末廬國より
(昭和39年5月25日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

唐津 中町



 酒屋・魚屋・八百屋など
 城下の台所賄う

  横浜屋の盛時偲ぶ


 元文年中の、唐津町の酒屋定法帳によると、中町には、吉島屋又兵衛・平野屋次兵衛・油屋七左衛門・茶屋市太郎という四軒の作り酒屋があったが、幕政の末頃には、横浜屋こと田中嘉兵衛の一軒になっている。この横浜屋も天保年中以降において、同町にあった八百屋秀太郎の酒株を、家屋敷とともに買取ったものらしく、作り酒屋の栄枯盛衰もたゞならぬものがあったらしい。
 横浜屋という屋号は、その出身が筑前国怡土郡の横浜村であったことから起きたことだが、この横浜村は今宿の北に接し、今は福岡市の一部に編入されている。昔は海運業の根拠地として盛えたらしい。
 横浜屋は初め、水主町に住み付いたが、その後、中町に移ったもので、その一族の田中惣吉は、その後も水主町に居残って、明治に至るまで船問屋を営んでいた。
 横浜屋の屋敷跡は、今の都ストアーと桑野電機との中間、マーケットのある一帯で、最盛期には、中町の三分の一を所持したといわれる程の豪家であった。田中嘉兵衛は酒屋として、小笠原家の御用を勤めたほか、町年寄・年行事をも勤め、明治九年の内町総代選挙にあたっては、米屋町の古館正助・紺屋町の山口治兵衛とともに選出されている。



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 中町は今でも、内町区市民の台所を賄うところだが、旧藩の頃から、そのような性格の町だったらしい。水野の時代、藩の御用八百屋を勤めた持永吉郎次は通称八百吉と呼ばれ、屋敷は今の都ストアーの一角。小笠原の時代になってからも、初めは佐々木仁兵衛、後には前田又兵衛が御用を勤めた。佐々木の屋敷は八百吉の北向い。今のマーケットのある一帯。
前田の屋号は大黒屋か? 屋敷は高徳寺の向いだが、あるいは四つ角辺まであったかもしれない。前田といえば、同じ町内に前田弥七という酢屋があった。屋敷は今の太田衣料店のところ。



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 横町筋の魚屋についていえば、もともと唐津藩では、魚類の集荷および取引については魚屋町に独占的特権を与えていた。ところが藩政の末頃、徒(かち)による陸路からの魚類の集荷・取引については、呉服町・中町の横町界隈で行なわれるようになり、魚屋町は舟によって集荷された魚類を主に取扱うことになった。浦元・大橋・万谷などといった魚問屋はいづれも呉服町の出身であり、中町の横町筋に亀山忠兵衛・横山彦兵衛・竹内茂十郎などといった魚屋が現われることになった。もっとも横山は旧藩の頃は糀や醤油の製造をやっており、安政年中には西隣の浦田喜兵衛とともに町年寄をも勤めているので、魚屋開業は明治になってからか。竹内は鏡村辺りの庄屋筋の出らしい。



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 中町が引山・青獅子を作るには色々の事情があったろうが、その一つとして、一番山刀町を作った大木小助が中町の住人だったことにもよるかと思う。大木の屋敷は今の玉置食料品店のところ、刀剣類を扱った腰物師である。中町の引山製作者は大木でなくて呉服町の辻利吉。この人も大木と同業の腰物師だった。
 引山製作の頃の町年寄として、前田友左衛門・高橋太郎兵衛の名がみえる。前田は先に記した酢屋の前田か、高橋は大木と前田との間に屋敷を持っていた。



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 今の古川ビルのある屋敷は、門(かど)屋こと小宮藤右衛門の住んだ所。小宮も町年寄を勤めたことがあり、家業は糀屋かと思われる。もとは大石町門屋の出らしい。それから、今の小宮魚屋のある角には、辻村五兵衛という油屋があった。明治になって蝋燭なども作っていた。



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 藩政の末頃、唐津町の名物として、札の辻の風呂敷饅頭と並んで中町の江戸屋煎餅というのがある。江戸屋は横浜屋の向い辺りで、明治になって太田姓を名乗ったらしい。この家の太田清吉は愛茶庵宗清と号して、遠州流の茶道の先生をしていた。



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 明治の二十年代から大正にかけて、唐津町第一級の料亭であった中住屋は、今の大越の向い辺り。この辺りは八百屋こと筒井清六・同忠左衛門の屋敷跡。中住屋も筒井姓なので、この八百屋と関係があることだろう。この八百屋は御用豆腐屋を勤めていた。



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 中町で祭っている唐津明神社境内の粟島さまはもと、今の桑野電機の所に住んでいた彦山山伏の高田山東琳(りん)坊が祭っていたもの。また高徳寺の境内にあった木蓮館には、維新の頃、勤王の志を抱くものが密かに、藩庁の眼をくらまして集会したところで、維新後、藩立英学校・耐恒寮の教師として赴任して来た高橋是清はここに止宿していた。



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 維新後、旧来の行政区画が廃止されて新たに大小区の制度が出来、大区には大区扱所、小区には後に区務所が設けられた。唐津地方を管轄する大区扱所は中町にあり、小区に区務所が設けられてからは、大区扱所は大石町へ移り、あとに唐津(四小区)区務所が開かれた。区務所は後に唐津町戸長役場となり、明治二十年、今の警察署の西隣りへ新築移転するまで、中町が唐津町の行政中心地であった。旧戸長役場は今の辻村金物店のところ。
 旧柳堀が埋立られたのは明治三十一年。初めは大手門側から中町筋の牟田時計店辺りまで。三十五年には中町筋から城内に入る新道が開かれた。それまでは、大手口からか、あるいは本町橋を渡るかしなければならなかった。(唐津市立図書館勤務)





註:は管理人吉冨 寛が記す
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