季刊 ポート唐津 平成元年秋号 No.8
大島小太郎のこと     坂本智生 


 大島小太郎は巨州と号した。安政六年八月九日生まれ、唐津藩士大島興義の長男である。
 大島氏の家格は知行取の士分に次ぐ無足の士、他藩で中小姓と呼ばれる家格に相等した。宝永年中、小笠原家が武州岩槻に在城の頃、御右筆として出仕、興義はその五代の孫である。
 興義は事務官僚として有能な人で、唐津藩御勝手方の本方や御金奉行を勤め、のちに御馬廻席に昇格している。明治の藩制改革では司計局の大属として勘定奉行相等の役職にあった。家禄は十五人扶持が十五石程度。廃藩後は旧藩仕組の浦方、紙方、石炭方の事業を引継いで民営事業化し、魚会舎や借区事務所及び紙買所を総括した。
 小太郎は十三歳で唐津藩洋学校の耐恒寮に入学、耐恒寮閉鎖の後は東京に赴いたが眼病のため一年足らずで、明治七年帰唐した。耐恒寮は明治四年七月から翌五年八月までの一か年ほど存在した。
 帰唐した小太郎は、当時学問しようと思っても正則の中等教育施設がなく、多くの若者が希望を持ちえずに迷っている様子をみて、施設の創立を目論見、志道小学校の教師中沢見作に依頼して、中学課程に準じた余課序″を札の辻の旧学館に設けた。小太郎は余課序の世話人兼上級生徒であった。
 明治九年四月旧二の丸御館に小学校教員養成の四か月修業の小学校伝習所″が開設され、六十人近い若者が入所するが、小太郎もここに入所し、優等の成績で卒業した。しかし小学校の先生にはならず、明治十年には再び上京して三菱商業学校に学ぶこととなる。
 三菱商業学校というのは、かねて商業教育の官立学校を要望していた岩崎弥太郎が、なかなか創立に踏切らぬ政府の態度にたまりかねて発足させた私立学校。明治十七年頃官立の東京商業学校(現在の一橋大学)が設置されると廃校になった。
 明治十四年三菱商業学校を卒業した小太郎は宮城県の石巻商業学校に教師となって赴任するが永く留まらず、明治十六年には唐津に帰って来た。その頃は不景気の絶頂で、たまたま父の関係する魚会舎が経営不振に陥っていた。父は会社の建直しに小太郎を推せんし、小太郎もこれに答えて、その新知識と生来の才気で再建に成功した。
 次いで明治十八年十月大島興義、草場猪之吉、山内小兵衛、山崎常蔵、平松定兵衛などの発起で唐津銀行の創立が協議され、最初大島興義が頭取に推されたが、老年を理由に辞退し、ようやく実力を現しつつあった子息小太郎を推せんした。当時小太郎は二十七歳、興義五十。唐津銀行の業績伸長が大島の将来を輝かしいものにした。
 明治十九年十一月東松浦鉄道会議が連合町村会の規模で開催され、会場の浄泰寺には百六十九名が出席し、九州鉄道会社に支線敷設を請願することにした。この集会に郡長の松尾芳道、郡書記の矢田進、唐津町戸長の佐久間退三ほか、民間からは大島興義、宮島伝兵衛、草場猪之吉、岸川善七など参加し、三十三人の者が千百八十二株の出資を承諾した。
 九州鉄道では明治二十二年八月有田から伊万里、桃川、相知、唐津間及び相知から多久、牛津の支線敷設を計画したが、実現まで暇がかかるので明治二十七年四月草場猪之吉外二十九名の発起人で唐津興業鉄道駅を設立した。発起人には多久人も参加している。唐津興業鉄道建設の最大の功労者は前東松浦郡長の加藤海蔵で、加藤の履歴には大阪府の郡長や大阪市の区長経験があり、鉄道建設のための大阪資本の導入に奔走した。資本金の大半は大阪資本であった。唐津興業鉄道の取締役は、専務取締役に加藤海蔵、平取締役に大阪の富豪黒川幸七、石崎喜兵衛、浜崎永三郎、唐津からは坂本経懿、大島小太郎、多久人の西英太郎、相浦秀剛などである。
 電気事業について述べると、明治二十九年頃魚屋町の山内久助が、城内にあった精米会社の蒸気機関で発電機を廻し、魚屋町などの商店に点燈することを計画したが不発に終わった。その後明治三十九年頃玉島川水系の水力を利用する七山水力電気が設立され、仮免許まで得ていたが出資者が少ないので芳谷炭鉱にその権利を譲った。そのうち芳谷は独自の石炭による自家発電を始めたので、七山水力の権利を返してきたが、そのうち権利付与の期限が切れたので明治四十一年更に二か年の継続を願出た。そして電源開発の資金と技術をシーメンス会社の門司支店に依頼し、必要資金二十二万円のうち半分を地元で調達することでシーメンス側の了解を得た。そこで七山水力の発起人代表である長谷川敬一郎や山内喜兵衛が大島小太郎、草場猪之吉などの唐津銀行の株主たちに協力を求めた。ところが唐津銀行に代表される地元財界では密かに独自の火力発電を計画し、既にその実施を決定していたので、なかなか話に乗ってこなかった。そして明治四十二年六月十五日本町の岩井屋で七山水力と唐津銀行一派及シーメンスの門司支店長、立会人として広滝電気の牟田方治郎が会談した。シーメンス支店長は資金全部をシーメンス側で持つので協力して呉れと頼んだ処唐津銀行側は理由なしに協力を否定し、結果的には火力発電の実施を宣言することになった。
 唐津電気KKは明治四十二年七月創立、社長に大島小太郎、取締役に小関世男雄、河村藤四郎、岸川善七、宮島伝兵衛。監査役に平松定兵衛、草場猪之吉、山内久助、吉村儀三郎、山崎常蔵、新堀の旧紙方役所跡に火力発電所と本社事務所を置いたが、明治四十三年八月九日会社は解散、広滝電気と合併した。発電所は明治四十四年十二月閉鎖された。
 唐津に於ける電気事業草創の頃の水力、火力の紛争は後々まで火水の闘争として語り継がれた。

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