末廬國より
(昭和40年8月20日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

唐津 大石町


 城下町以前の町
 並び競う屋号
    唐津銀行発祥の町


 大石町という町名は、大石村(現、元石町)の地先に出来た町ということかもしれないが、もしそうだとすると、この町の由緒は城下町としての唐津の町割より古いかもしれない。例えば、魚屋町の山内家(木屋)の先祖は天正十九年、泉州の堺から唐津大石町に移って来たと伝えている。天正十九年といえば、まだ波多三河守が岸岳城にいた時代である。
 大石町には唐津町の大年寄を勤めた家が三軒ある。その一軒が小牧家。寛政頃から嘉永頃まで、太三郎・助十郎の二代にわたって大町年寄を勤めた小牧家は、いわば豊臣の残党。大阪方で大番頭を勤めた小牧兵庫頭は夏の陣で破れて姫路にのがれ、慶安年中に唐津に移ってきた。屋号を兵庫屋というのは兵庫頭に因んだものらしい。
 小牧家は二軒あって、一軒は小島金物屋の前で、ここが本家らしい。あとの一軒は明らかでないが、明治初年には現在の牟田歯科の辺に住んでいた。


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 小島新兵衛が大町年寄になったのは文久年中で京町の草場次郎右衛門の跡役。それまでは大石町の町年寄を勤めている。この人はまた、材木町にあった仕法方役所(櫨実や蝋を扱った)の掛り役を勤めていた。屋号は綿屋。現在は金物屋。
 江川弥三平は石崎嘉左衛門の跡役として慶応元年に大町年寄になったが、この人もそれまでは大石町の町年寄。屋敷は現在の笹谷計量器店辺りで屋号は細物屋(コマモノヤ)。酒屋や呉服屋などをやっていた。弥三平の父は小牧家からの養子である。


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 現在の玉置″の角屋敷は加布里屋こと川崎吉兵衛の屋敷。この人は紙方役所の御用達。煙草屋こと青木惣平も紙方の御用達だが、この人の屋敷は森薬局の前辺り。小出和兵衛は御用蝋燭屋で屋号も蝋燭屋といったが、東裏町の町年寄、小出又吉の分れ、小出又吉の屋敷は米販の倉庫の前辺りであった。
 大和屋こと牧川家は土井の時代に藩の御用達だったそうだが、屋敷はもと、野田荒物屋の辺ではないか?現在の牧川家の辺りは田中屋こと田中徳兵衛の屋敷。
 通称恵比須小路と呼ばれた四辻は昔から市で賑ったが、この辺りには肴屋こと岡家、多福屋こと木下家、三弥屋こと峰家、三室屋こと青木家などあった。


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 福島屋こと福島権六が酒屋をはじめたのは嘉永四年で、同町の江川弥十郎の酒株を買取ったもの。それまでは呉服屋をやっていたそうである。福島屋という屋号の由来は賤ケ岳の七本槍の一人で後の芸州大守福島正則の血を引いているから。町内には福島屋呉服店といった恵比須角の吉村家や、糧友パンの工場辺にあった堤家も福島屋といったが、この両家はノレン分けの家である。


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 糀屋こと市山忠左衛門は御用船問屋で大年寄格。小桝屋こと野口定兵衛は酒屋。市山家は福島屋酒屋の前。福島屋の西隣も市山家の一族の屋敷。
 野口家は現在の米販のところだが後にその向い前に移り、あとは浦山利右衛門が住んで金物屋をやっていた。現在の 島崎″辺りは多賀屋と呼ばれて、近江国の多賀神社の神人が出張していた。伊勢屋というのもあって、はじめ小出又吉の屋敷一帯がそうであったが後に十人町に移った。伊勢屋は伊勢の御師、高向二高太夫というのが出張していて、札を配り御初穂を集めていた。


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 細物屋の江川家は大年寄家のほか、久保田病院辺りにいた江川善左衛門、寺町口角の江川吉左衛門などという人がいた。現在もある花島家は鍛治屋。花島小兵衛は旧藩時代からの苗字持ち、明治になって旅館をやっていた。
 久保田病院のところに唐津銀行が出来たのは明治十八年だが、ここには明治十六年に三省銀行(本店、佐賀柳町)の支店が出来ていた。唐津銀行は材木町の山内喜兵衛等が大島小太郎と協力して設立したものだが、営業権は三省銀行支店を譲り受けたものである。


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 大石町の西分には小宮姓が多い。小宮履物店の小宮甚左衛門は天保年中以降町年寄を勤めているが、ここの屋号は門屋(カドヤ)。小宮印刷所の小宮九兵衛家は屋号を油屋といった。下西畳屋のところが小宮小平治。その西が小宮勝吉。運送問屋の様なことをやっていた門屋伊兵衛こと小宮伊兵衛は現在の木村農機具の辺り。ほかに二、三軒小宮の一族が住んだ。


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 小官印刷所の工場の辺りは中道屋こと築山家の屋敷。築山家は小牧家と同じく豊臣の残党。初代の筑山市右衛門宗久は熊の原神社や大石大神社に鳥居をあげている。
 小宮印刷所の西は松尾屋こと松尾儀平の屋敷。御用呉服屋であった。わかば洋裁店の辺が塩屋こと田口平助の屋敷。ここは迴遭問屋。もとは塩屋町の人。この西が糀屋こと中村嘉右衛門の屋敷。


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 小島帽子屋の前、角の床屋から山口の辺は立石という姓の屋敷だったが、この立石の屋敷に明治九年一月から明治十五年一月まで、はじめは大区扱所と呼ばれた東松浦郡役所が開かれていた。
大区時代の区長は坂本経懿。郡役所となってからの郡長は古川龍張といった。


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 元治元年、唐津藩は長州征伐の資金調達のため領中に御用金を申付けたが、当時町方において用立てた三千両のうち大石町の分を抜き書きしてみると、

  三百両  小島 新兵衛
  八拾両  江川 弥三平
   〃     市山忠左衛門
   〃     福島 権六
  六拾両  浦山利右衛門
  四拾両  小桝屋定兵衛
  三拾五両 煙草屋 惣平
  三拾両  椛屋仁右衛門
となっている。


註:は管理人吉冨 寛が記す
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