庄の名がみえる。また松浦東郷と松浦西郷が河上神社文書などに記され、さらに草野(くさの)庄の名やそのほかの荘園の名も史料上うかがえる。荘園の出現は、松浦党をはじめ武士団の発生とその土地支配の状況を示すものでもあり、戦国末期まで松浦党などの支配は続いた。
 唐津の名は、一般には古来大陸への渡航の津であるからだとされているが、大宰府神社文書や河上神社文書の幸津(さいつ)庄を辛津(からつ)庄と読むかどうかは一つの問題である。中世になると唐津の名が散見する。正平二三年(一三六八)四月一三日の斑島広押書状(有浦家文書)に「佐志与三殿与千々賀五郎四郎殿相論候斑島事、此間者依公私ハ無沙汰候、雖然為此自去八日唐津在津候」とみえる。また「朝鮮国明宗実録」の明宗一〇年(一五五五)一二月の条に「七日丁酉日本国西海路上松浦唐津大守源勝・全羅道作賊倭人三十余名ヲ斬り、兵符ヲ得タリト称シ、呼子ノ源盛満ヲ遣シテ之ヲ献ズ」と唐津の文字がみえる。戦国末期には、神谷宗湛が日記に天正一四年(一五八六)「上松浦唐津村ヲ出行シテ、同ミツ嶋ヨリ舟ニ乗」と記している。文禄年間(一五九二〜九六、豊臣秀吉は名護屋城在陣中「唐津茶屋」に来遊したと有浦家文書にあるが、この場所は比定できない。文禄二年波多氏のあと寺沢志摩守広高が唐津藩主になってからは、いずれの文書にも唐津が地名として記されている(→松浦郡→東松浦郡)。

〔近世〕
 寺沢志摩守広高が唐津藩主となったのは、鍋島家文書・有浦家文書によれば文禄二年で、唐津藩領は当初上松浦(かみまつら)六万三千石、まもなく隣接の筑前怡土(いと)郡(現福岡県糸島郡)二万石、合わせて八万三千石であった。慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦の戦功により翌六年肥後天草郡(現熊本県天草郡〉四万石加増で一二万三千石となる。寛永一五年(一六三八)の天草・島原の乱後天草郡は没収され、正保四年(一六四七)寺沢氏は改易となり約一年間幕府領となった。以後は譜代大名の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入部、明治に至った。

 近世における災害をみると、享保一七年(一七三二)には天下飢饉で餓死者数知れず(松浦古事記)とあり、旱魃については鏡宮諸事覚帳に、寛政一一年(一七九九)に雨請御祈祷二夜三日、享和元年(一八〇一)七月二〇日に鏡組・久里組中より雨請御祈祷、文化二年(一八〇五)夏大旱魃につき御領分中より十万度参詣一日御祈祷、同六年六月旱魃につき鏡組・久里組より雨之相願の記載がある。延享三年(一七四六)五月二二日には、唐津城築城以来の大洪水で松浦川の堤防を三尺も水が越した。宝暦一一年(一七六一)、同一二年、明和元年(一七六四)は旱魃、同三年洪水、翌年は蝗害、同七年大洪水で同八年にはうちつづく災害を受けた領民二万三千人が虻の松原に屯集して藩の圧政に抗し、一揆を起こしている。(虹浜騒秘録)


 人口は、巡見鑑などによれば、郷方の元禄五年(一六九二)の人数は五万七千九九四人、宝暦一二年六万二千五三八人、天保四年(一八三三)四万九千五五二人、嘉永三年(一八五〇)五万二千五三七人である。時代により藩領域の違いがあるので単純に比較しがたいが、藩政期三〇〇年を通じ増加したとはいえない。領民は窮乏のため子育てができず、水子(みずこ)の習慣があった。藩政末期、小笠原氏は水子を禁止し、「赤子養育米制」などを設け、また「それ人は万物の長なるぞ」と子育ての「くどき」を作ったりして人口の増加に努めているが、実効は上がらなかったといえる。
 藩政期の婚姻は「一、百姓縁辺之儀者、村々庄屋へ相尋契約可仕候」(岸田文書)とあるように、庄屋の承認が必要であった。葬儀は土井民時代に火葬を禁じて丁重に行われた。祭も盛大で、氏神社の祭を供日(くんち)とよび、各氏子とも盛大な祝宴をした。その最も著名なものが唐津神社の「唐津くんち」で、「くんちの三月倒れ」といわれるほど饗応が大掛りである。なおこの地の民話の代表的なものに「裏町かんね話」があり、かんねという人物の各種の奇行が唐津の方言で語り伝えられている。

〔近現代〕
 現在の唐津市は、藩政期の城下町を中核に形成されている。廃藩後幾多の制度・呼称の変遷を経て、明治二二年(一八八九)町村制施行に伴い東松浦郡内に二一町村が成立。そのうち唐津町が大正一三年(一九二四)満島(みつしま)村を、昭和六年唐津村を編入して同七年市制を施行した。同一六年佐志(さし)町、同二九年鏡村・久里村・鬼塚(おにづか)村・湊(みなと)村、同三〇年北波多村の一部、同三三年切木(きりご)村の一部をそれぞれ編入して現在にいたる。



唐津城下
 文禄二年(一五九三)、寺沢志摩守広高は豊臣秀吉により改易となった波多三河守親の遺領ならびに草野鎮永の旧領など上松浦(かみまつら)の地六万三千石を得、のち筑前怡土(いと)郡(現福岡県糸島郡)二万石、さらに慶長六年(一六〇一)には肥後天草郡(現熊本県天草郡)四万石を加えて一二万三千石の大名となる。広高は慶長七年から一三年にかけて唐津城を築き、松浦川河口に城下町を建設した。寺沢氏は正保四年(一六四七)二代堅高で改易となり、のち一年この地は天領となったが、慶安二年(一六四九)大久保忠職が入部して以後は松平・土井・水野・小笠原と譜代の藩主が交代した(→肥前国)。

〔町の形成〕
 築城以前は松浦川と波多川・町田川の河口が形成する潟や砂州で、地切(ちぎれ)とよばれ、満島山(まんとうざん)周辺の砂州にわずかの漁夫が居住しているにすぎなかった。広高は築城と同時に城下町の町割にも着手し、「松浦拾風土記」に
 一、町数、壱万石壱町宛にして拾弐町と極ル、此町割並惣行事廻
          
 一、刀(かたん)町・米屋(こめや)町・呉服(ごふく)町・魚屋(うおん)町・本(ほん)町・大石(おおいし)町              
    紺屋(こんや)町・中(なか)町・木綿(きわた)町・材木(ざいもく)町・京(きょう)町・八百屋(やおや)町とあり、また
 一、船ン頭(せんどう)町・坊主(ぼうず)町・水主(かこ)町・柳(やなぎ)町・八軒(はっけん)町・弓野(ゆみの)町・下(した)町・鷹匠(たかしょう)町
  此町々ハ御知行増ノ時ヨリ心得ニ而名附アリ、依之惣行事廻番無之
とあって、あらかじめ知行増を見込んだ町名もつくられていた。正保年間の絵図(九州大学蔵)や元禄年間(一六八八〜一七〇四)の絵図(小田原市立図書館蔵)に、この町割が記されている。

 藩政中期には町田川を境として、左岸に総町として内町(本町・呉服町・中町・木綿町・京町・刀町・米屋町・紺屋町・平野町・新町・八百屋町)、外町(材木町・大石町・塩屋町・東裏町・魚屋町)をおき、それに組続きの町として江川町を加えて唐津一七町と称し、のちさらに二八町となった。このうち職業名の町は、その仕事に従事する町人町である。
 郷村では屋敷地まで地子が課せられたが、町割内は免除されて経済活動が保護された。しかし実質的な町並であった水主町・新堀・百人町は郷方支配とされ、地子が課せられていた。
 弓野町・鷹匠町・のぼり町・鉄砲町・十人町・桜馬場・山下町・坊主町は足軽など下級武士の、船頭町はお抱え水主の住居地で、城内同様、武家町は藩の直接支配とされた。
 町並の周辺には陣屋式御堂と塀をもつ寺院町の西寺町・東寺町が防御目的をもって設けられ、領内の寺院の大半がここにある。寺社は寺社奉行の支配であった。
 町並の外にも土堤をもつ濠堀があり、近世城下町の典型をなしていた。とくに内町は城郭に組み入れられ、城内とは内堀で隔てられていたが、外堀で囲まれ、札の辻橋・名護屋口・町田口に木戸が設けられていた。寛永年間(一六二四〜四四)の公儀隠密の探索書には「町方の規模は町の外かは広さ北南弐町六間西東四町、西南ニ土手高さ四間程、堀之広さ十三間(中略)町のかまへの外東の方ニ 五町長く町二筋あり町の家数六七百御座候ハんと見へ申候」とあり、これは昭和九年(一九三四)実施の材木町裏松浦川埋立地以外は、現状とほぼ同じ町並である。
 戸数と町人数は元禄五年には七四九軒、三千九七二人、文政元年(一八一八)は七八七軒、二千九六九人、明治三年 (一八七〇)は一千二八軒、三千二四九人(佐志庄屋文書)となっている。城下町に移住してきた町人は、名護屋城築城の際寺沢氏に従ってきた者、その後の各藩主の入部の際先住地より移ってきた者、藩から取り立てられて他地から移り定住した者、旧松浦党の家臣等で町人となった者など、多種多様であった。

〔町の支配〕
 寺沢氏時代には町奉行の下に惣行司が輪番制で町人側から選ばれ、町の世話の代表となった。のち町奉行〜大年寄−年寄−組頭−町人の組織が明治初めまで続いた。町方に大年寄三組ができたのは安永年間(一七七二-八一)で、佐志庄屋文書に
町方大年寄と云ふもの以前よりは無之、町年寄迄也。水野様御代郡・寺社・町三奉行兼帯に而御両人ずつ有之候処、公事等懸合事出来侯節大庄屋と町年寄と取合候而も御奉行も一つ也何事も大庄屋の云通りに相成、余り町方の者下た手に相成候故、大庄屋と同格のもの無之而は町方の取扱出来兼候と思召、同御代安永年中大町年寄御拵被成候由
 といい、郷方の大庄屋に相当するものとして設けられたことがわかる。大年寄三人について、天明(一七八一−八九)の頃は石崎・森・岡本の名が文書にみられ、寛政(一七八九−一八〇一〉の頃は.石崎・小牧・草場の名があらわれ、 幕末には四名となり草場・山内・江川・小島の名がみられる。

 大年寄は輪番制で町方の諸事をつかさどり、呉服町の安楽寺がおもな会所となっていた。彼らは火消の責任(三組の火消組が年寄の支配下にあった)や年寄の監督、町からの願書・届書の藩への取次ぎ等にあたった。また各町二名ずつの年寄は、その町の直接責任者として町内自治の中心となり、組頭が補佐した。唐津においても五人組が組織されたが、形式的で連帯責任を負った形跡はなく、町人の落度は町年寄・大年寄の責任とされた。町の経費は軒役とよばれて持家の数によって課せられ、町役は免除されていた。

〔産業・交通〕
 唐津領内の産物はすべて城下の御用商人によって領外に売りさばかれた。「松浦拾風土記」によれば、文化年間(一八〇四−一八)の御用米問屋三軒、御用船問屋一二軒で、商品の移出入は船宮奉行所の厳重な監督のもとに行われた。松下家史料に「大坂並長崎へ遣され候節、御米を御積みなし成らせられ候得ば、御米積高御役所より御蔵方差紙唄上げへ持遣し申候」とあり、また唐津の商人は幕府領時代の浜崎地区(現東松浦郡浜玉町)の米も取り扱っていたことが記録にみえる。

 御用商人が取り扱ったおもな産物は米・木蝋・和紙・煎海鼠・干鮑・鱶鰭・干鰯などで、これらは藩の専売品でもあった。商人は商品ごとに株仲間をつくり職業を独占して財力を蓄えた。「松浦拾風土記」によれば文化年間の株仲間は酒造株城下町内三九、糀株城下町内一六、豆腐城下町内一五となっている。しかし領内の経済基盤は弱く、これらの商人も藩との結びつきで存在しえたもので、日野屋や中尾甚六らの富商の出現もあったが、藩の崩壊とともに商人も没落している。
 有力御用商人は多角的な商業経営を行い、年寄・組頭など町内の役職を兼ねる者が多く、財力によって藩と結びついていった。土井利里が封を継いだ際、従前は庄屋代表は佩刀で出迎え、町方代表より上席に遇されていたが、この時から町人代表に乗物と大小が許されたにもかかわらず庄屋には乗物も佩刀も許さなかったため、郷方と町方の紛争の因になった。これは町方の地位向上を示すもので、幕末期には藩は町方の財力に頼らざるをえないほどであった。

 京町草場九兵衛御用達申付、苗字帯刀指免し置き申し候、総て在町共に帯刀指免し候者は城内出入無札ニて通路致し来り、町方帯刀の者役所諸願諸届共に一判にて差し出来申し候。京町糀屋市太夫買積船問屋申付け、弐人扶持取となし申候。刀町油屋安兵衛用達申付、五人扶持取となし申候。

 と藩の引継書である演説書稿にあり、また篠崎家文書には藩の勝手方から城下の商人篠崎与市あての借金申入書が残っている。
 しかし、藩財政の行詰りにより城下町も衰微し、天保九年(一八三八)に巡見使が町中を通った折の入野村庄屋史料に「扨々、衰へ候体に見受け申候、誠に御城下のさまも難渋と相見え候、先例よりの噺にて承り、扨々歎げかはしき儀に候と再三仰せられ候」という。「近年町方も銭払底にて不商売に相成り他所より入込み候品なども買入れ等も行届きかね困窮におよび候」(諸事控)というのが大半の町人の状態で、町中に空家も多くなり、町として成立たぬところさえ出てきた。「東裏町の近年は別して空家並に禿家多く住居の者に減り候て幾々は地面ばかり相成候様子に付き甚だ歎けかはしく存じ候故、仲間と相談の上、左の通り歎善差上げ候」(同文書)とも記す。さらに藩政崩壊後の明治初期には衰微に拍車がかかった。
 この中にあって、石炭業のみが幕末期のこの地方を賑し、川舟で運ばれた石炭は松浦川河口の満島から領外に移出され、唐津城下の石炭問屋は繁栄した。元治元年(一八六四)から明治元年までの領内の平均出炭量は二千九四六万九千斤で、これによる藩の益金四千六六八両は歳入の二四パーセントにもなっている。石炭業は明治に入ってからも当地方の主産業で、昭和二〇年代まで続き、唐津町は石炭基地としての役割を果した。
 藩政時代、松浦川は城下町地区に架橋がなく、対岸満島との間には新堀よりの渡し舟があった(明治二九年、奥村五百子らの尽力により松浦橋が架設)。また各町には木戸・番屋・辻番所が置かれ、木戸は四ツ時(午後一〇時)に閉ざされた。さらに町での滞在往来切手がなければ追放されるほど、取締りは厳重だった(演説書稿)。

〔近代の改編〕
 明治三年、町奉行所は市井所と改まり、大年寄は陌正(ひゃくせい)に、年寄は陌長(ひゃくちよう)に改称された。明治四年には陌正には家中の武士が任命されて輪番制が改まり、町組ごとの四組(平野町組・呉服町組・京町組・大石町組)になった。同年八月には城下は四区に区画され、四四の町名が出現している。明治六年、廓内外(こうないがい)村長(第一区・第二区)、内外町村長(第三区・第四区)の二名を置き、同八年に戸長と改称し、同二年には内町・外町・廓内・廓外の四区画として各戸長を置いた。同一六年、長崎県から佐賀県に移行の折、合併戸長一名が置かれ、その時から城下は唐津町とよばれるようになり、同二二年四月、町制施行により唐津町と公称された。



唐津城跡 現:唐津市東城内
 唐津市街地北東の唐津湾に面し、松浦川の左岸に位置する。舞鶴城ともよばれる。築城以前は地切(ちぎれ)とよばれ、満島山とよぶ陸繋島の砂州地であった。
 文禄二年(一五九三)ないし三年寺沢志摩守広高は唐津藩主に封ぜられ、慶長の役終結後は名護屋城も受領した。
広高は波多氏の旧城の田中城(現東松浦部北波多村)に居城し、慶長七年(一六〇二)から同一三年までの七カ年をかけて唐津城を築いた。
 築城について、「松浦要略記」は「名護屋御城の道具、材木不残御引取被成候」と、石垣を除いて名護屋の資材を移したと記す。また「諸大名御加勢前後五か年に当城御築立慶長年中被移居」と「寺沢広高公以来御代々記」に記され、「唐津城普請の事慶長七壬寅年より同十三戊申年迄七年に成就也」(松浦記集成)という。「松浦要略記」には「本城山は満島山と申所より続き鏡村の支配にて有之候。山東の裾低く大汐の時は汐越程に有之候を堀切今の川口に相成申候、以前の川口は只今二の御門御堀より北の御門外に流出居申候。(中略)満島山へ神仏有之候を所々に御移り被成候」とある。広高は築城にあたり隣接の大名の加勢を受けだが、薩摩堀・肥後掘・肥前堀の名称にその間の事情が物語られている。

 唐津城は鏡村と切り離された満島山を本丸とし、東側は松浦川を外堀とする。本丸の城地は東西六二間、南北七三間、本丸には城主の居住する御殿と米蔵等があった。二の丸の城地は東西二四七間、南北一二二間で政庁があり、土井氏時代は藩校盈科(えいが)堂や江戸在勤者の宿泊所や重臣の屋敷があった。三の丸は城地東西三一一間、南北三二五間、二の丸と内堀で隔てられ、唐津神社や城下に時を告げる時太鼓櫓があり、中堅武士の多くが居住した。

 城内は石垣をめぐらし、海岸を除き濠堀が掘られた。出入口としては三の丸の南側に大手門、西側に西の門、北側に北の門・理門が設けられ、本丸には船手門が松浦川岸に設けられた。また本丸には天守台が築かれたが、寛永四年(一六二七)のものと思われる隠密探索書では天守閣は存在していない。
 明治四年(一八七一)廃城となり、同九年までに隅櫓のほとんどは取り去られ、本丸跡は舞鶴公園となった。本丸上段のホルトノキと藤は市指定の天然記念物である。



唐津神社 現:唐津市南城内
 唐津市街の中心、大手口から北へ約二〇〇メートルの旧唐津城内三の丸にある。一の宮に表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神、二の宮に神田五郎宗次(当地方の豪族)を祀る。旧県社。
 創建については伝承が幾つかある。神社誌要は神功皇后が朝鮮より帰国後、鏡を捧げて住吉神を祀ったがその後衰え、孝謙天皇の時代に神田宗次が霊夢により海上に浮かぶ宝筐から鏡を得てこれを神功皇后の捧げた鏡として奏上、天平勝宝七年(七五五)九月二九日に唐津大明神の神号を賜った。文治二年(一一八六)神田宗次を二の宮として祀ったという。「松浦古事記」もほぼ同様だが、宗次が宝筐を得て神社に納めた日を九月二九日とし、同じ頃、都で三位蔵人豊胤は観音が宗次に抱かれて西海に赴く夢をみ、のち二人は会ってその不思議を奏上、神号を受けたという。「松浦拾風土記」は「故老の所伝、一宮は観世音の化現、二宮は慈氏尊の降下なり」といい、「松浦昔鑑」は「物川蔵人・神田五郎広之両人之霊を祝ふ杜也」という。「松浦記集成」には「宮の記に曰く、一宮、磐土命・赤土命・底土命・大直日神・大綾日神・海原神。二宮、八十任日神・神直日神・大直日神・底津少童神・中津少童神・表津少童・底筒男神・中筒男神・表筒男神。相殿、水神罔象神。御領主御合力米九石」とあり、神功皇后については「別記曰」、宗次夢想縁起については「一説曰」と触れる。なお藩政期の宮司を歓松院、社家を戸川美濃守藤原惟成・安藤陸奥守源政郷・内山一太夫藤原重国と記す。
 室町時代には、波多親の寄進状(松浦拾風土記)に

   奉寄進田地之事
 一唐津大明神之御所在肥前上松浦の西郷、庄崎之川向八丈田之下、田地三文之事、四至堺書之作也。
    右件の田地は親当知行無相違所也。然るに尊天長地久・当村安穏・家内長久・子孫繁昌・息災延命・為御油灯奉寄進処也、仍寄進状如件、
      文安六年己巳正月十一日
                     源親判
    唐津大明神宮

とある。また唐津市西寺町大聖院の十一面観音の胎名には「奉造立観世音形像一体、肥前国松浦西郷唐津社本地堂本尊事、為金輪聖王王徳陽万民豊楽□五穀成就当庄地頭社務源奥源祝沙弥聖心源授源□源弘源栄家内子孫繁昌。
建徳二年八月四日 大領主 幸阿」とあり、上松浦の松浦党一族の崇敬を受けたことを物語る。
 さらに慶長一〇年(一六〇五〉二月日銘入りの鐘に「今也寺沢志州大守広忠朝臣、令工鋳鐘、祭神妙、(中略)太守為尊神徳周」(松浦拾風土記)とあるように、近世は唐津藩主に崇敬されて、代々祈願所となっていた。
 秋祭は縁起により旧暦九月二九日であったが、大正二年(一九一三)より一〇月二九日に、昭和四三年(一九六八)から本殿祭は一〇月二九日、御神幸は一一月三日、四日に変更された。この祭は「唐津くんち」とよばれ、唐津市をあげての祭である。御神事に従うヤマは曳山ともよばれ、近世後期から明治初期にかけて一五台奉納された(現存は一四台)。本体は、主として和紙を厚く張り合せて漆塗で仕上げた一閑張の豪華なもので、奉納した町が総町中を台車に乗せて引き回す。現存最古のヤマは石崎嘉兵衛らが京都の鉾山車を見て、文政二年(一八一九)に作った刀町の「赤獅子」だが、唐津神社宮司戸川家の口伝によれば寛文年間(一六六一−七三)に御神事があり、町内からカツギヤマがお供したという。
 ヤマの名称・奉納町名・製作年代は赤獅子(刀町、文政二年)、青獅子(中町、文政七年)、亀に浦島(材木町、天保一二年〉、義経の兜(呉服町、天保三年)、鯛(魚屋町、弘化二年)、鳳凰丸(大石町、弘化三年〉、飛竜(新町、弘化三年)、金獅子(本町、弘化四年)、黒獅子(紺屋町、安政五年、現在は消滅)、信玄の兜(木綿町、元治元年)、謙信の兜〈平野町、明治二年)、酒呑童子と頼光の兜(米屋町、明治二年)、珠取獅子(京町、明治八年)、七宝丸(江川町、明治九年)、鯱(水主町、明治九年〉である。





刀町 現:唐津市刀町

 唐津城築城時の町割でできた。俗称「片ン町」が刀町になったとの説がある。片ン町は城の大手門前より西への町並で、名護屋道(唐津−名護屋村)の道筋にあたり、人や物の動きが活発で、藩政後期は実質的に唐津総町一七町の筆頭町となっており、唐津神社の神幸(くんち)のヤマ行列にも同町の「赤獅子」が先頭に立つ。
 刀町の勝木・石崎・喜田・篠崎らの豪商は藩の御用達か御用付商人として羽振りをきかしたが、廃藩後は篠崎家だけが同地に残った。篠崎家の家号は鬢付屋といい、豊臣秀吉とともに名護屋に下り贅付の用を勤めた堺商人で、小笠原氏時代は藩の掛屋も勤めた。「村々小物成あるいは浦山方諸運上銀当町判屋にて掛改いたし百目に付掛入五分宛其上判賃等指出村方より判屋へ相渡串候」(篠崎家文書)とあるように、藩への納金はすべて掛屋(判屋)を通して行われ、掛屋は手数料をとっていた。また御用達商人は「商売の儀は何品に不限ず町方御用達より支配致し候」とあるように、一般商人の死活の権さえ握っていた。このほか旧藩時代の記録に残る家では村井・山岡・花田・美麻・戸田・草場・高添などがある。
 文化年中記録は家数その他を「古来本軒四十一軒、東西一丁三十七間、当時家数人数百六十四人、引合五人組五十一人、内御勝手御用達苗字帯刀御免勝木定兵衛、御勝手御用聞二人、町年寄二人、組頭二人、石船二艘、酒屋四軒内御酒屋二軒、糀屋、質屋」と記す。




本町 現:唐津市本町

 内町の東部にあり、南北に通る町並で、唐津城築城時の町割でできた。住人は商人と職人が半ばし、藩の御用米問屋の米清中川家、日田御用達を勤めた鶴田屋谷崎家、料理屋お多福屋深見家、菱屋立花家、富永屋富永家、職人では屋根師棟梁の吉岡家、樋師棟梁の大西家、木挽棟梁の楠田家、御用仕立屋副田家があった。特異なものでは出雲講の宿があり、文政年中(一八一八−三〇)藩の武具方の皮座を勤めた楠田倉右衛門がいた。肥前国産物図考には本町の線香屋が記される。現在唐津神社に合祀する稲荷社も、この町にあった。
 町の中ほどには土井氏の頃から、他藩の公式来訪者や幕府の役人などが泊まる御使者屋があり、小笠原氏の頃からは町会所兼郷公所としても使われ、町人の宗門改人別もここで行った。明治維新後、城内の大名小路との間の柳堀に架橋されたが、明治四二年(一九〇九)堀が埋められ、赤煉瓦の洋式建物ができた。
 文化年中記録に「古来本軒四十軒、南北一丁二十五間、当時人数二百五人、引合五人組七十二人、内日田御用掛リ苗字帯刀御免一人、町年寄二人、組頭二人、御使者屋守一人、御米問屋一人、木挽棟梁一人、樋師棟梁屋根棟梁兼持一人、質屋一人、当時馬持一人」とある。





中町 現:唐津市中町

 内町のほぼ中央に位置、唐津城築城時の町割でできた。文化年中記録に「一、古来本軒四十四軒、南北一丁二十五間、当時家数人数百四十三人、引合五人組五十三人、内町年寄二人、組頭二人、御八百屋一人、御用船問屋二人、砂官棟梁一人、酒屋三軒、糀屋、呉服屋一軒、質屋、寺高徳等、山伏東琳坊」とある。元文年中(一七三六−四一)の酒屋定法帳によれば四軒の造り酒屋があった。幕末頃は横浜屋一軒になったが、当時の横浜屋は中町の地所の三分の一を占めていた。また水野氏時代御用八百屋を勤めた八百吉が記録されているように、生鮮食品の店が並び賑っていた。幕末には魚屋町が沖漁の魚類の専売権をもっていたのに対し、徒(かち)による魚商完は中町の横町筋で行われ、現在に引き継がれている。中町が祀る「粟島さま」は現在唐津神社境内に移置されているが、この町にあった東琳坊が祀っていたものである。
 明治になると、最初の大区扱所が置かれ、大石町へ移転後は唐津四小区の区務所が置かれた。そののち唐津町戸長役場となり、明治二〇年(一八八七)の移転まで唐津町の行政の中心であった。旧柳堀が埋め立てられたのは明治三一年で、中町筋から城内に入る新道が開かれたのは同三五年である。





高徳寺 現:唐津市中町

 中町の中央にある。真宗大谷派。本尊は木彫りの阿弥陀如来で春日作と伝える。開基とする奥村掃部介浄信は織田家の家臣で、本願寺教如の弟子となり、孫の小源太浄俊が天正二年(一五八三)松浦の地に一宇を建てた。浄俊は朝鮮に渡り布教に努めたのち帰国、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際朝鮮へ渡って戦死者の菩提を弔い、帰国にあたり秀吉から「釜山海」の山号と五味の茶釜などを拝領した。慶長六年(一六〇一)現在地に開山した。
 幕末の頃一二代住職了寛は勤皇派として活躍し、境内の木蓮館は志士の集会所になった。愛国婦人会創立や各種の開発事業にも尽力した奥村五百子は了寛の長女で、五百子の墓碑が境内にある。





呉服町 現:唐津市呉服町
 唐津城大手門と相対し、唐津城築城時の町割でできた。呉服屋が軒を連ねるようにと名付けたという。城下町にとって最も重要な位置を占め、藩政期中頃からの筆頭大町年寄の石崎氏も呉服町に居住していた。
 文化年中記録に「一、古来本軒三十四軒、南北一丁二十五間、当時家数人数百五十八人、引合五人組五十三人、内町年寄苗字帯刀御免一人、組頭二人、御肴屋一人、御用船問屋、酒屋四軒、糀屋一軒、薬屋一軒、質屋、寺安楽寺」とある。





安楽寺 現:唐津市呉服町

 呉服町の北端、町並の東側にある。護念山と号し真宗大谷派。「松浦記集成」に「京都本願寺譜代端坊者、大閤秀吉御定の名古屋六坊の中の瑞一也。文禄元年秀吉朝鮮征伐の時、毛利駿河守元春三男端坊順了と号す。名護屋御陣に於て格別御懇意也。折々御伽に召されたり。其の連中に端坊・竜源寺・竜泉寺・浄泰寺也。名古屋瑞坊境内に六坊在、善海坊本勝寺、順海坊安浄寺、竜泉坊正円寺、了善坊行因寺、了休坊伝明寺、永元坊は還俗して今其末新町に在り」とある。のち端坊(はしぼう)は安楽寺と称する。
 安楽寺と六坊は唐津城築城の際移され、寺は名護屋城の建物を移築した。庭は曾呂利新左衛門作と伝えるが、現在はない。安楽寺は藩政期に町年寄の会所として使われた。なお本尊阿弥陀如来は行基作といわれ、天川村(現東松浦郡厳木町)西念寺にあったのを示現により移したと伝える。




京町  現:唐津市京町

 内町の東南地を東西に延びる町筋で、唐津城築城時の町割でできた。
 天保(一八三〇〜四四)の頃、唐津藩の大坂御蔵元であった大根屋、長崎屋の出張所があった。天明元年(一七八一)太宰府天満宮に赤銅の鳥居を寄進した日野屋常安九右衛門が町内地所の大半を占めていた。九右衛門は呼子(現東松浦郡呼子町)の中尾甚六と並んで捕鯨で産をなし、文化九年(一八一二)八月、伊能忠敬は測量日記に「右ニ用達町人家号日野屋常安九右衛門と云ふ大家あり」と記している。幕末の商家では、大町年寄の糸屋草場家・平田屋草場家・平野屋薬屋舟越家・於釜屋岩下家などがあった。

 札の辻橋付近は藩の御用地で、札の辻惣門とよばれる門構があり、枡形になっていて、町奉行所もここに置かれた。幕末、藩医保利文亮は奉行所地内に藩の医学館橘葉館を設けた。橘葉館は廃藩後学塾の余課序、その後は志道小学校分校として使われ、明治九年(一八七六)には公立唐津病院になった。札の辻橋は明治三三年材木町筋に架橋されるまで、築城以来内町と外町を結ぶ唯一の橋であった。
 文化年中記録に「一、古来本軒五十軒、東西二丁、当時家数人数百十四人、引合五人組三十人、内町年寄二人、組頭二人、御糀屋一人、御用船問屋二軒、酒屋二軒、呉服屋一軒、石船一艘、薬屋一軒、質屋」とある。





新町 現:唐津市新町

 内町の西端に位置する。旧城下町内にあるが唐津城築城以後にできたので、藩政期は総町(内町・外町)の惣行事・惣町事務を処理する月番を受け持たぬ町として取り扱われた。初めは弓町・鷹匠町・平野町とともに下級武士の町であったが、職人の住着きが多くなり、町人町になったもので、宝暦年中(一七五一−六四)の唐津城絵図に町名が出ている。
 新町南端の稲荷社は、もとは英彦山山伏の庄崎山観竜院で、庄崎(しょうのさき)は現在の町田の汐先(しおのさき)に比定され、中世の庄崎庄にゆかりがあると思われる。町内に浄土真宗本願寺派の正円寺・真宗大谷派安浄寺がある。






浄泰寺 現:唐津市弓鷹町

 新町の北端に隣接し、清涼山と号す。浄土宗知恩院派。
「松浦記集成」に「御朱印地枝去木村に有り、大猷院様より慶長九甲辰年七月開祖真挙空阿上人、天正十五丁亥年開基、建立施主寺沢志摩守広高公、為御父越中守殿菩提也。一に勝巌院浄泰寺とあり」と記す。
 寺伝によれば、上松浦の首領波多氏が神田村山ロに清涼坊を建立し、恵心僧都作の木彫りの本尊阿弥陀如来を祀ったのが始まりで、如来像は「矢負い如来」と称し、数々の奇跡を現した。文禄年中(一五九二−九六)豊臣秀吉が名護屋城在陣の時、寺沢志摩守の父広正が帰依して堂を名護屋(現東松浦郡鎮西町)に建て移し、専称寺がその跡という。志摩守は父の菩提のため、堂を現在地に移築した。
境内に広正の墓碑と本能寺(現京都市)で織田信長に槍をつけた安田作兵衛のものと伝える墓がある。
 盆と正月一六日には閻魔像と地獄絵図が開帳され、浄泰寺の閻魔祭として知られている。






大石町 現:唐津市大石町
 郷方の大石村の地先にできた町。城下より東の郷方への出入口にあたり、境に恵比須石像が祀られていて、恵比須角とよばれている。
 天正一九年(一五九一)山内利右衛門が堺(現大阪府)から移住してきたといわれ、唐津では最も古い町の一つで、大町年寄を勤めた兵庫屋小牧家・綿屋小島家・細物屋江川家、大町年寄格の糀屋市山家、年寄の門屋小宮家や、熊野原神社・大石天満宮に鳥居を献納した富商中道屋築山家があった。
 大石町の南の東裏町(現在は大石町)には民話「裏町かんね話」の主人公勘右衛門が住んでいたとされ、その住居は宝暦一三年(一七六三)の御城下総町絵図にある蝋燭屋小出家の隠居所であろうといわれている。裏町の四辻は恵比須小路とよばれ、藩政中期は賑やかな町の一つであった。また裏町には伊勢講社の御師・近江の多賀神社の神人がいた。
 文化年中記録に「一、古来本軒百十軒、東西二丁三十六間、当時家数人数三百七十七人、引合五人組二十三人、内大町年寄一人、御勝手御用達一人ハ大町年寄兼持二人、呉服屋御用達兼持一人、町年寄二人、質屋三軒、石船一艘、組頭二人、酒屋四軒、糀屋馬札古来三人、当時二人、山伏聴徳院、御用船問屋」とある。





材木町 現:唐津市材木町
 現市街地の東部、松浦川の左岸沿いにある。唐津城築城時の町割による一町。「松浦要略記」は「材木町は惣町御取立の時、捨浜にて候ところ、志摩守様天守台より御遊覧被成候折城下に船着きの所これなく候間、水堀ほらせる様被仰付、町奉行役人入江吉兵衛殿御吟味なされ候処、播磨国太之木重左衛門と申す者商に参り居る者取立申候て諸役免許等の次第、材木町古来書に出る」とある。唐津城下の一二力町中、町古来書があるのは、この町だけである。材木町の手を経ないでは取引は許されないという材木薪炭販売の特権をもっていた。材木問屋の材木屋宮崎家、町年寄を勤めた炭屋平松家、町年寄加役を勤めた松屋木山家がある。船大工も住み、棟梁の落合・佐々木両家は町組頭であった。
 町にあった土井氏時代のお茶屋は安政年中(一八五四−六〇)仕法方役所になり、のち新成方とよばれた。この役所の西隣には築城時満島山にあった満島山稲荷社が移されていた。
 文化年中記録に「一、古来本軒八十四軒、東西三丁二十五間、外指丁南北五十間程、当時家数人数三百七十五人、引合五人組百十八人、内町年寄二人、組頭二人、御勝手御用達一人、木挽棟梁一人、酒屋二軒、当時馬持一人、川舟百五十艘、山伏千手院」とある。
 明治に入って材木町に合併した塩屋町は魚屋町と材木町の間にあり、町年寄は材木町が兼ねていた。田口姓・川崎姓の回船問屋もあった。現在西唐津にある真宗大谷派の福成(ふくじょう)寺は塩屋町にあったが、大正六年(一九一七)に移転した。





水主町 現:唐津市水主町
 市街地の東部、松浦川沿いにあり、藩政期は郷方に属した。寺沢氏時代は船奉行支配の常備的な御水主(おんかこ)の集落で、唐津藩水軍の根拠地御船宮(おふなみや)の周辺に設けられ、正保唐津城絵図に「加古町」とある。寺沢氏の改易で日雇的な日高(ひだか)水主役となり、郷方に属するようになった。土井氏時代唐津村の枝村として独立し、庄屋が任命されている。
 水主町隣接の新堀は藩政期の満島への渡舟場でもあるが、松浦川を上下する上荷船の船頭が多く住み、頭取は神田家であった。旧家に横浜屋田中家、仕法方役所の回船を引き受けた冨田(とんだ)屋宮島家がある。新堀地先、松浦川の川中に築島がありイゲ様という祠が祀られていたが、現在は埋め立てられ、新堀稲荷社境内に移置されている。
 文化年中記録に「家数七十一、一軒四人余、人数二百九十三人、穀船五艘、川船七艘、市中続き商人許也」とある。






魚屋町(うおんまち) 現:唐津市魚屋町
 現在は「うおやまち」という。唐津城築城時の町割ででき、外町に属した。町田川右岸に接し、札の辻橋で京町に通じる。
 魚屋が多く、藩の保護を受け、幕末頃には他町内の魚屋は毎年銀二匁を上納したが、魚屋町の魚屋は無税であった(満島庄屋史料)。京町から移り住んだ薬種問屋草場家が大町年寄を勤めている。
 最も古い家は木屋山内家で、分家も藩政期を通して繁栄した。山内家は豊臣秀吉の名護屋城築城の際材木運搬船頭として堺(現大阪府)から移住し、毛利家文書に「名古屋船奉行、石田三成、大谷吉継外二名、船頭木屋山内利右衛門」とある。利右衛門は大石町に住み、回船業兼材木商を営むため店舗を魚屋町に設けたが、これが「西の木屋」とよばれ、本家である。慶長元年(二五九六)京都で捕らえられ、長崎西坂で磔刑された切支丹二十六聖人は唐津に護送された際西の木屋に泊まったと伝えられる。利右衛門は元和三年(一六一七)朝鮮出兵の際の捕虜を送還し、朝鮮国王から礼状をもらっている。
 藩政期のおもな商家は肴屋佐々木家・魚吉筒井家・米正吉田家であった。明治三〇年代には唐津の長者番付の大半を魚屋町で占め、町税の三分の一は、この町で負担していた。
 文化年中記録に「一、古来本軒五十八軒、東西二十八間、当時家数人数二百四十人、引合五人組六十九人、内大町年寄一人、町年寄二人、組頭二人、酒屋二軒、同軒御酒屋一軒、御肴屋二人、御献上物掛り一人、糀屋二人、呉服屋一軒」とある。






東寺町 現:唐津市十人町
 唐津城下建設に際し、総町(内町・外町)の外郭に陣屋式御堂をもつ寺院を防御目的のため集中したが、総町の東南の寺院町が東寺町である。法蓮寺(日蓮宗、境内に水野家重臣の墓がある)・少林寺(臨済宗南禅寺派、境内に土井家董臣の墓がある∵来迎寺(浄土宗)・養福寺(浄土宗、宝暦年間の大関領巾振山の墓がある)・東雲寺(曹洞宗)・太洋寺(曹洞宗、市文化財の天正年銘入六地蔵塔がある)・教安寺(浄土宗)・竜源寺(曹洞宗)・栽松寺(曹洞宗、現在廃寺)が建てられた。
 藩政期は寺社奉行支配であったが、明治四年(一八七一)唐津城下大石町の属する第四区に含まれ、明治二年大石村に編入され、同ー六年分村して東村、同二二年唐津町に合併。一般には東寺町とよばれるが、現在の公称は十人町である(→大石村)。






竜源寺 現:唐津市十人町
 十人町の南東部にある。曹洞宗、法雲山と号す。「松浦記集成」には応永三〇年(一四二三)開祖融能と記す。本尊釈迦如来。
 もとは現東松浦郡鎮西町大字名護屋の竹の丸にあったが、唐津城築城に際しこの地に移る。寺沢氏から神田村内で二〇石、波多江村(現福岡県糸島郡)内で二二石の寄進を受け、以来歴代藩主の崇敬を受け、合力米三〇俵が宛行われた。旧藩士の墓碑が多い。「竜源寺の晩鐘」は松浦八景の一つとされる。






法蓮寺 現:唐津市十人町
 十人町の西部にある。日蓮宗、高城山と号す。日親の弟子八幡坊日解が正長元年(一四二八)石志村に寺院を開き、日親を開山とした。藩主が大久保加賀守の頃現在地に移った。波多氏ゆかりの寺で、大久保家菩提寺の一つである。
 本尊の観世音には、盗人が尊像を盗もうとしたが眠くなって盗み出せず、本尊はもとの仏壇に自ら戻ったという伝えがある。日親尊像(法弟日儀作銘入り)を寺宝として安置する。





十人町 現:唐津市十人町
 唐津城築城時に城下町の周辺に下級武士を居住させた。十人町はその一つで、大石町の南側周辺、東寺町の北側にあり、藩政期は直轄地であった。明治二年(一八七八)大石村に編入され、同一六年分村して東村となり、同二二年唐津町に合併。現在の十人町は藩政期の東寺町・同心町・柳町・十人町を含む(→大石村)。





大石天満宮 現:唐津市十人町
 唐津市街地の南はずれ、十人町西部の丘陵地にある。
唐津城築城に際し、本丸となった満島山から当時大石丸隈とよばれた現在地に移された。元和元年(一六一五)社殿が完成し、藩主寺沢志摩守が自ら祭礼をつかさどった。
以来年祭には藩主から米七石が献納されている。歴代藩主も唐津神社・鏡神社・佐志八幡社およびこの宮を祈願所と定め崇敬が厚かった。旧村社。
 一月七日には境内で鬼火たき(ホンゲンギョウ)があり、大松明を使い「オンジャ、オンジャ」とよばれる。境内には元禄年間(一六八八−一七〇四)の刀匠松葉本行(初名友行)の鍛冶場跡があり記念碑が立てられている。
 隣接の聖持院は天満宮社僧の寺で、寺伝によれば、本堂は名護屋城の資材を使った。境内の地蔵菩薩石仏は日限りの地蔵とよばれる。






大石神社 現:唐津市十人町
 十人町東部の丘陵にあり、大石権現ともいう。唐津城築城のとき、本丸となった満島山から現在地に移った。伊弉諾尊・伊弉冉尊・天忍穂尊を祀る。旧村社。 藩政期は、「唐津拾風土記」に御目見山伏彦山派として「大石山大権現法頭大石山一条坊」と記す。歴代藩主より大祭時は祭米一石を寄進されている。
 明治中期から唐津神社の神事にこの社の神輿も参加している。






西寺町 現:唐津市西寺町
 唐津城下総町(内町・外町)の西側石垣の外堀に沿う。東寺町と同様、築城時に陣屋式御堂をもつ寺院を集めて作られた。歴代藩主菩提寺の近松寺をはじめ、松原寺(廃寺)・大乗寺・大聖院・長得寺・浄土寺が軒を並べ、松原寺のあとは自南寺となっている。
 薫風山自南寺は慶長八年(一六〇三)天沢の開山で臨済宗南禅寺派。明和八年(一七七一)虹の松原一揆の首謀者として処刑された冨田才治が妻子と最後の別れをした場所で、境内の才冶地蔵は才治の首を埋めた所と伝える。また御茶碗窯の陶工で俳人の中里日羅坊の墓がある。
 名古屋山大乗寺は日蓮宗で、本尊は十界大曼荼羅。文禄元年(一五九二)加藤清正が京都本国寺僧日儀に名護屋(現東松浦郡鎮西町)陣中に創立させ、寛永一五年(一六三八)現在地に移築した。寺門(市文化財)は小笠原氏時代の藩校志道館の門を移したものである。
 中台山大聖院は高野山真言宗で、本尊は弘法大師。中興の祖は興玄。もと田中村(現東松浦郡北波多村)にあり、波多氏没落後慶安元年(一六四八)現在地に移る。寺仏の木彫十一面観音像は建徳二年(一三七一〉造で、唐津神社本地堂本尊であった。
 双嶽山長得寺は曹洞宗で本尊は釈迦如来。慶安二年峰林探牛の開山。
 湛然山泥*(サンズイニ亘)院浄土寺は浄土宗知恩院派。永禄一一年(一五六八)西誉の開山。



近松寺 現:唐津市西寺町
 唐津市街地の北西、旧名護屋道・長崎道の分岐点に位置する。瑞鳳山と号し、本尊は釈迦如来。「松浦記集成」に「臨済宗、南禅寺派、御朱印高百石、御朱印地伊岐佐村に有り、大閤秀吉公より賜。慶長四己亥年九月十六日開祖耳峯大和尚、大旦那寺沢志摩守広高公、公之遺物、一夜念仏丸の長刀、一上帯、一冠俗に云ふヲサ冠、一簑、一烏帽子、一草履、一足袋」と記す。
 近松寺記によれば、天文一〇年(一五四一)*(臣頁)賢碩鼎が明国より帰って聖福寺(現福岡市)にいたとき、松浦岸岳城主波多三河守が満島山の西南地に近松・少林の二寺を建て、*(臣頁)賢を開山とし山林を寄進した。天正二年(一五七四)兵火により炎上、そののち寺沢志摩守が*(臣頁)賢の弟子耳峯に通辞を依頼する条件として両寺の再建を約し、文禄三年(一五九四)耳峯が唐津に移り両寺を再建、慶長七年(一六〇二)唐津城築城のとき現在地に移った。寺沢氏の改易により寺の衰微を嘆いた五世遠室は幕府に上訴し、寺禄の朱印を賜り、以来藩主の崇敬を受けた。
 裏庭の舞鶴園は、曾呂利新左衛門の作と伝え、唐津の海岸をうつしたという。庭中に隠れ切支丹の織部灯籠三基と茶室拈華庵がある。寺沢堅高の墓や小笠原藩主など歴代藩主の墓地があり、小笠原記念館に小笠原家の遺品を展示している。また、境内には、近松門左衛門の遺髪塚がある。





熊野原神社 現:唐津市西寺町
 西寺町の南端、旧塚崎往還(現県道朝日町−千々賀線)に沿い、熊原町境にある。祭神は速玉男命・家津御子大神・夫須美大神で、明治に入り大山砥命・応神天皇・菅原道真・神田五郎・猿田彦命を合祀。旧村社。
 熊野原神社縁起の記す伝承によれば、神功皇后新羅出兵のとき霧が深く、神に祈念すると一二条の神火がこの地の松原上空に懸って霧ははれ、舟は無事神集島に安着した。よってこの地に祠を建て不知火神社と称した。天武天皇代に悪疫が流行したが、人々が祈願すると白鳥一二羽が社頭に翼を休め、日暮れとともに光と化して四方を照らし、疫病はやんだ。人々は白鳥を熊野大神の化身として、以後熊野原神社と称したという。祭日は六月一五日。社司久田宗通は松浦党の一人で、霊夢を得て姓を神田と改め、以来社司を世襲するという。




江川町 現:唐津市江川町
 組屋敷の町といい、唐津城下総町(円町・外町)のうち江川町だけが城下西方に孤立して作られ、当初は下級武士の居住地であった。慶長絵図に町名は記されず、大久保氏時代以後できた町と思われる。幕末頃の商家に酒井屋藤生家・米屋山岡家があり、唐津神祭絵図(市指定文化財)を描いた長谷川雪塘も晩年住んだ。廃絶した英彦山山伏の寺(浜田院)が現在の稲荷社の裏辺りにあった。
 文化年中記録に「一、古来本軒六十八軒、東西三丁三十五間、当時家数人数二百六十三人、内町年寄二人、組頭二人、酒屋一軒、紺屋一軒、質屋一軒、山伏浜田院、山伏明善院」とある。
 唐津神社神幸の曳山のうち江川町の「七宝丸」は最も新しく、明治九年(ー八七六)製作とされ、同年製作された水主町の「鯱」と、奉納のあとさきについて紛争が起きた。江川町が明治八年佐賀県令に出した文書(佐賀県庁資料)に「曳山の義に付き願。在来の曳山四ツ車台張子鳥居に御座候。江川町是まで町内在来の引山大破に付一同協議を遂げ、別紙図面の通り造り換へ、天長節を始め唐津郷社神祭等に献供仕し度、此段願ひ奉侯以上」とあり、従来のものを作り替えたことがわかる。一方、水主町の「鯱」は新調であった(同資料)。現在の神幸の曳山の順序は、この二町に限り、あとさきが交代になっている。






桜馬場 現:唐津市桜馬場
 総町(内町・外町)の西方、市街地の南西に位置し、西寺町・山下町に隣接する町。藩政初期には馬場があり、宝暦年間(一七五一−六四)の唐津城絵図には矢場と下級武士の屋敷・武家下屋敷が記される。以後、隣接の山下町・坊主町とともに下級武士の屋敷町となった。
 町の南側の道は幕府巡見使が通る道筋とされ、巡見道とよばれる。町並は現在も屋敷ごとに竹垣で囲まれ、藩政時代のなごりをとどめる。
 古代は松浦潟の砂丘で、弥生期の甕棺が各所から出土する。





桜馬場遺跡 現:唐津市桜馬場四丁目
 唐津湾の西の浜海岸の南に展開する低平な砂丘の南西端、標高六メートル余りの所に位置する。弥生時代の中期から後期にかけての甕棺群遺跡である。
 昭和一九年(一九四四)地下一メートル余りの所から、副葬品が豊富に納入された甕棺が出土。昭和三〇年発掘調査を実施(「佐賀県桜馬場遺跡」日本農耕文化の生成・昭和三六年)。昭和一九年の出土遺物は国指定の重要文化財。
 一般にみられる弥生時代の甕棺群遺跡と異なり、甕棺の群集密度がきわめて希薄で、後期のものが主流をなしている。重要文化財指定の遣物は、方格四神鏡一、方格渦文鏡一、有鉤釧形銅製品二六、巴形銅器三、ガラス小玉一、鉄刀残片一だが、ほかに広形銅鉾片一、銅鏡一、ガラス管玉一などが出土している。






唐津村 元:唐津市町田・菜畑・二タ子・西唐津・妙見町・藤崎通・海岸通・中瀬通・熊原町・新興町・朝日町・富士見町・西浜町・旭が丘(一部)
 唐津城下総町(内町・外町)の南外堀から西の総町外の町並を取り囲み、現在の西唐津地区に及ぶ東西に細長い村。
 藩政期、町田地区(東分)と菜畑・二夕子(西分)の二地区に分れて村政が行われていた。菜畑・二夕子には庄屋が置かれていたともいうが定かでない。全村は町田の唐津村大庄屋が支配し、最後の大庄屋は領内触元庄屋であった。
 文化年中記録に畝数一一四町二段五畝一二歩半、家数一〇九軒、人数四二人とあり、「唐人町分」として家数一七軒、人数六七人と記す。
 かつては町田川の流れ込む松浦潟の一部で、中世頃まで海岸線がこの村に達していた。南の神田村に松浦党の神田氏が居館した当時は、唐津村の大半は湿地帯であったようで、藩政期に入ってからも町田一帯は湿田地で「もぐって城の下に出られる」といわれた。村内の汐の先は、もと海岸線であったことを示す地名と説明されるが、唐津神社古文書には「庄の先」または「庄崎庄」の存在を記している。
 地名は、正平二三年(一三六八)四月一三日の斑島広押書状(有浦家文書)に唐津の名がみえ、神谷宗湛の日記には天正一四年(一五八六〉「唐津村」と記される(→唐津市)が、この唐津村が藩政期の唐津村をさすかどうかは、定説はない。
 町田の呼称は、慶長七年(一六〇二)から同一三年にかけて寺沢志摩守が唐津城築城のとき、城下総町割地区に住んでいた百姓をここに移住させ、その人々が町田と称したと伝えている。町田は城下総町から南の郷方への唯一の出入ロで、総町との間の外堀に町田口橋が架かっていた。
 町田の東部を唐人町(現町田五丁目)と俗称するのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき連れ帰った唐人を住まわせ、村中の町田川で晒布をさせたことによる。この晒布は藩政期にも続けられ、江戸苧・唐津紫麻とよばれて珍重された。「唐津村史」は「同所居住の滝下姓は、その子孫である」と記す。また土井氏時代、坊主町にあった藩の御用窯が唐人町に移され、大陸からの渡来者の子孫である中里氏らの御用焼物師も移住して、唐人町の名をたかめている。なお晒布と焼物は肥前国産物図考に記されている。
 汐の先の千手観音堂の祭は男人禁制である。また町田の「おじょうさん」と称する地蔵堂は安永九年(一七八〇)五月の建立で、子守地蔵として信仰されている。
 西分の菜畑は、城下町の山下町・江川町・桜馬場を取り囲む形をなし、塚崎往還で東分と分けられ、北は郭外の西の浜に及んでいる。現朝日町は藩政期は郷方の菜畑地区で、湿田地で蓮根田として知られていた。菜畑地区の城下町境に沿う道を巡見道と称し、幕府の巡見使が通る道であった。
 西の浜一帯の松原は奥の松原(オニの松原)とよばれ、藩の刑場があり、享保二年(一七一七)と明和五年(一七六八)建立の刑死者供養塔がある。ここでは明和九年虹の松原一揆の首謀者の冨田才治らが処刑された。 二夕子は現在の西唐津一帯で、西は中山峠で佐志村と境し、妙見浦を含み、大島と対する。衣干山は松浦佐用姫(→鏡山)が松浦川を渡るとき濡れた衣を干した場所と伝えている。また村内の各所には岸岳末孫の墓と伝える中世の墓があり、崇りがあると恐れられている。菜畑の村山家は、波多氏滅亡の時村山右京が逃げおくれ、五月節句の日に職に兜の紐を引っかけて捕らえられ、殺された故事にちなみ、職を立てぬ習いを今も守っている。なお二夕子の地名は川添監物の妻がこの地で双子を生み、一人がこの地に住みついたことによると伝える。
 村内の字熊原に旧村社の熊原神社、字権現谷に藤崎神社、字観音山に天満神社、字牛ケ谷に若宮神社、字岳高山に嶽高神社、字山陰に天満神社、字谷町に八幡神社がある。






御用窯跡 現:唐津市町田五丁目
 町田五丁目のほぼ中央の丘の西斜面にある。陶器「からつ」は文禄・慶長両役以前に岸岳城周辺で焼成されていた。それ以後については、享保一一年(一七二六)の「喜平次旧記」によれば、慶長元年(一五九六)頃中里又七・福本弥作・大島彦右衛門らが大川野組田代村(現伊万里市)に開窯し、慶長七年川原(かわばる)村(現伊万里市)に移り、元和元年(一六一五)府招村の椎峰(現伊万里市)に窯を移して御用窯を勤めた。以来椎峰は陶器焼きの窯場として賑った。だが元禄一三年(一七〇〇)多くの陶工が追放された「椎峰崩れ」の事件があり、宝永四年(一七〇七)に御用窯は坊主町に移って御茶わん窯と称した。この時代の焼物を土井唐津という。
 しかし坊主町は窯場として不適地であったので、享保一九年窯は唐人町の現在地に移った。ここでは中里・福本・大島の三家が御用焼物師として用を勤め、明治四年(一八七一)廃藩により藩窯は廃止され、焼物師に払い下げられた。唐人町時代の焼物は献上物と称せられ、名陶工として、四代中里太郎右衛門・五代中里喜平次・中里日羅坊・一〇代一陶が知られている。
 享保末築窯きれた割竹式登窯は今も原形をとどめ保存されている。なお現在の唐津焼は、一二代中里太郎右衛門が文禄・慶長頃の朝鮮北部の工法の流れをもつ「古からつ」の技法を再生したものが主体となっている。






妙見浦  現:唐津市妙見町・海岸通
 唐津村に属し、大島と向い合せの浜浦。
 口伝によれば、文禄年中(一五九二−九六)藩主寺沢志摩守が下関伊崎(現山口県)より伴ってきた漁師を、当時藤の浦と称していたこの浜に住まわせ、漁に従事させた。漁師は志摩守の許しを得て、満鳥山にあった妙見大明神をここに移し祀った。これが現在の妙見神社(旧村社)で祭神は天御中主命である。
 漁師の子孫は増本と称するが、明和絵図に「妙見浦」とみえ、文化年中記録に穀船三艘、漁船四六艘、諸網二一帖とある。





大島村 現:唐津市東大島町・西大島町
 もとは海岸から六〇〇メートル離れた唐津湾上の島で、砂土の堆積により干潮時は渡渉できた。明治三二年(一八九九)架橋により唐津鉄道が大島に延長され貯炭場が設けられるとともに人道橋もでき、昭和初期には埋立てが行われて陸繋島となった。周囲約四・三キロ、標高一七五・九メートル。頂上は平坦で、南側に段々畑があり、村落も南側の海岸に集中している。
 慶長絵図に「相嶋」、正保絵図に「大島」、天保郷帳に「大島村」とみえ、文化年中記録に畝数六町六段六畝二七歩半とある。
 慶長七−一三年(一六〇二−〇八)唐津城築城時、城内になる地切(ちぎれ)に住んでいた人々がこの島に移され、その多くは辻姓を名乗っている(松浦拾風土記)。また小野尾・土橋を姓とする人々は岸岳城の落人と伝えている。島では漁業も行われ、寛政五年(一七九三)の浦の書出書に「大嶋、船数三十五、円天当八、網船一、天満三、穀船二、漁船十一」とある。藩政期、島は藩の狩場とされ、延宝五年(一六七七)藩主大久保忠朝は追烏狩を行っている(松浦拾風土記)。村内には彦山神社・八坂神社がある。
 南海岸の西唐津港海底には縄文期の西唐津築港海底遺跡があり、山頂には先土器時代の石鏃が散布している。
 昭和一〇年(一九三五)には観音谷の古墳から金環・石斧・石器が出土したという。本島の東方約一千メートルの唐津湾上にある烏島は無人島で、全島花崗岩よりなる。唐津城築城のとき、城の石垣石が切り出されたと伝えられる。





西唐津築港海底遺跡
 現:唐津市西唐津字海岸
 昭和二五年(一九五〇)、大島南岸から約二〇〇メートル西唐津寄りの築港奥部の一帯で浚渫作業が行われることになり、サンドポンプから土砂が埋立地に吐き出される段階で、海底の砂層中に包含されていた縄文時代の遣物や食糧残滓が発見された。遺物出土地の通称をもって遺跡名とし、縄文早期から中期に位置づけられる。当時西唐津と大島間には低平な砂丘が形成され、その砂丘上に営まれた住居と貝塚を中心とした遺跡であり、海底遺跡となった成因については地盤沈降と波浪浸食が考えられる。
 遺物として、土器は爪形文土器・貼付文系土器・曾畑式土器・轟式土器・阿高式土器などがあり、そのほか土錘などもある。石器は磨製石斧・局部磨製石斧・石錘・打製石鏃・石匙・掻器・石鋸・石槍などがある。骨角器としては有孔骨製品・牙製垂飾・骨針などがある。そのほか人骨の一部、鹿・猪・猿・犬・鯨などの獣骨および種々の鳥骨があり、魚骨としては鯛・鱸・鱶・鮪などが確認されており、なお魚種不明の小型魚骨が大量に出土している。また木の実としては胡桃・椎などがあげられる。なお貝殻は四〇種を超える。






見借村 現:唐津市見借
 佐志川上流の村落で、古代の賀周(かす)里(肥前風土記)、賀周駅(延書式)の置かれた地に比定されている。いつ頃から「みるかし」とよばれるようになったかは定かでないが、「肥前風土記」の海松橿(みるかし)媛の故事により名付けられたと伝えられる。
 松浦廟宮先祖次第並本縁起には「見留加志之庄」の名がみえる。見留加志の名は佐志家文書にもみえ、また南北朝期の康永元年(一三四二)一一月七日の源(佐志)勤から嫡子源次郎への譲状には「三留賀志百姓次郎九作地壱町二段同屋敷并紀平三作三反」とある(有浦家文書)。慶長絵図には「見借」と記される。藩政期は佐志組大庄屋の支配に属し、文化年中記録に畝数二六町四段九畝一二歩半とある。
 幕末期の庄屋宗田運平は儒学・弓術・暦法・天文・和算にすぐれ、村内に愛日亭を開き子弟の教導にあたった。運平翁稗がある。
 猿田彦神社は江戸中期の創建で、川俊えの際現れた御神体を祀り、琵琶法師興山がこの社に仕え、社掌宮崎氏はその末裔とされる。初庚申の日は近郷からの参詣者で賑う。このほか鎮守神社・八天神社がある。






賀周里(かすのり)
 「肥前風土記」に「賀周里 在郡西北 昔者 此里有土蜘蛛、名曰海松橿媛。纏向日代官御字天皇 巡国之時、道陪従大屋田子、 日下部君等祖也 誅滅。時霞四含、不見物色。因曰霞里。今謂賀周里訛之也」とみえる。「延喜式」によれば古代の松浦郡衙から登望(とも)駅への官道にあたっていて、賀周駅が置かれていることが記される。
 中世の見留加志の地名は風土記にいう「みるかし媛」に基づくものであり、賀周里との結びつきが肯定できる。見留加志の名は佐志家文書にも記され、有浦家文書に「三留賀志」とあり、現唐津市見借に比定されており、賀周里も同地に比定される。





見留加志庄
 松浦廟宮先祖次第並本縁起に
  真吉備朝臣内心祈念云、剋念若相叶、先可奉事松浦藤廟所、念已成就以天平勝宝六年拝任太宰都督、即経奏聞、定行廟宮春秋二季千巻金剛般若読経、並最勝会、弥勒会等、其料置取大領田捨五町施入、 在当郡見留加志之庄是也
 と記す。天平勝宝六年(七五四)大宰大弐となった吉備真備が勅命で藤原広嗣の霊廟を鏡神社の二の宮として創設し、見留加志庄を寄進したという。見留加志庄は「肥前風土記」に記す賀周里、「延喜式」に記す賀周駅の地に比定され、のち佐志家文書にもその名がみえ、有浦家文書に記す「三留賀志」の地のこととされる。現在の見借に比定される。





佐志村 現:唐津市八幡町・桜町・佐志中通・佐志中里・佐志浜町・佐志南・橋本町
 北は唐津湾の一部唐房湾に面し、村落の中央に佐志川が流れ、丘陵地で東西は低い。「松浦古事記」は、神功皇后が朝鮮出兵の際、この地で敵地はいかなる方向かと指さしたと伝承を記す。
 周辺の山麓に縄文期の吉田遺跡・笹の尾遺跡があり、折口田・笹の尾・経塚山などから弥生期の遺物が出土した。また惣原(そうはら)・経塚山では古墳が発見され、遺物出土の記録がある。
 中世、この地で松浦党の佐志氏が浜田城に拠っていたが、松浦党の始祖松浦久の六男調がこの地を所領し、佐志氏の祖となったという(松浦家世伝)。また「吾妻鏡」建長二年(一二五〇)の三月一日条に載せる閑院造営雑掌目録に「佐志源次」の名がある。朝鮮の成宗二年(一四七一)に成った「海東諸国紀」は「源次郎己丑年、遣使来朝、称書肥前国上松浦佐志源次郎」受図書約歳船一船、管下小二殿而能武才、麾下有兵、称佐志殿」と記す。有浦家文書・斑島文書や「歴代鎮西要略」などにも、鎌倉時代から戦国期にかけて佐志を名乗る武士が記されている。佐志氏が上松浦の松浦党首領として活躍するのは南北朝期で、室町末期になると波多氏が佐志氏と代わっている。「松浦古事記」には佐志将監代々法名として一五名を記すが、正確とはいいがたい。康永元年(一三四二)の源(佐志)勤譲状(有浦家文書)には「肥前国松浦西郷佐志村内大浦・中浦」とあり、当時の佐志村は、東松浦半島を含む広大な地域を占めていたと思われる。
 村の西の端中山峠から橋本を通り佐志坂への道は、豊臣秀吉も通った名護屋(現東松浦郡鎮西町)への太閤道と称せられる往還で、いまも所々に旧道を残し、枝去木村との境に一の木戸跡の一里塚がある。
 藩政期は佐志組大庄屋の所在地で、幕末の大庄屋岸田氏は藩政後期の庄屋記録岸田文書を残している。文化年中記録には村の畝数八一町四段二畝二八歩とある。
 村内に浜田城主佐志将藍の塚があり、また佐志八幡神社・天満神社・天神社・竜体神社・浜田神社がある。竜体神社は、正保元年(一六四四)唐津沖に黒船が漂着したのを焼討ちしたが、その大砲を海中より引き揚げようとした時、竜神の告げにより中止し、その際佐志浜沖の岩礁に姿を現した竜神を佐志八幡社宮司宮崎丹後が藩主の許しを得て祀ったという伝承がある(松浦古事記)。
 臨済宗南禅寺派の竜驤山光孝寺は佐志南にあり、貞和元年(一三四五)の開山で、本尊は釈迦如来、もと佐志八幡神社の社僧住所である。同じく南禅寺派の金剛山徳昌寺は佐志中通にある。「松浦拾風土記」によれば名護屋の徳昌寺を移築したもので、本尊は延命地蔵。






佐志八幡神社 現:唐津市佐志中通
 佐志川の左岸、集落の中央にある。主祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。旧郷社。
 縁起によれば、康和三年(一一〇一)鎌倉権五郎景政が九州下向にあたり、京都石清水八幡宮の分霊をここに勧請した。また一説には、神功皇后が朝鮮出兵の時、この地で鉾を納めて天神地祇を祝ったという。のち岸岳城主波多氏の祈願所となり、応安五年(一三七二)渋川頼泰は祈願書を捧げ神田を寄進したという。
 康永元年(一三四二)の源(佐志)勤の嫡子源次郎源茂に対する譲状(有浦家文書)に「次当村鎮守浜田今熊野権現同所八幡彼御神事時者□寄合天任先規可勤仕聊モ不可有無沙汰之儀」とあるように、佐志氏の崇敬する社で、佐志将監は鎌倉氏の分霊も合祀している。豊臣秀吉の名護屋城(現東松浦郡鎮西町)在陣の時神領は没収されたが、寺沢氏が唐津藩主となり、社殿を修理し、以来歴代藩主の祈願所となった。






浜田城跡 現:唐津市八幡町
 佐志村の北東部、佐志川右岸の唐房湾に臨む低い丘陵にある。
 「松浦記集成」は、天暦元年(九四七)に佐志将監(源勤)が築くという、と記すが定かでない。しかし中世の城であることは、わずかに残る塹塁および「松浦古事記」「松浦昔鑑」などの資料により確かめられている。慶長年間(一五九六−一六一五)岸岳城主波多三河守の没落の時、部将であった佐志将監も運命をともにし、浜田城も廃城となった。






唐房村 現:唐津市唐房
 唐津湾の西側に面する浜浦。
 「松浦拾風土記」によれば、成尋法師が入唐の時母よりなごりの文を送られ、後を慕って来た侍女に歌を袈裟のふくさに封じて贈り、この故事によりこの地を「からふさの浦」と名付けたという。
  忍べどもこの別路を思ふにはからくれなゐの涙こそふれ
しかし「千載集」にはこの歌が成尋の母の歌として載る。
 正保絵図に村名がみえ、文化年中記録に畝数三町八段三畝三歩半とあり、また穀船三艘、天当一〇二艘、諸網四六帖、日高夫二千二三二日と記す。
 村内の八郎神社は源為朝を祀る社で鎮西大明神とも称し、この地は為朝の館跡とも伝える。かつて東福寺があり、為朝の墓と伝える古墓がある。そのほか村内に姫神社・秋葉神社がある。
 東海山善興寺は臨済宗南禅寺派で藩政初期の開基であるが、明治末期廃寺となり、昭和二〇年(一九四五)再興。浄証山光珠院(地番は佐志浜町だが唐房に属する寺として扱われる)は浄土宗で元和元年(一六一五)の創建。東福寺の後身とも伝える。境内にある鯨の供養塔は、この浜で捕鯨が行われていた証であろう。
 豊漁を祝う「千越祝い歌」は「ヨイヤサ御利生御利生で、あしたから、おうがちゃ捕ろうよ、これも氏神さんの大郷利生かな。アーヨイヤサ」と裸体の漁師が歌いながら踊り、佐志八幡神社に参拝する。
 村には祝儀の日にご馳走になっても礼を述べずに帰る「飯の食逃げ」という奇習がある。また漁夫は出漁の際女と猫が前を横切ることを忌み、一月には元日と一五日に女の訪問を忌む習いがある。






浦村 現:唐津市浦
 黒崎が村の東端で唐房湾に突き出し、かつては入江であった。東松浦半島の上場の岩野村(現東松浦郡鎮西町)に発する浦川が村内を東流する。浦川は、もと村の北東にあたる幸多里浜に出ていたが、藩政末期に改修して唐房浜へ川口を変え、もとの河床は開拓田となった。この工事は山辺浜雄などによって行われた。 康永元年(一三四二)二月七日の源(佐志)勤から三男六郎湛への譲状に「肥前国松浦西郷佐志村内浦河内のぼり」とある浦河内は浦村に比定され、いまも浦河内の字名が残る。慶長絵図に村名がみえ、文化年中記録に畝数二三町一段二畝二歩半とある。
 黒崎山の山頂に黒崎神社があったが、現在は別宮の天満社とともに山腹に移祀されている。山頂にはまた漁見所があって、魚群の見張りがなされていた。字門前にある慈眼山長久寺は臨済宗南禅寺派で、元和年間(一六一五−二四)徳岩の開山である。
 村の北西の城山は中世の日高城の城跡で、戦国末期、松浦党の武将日高甲斐守喜が拠ったとされている。






鳩川村 現:唐津市場川
 唐津湾の西海岸に東松浦半島の上場の丘陵が迫り、その緩やかな山腹にしがみつくような村落。この地区は軟弱な地盤で地滑りが起こりやすい。慶長絵図に「湊ノ内鳩川村」とみえ、文化年中記録に畝数四町五段六畝一七歩半とある。村内に日枝(ひえ)神社がある。






相賀村 現:唐津市相賀
 唐津湾の西海岸に面し、相賀崎が海中に突き出して東松浦半島の上場の丘陵との問に平坦地をつくる。村内は河川に欠け、灌漑はもっぱら上葉溜池などに依存する。
 この地は「肥前風土記」「延書式」にいう逢鹿駅に比定される。また「松浦古事記」には、神功皇后が朝鮮出兵の帰途、この地の沖で戦勝を「おおがせよ」と述べたことにより相賀の名が起こったと地名伝承を記す。「太宰管内志」には松浦郡相賀村の臨済宗妙心寺派法*(申童)(ほうとう)寺の鐘に永和二年(一三七六)八月吉日の銘があると記す。その鐘は肥前鐘であるといわれていたが現存しない。慶長絵図に「湊ノ内 相賀村」とみえ、文化年中記録に畝数二九町四段九畝一四歩、諸網三帖、穀船一艘とある。
 字相賀に臨済宗の医王山東光寺(無住職)がある。「松浦拾風土記」によれば、東光寺の本尊薬師如来像はもと千原ケ浦の淵上(現東松浦郡浜玉町)にあり、承安二年(一一七二)の大洪水で山崩れが起き、海中に流失した。同四年相賀沖の海中に発光するものがあり、引き揚げると薬師像であったので、村人は小堂を建てて祀った。以来この仏は幾多の霊験を現したという。この寺に肥前鐘があり、慶長年間(一五九六−一六一五)唐津藩主寺沢志摩守がこの鐘を城中に移したところ、鳴らずの鐘になったので寺に返したという。現東松浦郡相知町黒岩の曹洞宗医王寺の鐘がこの鐘と伝えられる。 暖流の影響でこの地は無霜地であることから花卉栽培が行われてきたが、これは山村家の処世訓によれば、文政二年(一八一九)の庄屋山村周平が畦畔に水仙栽培を奨励してから始まったものである。






達鹿駅(おうかのえき)
 「肥前風土記」の松浦郡に「逢鹿駅 在郷西北 曩者 気長足姫尊 欲征伐新羅行幸時、於此道路有鹿遇之。因名遇鹿駅。駅東海有蚫・螺・鯛・海藻・海松等」と、神功皇后が鹿に出あったという地名伝承を述べ、駅の東の海の産物をあげる。また「延喜式」に「肥前国駅馬(中略)逢鹿(中略)各五疋」と駅馬の数をあげる。「太宰管内志」に「逢鹿は阿布加とよむべし」「さて〔柳園随筆〕に松浦郡逢鹿駅と云は今唐津ノ城より東(西)北三(二)里ばかりに大賀ノ浦とてある是なり鞆ノ浦と同じつゞきの海辺なり今もアフカといへりと見えたり」と記す。
 古代の官道筋で、風土記に記すように、東に海をもち、逢鹿と同義に読めるところは現在の相賀である。






湊村 現:唐津市湊町
 東松浦半島北東部に位置し、唐津湾入口の神集島に対する。玄界灘に臨むため冬期は北西の風を真正面に受け、西南は上場台地の一つ滝岳(たきだけ)山に連なる丘陵地で、海岸の小串(おぐし)山との間に平坦地がある。川と名付けられるものは高良(こうら)川のみで、灌漑はもっぱら長葉(ちょうば)・谷頭(たにがしら)・片川(かたがわ)などの溜池に依存する。字鼓(つづみ)の海岸に姥ノ懐(うばのふところ)堤があり、潮風を防ぐ。村落は農業を行う湊岡(西分)と漁業を行う湊浜(東分)がある。
 「松浦古事記」には、神功皇后が朝鮮出兵の時、吾瓮(あべ)の海士烏麻呂という者に西の海を見させたとあり、吾瓮とは湊浦のことであるとする。また皇后は軍勢を整えて和珥(わに)津より船出したというが、和珥とは湊浦浜なりという。また一説に、かつてこの地に遭難した漁夫が助けてくれた土地の女と暮していたが、ある海の荒れた日、男は漁に出たまま帰らず、女が海辺を探すと一匹の鰐が腰に魚をつるした姿で死んでいた。そこで漁夫は鰐の化身だろうと手厚く葬ったといい、以来この地を鰐の浦と称するともいう。
 中世の佐志村地頭源(佐志)房の文永三年(一二六六)七月二九日付子息乙鶴への譲状(有浦家文書)に「在肥前国松浦西郷佐志村内塩津留、神崎、并鞆田事・四至堺 西限大鞆中庭、北限海、東限湊堺、南限平賀道淵山簡切」と湊の地名が記される。「薩藩旧記」に「肥前国松浦庄内早湊村地頭職事 任去年十一月二日御下文之旨可被沙汰付島津上総三郎師文之状依仰執達如件 文和元年十月廿六日沙弥右京権大夫殿」とある早湊村は、湊村に比定される。
 文化年中記録によれば、湊西分(湊岡)は畝教二九町四段九畝一四歩で、日高夫一千四八八日、諸網三帖、穀船一艘、湊東分(湊浜)は日高夫七四四日、穀船七艘、漁船八七艘とある。
 村内には旧村社八坂神社のほか、八天神社・雲透神社・立神神社・金比平(こんぴら)神社・恵美須神社がある。また臨済宗南禅寺派の霊験山延福寺・吉祥山妙喜庵と臨済宗の如意山潮音寺(無住職)がある。潮音寺の観世音菩薩は平重盛の願望により西国に送られた霊像だが、その途上海中に没したのを万吉・万六の漁夫が引き揚げ小祠を造り安置したものという。のち恵教より寺号を受け、幾多の霊験を示現したと伝える。
 村の北部、小串山の背後の海浜に立神岩がある。標高三〇メートルの玄武岩の男岩・女岩が直立して玄界の荒波をまともに受け、奇観を呈する。





八坂神社 現:唐津市湊町
 湊西分の集落の西端にあり、主祭神は素盞鳴尊。村人は「厄神さん」と称する。旧村社。
 創建の年代は不明。口伝によれば、神功皇后が朝鮮出兵の時この社に祈願して出船したが、海上の霧が濃くて船が進まず、柏木を焚いて灰をまくと霧は消えたという。
 旧暦一月一五日の厄神さん祭には、厄年男が木綿・麻の古着を縫い合せ、刺子をして丈夫にしたドンザを着て参拝者に灰を振りまく灰振祭がある。
 境内の肥前鳥居は市指定文化財で、「延暦三」(七八四)の銘があり、肥前鳥居としては最も古い。石造狛犬も市指定文化財となっている。また八郎為朝の塔と称する五輪塔と中世以前のものとされる碇石がある。






神集島 現:唐津市神集島
 湊村の北東、海上約六〇〇メートルに位置し、周囲約八キロ、標高八二・六メートル。第三紀層の基盤上に玄武岩が噴出・被覆して形成され、台状の形から軍艦島ともよばれる。西海岸は玄武岩礫で埋め尽され、礫により中道がつくられ深い入江が形成されている。
 「延喜式」に「肥前国 柏嶋牛牧」があり、神集島に比定する人が多い。また「万葉集」巻一五には「肥前国松浦郡狛嶋亭舶泊之夜、遥望海浪、各慟旅心作歌七首」のうちとして、
  帰り来て見むと思ひしわがやどの秋萩すすき散りにけむかも
 と秦田麻呂の歌を載せる。この狛嶋亭(こましまのとまり)は柏島亭の誤字であり、神集島で詠まれたものとする説が多い。
 「松浦拾風土記」には、神功皇后が朝鮮出兵の時、軍船をこの島に集めて評議し、「皇后評議石」という岩が山頂にあると伝承を記す。
 島の各所に、大正時代(一九一二−二六)佐藤林賀氏が発見してドルメンと推定した古墳がみられ、鬼塚古墳(市指定史跡)はその代表的なものである。
 古来、この島は大陸と松浦を結ぶ航路上にあたり、渡航船の寄港地とされた。「頭陀親王入唐略記」には、貞観三年(八六一)九月「更移肥前国松浦郡之柏島」と記されている。「本朝世紀」天慶八年(九四五)七月二六日条には「柏嶋」に一隻の唐船が来着したことを京の太政官に伝える大字府からの報告書を載せる。
  大宰府解申請官裁事
   言上大唐呉越船来着肥前国松浦郡柏嶋状
    舶壱艘勝載参仟斛 乗人壱佰 交名在別
    一船頭蒋衰 二船頭兪仁秀 三船頭張文遇
右得管肥前国今月十一日解同日到来*(ニンベン+?ショウ)、管高来郡肥最埼警  固所今月五日解状同月十日亥刻到来云、月四日(今如本) 三刻、件船飛帆自南海俄走来、警調兵士等以十二艘追船、留肥最埼港嶋浦、爰五日寅一刻、所司差使者問、所送牒状云、大唐呉越船今月四日到岸、伏請准例速差人船、引路至鴻臚所牒者、慥加実*(テヘンニ僉」所申有実、仍副彼牒状、言上如件者云々、蒋袞申送云、以去三月五日始離本土之岸、久□滄海云々、
     天慶八年六月廿五日
 これによれば、同月四日肥最埼に置かれた警固所が発見したもので、三千石積の船で蒋袞という名の船長以下一〇〇人が乗り組んでいたという。船長からの事情聴取や、一〇〇人の乗員名簿も報告されたのだが「本朝世紀」はこれを省略している。
 また万寿四年(一〇二七)にも、商人陳文祐の率いる宋船が柏嶋に来着したことが報告されている。陳文祐らは来着までの経過を、
  以去六月五日離大宋国明州之岸、以同十一日罷着台州之東門、同廿六日解凍渡海之程、俄暴風出来、難達前途、三箇日夜逗留途中、以同廿九日走帰明州、経三箇日相待巡風、以今月四日罷離彼岸、同十日罷着当朝之内肥前国値嘉嶋、同十四日罷着同国松浦郡所部柏嶋
と述べている(「小右記」万寿四年八月三〇日条)。
 「神集島」の表記は「松浦家世伝」の法印公伝五の慶長五年(一六〇〇)の個所には「神集嶋」とあるのが早い。近世には独立した一村として扱われ、文化年中記録に畝数三町二畝一五歩半とあり、石船六艘、天当五〇艘、諸網二〇帖と記す。藩政期には島に遠見番所が設けられ、不審船の監視に当たった。幕末の庄屋菊池俊蔵は博学者で、自宅に神集精舎という塾を設けて島民の教育につとめている。
 神集島には珍しい地名があり、字名のカグメシ、コゴロセ、ウウソ、ナカコウ、クリコウは、方言でも意味が解せぬものである。また結婚の時婿方が嫁迎えに行くと、嫁方は「牛をもってこい」「駕寵をもってこい」と注文をつけ、嫁入りの時間を延ばす風習がある。また一家の主人の葬送の時には、棺の側に柄に紙を巻いた刀と箒を倒して置き、喪主がこれを持って墓地へ行き、それがすめばヨトリ(跡とり)として認められる習いもある。






柏島牛牧(うしまき)
 「延喜式」兵部省の諸国馬牛牧に、肥前国に 「柏嶋牛牧」が記される。これを神集島に比定する説が強い。島の台地は灌木のほか大半が草原であり牧場に適し、昭和初期まで牛の放牧が行われていた。






鬼塚古墳群 現:唐津市神集島字鬼塚
 神集島には前期・中期の古墳が一基ずつ島の東北部にあり、後期の古墳五基が中央頂上部にある。この後期のもののうち四基は一五メートル前後の間隔で集中して鬼塚古墳群を形成する。三基(二−四号)は盗掘や開墾によって破壊され基部を残すのみだが、二号墳は石室の原形を保っている。これはもと円墳であったが、長年月の間に封土は完全に流失しており、奥壁・西側壁・両袖石・天井部等が、すべて玄武岩の一枚石で築成されているところから、大正末期ドルメンが東進して来たものだといわれたことがある。昭和四七年(一九七二)発掘調査が実施された(「末廬國」第四四号)。
 石室内の規模は奥行二メートル、幅二・三五メートル、高さ一・四五メートルで、床面の中央に奥壁に平行して柱状玄武岩を横たえて室内を二分し、奥部には礫石を敷きつめて屍床面を形成している。石室を構成する石材は、外面は多少のふくらみを有した自然面であるが、内面は平面状に彫り整えてあって、石室内は整然とした右槨をなしている。またこの四壁の直立を保持させるため、壁石外部の地表下に、直径三〇センチ大の丸石を外壁に沿って埋置する基礎工事が入念に施されている。他の三基同様南に開口しているが、羨道部を有せず、古墳前方に堆積する石材をもって閉鎖石としたいわゆる横口式の古墳である。
 副葬品は、金巻・銀巻・銅製の一対ずつ計六個の耳環、ガラス製丸石三個、土製で焼成不良の勾玉一個、小玉七〇個が装身具である。鉄刀は長さ八〇センチで腐食が激しいが、木製鞘部の鞘口に青銅の締金具があり、柄部には銀製の締帯が鋲打してある。その他刀子二本、肩部に羽状文を施した土師小瓶一個、須恵器は高坏・壷・浅鉢・提瓶・皿・蓋等が出土している。
 鬼塚古墳群はこの一号墳の発掘により、終末期の七世紀後半の築成と思われる。






住吉神社 現:唐津市神集島
 神集島の南西の宮崎の砂州の突端にあり、主祭神として表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神を祀る。旧村社。
 縁起によれば、神功皇后が朝鮮出兵の時、神集島に神神を集め、千珠・満珠を納めて海上の安全を祈ったという。神集島の弓張山に鎮座していたのを元禄七年(一六九四)現在地に遷宮し、いま千珠・満珠の神宝を蔵する。
 古来航海の守神とされ、近郷の漁夫は正月の初乗りには住吉神社の沖合を三回まわり、初漁の時は魚を海中に投げ入れて神に供える。平日でも住吉神社の沖を通る時は蜜柑を海中に投ずる風習がある。祭日は九月二七日。
 境内には蒙古襲来の際の蒙古碇石と称するものがある。また付近の海岸には浜木綿の群生地がある(市指定天然記念物)。




横野村 現:唐津市横野
 東松浦半島上場台地の丘陵が玄界灘に落ち込む位置にある。波涛をまともに受ける自然条件の悪い村落で、耕地も乏しい。正保絵図に村名がみえ、文化年中記録には畝数二三町二段三畝三歩半とある。村内に天満神社がある。





屋形石村 現:唐津市屋形石
 東松浦半島上場台地北東部の緩やかな丘陵にある。北は丘陵が玄界灘に落ち込んで絶壁となり、波浪の浸食で奇観を呈する。低い丘陵地であるため水に恵まれず、渡子(わたりご)川があるが、灌漑はもっぱら松尾溜池のほか小溜池に依存している。正保絵図に村名が記され、文化年中記録によれば畝数四四町一段七歩半で、穀船二艘、天当四艘があった。
 「松浦記集成」に「仁平三癸酉年鎮西八郎為朝黒髪山悪蛇退治の前卜に、蟇目の法を行はれしに、其かぶら矢石に箆深く立しと、此時退治の吉左右とて酒宴を設けらると也、其矢跡末世まで残りし故に、此村を矢形石と名付たり。又一説に為朝の家臣鎌田平治と云ふ者を、近郷の押へとして湊浦へ置きぬ、其館を建ける時、此所の石を取りしに、此石名石にて割取りたる石一夜の内に元に戻りたりと言ふ。是屋形石の奇説也」と地名伝承を記す。
 文永三年(一二六六)七月二九日付佐志村地頭源(佐志)房の子息乙鶴への譲状(有浦家文書)に「在肥前国松浦西郷佐志村内塩津留、神崎、并鞆田事」とある神崎(こうざき)は屋形石内に比定され、現在字神崎がある。神崎は村の北東部で岬となっており、神功皇后ゆかりの地といわれる。
 村内に三神社・日枝(ひえ)神社・土器崎(どきさき)神社がある。
 臨済宗南禅寺派の天陽山長興寺はもと真言宗で開山は叢岳。波多三河守より寺領五〇石の寄付があり(唐津拾風土記)、境内に三河守供養塔がある。一時廃寺となり慶安年中(一六四八−五二)再建したが再び廃絶し、寛文年中(一六六一−七三)敬甫が再建、臨済宗となる。





七ッ釜 現:唐津市屋形石
 屋形石の北東部神崎の小岬、瓦器崎(一名土器崎)にある。
岬は玄武岩の柱状結晶からなり、海岸はすべて断崖絶壁をなしていて、玄界灘の波濤をまともに受けて浸食がいちじるしい。東側の断崖は深く入り込み、七つの横穴が並列して、あたかも竈を並べたような形状をなし、深い穴は一〇〇メートルに達する。この穴には満潮時だけは小舟の出入りが可能である。天然記念物。 このほか、この岬には数個の洞穴がみられ、奇勝眼鏡岩もある。
 岬の北端は、神功皇后が朝鮮出兵の戦勝祈念の時土器を捨てた場所との伝承があり、皇后を祀る土器崎神社がある。





中里村 現:唐津市中里
 屋形石村の南にあり、東松浦半島の上場台地の丘陵で囲まれた凹地の村落。周囲の丘陵は低く、水に乏しく、灌漑は神の前・大平などの溜池に頼っている。
 「松浦古事記」に波多三河守の家臣として「中里九内橘覚久、中里村百石」とあり、また「松浦昔鑑」に「中里主膳則ち中里村を知行す。此所に居住候墓所有り」と記す。
 正保絵図に村名が記され、文化年中記録に畝数八町七段四畝二五歩半とある。 村内には室町期から慶長年間(一五九六−一六一五)にかけての古塔が多く残る。現村落から一峰越えたところには藩政初期のものと伝える切支丹屋敷跡がある。村の中央に矢房(やぶさ)神社がある。






石原村 現:唐津市枝去木
 東松浦半島上場台地のほぼ中央の丘陵地で、人家は丘陵間の狭い平坦地に孤立して点在する。水利に恵まれず、早魃になりやすい。村内を名護屋往還(太閤道)が通る。
 正保絵図に村名がみえ、文化年中記録に畝数七町二段二畝一六歩半とある。村内に山神(やまがみ)社がある。
 明治一四年(一八八一)枝去木村となる。





野中村 現:唐津市枝去木
 東松浦半島上場台地のほぼ中央の丘陵地で、有浦往還が村内を通る。人家は丘陵間の傾斜の激しい谷間に点在し、水利に乏しい早魃地である。
 慶長絵図に「高二百七十七石一斗二升 大久保」とある。村高は後世の記録より遥かに高く、当時この地区の中心的な村落で周辺の村も含んでいたと推定される。正保絵図には「野中村」と記す。村名が改められたことについては、文化年中記録に「御検地帳ニ大久保卜有り」と記し、大久保氏が唐津藩主として入部した時、藩主にはばかって大久保村から野中村へ改称したと伝える。同記録に畝教二町六段二六歩半とある。
 村内に山神(やまがみ)社がある。
 明治一四年(一八八一)枝去木村となる。





馬部村(まのはまりむら) 現唐津市枝去木
 東松浦半島上場台地ほぼ中央の東寄りの丘陵地にある。村落はなだらかな丘陵に囲まれた平坦地が多く、上場台地としては耕地の割が多い。村内を名護屋往還(太閤道)・有浦往還が通る。
 丘陵からは先土器期から縄文期・弥生期にかけての石器が出土する。女山(おんなやま)遺跡は縄文期の住居跡で付近から多数の石器類が出土し、弥生期の土器片も出るので、両期の重複遺跡ともみられている。
 慶長絵図に「湊ノ内 間野部」とあり、正保絵図に「馬部村」と記す。藩政期には馬部組一六ヵ村をまとめる大庄屋が置かれていた。文化年中記録に畝数一〇町八段三畝二歩とある。
 字馬部の甚蔵(じんぞう)山の馬の塚は、天平年間(七二九−七四九)板櫃川(現北九州市)の戦に敗れた藤原広嗣がこの地に逃れたが、馬が深田にはまって捕らえられたという。このことから「馬のはまり」の地名が付けられ、馬の塚は広嗣の愛馬を埋葬した所と伝えている。
 村内に大山祗(おおやまづみ)神社がある。





枝去木村 現:唐津市枝去木
 東松浦半島上場台地のほぼ中央の東寄りに位置する。
人家は丘陵間の凹地や山腹に点在し、集落はない。村内を有浦往還が通り、有浦村に接する。丘陵地からは先土器期から縄文期の遺物が出土している。
 正保絵図に村名がみえ、文化年中記録に畝数三町二段九畝五歩とある。浄泰寺記録(松浦記集成)に「城下新町の
浄泰寺の御朱印地枝去木村に有り、慶長元年藩主寺沢志摩守寺領として五十五石を永代寄附せるが、のち将軍秀忠より御朱印を給はり享保二年まで継続されてゐる」とある。
 村内に大明神(だいみょうじん)社がある。





山道村 現:唐津市枝去木
 東松浦半島上場台地の中央の丘陵地。打上地区(現東松浦郡鎮西町)と大良地区(現唐津市)を結ぶ大良道が通る。上有浦川上流の山道川があるが、水量に乏しい。
 慶長絵図に「唐野川ノ内 山道村」と村名がみえ、文化年中記録に畝数一〇町七段五畝七歩半とある。
 村内に十二(じゅうに)神社がある。
 明治一四年(一八八一)枝去木村となる。





名場越(なばこし)村 現:唐津市枝去木
 東松浦半島上場台地のほぼ中央の丘陵地。上場台地としては傾斜の急な丘が周辺をとりまき、南の後河内村境に丈高(たけたか)山がある。有浦川上流の名場越川が村内の平坦地を蛇行して南行する。佐志村と大良地区を結ぶ道が通る。
 正保絵図に村名がみえ、文化年中記録に畝数五町六段九畝二五歩とある。
 村内に十二神社がある。
 明治一四年(一八八一)枝去木村となる。





平昌津村(ひらしょうづむら) 現:唐津市枝去木
 東松浦半島上場台地のはば中央の丘陵地。周辺を丘に囲まれた狭い村である。石原村から枝去木村への道筋にあたる。
 正保絵図に村名が記されているが、藩政初期から無人で、明和年間(一七六四−七二)の記録に「家数無シ」と書かれている。伝えによれば、疫病のため無人となったが村高だけは残されたという。文化年中記録にも「畝数二町八反四畝二十歩、家数・人数 イヅレモ当時無シ」とある。
 村内に十二神社がある。
 明治一四年(ー八八一)枝去木村となる。





中尾村 現:唐津市大良
 東松浦半島上場台地のほぼ中央の丘陵地で、大良の小盆地の谷間の村落。大良村の北西にあり、上有浦村と丘陵をもって境する。村中を上有浦村の日の出松溜池に源をもつ川が通り、名場越川と合流する。
 慶長絵図に「唐野川ノ内 中尾村」とみえ、文化年中記録に六町一畝七歩とある。
 村内に薮佐(やぶさ)神社がある。
 明治一四年(一八八一)大良村となる。





太郎村(大良村) 現:唐津市大良
 東松浦半島上場台地の中央の丘陵地の盆地。有浦川上流の大良川・名場越川・後川内川の合流地を占め、他地区との往来は、すべて峠を超さねはならぬ交通不便な地である。
 正保絵図に大良村と記し、天保郷帳には太郎村とみえ、文化年中記録に畝数三町二段六畝二歩とある。
 村名の由来について、「松浦記集成」の古唐津焼物の項に「太郎官者村、小次郎宮者村、藤平官者村、古昔、神功皇后三韓より此官者三人を召連れ玉ひ、陶器を製する事を始め玉ふ。其者の居所を村名として於今唱へ来る」と伝承を述べる。この村を山都美(やまとみ)ともいうが、その由来については不詳。
 村には旧暦一二月三日の節句に樫の木を伐り、これを年木と称し、大晦日の夜焚き貧乏神を追い出す行事がある。
 村内に大山祗(おおやまづみ)神社がある。





田代村→田代村(東松浦郡玄海町)






八尋峯村(やひろみねむら) 現:唐津市大良
 東松浦半島上場台地のほぼ中央の丘陵地。大良の小盆地の南西にあり、有浦川の支流八尋川沿いに人家が点在する。南部の切木村(現東松浦郡肥前町)境に上場台地の最高峰野高(のだか)山(二六〇・二メートル)がある。
 正保絵図に村名がみえ、文化年中記録に畝数二町七段四畝一八歩とある。
 村内に大山祗神社がある。
 明治一四年(一八八一)大良村となる。現在は旧永田村地域と併せて八永(やなが)という。





目付佐原村(めつけさはらむら)(永田村) 現:唐津市大良
 東松浦半島上場台地のほぼ中央の丘陵地。大良の小盆地の南西にあたる。人家は有浦川の支流八尋川沿いの緩やかな丘陵間に点在する。
 明和二年(一七六五)の水野氏への領地目録には「目付佐原村」とあり、明和年間の唐津藩絵図には「永田」とある。また、文化年中記録には「永田村」とあり、天保郷帳には「目付佐原村」とある。藩政期を通じ、二つの村名が併用されている。





梨子河内村(なしかわちむら) 現:唐津市梨川内
 東松浦半島上場台地の丘陵地。大良の小盆地の南の端に位置する。竹木場村との境に石高(いしだか)山があり、石高山に源を発する村前(むらまえ)川は本村内に小平坦地を造り、北流して大良川(大平(だいら)川)に合流する。
 正保絵図に「梨河内村」とあり、明和年間(一七六四−七二)の絵図に「梨子河内」とある。明治に入ってからは梨川内と書かれる。文化年中記録に畝数五町三段七畝一三歩とある。
 字大久保に、時代は不詳だが波多氏の家臣原田伊賀守塚という古墓がある。村内に大山祗神社がある。

平成23年10月23日より