中川家文書

 肥前唐津寺沢氏

 寛永十年頃
        
 からつ(唐津)ノ覚
                                        
一御しろ(城)の事、三方ハいりうミ(入海)にて御座候、大てぐち(手口)ミなミ(南)むきニ大もん(門)御座候、ほり(堀)のひろ(広)さ十四五間ほと御座候、しろノ方も又まへの方も高さ六七間ほとノ石かき(垣)にて御座候、大もんのいりくちいたばし(板橋)御座候、しほ(潮)ノミちひ(満干)ニいりまわり申と見へ申候、御しろの様子うミの中へ出じろのやう二見へ申候、しやうめん(正面)ニてんし(天主)のたい(台)石かきハたかく見へ申候、てんしハ無御座候、見へかかりの様子見事ニ御座候
            
一町へいりくち(入口)東方せんどう町、ミち(道)より西舟ぐら(蔵)大分御座候、殿様ノはや物百ばかりほど御座候由申候、

一いりくち(入口)うミて(海手)ニ見事なるわり石大分御座候を、やと(宿)主ニ尋申候へハ、大ざか(坂)ふしん(普請)之時わり申候へ共、いり不申候由申候
          
一町へいり三丁ほどとおり候て、ひろさ五間ほどいたばし(坂橋)御座候、小舟ハとおり申候、大舟ハとおり不申候、但うちノ方石かきにて御座候、頓而いりくちもん(入口門)左わきニ大きなるやかた御座候

 又ミぎ(右)ノはうおく(奥)ニも殿町御座候

一御家中の事、物成ハ年なミニより四つ五つほとニ調申と承候、出銀なと過分ニ年なミニより出申と承候、又在々ノちやゑん(茶園)にてもくわ(桑)木にてもなり(成)物ニよらす三か一御取なされ、のこる分百性ニ被下候、さりなから百姓かじけ申候
    
一まき(牧)ノ馬まい(毎)年三十四十ほとつゝ御とり被成候、さいさい水ノよき所ニおき被成、馬のり一人つゝおき被成候由申候

   御家老
     岡じま二郎兵へ殿
   御家
     同(ママ 二郎左衛門殿
   同
     ミやけ(三宅)藤兵へ殿あまくさ(天草)ノぐんだい(郡代)
   同
     同  角左衛門殿
   覚ノ衆と申候
       中村藤左衛門殿
    同
       せきノ大膳殿
    同
       なびか三郎兵へ殿
一奉公人かかへ 無御座候
   
一新ぼり(掘)    無御座候
   
一新ばし(橋)    無御座候
   
一新ミち(道)    無御座候

一玉薬用意      不承候

一へいぶしん(塀普請)  無御座候
 
一やぐらぶしん(櫓普請) 無御座候
 
一あたけ(安宅)    無御座候
       
 御ちなミ之事、りうさうじ(龍造寺)と承候
 
 又くまもと(熊本)一入よく御座候由申候
 八代同前

 二二五・肥前国唐津領勘定目録
 (頂      (朱書異筆)「廿六」
 肥前唐津子御勘定書替目録  (異筆)「壱通」
    (切封)

 中川内膳殿       下嶋市兵衛

        御家中衆



  肥前国唐津領子御成ケ御勘定目録
    
            寺沢兵庫(堅高)頭上知

一高七万三百九拾六石六升六合       松浦郡
  此取弐万八千八百三拾壱石九升五石 高ニ四ツ九リン余
    外百八拾四石六斗三升七合 在々庄屋弐百三拾七人之給分、是ハ前々*(より?)取来候ニ付如此、銘々庄屋米請取、小帳ニ中川内膳(久盛)正家来沢儀左衛門・原田孫左衛門判形有之

   外

一米六百壱石八斗七升六合         種かし利米
   是ハ子之春本米弐千六石弐斗五升四合種かし仕候、利米三割之積、但元米ハ寺沢兵
                
   庫頭代*(より?)送かしニ仕来候付、大久保加賀(忠職)守へ郷中手形ニて相渡、加賀守預り手形有之

一米弐千六百三拾九石三斗弐升弐合     亥未進
   是ハ寺沢兵庫頭代在之未進之分、子ノ夏秋取立申候
 納合三万弐千七拾弐石弐斗九升三合
   石渡方
                                 高木甚兵衛(清吉)
                       
 米合弐万三千八拾壱石弐斗四升七合        朝岡久兵衛(泰直)
                                 須田伝左衛門(盛森)
                                 梶川七之丞(忠久)

 此銀五百三拾九貫三百四拾弐匁三分 ならし石ニ弐拾三匁三分六リン七毛当
  是ハ唐津ニて子ノ夏*(より)丑ノ秋迄ね段吟味いたし時々払申候、町人買上手形有之

米五千四百石           大久保加賀守
                       
  是ハ肥前国唐津御城米壱万石之内、外四千六百石ハ水谷伊勢守(勝隆)*(より)渡

米三千三百拾九石弐斗三升六合     御扶持方
  但京舛三千四百四捨石九斗弐升分、納石ニ付三升六合六勺六才之延
 是ハ子丑両年御扶持方ニ相渡候、内米三千百三拾壱石弐斗五升ハ唐津御在番として被遣候時、中川内膳正千五百人ふち、子七月朔日*(より)丑ノ九月五日迄日数四百拾七日半小を引渡、弐百八拾六石壱斗五升ハ同年為御目付被遣候時、津田平左衛門(正重)百弐拾人ふち、
斉藤左源太(利政)七拾四人ふち、子ノ七月朔日*(より)丑ノ四月晦日迄日数弐百九拾五日分小を引渡、弐拾三石五斗弐升ハ中川内膳正家来拾壱人、唐津城付舟并御詰米之儀ニ付唐津ニ残置候上下人数九拾八人、丑ノ九月五日夕*(より)同十月廿四日之朝迄日数四拾八日之御扶持方小を引渡、右何も一日壱人ニ付五合宛之積、銘々米請取手形有之

米弐百弐拾八石六斗六升四合       御扶持方
 拾壱石七斗五升壱合ハ
足軽八人遠所ニ罷有候ニ付、兵庫頭代*(より)納舛ニて渡来候、但立油代共

 内
  弐百拾六石九斗壱升三合ハ扶持方舛弐百四拾三石壱斗七升八合ニ而渡、但石ニ付壱斗弐升ツゝ延

 是ハ子丑両年御扶持方渡、内弐百四拾三石壱斗七升八合ハ、唐津有之御番所拾七ヶ所
 御番仕并堤川除御普請仕候足軽共人数三万弐千四百弐拾三人半之御扶持方、一日壱人ニ七合五勺ツゝ、九石八斗六升五合ハ、小麦原村ニ居申候足軽八人之御扶持方、人数三百六拾弐人半之分、一日壱人ニ弐升七合弐勺宛、遠所ニ罷有候故前々*(より)如此、壱石八斗八升六合ハ所々御番所立油三斗六升八合三勺之代ニ渡、内油弐斗弐升四合三勺ハ壱升ニ付米五升弐合替、油壱斗四升四合ハ壱升ニ付米五升かへ、銘々米請取、小帳ニ津田平左衛門・斉藤左源太うら判有之

米三拾五石四斗五升六合         樋之入用
   壱石三斗八升六合ハ 扶持方舛壱石五斗五升三合二而渡
 内 六石八斗ハ     納舛ニて渡、樋坂三拾四枚之代
   弐拾七石弐斗七升ハ 銀六百四拾六匁三分ニて渡
 是ハ子丑両年肥前唐津在々樋御普請仕候、入用之内銀六百四拾六匁三分ハ、釘*(金章)之鉄目五拾三貫八百弐拾九匁九分之代米、六石八斗ハ、長弐間弐尺はゝ壱尺三寸厚三寸五分之樋板三拾四枚之代、壱枚ニ付弐斗つゝ、壱石五斗五升三合ハ、樋大工百拾九人半之作料、一日壱人ニ壱升三合ツゝ、職人銀米請取手形銘々仕上、小帳ニ中川内膳正家来原田孫左衛門・沢儀左衛門判形有之

米七石六斗九升                 運賃
 是ハ唐津領子ノ納米売銀五百四拾七貫弐百弐匁壱分、大坂迄積上候舟貨ニ渡、船頭米請取手形ニ中川内膳正家来柴山惣右衛門・田近作兵衛うら判有之

 渡合三万弐千七拾弐石弐斗九升三合
    右之外小物成

一米八石六斗八升              樹木代納
 此銀弐百弐匁八分   但壱石ニ付弐拾三匁三分六リン余

一綿八貫六拾壱匁六分              納
 此銀五百七拾四匁四分 綿壱貫目ニ付七拾壱匁弐分五リンツゝ

一塩九拾八石四斗三合              納
 此銀四百四拾弐匁八分 但壱石ニ付四匁五分宛

一銀六貫六百三拾九匁八分          網役納
 銀合七貫八百五拾九匁八分

  右渡方
                高木甚兵衛
 銀七貫八百五拾九匁八分    朝岡久兵衛
                須田伝左衛門
                梶川七之丞

    以上

右之通、御勘定仕上ケ申候、若相違之儀御座候ハゝ、重而仕直し上ケ可申候、以上

    慶安三寅

     三月七日        中川内膳正(久盛)
    御勘定所


  (裏書)
「如表書之米銀納札并払方之手形を以、子年分御勘定帳書載、後日為覚目録之写致裏判進之候、若相違之儀候者、此御勘定可為反故候、以上
(割印)○大柴六兵衛ノ印
   寅                
     三月十三日    大柴六兵衛(直能)(印)
                下鴨庄五郎(興政)(印)
                杉田九郎兵衛(直昌)(印)
                佐野主馬(正周)(印)
                下嶋市兵衛(政実)(印)
                曽根源左衛門(吉次)(印)
                杉浦内蔵允(正友)(印)
             煩故不能加判 
                伊丹順斉(康勝)
                酒井紀伊守(忠吉)(印)

   中川内膳正殿

 ○紙継目ニ、大柴六兵衛・下嶋庄五郎・杉田九郎兵衛・佐野主馬・下嶋市兵衛ノ裏判アリ
中川家文書

神戸大学文学部日本史研究室編 臨川書店刊より