平成13年のおくんちのポスターができあがりました。
毎年変わるおくんちのポスター。
平成13年は14年ぶり京町の珠取獅子でした。
これは昨年の御旅所曳出しの場面です。前で采配を振るのが私です。山の上は前田勝美・古賀賢二。根綱に前田尚人・古賀稔浩・野中秀毅・土屋和寿。皆良い顔をしています。
全国のおくんちファンは最寄りのJRの構内でご覧下さい。

唐津歳時記11月号を御覧下さい


平成13年 お供日雑記

 11月2日 宵山
 準備万端。札の辻から曳きだした京町は、7:30pm大手口を出た一番山刀町の赤獅子を先頭に例年通り、14台のヤマが唐津の夜を練り歩いた。京町は今年は270名の曳き子が参加し、整然と且つ勇壮に曳いた。
いつもなら唐津神社前に14台が整列するが、雨が心配で全町曳山会館に格納した。京町は格納の際、据え切りして左梶棒を折ってしまう。急遽梶棒の換えを行い、明日に備えた。(昨年の宵山は雨の中、初っぱなに太鼓の皮が破れ、格納後珠の周りの金箔が浮いてしまった。)

 11月3日 御旅所神幸
 9:30am火矢の合図と共に唐津神社の御幣を掲げた一番山刀町の赤獅子が曳きだした。その前からポツポツと降り出した雨に気をもみながら、一ノ宮・二ノ宮も唐津神社を後にした。京町が出る頃にはパラパラと降りだし、兎に角一番山が大石町まで行ってその後のことを決定するという連絡が入った。中止の知らせは京町が材木町を曳いている頃だった。なんと68年ぶりに御旅所の曳き込みが中止という大波乱が起きた。
 と言いながらも濡れながらでも京町までもってこなければならず、えんや・えんやと口を開けるたびに雨が降り込んで来る。京町がアーケードの大塚呉服店側に設置したのが11時過ぎ。それから京町の事務所に各家から料理を運んできて直会が始まった。
 中町の青獅子は西銀側に設置し、延々と山囃子をして気勢を上げていた。挙げ句の果てにはヤマの前にブルーシートを敷きそこで宴会を始める始末。中町の副取締平山君曰く、「今曳き込んでいるところです」曳き込みが終わるまでの約束でその場は承諾した。
 事務所に戻り、直会の真っ最中である。古賀家・山田家・吉冨家・大塚家・etc.・・・・。並びに並んだ各家のくんち料理はさながら往時の浜弁当の様を呈していた。中でも吉冨家からは結婚を控えた長男の誠氏の婚約者の里から送ってきた本場土佐の一本釣りの鰹のたたきが運び込まれ、曳き子は皆舌鼓を打った。この時とばかり、副取締の三浦泰治氏からの提案があった。本番用の垂れ幕を結婚記念に吉冨誠氏に打診された。展示用は弟の私が婚約指輪代わりに作って寄贈。これでヤマの幕は全て吉冨家寄贈となると、三浦副取締の口車に乗せられ誠氏は二つ返事で承諾してしまった。酒の勢いとは恐ろしいものである。1時過ぎに中座してうちに戻りわが家のお客様の接待でもたらふく酒を飲み、また事務所に戻って若い者が作ったスペシャルカクテル(中身は不明?)を一気に飲み干して、今度は小雨の中を西城内の副取締の家に押し掛けてまたたらふく酒を飲み、・・・・・・・。その辺りまでは覚えている。京町に戻ってふらふらとヤマを見に行ったようだ。そこで中町の平山副取締に勧められるままにまた酒を飲んだようだ。
 さすがの私も5時間ほど記憶喪失になった。お供日のお客様の接待はこなしていたそうだが、思い出せない。21:00頃から記憶が戻りそれから本客さんのお相手を延々とした。    つづく

唐津神社社報84号が先日氏子総代古谷武氏より町内に配られた。見てびっくり!
なんと平山氏の名文が掲載されているではないか。そういえば唐津曳山取締会の忘年会の席上、戸川惟継宮司が11月3日の各町の行動をレポートとして提出するようにと宿題を渡されていたことを思い出した。事後承諾で勝手にその全文をここに書き留めさせていただき、私の当日の弁明とさせていただきたい。京町の皆さん、おやかましゅうございました。中町にヤマ囃子を承諾したのは私です。  
                    平成14年1月より京町曳山正取締の吉冨 寛です




からつくんちの雨

   中町曳山の一日
       中町副取締 平山博久

 前日十一月二日の宵山巡行途中で翌日の天気を確認したところ見事に雨。本部からの指示により曳山を展示場に入れる事となったが、この時点ではまだ翌日に曳き込みが、中止になる事など頭の片隅にもなく、翌日、はじめから元気よく曳き出せるように、との考えから曳山を通常とは反対向きに納める事とした。その後、片付けをすませ、中正会(若者)は、恒例により、中町のうどん屋「角兵」に場所を移し、蒲鉾やうどんをつまみに宵山の反省会と称した飲み会を行い、午前二時頃まで酒を酌み交わす。一旦解散はしたものの当日の天気が気になる面々は天気予報をつまみにもう一杯、降水確率の変動に一喜一憂しながら時をすごし、結局、全員が床についたのは午前四時前だった。当日朝、目を覚ました時点での空模様は曇り。何とか曳山を曳けそうな雰囲気だった。若衆は、「少しでも曳山を曳きたい」との一心から早々と準備を済ませ、展示場にて本部からの指示を待つ。午前九時前、決行の知らせを受け、赤獅子移動の後に青獅子を定位置に移動し、小林正取締と共に本殿での神事に向かう。神事を終え、青獅子前に到着したころには少量ではあるが雨が降り出していた。しかし、定刻どおり赤獅子に引き続き神社参道を出発。この時点では皆、曳山を曳けた喜びで一杯だった。神社参道から大手口を走り抜け材木町にて休憩。まだ雨は小雨程度であった。このとき警察無線により、大石町での休憩時に会議をして最終決定を行う、旨を知る。翌日の事も考え、全員肉襦袢を脱がせ、もろ肌とし雨に備えて、材木町を出発。
 宮島のヘアピンカープも、いつも通りに走り抜け大石町の藤井内科前の定位置に青獅子を止めて裁定を待つ。出発時間の三分程前に警察無線により、お旅所曳き込み中止、の報を聞く。その時点で取締との協議開始。まずは、そのまま展示場にいれるか、京町アーケードにお世話になるのか二者択一だった。結論はくんちの雰囲気を大切にしたいとの思いから京町にお世話になるとの事で一致。残りは方法論だった。ここで浮上したのが、直接京町アーケードに入れるという案と、一旦中町通りを通過して青獅子を定位置に据え、後続の曳山が通過するのを待って京町へ戻すという二案だった。曳山のことだけを考えるならば当然前者を選択すべきであるが、曳子の雰囲気や若者の心意気を考えるとそう簡単にはいかなかった。そんな中、二人が後者を選択するのに時間はかからなかった。「一年に一回の事、一時間濡らすも一時間二十分濡らすも一緒。曳子の心が大事。後でしっかり手入れをしよう」と言うのが共通の意見だった。その事を中正会幹部と二番組(カジ棒)に説明、意見を統一して大石町を出発。残りは中町牟田商店横までの短い区間であったが、十一月三日の全てをそこに集中させ普段より元気よく青獅子を動かした。牟田商店横の定位置に青獅子をえた後は、曳山を最期まで曳けなかったウップンを晴らすかのように囃子を止めることなく最期の江川町が通り過ぎるまで雨の中を全員一丸となって競り続けた。問題はこの後であった。中町は今年から浜弁当を計画していた。京町アーケードに青獅子を納めた後、解散してもよいが、準備していた料理をどうするかが最大の問題となってしまった。そんな時一つの案が浮かび上がった、「青獅子の前で弁当を食べる」との事だった。
 しかし、京町が承諾してくれるかが問題。すぐに小林取締が京町古賀取締のもとへ承諾を受けに走られ快諾を得られた。こうなったらとことんやるしかない。「最大限に雨のくんちを楽しもう」これを合言葉とし、牟田商店横から京町アーケードまでを全員一丸となり威勢良く走り抜け、午前十一時前に西日本銀行横の所定の位置に青獅子を納める。曳山を止めた後、小林取締と共に迷惑をかける旨挨拶をしてまわり近所の理解を得る。その間もウップンのたまった若手曳子たちは囃子を止める様子も無く、勢いそのままに競りつづけた。
 周りには、雨で行き場を失った観光客も多数訪れごった返した。一時間ほど経過した十一時五十分頃、京町の若頭吉富氏より「そろそろ止めてもいい時間では?」とクレームが入ったが 「まだ、曳込みが終わっていない時間だ」と何とも訳のわからない言い訳をしながら、とりあえず曳込み時刻の十二時十分をめどに囃子を止める約束をし、その場をしのいだ。結局は約束の時間を五分ほどオーバーし十二時十五分囃子を止め、青獅子手入れ班と弁当準備堆の二手に分かれ昼食の準備に移る。昼食の準備には、町内でおくんちをしない家庭より奥さん達も五〜六人手伝いに来て頂きスムーズに準備も完了。座には、おでんに卵焼き・から揚げ・おにぎり・刺身などが並び、全員が曳山正装のままで座につく、観光客にとってはその光景も珍しいらしく、遠めに眺めたり、カメラに収めたりと、周囲は再度人だかりとなってしまった。当初は、道路上で、しかも人前での食事ということで照れもあったが酔うほどにそれも忘れ、通りがかりの知人や見物客を招き入れ、酒やおでん等を振舞い、しだいに打ち解けて行った。そんな折、先程クレームを付けられた、京町吉富氏が通りかかられる姿を発見。当然のごとくある作戦に打って出た。吉富氏をゴザの中心に招き入れ次々に酒をさし接待攻撃を仕掛け、とうとう囃子の再開を承諾させてしまった。その言葉さえ聞けばこっちのものである。
 午後三時、曳き出しの時間になると同時に雨で濡れた青獅子の再度の手入れと鉢巻の巻き変えに加え、同時進行で一旦家に戻った青獅子会(中町の獅子の会)の子供たちを呼び寄せ囃子再開の準備をする午後四時前青獅子の手入れを終え、全員が元の座に戻ったのを見計らい、まずはタテヤマ囃子を奏でながら風流に酒を酌み交わす。曳山の前で座をくみ、囃子を肴に酒を酌み交わす。しかも曳山正装。唐津っ子にとっては至福の時間である。この時も、囃子の音を聞きつけた観光客で周囲はまた人だかりとなっていた。嗽子が道囃子からセリ囃子へと移るころには全員が興奮状態。酒が多めに入っていたせいもあってか 「エンヤー・エンヤー」の大合唱となり、観光客を巻き込んでの競りはとどまるところを知らなかった。結局、囃子を止めたのが午後五時二十分。普段の十一月三日の終了時間と変わらなかった。その後は、恒例のおくんち同様に町回りをし、雨のくんちは、雨のくんちなりに恙無く有意義に過ごす事が出来た。これも、勇気ある判断と決断をし、また我々中正会を温かく見守り、ご指導頂いた小林取締のおかげと深く感謝するとともに、長時間のアーケード占有に理解を示して頂いた京町区の皆様の唐津っ子ならではの心意気に深甚なる感謝の意を表す次第です。
最期になりますが、益々の唐津神祭の発展と興隆を祈念致しまして平成十三年十一月三日の報告とさせて頂きます。


唐津神社のホームページへはココをクリックしてください。参拝記帳ではおみくじが引けます