唐津小学校初代校長
「大川謙治先生」のこと
岸川 龍
私たちが小学生であったころ、旧唐津小学校の校門横に立派な銅像が建っていた。
台座に『大川校長』という鋼板がはめ込んであり、子ども心にも、昔のえらい校長先生だなという印象を受けたものであるが、大川校長がいつごろの校長で、どんな先生であったのかについては、当時の先生からも何の説明も受けなかったので、明治、大正時代の卒業生はいざ知らず、昭和生まれの卒業生たちは、先生についてほとんど知ることもなく卒業していったもののようである。
私もそのひとりであったが、たまたま自分が教育界に身を投じ、昭和六十二年四月志道小学校の校長を命ぜられて校門を入った時に校門の横の松の木の上から、じっとこちらを凝視されている大川校注の銅像に再会して改めて身のひきしまる思いに襲われると同時に、大川校長について調べてみたいと思うようになったのである。
調べてみたいとは思ったものの、学校の仕事に追われて、なかなかその時間が見出せず、ときどき大川校長の銅像の周辺を清掃しては古武士のようなお顔をふり仰ぎ、先生の後進として児童の教育に全力を尺くしますと誓うのみであった。
最近になって少しつつ調べを始めてみたが大川校長についての資料がなかなか見つからず、手がかりがないままに過ごしていたが、ふと思いついて、わが校に残っている唐津小学校時代の職員履歴書、職員出勤簿など、明治時代の和綴じの書類を捜し出し、根気づよく調べていくうちに、大川校長の履歴書を発見することができた。
この履歴書は毛筆で書かれているが、この履歴書と昭和五三年唐津小学校百周年を記念して出版された『母校百年誌』を参考にして、現在までに知り得た大川校長についてのまとめをしてみたいと思う。さらにくわしい資料等についてお持ちの万があれば、ご提供ねがえれば幸いである。
大川謙治校長は安政元年五月十一日、唐津藩士の子として生まれた。出生地は履歴書によれば唐津町大字唐津千三百九番地となっている。
父母の名前は今のところわからない。安政元年といえば建築家として有名な辰野金吾博士が生まれた年である。安政元年の前年は嘉永六年でアメリカの使節ペリーが軍艦七隻を率いて浦賀に入港し、わが国に通商と貿易を迫った年で物情騒然とした時代である。
同じ下級士族で同年生まれであれば、あるいは大川謙治と辰野金吾(本来は藩士姫松倉右衛門の第二子・のち辰野家へ養子)は幼いころからの知り合いであったかもしれない。
慶応三年二月(十三歳)より明治四年八月(十七歳)まで一色耕蔵(耕造とも書く)に就いて漢学を学んだ。一色耕蔵の塾は町田にあり陽明学派であったといわれている。
明治四年九月より明治八年一月(二十一歳)まで志道館に入り中沢見作に就いて漢学を学んでいる。
明治八年二月、長崎師範学校に入学。維新後、間もなくのことであり、志を教育に立てて新しい官立の師範学校に進んだのは、日進月歩する世の中の変化に対応して、新しい知識を身につけようとする積極的な意志のあらわれであった。
長崎師範を卒業したのが履歴書によると明治九年十二月十五日(二十二歳)のときである。そうすると、師範学校在学はわずか一年十か月にすぎない。
当時は早急に近代国家としての体裁をととのえ、新しい時代に対応できる人材を養成することが急務であり、そのための指導者の養成が急がれたからであろう。
今日、教師となるためには大学の教育学部で四年学び、さらに教員採用試験に合格しなければならない。そのうえ、新任教員として赴任したあと一年間の『初任者研修』を受講することになっている。
大川校長時代は、わずか二年足らずの師範学校生活で教育現場に出たのである。激動の時代国家の負託に応えるためには、一日もおろそかにできない修業と厳しい鍛練が課せられたにちがいない。
今、考えてみると、確かに大川校長の師範学校での生活は短いと感じられるが、この時代の人は、若いころ藩校や民間塾で漢学を修めていた人が多く、少なくとも今日の若者とくらペてみると素地となる学問的素養が格段に豊かであったと考えられ、その上に新しい科学的な学問を積み重ねて教師としての力量を身につけていったにちがいない。
年があけて明治十年一月、大川謙治は鹿児島県に採用され『補四等訓導、但月俸拾五円』の辞令をもらい、勇躍鹿児島へ向かって出発した。なぜ故郷である唐津へ赴任しなかったのか、そのへんが事情はわからない。
ところで明治十年といえば西南の役の年である。西郷隆盛を領袖と仰ぐ薩軍と新政府軍との間に熊本・田原坂をはじめ九州各地で激戦が展開された。大川練治が赴任した鹿児島県は西郷の本拠地であり、西郷が終焉を迎える城山は鹿児島市の中心部にある。
このとき、大川謙治がどこでどのように過ごしたのか履歴書ではうかがい知ることはできない。
明治十五年三月(二十八歳)、大川謙治は鹿児島県福山小学校長に補せられ、二等訓導兼任の辞令をもらった。
明治の初期は、帥範学校を出た正規の教員が少なかったため、各地で二十歳後半の校長が誕生しているが、それにしても、やはり大川校長の非凡さを鹿児島県が認めたからであろう。
福山小学校在職九か月で大川謙治は辞職している。この間の事情もよくわからないが、履歴書には、同年十二月十九日『老母病気に付看護の為辞職願差出』となっているから、母上の病気がよほど重かったのであろうか。
明治十六年七月(二十九歳)、宮崎県北諸縣郡小林小学校二等訓導拝命月俸金二拾円とあり、教育現場に復帰した。しかし、小林小学校では校長ではなかったらしい。
明治十七年十月二十二日、唐津の学務委員稲垣重道の懇請により、大川謙治は唐津へ帰り、唐津小学校三等訓導として勤務することとなった。
翌十八年七月十六日(二十九歳)、『任公立唐津小学校一等訓導兼校長』の辞令が出、ここに名実ともに整った唐津小学校初代校長として大川校長の爾後二十六年間余にわたる教育活動が始まるのである。
大川校長は在職時代、どのような教育方針でどのような学校経営をされたのであろうか。
教職にある私にとって最も関心の強いところであるが、残念ながら当時の公簿や帳簿が残っておらず、当時の先生方も鬼籍に入ってしまわれた現在では、それをうかがい知ることはできない。
ただ銅像の台座の裏に、大川校長の人となりが次のように記されている。
姓ハ大川、名ハ謙愈、好庵卜号ス 資性温厚篤実寡黙謹厳ノ君子人ナリ‥・…至誠一貫而モ名利ヲ逐ハズ権勢ニ諂ハズ恂に常世得難キ人士ナり
これは第二代校長丸山金治先生の撰であるが、これをみても大川校長が実に立派な人格者であったことがわかる。
口数は多くないが、温和でしかもどこかおかすべからず毅然とした雰囲気を漂わせた校長であっただろう。
武士出身であるから当然ではあろうが、今日残っている写真や銅像を見てもそのような畏敬の念を我々に抱かせる風貌である。
大川校長の最後はまた劇的であった。
明治四十三年五月二十七日、海軍記念日の祝賀式で壇上にあがった大川校長は、全校児童職員を前にして日本海海戦の講話中、突然脳溢血のため倒れたのである。
黒い詰襟の教員制服を着た堂々たる体躯が突然左右に揺らいだかと思うと、崩れるように壇上に倒れ、児童や女教員の悲鳴が講堂前の前庭にわきおこった。
こうして大川校長は二十六年余にわたる唐津小学校長としての偉大な足跡を残して他界されたのである。
昭和三年十月、卒業生を中心に大川校長の業績をたたえ、永く後世に先生の遺徳を伝えるためブロンズの胸像が建立された。
しかし、昭和十八年七月三十一日、折りから烈しさを増した太平洋戦争のため、金属回収の命令によって大川校長の胸像も赤襷をかけて出征していくことになる。
戦後、これが視正されて現在、志道小学校校門付近に安置され、日々登校してくる児童にじっと慈愛のまなざしをおくりつづけておられるのである。
大川校長は教員として、日頃教室で使用する教材教具の改良などにも力を入れておられたらしく履歴書に次の一項がある。
明治四十二年十月三十日、『教卓、右意匠品ハ教育上稗益アリト認メ壹等賞ヲ授与ス 東松浦郡長正七位勲六等柳田泉』
(志道小学校長・市内町田)
これは松浦文化連盟の機関紙に寄稿されたものとお聞きしました。
私も岸川先生同様、45年ほど前、志道小学校に通う頃は正門入って右に建つ大川校長の胸像を何気なく眺めておりました。
昭和62〜3年、正門が北へ移動するときに大川校長の像があった場所辺りが正門になりました。
その後校舎前中央辺りに移設されました。
2004年4月1日、再び志道小学校と大成小学校が合併し大志小学校と名前が変わりました。
大川校長像はそのまま残されましたが台座からおろされて、旧校舎が解体された跡地で行く先を待っていました。
原口毅校長先生から移設場所のご相談がありました。
唐津小学校から子供達を見てきた大川校長の胸像はやはり正門近くに設置していただくようお願いし、新校舎正門北側に無事に納まることができました。これからも末永く子供達を見守っていただけると思います。