松浦拾風土記
巻一 一唐津大明神 松浦古事記参照 前略 宗次公直筆の文あり、紙の性朽ちて切れ切れに成りし故、文詞の続き定かならず。其外古き證書数多ありけれども、寺澤兵庫頭殿の家中の者、拝見して其儘に返さず紛失せり。 〇 〇 〇 一 波多氏親の寄進状有り、其文に曰く 奉寄進田地之事 一 唐津大明神之御所在肥前上松浦の西郷、庄崎之川向八丈田之下、田地三丈之事、四至堺書之作也。 右件の田地は親当知行無相違所也。然るに尊天長地久・当村安穏・家内長久・子孫繁昌・息災延命.為御油燈奉寄進処也、仍寄進状如件。 文安六年己巳正月十一曰 源 親 判 唐津大明神宮 文安六年は寶徳元年也、後花園院御宇、武将は従一位右大臣東山義政公の時なり。 〇 〇 〇 一 天文十二癸卯十一月吉日、田地寄進状 隈本右衛門督 判 高松寺快幸代也。高松寺は勸松院の寺号也、後奈良(平城)院御宇、武将は権大納言の時也。 〇 〇 〇 一 永禄十一己辰九月二十六日 日高甲斐守喜 判 右棟札当社務畑津右衛門太夫 正親町院御宇、武将義栄征夷大将軍に在ること二ケ月、同年五月に薨ず、依之假御殿建てし儘にし義昭の代に営みあり。 〇 〇 〇 一 神田能登守寄進状 其文に曰 奉寄進 唐津大明神 一刀 二尺三寸 備前 一馬 一疋 鹿毛 一 鏡 一面 右息五郎当病平癒の所也。 天正十年壬午五月三日 宮司坊 快辰楷 正親町院御宇、武将織田信長の代 神田能登守高 判 〇 〇 〇 一 慶長十五年庚戌八月吉日 右棟札 寺澤志摩守豊臣廣忠 惣奉行 並河長兵衛尉 小奉行 加茂 勝助 当宮司頼雅 〇 〇 〇 一 本地観世音堂の前に掛けたる墨跡は、文禄の頃鍋島信濃守殿に在りし、雲海と云ふ朝鮮人の筆なり。 慈 悲 靄 々 盈 天 地 廟 像 *(クサカンムリニ魏)々 冠 古 今 〇 〇 〇 一 鏡の銘 肥之前州松浦郡、当社大明神、神田五郎宗次以夢想、往来于海邊。一日有一筒寶筐而浮海上、光明照曜、遍満十方。宗次半驚怪之、半尊崇之。忝問。孝謙天皇下詔命、號唐津大明神、于時天平勝寶七年九月二十九日也。 故老所傳、一宮観世音化現、二宮慈氏尊降下也。爾来歴八百五十一星霜、霊験不減昔日、異哉、今也寺澤志州太守廣忠朝臣、令工鋳鐘、祭神妙、在感歎之余賑、烏明神始終祝太守遠大云々太守為尊神徳周。華鯨新鋳祝千秋、鐘聲亦與名聲大、遠近傾頭九々州。 慶長十年龍集乙巳二月 曰 前南禅承~誌 当宮司覚信房 〇 〇 〇 一 唐津宮縁記 夫以大極分而陰陽立、阡陌交而生於五行矣。清而軽者昇成天、陽而重者降成地。天地分而生於萬物、顯其中間。 人者萬物霊而與天地同骸也。気者元大極而與天地人一貫也。故天地之間、莫不充。借気則神而正者之理也。故以正理意願則無不通叶也。于此、当社唐津大明神者、往古神功皇后、泰平於三韓之時、西海蒼々、船路無限、当干時后宮向天而為給合掌也。我朝神国之域而正直之元也。故妙哉、奇哉、海上忽然波静而眼前在光輝。於此皇后傳之、自然得船路、平治於三韓也、仍給號唐津大明神、云々 二 唐津御城主 一 寺澤志摩守所務三十九年、十二萬三千石、文禄四年未年より寛永十酉年迄前志州大守休甫宗可大居士 一 寺澤兵庫頭志摩守二男所務二十五年、八萬三千石、寛永十一年戌年より正保四年丁亥年迄、十一月十八日逝去、孤嶺院白室宗不大居士 一 慶安元年戊子一ヶ年公料と成る 上使 水谷伊勢守 中河内膳正 一 大久保加賀守、慶安二年已丑播州明石より引越。先之通八萬三千石、入郡而酉年迄二十一年。翌戌年四月十九日逝去、本源院前加州大守日禪大居士 翌亥年石碑立、寺坊、日蓮宗、寿周坊、高二十石山田村にて新田高寄附、永代山田村より納。 一 大久保出羽守、加賀守の養子延寶元丑年入郡、同五年加賀守と改名、同六年総州佐倉に所替。 一 松平和泉守乗久.延寶六年入郡、上使細井金五郎・新上與惣右衛門、和泉守高七萬三千石、怡土郡之内にて壹萬石欠る貞享三丙寅年七月十七日逝去、源正院殿前泉州刺史大譽圓記英徳大居士 一 松平主水、貞享三丙寅年九月家督和泉守と改む。翌卯年入郡、元禄三庚午年九月五日逝去、愛光院殿前泉州太守快譽廓白撤心太居士 一 松平源次郎家督、元禄四辛未年二月志州鳥羽に替代、後左近将監と號す。出羽國山形に所替。 一 土井周防守、七萬石、同年六月三曰、上使戸川平左衛門・周防守名代土井図書頭城受取、元禄未年より所務二十三年、正徳三巳年五月二十五日逝去、諦玄院殿前防州廓譽高峯徳雄大居士 一 土井出雲守家督、大炊介登號、正徳四年より元文元年辰年迄所務二十三年、同年十二月二十四曰逝去、寶眞 院殿前大倉穂蓮社明譽勇仁宗和居士 一 土井大炊介、同姓備前守息養子、元文二年丁己四月十八日入部、所務八年、延享元甲子年七月十六日逝去、廰所神田村、諦了院前大倉令眞譽寂照堪然大居士 一 土井幾之助、同備前守息、則舎弟也、大炊頭と改む。延享二丑四月朔日入郡、所務十七年。寶暦十三年癸未五月総州古河に所替、治世の間種米半分與へらる。又米一萬三千俵與えられ、治世の間領分の大庄屋三人江戸へ出て、仁政に依って永く城主たらんことを祈請す。後京都所司代に任ぜらる。 三 岸嶽由来 波多家の先祖源の仕は六孫王経基の旗本に属し、藤原鈍素九州に攻入し時、武蔵守仕に追立てられ、終に岩松浦より黒崎へ引退す。仕は猶をも追撃し、下々一統或は討死し、或は自害し、惣大将純友も、播州にて生捕られ都に引かれけるに、其道中にて死せり。已に九州静りて後、多田備中大小の神祇に寄附奉納せん事を心に籠め、肥前國の主たらん事を願ふと雖も、再び九州に下向の隙なし。後に源の頼光肥前守に任し九州に下り給ひぬ。仕公は武州箕田に住す。其子箕田源治宛、其子綱は胎内に有って父に離れ、伯母聟渡邊左衛門尉に養育され、後十一才より頼光に仕へたり。其子松浦源太夫判官久は松浦郡を領せし事を爰に記す。 岸嶽は鬼住せしと云ひし処也。其事を尋るに、武内宿禰の後胤、七姓の其一、木角氏の末葉なり。往古より此山中に位して代々近郷を押領し、誰に仕るともなく、獨歩して下々に威を振ふ。聖賢の末にも悪賊出来る事天性なり。末々に至りて木角氏をこかくと訓し、下々押入強盗を集めて、神変の凶賊と成り、柴角に堕落せし者凡三千余人。其中に夫々の役名を立て、大名に肩を並べり。迫々群賊蜂起して、國主の手に及ばず、早々御勢を下さるべしと、度々の注進有りければ、月卿雲客評議区々なり。早く討手を下さずば、近國をなやまし大事に及ぶべきやも計ひ難し、誅戮せずんは有るべからずと、先其人を撰ばれけるに、往古伊吹山より、大江の賊徒退治の例にまかせ、当時の英勇渡邊太夫判官久こそ、父源吾別当綱にも劣らじ、其器に当れりとて、評定一決して、木角退治の事を命ぜらる。時日を移さず肥前國松浦郡にぞ向ひける。其勢三千余騎を引卒して、先、豊前・筑紫の間にも、此処・彼処に悪党多かりけるを誅戮して、山本村に着陣しければ、岸嶽の張本木角斥候を出して、其勢の多少を窺はしむ。寄手の人数、静に兵粮をつかひ、手配を定め、岸嶽の麓に押寄せ、上を見けるに、敵も兼て覚悟やしたりけん、乱杭逆茂木を透間なく引かけ、坂中に掻楯を置て、其かげに射手と覚敷者百騎許、鎧の袖を重て弓筈ならべ、鼻油を引て待掛けたり。此山に籠る処の賊徒千余騎と聞えしが、皆徒らに立勢にて騎馬は見へざりければ、楯たゝきたゝきて閧の声を上ると、斉しく山谷も崩る計りに、城中よりも閧を合せ、矢掛り近く成ければ、矢尻を揃へてさんざんに討掛る。寄手の先陣弐百余騎、些しもひるまず、楯を並べ或はかつき、喚き叫んで攻め上り、逆茂木一重忽ちに引破り、掻楯に押せたり。山の上にも弓を打捨、双方打物にぞなりにけり。賊徒は元来強勢のあぶれ者。寄手は弓馬の駈け引の達者。追登し追下し、火花を散して戦ふたり。然れ共未だ勝負も見へざりければ、其日の陣は引にけり。翌日早天に押寄せて、城を見上ぐれば人一人も見へず、城中ひっそりと鎮りたり。寄手は勇み進み、必定叶はずと思ひ、夜中に何方へか落行きつらん、何國迄も追討んと、掻楯崩れたる処迄押寄せしに、大木茂りて是れぞと思ふ道もなく、石壁を構へ、岩を抜き、大手には石の扉をしめて押寄る道もなかりけり。斯る処に、相図の大鼓を打つとひとしく、塀櫓より大木・大石を投げかけ投げかけ、雷の落るがごと く、寄手も暫しためろう処に、源太夫さいはいを振り立て、掛れ者共、賊徒の族何條の事かあらん、一方を打破り無二無三に、駆り立てよと、鐙踏張す下知しければ、士卒も是に気を励まし、えいえい1聲を出して、難なく一方を打破りければ、城中よりも潮のわくが如くに押出し、大将木角も大あらめの鐙を着し、長刀掻き込み顯はれ出て、源太夫久を目掛け、竪横に打て廻る。源太夫少しもをくれず、大太刀抜ひて走せ向ふ。大将の戦ひに何かは猶予すべき、我れも我れもと揉立て、終に本城に責人たり。賊徒共は度を失ひ、官軍に気を奪はれ、塀際迄押し詰められ、洩れて迯ぐべき道もなく、数千丈の谷底へ岩上に落ち重り、己れが太刀に貫かれ、微塵に成って死したりけり。源太夫久は木角と二人切結ひ戦ひしが、官軍早城中に責め入しと見るより、勢を励ましてはつしと打つ太刀を.木角受けはづして、左の肩先を切られければ、叶はざるとや思ひけん、泥障を相下りて逃げにけり。 源太夫眞しぐらに追詰め、松浦川の邊りにて終に木角を討ちとりたり。今に其処を鬼塚と名付け、首は都に登せ骸骨は其処に埋めたり。夫れより生捕りを揃へ城中に入りけるに、童女の泣聲さも夥敷く聞えければ.是れは如何なる者共か妻子かと尋ねしに、一人の女涙を止あ云ひけるは、我々は賊徒共の妻子にあらず、皆夫婦の中を引き離され、或は親子兄弟の恩愛をも厭はす、情けなくもかどわかされ、此山中に鬼神住まして、様々の所為を成すと聞かし、此所に連れ来って酒宴を設け、其の相手となされ一日千秋の思ひを成し、悲しき月日を送りし也。 あわれ神佛の御加護にて、かゝる仕業の洩れ聞へ、在所在所に返し給へと祈らぬ日もなく、今日只今迄はかなき命をながらへて、かゝる時節に逢ふ事の有難さよ、夫は何國の誰、是れは彼処の嫁、或は娘なりとぞさけぴ、御慈悲に親子兄弟の対面をさせ給へと、一同に手を合せ願ふにぞ、並み居たる猛き武士も、鎧の袖をぞ絞りける。 夫れより直に木角が首と、生捕りの内ち張本の賊三人を都に登せ、其外百三人の生捕共不残死刑に行ひて、都に凱陣しければ、凶賊退治の功に依って、肥前の國を鎮守し、松浦郡を永領の御感状を賜って、久安三丙丑年松浦へ下りて肥前國を治めける。此の源太夫判官の神霊を今宮大明神と尊崇せり。 四 松浦黨系図 第二巻参照 五 和多田村観世音 世戸左衛門佐の守護本尊観世音菩薩は、今和多田村庄屋屋敷に有り。此観世音の作物と云ふ事を知って盗み取り、京都の佛町に持ち行きしに、佛師佛作と云ふ事を知って高金にて買ひ取り奉り、太平勝持寺の内に売り置きたり。頃は後光明院の御宇、承應三甲午年也。菴室の僧眠を催ふし佛檀の邊に居たりしに、不思儀成る哉、此の観世音告げて宣く、肥前國の松浦郡和多田村に安置せし佛也。盗賊の為めに爰に来れり。今又松浦郡に戻らん事を願ふと宣ひて、夢は覚めければ、此僧身の毛たって覚へたり。然れ共我修行の不足故に、心迷ひて夢は見みし物ならんと其儘に居けるに、翌夜も又告げ有り、佛師にも同じく告げ拾ふ。佛師は作佛と見奉りし故に、思ふ様誠に賊の持ち来りし御佛と買ひ取りて、又高金に売り奉り、其罪不軽、佛像を彫刻したる余恵にて世を渡る身に有間敷事なりと、太平勝持寺の内の庵室に至りて、しかじかの物語りしければ、庵主云ひけるは、我れも此夢想を得たりと。故に代金を返して、御佛を抱き参らせ我家に戻りぬ。和多田村心頭夢想を得、左衛門佐の末葉其時に有りけるが、同じ夢想有り、六月十七曰必ず戻るべし、水嶋の邊に出て迎ふべしと、精敷く告げにければ、兼々云ひける去年失せさせ給ひ心掛り成りしに、此の御告げを蒙る事の有難さよと、其の所の者に語りければ、彼れは乱心したるべしなりと云ふて笑ひ。又其の事心頭聞くより與に来り、しかじかの告げを蒙りたり、さすれば双方替らぬ御霊夢なり。人は兎も云へ、六月十七日を待って迎ひ奉るべしと約を成して、其日を待ち受け、唯二人世上に忍びて水嶋の方なる洲崎に出て、船や来ると待ち居ひける。程なく一艘の船河口に帆を下げて入津しけり。向ふの船より船頭と覚敷者、苫を上げて云ひけるは、夫れに二人もの待ち給ふは、若し和多田村の人にてはなきやと、二人は其の尋ねらるは仔細もや候はんと云ひければ、和多田村と云ふ処の人にて候はゞ用事有り迚て、端舟を卸して其二人の者を元船に乗せ参らせたり。夫れに付不思議成る事有り、夜前夢の内に、正しく此観世音我が枕元に立ち給ひ、明十七日は唐津に潜着岸すべし。和多田村と云ふ処の者出迎ふべし、彼の者に渡すぺし、此船に仮りに乗ると雖も是れ因縁深き故也。商売繁昌・船中安全を守るべしと宣ふと、夢見て覚めたりと語るければ、二人を始め船頭も有難泪を流しぬ。夫れより一礼を述べて宿所に帰り、運賃を持参して又船に行きけれども、運賃を取らず是非に断るにより、其儘戻りぬ。此訳を聞くより所の者取り寄り尊崇し奉りけるなり。 六 源太夫判官の石碑 お久様と云ふ石塔千々賀村の内甘木谷にあり。波多家の時此邊の松浦黨、渡邊久の拝塔の為めに碑を建てし処也。石志清水の舘より布を引き道作をせし処也。真言宗千々賀山・甘木寺の境内也。波多氏の由緒ある大寺なりしが、波多家落去巳後一族散々に成りければ、寺も破壊して山伏に替派し、甘木坊と號す、其跡今に相続せり。 七 西行法師飛上り石 西行法師飛上り石とて河原橋の下に在り。川岸養母田の方に有之、何時頃より云ひ傳へたるにや、此説異説なるぺし。往古より云ひ傳へし事なれば、爰に記し侍りぬ。 八 皷か瀧 山本組山田村に有り西行法師の歌に、昔に開く皷か瀧に来て見ればたゞ山川の鳴るにぞ有りける 九 心月寺持田地の事 往古は郷方物書すくなかりしにや、検地の時、心月寺住寺を頼み、水帳を書きし也。其節志州廣忠公、庄屋に心月寺を呼出され話の上土地の位下げ、持地に送られし也。 十 心月寺什物 波多三河守前室、法名心月瑞圓大姉、墓所本堂本尊の下也。同寺什物、瑞圓大姉之琵琶、夢中飛入之観世音、瑞圓大姉の懐劔、瑞圓大姉の操珠数、波多相模守の鎧、天笠傳来苦行の釈迦 十一 秀吉公 名護屋御在陣の節の御定 波多三河守へ五奉行より出でたる書面あり、其文に 定 往還の輩一宿木賃の事、一人一文、馬一疋二文宛取りの宿を備へ置く可き事。 糠・藁・薪・草履、以下一切不出事。 一 町人百姓に対し、非分を於申掛は可不被聴之事。 右條々於遠背之族有之は、搦取可被加誅罰候、若し見隠し、聞隠すに於ては、以後被聞召共、其処にて町人百姓、共に可被加成敗候。 文禄元年正月 十二 鎮西八郎為朝造立の石碑 鎮西八郎為朝心在って、大伴狭手彦石碑を黒岩村醫王寺の後山の上に建つ。醫王寺の開基は、道元大師の弟子無菩和尚なり。又筑前上座郡小石村に八郎為朝、狭手彦の父金村の石碑を建つ、此寺も無菩の開基なり。其石碑在る所に.無菩此両寺院を建られし事不思儀なり。 此趣に依って按するに狭手彦は数多の乱を治めて其勇いちしるし。實に智仁兼備の良将なれば、為朝も動功を慕ひたるなるべし。 十三 見帰りの瀧 伊岐佐村より帰る瀧道難所也絶景の瀧なり。瀧の道筋に作物の愛染明王、また三光大権現の御社有り。何れも八並の守護の神佛也。 十四 伊岐佐村古戦場 建武二乙亥年足利尊氏、九州に没落の時、筑前國大宮司氏一番に附属して城内に請し、九州の諸士に檄文を廻しけるに、岸嶽の城主松浦源三郎繁、考るに、天地の間大君の地にあらずと云ふことなし、人として天恩を知らずんば有る可からずと心を決して、弓引て叶はすば城を枕に討死すべしと、味方の色を見せりけり。一統の中よりも下松浦黨追々走せ集り、尊氏に相随ふ。其中より尊氏に告げけるは、松浦繁は菊地に力を合せ、一人内通するよし、小身と雖も松浦黨の長也。是れも随へ給はずば、後必ず過ち有らんと訴ふ。尊氏原田山城守をして味方に付けんとすれども、更に随ふ気色見へざれば、其旨尊氏の聞に達しぬ。尊氏も甚だ悪みて、諸士へ見せしめの為め捨て置き難し、誰か有る踏潰してくれん物をと、四方を急度見しければ、尊氏の甥満輔進み出て、厭はくは我をして向はしめ給へと望みけるに、尊氏悦びて其事を許せり。直に軍勢を進めて、大川端伊岐佐山に陣を張る。岸嶽にも素より思ひ設けし事なれば、手賦を定めて出張す。最初失合せをして、後ちは両陣入り乱れ、上よ下よと戦ひけるが、巳に夕陽西に傾きければ双方陣を引き、明朝未明より押寄せんと夜の明るを待ければ、松浦黨の中より和睦を進め、味方させんと尊氏に望みければ.許容有ってさまざまと説ひて降参せしむ、其一日の戦ひ双方討死七十五人なり。其の場所の跡を陣の山と云ひ、又麓の田原を軍場と云ひ、今に所の小名なり。 十五 道祖神之事 往古、筑前國名島の商人佐嘉領に行きしに.道の邊りに社有りければ、詣ひて此度の商ひ利潤を得させ玉へと立願をして通りぬ。果して其所より先々商ひ仕合せよかりしに、帰りさに此社の前を通りける時、此社壇に商ひの仕合せ、よかれがしと祈りを籠むれども、銘々の仕合次第也。神の力にても及ばずと、拜礼もせず其処を通りしに、此川端にて狂気の如くなり、立願の初めより経る迄の事をのゝしり、狂ひ死たりける也。其後此村の者に託して宣はく、我れは是れ則ち道祖の神なり、汝等仔細を知らざるに、処をさはがし、大悪賊を亡して、世に善を求めさせしむ。今より此処の道の邊にて不時の難を救ふべしと云ひ畢り、前後も知らず伏しけるに、暫くして夢の覚めるが如くにて、又元の平気に戻りぬ。此故に其場所に道祖の神を祭りて、さいの元と云ふ。八並武蔵守の守護佛本尊なり。 十六 梶山村緑山並鯨岩 朝鮮渡来の緑丸と云ふ鷹、其海より来りしを百合若大臣此山にて取り得られしと云ふ。此鷹無双の逸物なりとかや、此近邊に鷹取村と云ふ処あり、又筑前國夜酒郡上鷹場村の内に、緑松と云ふ木あり、久光村の内なり、其隣れる処に、鷹場・鷹揚と云ふ処あり、世俗此所より緑丸前羽を梶山村にて取り得しと云へり。 又此所に梶山上総介の墓あり、其形鯨に似て大なる巌なり、其邊に逆さま川と云ふ所あり、是の鯨岩連歌師宗祇、九州行脚の時、発句に依て名付しなり。 十七 字津瀬川 古跡なり中将姫の父豊成大臣九州に流され、配所のつれづれに此所に来り、其の身の姿水鏡に移して、是れを書き故郷に送れり。 十八 清水伊豆守守護佛 清水観世音と申奉る此所を清水の館と云ふなり。 十九 玉之橋 田中村に有り、往古は大川薗より、此川筋橋の下を流る、志州公堀り替へられ、今の所に成る也。 二十 龍谷山瑞岸寺 寺號を瑞岸寺と云ふ、禪宗也。徳須恵村に有り、本尊観世音、牧渓の作佛と云ひ傳ふ、波多三河守代の大寺なり。 二十一 鎌倉嶽 最明寺時頼入道諸國修行の時此上に安座ましまして諸方を遠見し玉ひしは是れ竹有村の内也最明寺諸國遍歴の事跡正しからぬにや。 二十二 馬渡池 徳居村にあり、今は少しの池なり、馬渡信濃守館跡なり。 二十三 太刀淵 同村に有り、岸嶽御祈祷の為め、太刀を集め檀を飾りし時、此川にて悉く清め洗ひしなり。 二十四 佐々木美濃之介屋敷跡 稗田村の内に有り、安藝坂と云ふも同所也。 二十五 奥之坊 同村にあり、岸嶽城始りよりの祈祷所也。中津町・鐵砲町・隠水・蓮華院・極楽寺・蓮御寺・厩別当・蓮池・厨坂・皆稗田村の内に有り。 二十六 常安寺 岸嶽村に有り禪宗なり。此寺今井新左衛門尉の(法名常安居士)の開基也。 二十七 岸山村の古跡 大門口橋・馬場・遊女町の跡、岸山の裾に有り。城山一・二・三曲輪・腰曲輪・外曲輪・茶園の大原、八町の所侍屋敷跡.古城外目録に出づ。此東に当り少し下り、水ノ手と云ふ所出水有り。城山より南に当り米ノ山、往古大敵を引き受籠城の時、数日囲みを解かず水ノ手を止めたり、此山にて白米を以て余計の水を遣ふ体に見せし所也。 是れを米ノ山と云ふ。麓の川をモスソ川と云ふ。里に下りて車川と云ふ、本城にも水石二つ残れり、所々石垣たしかなり。一の堀切迄、長さ三十三町なり、二の丸長さ四町、本丸橋一町半、東の方三左衛門丸、追手佐里の方、搦手岸山の方なり、侍屋敷所々にあり。 長崎奉行牛込仲左衛門、徳居通りの時、山彦村弦掛け岩を見て詠める 千代萬栄ゆく里は松浦なる、亀か巌の高根しらしも と書て、扇子を山田村庄屋仁左衛門、道案内に出でけるに取らせける。是れより此の岩を亀か巌と名付けらる。 二十八 盛家松 盛家松は立川村に有り、則ち墓所也。初の名は犬塚弾正忠鎮、後播磨守盛家と名乗る、阿部宗任の末葉にて、龍造寺山城守隆信の旗下也。足利尊氏九州に没落の時、伊岐佐村にて戦ひ、軍さ破れ此所にて自害す。四五町上に経石塚有り、盛家菩提の為めに、類葉のもの執行せし所也。 二十九 太刀洗川 立川村に有り、少しの出水也。此所は日在城の戦ひに太刀をひやせし所なり。 三十 烏帽子嶽 同村の内に有り、盛家軍戦ひ疲れ討死と極めて、烏帽子を此上に脱ぎ捨て、甲冑を掛けたる所也。最期の軍は花やかにして討死すべしと、再び烏帽子を戴かずして打て出て、敵数輩撃ち取り、後ちに自害す。龍造寺の旗下の英雄にて肩を並ぶる人なし。 三十一 寶亀山建福寺 寺號を建福寺と云ふ、大川野今御茶屋敷也。往古眞言宗にて、日在城祈祷所也。霊々たる寺成りしに、日在落去巳後、自然と寺崩れ、其後田代可休と云ふ者の栖家と成りしに、可休無實の罪にて長野の原にて御法度に被仰付、夫れより庄屋宅となる。寺澤志摩守総庄屋取立の節、初めて平山村庄屋十五右衛門に被下、其後息兵庫頭の代に御茶屋となり、諸山の修験者等に祈祷を仰せて地方を持ち替へ、定奉行相詰めて差図有り、改めて普請成就せり。 三十二 駒鳴峠 駒鳴村に駒石と云ふ所有り、坂半也。石の形ち駒に似て夜毎に聲を出しける故、往来の者甚だ恐れ、此故に石工を以て胸のあたりを割れり、其後ち件の駒石鳴かず、故に古人より名石と云ひ傳へぬ。其の昔は此山道もなく深樹生茂りたり。大川野四太郎遊と云ふ人、此山を切通し往還と成す、依って此山を駒鳴山と云ふ。或る説に、鎮西八郎為朝黒髪山の悪蛇退治の時、龍骨を馬に負はして此坂を越へしに、其馬重きをかなしみ、泪を流し鳴くと云ふ、是は異説か。 三十三 弦掛け岩 大川野眉山より出し悪牛退治の時、渡邊源太夫此所にて弓弦を掛けし所なり、委しくは牛祭りの記に出づ。 三十四 田島大明神 松浦古事記参照 三十五 佐用姫神社 松浦古事記参照 三十六 芝居根元 太閤秀吉公、名護尾御在陣の節、筑後國久留米に山三郎と云ふ者夫婦、都より来り物まねをし、様々の戯れ事を興して、一銭の合力を得けるを、曾呂利新左衛門と云ふ者見物して、太閣秀吉公の台聴に達しければ、則ち此者共を呼せられ名護屋の御城に来りぬ。此山三郎と云ふ者、難波の揚屋にて、若者をもてなし、其頭の太夫に難波江と云ふ、傾城にいつとなく馴れ合ひ、大阪を出奔せり。夫れよりさせる渡世もなく、人の興に乗じける節を業として、緒國を廻り、忝くも太閤秀吉公の御前に出て、一日興を催ふし、御機嫌斜ならず、在陣の大小名上下小者に至る迄、廣野にて見物す。芝原に畳を下し又毛氈を鋪いて群集し、下賤の者どもは芝原に並び居りて見物す。此の時芝の上に並居りて、其藝を見物せしにより芝居とは名付けたり。又子踊りを興しける時、鳥の*の鞘をも下され、天神楽の拍子を興しける時、取敢へず猿示の幣を下されたり。是れより人集めの太皷をあげて、此品もさし出し、御免芝居と號して、遠近に響かせり。是れ今の梵天なり。夫れより御帰陣の後、京都にて御覧を蒙り、名古屋山三と看板を出して、当世芝居をぞしける。此者四條河原にて其藝をせし故.河原物と云ひならはし、当御代の今に至るまで、繁昌なり。後江戸にては中村勘三郎と云ふ者、願ひを出し、是れ又繁昌し、又夫れより別れて市村羽左衛門と云ふ者出来、堺町の両芝居とはなりぬ。其後段々諸國津々浦々迄、枝葉栄へたり。 又浄瑠璃は、秀吉公の侍女阿通と云ふ者、牛若丸と、矢作の長者が娘浄瑠璃姫との事を編みて書となし、十三段とす、其後京都の瀧野検校と云ふもの、此十三段に節をつけて語り初めたり、是れより浄瑠璃の名あり。 三十七 醫王山東光寺薬師尊縁起 相賀浦薬師尊には往昔千原か浦のこなた成る、淵の上に立たせ玉ふ、御丈二尺にして弘法大師の佛作也。此寺醫王山臨済宗東光寺と號す、今相賀浦に移らせ給ふ。その古事を尋ね奉るに、承安二辰の年洪水にて淵上山崩れ落ち、此の時薬師尊海中に入り玉ふ。其後所々尋ね奉りけれども更に其尊像見へさせ玉はず、三年を経て同四甲午年、海中に夜な夜な光りを顯はし給ふ。見る人恐れて其近くに寄る事能はず、只評議区々のみなり。或る時染衣の旅僧何れより来るとも不知、此の浦に止宿して、其海中の光れる事を聞いて云ひけるは、まさしく是れは佛作の霊作成るべし、かゝる例し世に間々有る事也。必ず恐るまじとて其海邊に出て、読経しけるに弥増し光り日中の如し、自然と浪静かに成ると覚へしに、則薬師の尊像顯れ給ふ。夫れより夜の明るを待ちて、浦人共海中に飛び入りて此像を捧げ奉りあがれり。則ち其所の領主へ訴へて、小堂をしつらひ安置し奉りし也。其の由淵の上村の者ども聞き付け、尊像を迎ひ奉らんと望みけれ共、相賀浦より許さゞりき。猶此尊像は、弘法大師天暦五丙寅年より頻りに入唐の志を発し給ふ。折しも佛尊に祈り給ふには何卒ぞ我れに離塵の大善法を得させ玉はゞ、帰帆の後ち一異木を以て、七体の尊像を作り奉らんと、ふかく誓はせ給ふ。故に大同元年帰朝し玉ひ、阿尊本不生の善を得玉ひて、則帰朝の後作り奉られし七体の中の一体なり。其の余の六体逢来りて摂州有馬の陽山・讃州小濱、因州鳥取、肥後法華嶽、筑州竪粕、今怡土松浦の境淵の上に安置し奉られしなり。承安前後の頃は、大府草野氏、岸嶽波多氏、二重嶽原田氏、皆縁者たりといへども、取ひ合ひ度々にて、自然と穢土と成るける故にや、此相賀村に移り玉ひしより、今に至るまで霊験あらたなる事、算へがたしと云ひ傳はれり。縁起にも不思儀奇妙の事ども書載せ有けるを、猶又是れも諸人に勧善懲悪の為書き載せ侍りぬ。 文徳帝の御宇、仁寿三癸酉年住職の盛巌和尚、熱病にて露の命もはかなく消んと思ふ折から、薬師尊白衣の老翁と化し玉ひて、脳み臥したる床のもとに来らせ給ひて、奇妙の薬酒を與え玉ひければ、身心とも忽ち快くなれり。其老翁はいかなる人とも知れざりければ、薬師尊の助けにやあらんと、拝し見るに薬を與へ玉ふ時の茶碗、御手に持居玉ひければ、直に此尊像の御助けに疑ふ事なしとて、泪を流し、拝謝し侍りぬ。其夜又霊夢を感得せられよし、古記に見へ侍りぬ。 天正十六年戊子正月三日、大鐘の龍頭より火出、本堂の棟木よりも一時火出、諸堂悉く焼失せり。諸人曰く奇妙成る有難き鐘成るを、不浄の穢ある故、守護神の咎めもやと風聞しけり。又薬師尊者誰しも出しも奉らずして自分出て玉ひ、石上に立ち光四方を照らし玉ひね。 慶長元丙申の年二月中旬、寺澤志州公妙なる鐘なるよし聞き召され、唐津の城内に取り寄せ、時の鐘とし玉へば忽ち聲止まりければ、薬師尊の御心に叶はざるにやと、又東光寺に送り返し奉りける由。 文徳四乙未年八月下旬豊後國、直川宗清といえる人、癩病を祈りけるに、白片出て忽ち平癒しければ、有難き思ひをなし、神田村南昌庵主に頼み、彩色し奉りぬ。後光巌院帝の御宇、延文三戊戌年八月八日、大同元年丙戌より五百五十二年に当って開扉し奉りぬ。其復貞享丁卯年二月八日より三月八日迄、開帳有りと古記に出たり。延文三年より貞享四年迄三百二十八年に成るなり。大同元年より寛改元己酉年迄凡千三百年に成る也。 三十八 湊浦潮音寺 如意山潮音寺観世菩薩は安元元乙未年、小松内大臣重盛の願望にて難波の浦より送り奉られし霊像也。是則ち重盛公世の盛衰を観して、同年六月三千両の小金を育て、玉ケ鳥に送られぬ。此内大臣は世挙げて本朝の聖賢と称せし人也。此観世音の一佛、此浦に上らせられし由来を尋ね奉るに、其頃此沖潮の鳴る事数々にして、金色の光りを放ち、其近邊に妙なる香気止む時なし。此浦の漁夫ども奇異の思ひをなし、同夜評定区々なり。爰に萬吾萬六兄弟の漁夫あり、出るにも入るにも、兄弟連れにて釣をたれ、網を卸ろして世を渡りけるが、此兄弟の者は生得律儀にして、島浦には稀なる者共なり。二人囲炉裏の前に有って、四方山の物語りの席に、弟の萬六が云ひけるは、斯く兄弟心を同ふして漁事をして世を渡りけれども、家乏しき事外にくらべる所なし。たまたま先祖を祭るといへども、漁事の價の残りを以て漸く香花を拵るのみなり。願くはいかにもして渡世を替へ、一生を送らんものをと云ひければ、兄の萬吾が云ひけるは、生ある魚類を殺生して世を渡る事を恐るは最も成るべし、されども父母の仕業を受け次ぎ、兄弟も其風味にて育ちしなれば、其業を改むるは不孝とや云はん、いざ潮の来りければ網せんとて、又兄弟打連れ立てぞ出でにけり。然るに此頃潮の鳴る音甚しく、金色の光り顯はれし事不思儀なり。何れにせよ、網を下し見ばやと、則ち下し見けるに魚一つもとまらず、此尊像を忝くも賤の網にかゝらせ玉ひければ、兄弟は驚き舟端にあげ奉り、禮拝尊崇して直に賤の草家に請し奉りければ、近浦の漁夫、遠近の親類、奇異の思ひを成して兄弟が家に群集して、彼の尊を拝しけり。近浦の者共兄弟に云ひけるは、早く小堂を建て、此尊像を安置すべしと。されども兄弟は家貧しく、朝暮の糧さへも絶へ間がちなる住居なれば、其のいとなみ叶ふべきにあらざれば、深く是れを歎き悲み、是非なく貝鱗の穢に交へ安置し奉りけるを、近浦打寄りて小堂を建立して、此尊像を移し奉りぬ。其後霊像示現し給ひけるは此穢を精地にかへすべきに依って、三日之内に炎上の変有るぺし、用心覚悟すべしとや。果して彼小堂も類焼あり、尊像は火煙の中より飛出で玉ひ、少しも損じさせ玉はず、楠の伐株に乗り玉ひつるこそ奇妙なり。又寛永四丙丑年蘭濱と云ふ沙門来朝す。此僧に随身せし恵教法師、西海に行脚の時此堂に夜泊して、此尊像を拝み寺號を尋けるに、守奉る僧もなく、元より観世堂と称したる計りなれば、其由を語りければ、恵教法師筆を取って、如意山潮音寺と、此尊像の因縁に依って、壁面に書付て立てぬ。恵教和尚の師蘭濱は大覚禪師と號して、鎌倉建長寺の開山なり。其後この庵寺號を改め、建長寺の末山と成らん事を望みけれども、平民の祈願にて送り奉りし尊像なれば成就しがたく、此事空しく止りぬ。重盛公此尊像の内に、金子百両宛を御厨子料として封じ込め置れし也。夫れり星霜隔りて、應永四甲戌年、洛陽に再興有りしに佛像師、金子を抜き取りしとかや。此者狂乱して洛中洛外を狂ひ廻り、金銀を遣ふ事土砂の如く、堂上に登りて、御供をつかみ喰ひ、経文を喰ひさくなど、其近邊にて制しかね、終に将軍義満公の上聞に達しければ、直に召捕られ獄に下されたり。此観世音は肥前國湊浦に下り給ひぬ。其百両の金子には、小松内大臣重盛公の法華経一部を書写して納奉られし、大願成就の尊像なり。今此霊像に歩みを運ぶ輩はいかなる願望たりとも叶はずと云ふ事なく、異現当来の光明、頭上に耀く、奇妙の霊にておはします。 三十九 ヒバカリの茶碗 高麗人の焼物師、日本に来りしを、太閤秀吉公日本人の名をかたどり太郎冠者・小次郎冠者・藤平冠者と云ひ焼物師の祖として所々に置れ、其名を其所の地名とせり。高麗より作り持ち来りし焼物を、日本の火にかけしにより、其焼物の名を火計りと名付、又唐津ともいへり。 四十 平判官康頼の詠歌 治承元年酉六月、俊寛僧都・丹波少将成経・平判官康頼・薩州配流の時、波戸崎にて都の方をふりかへりて康頼の詠める歌 かくばかり我か身の程は忘れても 猶こひしきは都なりけり 又薩州の配処にて 薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告けよ八重の潮風 四十一 岩野山王権現 打上組岩野村産土神は山王権現の鎮座也。此村元は大久保村と云ふ。慶安二己丑年、播州明石より大久保加賀守忠秀、本高八萬三千石より唐津へ御入部、己酉年迄二十一年、嫡男出羽守忠朝御家督、延寶六年戊午年総州佐倉へ御所替へ有り。此大久保氏唐津御在城の時、山王権現の宮は無之哉と御尋と成候所、此岩野村に有、又村名も大久保村と申候得共、殿の御名字を禪り近頃替候よし及言上候所、不思儀に被思召、右宮の舊記御尋被成候得共、何つの頃勧請いたし候哉不詳。併し大久保村に殿の産神山王権現座す事、不思儀に思召、社を御造被成、尚追々御寄進も可有之所、御所替にて普請止む。其時の棟札今に存せり。 四十二 小川島鯨組 小川島は唐津より七里戌亥に有る小島なり。往古は無人島にて、島中に池あり、竹林の中に大牛住みて人を寄せざるよし、其牛死して後池も埋み、追々人住み島となり、鯨組相続にて繁昌なり。享和年中民家百二十戸に及ぶ。寺澤公唐津城御受取りの頃、鯨組思召立玉へども漁師なき故、紀州熊野浦へ漁夫雇に遣されし御状、呼子浦へ所持の者あり。其後、兵庫頭・加賀守末々に成りて、其業を成す者諸方より来り、別て大村領松島組の大祖助次郎と云ふ者、指南致す。初め小舟八艘にて突き初めにて、其後舟も追々増しチロリと云ふ小網出来、無程今の大網と成り、十五人乗りの勢子船三十隻程、双海船四結びにて、大船は八艘、網は用心物共に二百反程と云ふ。八十九尋四方也。常に納屋中船とも、八百人の人入込み有り。鯨取り候時は、又三四百人も増し、以上組出し迄、正銀凡そ五百貫目位、仕込入用也。 四十三 西行法師腰掛石 入野村にあり。筑前続風土記に、西行法師に筑前國、鏡の御崎より都に帰られんと、自讃の記にありと書く。 然れども筑前より入込の國々、諸所、西行法師の舊跡多し。西行の詠歌に 松浦潟これより西に山もなし、月の入野やかきり成るらん 四十四 木の葉石 針木浦の上に有り。西行此所に来り木の葉打敷石上に腰をかけ、遠望されたる所と云へり。則石の中に様々の木の葉の形あり、其石を割りとれば、石の中何処までも木の葉裏表までそれぞれ不思議なる石なり。 四十五 日高の塔 入野村にあり日高大隅守の墓所、入野にて討死。 四十六 波多三河守墓 三河守墓所入野村にあり。是れ残黨所々に住して村役となり、或は山伏と成るより、一族並に旗本の面々、大翁了徹の日影をうつせし石碑なり、本墓は御厨にあり。 四十七 星賀和泉守墓 星賀を領したる人なり。石垣高さ一尺五寸、方六尺、碑はなし宗牧の地と云ふ所なり。 四十八 入野の眺望 入野村は五島対馬の外、西國の端なり、平戸の島と隣れり。源の顯國朝臣、宇佐・椎香・諸々の所より高麗の境を見んとて、此の入野村まで来りて、かくはよめり。 和田の原高麗路はるかに見渡せば、 雲と波とはひとつなりけり 刑部卿頼輔 秋風も入野の空も鐘の音も、 哀れは西に限るなりけり 細川幽齋 道遠く入野の末のつほ*、 春のかたみに摘みて帰らん 四十九 中浦半太郎の墓 中浦村に有り同村を領したる人なり。 五十 熊崎照の墓 中浦村にあり、木場村を領したる人なり。大友宗麟に従ひ筑前國隈崎に居住す。宗麟切支丹を行ひけるを見限りて身退き、もと松浦黨故、岸嶽に来りて木場の城に住す。 五十一 順慶松 筒井村にあり、筒井順慶此処の産れと云えり。俗名を丈之助と云ふ、才智藝能学ぶに窮めずと云ふことなく、其家に傳来の一軸有りけるを倩(ツラツラ)考ふるに、望みを起し、十四歳の時父に云ひけるは、我家まづしくとも、筒井山城守の後胤なり、先祖の武功は厚し、夫より後愚弱にして中頃家を興すものなく、今は土民耕作の境に落ち入たり、希くば暫しの暇を給らば、都に登り家名を興し、孝節を備へ奉りらんと、頻りに望みければ、両親此事を免ぜり。十八才にして此の筒井村を出て、其時植置たる松なりとぞ、廻り一丈に及べり。此人出世の後大和の國郡山の城主と成り、十八萬石を領せり、此事は慥か成る事と見聞せず。されども豊臣秀吉公の取立給ひし大名多く、石田・福島・加藤・堀尾・小西・蜂須賀等、其外数多りしが、順慶も筒井村の産なるや別に實否を糺すべし。順慶松と云ひ傳へたるも不思儀なり、但し筒井村を領したる人か。 五十二 鶴田太郎左衛門尉の墓所 筒井村に鶴田太郎左衛門の墓所あり。松浦黨と雖も訳有って、波多家落去の後、太閤秀吉公より御取立、松浦残黨押へとして條後の城に置れけるなり。其家老の松尾左近太夫の墓も同所に有り、則ち其所を松野尾と云ふ。 五十三 土佐殿松 筒井村に土佐殿松とてあり、大なる松道の側に立つ、如何なる人とも知れず、追て尋ぬべし。 五十四 佐用姫屋鋪跡と云ふ事 佐用姫の屋敷跡とて、唐の川村の間にあり。佐用姫は九州無双の美姓にて、玉津島大明神の御託宣に依って神社と崇む。日本紀・八雲御抄等に佐用姫は篠原長者の娘とあり、考ふるに松浦部の中なれば、佐嘉領の境にある篠原を本説とすべし。笹原村の邊りに長者原と云ふ所有り、是笹原長者の屋敷跡と云ひ傳ふ。此近邊に名残の坂と云ふ所あり、狭手彦入唐の時、篠原長者の一門、狭手彦見送りの盃をせし所也。其古へは名残りの酒と云ひしとかや、慥かなる狭手彦の舊跡なり。唐の川は世俗の異説なるぺし。 五十五 鎮西八郎為朝の舊跡 石碑は湊の部に出でたり 鎮西八郎為朝志気村に居城し、九州二島を鎮し、此所に御都築関と云ふ古跡有り、是れは天智天皇筑紫の都の時の関所也。其後鎮西八郎為朝の居城の時も、此処に関を置きたり、下馬の大原・馬屋のもと・失竹の林など云ふ所あり、足れ皆為朝の舊跡也。 五十六 乱れ橋の鴬 乱れ橋は古河村の上にあり、少の小橋なり。此所にて鴬をとりて、豊臣秀吉公に差上げしに、珍しき鳥にて能く囀けりしと、又毛色に三光の模様有りしなり。 今も此所鴬多し、余所の鳥より掛け目一匁宛重しと云ふ。川西より大川原に越る道に、草つみ峠と云ふ所あり、難所なり、此道筋二十丁計り人家なし。 五十七 池の峠領地分けの事 池の峠は伊萬里・波多領の境なり、昔し双方より出合の所、境の関を建つぺしと、双方に家臣を二人宛入れ替置き、鶏の聲を相図に出立せり。岸嶽の鶏霄に鳴く、是れに依って乗出せしに、伊萬里白野と云ふ所に至りければ、漸く松浦兵部太夫に出合たり。双方大笑ひにて峠の下迄戻り、互に盃を出し数盃を傾け、辨当の栗の樹の器を立て置きしに、其に根を生じぬ。今に其所を出合野と云ふ。栗の木多し。去れども實なし。其後兵庫頭落去以後領内と成り、共時齋藤源太・峠の尾崎に境を立て置かれし也。 五十八 椎峯焼物 椎峯山は、往古文禄慶長の頃、太閤秀吉公佐志山にて焼物を作らせ、其後稗田山にて焼き、又川原村にて焼き、元和年中椎の峯に来り、子孫代々相続しける也。毎年四月八日先祖居住の初日に当るを以て、高麗祭りと云ふ事有り、供物は糯・粳米を等分に和して、ヒき荒水篩(スヰノウ)にて篩い、厚さ三四分にて、能くむし、後小豆を煮てすりつぶし、物の上に付る、但し塩少しも不入、鐵庖丁を不用、竹べらにて鱗形に切り、味噌汁につけ、手一束にして此両品を供す。客人にも出す。是れを高麗餅と云ふや。 五十九 木場城 永仁三年、九月探題北條兼時の目代として、松浦播磨守を呼出し、筑前國隈崎の城に居を置たり。其後代々熊崎の城主たりし。大友宗麟の時に当りて、熊崎駿河守此所を退き、松浦郡木場村に館を築き住居せり。其隈崎を退きし固意を尋るに、宗麟専ら邪蘇宗を信じて神社佛閣を破却し、我意を振う事傍若無人なり。駿河守偖思ひけるは、今此宗鱗に属せし事、天神地祇の御罰こそを長しけれ、如何にもして此隈崎を退かんと思案を廻らせし折から、宗麟隣國と戦ひ出来し、軍勢を催足しけるに、駿河守虚病にして出でざりければ、宗麟怒りて軍陣の首途出として、隈崎の城に押寄せんと其支度をなしける。駿河守は書翰を認めて罪なき由をいひやり、城を明けて岸獄に来れり。其後岸嶽の城より、木場・中浦の内を分けて居城を築かせ、旗下として差置きぬ。それより隈崎駿河守照連続して住居せり。其後、筑前隈崎の城跡再興して、長崎の家臣井上周防守居りたりしに、公儀の御触に依って、元和元年に破却す。 城野尾域と云ふに、隈崎豊後守源信有り。家老は西川半之丞。 六十 いろは石 大黒川村の内にあり、世俗、弘法大師の筆跡なりと云ひ傳ふ。石面に文字様のもの有り。 六十一 飛太郎岩 黒川村にあり、往昔天狗の折々来る所と云ひ傳ふ、高き巌なり。 六十二 響の灘 高鳥の沖より豊前州小倉の間を響の灘と云ふ。惣じて海上に灘多し、周防灘・備中の小島灘・播磨灘・遠江の天龍灘、皆其國其所の名ざして云ふに、此海ばかりは筑前灘とも肥前灘とも云はずして響の灘と云ふは、如何なる故ぞや。或人云ふ、筑前の鐘の御崎に因みて響の灘と云ふと。又或説に播磨灘と響の灘と云ふは、此海にあらず、玉葛の謡に「たよりとなればはや舟に、乗りおくれじと松浦潟、唐土船をしたひしに、こころぞかはる我はたゞうき島を漕ぎ離れても行く方や、何(いつ)くとまりと白波に、ひゞきの灘もすぎ.思ひにさはる方もなし」とあり、是れ其の證なりと云ふ、又或説に、神功皇后三韓を征伐し給ふ時、筑前の國船木山より、日本無双の楠出でたり、此楠一本にて軍船四十八艘を作りて、此の灘より三韓にをし寄せ給ふ。日本國中の諸神顯はれ給ひて、首途の閧の聲をあげ給ふ。其聲海上に響きて、新羅・百済迄も聞へしなり。此時に八百萬の神々、神集島に集り玉ひ、異國退治の法を修し給ひぬと云ふ。別て住吉大明神、荒御崎の御神、和田津海の大龍王、大船を守護し給ふ。鹿島大明神は楫を守り、住吉大明神は帆を守り、金剛龍神は風を起し、浪をひらき、荒御崎の御神は瀬々をひらき給へば御軍船前後穏かなる事泉水の如しとかや。 高鳥の沖は唐津より北也。諸名所古記に出づ、神功皇后三韓征伐の時より出し名なり。是に説あり、新羅より御凱陣の時旗物印を于し給ひし所、劇しく翩飜しけるにより、帰朝の威を示し、灘も響くと武内宿禰宣ふより、引て閧の聲をあげしにより、皇后灘も響くと宣ふ、故事とも云へり、いづれ皇后の舊跡なり。 浪風も遠く響きの灘をさけ、浮世の外に渡る舟人 六十三 衣干山 神功皇后三韓より帰朝ましませし時、旗印等を于し給ふ所故に衣干山と名付けり。則も武内宿禰絶頭に登り給ひて見給ふに、折しも風はげしく、于したる物ひるがへれり、灘も響くなりと、帰朝の威を顯し玉ふ故、此見渡しを響きの灘とは云ふなり。此宿禰は筑後國高良大明神也。 六十四 唐房浦の由来 成尋法師入唐したる時、母より名残を詠じたる文を送られ、其中に片見ともならんやと、袈裟のふくさを封じて 忍べども此の別れ路を思ふには唐紅の涙こぼるゝ 後白川院の御宇保元二丁丑年、俊成卿千載集を撰しに此歌を見て、皇帝あはれに思召し、集にさせ玉ひしなり。 母の待女は入唐の噂さを聞き、悲しくも思はれしに其の沙汰に及ばずして放立けるにより、ふみを認め、人をして跡をしたはせ、此所にて成尋に逢ひければ、侍女の文を渡しぬ。入唐の折から、袈裟の房を送り、歌を詠みやられしに、其歌千載集に加入し玉ふ事、目出度舊跡なればとて、後にからふさの浦とは名付けぬ。今は唐房と訓して其故事をつたえたり。 六十五 梟師退治 景行天皇十二壬午年、豊前國より船上りし給ひて、筑紫の西を巡行し玉ふ。時に人一人も見へざれば、西に人なきやと宣ひしに、肥前(肥後?)の國阿蘇大明神・肥前國田島大明神顯れ給ひて、此國になど人なからんやと答玉ふとかや。夫より又天皇西をさして行幸し給ふに、松浦の上、鰐か浦のこなた、白濱に出で玉ひき。然るに筑紫の熊襲と云ふ者、帝を害し奉らんと計り、追掛奉りければ、則ち皇子小碓の尊を遣はし給ひ防がしめ給ふ。尊女の形ちに似せ玉ひ窺ひ給ふ、熊襲の大将梟師と云ふ者、尊を見奉り、誠の女と油断せしを、尊つとよりて、さし殺し玉ふ。梟師驚きて、此國に我れに勝る強勇なし、然るに我れを謀って殺し玉ふは小碓の尊にてましますらめ。今より君を日本武尊と称し奉るべきと云ふて死す。相賀濱の事成るか未だ其所を知らず、去れども和鰐が浦のこなたと有れば其あたり成るぺし。 六十六 鰐が浦(湊浦) 和珥が浦は今の湊濱なり。此所の海士の子、海邊に出でしに迷ひ子と成りければ、其母なる海士、濱邊に出て子の行衛を尋ねひれ伏て歎く、折ふし見知れぬ男来りて、何を悲しむやと間ふ。海士答へて云ふは、我夫に分れて男子ひとりを産み、其子成長して七つに成りぬ。其子此濱にて迷ひ子と成り行衛知れざるを歎く、あはれ知り玉はゞ教へ玉へと云ふ。男云ふは我が妻とならんや其子を尋ね出し得させんと。海士嬉敷誓ひを成しぬ、其夜彼の子を連れて海士に與ふ。此男それより日毎に漁に出で、夜毎に数々の魚をとりて其妻に売らしむ、或る時、其所の漁師ども釣りに出でければ、海中に怪しきもの浮み出でたり、是れを見るに一つの鰐死してさまざまの魚をとり、妻の襷をつなぎくわへ居たり。其後海士の夫来らず、此鰐仮りに化して夫婦と成りしものならんと。是れを埋みて其浦を鰐塚と云ひぬ、其浦と鰐ケ浦と名付けると也。 本紀に曰、景行天皇闇夜に船を乗らせられたる時、火の見へけるにより、御船を其所に着かせ給ひ火の國と宣ひぬ、今の肥前肥後なり、又天皇何國ともしらぬ火と宣ふの古事を以て、しらぬひの國とも云ふなり。 又神功皇后新羅を討んと思召し、肥前國松浦郡玉島川にて鮎を釣り玉ひ、御櫛をすかせられ双方に分け玉ひ、男の形ちに成り、群臣と征伐の事を議し玉ひ、和珥の浦より御船を出し給ふと舊記に見へたり。比和珥の浦は今の湊浦なり。其後、三韓より貢の船此所に着たりしにより、湊の津と唱へ来り、御船出し時風甚だあらかりしかば、海中の大魚浮み出て、御船を差挟み守りければ、波風も穏かに成って、幾程もなく新羅へ着岸し給ふ。新羅國大に恐れて、是れは日本の神公成るぺしと深く信じ、防ぐ事能はず捕はれ人と成り、白き旗を立て降参し、永く日本の奴と成りて貢を捧ぐ可しと申す。皇后國中に入らせられ、財寶図書物を収めとり、皇后のつき給ふ鋒を、新羅王の門に立て、後世の印とし給ふ。又一説に皇后弓のはづにて、新羅國の王は日本の犬なりと書き給ふと云ふ。 六十七 鎮西八郎為朝の碑 志気村の部にあり 湊浦祇園宮の社内にあり、抑々此鎮西八郎為朝は保元元庚子年、鳥羽院の御宇に鎌倉造立の砌り西國鎮守として下りし時、鎌田治郎と云ふ者を此所の押へとして置きぬ。夫より所々巡行して、彼杵に暫く住所を定めたり。 常に狩りを深く楽みとしける。或る時、黒髪山の池に悪蛇荒みて、さまざまの害を成しければ、此山に登りて夜もすがら待居たるに、頃は天治元甲辰年八月十八日、霧雨降りて十方を分たず、池水溢きりて中より光れるもの出て来れば、為朝弓に矢をつかひ、正八幡大菩薩、一矢にて退治させ給へと、ひやうと放つ、其矢あやまたず手とたへしければ、霧雨も晴れ渡り、光れる物を明りとして尋ねければ、忽ち眉間に中り居たり。此の鎮西八郎と銘したる矢の根、伊萬里の民家に持ち傳へて、其家の什物として有り。其後に後白河院の御宇、保元元丙子年崇徳新院・御謀叛に、為義の進めに依って御味方に走せ参り、軍破れて後為義・忠政等誅せられ、為朝は伊豆の大島に流され、二條院の御宇、永萬元乙酉年三月鬼ケ島を押領す、此鬼ケ島は八丈の内とも、又別島とも云へり。子孫其所に残れり。黒髪山悪蛇退治の故を以て為朝の碑を立つ、湊浦は鎌田老衰して庵室を結び、此石碑を立て、為朝の菩提を吊ひし所也。為朝は伊豆の大鳥にて、高倉院の勅命に依って嘉應二年庚寅四月自害し果ぬ。 六十八 石碑御尋の事 土井大炊頭利實・號寶迫直院、唐津御城主の時、社司鳥越某に命有り、其社内に八郎為朝の塔有るよし詳に可申よしに、社司申しけるは、為朝の塔と申傳へ供物仕候計りにて、何事も申傳へなき由申上候処、亦々配所より被仰付候は、為朝は肥前國田野根にて終られ候由、前に小池有りと云ふ事迄も、殿は御存知有る間、村老にも聞き合せ、委細可申上被仰付候得共、外に申傳へ無御座由、脇に池は御座候段申上候、無名の五倫の塔にて御座候と社司申上げる。田野根と云ふ地名不知。 六十九 屋形石 屋形石と云ふ事、仁平三癸酉年、鎮西八郎為朝黒髪山の悪蛇退治の時、墓目の法を行はれし折から、其蕪矢、石に箆ふるに立ちしとかや、此時退治の吉左右とて、酒宴を設け、其失跡末世迄残りし故に、矢形石村と名付けたり。亦一説に、為朝の家臣に鎌田平治と云ふ者を、近郷の押へとして湊浦に置きぬ。其舘を立てける時、此処の石を取りしに、此石名石にて割り取りたる石、一夜の内に元の如く戻りしと云ふ、いづれを正説とも成し難し。然れども為朝の舊跡、或は相違なきや、又家に似たる大石此村の端しに有り、此説如何。 七十 土器崎 往古神功皇后、三韓征伐の時、諸軍勢此所にて出陣の首途を祝し玉ひし所也。往古は猶をも絶景成りしとかや、此所海中より見れば、瓦をならべし如き磯石有りければ、瓦崎とも云えり。是より下、何れも岩に船繋ぎのめくり夥多あり。是れ皆、皇后三韓退治の時、御船をつながれし所なり。御酒宴の内に、神集島へ諸神集り玉ひて、数千本の旗を飜めかし、御味方の色を顯はし玉ひける。此神集島に於て、今に諸神大日本の祭りを成し玉ふとかや。此の所狼がかりの岩、七つ竃と號して大きなる岩穴七つ有り、其穴に船を乗入るなり。行抜け近きもあり、又深き事何程と云ふ事しれざるも有るなり。往古より、此所和田津海の都、龍城の跡と云ひ傳ふ。此岩穴の内にいろいろの模様有るよし、七つともに其穴並べり。其岩の模様、其絶景成る事言葉にも筆にも盡しがたし。神功皇后首途の御酒宴の折、于珠・満珠の寶玉を捧げられし所也。其後、神集島にて金剛神の龍王顯はれ、御軍議談に加はられし也。七つの岩窟に模様ある事、凡人の細工にあらず、是皆龍城のしるしなり。昼も燈なくしては闇夜の如くして明かならず。此所、彦火火出見尊に見せ奉らんと、浮嶽に龍燈を上げられしも、此所よりの事なり。 斯る不思議成る所、本朝に其類すくなく、幾千萬年の世を経て、里山近く成りし事にや、又世俗、御酒宴の時、厳島辨才天・舞を奏し給ひしと云ふ、此所の龍女顯はれて舞楽をつとめしにや、心をつけて此所を見るに、龍城とも云ふ可きか。 七十一 神集島 此島は唐津より二里ニ十五町半、北の方に有り、島の内百五十間四面の湊あり、至って船掛りよし。往昔、神功皇后三韓に赴かせ給ふ時、武内宿禰・大伴武将・大矢田宿禰・此三将を用ひしめ、此処にて日本國中諸神に当敵退治、船中安全の御祈祷有りけるに、三日三夜風騒がしく御船出がたし。其後風穏にして晴れ渡わける、然る時、此島の絶頭物騒がしき、評議問答の聲有り。其夜皇后御夢の内に、八百萬代の神顯はれ玉ひ、御相見有りけり。諸神三韓御征伐の首途を祝し奉る、厳島辨才天舞楽を奏し給ふと御覧じて、御夢は覚めたり。夫より峯に登り給ひ、御征伐の御講談ましましけり。又翌晩御二神の評議を御見聞あって、種々の御勝利の御手段を得候はせられ、又翌夜御夢の中には、八百萬の神岩ケ先にて御弓を張給ひ、甲冑を帯び給ひぬと御覧じて覚めければ、偖こそ渡海の時節来れりと、御船を出させ給ふなり。今に至る迄、其月其日にあたれる時は、此山の土何とやら物さはがしく、又諸神弓を張給ひし跡残りて、此島に弓張石と云ふ石あり、天下変あれば此石折れ落ると云ひ傳ふ、往古より砕けたる石其下に多し。神功皇后評議石と云ふ巌あり、今に至る迄此所に行き、共石に腰を掛るものは、其咎めありと云へり。是全く皇后の咎め給ふにあらず、其石を鋪き給ひて御評議ましませし故に、其石に威有るぺし。又住吉大明神、檍ケ原より出現ましまし、此島にて白楽天に出會し給ふと云ふ。毎年七月廿五日・十月二十七日両夜、不浄を改め一島通夜し来れり。其夜丑の時にいたり、極めて不思議あり、静かなる夜も俄かに物寂しく、社壇鳴渡りて暫くしてしづまりぬ。 七十二 値賀の浦一名仮屋の浦 太宰府にて廣嗣公朝敵の汚名を蒙り給ひ、天平九年丁丑九月二十八日、此松浦郡値賀の浦まで落ちさせ玉ひ、暫く岩頭に休ませられ、夫より此海を渡り島をつたひ、唐土に渡らんと思召して、龍馬を海に乗り入らんとし玉ひけれども、御持病に御脳痛ましまして、頻りに痛ませられける。此浦の者ども、今の社の所に茅茸の仮屋を建て、休め奉りしより、此浦を仮屋浦とも云へり。又岩に休ませられし石の表、平らかにして方七尺也、是れを石畳といひ、其所を畳崎と云へり。其外、掛け硯、鼓の浦など、二三所有りけれども、後に名づけたる所なれば是をしらべず。御不例甚だ強ければ、所の者ども物音・響きを停め、静に勞はり参らせしなり。此故事にて致齋と號し、今に此日より物音を不為となり。漸く御悩平癒し玉ひければ、いつまで斯くて有るべきやと、又も龍馬を引寄せ玉ひければ、此浦の賤男ども留め参らすれども、駒に鞭当て給ふ。然れども其駒一歩も進まず、首をたれければ、其平首を撃ち落し、脇に挟み海に飛入り給ふ也。此故事にて、鏡大明神の祭礼に、木馬の首頭斗り持ちて御供に立つ也。其畳崎に龍馬の舎人、龍馬の胴を葬り、其所に自害す。今に此畳崎に舎人の墓、龍馬の墳とて、五輪の塔二つ有り。夫れより廣嗣公添木に乗り玉ひて、茅原が浦に着き給ふなり。委敷は鏡宮の記に出でたり。 七十三 チャンコ會 馬場村妙音寺の裏山を云ふ、彼の所に十間四方計りに小い宮の小石有り、禹余糧と云ふ薬種のよし、砕ひて見れば椿の実の如くなり。又是を割て見れば、五六色の粉の様成る物出る、最も花色多し、赤は稀なり。若し取り得れば赤は極上の朱の如し。今は松茸多く生ずる。此所をチャンコ會と云ふ事は、太閤秀吉公、名護屋御在陣の時、朝鮮の國より焼物師を呼び寄せられ、土地見立てに、彼焼物師を連れ諸方巡見有りしに、彼所に至って朝鮮人大に悦ぶ。又大きに愁ひて後ち踊り戯れけり。役人問て曰く、如何なれば悦ぶや、又愁ふるや。朝鮮人答へて、我が國のチャンコ會と云ふ所に少も違はざる由を答ふ。又曰く我古郷に能く似たり、故に悦び、愁ふ。今チャンコ會と云ふ踊を致し候と答ふ。此両話如何。 後焼物釜は佐志山に移る、今小次郎冠者村と云ふ処には、竈の舊跡の今猶存せる也。往古仮名にて、コジウクハス村と書きたり。今も公議に上るものなどには仮名書き也。 七十四 唐津根元並唐津城根元 寺澤志摩守廣忠、唐津の城を築れし根元を尋るに、文禄元壬辰年朝鮮征伐済み慶長三戌年凱陣也。其時岸嶽城主に波多三河守と云ふ人有り、文禄三甲午年朝鮮國より帰陣、直に常陸國に配流なり。是れに依って朝鮮陣後、早速唐津拝領。波多の領跡並に改めて天草迄、都合十二萬三千二十九石七升の御朱印、元は岸嶽の城拝領。然れども要害宜しからず、徳居田中村に当時仮城出来、波多家浪人此時多く百姓と成る。又役人は所々の支配頭と成る。三河守三年目に表向常州にて死去。戒名 前三州太守大翁了徹居士。 一 天草四萬石、寺澤志摩守加増の訳は、慶長五庚子年濃州関ケ原石田治部少輔謀叛の刻、東照神君の御味方申し、其働き格別に依って加増拝領也。猶又平戸・大村・五島・壹州・四國伊予の内高原、以上五ヶ所、寺澤志摩守余力に被仰付、威勢益々増りぬ。又唐津城築き始りの事は、慶長七壬寅年より、同十三成年迄七年に成就せり、本丸は満島山と云ふ、満島地続きの所なり。今の洲口を地切りと云ふ、往古の松浦川は本丸の西を流れ、 松浦川口より西は西の濱続き也。是に依って二の丸の産れは、鏡大明神の氏子にして、二の丸の外は、皆唐津大明神の氏子他。 一 松浦川の源は、佐嘉領黒髪山より流れ落ち、夫より山本の麓の口、双水・久里に流れ出で、鏡の脇を流れしを、双水より久里の川土手、水除けの普請出来しより此かた、橋本二川筋違ひし也。波多川は井手野谷より一筋、畑河内谷より一筋、板木谷より一筋、三筋の川行き合野にて出合、夫れより此川を波多川と云ふ也。是波多に流れ出る故の名也。往古は河原橋より養母田の前、烏帽子石・鬼塚・和多田村・鎌倉村・唐人町、夫れより神田・山下・茶畑・二子の方に流れ、衣千山の麓・中山の方に、東は丸山の下、皆海続也。二子島も其時よりの名也。 一 大村玉島川は七山川の裾なり、横田・砂子・赤水・北牟田・砂子迄は松浦川続き入江也。此場所残らさず寺澤氏の時、新田に成る、五樋も此時よりの事也。 一 波多川一筋流れ出でしを、橋本の下土手堀切り、松浦川と一流に成りたり、其時寺澤氏、此川は二俣川の落ち合と云はれしに寄り、落ち合川と名付けたり。夫より鬼塚・松浦岩を通り、新堀・満島の前洲口に落るなり。 波多川の裾流れ、唐人町に出る神田川も、浮熊を流れ出て、波多川と一筋に成るなり。 一 和多田浮熊の大道普請出来、神田川に唐人町前に流れ出るなり。 一 寺澤氏の領分の時、怡土郡二萬石、唐津領に成りし事。往古筑前博多町は公料なり。慶長九甲寅年黒田甲斐守公儀に願はれ、博多町と福岡領怡土郡と引替に成りしを、薩摩の出水郡寺澤氏の添え地と此の二萬石と打替への願済み是と引替へに成りし也。 一 検地初めの事は元和二丙辰年、唐津領内竿十二萬三千石也。志摩守入部より二十八年、寛永二乙丑年隠居、次男兵庫頭家督、同十癸酉年四月十一日、寺澤志摩守逝去、入部より三十六年目也。前志州太守休甫宗可大居士。 一 天草四萬石減せし事、寛永十四丁丑年、天草一揆、郷民共浪人を集め籠城して、切支丹宗門を行ひ、天草は丑の冬、有馬は翌年春陣なり。此時兵庫守忠高不首尾成る上使松平伊豆守豊前小倉に下向、彼の地にて上意の趣被申渡、其趣今度天草有馬兵乱の事、政法正しからざる故、郷民共怨をふくみ、変儀に及び候事、領主として油断之至り、言語同断に候、是れに依って所領残らず没収し、有馬の領主松倉長門守同罪に可被仰付之所、天草福岡の城堅固に持、郷民共大勢討取、天草中追払候段、神妙に思召し候。是に依って唐津領怡土郡共に八萬三千石、新地被宛行候、與力大名是又被召放候者也。此時御朱印引替へに成る(外巻には松倉豊後守とありいづれが本名か如何) 七十五 有馬天草両陣實記 元亀天正の頃、南州の戎、切支丹と云ふ宗門、日域に渡来の王子に付従ふ。戎には伴天蓮・入満・耶蘇などゝ云ふ、戎の名を宗門の祖として、本朝に分散しけるに、東照神君の御代に厳敷停止の沙汰有り、根を尋ねて葉を枯せり。然るに寛永十四年丑年十月、島原の城主松倉長門守勝家の領内に、切支丹の一揆起る。其発端の者共には矢野松左衛門・千束善右衛門・大江源右衛門・森宗意軒・山下善右衛門・是等の者共は小西摂津守の浪人にて、高来郡島原の内深江と云ふ所に年暦を送りて在住し、近隣の者共に勧め込み、天草の上津浦と云ふ所に、伴天蓮一人在りけるを、天下の御禁法に依って、異國に追放し給ふ。此伴天蓮其所未鑑と號して一紙の書を残す、其手跡の内に、年吾の暦数にあたって、日域に善導一人出生して、習はざるに諸々を全ふし、云はざるに眞意をさとす事顯然なり、其時ディウスを尊崇する時節到来なりと書く。是を考ふるに、天草甚兵術が男子四郎こそ少しも違ず、是則ち大将の任備れりと一統せり。左志来左衛門と云ふ者ディウスの書像を所持して是をねんぜり。切支丹の一揆忽ち蜂起して、島原の城につけ入らんとしけるに依り、城内周章騒ぎ、松倉長門守在江戸の留守成る故、人数少くして隣國に加勢を頼みしに、鍋島・細川の両侯も在江戸なれば、鍋島信濃守の留守居諌早豊前、三千余騎にて出陣し、同國苅田の庄に陣を取る。細川越中守忠利の留守居志水伯耆守四千余騎にて同國川尻に陣を取る。 鎮西の御目付豊後國府内の住牧野傳蔵・林丹波守へ注進す。扨改郷民共島原に押寄せしに、城内より松倉の鐵炮頭高橋弥治右衛門・高畠治郎左衛門・入江與右衛門大に働きて討死す。肥後國天草は肥後國唐津の城主寺澤兵庫頭忠高の領地なれば.富岡の城代として三宅藤兵衛を入れ置く、藤兵衛が吟味強く、天草の大庄屋渡邊小左衛門も、肥後の國宇土郡にて召し捕り、近邊を乱暴しければ、三宅藤兵衛防ぐと雖も手に及びがたく、唐津へ注進しければ、岡嶋次郎左衛門・同七郎左衛門・澤木七郎兵衛・原田伊予守此四人を大将として、千五百人にて出陣す。先三宅藤兵衛を大将として、林又右衛門・同小太郎・大野助左衛門・國枝清左衛門等なり。此内林又右衛門・小太郎・大野助左衛門・大に働て討死す。其外此本渡の合戦に寺澤方討死二十四人、岡島・原田・小笠原・澤木敗軍して本渡に引入る。又岡島七郎左衛門・柳本五郎左衛門両人は富岡の城中へ引退く。されども三宅藤兵衛・佃八郎兵衛・並河九郎兵衛・清木勘右衛門・佐々木小左衛門五人は必死に成って働きしたが、忽ち敵二十余人突伏せ、大勢を追ひ払ひ猛勇、目覚敷ぞ見へにけり。富岡の城に楯籠りし者共、岡島次郎左衛門・同七郎左衛門・原田伊予守・大竹嘉兵衛・稲田平左衛門・浅井卜庵・三宅藤兵衛・澤木七郎兵衛・島田十郎右衛門・関善左衛門・國枝清左衛門・柴田弥五右衛門・小笠原齋宮介等、数千人に渡り合ひ、此所にて合戦成りしが、切支丹の奴原大勢打取り、追崩し、堅固に城を持ちたる故、其儘一揆共驚で此城を責る事能はず。上使として板倉内膳正・石谷十蔵・尊諚を承りて下向す。寺澤・松倉悪政に依って鬱憤を散ぜんとの事成るぺしと、其趣申述べ、松倉の居城に着陣あり。豊後府内の御目付牧野傳蔵・松平神三郎・林丹波守・長崎の守護代馬場三郎右衛門、島原の城に着陣有り。寺澤兵庫頭・松倉長門守両人、共に所領の郷人共の一揆故、江戸表より御暇を給ひて在所へと急ぎける。鍋島信濃守は江戸参勤にて、嫡男紀伊守元茂・次男甲斐守直澄・一萬五千余騎にて同國島原へ出陣有り。久留米の城主有馬玄番允豊氏も在江戸故、子息兵部太夫忠里八千騎にて島原へ出陣有り。柳川の城主立花飛騨守茂政・是も在江戸故、嫡子右近大夫忠茂・五千余人を引卒し高来の城へ発向有り。肥後國細川越中守忠利父子共に在江戸故、家臣長岡佐渡守・有吉頼母佐、一萬余騎にて天草へ出陣有り。天草の領主寺澤兵庫頭忠高は、居城唐津へ帰城して在國の勢を催しけるに、追々天草へ出陣有りければ、残勢八百余騎を引率し、天草表へ出船す。同所軍奉行には、牧野傳蔵・松平勘三郎・林丹波守三人也。細川越中守忠利の嫡男、同肥後守光利生年十八才、在江戸成りしが御暇を願請け、夜を日に継で十二月六日天草へ出陣有りしが、此手は恙なしとて、川尻の津へ人数を引入れ、島原加勢を望まれけり。天草上使三人は、 有馬の浦へ押し渡り、板倉公持口に加れり。扨、高来郡有馬の浦原の城は、昔より名を得し古城、殊更要害堅固なればとて、二月朔日より十日の内に普請して、粮米萬事を調べ入れたり。此原の城と云ふは、二方は海を受けて漫々たり。尚更岸は屏風を立てたる如くなりければ、其険岨なる事、船をも寄すべき様もなく、二方は岸高く聳ちて、下は大浪なりければ、其厳重成る事云ふに及ばず。惣廻りは百町余も有るべし、籠城の人数惣合せて三萬六千余人也。原城の大将は天草四郎太夫判官時貞と號して、本丸に上着す。附随の者には芦塚忠左衛門・渡邊傳兵衛・赤星主膳・馬場休意・會津宗印・同右京允・毛利平左衛門・林七左衛門・松竹勘右衛門・三宅治郎右衛門・久田七郎右衛門・泰村休次・折田杢之丞・此十三人は籠城の老人衆とて、一統に崇用し、時貞軍慮の相手也。城中持口の大将には、山田右衛門佐・大浦四郎兵衛・随ふ者共二千余人、本丸の持口を堅めたり。二の丸の頭首には、千束善右衛門・上総助右衛門・同三平・戸島総右衛門、五千二百人を随へて堅めたり。二の丸の取り出でを岡崎刑部が受取って、五百人にて持堅め、三の丸は大江源右衛門・布津村吉蔵・堂崎対馬頭・有馬久右衛門、二千五百人を引率し、持口堅固に固めたり。同出丸には有馬掃部五百余人にて控へたり。大江口には大矢野三左衛門持口にて、櫛山・小濱・千々輪・口の津・上津浦村此五ケ村の者共、一千四百人にて堅む。江尻口には蓑村右兵衛・木場作右衛門安徳、木場の者共六百余人。田尻口には深江次右衛門五百余人にて請持ちぬ。大矢野松右余門・山下善左衛門・両人は健民二千余人を支配し、持口の危きを加勢のため、後陣に付置きぬ。軍奉行には有江の監物入道休意・芦塚忠兵衛尉・松島半之丞・布津村代右衛門下平玄札以上五人なり。諸事の評定には、村々の惣代を撰び出し、二十三人評定衆と名付けたり。使番には池田清左衛門・口の津左兵衛尉・千々輪作右衛門、番頭には四鬼丹後守義安・栖本右京之進之時、是れを古老中と名付く。鐵砲方惣大将には柳瀬茂右衛門・鹿子木右馬之介・時枝隼人正、旗頭には高田権八郎・楠浦孫兵衛、大手搦手の大将には、蜷川左京之進・毛利宗意軒、夫々役割して籠城す。扨十二月二十日原の城一番攻め、松倉長門守勝元を先手として、鍋島紀伊守元茂・同甲斐守直澄・立花左近将監忠重・有馬兵部大夫忠里・上使板倉・石谷、其外御目附何れも出陣なり。 此時立花の手の討死には、立花三左衛門・十時吉兵衛・佐田清兵衛・渡邊治郎右衛門・綾部藤兵衛・車田三郎右衛門・岡田久右衛門・北野掃部是等を先として、者頭、諸役人二十八人、其外手負の侍六十九人、討死手負合せて三百八十余人。鍋島手の討死は足軽末々迄二百余人。上使付の兵士二十八人。極月二十九日御目代として、松平伊豆守信綱・戸田左衛門佐氏継、下向の由先触れ来る。寛永十五年寅正月朔日、惣責めの先手として、有馬兵部大夫続て松倉長門守・鍋島兄弟、原の城へ押寄らる。城中よりも一千ばかり押出して、弓鐵砲に打立られ、討死手負の分ちなく、一千余人の寄手共、一時の間に討たれぬれば、さんざんに敗北して、右往・左往に迯にけり。後陣の諸手入れ替へ、面も振らず責めけるに、一揆共は一人も退かす、こゝを先途と戦ふにぞ、松倉・鍋島方の討死、何百と云ふ数を知らず。板倉内膳下知して掛れ掛れと進まれしが、城中より鐵砲にて、忽ちあへなき最期なり。石谷十蔵・松平神三郎も手負て引止まる。此時の討死手負有馬忠重の人数には大番頭、者頭、諸士の討死九十余人。手 負の侍百七十五人、雑兵手負に至るまで一千百余人他。鍋島手の討死は、旗頭・者頭・侍分の者共三百八十三人。手負の侍四百余人。雑兵手負迄二千五百余人。松倉長門守家来には、討死の侍十七人。同手負四十九人。雑兵討死・手負迄三百二十七人。松倉左近手に討死二十二人。上使に付し兵士三十余人討死す。手負五十余人。其日の討死・手負迄三千九百二十八人とぞ記しけり。城中の手負・死人僅に九十四人なり。夫より松平伊豆守信綱、戸田左衛門佐氏継、寄手人数少しとて、肥後の太守・筑前の太守、此両國より軍勢差向けらるべきよし催促有り。松平伊豆守・戸田左衛門佐有馬を指して着船し、城の様子を見定めて、両國の軍勢を待ちけるに、細川肥後守光利二萬三千を引率し、正月三日の暁天に川尻を出船し、翌四日の暮れ頃に、肥前の國洲川浦に着船し、其夜は洲川に野陣して、かゞりを焚て夜を明し、夫より松倉長門守に替って、大手の先手へぞ向はれるける。寺澤兵庫頭も、天草別儀なきに依って、是も有馬へ出陣有り、筑前太守黒田右衛門佐忠之・人数も在江戸なれば、舎弟黒田甲斐守同重政、八千余人を引卒し有馬の浦に発向有り。島津人数も六千余騎、島津下野を大将として有馬の浦に押渡る。江戸にても有馬の籠城堅固なればとて、九州大名残らず御暇被下ければ、皆々居城へ帰りぬ。先細川越中守忠利・黒田右衛門佐忠元・鍋島信濃守勝重・有馬玄蕃允豊氏・立花飛弾守茂政・小笠原一黨・有馬左衛門佐・水野日向守、何れも御下加を蒙り、夜を日に継で有馬の浦に着陣有り。大手口・東口・東細川越中守忠利・其次立花飛澤守茂政・其次松倉長門守勝家・其次有馬玄蕃允豊氏・鍋島信濃守勝重・其次に小笠原一黨・其並に有馬左衛門佐・其次寺澤兵庫頭忠高、西の濱手に黒田左衛門佐忠元、持口向陣此の如し。水野日向守は遅参に依て、陣所の場所なければ、後陣の山手に取られたり。島津勢は肥後陣所の外れなり、城より北の方濱手に控へたり。御目代松平伊豆守信鋼を始め、上使の人々は.立花・松倉・両陣の奥、少し小高き所の山の手に、各陣を据え居る、惣寄手の人数十二萬五千余人なり。城中よりは、天草四郎太夫時貞、謀を軍中に示し、二千人を三手に分つ、千百人を芦塚忠兵衛・布津村代右衛門、此両人に随へさせ、黒田が手へ押向け、天草玄札には六百余人相添へて、寺澤の方へ押し向け、又千三百人を上総三平・千々輪五郎左衛門両人に随はせ、鍋島の手に向はしむ。此両人は手分して、上総三平五百余人を分て、火矢・焼草を取持せ、火付役に備へ、大せいろうに向はしめ、千々輪五郎左衛には八百人を付て、夜討の手立を計りければ、忽ち炎々焼え上り、二萬余人の一揆共、一度に閧の聲を上げゝれども、諸将少しも動せず、津々に押出して、爰を先途と戦ひければ、夜請の奴原百余人。忽ちに討取りぬ。鍋島方の兵には秀島四郎右衛門・石井九郎右衛門、此両人討死し、其外手負八十余人なり。天草玄札は六百余人を随へて、寺澤の陣へ押寄せ、仕寄せの竹共ひたひたと打破り、本陣に入らんとせしを、先手の英兵三宅藤兵衛聞き付、長刀おっとり向ひければ、随ふ者共追々に駆け出で、我劣らじと戦ひけるに、魁の藤兵衛三ヶ所手疵を負ひ、其組付の兵には浅山源左衛門・池田新左衛門・松下半之丞・谷崎八左衛門・此四人討死す。其外手負の士卒二十四人、夜討の一揆等三十五人即時に打取り三人を生捕て、島子の恥辱をすゝぎける。黒田忠元の持口には、芦塚忠兵衛・布津村代右衛門千百人を引率し、一度にどっと押寄せたり。魁黒田監物・鎗引提げて出る所を、切支丹の鐵砲にて頭を撃たれ死にける。側に在合ふ岡田佐左衛門、親を討せて置くべきかと、面も振らず、討死すと思ひ定めて突き掛る。是に続て小川縫殿介・菅勘兵衛・郡正太夫・新見太郎兵衛・杉山文太夫、是等を始め大勢が、一度に突出る百余人の一揆共、手も見せず討取り、其外生捕十七人、都合百二十三人也。忠元方討死の者共には、黒田監物・其子岡田佐左衛門、相伴ふ者共には新見太郎兵衛・杉山文太夫・明石権之丞(是は市正、家老なり)是等を始として名を得し兵ども八人討死し、手負は二十五人、雑兵共に五十余人。某夜打取る所の一揆共、寺澤・黒田・鍋島に首幌二百五十八人、生捕二十四人、一揆共是れに恐れ、其後夜討は止めたり。鍋島信濃守より御目代に、出丸の仕寄せを望みければ、所望叶ひ、二十七日午の刻計りに仕寄成就して、一揆共、打出乱戦時の用心に、甲冑の兵三百余騎.竹たば裏に隠し置き、諸手の軍勢是を見て、鍋島こそ諸手に抽で、先乗するぞとひしめけり。一揆共は、鍋島の出丸に仕寄せを付るを見て、其持口の者共、数千人、取寄って石・鐵砲を打掛る。勝重方よりも用意の事なれば、鐵砲透間なく打掛る。其手に進む一揆共、悉く打白める時に.鍋島の手の御目附榊原飛騨守の子息同名左衛門佐、生年十七才弓の者を引連れて、二の丸塀の手へ乗上り、指し詰め、引詰め、さんざんに射さすれば、矢先に進む一揆ども、少しひるむ所に、左衛門つと乗って、二の丸に馳け上り、原の城の一番乗り、榊原左衛門佐と高聲に名乗りければ、親飛弾守・息左衛門を討せじと、猶予なくどつと乗込み、後陣の鍋島勢、我も我もと乗込ける。城中の一兵等は、去冬より籠城に屈托し、殊に兵粮盡きぬれば、はかばか敷も見へざりけり。鍋島方乗込むと、すぐにほうろく、火矢を打ければ、大手の方より燃へ出し、城中の騒動に諸手の人数どっと押入り、大手より越中守忠利の軍勢、三の丸迄即時に乗附、鍋島勢二の丸に働きしに、一揆共爰を最期と働きければ、城戸口流石に破り難く、暫く時を多しける。細川勢後へ廻り、濱手の方より打破り、農人の雑兵等、悉く切り捨て、火花を散して責めければ、一揆共前後の寄手にどを失ひ、防ぎ戦ふ力もなく、本丸指て逃げ入りたり。細川手本丸を乗取んと、折かさなって働けども、必死と成って戦ひし一揆共、大石・大木・投かけ投かけ、手疵を負ふもの数しれず。去れども新手を入替入替、二十七日の酉の下刻迄、本丸半分、東の濱手共に乗り取って.九曜の旗を立てにけり。又立花左近忠茂の先手の勢十時弥之助、其組付の兵に根村源右衛門・寺田角右衛門、眞先にかけて本丸東の塀下にて、比類なき働なし、本丸東の濱手より塀を乗越え、立花左近手の一番乗りと呼りけるに、必死を極めし一揆共、本丸半分持ちかため、一向には落ちざりき。翌二十八日曙より、諸手一同に聲を上げ、黒田・寺澤の両勢本丸に乗り入り、黒田先魁の勇兵.黒田美作八方に薙ぎ廻る。寺澤の勇兵、三宅藤衛衛抜群の働きし、一揆等しどろに乱るゝ所に、細川の手より本丸に火矢を打込み、焼き立てしかば、折節大風烈敷一面に火と成る。此勢ひに諸手入り交り、働きければ憤死せしもの数を知らず。一揆の大将天草四郎太夫時貞を、細川の手に陣野佐左衛門が討取たり。一揆の奴輩悉く亡びければ、諸手一同勝鯨波をあげて、御代萬歳と祝ひける。扨討死手負を記しけるに、細川越中守に討死二百七十余人、手負士卒千八百六人。黒田右衛門佐に討死二百十三人、手負千六百五十八人、同舎弟甲斐守に討死三十人、手負百五十六人。鍋島信濃守に討死百六十人、手負六百八十三人。有馬玄蕃允に討死七十八人、手負百八十五人。立花飛弾守に討死百二十七人、手負三百七十九人。松倉長門守に討死二十五人、手負九十七人。小笠原右近太夫に討死二十五人、手負二百三人。同信濃守に討死十九人、手負百四十八人。松平肥後守に討死三十一人、手負百二十七人。水野日向守に討死百六人、手負三百八十三人。寺澤兵庫頭に討死二十三人、手負三百十五人。有馬左衛門佐に討死三十九人 手負三百八人。戸田左衛門佐に討死四人、手負三十余人。松平伊豆守に討死六人、手負百余人。惣討死の人数合一千百三十六人、手負の士卒六千九百五十余人、討死手負惣合八千八十六人。一揆の内に山田左衛門佐と云ふ者、寄手方へ内通顯はれ、一族悉く殺され、左衛門佐は四郎が尋る望み有りとて、手かせ足かせを入れ、士卒に下し置きぬ。此ものも生捕の中に、手かせ足かせともに出でたりしを、直に江戸に召連られ、ふしぎに命ちをのがれしとかや。御目代・上使を始め、軍勢各々引取り、其後太田備中守上意を承り、豊前國小倉に到着し、此所に於て、九州の諸侯残らず御感状有り。寺澤兵庫頭、松倉長門守両人に被仰渡趣、両所の一揆は、是れ國政の正しからざるに怨を起し、怒を発する者也。然る上は両人共、死刑に行ふべきの所.憐容の思召を以て、即ち松倉長門守事、所領没収の上美作の國へ流罪被仰付、森内記に預くべきものなり。松倉右近事、是又讃岐の國へ流罪申付、生駒壹岐守へ預くべきもの也。寺澤兵庫頭事、松倉長門守同罪に被仰付べきの所、天草富岡の城堅固に持ち、一揆共をなやませ候條、神妙に思召、流罪を御免許にて天草四萬石を没収し、新に八萬三千石宛行ふもの他。此趣を被仰渡、松倉・寺澤の死罪をなだめられ、其軽きに依って御仁政の御仕置、延喜天暦の聖代、今顯れりと、世挙げて尊崇し奉りぬ。 松倉事外巻には切腹とも有之、流罪の後切腹か不詳。 一 寺澤兵庫頭乙丑年より正保三年丙戌迄、二十二年所務。正保四年丁亥十一月十八日逝去 孤嶺院殿白室宗不大居士 一 慶安元年戊子一月公領上使津田平左衛門・齋藤佐源太・御目付兼松五左衛門・本丸請取水谷伊勢守、惣曲輪受取り中川主膳正、以上五人。水谷氏は五萬三千石、備中松山の城主、寺澤忠高の姉聟なり。 七十六 波多三河守落去始終之事 太閤豊臣秀吉公、名護屋御城御下向の節、筑前國博多に於て、九州の諸大名御出迎ひの御目見相勤けるに、波多三河守遅参候故、御尋有りければ、鍋島加賀守取り合せて、波多三河守は私旗下の者に候得ば、私御目見相勤候上は、子細の儀御座なきよし申上しに、其節は先づ其儘に召し置かれ、後れて三河守参着致し、早速に御前へ出でけれども、何の御意もあらざれば、手持不沙汰に退出し、其後名護屋御城に於て、浅野弾正少弼・石田治部少輔などに依り、首尾を繕ひけれども、終に獨礼の御目見なし。朝鮮帰陣の上、宜敷御沙汰有べきよし、仰渡され召し置れし也。是れ全く、秀吉公隣國の諸大名を改易の上、名護屋の御城を寺澤志摩守へ下し置れ、朝鮮國固め被仰付、没収の地悉く宛行はるべき思召也。此寺澤志摩守事は、童名忠次郎と云ひし時より、御側近く召し仕はれ其器量、執権も勤兼ねまじき者と思召しての事也。斯て三河守鎮には、一統旗下の者共に、朝鮮手配を命じ、既に先陣小西摂津守・加藤主計頭、是に続て船を出さんと、手勢を分ちて、旗下の有浦大和守、値賀伊勢守に差し加へ、当地案内のため、名護屋御陣に差し置、其身は二千余騎にて朝鮮へ出船す。松浦刑部法印・大村新八郎・五鳥若狭守、下松浦黨渡邊一番に順天山迄責め入り、此処彼処にて敵を多く討ち取り、味方も過半討死して、朝鮮の譽は十分にて、帰陣の後は御感状にも預るべきと、一統勇に進みて働きける。 扨又名護屋の御城には、太閤秀吉公御在陣の御徒然に、様々の御慰み、別て御茶を好ませられ、古物珍器等、思々に献りぬ、曾呂利新左衛門と云ふもの、頓知成る者にて、浮世噺、狂歌など上手成れば、或時茶器に用ゆる器、其他異物等を求めて参るべきよし仰せを蒙り、所々見廻り才覚し、筑前國久留米に出でければ、軽口・物眞似上手の山三郎と云ふ者、難波より来りて、女房諸共、種々の戯れ事を興しけるを見て、名古屋に帰り、秀吉公の台聴に達しければ、御陣城に呼せられ名護屋の陣にて、一日御催しありける、在陣の大小名、其賤き小者に至る迄、廣野も狭しと見物を許させ給ひ、方百聞に惣桟鋪を掛け、僕の族は皆芝原に並居りて見物す。此時秀吉公、波多三河守が妻、近々しく路次の煩ひもなければ、呼寄せて見物させばやと宣い、直ちに御召の御使を下し給ふ。されども夫鎮出陣の留主にて候得ば、御免を蒙り度由を、御側衆迄申上げるに、秀吉公、婦人の身として出陣の留主などゝ断を申條、女の城を守る事あらんやと、押して御使参りければ、今は是非なく、名護屋の御陣にぞ出にける。此三河守妻は、龍造寺隆信の娘にて、容色類なき美女の聞へ有りければ、秀吉公かゝる遊興に事を寄せて、御諚なされ、度々の思召、既に一日山三郎が興したる藝によって、御機嫌斜ならず、其夜は御酒宴を催され、御廣問の御庭にて、山三郎に興じさせ玉ひ、山三郎夫婦の者、名護屋の町に差し置き候様、御沙汰あり、其後も御庁に折々召し出されし也。扨三河守妻は、御暇を願ひければ、御尋の趣き有るに依って、指し控え居候様、被仰付ければ、旗下の家臣ども、其外腰元はじめ女達迄其夜も名護屋の御城にて滞留す。翌朝に成りけれ共御尋の御沙汰なければ其由を伺ひ、又御暇を願ひければ、秀吉公仰出されけるは、三河事隠謀の聞へ是あるに依って、其事を責め問んが為めなり、一身の謀を以て、諸士を戦はしめ、其虚に乗って九國を呑んと巧むよし、其事を申披く迄、城中留置事分明也、申披きし上は居城に差し戻し遣すべしと、思ひも寄らざる雖題を蒙り、波多が妻女に申上る言葉もなく、止む所は夫鎮の身の上に成るべきと、御前をすべり思案に逼まり、自害して果つべきと、懐剣を出し、既に覚悟を窮めしかど、かゝる難渋の申訳立ずして、自害せしと疑はれては、死しての上夫鎮に如何様の疑もや掛らんと思ひ煩ける。御座の間の御次の間に召し出され、御尋の筋もあるべき様子に見へけるが、鎮が妻以前の懐剣其儘に懐中し居けるが、御次の敷居に落しければ、秀吉公見咎め玉ひ、三河が妻、今懐中より落したる品不審也、是れへ持参せよと宣ひしかば、是非なく前へ出しける。秀吉公は御諚して、女の懐剣をたしむは、其席其所に寄るべし、太閤が前とも憚らず、懐剣を持ちし事、甚だ不慮也、尋問の事も重て沙汰に及ぶべし、先は居城に立帰り、三河帰陣着岸迄、慎居候様、御憤り大方ならず、始終難渋の元と成りぬ。 斯くて文禄三年甲午出征の人数、追々帰帆し萬歳を唱ふ、斯る内に憐むべし波多三河守鎮は、順天山迄責め寄せ、其働き抜群にして、敵も多く討取り、味方も過半討死し、手柄は申分なしと雖も、兎角秀吉公憎み給ひ、黒田甲斐守を召し出され、被仰波候趣は、波多三河守隠謀の聞えありと雖も、其事糺すに及ばず、彼れが罪科挙げて算へ難し、殊更鍋島加賀守旗下として大名の備へを出し、諸侯に肩を並べる條、急度軍法にも行ひ申べきの所、是れ又其沙汰に及ばず、名護屋に船を繋がすべからず、領地一圓没収し、三州家康に預く可きよし、上意有りければ、黒田承って海に出迎ひ、則ち上意の趣申渡し、徳川家へ御預けに成り、其後常州筑波山の麓に配流被仰付、無念ながら供侍には横田右衛門佐、其外下部二人、主従四人にて常州へぞ趣きける。 扨又岸嶽の城にては、岩屋因幡守、鶴田越前守、黒川の城主黒川左源太夫を始め、一族旗下家臣には佐里村城主江里長門、法行の城主久我玄蕃允、稗田の城主中村安藝守、重橋の城主川添監物等を始めとして、各々登城し評議区々なり、然る所旗下の中より隈崎素人、進み出で、抑々当家は皇孫にして永続し、地下に至り、箕田武蔵守仕、六孫王経基の副将にして、純素九州に乱入せし時、討手に向ひ、多田満仲と謀を専らにして、黒崎に追戻し、是を武功の初めとして、保元・平治・寿永の源平戦、足利将軍の数代より是迄家名を汚さず、今又朝鮮國の働き、諸侯の目を驚かせり、然るに太閤秀吉公匹夫より出て、官禄心の儘にて、大日本を切り静め、朝鮮國迄随へ、其勢ひ能きが儘に、罪なき諸侯を没収し、我が意を以て人を罪し給ふ事也、其思ふに、今名護屋の御陣に切り入り、八方に乱入し、潔き能く討死せん事、末代迄の名譽なり、各々同心たらんには城地を明け渡さぬ内、夜討の用意すべきなりとて、血眼に成りて申ける、はやり雄の若侍共、主君の恨を散すべきの寸志なり、旗下家臣の面々、浪々の身と成りて、何の面目にながらへんや、いさぎ能く討死して主君の家名を残し、各々後代に名を傳へんと、心を同ふして評議一決し 既に退出せんとせし所に、田代日向守暫しと差し止め、各々鬱憤はさる事ながら、今名護屋御陣に押寄せ、一統に討死せば、敵も大勢討取るべし、去りながら常州にまします鎮君、させる罪もあらざれは赦免も遠かるまじ、今名護屋に押寄せ乱入せば、其崇りは忽ち成るべし、然る時は忠義却て不忠となり、末々に至る迄妻子を哺む手立もなく、猶又謀計の詮儀を盡すべし御前様並御嫡子孫三郎様を、佐嘉表へ送り奉り、一先城を明け渡し、知るべ知るべに引退き、忍び忍びに會合して、謀計を廻らし、配所の主君を守り奉り、一勢に旗を上げ、其時こそ討死して名を後代に残すべしと、過半決しけれども、中にも井手飛弾守、向三郎・畑津内記を始めとして、旗下家の子二つに別れ、井手飛輝守申けるは、其評定も去る事ながら、迚ても今趣意を通ふさずば、期して都に責め登らん事思ひも寄らず、さすれば評議一決すとも其謀を用ひねば何の詮かあらんや、某し存る所は御母子佐嘉表へ送りまいらせ、名護屋の御陣へ忍び入り、一時に放火して焼き払ひ、火焔の中にて討死すべし。さすれば上一人の恨にあらず、讒者の者迄共に怨みを報ふ也と、各々衆評決せねば、黒川左源太夫・鶴田因幡守云ひけるは、面々の存寄を争ふては、評定に日を送るべし、迚ても今一統に討死すとも、旗を揚んとこそ、爰に忍び居るとも其主たる人なくては成就しがたし、一族旗下の中より、誰か忍びて常州に趣き、鎮公を守護し来りて、下松浦黨を頼みて何方へぞ隠し忍び、一族旗下家臣の面々、暫く土民に落ち入りて見せ、孫三郎君を守り立て、一歩の足元より百里の本領に立ち戻り、波多家を再興せんと、如何に誰ぞ彼の地に赴かんとする人やあると其席を見下げるに、遙に末座より飯田彦四郎進み出て、某彼地へ赴かんと云ひければ、古里長門飯田老人にては叶ふまじ、某も趣かんと、二人御迎ひの役に定り、諸士一統に領承す、是に依って三河守妻室、嫡子孫三郎を佐嘉表へ送り、警固として八並武蔵守・渡邊五郎八両人附添、佐嘉城下へぞ入りにける。 此事名護屋の御陣へ聞へ、秀吉公いからせ給ひ、三河事既に罪科相窮り、流罪たりと雖も、其跡未だ沙汰せざるに、猥りに城を離散する事、三河近親の者共始め、言語同断のくせ者共也。近々城地裁許迄は、作法克く相守り居り、若我意を働く者有るに於ては、召捕り罪科に行ふべき由、木下宮内少輔承り、鶴田越前守・黒川左源太夫に、上意の趣き申渡しければ、一統御請申上げて退出し、其趣旗下の家臣迄申渡しければ、旗下の面々、迚も此城永続ならねば、一時に火を掛け離散すべき由を談合せしに、太閤秀吉公厳命に依って、旗下家臣等、勝手次第何方へぞ立退き、渡世可致旨のよし仰渡され、城は寺澤志摩守へ御預けにより、早速請取りの為、城代今井縫殿介、並川小十郎の両人に、者頭一人、騎馬廻り十崎、足軽百人を差添へて、城中へ入れ置きける。 夫より端下家臣の者共、忍々に常州へ通信して、主君三河守を守護し、旗を揚ぐべきと、日在の祈祷所建福寺を會合所として、折々集會し、区々評議して手筈を定め、三河守迎ひとして江里長門・飯田彦四郎、薬売と成り、立目可朴と云ふ医者の家に傳へたる丸薬を調合し、道々売行きけり。 二人は日を重ねて漸く姫路の城下に付きけるが、頻りに雨降りけるにより、町家の軒下に停み暫く見合居たりしに、一僕連れたる侍其前を通りけるが、下僕が蹴り掛けたるにや、手頃の石一つ水溜に来りて、泥を打散し、侍の袴に掛りける。此侍立止まり古里長門を白眼み、巳れ何國の者なるや、侍の袴に泥水を蹴掛け、一言の詫をも云はず、知らぬ顔にて立つ体奇怪なり。討捨呉れんと袴の裾をば取って仕掛ければ、長門は下につくばひ、毛頭存ぜざる私儀にて候得共、私過ち仕候様お目に止り候得ば、何分にも御免を蒙り度しと、謝りを云ひけるに、此侍一向に聞入れず、己が泥足にて蹴り掛け、此方より咎められ、今更御免下されなどゝ、人を侮りたる申條、了簡も相成り不申ときめつくれば、飯田彦四郎是は侍の御言葉とも覚へず、私同行の者、自分が身に麁相を不成と雖も、所詮面倒と存て余人の科を引受て断りを云へど、御聞入是なし、御手討なさるの思召是非に及ばず、同道の不肖に候儘、私儀御手討に罷り成るべし、されども闇々と打れ候事、本意なく存るの間、御相手に罷成候はんと、差こはつたる長脇差しを、そりうつて仕掛ければ、長門は彦四郎を押し止め、先暫く待たれよ、御覧の通り乱心物に候故、何分御免下さるべしと、ひたすら断りを云ひければ、某を乱心物にはせしぞ、是非とも御相手にならんと、覚悟有るべしと立寄るを、長門は漸くなだめ、御供の衆も御聞の通、私一人の身にせまりたり、宜敷旦那に御取成し下さるべしと、さまざま詑びければ、此侍も彦四郎に辟易して、重て侍に斯様の不埒致すまじく、此節は差し免すと云ひ捨て通りければ、彦四郎は歯がみをなし、憎き今の青侍、余りに長門殿の云ひがひなき故に、側より歯がゆく存じ、某打据てくれんずと、憤りたりと云ひければ、長門聞て左に思はるゝは最もな り、去りながら彼等如きの者、何ぞ相手に取るにたらん、若双方云ひつのり、引かれぬ場合に成るときは、身命もはたすべき、其元と某共か旅行は、鎮公御迎ひとして、一族旗下の多人数の内より望み出しなれば、途中にて過ちある時は、一統の手筈も違ひ、配所を忍び出る事も覚束なし、若し此迎ひを仕損じなば、生て再び國許へ何の面目に帰るべきか、切腹して犬死せば、両人共にかばねの上の恥辱なりと、無念をこらへて詑びたる心底、如何あらんと思ひつるぞ、胆も臓腑も一時に絞る計りに思ひし也。唯今の侍も、貴所の勇気にひしがれて、早々迯げしは、三人ながらの仕合と、打笑ひければ、彦四郎も堪忍は智の司と今こそ思ひ合せたり、貴所に似合ぬ卑怯なりと、心の内に下すみし事も、却て誤りにて、某は唯一旦の勇気にて、是非の辨へ更になし、短智韮才恥ぢ入りぬと咄しける、斯くて雨も漸く降り止めば、又立ち出て配所へと心せかして急ぎ行く。程へて常州に着きければ、讒かの茅屋に主従四人詑住居、見るにいぶせき有様にて、三河守は書物をながめ、右衛門佐は傍に附き居たり、両人門より入りければ、右衛門佐立ち出で、やがて取次で三河守へ告げ1れば、其悦び大方ならず、両人を呼入れ、遠路の所へ定めて忍び来るべし、唯古郷の事懐かしく、又孫三郎を始めとして、一族郎黨に至る迄、如何して居るやらんと、明暮れ忘るゝことなく、殊更船中より直に此地に来りし故、何事も心に存せずと細かに尋ね問はれける。長門・彦四郎申けるは、我等両人参じ候は、君を始め供奉して立帰り、何方へぞ忍ばせ奉り、時節を見合ひ旗を揚げ、波多家再興せんものと、両人御迎ひの為め参るなり、然れども此儘に配所を落ち玉ひなば、秀吉公の疑ひも有るぺければ、尋ねらるゝは必定なり、如何して此難を遁るべきやと評定決せざりしに、長門云ひけるは、一先都に飛脚を立て、波多三河守事病気の所、養生手を盡すと雖も、其印しなく死去致せし由を訴へて、常州筑波山の麓に石碑を建て置、供し九州に下るべしと、其用意をいとなみ、慶長二年四月其趣を伏見の御城に訴へしかば、常陸の國に何の御調の御沙汰も是なく、御聞届の儘なりければ、忍んで帰國の用意をし、主従六人霜月上旬、常州を立ち出で、折しも烈敷雷風に菅笠一つを傾けて、凌ぎがたなき其有様、附随ふ者共迄、心をいため、薬を捧げ.或は酒店に立寄り暖酒など調へなどして、其日其日の寒苦をさけ、或は長途にきびすを破り、艱難辛苦計りなき、松浦黨の長者にて、列を並ぶる人もなかりしに.斯く此世になき身と成りて、臘月中旬古郷の松浦へ、着きければ、居城は寺澤の預りより、間もなく拝領となり、一族旗下も散々に、住居も未だ定めねば、忍び隠る所もなし、されども一族の中に鶴田太郎左衛門尉と云ふ者あり、波多家累代といへり、格別の子細ありて松浦残黨押しの為め、條後の城に入れ置れければ、先此所に忍びしに、是れも秀吉公の厳命にて残黨押の役なれば、太郎左衛門も遠慮に思ひ、某が舘に永く忍びては、却て御為に成りがたし、某が寸志も、心をかれて自由ならず、是れ全く某が歓楽の私慾にてはあらず、波多家再興の便にもと、面白からぬ厳命を蒙り、此所に住せしなり、大浦播磨が隠宅こそ、屈竟の隠所なり、是へ忍びませと、直ちに播磨が方に使を走せしに、播磨大に悦び、人の出入を差し留て、此隠宅に忍居られし所、此所も寺澤より吟味強し、松浦残黨の者ども、一々改め、銘々身分の渡世、委敷書付可差出し、若し隠れ忍び、隠謀を企るに於ては、其者は云ふに不及、一類縁者に至るまで、不残罪科に行ふべしと、五奉行より御沙汰に候條、其心得にて一々改め、他國へ離散致す者共、不残可申出との、三人祖の吟味役、諸方に隠行しけるにより、隠れ忍ばん様もなく、夫れより御厨に渡りて、御厨四郎治郎にぞ忍び居る。 扨佐嘉にては、御内室始め孫三郎にも殿常州より落ちし事、風の便にも知らざれば、遠きあづまの空に、如何してをはすらんと、日々案じ暮らしけるが、いつとなし孫三郎病に伏し、夢となく現となく、居城へ戻りて父君に逢ひ奉らんと計り、外に何事も云はずして、終に事きれ死しければ、母儀のなげきやる方なし、自ら故に夫君三河殿も、秀吉公の非道に落され、遠國に獨りまします、栄華の夢も一時にほろぴ、寒暑の凌ぎもいかばかり不自由にをわすらんと、嘆きに嘆きいや増し、嫡子孫三郎も死しければ、何を頼にながらへんやと、積る事共書残し、三十二才の暁をまたず、自害してぞ果てにけり。此内室は龍造寺の娘にて、操正しく憐み深く、殊更容色類なき美女也、一族旗下は云ふに及ばず、開く人あわれを催ふし、袖をしぼらぬものはなかりけり。法名は常室妙安大姉、則ち佐嘉城下に葬る。一宇を建て妙安寺と號す。其所を妙安寺町といへり。 斯て三河守鎮は、常州筑波山の麓より、忍び帰り所々に隠れ居りけるが、一族旗下も散り散りに、内室も嫡子も、はや墓無く成りぬれば、何の頼もあらざれども、一族旗下の義心を思ひ、臣下の忠を捨て難く、月日を送り居けるに、波多三河守常州を忍び出て、此地に帰り来るよし、鶴田太郎左衛門に吟味を遂げ可申出様、寺澤より申付候得共、御大事に候とて、御厨が館に杵島権太郎より告げ来ければ、三河守も斯迄武運につきぬれば、永へて何かせん腹切って死すべきなり、人に知らさず我が無き柄を隠すべしと、覚悟を極めけるにより、此席に有りあふ者ども、是れは存じ掛けなき御諚なり、御一族を始めとし、旗下末々に至る迄、旗を翩飜とひるがへし、何れ城にても責め落し、一銃に籠城して、運つきなばいさぎ能く討死し、波多家の武勇を残すべしと、寄々會合して誓ひ置き候得ば、先黒髪山に楯て籠り、敵の色を顯はすべし。来る十日は伊萬里の大法寺に會合せんと、廻文を出せしと申上ぐれば、三河守は居直りて、不甲斐なき我れを守り立て、再び家名を耀かさんと死を一統に極めし事、忠義の程頼母敷、斯迄一決せし事いかでか疎略に思ふべき、されば討手を引受けて、敵味方の目を驚かし、骸骨は戦場に晒すとも、悪霊と成って目指す大敵を亡し、讒者の奴輩の根をたって葉を枯さんと、自ら廻文を認めて、一族旗下末々迄、大法寺へぞ集めける。三河守も忍んで彼の地に趣きけるが、途中にて突然と気分悪敷、一歩も進めねば、如何せんと附々の者あきれ果てて居ける所に、三河守心付、伊萬里には我れ居城に在し時、側近く召仕ひし女あり、其心根貞節にして大丈夫の士にも劣らぬ気性なり、元は此所の山伏の子たりし故、家に戻りて坊主を養子にして是に嫁せり、稚き頃より城中に呼び不便を加へ置しにより、其恩情は忘れまじ、此坊に立ち寄って服薬し、暫く病を養ふべしと、金剛坊に立寄りしに、此女は夫に早くをくれて、四才なる悴一人有りけるを養育し、只二人住みけるが、三河守の零落を深く悲み、哀れ若殿を守り立て、波多家再興せん物をと謀る者はなきかと、女ながらも口惜く、如何にかして我大恩を露計りもや報じ奉らんと、思ふ心の切なれば、さまざま病苦を労はりて、厚く介抱しけれ共、次第に気分重く成り、會合もならざれば、又御厨屋へぞ帰りける。 此の女の由緒を尋るに、波多三河守或時黒髪山詣の時、伊萬里近邊を通りけるに、道の傍に少しの森あり、其陰に嬰児の泣聲聞えければ、三河守怪み見せしむるに、小袖に包む錦の袋に入れたる守刀を添へて、薮神の拝殿に置かれたり、其近を尋ね見るに、外に人気も有らざれば、得と見届、其由三河守に告げければ、直に抱きとらせ、伊萬里の山伏に預け置き、追々扶持米等渡し置き、八才に成りしとき、岸嶽の城中に呼寄せ、仮りに山伏を親として成長しける。心たけく艶に優しく操正しく、十三歳に成りける時より、若房を勤めて才智藝能も並ぶ者なし、奥方の気に入り側を離る事なし、然れども正しく、奥方の心に落ちず、何方へぞ縁を求めて嫁せしめんと思はれけれど、相應の事もあらざれば其儘に置れしに、三河守不意に配流と成りて、常州に赴かれ、居城は忽ち離散し、親族旗下末々迄、浪々の身と成りければ、奥方嫡子も佐嘉表へ引き取り、若房も力なく金剛房に戻りける。歎きの先の幸なる哉、金剛房に子なき故、養子を求めて是れと嫁せしに、一子を設けて養子の坊は死しければ、此子に坊跡を授けて暮らし居けるが、大恩の主君なれば此の有様を歎きて、女にこそ生れけれ、心は勇士にも劣らじ、再び配所より催ふして、主君を守り立んと謀る者あらば、一番に走せ行かんと、斯く女が君を慕ふて大恩を報せんものをと、長刀を磨き立て、勇士も及ばぬ心のけなげさも、不運の上は是非もなし。此女、實は西肥前の領主西郷左衛門太夫が妾腹の娘にて、懐胎四ケ月にあたれる時、西郷は墓無くも龍造寺隆信の為に討死し、西郷領一圓龍造寺の所領となり、居所もあらざれば、懐胎の妾忽ち流浪の身と成り、いかに運は盡るとも、出生の後此姫を下民の家には育てまじ、一度は世に出さんと、三河守が通行をば見立て、道筋に捨て置たり。此時三河守思ひけるは、斯様なる子を可捨者、此邊隣には有るまじ、全く西郷が子成るぺしと心付きしかども、知らぬ顔にて山伏に預けし也。 斯で三河守は御厨に引返し、一族旗下打寄って、種々養生を加ふと雖も、次第に病気も重りて、終に命数盡きければ、松浦一黨力を落し、忍々に寄り集り、葬式とても世に憚り、哀れの中の哀れにて、ひそひそと取り賄ひ、下松浦の志佐にぞ葬り、墓印しを残しけり。されども、舊領の諸山・諸寺にて忍び忍びに法事を勤め、法名前三州太守大翁了徹居士と號し、因緑深き寺にては、末世に位牌を守護し、年回年回を弔ひける。別て清涼山浄泰寺は、永録元年辰の春足利将軍義輝公の代に、波多三河守直、公役上京の砌叡山に詣りしに、横川の邊にて今の本尊阿弥陀佛を拝し、頻りに松浦へ来臨し給はん事を願得て帰城し、飼所の内神田村山口と云へる所に、山谷の水清浄の地有るを見立て、一宇を建て清涼寺と號し、寺料の田地を寄附せし精舎なれば又因縁他山に異なれり。 其外代々帰依の社寺も多しと雖も、斯る不運に成りぬれば、一族旗下を初めとし、家の子郎黨残りなく散々に成り、或は山の茅家に弱々と煙を立て、或ひは住捨てし庵に入り、追々に死しければ、謀計も今は空しく消へ、城は崩れて山野と成り、松柏は樵りて薪となり、神社佛閣素より一場の夢と成りて、松浦の黨頭某と其名のみ計りぞ残りけり。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
巻二 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一 朝鮮征伐名護屋御陣所 松浦古事記参照 二 同軍勢着到 同 前 三 名護屋御留守在陣衆 同 前 四 同御番割 同 前 五 鬼ケ城之事 同 前 六 筑紫北面之士知行高 同 前 七 鬼ケ城間数之事 鬼ケ城本丸は西は高山より平地迄、東西三十間、南北十一間計り、南西の方三尺計り土手残り塀の跡と見ゆ、東は本城と二の丸との間に続き跡あり、少しひくして東西三十間、南北五十五間、又其東北の方二の丸あり、上のひくき所より少し高し、上の廣さ東西二十五間、南北十間計り有り平地也、二の丸今は野草生ひ茂り築石瓦等も所々に見ゆ、所々にから堀残れり、嶮岨に前後を見卸し誠に要害の地也、居城は大村野に引地の城とて、山道鬼ケ城よりひくし、無怨寺社より二三町村上成る処也、引地の山麓に草野氏の居城あり、村民は御館と云ふ。其舊城を見るに、北の方谷川・堀ありて高石垣也、南北六十間余、東西二十五間余、平地也、今畑と成り、石垣二間計り下西の方引並び、南北六十間余、東西二十間余、同跡有り、北の方谷川流出、石垣高さ二間計り、下引添南の方へ流れ出ぬ、北山を城平と云ふ、引地山頂上南北三十八間計り、東西十間計り、本城と二の丸との間又続きたる跡あり、少し低くして長し、東西二十五間計り、南北七八間東西に当り続き、二の丸あり少し高し、廣さ東西十二間、南北二十五間計りあり、上は平地、本丸は今松山と畑に成り、岸崩れ、畑などより自然焼物・太刀類堀り出し、村民恐れを成して山探く埋み、或は寺へ上るも有るよし。又域より南北の方、谷間より登る道あり、探切と云ふ、夫より東の谷城の裏山蔭、東北の方へ谷川流れ、是を城の谷と云ふ、田畑山共に字村の民申傳ふ也、前は大川東西に流れ、後ろ山・東大谷・嶮岨也、西は村内家臣屋敷跡廣く地続き、今も民宅多くして各々区別を成せり、廣宅多し、無怨寺社の前、村の人口、大手の門の有りし処を大門と云ふ、二の門跡かまへ口と云ふ、凡そ此城其分内廣からずと雖も、山の上険によりて築きし城なれば、要害堅固の地なりとかや、引地より遙か低く、東西五十間余、南北三十五間計り平地にして、今畑に成る、松尾某の築きし草野脇城也、松尾城は康永年中より草野中務大輔鎮永入道宗揚二重ケ嶽に住す、其麓にも端城の跡あり、是れ本城の取出てなるべし、鎮永は原田了栄が三男なり、草野長門守永久養子として草野の家を継がしむ、又鎮永二男信種、原田親種死後に了栄是れを養子として親種が子とする、故に實は了栄が孫也、信種元服の時に龍造寺隆信一字を免じて信種と號す、草野鎮永は名を云ふ勇者にて、所々合戦勝利を得勢ひ増長し、其頃京都には豊臣秀吉公諸國を平げ、天正十五年の春九州の敵を討んとて下向し給ひ、大友義暁と立花・高橋・筑紫等は秀吉公へ兼て使者を立て降参し、薩州先陣を勤む、秋月種眞・原田信種・草野鎮永は無二の薩摩の方なりければ、豊前の小倉に出向ひ、上方勢を押へんとて、先軍勢を伺ひ見せん為め、信種より波多郷丹後守種堅、笠大炊助貞長を差遣しぬ、両人は物馴れたる者にて秀吉公に敵対叶ひ間敷事を悟りて、宮部善禪坊・浅野弾正長政を以て、信種降参の使のよし申上ければ、則秀吉公悦び給ひ、両使を御前へ召し、御腰物下され、薩州先手に加るべしと被仰付、両人は急ぎ帰り此由申せども、信種あへて承引無し、草野は元より近郷合戦に勝利を得、己れが武威に誇り、秀吉とて何程のことあらんやとて、小倉の場をぬかし、終には原田下野守信種・草野中務大輔鎮永は領地悉く被召上、則信種は肥後の國主に預け、鎮永は筑後城主へ被預け置、此時草野原田家断絶す。其行末を尋るに筑後の國へ子孫なし、唐津へ有り候由、古書に云ひ傳ふ。 又先祖墓所等を尋るに、寺澤公の時、慶長の頃、大川普請、土手石垣築等に、城跡の石或は石塔、皆大川土手に埋りし由申傳へ、たまたま山畑岸崩れより、年暦へて石塔出るもあり、委く相知れ難し。後年の人是を憐んで弔ふべし、玉島山千福寺境内に塔あり、是れは古し、今功岳寺にあらあら記置有り云々。 八 吉井嶽古戦場 吉井岳は吉井村に有り、此郡土は吉井左京亮陸光居城也と云ひ傳ふ。元亀二年正月肥前の國草野中務大輔鎮永、吉井左京と領地の堺を論じて、争論に及ばんとする事度々也、此の草野鎮永は原田了栄が三男なりしが、草野長門守永久養子にして家を継がしむ、吉井も原田の旗下なれば、丁栄より深江豊前を以て和睦を進むれども、深江が吉井を引くにこそとて草野方不聞入、既に二千余人の兵、岸岳の城より送り出し、肥前と筑前の境、鹿賀嶺を越えて吉井深江両人の城下を焼討し、深江方小勢なれば小金丸・波多江等に加勢を乞ふ、両人止む事を得ずして由頃重留に触れて同道し、同十五日の暮れ方、吉井濱に張出し事の様子を聞くに、今日の回合に草野方利なくして、鹿家をさして引退き、吉井濱深江が勝軍して、己が居城に帰りける。小金丸以下明けなば引入らんと、其夜は野陣を張って有りける処に、寅の刻計りに草野鎮永押し寄せ閧を作る、小金丸等の郡士備へて押出して見るに、草野勢四五百人唯一所に控へたり、扨は今日の回合に吉井・深江いさゝか利有りしかば、草野が一陣は引入り其残黨寄せたりと心得、只一揉みにもみ崩さんとす、草野方の軍将是れを謀り、逞兵を選って六百人物影に伏せ置き、残勢指顯して見せければ、敵は小勢と見侮りて、進み掛らんとする処を伏兵一度に起りて、横合に掛て勝負を決せんとの謀也、小金丸・波多江等は是れを夢にも知らず、除々に深入して戦ふ処に、草野が伏勢、青木大村の兵一度に起りて、小金丸・波多江・重留等が後より閧を作りて攻め戦ふ。小金丸案に相違して引返さんとしけるを、敵は前後の弓手鎗先を揃へて突き掛る、右手海なれば洩れて出づべき様もなし、中々わるぴれて敵に笑はるるなと、向ふ敵に引組で指し違へて重留六郎、波多江上総鎮、同治郎・岩熊河内・吉田又五郎・徳丸勘左衛門・鬼木治郎八を始めとして、三十八人枕を並べて戦死す。去る程に、深江豊前、吉井左京が館に鐵砲音、閧の聲手に取る様に聞えければ、各々一騎がけに馳せ来り、命を塵芥に比して戦ふ、草野大村以下二度目の戦ひに討ち負けて、人数若干討せ鹿家を打越えて草野郷に引入らんとしけるを、追掛けて首百計り討ち取る、鹿家岸に切り掛けて、深江岳の城に引取りける原田も、是を聞き双方を鎮めんとして高祖より打出でけれども、軍散したると聞き其儘加布里の江に滞留し、重留・波多江、以下吉井濱に討死したる士共の死骸を引取り、在所在所に送り、草野・吉井を和睦なさしめしとぞ。同二月十一日大友宗麟の下知に依って、安東某好士岳の城に来り、臼杵新助と相談して、草野・吉井・深江を勧めて和睦せしむ、和睦調ひ原田も高祖へ帰城し、小金丸民部大輔も小金丸小山の城に入りにけり。 九 松浦軍記曰 龍造寺草野和睦之事 天正元年十一月初、龍造寺隆信松浦郡為征伐佐嘉表出馬あり、神代刑部大輔長良初めて拝謁し、謀臣神代封馬守・三瀬大蔵・並逢瀬杜岳を揃へ加勢に出し、先づ吉志蜂城主波多三河守鎮、草野宗揚鎮永に相通じたるを攻めければ、波多あへて異俵なきを辯じ龍造寺にぞくして、八並武蔵守・福井山城守を遣し、同國獅子ケ城へ攻め掛る、城主鶴田越前守元より草野に心を通じければ、数日を越へて防ぎ戦ふに、鍋島信利先登して進み、自険を取って戦ふに依って防ぎ兼、鶴田弟兵部少輔佐嘉勢に参りて下城を乞ふ。やがて波多・鶴田・草野の先陣を勤めける。 龍造寺河内守馬渡主殿を獅子城の加番に据置きける。斯て唐津に掛りければ、草野鏡の出城より打って出で防ぎ戦ふ、搦手には草野の本城、後山の登峠に押し掛りける、十二月中旬にて大雪強く、峠の半にて進み兼て止りけり。然るに草野が三男青木備前守永利を始めとして、老臣加茂・平原・諸熊等の臣、登峠出丸にさゝへて防戦す。依って佐嘉勢大半此処にて討死す。久納半兵衛を青木備前守自ら鎗を取って突き伏せける。鍋島信利をも討ちける、大手の一陣は鶴田兵部少輔・八並武蔵守・神代対馬守・三瀬大蔵・千葉・田尻等也。二陣は鍋島信生也、三陣は龍造寺旗本同兵庫頭・同左衛門太夫勝、心一つにして責め掛る、草野鎮永は侮り難き勇士也、高祖の城主原田上野介・廣門隆永は草野が子なれば、後詰やせん、左ありては由々敷大事なりとて、手勢を分けて遣す、吉井城は草野出城なれば、吉井七郎左衛門尉永春を籠め置しに依って、佐嘉勢是れを囲んで、高祖より後詰めも叶ひがたく、其年の六月末迄、龍造寺も唐津に在陣して、諸手の下知を加へける。然るに下松浦平戸の城主肥前守も龍造寺に心を通じけるに付、草野鏡の城も防ぎがたく、本城草野へ引取りしが、続いて惣勢責めかゝり、射れども切れ共 事ともせず、一の城迄攻め詰たり、是より始終此処にては心元なし、裏の手を切り披け、筑前二重が城にて勝を決せんとて、老臣共の心を合せ、夜に紛れ裏手を切り披け、二重が岳に落行けり、夫れより高祖・原田の老臣龍造寺の陣に来り、草野と和平乞ひけるに、隆信不斜悦び、則鍋島信俊の次男三平を草野が養子に定めて、夫れより島原有馬に攻め掛りける、其節よりして草野・原田両家の将、有馬先陣とぞ聞へけり。 諺に曰く、天正元年十二月晦日に下松浦・高祖双方より後詰めしたるにより、佐嘉勢つかれ、既に危かりしに依って、其夜大将士卒迄、自分鰤を鉋丁して思ひ切って暇乞をしたりけり。翌元旦松浦が心を通じける故危きをのがれたり、鍋島家には大晦日に自分鰤を鉋丁するは此吉例也。 十 筑後草野氏由来 人皇三十九代天智天皇の御宇(白雉年中より十ヶ年なり) 筑後州御井郡草野の領主草野太郎常門は智仁の勇者也。観音の像を彫刻なし観與寺を建つ、時に勅使右大辨種政卿参向有り、此記事観與寺縁起に委敷あり、依って略す。其後戦國打続き諸家共盛衰あり、此常門より五百二十年の後胤、草野太郎永年は壽永年中、源平大合戦之時、九州之諸士共は平家方に参る、永年は源氏に附く、故に頼朝公より大禄を賜ふ。同州筑後に城廓を築いて住す、無男子故に肥前松浦郡草野石見守を為養子聟、號草野筑後守雅覚と、委敷は鏡大明神御系図、八枚目に出づ。両國に同名有る事不思議なり、嫡子勘解由・次男雅量に筑後御原の本城を譲ること、別系に出づ、故に略之、次男貞家肥前上松浦郡藤原の或家、則ち草野氏を継ぎ権守貞家と號す、是れより大名となる。鬼ケ城に住す、神職は一族多治見・青木氏其子帯刀相貞、其子四郎入道圓雅、元弘建武の乱に宮方に属す。元弘二年壬申八月二十九日依軍功賜倫旨、其子四郎武永、其子四郎永治、其養子石見守廣村(實は大宮司多治見廣忠の男)明徳三年壬申三月家督、其子左京大夫茂成、其子大膳太夫茂勝、其子伊予守茂信(天承三年癸未八月)家督、其子土佐守廣高、其子長門守永久(天文二十一年壬子八月二十一日、)逝去、南山之為城主、法名 勝運院殿前長州太守功岳浄勲大居士 一 筑前風土記に曰く草野中務大輔藤原鎮永、二重嶽之為城主、筑松尾城、今之引地城是なり、此鎮永は原田劉雲了栄之三男にて、永久之養子也。 一 松浦軍記に曰、波多氏・鶴田氏は元一族にして、草野氏之幕下也、波多鎮吉は草野永久之甥也。 一 草野中務大輔藤原鎮永元和三丁巳年二月二十日逝去法名 融光院殿前中務大輔梅岩宗揚大居士 原田氏無嗣子、故に鎮永次男原田氏之為養子 一 谷口村に臨済宗・興聖寺。岡口村に曹洞宗・畳石山天澤寺。玉島村に曹洞宗・千福寺あり。此三ケ寺は草野氏の建立なり。今は名而巳にして寺跡もなし。 一 南山村同宗寶泉山功岳寺今猶顯然たり、永久之三回忌天文二十三甲寅年父永久為菩提、鎮永建立也。 当寺十五世高州和尚、玉島山に在るを転じて塔を功岳寺の堂前に移し、新に台石を作りて記す。銘に泰心休安大姉と記し、下の台石に泰心安立石塔壹碁為頓證菩提也、慶長十四年己酉八月記載とあり、寺に草野の家系と鎮永の塔あり。 一 今も草野郷に家臣の末孫有り、多助祭を為す。 一 原田氏之子孫會津家中に在り同流澤木氏之子孫筑前家中に在り。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
十一 草野氏系図 第二巻参照 十二 小杵山(池原村之内) 建武三年の春、足利尊氏卿筑紫へ御開きありて、筑前國多々良濱に於て菊地掃部之助武俊と戦ひ、武俊打負け、菊地方肥前阿蘇の大官司八郎惟直も深手を負ひ、肥前國小杵山まで落ち延ぴたりしに、足利の家臣仁木四郎治郎義長、追来って此山にて戦ひ、不叶して惟直自害す。遺言によりて死骸を天川村天山に葬る、家来共に三人之墓今に有り。 惟直自害の時、三歳の児を相具したりしに、乳母遺言を堅く守りて知らぬ山路を踏み迷ひ、白木村山中に岩穴有りしに隠れ、児を養育したりしにより、児の岩と今に申傳ふ、其後、方々と艱難して草野郷南山村へ落ち行き寄方なし、終に其処の社人南右京之進と云ふ者の妻となる、児は我が子として子孫相続す。 十三 胸打山(池原村之内) 鏡宮司草野中務大輔鎮永の家臣、岩村右衛門尉正信百石を賜り、池原村に住す。然るに天正の頃、肥前の太守龍造寺隆信、草野を征伐し帰陣の時、岩村此の山に隠れ、手練の鐵砲にて主敵の龍造寺を討って亡君の仇を報ぜんと仕掛け居たり、隆信の陣代として三浦陽谷入道、馬上にて此山の麓を通りしを、岩村得たりと鐵砲を放す、陽谷入道が胸元を打通し入道落馬しければ、緒勢大に驚き其敵を尋ねると雖も、案内知りたる故其場を無事に逃げ延びたり。陽谷が死骸を其前に葬り、是よりして此処を陽谷の尾と云ふ、又は胸打山共云ふ。往昔は岸市山と申せし由、其後、陽谷が弟三浦次郎左衛門と云ふ者、兄の敵岩村を討んと、松浦一見と偽り、岩村が館に来り、四五日滞留して風雅など吟じければ、正信も好む処の道故に悦び互ひに無二の入魂となり、治郎右衛門が帰路を惜んで山影と云ふ処迄送り出でければ、互に又こそ尋ね来るべしと、東西へ立ち別れし処に、治郎左衛門は岩村が油断を見すまし、兄の敵覚へたるかと切り付けたり、岩村は思ひ寄らざること故、すばやく刀半ば抜きながら、二つに成って死したり。其時岩村が供に連れたる普代の下男次郎三郎、鎗の鞘をはづして主人の敵逃さじと、次郎左衛門があばらかけて突き通す、三浦白眼みて、己れ下郎めと鎗をたぐりて次郎三郎を一刀に討ち捨て、其身も共に落命す。依て此処に三つの塔有りけり。岩村右衛門尉が子孫、其屋敷に居住す、今に同人の太刀持傳へ来れるよし。 十四 鹿家古戦場 天正十二年三月十三日肥前國波多三河守親、筑前高祖の城主、原田下野守信種と此処にて不慮の合戦す。其起りを尋るに、原田弾正少弼入道了栄病死の後、猶孫下野守信種、肥前の草野中務大輔鎮永と諸事を談じければ、原田の家中、士共の賞罰はさながら草野が計ひの様に成行きけり。彼の草野と云ふも、故了栄が持ちたる子の家にて、信種が實父の方なれば、原田が家の事には預るまじきにはあらねども、既に旗下也、信種少年と云ふにもあらず、其上一放家老ども才力ある老土数多有りければ、草野が原田家を分正すること、旁々然るべからずとて誇り逢ひけるが、斯く口々に云はれては、後は信種も中務の口入は家中の紛乱の基にや成りなんと危み思へども、さすが色にも出さず、心に籠めて月日を送る内、果して草野と原田が一族家老ども、諸事に付いて快からぬ事共有けるを、他國の沙汰には、信種弓矢の道を不得に依って、草野中務後見するを原田が舊臣共嫌ひ、草野を討んと謀ると云ける、波多三河守是を聞き、両家を思ひ侮り、草野と原田が所領上松浦の境に至って、山川を押領せんとする事両度也。原田信種を始めとして、家中の者共憤り思ひける処に、波多三河守方より、三月上巳の祝儀の使者として、波多掃部之助と云ふ者、高祖に来る、饗應ありて酒数献に及び、信種が士、笠勘助と云ふ者と軍物語りをして、聊か口論に及ぶ、勘助が兄・笠大炊之助と云ふ者、弟に荷担し掃部之助に散々に悪口して恥を與ふ、掃部之助こらえ兼、笠兄弟と組んで指し違へんとひしめくを、深江豊前守・有田因幡守・鬼木清甫等、老功の者どもなだめてぞ帰しける。掃部之助は三河守が従弟なり、余の郎徒さへあらんに、増て一族の掃部之助が事なれば、親大に怒り、高祖の士一々に撫切にして、掃部之助が恥をすゝがんとて、大村に加勢を乞ふ、三千人の勢を随へて鹿家を焼き払ふ。男女共二百計りの首を切る、原田下野守信種は、三千余人にて同十二曰早且に高祖を出陣し、深江の宿に着きければ、先手の勢は進んで吉井濱に陣を張る、同十三曰原田信種深江を立ちければ、先手の原田中将大輔・有田因幡守・富田大膳亮・笠・荻田・小金丸民部大輔、一千五百余人、吉井濱を打立ち、鹿家嶺を打越えて、波多が先手の波多掃部之助・池田・徳末・有浦等も一手にて相戦ふたり。未だ雌雄を決せざる時、原田信種旗本勢千五百人を率し、高山影より廻りて、敵の後より閧を揚げ、喚き叫んで掛りけり。すはや後より敵こそ打出たれ、案内者に取り籠められては叶ぶまじ、濱崎に引いて廣き処にて戦へと云ふ、ほどこそあれ、一千余人の勢駈込み駈込み、起ちつ転びつ逃げ散りけり。波多掃部之助は踏み止りて、きたなき殿原何処にか引くべき、返せ返せと呼はりけれど、引返す味方一騎もなし、掃部之助爰にて人交もせず討死して、先日高祖にての恥を雪んと、郎徒二十余人、左右に立って競ひ掛り給ふ、敵をあたるを幸ひに火花を散して切り廻りける程に、原田が大勢其勢ひに辟易して敢て近付かず、笠大炊肋是を見て、いでいで掃部助が首取って味方の勇を進めんと、傍若無人に云ひ散し、只一騎かけ出ければ、其弟勘助・石井内膳・富田四郎兵衛・中園左馬之助・長監物・西三郎左衛門・波多江丹後守・朱雀小治郎と、末與一兵街・太田孫治郎。浦志孫左衛門・萩原長門守・吉富兵庫頭を始めとして、五十七騎続いて掃部之助が二十余人を取り籠め討んとす。掃部之助が乗りたる馬の平首、二太刀斬られて尻居にどふと退りければ、飛び下り徒に成りて戦ひけり。郎等共も不残討死し、其身も痛手数ヶ所負ひければ、自害せんとする処を、笠大炊助が若黨走り掛り、引組んで二刀さし、大炊助に首を取らせける。波多は七山に向ひたる勢を呼び返し、待調べけるに二日延引しければ、池田・徳末・以下敗軍の士卒、本陣に崩れかゝる、一陣敗れて残黨全からず、波多が旗本騒ぎ立って下知をも聞入れず、麾下にも廻らず備を立てかねたる処に、原田信種先陣後陣一手に成り、三千余人太鼓を打て競り掛る、信種は黒糸威の鎧を着、黒き馬に乗って、大身の鎗の柄一丈計りに見えたるを追取、眞先に進みけれぱ、三千余人死を一挙の内に軽んじて喚いて掛りたりけり。波多も形の如く備を立直し、掛け合せて戦へども、先手の勢は即時に追立られ、右往左往に成って物の用に立たず、旗本の勢も臆病心付いて見へにける。かゝる処に原田が家臣深江豊前守良治、五百余人にて深江嶽の城より打出、船にて海上より攻合ける、吉井左京亮は橘岸より横合に掛るを見て、波多が勢一度にどっと崩れて、北をさして引き退く、三河守は何地へか引くべきとて、只一騎止って、進み掛る敵を五騎迄突て落し、大将に組んで差違んと、信種が馬印を目掛けて、尚も駈んとしけるを、池田左馬允・大川野玄蕃允・岡九郎兵衛など云ふ波多が頼み切たる勇士十六人引返して、こは如何なる事に候哉と、馬の口を取って南の方へ引き向け、跡にさがって追来る敵を面々に防ぎ戦ふたり。三河守は是非共討死せんと、馬の鼻を引返し駈けんとしける処に、池田左馬允・手綱にすがりて行くを、三河守刀を抜てむねを以て池田が冑の鉢を二打三打うちけれども、冑よければ砕けず、其時大勢走り寄って制しければ、力無く止りて濱崎さして引退く、是迄も高祖勢追来りければ、池田左馬允・大川野玄蕃・岡八郎等十八人討死す。其隙に三河守は唐津迄引取りけり。信種は討取る首四百余、淵の上に梟し並べ、夫より草野押への勢に掛り合せける。草野方是に力を得、城戸を開いて打出たり、波多勢内外の敵に取り籠められ、叶はじとや思ひけん、皆散々に落ち行ければ、信種しばし草野に滞留す、抑々波多原田旗下の領地に付いて合戦度々なり頃年は両家和睦して境目無事なりしに、今年不慮の合戦出来して、双方の死人七百余人、手負は数多数を知らず。是両家衰微の基たるべしと、諸人云ひあへりしが、五年を経て波多・原田・果して関白秀吉公の為に領地を没収せられ、子孫永く陪臣となりにける。 十五 神功皇后之事 松浦古事紀鏡宮参照 十六 鏡大明神二の宮之事 同 前 十七 鏡宮下臣之事 鏡大明神の臣下五人、常吉・成清は祭の時、水の主火の主とて宮の両殿に掛かる。常吉は旗家老にして横田村の坂田の元祖、成清は國家老にして鏡村新藤次右衛門の元祖、兼末は大村大和の元祖、有清は半田村八右衛門の元祖、徳兼は久里村次郎左衛門の元祖なり。 十八 満島之事 此濱昔は城山に続いて、松浦川は今二の御門の当りに流出けれるなり。今の洲口になりて山の合ひ切れたるに依って、地切(チキレ)と云ふなり。今満島(ミツシマ)と申す。昔天正の頃、豊臣秀吉公朝鮮征伐のため、此國に御下向ありて、名護屋の津に城廓を築かれ、日本の諸軍勢名護屋・呼子邊の野原に、七年の間御陣をすへられ、朝鮮國を従へ給ひて御帰陣の節、寺澤志摩守此松浦郡を拝領被成し他。其時御城を築きなされし也。山の名を満鳥山と云ふ、文字はマントウ山と書く也。此島の廻りに居ける浦人共を此洲崎になをし給へり。此島に佛神七社をはしける、其中天神は今の大石の丸山に移し玉ふ。それより天神山と云ひ初めたり。松浦不動・草野不動此二体をば聖持院別当、持佛堂に移し給へり。扨又八幡・熊野権現・英彦山権現・津守の観音、右の四社を今の地切に移し給ふ。此七社御城の守護神なり。それより此浦人他に出て何國よりと問へば、云ひつけたるまゝに満島(ミツシマ)よりと答へしなり。他所より神詣する人も、満島八幡へ参る、権現へなど云ひ付けたるに依てにごらず、満島を水島と云ふ事も云ひなして七社のいわれ是れなり。 十九 諏訪大神之事 松浦古事記参照 二十 濱崎を賤之里と云ふ事 濱崎村を賤の里と云ふは、昔和泉國堺の商人、長崎へ下るに、日和なくして此浦に船を寄せ、順風を待ちけるが、此浦に容貌世に勝れたる「シヅ」と云ふ女あり。彼の男近き邊りの人を頼み、小夜更け人寝静まりて行き逢ひにける。程なく鶏の鳴きければ、歌に 忍び来てまたきに鶏は鳴きにけり、今宵に百夜つぐよしもがな。女の返歌に 一夜だに食はねば腹のひだるきに、百夜くはねばかつゑ死ぬべき、と読みければ、男興さめ、恋もさめて出で帰り、磯邊の船に乗り、長崎に行く乗合の人々に語りて笑ひけり。又上りに、姫島の沖より扇を差し、彼れなん賤ケ女と下げずみたり。卑しきを賤と云ふは之れよりの事也。 二十一 籠太鼓之事 草野の庄の大村の田原の中に一樹のしるし有り、是れ即ち関の清次の屋敷跡なり。謡曲籠太鼓の物語として今に名残を留たるは此の関の清次の事なりとぞ。関は僅の侍なり、不慮の口論を仕出し、相手を多く殺しける。松浦殿聞し召し、彼清次を縛しめやがて籠舎と聞へしが、清次は大力者なりければ或夜籠を破りて落ち去せけり、松浦殿仰けるは、関が妻を捕へて、清次が有所を問ひなば知らざる事あらじと、詮議なり女房を縛めて拷問を以て尋ねけれども、をづべき気色もなく、女房の云ひけるは、女は五障の罪深しと申せば、此苦みにて罪を晴し候事嬉しやとて少しも驚かず、愚かなる事問ふ人かな、仮令死したりとも、二世をかけし我夫を返させて失ふべきか、身代りてこそ二世の甲斐も有るぺけれ。我が夫に破られて落しける籠のなさけ嬉しけれと、籠に掛けたる太鼓を打て、勇をなして喜びける、君御覧じて、物もやさしき女の心や、清次を援くるぞ、有所を語れ、本領を取らするぞと仰せければ、君のたばかりことや言はせて、夫を矢はんとの思ひにやあらん、其行衛を知らざるものをと涙を流しければ、君御覧じて、弓矢八幡も御知見あられし思ひなり、筑前の宰府に知る人のおはすれば、若し此所にもやと云ふ、頓て使を立て呼戻し、本領の上に加増を給はり、二度仕へ奉りし也、女房の情深かりしにより、籠太鼓と云ふ謡一番につくりて、今の世までも名は残れり。 二十二 松浦古歌十首 松浦古史料第四章参照 二十三 唐人町と云ふ事 唐人町は高麗御帰陣の節唐人共を召し連れられ、此所に置き給ふに依て名付く、是れ焼物師の先祖なり。依之晒布差上申候。 二十四 茶碗土取始め之事 牟形村御茶碗土寺澤志摩守公御時代にては無之候、大久保加賀守様御代に掘出し、夫れより願上、初めて此土高麗の土に少しも不異日本無双の土也。併し厚く焼き候ては重く有之由、日本の銘器なり。 二十五 鏡山と云ふ事 鏡山と云初る事神功皇后此山に登り姿見の御鏡を御覧被成候て旅のやつれか影はつかしやと御捨被成候由夫れより名附ると云へり。 二十六 里名之事 一 松浦之里は鏡村之事。一 賤之里は濱崎之事。一 川上之里は平原之事。 一 唐津と云ひ初る事、古へ唐の船出入之津故、名附けるとなり。 二十七 宝加津羅 玉加津羅舊跡鏡山の邊りにあり、松浦物狂ひと云ふ謡に作り有之なり。 二十八 遠干潟と云ふ事 古は久里村・鏡村・梶原村・有喜村迄之所入海にして、志州公御普請にて田原となる。此所をさして遠干潟と云ふなり。亦は松浦潟とも云ふ由なり。 二十九 名古屋六坊之事 安楽寺。本勝寺。正圓寺。傳明寺。行因寺。安浮寺。但皆眞宗なり。右六ケ寺、名古屋御在陣の節御定被成候、御帰陣之以後、唐津御城下へ引取被成候由なり。 三十 高徳寺之事 松浦古事記参照 釜山海高徳寺は朝鮮釜山浦へ諸大名の御供仕引導相勤る依之釜山海高徳寺の寺號被下候御朱印之寺なり。 但御朱印は秀吉公御一代成るや不詳。 三十一 御朱印寺社並石高之事 松浦古事記参照 三十二 唐津領 名産村々 一 岩屋松茸 一 山本大根 一 黒岩茶 一 珠島川鮎 一 星領蕨 一 今村鮒 一 石志牛蒡 一 廣瀬葛粉 一 平原米 一 湊 麦 一 志気栗 一 松浦川鯉 一 推峯茶礎 一 大村川白魚 一 名古屋海鹿 一 七山竹 一 仮屋生海鼠 一 馬渡島馬 一 佐里木綿 一 厳木麻 一 伊岐佐猪 一 鹿賀蕎麦 一 赤木大豆 一 湊 鯛 一 五ケ山カヤノ木 一 大村紙 一 畑津鰯 一 岩屋松 一 大川野鰌 一 和多田胡瓜 一 徳須恵大葱 三十三 御茶屋之数 一 黒川村一軒 一 吉井村一軒 一 鏡村一軒 一 厳木村一軒 一 徳須恵村一軒 一 杉野浦一軒 一 大川野村二軒 一 名古屋村二軒 一 呼子村二軒 一 和多田村一軒 一 濱崎村一軒 三十四 御境目関所 一 筑前口福井 一ヶ所 一 佐嘉口中ノ島 一ヶ所 一 佐嘉口川原 一ヶ所 一 佐嘉口府招 一ヶ所 右四ヶ所、郷組両人宛番相勤来候処其村にて役高二百石、掃除食焼高にて御引被成候、土井周防守緩御代、御定番人三人御居置被成候、高五十石御引被成侯。 三十五 古城津守番人頭 一 古城番名古屋村 一ヶ所 一 津守番呼子村 一ヶ所 一 牧島守馬渡島 一ヶ所 一 古城番岸山 一ヶ所 一 古城番岩屋 一ヶ所 右之所侍衆にて御出張被成候。 三十六 遠見番所 一 鹿家口其所へ 一ヶ所 一 神集鳥御扶持人 一ヶ所 一 馬渡鳥御扶持人 一ヶ所 一 田島御扶持人 一ヶ所 一 納所其所へ一ヶ所 一 串其所へ一ヶ所 一 黒塩其所へ一ヶ所 一 杉の浦其所へ一ヶ所 一 星賀浦其所へ一ヶ所 右者御領分より扶持給所高にて割合出候由也。 三十七 高札場 一 深江馬備一ヶ所 一 濱崎一ヶ所 一 鏡一ヶ所 一 厳木村一ヶ所 一 馬場村一ヶ所 一 星賀村一ヶ所 一 大川野村一ヶ所 一 杉の浦一ケ所 一 満島一ヶ所 一 黒川浦一ヶ所 一 徳須恵村一ヶ所 一 名古屋村一ヶ所 一 呼子村一ヶ所 一 神集島村一ヶ所 一 府招一ヶ所 合十六ヶ所 内一ヶ所は土井大炊頭様御代除之。 三十八 往還筋峠 一 橘峠 鹿家吉井の間 一 中山峠 佐志唐津の間 一 駒鳴峠 稗田駒鳴の間 一 大屋峠 水留村と行合村聞 一 池の峠 府招と佐賀領の間 合五ヶ所 三十九 往還筋大橋 一 板橋 魚屋町 一 土橋 養母田村 一 土橋 徳須恵村 一 土橋 吉井村 一 土橋 佐志村 一 土橋 唐房村 一 板橋 水主町船頭町 一 土橋 徳須恵と竹有の間 一 土橋 木村と厳木の間 合九ヶ所 四十 嶽と唱へ候高山 一 田代嶽 但一名は八幡嶽大河組田代に有り此山六分は佐賀領に掛る。 一 前嶽 川原村 一 雨山嶽 川原村。 一 佐礼嶽 伊岐佐村 一 吉井嶽 吉井村 筑紫富士又は浮岳とも云へる。 一 雲吸嶽 湊村 一 岸嶽 岸山村と稗田村の間 一 目嶽 徳須恵村 一 鎌倉嶽 竹有村 一 大野嶽 畑河内村 一 飯盛嶽 畑津村 一 御嶽 井野尾村 一 牟田嶽 牟田村 佐賀領に四分掛かる 右之外高山有之候得共略之。 四十一 寺澤志摩守様御代郷中へ被仰出候 御條目並大久保様御代同断之事 〇覚 一 村々組合御定に付惣庄屋相定候。萬事惣庄屋申渡候儀相背間敷候。何時によらず申付候御用之俵、如何様成る事に候共、先相調可申候、若依怙贔屓仕候も、其以後理非に穿鑿仕様子可申聞事。 一 惣庄屋役儀の事、今迄の外に、其村々に高百石令用捨候、一ケ月三度宛、組合之村々より廻り.其村々庄屋へ萬事油断不仕様に可申渡候、若小百姓一人にても断無之者候も、惣庄屋並其村々之庄屋、曲事に可申付事。 一 株田起候儀、時分延引候も、惣庄屋より其村々庄屋に急度催促仕、料作根付置、仕附草水致油断、御年貢未進仕候も、曲事に可申付、並脇庄屋何事に不依申淡儀候も、惣庄屋へ可相尋候、附り公儀御用之儀は不及申事。 一 御免定之儀、下札出候も、其旨小百姓共にも不残可申開候、成下平均其年之立毛に應じ、善悪甲乙無之様、其村々庄屋百姓申寄合平均可申候。若互に申分有之候も、組中の惣庄屋に申聞可相済事。 一 立毛善悪相應に平均申上迄は、百姓大小不依、若未進仕候も為其村中皆済可仕候、此儀兼てより組中へ惣庄屋村々之庄屋可申聞、不正に於ては曲事可申付事。 一 御年貢納所在候儀、組中之百姓若見合たりと申者も、其村々之庄屋に申聞、其上にて惣庄屋に可申聞候、見隠候も可為曲事。 一 御普請所大分之処は、他の組より越夫可申付候、組中之村として罷成儀に候も、常々繕ひ可申候、若捨置及大破に候も可為曲事。 一 酒肴菓子に至迄、村々にて売申間敷候、並諸商人 多葉粉(タバコ)売・レンシャク掛・一人も村中へ入れ申間敷候若入れ候も組合中より見附次第、惣庄屋へ相届可及其沙汰事。 一 神事祭り、他村より客人一切呼申間敷候、最費成事も令停止事。 一 百姓之縁組之儀、其村々の庄屋に相尋、誓約可仕候、祝言之砌宜く祝儀可仕と存候も、鈴一対、魚類肴少々、野菜此外遣候も、其村庄屋、惣庄屋可為越度事。 一 女童子迄、着類之事、絹物一切着せ申間敷之事。若着せ候も、其村庄屋、組中の庄屋可為曲事。 右之條々少も於相背、曲事に可申付候。其外其時分に申付候御法度之儀、諸事可守其旨趣候也、依って如件。 寛永十三丙子年八月二日 熊澤三郎右衛門判 大川野村庄屋十五右衛門殿 但此十五右衛門は惣庄屋也 ○庄屋給高御書出左之通 一高何石何斗 右為庄屋給、居屋敷作料之内を以遣候也 慶長十三戊甲年正月三日 志摩守丸印 何村庄屋誰 右之通横紙に御書出し被成候、村々庄屋、古代より相続之者は処持仕居申候。 一 以前正月二日年始之御礼申上候処、翌三日御用之儀有之候間、御廣間に罷出候様に被仰付、依之翌年より町人と前後に成るなり。 一 御参勤、又は御下り被遊候節は、八軒町にて御目見被仰付候処、渡口より御船に被召候間、御郡中、庄屋共被仰渡候儀有之候間、満島へ罷出候様被仰付、依之不残満島へ罷出候処、其支配村高に一厘掛り、其年の毛付を以て被下候間、扶持米に可仕旨被仰付候、御船中故、御書付無之、其後御上下共に満鳥にて御目見申上候。 一 以前、庄屋御取立被遊候時分、波多殿浪人亦其所にて由緒納上、宣敷者に被仰付、然者諸用不勝手の訳申上候処、庄屋高百石迄者作仕候様被仰付候、依之、右役高御用捨被仰付候、然共不身上にて作仕候儀、難成訳申上る、依って組合之村々より、一年に百人宛合力可請候、並支配之村夫は、一年に三度雇合力可仕旨、堅く被仰付候得共、大久保加賀守様御入部被遊、五十人に減申候 一 以前は役儀御免被仰付候共、居屋敷、田地の儀は無相違罷在候、就レ夫惣庄屋居宅之儀は自分修複也、座敷・煮焚間・垣根・湯殿・雪隠・組合より行之、役儀御免之時分、座敷・煮焚の間は解き、組合に渡候也。組継状は、自分に家来を置、惣庄屋より勤候て、役料米取候由也。組合より状持せ候得ば、役料取不申候。然れ共、段々組継相増候て、自分持せ候て不勝手に相成候に付、組村に出候由及承知候也。 一 村々により、庄屋給御書付持不申庄屋有之候。右書付御渡被下節、願不参又は庄屋無き処也。 一 元和之頃、御検地被遊候旨にて、御領分一同、惣庄屋、組合之庄屋にて取り極め候也、其以前は侍衆地方にて直に御取り被成候て、長司と申、御領分に七人有之候由なり。 ○百姓に御直に被仰渡候趣 寺澤志州公御検地以後、御領分度々御巡見被遊侯て、庄屋百姓共に被仰渡候。 一 田地水賦の儀、末世に至り無相違様可仕事。 一 井磧、其外用水溝、末々共に違変不仕、大切に可仕事。 一 株田た趣候節、境畔・刈株・一本通立置、互に物云無之様可仕事。 一 畔前之定之通、拵可申事。 一 当年地主入れ替候も、田麦は作者無相違、先主にて請取候、畑麦は当主より可請取候。乍去先主請取候も、半物成上納可仕事。 一 作主替り候時は、開置候切畠、其外仕立置候品々、田地に付可申事、乍去訳有之候て、其田地作り不申候内より、持来り候はば無用之事。 一 百姓共、銘々持地念を入れ作り可申候、若悪敷作り無精に於ては、急度被仰付候事、附り仁儀曾て無用之事、耕作出精之上、自分之心能く家を守り、國主に対し忠孝第一に可存候。 一 惣庄屋御用にて罷出候時分は、仕夫一人宛、支配之村より可召連候、但又百姓共無異儀可相勤候事、附り領分中へ若如何様にて馬に乗候節、手傳馬之通りにて出し可申事。 一 脇庄屋勤方之儀惣庄屋より差図可仕候、惣庄屋勤 方邪行候も、組合之庄屋より為申聞互に悪事無之様可申留事。 ○庄屋御取立衣服之事 一 衣服は絹紬迄心次第着用 一 鉈脇差心得次第之事 一 袴着用、然共御家中へ罷出候節白衣にて罷出候由之事 一 馬勝手次第、若御使被下候節は、惣庄屋へは御徒衆。脇庄屋へは御足軽衆。百姓共へは御中間。 一 御廣間へ被召出候節は、惣庄屋は御廣間に一面着座一通り、脇庄屋板敷椽側に入込、焼物師・鯨突・鎗柄師・末座に居らせ申候由。 ○百姓家居根山之専 一 百姓家、居根山は大久保加賀守様御代、被下置立申候、伐り候時分は御切手にて何時にても自由に伐取り候処、土井大炊介様より御切手にて願の上伐り取候様被仰付候。 ○樹木伐之事 一 大久保出羽守様御代より、百姓樹木類初秋水奉行相改、帳面に付置、御用次第菱上申候。然る処樹木無之村も有之、多分有之もあり、不同有之候に付、米にて差上可申旨、夫より上納米仕来申候、大小村々に米四斗宛と相極まり申候。 ○名頭之事 一 名頭と申は寺澤志摩守御領之時分、百姓中へ被仰付儀有之、不残罷出候儀、難儀に被思召、向後村々に百姓代名頭立置、不残寄合に及び不申候由被仰付、依之村々に應じ名頭立来候、今之名頭なり。 ○夫米之事 一 夫米は、其村高に一分五厘掛りにて差土候儀、地方御取被成候、侍衆其知行所之百姓、勤番、被召及難儀候に付、御雇米差上可申候旨申合、其後一歩五厘上納仕来申候、然共諸國共、夫米之儀有之候由。 ○御代々御城主様御入部之節、郷中より差上物之事 一 一組より鳥目一貫文宛差上候て、大庄屋並小庄屋御目見被仰付来候。 一 焼物師、御茶碗差上申候。 一 鎗柄師、鎗柄差上申候て御目見被仰付候。 ○庄屋相続之事 一 御領分惣庄屋、脇庄屋、寺澤志摩守様御取立被成候以来、兵庫頭様御代迄、一人も替り不申候。若役儀不叶時分は、御願申上替申候得共、居屋敷、田地無別條被下候。 一 大久保加賀守様御代、庄屋の内に重罪の者御座候て、御追放被仰付候、其跡新庄屋へ被下候、舊例之様に罷成入替被成候。 ○郷足軽御取立之事 一 波多家浪人、佐賀浪人之者迄被召出、初て大川野組三十人、御取立給田として五反宛被下、長崎・佐賀領口、相守候様被仰付、小頭二人、大浦清助・中島儀左衛門・十五人宛御預け被成候、右両人之者へ、御朱印頂戴仕候て今に所持仕候、其後大坂御普請の節、組子召連罷越候、跡小頭無之候に付、草場冶左衛門・仮小頭被仰付候、夫より三人に罷成候、最も治左衛門方には御朱印無之候。 一 其後、小麦原・畑津・中島・夫々境目相守候様被仰付候。尚又鏡・和多田の儀も、住還筋、御城下迄相守候様被仰付、無役にて罷在候得共、兵庫頭様御逝去以後、御公料に相成、御上候様、城付之足軽御呼出被成、御領分中に立山之儀を、郷組より相守様被仰付、夫より山廻り相勤来り候。右郷組.大川野へ三十人、小麦原・畑津へ十四人、廣瀬へ十人、鏡へ六十人、内中原へ七人、和多田へ二十人、都合百四十一人、三郷、足軽御仕立被成候。 四十二 唐津御城地形割 一 御域高さ十九間、南北六十五間。 一 天守台東西十一間四尺、南北十九間五尺。 一 石垣高さ六間。 一 二の丸東西三十九間、南北百十五間。 一 三の丸東西二百六十五間、南北二百五十間。 一 下曲輪東西六十間、南北八十間。 一 矢倉敷九軒。 一 町敷一萬石に付、一町宛にて七十二町と極る、此町割並惣行司廻り。 一 刀町、米屋町、大石町、紺屋町、魚屋町、呉服町、本町、八百屋町、中町、木綿町、材木町、京町。 外に塩屋町、東裏町、十人町、寺町東西、新町、坊主町、水主町、柳町、八軒町、弓町、鷹匠町。 此町々は御地行増之時、御心得にて名付有之候由、依之惣行司廻り無之候。 四十三 寺澤志摩守殿之事並鏡宮神霊寺澤兵庫頭殿変死之事 唐津城主、知行高十二萬三千石、従四位下行寺澤志摩守藤原廣高之父君は、寺澤越中守中臣廣忠公、其釆地は大和國内也。太閣豊臣大君に随身して武功有る、天正十九年辛卯朝鮮征伐思召立之時、若殿寺澤忠治郎正成御供として、名古屋御在陣の始は、惣軍鑑、兼御船奉行職也、父君越中守は豊公御陣見廻りに下向有りて、名古屋にて逝去、文禄四乙未正月十四日火葬し、其場所今猶存す。唐津城下浄泰寺境内に納骨顯然たり、為家督号志摩守ト、後ち故有之神君為随身、一代之功労莫大也、其一にて揚る事爰に記す。唐津八萬三千石、天草四萬石都合十二萬三千石拝領有り、名護屋の御城を引き、唐津に築城、領内改検地田畑定高、下有浦、黒川等之開田、松浦川と畑川の間久里村にて堀切為一流、今其所を落合川と云ふ、埋板継川を新田となす。元和二丙辰年、鏡大官司正二位多治見伯耆守藤原廣復之為尚子。藤原廣高と號し寛永十癸酉年次男兵庫頭藤原堅高に家督を護り、廣高遺言に我死後、骸を鏡の二宮の間に葬りて三宮と可祭由被申置、依て寛永十年癸酉四月十一日逝去之節、其通り取計ひけるに、神慮に不叶哉、晴天に宮山の大木折れ、堅高並に家来何れも悪夢を見る事数夜、又目の当り震動雷電して悪敷事多き故に、早速棺を堀出恵日寺に置き、悪事鎮る。此故に今も恵日寺に御加力米一石三斗有り。然れ共遺言難止神霊に祈りて、今の地に為改葬と申傳へり。碑之題に前志州太守休甫宗可居士、寛永第十癸酉年孟夏四月とあり。同十四丁丑年領内天草島一揆発り、御上使御下向にて、明年二月に至り平治となる。其罪を糺し、島原城主松倉豊後守は切腹也、兵庫頭は天草四萬石御取揚、残り唐津領八萬三千石被下置、一旦相済、然る処に正保四丁亥年十一月十八日嗣君竪高、武州於江戸に変死有、家断絶なり。来世と云共可恐事共也。 四十四 天満宮並連歌奉納之事 大石村號威徳山聖持院守護し奉らる開山願宥法印祭之。往古満島山に鎮座ましましてけるを、寺澤氏御築城の時、此地に四尊を移し給ふ、土人天神山と称す、天満宮・観世音菩薩・松浦不動・草野不動・(此二尊は聖持院護摩堂又内佛に置奉る。)八幡宮の同所に権現、海士町に弁才天、以上御供米七石、右之通年々御寄附有り、天神之御神徳は述るに不及、大村五反田、御寺大明神も聖持院支配なり。 鶴城御築は、文禄四年に始りて慶長七年に終る、眞年七ヶ年也。大石の天満宮建移は十三ケ年後、元和元年春正月より三ケ月に成就也、廣高公齋為三日家臣を卒して祭礼有る。普請惣奉行並川三郎兵衛尉、毎歳正、五、九月に連歌の奉納有、御城主・御代々此事有、會紙今残りたり、発る年を末に記す。 夢想 慶長十一年午九月吉日 春来ればなほ類ひなき梅の花 願 主 夢想 元和六年辰十月吉日 けふ立初て見に来ぬる哉 冬ながら紅葉の錦いろ深み 保 世 賦河路 小夜時雨雫音なき落葉哉 中路百顯の揚句 紹 巴 山の嵐はきくも涼しき 志摩宗可 寛永十三年子九月吉日 賦河路 めでゝなほ夜も長月の光哉 願 主 賦河路 寛永十四年丑五月五日 若竹は世々経し底のかざり哉 兵庫竪高 賦何人 寛永十五年寅正月吉日 有明のそらや猶すむ宿の秋 正 遍 夢想 萬治二年亥四月二十五日 呉竹の梢栄ふる時雨哉 松原小松の生ふる夏山 良 政 賦白河 寛永九年酉九月二十五日 植添て幾千代や経む宿の菊 快 山 賦何人 寛永十二年子正月二十五日 線に立ならぶや千代の松浦潟 快 山 四十五 寺澤家臣天野源右衛門之事並小野木三右衛門之事 爰に、右府信長公に鎗付けたりし、安田作兵衛・古川九兵衛・箕浦新左衛門三人、秀吉公より尋ね顯は也。然れども程経て古川・箕浦は尋も止にける。中にも安田は武名を発せんと、日頃八幡宮に参り、あはれ武士の冥加に、天下の将軍と云はる願を一世の内に討ち取る様に守らせ給へと立願し、思ひの念力岩を通し、右大臣公の脇腹へ鎗突込みし故、遂に御自害有けるを、秀吉公聞及ばれ、厳敷天下の尋ね者なる間、本名を改め天野源右衛門と世を忍び居たりける。去ながら隠れたるより顯るは無し、小きより大なるは無しと、源右衛門京都室町に住居しけるが、爰に肥前唐津の城主寺澤兵庫頭紀廣高と云ふ人、遠く先祖を尋れば、孝霊天皇の御末裔、紀貫元の後胤にして、武蔵七黨の名を得し名家也、此人兼て天野源右衛門が素性を知り、其上信長公へ手向せし程の勇猛を實に称せられし故、天正十九年秋の頃、廣高上京有りし時、直に源右衛門宅へ参られける。源右衛門是を聞いて大に驚き、寺澤殿は当時五萬余石の大名也。我等如き浪人が、むさき宿所へ参らるべき覚なし、定めて人達ひにて候はんと申出しかば、づつと内に入り、人傳にては遠々し、則面談申さんと座敷に通らる。源右衛門然らばと請じければ、廣高座に着て供の面々を退け、如何に源右衛門、其方世を忍び名を改ると雖も、子細有って某其元を知る、御邊が武勇天下並びなし、我その勇を仰げり、何卒廣高が方に来りて一臂の力を助られなば、知行は何時も手前が十分一を進ずべし、此議を申さん為に是迄推参申したりと、丁寧に申されけり。源右衛門承り、某如き不肖の者、御見出しに預るの段、生前の本意他。則参上可仕候得共、先は只今の内は参り難し、程経て後と申ける。 兵庫頭は源右衛門不承知之体を見て、彼は明智方にて一萬石と聞及ぶ、依って知行不足に存るならんと思ひ、則ち源右衛門に向ひ、貴邊の先知は一萬石の由兼て聞及ぶと雖も、我等事は知らるゝ通り小身なれば、十分一と申ながら、我が運に叶ひなば國の一つも可治、然らば知行はのぞみたるべし、何卒参らるぺしと有りければ、源右衛門大ひに怒りて、兵庫頭殿には某如き狼人を人一人と思召、私宅迄御来臨は實に忝き次第也と存ぜしに、只今の御口上にては中々十萬石を賜るとも、寺澤殿の御家来に成らんづるは某が恥辱也、中々存じも不寄と離れ切りたる言葉也。廣高大に驚き、不審の一言かな、明白に子細を聞き申さん、天野答てさん候、某を御見出し之迄の御来由にて忝く候得共、只今の御言葉は欽び不申、仮令某先主光秀方にて十萬石を知るにせよ、今は天下の尋ね者、然るを召抱へられんとあらば、五千石は扨置五百石にても、知行に有付身の置所を求むるは源右衛門が本望也。然るに明智方にて一萬石故、五千石を不足するとの思召、能も某を知行を竊む慾深き無道人と見届給ひし故左有るに於ては、弓矢八幡寺澤殿には命を奉るまじ、某が急に不参と申には子細有り、只今御国入之節、某を召し給ひ唐津へ御下り候はゞ、寺澤殿の御國入と京童も見物せん、其時某が面を見知りたる者は急に噂を可仕、然らば関白の御耳に入りて、天下の御尋ね物の某なれば、尊公の御身の上の障りと、爰を考ふる故、折を待ちて必ず御家人に相成るべき所存なるを、委細を聞給はず、知行の多少を仰らるゝは侍の恥なるべしと、言葉を振って申ければ、寺澤殿禰々称美して、其方の心中を不存、某が申込偏に誤り至極なり、然るに於ては何時なり共勝手次第に被下よ。是は浪人の不自由ならん節の為に、些少なれ共とて金百両を被出ければ、源右衛門是を手にも取らず、仰の如く浪人なれば、不自由勝に候得共、金銀は入り不申、源右衛門が手付金を取りたれば、外へ身上有付事なからじと御見込みに預り残念也、武士と生れて言葉を違ひ可申や、勇士の一言綸言の如し、何萬石を以て抱へ人有りとも、尊公へ御約束申すに於ては源右衛門は道を背く畜生とは成り申さず、必ず御気遺ひ有るなと堅く請合ければ、廣高猶々源右衛門を称美して帰られける。 源右衛門は翌文禄元年九月に下らんと支度の処に、太閤殿下朝鮮征伐にて肥前へ下り給ひ、名護屋に布陣し、唐津にも上方武士充満してければ、源右衛門猶遠慮して猶暫く京都に止りける。斯する内に寺澤家は加増有って八萬石に成りける。然れども異國の軍役事繁く有りければ、源右衛門見合せて年月を送る。 文禄四年八月の頃、源右衛門が宿へ尋ね来りし者両人あり、足れ昔本能寺にて信長公へ向ひし時の朋友、古川九兵衛・箕浦新右衛門也。源右衛門久々にて対面なしける。箕浦は当時浅野左京太夫幸長の家人となり、箕浦大内蔵といふ。古川は浪人のよし。扨互に昔を物語、亭主源右衛門が様々馳走する内に、古川・箕浦本能寺の働を論じ、互に口論不止、天野色々と扱へども両人承引せず、然る所に門外の町中俄かに騒ぎ立つ、何事にやと三人共に二階の窓より見れば、上京の方より大の男只今人を斬りたると見え、血刀をかたげ走り来る、其跡に二三十人抜道具にて迫掛る、亭主源右衛門先に二階より下る、古川続て下る、大内蔵は昔鎗手負にて足不自由にて遅き中に、古川下へ降り、箕浦を下さじと梯子を引く、古川は急ぎ窓へ出て庇の上へ下り、彼の人の走り通る頭の上へ飛び落て、取って押へ首を取る。時に天野・古川も駈付る、箕浦は其首取って古川に見せ、何時も手柄は先也。本能寺にても我一番なりと自慢せしに、源右衛門打笑ひ、箕浦は今に初めぬ御手柄、さりながら本能寺にては源右衛門也と申ければ、両人尤もと申けるとなり。 慶長三年太閤御他界の後、鍋島信濃守勝茂・天野源右衛門方へ諌早豊前を以て二萬石賜るべし、佐嘉家へ来り仕へと有ける、源右衛門先知に一倍なれども、寺澤に約束有る故是を不請、大阪へ出て支度をなし、九州へ下らんとする内に、持病強く差起りし故有馬に湯治す。源右衛門の持病は、去る本能寺にて森蘭丸が為に骨根に鎗疵を負へり、夫より瘡毒と成りて十七年来痛みけるが、此度は別て強き故、有馬へ湯治に参る所に、寺澤氏大阪より源右衛門方へ見廻られ、最早太閤も御他界なれば障る事も有るまじ、早々唐津へ下るぺしと申渡されける、源右衛門畏って、私儀も其志にて御座候、早々参るべきが持病に付、有馬に入湯仕候間、先へ御下り有るべし、御跡より参るべき旨申、寺澤公にも悦び、重て使者を以て、鍋島より二萬石を不請之段及聞所也、其外よりも様々申者有るを承引無き所祝着に存ず、是は九州迄の路金也とて、金二百両給りければ、源右衛門大に悦び、御家来に成り侯者なれば、則御賜物拝領仕ると悦びける。寺澤は先き達て國へ下り、源右衛門が屋敷の普請叮嚀に申付、今か今かと待たれける。 扨も天野源右衛門秀豊は、有馬に数日逼留の中、咄相手を誰なりとも呼呉れよと湯場の亭主に申ければ、幸ひ当所に酒袋とて道心者の御座候、是を呼び可申か、天野則ち酒袋を呼寄せける。此酒袋は、第一軽口・物眞似の藝に達し、酒は人に勝れ、昼夜と云ふ差別なく、呑通せども酔へる気色なし、依之自分酒袋と云ふ、丈は五尺六七寸、骨太く筋高く、眼の光人に勝れ、右の目尻に太刀疵あり、何様尋常の者とは見えざりける。源右衛門打解けて物語し、後には心安くなり色々の咄有り、源右衛門酒袋が木訥ならず、詩歌の道をも心得、日本國中の名所を能く覚へ、古今の治乱を咄し、或は成下つて興を催し、又は到って上々の事を克く知る、されば天野は不審して色々問へども、酒袋は只美濃國の百姓の悴と云ふのみ、目尻の疵を問へば十八九の時田の畔にて口諭し鉈にて切られたりと云ふ。源右衛門も兎角奥床敷く思ひける。或る時源右衛門酒袋に向ひ、其方には日本國の名所名所を克く存ずる、幸に常國津の國は名所多しと聞及ぶ、病気も少し快し入湯の隙に案内者とし得させよと云ひければ、酒袋畏つて打連れ立ち有馬を出、源右衛門先何事も差置て、去りにし元暦年中、平家の堅めし一の谷、義経の落たりし鵯越、聞くも勇々敷処也、一見せはやと申す、酒袋心得先に立ち三草山の山口より、鐵蓋岳に打登り、鵯越の方に至り、東に指してあれに見ゆるは河尻・大物の濱・難波浦・昆陽野・打出の濱・西の濱・葦屋の里、南は淡路島、西は明石の浦ぞかし、則ち此下は皆平家の陣城也と承る、大手は生田・昆陽野に堅め成し、大将軍は新中納言知盛、搦手は三草山、一の谷に打登って越前の三位通盛・能登守教経・越中の前司盛俊・前後兵士十萬余、扨又源氏の大将、大手へ向ふは蒲生冠者範頼五萬六千の多勢、搦手は九郎義経二萬余騎、鷲尾三郎経晴を案内にし、思ひも寄らぬ鵯越を落したりと云傳ふ。先落されるか落され間敷か、此方へ御出御覧ぜよと酒袋が云ふに、任せて上七八反は屏風の如く立ち、人馬の足は扨置鳥の留るべき掛りもなし。源右衛門見て、如何に酒袋此所を落すは實に不審の第一分にてよもあらん、酒袋笑ってさん候、全く落したるにあらず、義経の計にて先此所に人を登せ、平家へ別手を以て、此脇なる綱下峠・蜂が峯の脇道、鷲尾が案内にて密に下り、其兵の下り付たる頃、下より相図をせし故に、上なる軍兵閧を揚げ、打落す体に見せければ、さしもの平家気を奪はれ、城地第一百萬の力と頼みたる一の谷・鵯越を陥る、人間の所為にあらずと驚く所を、兼てより先達て込入たる義経の兵士、閧を作りて後より火を付け打て掛る、爰にて平家には實に鵯越より落されたりと思ひ切り、遂に惣敗軍とは成りし也。去によりて平家に名ある名将・勇士、越前三位通盛・蔵人大夫業盛・武蔵守知明・薩摩守忠度・能登守教経・若狭守経俊・但馬守経政・備中守師盛・無官太夫敦盛等九人の大将討死し、本三位中将重衝は虜と成る、侍には越中の前司盛俊・伊賀平内・左衛門家長・監物太郎頼堅等討死也。是全く平家の怠りには候はず、義経の名譽なれば今に名将と申也と、言葉涼しく語りしを、源右衛門熟々聞て、實に面白く昔を思ひ出され、気も若く成りしぞと踊り上りて悦ぶを、酒袋笑ふて、是では侍めきて道心者の甲斐もなし、頭を丸めし身に候得ば、人の心を和らげて佛心を進むるこそ第一に候はんと、源右衛門聞ていやいや左に非ず、往昔佐藤兵衛憲清は武道をさっと振り捨て西行法師と云ひしが、文治の頃頼朝卿の召に随て弓馬の古實を語りしと、今の世迄も其名を止む、夫は昔の西行法師、是は当時の酒袋法師、聞程其方が昔の程も只ならじ.聞かまほしやと云ひければ、酒袋聞て、我は武士の心は知らねども、或寺院にて師と頼みし老僧の咄を聞て僅に覚へしをもの語るなり。是より気を替へて世々の賢人聖人か、見て廻たる名所どもをいざ見給へと云ふまゝに、例の得手物さへを傾け盃を取る時もなく、天野に先達て山々浦々を打眺め、一々摂津國の山々を指し、名所は爰に有馬山・光も高き高坂山・心盡した待兼山、又川の名も数多く、三島国川、稲荷河、塵に交る芥川、江には三島江、難波の堀江、長井が濱や蓋筐浦、遠近舟の出入する、其大物の浦波に、清くうつるは朝日影、光源氏の御秡せし須磨の浦はに漕船を、しばし止めし関の名は、云ふに及ばぬ須磨の関、板庇迄名に高き、梢の青く見えぬるは、昔源平相望み赤旗白旗眺めやる一時の眺には千秋の命生田の森、長井の里、玉川の里を遙に打過て、心も廣き印南野・昆陽野、島には砥島・豊島・田蓑の島と、音高き布引瀧、長々と長柄の橋は是也と、有とあらゆる舊跡を、事も細かに案内して、又取出す手提げの酒、一盃ほして天野にさす、實に酒袋は名を得し興人、打笑って一首の歌 津の國の名所名所は見る計り腹に溜るは酒にて有ける。 源右衛門も興して はかりなき酒の袋の底ぬけて溜る気色は見へずありけり と、互に笑ひ慰めて湯場に帰りたり。 扨源右衛門病気も全快してければ九州へ下る用意を成し、有馬より直に唐津へ行く積りにて、亭主にも金銀を與へ、其上にて酒袋に向ひ何卒唐津へ供してくれよ、我多く人に親んで見れ共、汝程の者を見ず、一生を安心する計は源右衛門が致すべしと申ければ、酒袋は難有思召には候得共、拙者は此有馬は罷出間敷と兼てより存候、他國へは御免被下べしとひたすらに申、天野又然らば何時にても心次第に返すべし、今度は船中計也とも物語申度と、達て頼まるゝ故是非なく同道しけり、時に慶長五年子七月下旬、天野源右衛門は肥前國唐津へ下り、寺澤城下に着致し、其日案内しければ、寺澤大に悦び定て草臥しならん、緩々休息致され登城あれ、我等明日鷹野に出て、序に其宅へ立寄り見参すべしと申けれは、家中も大に驚き、寺澤殿八萬石にて八千石の家来を召すさへ不当と思ひしに、未だ登城もせざるを主人より見廻りとは何事ぞと申ける、扨翌日廣高早朝に源右衛門方に立寄り、早速到着大に悦のよし、扨普請等は其方気に入るまじ、其段は我等奉行致し候間堪忍致すべし、乍去奥向其外未だ不見所を序に一見せんとて立ちける故、源右衛門難有由を申、奥向は辞退しけれども、是非にとて奥座敷に通られけるに付、源右衛門が家来ども大に驚き、夫れ殿様と散々に逃げ匿れける、彼の酒袋は何とも不思大胡座組て酒のかん、さも大揚に呂の投頭巾を脱もせず、八方を白眼み廻し傍若無人の有様は、不敵の者に見えたりけり。兵庫頭見て、源右衛門彼は何者ぞや、天野承り、彼は有馬に居申候道心者、船中の伽に召連候、何も不存酒呑にて、其名さへ酒袋と申す。廣高熟々と見て、如何にや酒袋、汝今様を変へると雖、寺澤兵庫廣高が眼力見る処あり、小野木三右衛門宗時珍敷対面を致すと有りければ、酒袋は頭巾を脱ぎ膝を直し、いや我等は全く左様の者に候はず、人違なる御言葉なりと、兵庫頭も左様に申は世を忍ぶ者の常なれども、其方には去る元亀元年六月二十八日、近江國姉川にて、浅井長政の身内弓削六郎左衛門を討ちし時、弓削が為に切られし右の目尻の疵、同右の股に鎗疵有るぺし、寺澤が見る処紛れは無きぞ、争ふは無益なりと有りければ、酒袋もはつと閉口す、其時廣高申さるゝは、最も不足には有るべきが、是迄下着の事なれば、我等小身不肖を堪忍して、現米三千石にて何卒止り呉れよと有りければ、酒袋畏って御請をなし、則ち天野に向ひ公の御蔭にて不存寄侍になりたりと申す。寺澤は天野に汝が蔭にて能き士一人設けたりと悦ばる。夫より天野・小野木別て心安く有ける。小野木は天野を不審し、如何なれば寺澤氏源右衛門をかく迄厚く重んぜらるやと思ひ、又天野は小野木を初より只の者ならずと思ひしが、扨は信長に仕へたりし、美濃國長良の住人小野木三右衛門宗時にて有けるよと思ひ、猶種々の挨拶とは成にける。 爰に慶長五年九月中旬、同國佐嘉の城主鍋島信濃守家中にて山本嘉膳と云者、番頭の宅に於て傍若に成田平馬と云ふ者を打ち、其座をかけ出し唐津へ来りて、寺澤家中小寺兵十郎と云ふ者の所へ走り込けるを、鍋島勢来り御出し候得と申す、小寺兵十郎身代に替っても出す間敷と申切り、佐嘉勢怒りて小寺が舘を追取巻き、是非ともに請取らんと申す、既に斯くと見えける処に、天野源右衛門家人百余人・組子五十人を引率し、切火縄の鐵炮三十挺・飛が如く、小寺兵十郎方に駆け付ては侍輩の詮無しと加勢しける処、折能くも関ケ原合戦東方御利運にて、鍋島勢早々引取る故、唐津へ来る軍兵も逃げ帰りければ、寺澤殿帰國有って此段を聞き、源右衛門を賞し、知行は十分の一なれば加増は不賜と雖、黄金三百枚與へられける。爰に小野木三右衛門禰不審して、如何なれば寺澤殿天野をあれほどに重ぜらるゝや、我敷年戦場に立ち、天下に名有る侍の姓名は克く知りたり、然れども終に天野源右衛門豊秀とは聞及ばず、何様誰かの改名したるならんと思ひ、様々問ひけれ共、源右衛門本名を明さず、三右衛門或時、天野が心安き小寺兵十郎と打連れ川猟に出て、終日慰み、永日にて様々の咄有る内に、三右衛門何となく兵十郎に向ひ、さても当家に人多き中に天野こそは第一の功人也、譜代の家老に越えたる者は彼一人なり、貴公には源右衛門が本名を御存知か、彼は昔天野源右衛門とは申さざりし、其元知り給ふかと申しければ、小寺委細を能く知る故、三右衛門が一物有って聞くとは知らざれば、天野事は本能寺にて右大臣に鎗付し安田作兵衛秀豊也、今傍輩と成って不知人多し、明智が家人多しと云ふとも、天下の将軍に鎗付けしは作兵衛只一人也、貴殿も信長に仕へし故、定めて存知の前なるべしと云ひければ、小野木は扨は安田作兵衛なるか、主人信長の仇敵を討んと様を変へ、賤敷道心者迄に成りたるが、源右衛門の影にて三千石とは穢はし、扨口惜しやと思ひけれども、小寺に向ひ左有らぬ体にて、貴邊はよく存じられたり、少しも相違なしと挨拶して帰り、夫より源右衛門を討て信長公の修羅を晴らさんと心付、急々に思ひ立けり、乍去三右衛門天野を当所にては討ち難し、彼か蔭にて地行を取り、其上今三千石の奉公をも勤めずして、当主寺澤殿御眼力の恩を水になすは勇士の道に背く、とは云ひ乍ら数年大恩の信長公の御仇、一時も捨置ては義士に非ず、然らば寺澤の家を立ち退て後可討、当所にて討つは太守への恐れあり、何卒一奉公して立ち退くべしと思ひける。折節唐津にて繁山源次右衛門と云ふ者、酒乱にて人を切り家人六人を従へ我家に籠りて手に余りける。時に小野木進み出て、何事も君への忠義也、某儀相手に向はんと、主従五人身堅めして繁山源次右街門が宅に押し来り、四人の家人を裏表より向はせ、其身は床の下をくゞり、源次右衛門が足の元へ立ち出、引倒して搦取る、其早き事稲妻の如し。時に繁山の家人等三右衛門を討んと近付く処を、裏表より小野木が家来、寺澤の人数押入って六人を討ち取りける。源次右衛門肩先を一寸程傷を負ひける、其働き申すもをろか也。廣高大に賞し給ひ、加増五百石の折紙を出されしに、三右衛門有難き仕合なる御加恩は申受けまじ。其三千石を賜ふて今迄御役に立不申、如斯事は知行盗人に候、先此度は拝領仕間敷と達て辞退し、扨翌日に至て天野源右衛門方へ来り改て申出しけるは、扨も天野氏貴殿の御蔭故、殿の眼力にて三千石の禄を賜る、然れ共某は實貴殿を狙ふ事数ヶ年なり、今は早其實を知て捨て置難し、然れ共寺澤殿へ一忠節もせずんば知行盗人ならんを心付、唯今迄延引せしが、此度繁山源次右衛門を生捕て一の功を顯す故、斯く申達す、当城下にて傍輩の天野を討、城下を騒がしては主君への不忠、且は貴殿の恩を不知士道を違へるが無念なれば、唐津を退去して重ねて封面の期を待ち、貴殿が尋常に某と名乗合って勝負の段叶へられたしと申ければ、源右衛門驚かざる面体にて、三右衛門に向ひ、去りし有馬の物語少しの事が縁と成り、既に三ヶ年を経て両人入魂他に異る也、然るに今迄露ばかりも気色を見せず、今改めて源右衛門を狙ふと云ふは不審也、此源右衛門貴殿に狙はるゝは身に取て覚なし、如何なる事にて某を付け狙ふや。三右衛門御不審は最も也、委細申さば得心あらん。今年より十九年以前、午六月二日本能寺にて右大臣信長公に鎗付し者を討て、信長公への報恩と、國々を廻り廻りしかども、不運に其人に不逢、然るに天野源右衛門と申人の御蔭にて、不思議の縁より一所に知行に在付き、其恩儀忘れ難とは云ひ乍ら、天野は安田作兵衛秀豊に紛れ無し、乍去三右衛門、某を狙ふには十九年の星霜を歴るにや及ぶ、去りし有馬にて参會の時、心を打解て居たる折、何とて討ざるや、又貴殿様を変へて道心者となり、必ず有馬を出間敷と云ひしは不思議の第一不晴処也。三右衛門其儀最もの尋、某男をやめたるは信長公の事有時、夜前仰を蒙りて近江安土へ御使に参り、翌日帰り見れば案の如き体たらく、爰にて某は主君の御仇を討んと心付、然れども明智が勢強大なれば一人の力に不及、又羽柴殿・明智退治の時、何とて手には不従ぞと、是も御不審可有が、某羽柴の手に付、小野木三右衛門と云ふ事かなはざる事の心を不知者は、某が臆柄にて本能寺を逃げ出たりと云はれんに、仰を蒙りしに紛れなき事乍ら、信長公を始として、一座の人々一人もなく悉く死失せたれは無證拠地。是に依って男をやめ酒袋と成って有馬に居り、人立多き里なれば、若や廻り逢ふ事かと数十年有馬に居て、或時は京に出、又は大阪を見て廻る。有馬にて天野源右衛門は安田作兵衛と知たらばやはか逃す間敷と申すを源右衛門聞て成程成程得心し、さらば尋常に討るべし、三右衛門勝負せられよ。聞いて小野木打笑ひ、当所にて勝負せは当主君への恩不知、且は源右衛門の恩を忘れ、主従の道を離れ、傍輩の好みを断って後、重ねて参り達ふべきぞ、乍去某が立退し跡にて、定て貴殿に御尋有らん、必ず逢世の志或は乱心と申され、此子細を明らかに言上あれ、源右衛門笑って、夫にて貴殿は済むべきが、源右衛門が相済ず、此儀主人聞き給はゞ、源右衛門を参勤の供にも不連、他出にも猶更不用ならん、然らば何を以て天野を討事叶ふべきや、某に御尋有らば、只何事なく其意を知らずと申すべし。後日必ず参會を待つ、勝負は時の運なれば三右衛門能くせられよ、尋常に名乗逢はん、夫迄は三右衛門・源右街門さらばと、是より小野木は跡を暗まし肥前唐津を立ち退て、江戸参勤の海道に待逢せんとて、三河尾張の間に居所も定めず休らひける。時に慶長六年霜月の頃也、唐津にては小野木三右衛門立退たる旨趣、別魂なれば天野を召て尋らる、天野不知と答ふ、時に三右衛門が家来書置を二通持ち出し、家老中まで奉じける。 一筆申残候、私儀数年御恩に預り、身に余りたる知行賜ひ、安心仕候段御礼可申言無御座候。然者御恩之忘却し立退候者、少々故障の事有之、御家に罷在候ては不宜、依之永之御暇頂戴仕候、此段一両年の内には相知れ可申候以上。 慶長六年霜月日 小野木三右衛門判 御家老中 依って國中の者如何成る事や知る者無し。然るに慶長七年壬寅夏の頃、寺澤兵庫頭廣高参勤として唐津を立ち江戸を差して出られける。天野源右衛門供して上る道すがら、願を上げて先に立ち二二日程先に旅宿を立ち、幅一尺長三尺の厚板に、墨黒々と寺澤兵庫頭内天野源右衛門と印して、旅宿の表、泊々の門戸に打ち、家来も後へ下げ別宿申付る、近習一両人にて何方にても泊りける。然るに小野木三右衛門宗時は、寺澤を浪人し所々に身を潜め居けるが、遠州見付邊にて寺澤参勤と聞くより、方々に心付をる処に目の前成る宿屋前に、天野源右衛門が檜符有るを見て大に悦び、近邊の酒店に入り一升桝の角より二盃続けて呑み、ねた匁を合せ身を軽々と出立ち、源右衛門が宿所へ案内乞ひければ、則ち源右衛門立出で珍らしや小野木三右衛門と聲を掛け、源右衛門約束を不違対面に及ぶ、弥々勝負と申出す、源右衛門言ふにや及ぶと立出、小野木見で斯く互に言葉を合せでも、仇討と言ふ事に証拠なし、貴邊の家来を呼び出し、並に旅宿の亭主にも申達ての上にもせん、源右衛門聞て、貴殿一人にて狙ふを知って、基家来を集めては臆病の名は末代に残るべし、定めて尋ね来られんと、御党の通り大礼を打て 貴殿を待つ、伐て豪来を悉く一男程後に宿陣申付、某一人にて勝負せんとの覚悟なり、元より尋常に手を束ね、貴殿の為に首打れ、信長の追善に備はるが誠なれども、某中々左にあらず、事も見事に勝負して、運は天に任すペし、三右衛門心を付けて某を討取られよ、源右衛門遠慮はせじ。先年有馬にて道心者の節ならば、手を束て源右衛門首渡し、貴殿の働きと成す可きが、今は主有る源右衛門、我身で我身にあらず、言はずとも存じの前ならん。其方主従は誠に微運の身と知るべし、家来の為に殺されし信長なり、源右衛門不知して有馬にて打解しは、三右衛門是れ其方の誤也。依て見事に返討、不便には在れども身に掛る火を払ふ也と申けるを、三右衛門、千萬も承知なり、運は天に任するぞと、二尺八寸の関の兼定抜けば玉散る大業物、源右衛門も刀を披て身繕ひ、互に目と目を見合せ、丁と切れば開てはづし、つゝと進んで打込むを、心得たりと身を沈めて一文字に切払ふ、ばつと身を開き向へ通し、余りを切らんと飛掛るを、取て返して丁と請け留め、裳を払へば飛上り、眞向微塵と打て落せば、刃払ってつゝと突入劔を上より押へ、廻して来るをしかと押へ、獅子奮迅、飛鳥の翔り水車、或は縮み、或は伸び、天地と長をくらぶれば、芥子の中にも身を縮め、半時計り対合し、互に疲れ休息す。然る処に源右衛門家来八九人来って追取巻く。天野之を見て大音揚げ、者共必ず早るな、此人子細有て某を狙ふ。我彼に討るゝ約束也。敵一人に大勢とは卑怯なり、邪魔致すなと白眼付け家人を押止め、又立上り打合せしが、天野が運や強かりけん、さっと吹来る辻風に、砂吹き掲げて三右衛門が眼中に入る、此時源右衛門が打込んだる太刀、小野木は請け損じ眉闇に三寸切込られ、たぢたぢとなる所を、源右衛門踏み込で薙ぎ倒し取で押へ、如何にや小野木三右衛門、此世に心を留め給ふな、主従共天運のしからしむる処也。征夷大将軍の御身として、某が為に死し玉ふ前世の宿業なり。今又其仇を報はんと、薪に臥し胆をなめ、千辛萬苦を遂げられし小野木三右衛門、無念の返り討も宿縁ならん。菩提は弔ひ申すべし、最後を宜敷せられよかし、三右衛門苦しげなる聾を揚げ、古より今に至る迄、仇を報ずる身と成って返り討とはためし無し、能々主従不運也。恨みとは存ずまじ、其上唐津に住居の節、貴殿の恩は忘れ難し、来世は必ず貴殿に御礼申すと言ふ。源右衛門苦痛の処も気の毒也、左あらば留めを刺し申さんと、短刀を抜て止めを刺す。時に近邊打寄って、段々の儀を問ひければ、源右衛門の申すやう、傍輩同士の喧嘩也、相狙ふにて此仕合せと相語り、則ち寺澤殿へ申達し、源右衛門を引取り、委細の段を聞れて殊の外なる褒美にて、猶又称美し給ひける。寺澤殿にての一人と成りける。 九州へ帰りて後、頸に不思議の腫物出来たり、琴の糸にて結へ椽の竹に結び付、是を踏み張り抜き取るに則ち直りける、又出来る、三度迄抜きけるが、四度目に精力疲れて源右衛門自害すと言へり。将軍を殺せし報ひなりと言傳ふ。 四十六 老翁夜話 唐津にて老翁夜話に、寺澤の家中にて風説は、功もなき天野に八千石の高知遺される事、殿の御誤なりと、内々の噂いたしけるを源右衛門聞き、無念の思ひなし居ける、折から関ケ原大乱発る、源右衛門攝州へ参り合せたり、一手青野ヶ原へ立越し、関東御味方として幕旗印を立られける、兼て旅行の節は人しれず寺澤の幕旗等持参致され候由、関東軍鑑問はれしに、源右衛門答へて、肥前唐津の寺澤志摩守先陣の由被申ける、大阪方は兼て存知の前なれば、島津・立花・鍋島等早く着陣有けれども、関東方の九州大名は未一人も着陣無し、其後十日も過ぎて西國勢着陣有る、故に合戦の間に不合、然れども源右衛門が此度の手柄故、天草四萬國を寺澤へ加増被仰付、扨源右衛門此手柄の後、唐澤を夜中に立退き、行衛しれず成られしとなり、此両説如何とも弁じがたし、後年天草一揆発り候節、源右衛門存命唐津に被在候得は、寺澤に不覚はあるまじきものと、心有るものは評せしとかや、然し乍ら加増地より事発り、兵庫頭殿乱心と申し乍ら、本領迄失ひ、家断絶いたしたる事不思議なる事共なり。 四十七 吉峯城古事 松浦古事記参照 四十八 秦家略傳 同前 四十九 日在城主代々法名 同前 五十 濱田城主代々法名 同前 五十一 神田五郎代々法名 同前 五十二 青峯城間数之事並御高札場 同前 五十三 波多氏領地之覚 上松浦郡 西方総じて波多の庄なり。 山内庄。山城郡 波留気の圧。 彼杵郡 其頃迄大村は未建。後ち波多より分地 伊萬里。今福庄。天草島 四萬石不残料地なり。 三栗屋庄。壹岐州(不残料地なり)。 下松浦郡(平戸五島は其前よりの分地と見へたり)松浦七島の内にて幕下なり。料地にてはなし。 凡そ高三十五萬石計りの由申傳ふ、近國に幕下多し、筑前國名珂郡の加藤氏、同國十七郡の原田氏等は皆松浦黨にで吉志峯の幕下なり。 五十四 波多家分限並神社記 松浦古事記参照 五十五 波多三河守親公書置之事 同前 五十六 波多家代々法名 同前 五十七 波多家の臣殉死之面々記 同前 五十八 鵜殿山平等寺略縁紀 夫れ山の峻秀なるものは僊なり、幽冥なる時は霊あり。故に深山幽谷佛の跡を垂れ給ざるはなし。爰に肥前州上松浦郡唐津城を隔たる事三里許り、西に大河を帯び、東南は峨々たる山あり。前は肥筑の往還にして農民畔を分けて住めり。里中に鼎の如く立てる巌壁あり號けて鵜殿岩屋と云ふ、其来歴を尋るに、日本の延暦十四年釋の空海、東大寺登壇に於て誓ひを立て日、三乗十二部を経て我心に疑ひあり、未だ決擇する事能はず、諸佛願くは加祐を垂れ給はれかしとありければ、夢中に一人告げ宣く、大経巻あり大毘廬遮那神変加持となつく、是眞の秘要なりとありければ、*(穴悟)天後感を生じ、其所尋ねられしに識人なし、適々和州高市郡久米道場東塔の下にて此の経を得たり、巻を披き看閲せられしに疑ひ少しも無かりければ、茲より遠游を志し、同二十三年夏五月遣唐使藤原賀能にしたがひ、渤海に泛び、秋八月唐土の徳宗の貞元二年冬十月長安城に至り、其後西明寺其外の諸刹に周遊し、青龍寺の慧果阿闍梨に謁し、大悲胎蔵の大曼荼羅に入り、五部灌項の誓水に沐し、両部大法秘印信を授かり、大法器と成り、満行具足して本土に帰り給ふ。我朝は人皇五十一代平城天皇大同元年丙戌の秋八月なり、此松浦に着岸あり鵜殿に到られしに、誠に漢土の霊窟にも劣るまじき法地なりとて、先づ中央の峭壁に弥陀・釈迦・観音の三尊を彫刻し給ふ、事一日の中に成りぬとなり。時に異容の人忽然として現はれ出て、巌壁ごとに一切諸菩薩、或は諸天の形像を加刻せらる、其数幾ばくと言ふことを知らず。海師三尊を刻み終り給ひしかば、異人もいつとなく失せ給ふ。誠に神変不思議の妙用、實に凡人の測り知る所に非ず、今巌壁に蓮座を連ね給ふ。諸佛幾星霜を経ぬれば、春秋革葉の苔に覆はれ、顔を顯して裾を隠し、裾を顯はして面を隠し、或は皆好相を没し給ふもの数を知らず。今日のあたり全身に見えさせ給ふ者多からず。往古より参詣の人皆不浄を誡しめ来る。 其後五十三代淳和天皇の御宇天長年中、常暁法師密教を傳へんとて又入唐し、帰朝の時此岩屋に詣られしに、世にあるべきとも覚えざる梵境なればとて、殿堂を建立し、海師の芳志を継んことを思ひ立たれしかば、遠近の農民歓喜の思ひむなし、力を添へ日あらずして一寺を経営し、鵜殿山平等寺と號し、誦経僧齋事終りて常暁は帰洛し給ふ。其後五十四代仁明帝承和二年常暁の弟子何某、海師眞作の薬師並日光月光の二菩薩を携へ来って安置せられければ、庶民随喜の涙を催し、是よりして真言秘密の法窟とぞ成にけり。其頃岸嶽の城主松浦黨深く尊崇ありければ、愈々寺門の繁栄とぞ仰がれけり。然れども其砌西国方々刀鎗の央なれば、幾程もなく兵火の為に焼かれ、本尊は素より殿堂門扉一時に灰燼となり、洞口朝に噴ける雲の如く消へ失せける、只依然として残り給ふは海師の手を労せられし石像のみ、読経鈴鐸の聲を起し、暫く寥々たる山とぞ成りぬ。其後年を経て元亀年中、久家因幡守、昔に替る衰微を悼み、窟中に堂宇を建立し、佛工を撰み本尊薬師並に曰月光の二菩薩及び十二神将を安置し、千歳不易の佛体と秘呪し給ふ。今の本尊両大師是なり。かゝる稀代の勝地なれば誰かは尊崇せざらんや、然りと雖も實に郷のかたほとり、周く知る人のなき事を惜む。思ふにかゝる僻処のうちにも、此佳境あるこそ珍らしく、山川好処造化借、不許世人平地看と云ひしもかゝる処なるべし。一度も此地を経ざる人には、此有様を語るとも誠とは思へず、昔如来霊山會上に於て説法の時、大乗の諸菩薩囲繞聴を傾け給ひしも斯くやあらんと、目のあたり見たる心地ぞし侍る。春の標秋の松葉不生不滅の体を硯はし、其他数ふるに逞あらじ。夫れ朽ざるものは石窟、千歳の昔を尋ねんも此処に限るべし、一度此地に詣でなば其功徳疑ひなしと爾云ふ。 文禄三年秋時 月 日 右鵜殿岩屋は波多氏落去の後は無住なりしが.山崎出丸の主将久家氏、此寺親類なる故に浪人の後、法体して此寺へ蟄居す、子孫当山派の山伏と成り、號明王院、今に相続なり。故に久家氏の古書物当院にあり、其写左の如し。 去十二日、於当構.敵取掛候処、辛労之由、神妙、禰心懸為肝要候、恐々謹言 鎮 判 金兵衛 加冠 親 天文十八年十一月二十一日 波多つほ子 久家與七殿 多年愁訴申候間一應可申付候、方所々静申、後日之状如件 永禄七年参月吉日 波多藤童丸(ツホコ) 久家藤助殿 加冠 藤助 永禄七年参月吉日 波多藤童丸 久家與十郎殿 紙の裏に封の様のものにて久家介と有り。 任訴訟之旨、相知村山崎分之儀申付たり、弥可被抽忠貞之心、為後日依状如件 永録九年五月二十六日 源 鎮 判 久家藤助殿 尾張守之事心得候者也 天正九年霜月吉日 清 親 判 久家勝助殿 官途之事依所望任源介候也 天正十二年十二月十三日 親 判 久家新三郎殿 五十九 相知の舊跡 【熊野大権現】 本宮・新宮・那知三所也、本宮御体は鏡に阿弥陀の像御座します。新宮は扇に薬師の像御座します。那知は扇に観音の像御座します。御神体の裏書享録四年辛未十一月十七日、大旦那源盛・宮司権少僧都燈慶と有り、源盛とは鬼師嶽城主波多壹岐守源盛と申す。壹岐守殿・隠岐守殿・下野守殿・三河守殿と読候、此昔は山の嶺に有之、其道の石段自然石に切付候処、建立の初めは如何様大社と相見へ、社跡も大に、又社地を引き候節細き金佛赤銅の扇の骨など掘り出したり。其頃は八王子など有りし事と思はれ候。其後いづれの頃か社を下段に下げ候事と見える。数十年を過ぎ享保二年に、大庄屋向彦右衛門其外村中、梶山村出入等社を山嶺に建築を初め、地を引き右壇を付けて、同秋より大工を使ひ.翌年享保三戌の春成就致し、同二月二日遷宮、社司佐里村宮崎左京、遷宮の夜本宮の御神体を御移し被成候時、御殿の裏にとんとんと鳴る音三度厳しき音致し候、奇妙なる事に候故記し置候。誠に其夜の神威の貴き事言語に及びがたく候。 宮山の麓に昔の宮司屋敷の跡あり。此処に三社の本地佛有り、又其外下に清龍と云ふ寺あり、妙音寺の末寺也、百年以前寺澤志摩守殿御領地の時、当時の住人西浦市左衛門と云ふ者、寺澤殿の御気に入り御前へ被召仕御懇意浅からず、然るに江戸にて煩ひ浪人致し、休節と改名し此寺に住居す、知行百石付、寺澤氏落去後大久保加賀守殿御代に知行被召上候、妙音寺の隠居所にて有りしを七世の住職竪清和尚の時崩し、跡は畠に成り候。 【あたご地蔵】 平田氏傳蔵と云ふ者の後に在る地蔵は、常安寺と云ふ寺跡の本尊也、あたご地蔵の由、天正十二年大工日高土佐守建立、かんぼう川の右に当りて寺跡有り、常安寺釈迦堂と申侍へたり。又高処にケウセ軒と云ふ寺有り、其本尊有り、但し寺號の文字不知 【向梶山寺跡】 本尊残れり寺號不知按ずるに光明寺と云ふ寺號有之由是ならんか、醫王寺古の末寺帳に相知四ケ寺の末寺有りと記せり。左の四ケ寺なるべし。 【妙音寺鎮守権現】 享禄二年大旦那波多壹岐守源盛と有り。 【花峯観音堂】 梶山氏の子息一叟和尚建立、武雄圓應寺の住持也。 【相知氏居屋敷】 今の大庄屋屋敷にて、外堀内堀屋敷の構へにて有之、外堀は今畑に成て字名外堀と云へり、内堀は屋敷外ならんポフヰ川の邊迄にて有之、今の宿往還は其節、相知殿の小路にて有之、其時は今の川端大日の邊宿にて有之。大庄尾宅下よりの宿、郡て相知殿の屋敷構へ也。油椽之邊をかうや小路と古老の言ひ傳へなり。 【相知殿】 鬼子嶽城主波多殿の同流にて、相知村より厳木五ケ山邊迄知行せられしと見へたり。次第に子孫に分知せしなるべし。相知掃部になり波多鶴田合戦に及びし時、鶴田方へ與せられし故居住し難く成り、壹州に退去せられし其節、元祖相知次郎左衛門尉秀へ後醍醐天皇より被下候倫旨、並に尊氏将軍より下されし御教書などをも持参せられし也。其子孫近年平戸御城主より被召出、相知分助と言ふ人、彼方より当所へ度々傳達有之、騒乱の時節故、傳記等も所持せらる、夫故数度此方へ尋ねに参られ候。 附端書に認め有之候まゝ此処へ記し置候 下松浦相知築地孫十郎正 右人之早領地肥前國伊佐早庄之内、福田村十町(三石孫、三郎跡)同國松浦郡神田吉丸六郎跡五町、同國晴気庄内垂井村一町、納所又三郎跡地頭職之事。 右以西多小次郎・納所三太郎跡、替為勲功之賞、所宛行也、早守先例可令領賞状如件 観應二年十二月二十五日 源朝臣飛 志摩守様より相続之馬場村大庄屋向杢彌、孫団治当人方へ相傳へ候感状之写也。 【梶山白山権現】 梶山主計亮建立の由、古来の宮破壊せし故、享保十三年申の春梶山村の庄屋峯忠治郎、施主として村中にて造立致候、大工古川又市満鳥の住。 【梶山氏】波多殿落去之節、波多殿の奥方を伴ひて武雄に引越されし故、朝鮮御征伐之節、三河守殿御出陣之留主居、梶山殿へ被仰付、鞍置馬二十疋、侍二十人を付け被頼、相知穐山二ケ村を知行すと、此書付は今穐山氏所持せられし由申候。武雄殿は龍造寺隆信の手にて、三河守殿御簾中と御兄弟なりし故、彼方へ引越し直に家来に成られし、其後故有って穐山源四郎と申す仁、武雄家を退き伊萬里へ居住して、今居られしと也。 【馬場村大庄屋】 向主税之助初て大庄屋被仰付、喜左衛門・彦右衛門・杢彌迄六代相続致候処、延享二丑七月役儀御取揚げ、其跡瀧川村大庄屋市丸儀太夫へ被仰付候、同丑年より寛延二己四月預に付、役儀御免被成、其跡彦右衛門甥平蔵・梶山村庄屋相勤候様被仰付候。 【梶山村庄屋】 峯孫兵衛初て庄屋披仰付、孫兵衛・彦八郎・忠次郎・平蔵・忠八迄七代相続致し候。 【立川村盛家松】(西國盛衰紀に瀧川とあり。) 天文八年龍造寺山城守家□に多勢を以て日有城鶴田兵部大輔を攻し時、鶴田方激戦し家□の舎弟盛家入道剛雲、軍兵を城に差向け、其身は立川村にて軍の下知して居られしを、鶴田方より峯刑部伏勢を以て、盛家を討申候。 【ハネンキヤウ六地蔵】 天正十二年馬場駿州大守と銘有り、今は文字消えて不明。 【伊岐佐村若宮八幡】 相知小太郎入道蓮賀の二男向次郎源弘、観應四年の建立、佛師奈良方宰相湛勝の作なり。 馬場村宿のはづれ往還より右の方に若宮園と云ふ畑有り是は則ち伊岐佐若宮大明神の園の由申傳ふ。 【山崎村構の城】 鬼子岳城の出城構への城也、其節の往還は中山を経てハネンキヤウを通行せしと申候、山崎・伊岐佐境の山側に一間堀と云ふ所あり、是も城の要害なり、同村端に木嶋屋敷と云ふ所有り、是は木嶋刑部と云ふ人の屋敷の由、構の城今は唐津城軍用の為に志摩守殿御代に竹薮に成りし。 六十 波多三河守源親遠流の次第記 (波多家の臣黒川源八郎手記之写) 関白秀吉公名護屋武将御働座の時、波多方より値賀伊勢守・有浦大和守両人当國為案内残し置き、三河守為大将松浦黨七百五十騎にて高麗に出陣。文禄二癸己年十二月二十五日朝鮮順天山に攻入り、同二十九日迄相戦ひ、敵の大勢と数度の手合せ、味方三百余騎に討成され山寺に相籠り、敵二萬騎程にて固まれ、味方纔にて防ぎ難く、鐵砲を以て可相放と下知に依って、大将分十二人討取りし故敵敗軍。明正月下旬やうやう釜山海に出候。名護屋より為年始、諸大名銘々黄金馬代被差越皆々拝受の処、波多氏遅く釜山海へ被出候。太刀馬代名護犀へ持帰候。 大勢被討其働きの次第可言上時無き間、文禄三甲午年二月九日蒙御勘気、松平家康へ御預け候。三河守即時入道大翁了徹と改名す。 文禄三甲午五月 黒川源八郎 朝鮮國魁衆記には、波多三河守二千騎と有り、爰には七百五十騎とある、何れが實なるや可尋。又雑兵共に二千人なるや不詳。 六十一 有馬入道の書状の写 御札披見候、御室豊州に被差遣候節、大小被下置之由に候、殊に藤童殿仮名並御字拝領、千秋萬歳目出度候、従後室被加冠日 御書被持候之條、白地大慶此時に候、猶期後喜可略候恐々謹言 七月十一日 仙 岩 判 名護屋新三郎殿 波多津伯耆守殿 向江対馬守殿 日高大和守殿 浪崎右衛門亮殿 値賀式部大輔殿 仙岩は有馬城主有馬修理太夫義純入道なり。藤童は波多三河守一字拝領其後親と改む。 去十一月武蔵國金井原合戦之砌、父治部左衛門尉討死云々、最も神妙也、可抽賞之状如件 観應二年三月二十日 尊 氏 判 松浦太郎殿 右平原原田氏に写有 六十二 相知・向・峯・佐世保・四家系図 第二巻参照 六十三 波多鶴田及合戦と云ふ事 本書に記す波多・鶴田及合戦と云ふ事、己前大友家より鬼ケ岳城を攻めし時、向城に戸澤某築きし城跡ありしを就中龍造寺家より兵を発する事甚しき故、本城警衛の為にとて獅子城を築れし其時、鶴田越前守前は波多家の大身故、彼城主として差し置きし也。然るに波多下野守殿死去の後、三河守殿幼年故御母後室世を知り給ひし。或時越前守鬼子城に到りしが.如何なる故か有りけん、大手の門柱を三刀切りて、再び此城には入らじとて出られし。やがて近巻之衆を催し鬼子岳を攻め、遂に鬼子岳落城に及び、後室藤童殿(三河守殿幼名)相伴ひ草野殿を頼み居られしとかや。此時相知掃部等も鶴田に属せりとなり。是より先き、有浦大和守は後室の勘気を受け小城の眞名古に浪人せしを、越前守より使を遣はし、我が味方に参らば有浦の本地元の如く宛行んと申越せしに、有浦も折節浪人成る故、鶴田へ従ひ居られし、此時越前守波多の領分不残領地せし也。 大和守或時思ひしは、己前は鶴田有浦共に波多家の臣たりしが、今彼が家に馬を繋ぐ事こそ安からね、我此度事を揚げ鬼子岳を元の如くせんとて、先づ草野に居給ふ後室の方へ七枚起證を書て、偽りなき由をぞ申上られける。後室の仰せには、此頃の侍表裏あれば此豺狼の輩の斯く云事信じ難し、但し七枚起證と云ふ事遂に見たる事なし。兎にも角にも七枚起證に任せ行くべきとて、有浦が屋敷に御移り有り。草野殿御簾中と後室とは姉妹にして、値賀伊勢守殿の女なり、此緑を以て行き給ふ。 有浦大に喜んで故友の数士を催すに、皆々鶴田に従ふ事本意ならねば、皆有浦に組して獅子城を攻め落し、後室・藤童殿を再び主君となせしと也。此時相知日高日在の鶴田も廻文に應ぜざる故に、当地に居る事叶はず、天正二年壹州に落去せられし也。鶴田方へ龍造寺より二千人の後詰有りし故、波多方より和を入れ候を、鶴田は波多・龍造寺両方へ内通せしと也。波多殿落城の節、領分不残寺澤殿拝領有之候故、鶴田も共に佐嘉領へ引越申候。値賀伊勢守・有浦大和守両人、当國案内者として三州出陣の跡に残し置れし処、主君流罪の砌両人は太閤の御朱印頂戴領地せられし、然るに波多・鶴田・草野の領地不残寺澤殿御拝領・其時両人伺はれしは、我々御朱印地は如何可仰付哉と、太閤被仰出は此度志摩守與力可相勤候との儀故、御旗本にて直に寺澤氏の與力たり、然るに寺澤兵庫頭殿死去の跡断絶にて、大久保加賀守御替地、当代に至り御朱印も用に立たず大久保公に仕へ、其後御國替の節直に小田原に参りしとなり。 六十四 猪ケ城並釣田氏之事 松浦古事記参照 六十五 猪ケ城の坪数 一 本丸三百六十坪 一 二の丸百九十坪 一 三の丸九十坪 以上六百四十坪 六十六 猪ケ城與力諸士 渡邊民部少輔 下廣出雲守 井手三河守 砥川伊勢守 多良若狭守 江口伊賀守 牧瀬土佐守 船山右京介 加唐内蔵之進 向後主之丞 原主馬之助 厳木朝順 富松主殿助 安心齋 秀月齋 曲淵蔵助 江口甚肋(今波瀬村庄屋) 河原善太郎 中島新五右衛門 岩部源左衛門 尾原先右衛門 岸川仁五右衛門 横尾安右衛門 藤 新三郎 屋那瀬金兵衛 吉松先兵衛 白水関五兵衛 江口清兵衛 市丸與惣兵衛 曲淵仁兵衛 岩水藤次兵衛 西尾市助 市丸又三郎 後賀源三郎 後賀仁四郎 屋那瀕藤七兵衛 井手忠兵衛 藤江右門 以上三十九人 六十七 猪ケ城道法 一 本丸より二の丸へ二丁 一 二の丸より三の丸大手へ二丁 一 迫手より山口迄十二町 一 山口より番所迄二町 一 番所より往還迄四町 以上二十三町 六十八 厳木村古戦場並諸舊跡 【大曲】天正の頃龍造寺隆信の為に討死す、此墓所波瀬村「ハトウ」と云ふ所に在り。岩屋猪ケ城主鶴田越前守源長と云ひ傳ふ。前文に在る釣田とは別姓なるべし、其暦遙に相違なり。説に曰く、嫡男上総之助源竪は厳木村の内大曲と云ふ所にて討死と云ふ、次男戸田之助は薩摩へ落行、島津を頼居、後年島津氏龍造寺氏を亡す時戦功有り。 今鶴田権現と崇て、別に石像を立て村民請願を所る。 【陣の元】厳木村に古戦場有り今陣の元と言ふ、野原也。同畑開発の時、矢の根・鎗の穂など堀出す。双方討死数多と見へて、今に年に四五夜、又は十四五夜も怪火あらわれ、南北に別れ陣を張るの体也。暫く在て、兵火散乱して乱軍の体に見へるは村民皆知る処なり。 同処の北邊町の峠に自然石有り、首塚可成か。 【達中】同村大曲と言ふ処に達中と言ふ処あり、言傳ふ建武年中厳木八郎守則と言ふ人、先祖は勢州浪人満塩志摩守・其子駿河守・其子孫八郎守則・厳木を領すと云ふ、此墓所ならん。又前文に言ふ上総之助墓とも言ふも不詳、上総之助乗馬共に死しければ馬塚とも言ふ、印に大石を建つ、大庄屋宅の少し上に有り。 【大谷】同村大谷と云ふ所、往還より三四町谷奥に清水の観音とて絶景の立岩あり、俗に大葉と云ふ風蘭・岩紐・石こくの類多く生す。此処に樵夫有り炭を焼て業とす。後年富家に成りしと、様々の説有り、此所より古銭杯堀り出し今持傳ふ者有り。○字なし小形薄悪銭也つるの伊與助所持いたす 【蔵王権現】蔵王権現厳木の宗廟也。寶姓坊の預りなり、古き鳥居に苔に埋れて鶴田公寄進也。此神体昔洪水の為に打流され、鶴田原と言所に浮きつ沈みつ流され玉ふを、一羽の雉子飛び来りて両の翼に乗せ参らせ、高き岡へ揚げて神体を守り居るを、鐵漿せし女是を見て、神なれ共かゝる時節に及んで、雉子の為に助けられ玉ふ事、神威の薄き故ぞかし、神を頼むは愚の甚敷きものと、手を打て笑ひけるとかや。其後その社殿へ移し奉りてより十四五才より上、歯を染し女は此宮に参詣ならぬとかや、又此神のしめ縄の元くゞる者、雉子を喰すれば忽ち崇りを受け、血を吐き死と云ひ傳ふ。案ずるに女の月水を忌む神と見得たり。 【熊野権現】熊野権現は牧瀬村の宗廟也、寶姓坊預りの宮、此社岩屋の中に有り。すべて此邊巌聳へ行場ありし所、所々に有り。昔は佐礼嶽に掛り、修験法行を励ます霊山なりし由、其故にや金剛ひら、山伏嶽などいへるあり。 【一識山敬龍寺】牧瀬村河内上の山に古跡あり、委く尋るに、此所大永年中とかや将軍足利義植の時、橘の某とかや云へる公家、させる罪有之此所へ配流の身となり玉ひ、五年の星霜を重る其中に、所の賤の女此の公家と浅からぬ仲となりて懐妊す、只ならぬ身の様を語りければ、我今さすらいの身なり、只今何と申し可置事もならず、運に叶へ勅免もあらば、都へ伴ひ如何様とも可計とありければ、女も嬉く思ひ大切に仕へ参らせける内、勅書下りて帰朝すべき由申来る、其析彼の女が事を乗せられけれ共、都へ供する事叶はず、恩愛比翼の中をふり捨て都へ帰り玉ふ。此時被仰けるは、出生の子男子ならば出家となし一寺を建立し住職とすべし、必々疎略に育つべからず、成長に及びなば其沙汰可致と申し被置、別れを惜み都へ帰り玉ふ。女は唯泪にむせび、賤敷身のかゝる貴き御方とわりなき中と成り参らせし事、三世の因縁とかや可申と、一人の兄の方へかへり、程なく産み落せしが玉の様なる男子なりければ大切に養育する内、月日に関守あらざれは既に七才の春となる、右の様子を郡へ申送りければ、衣服に金銀を添へ、文こまごまと書認め、其邊名高き知識の和尚へ頼み弟子となすべし、名を一識と名付くべしと申参りければ、小城郡の或知識の和尚へ頼み遣しける、元来聡明英智にして、十八才と成りける年、此里に帰り一寺建立す、我名を山號とし一識山敬龍寺と寺號を付、中嶋村の内片峯と言ふ所に建つ、其後如何成訳にて潰滅せしや其故知れず。本尊正観音一体残り、背に大永七年と書付在り、今門前の観音と申て諸願を受玉ふ。此邊寺屋敷、寺田・原門前・大門杯と云ふ屋敷あり、同地にかゝる井関を寺井手と言ふ。瑞久寺とも或書に見得たり。 【若宮八幡宮】中嶋村宗廟若宮八幡宮あり、古き鳥居に鶴田上総介源堅寄進と有り。 【若宮の石像】同村若宮と言傳ふる石像あり、石の扉に鶴田久善坊・片扉に天正十八年九月日と有り、此里白水一統の氏神と称す。祭礼十一月二十日 【竹倉の清水】同村笹原の内に竹倉の清水とて有り、此清水は橘の何某配処の節召れし清水故、都へも知れる人有る由。 【天山宮】廣瀬村之内巌木組中之宗廟也。鶴田越前守源長殿氏神と申傳ふ、鳥居の銘にも鶴田越前守源長寄進と有り、再建として天正十八年八月日とあり、寄附物祭器社鉢など残れり、銘に鶴田越前守と有り、馬場と言処・塩井川・鳥井川原・杯と言ふ処あり、今田野と成り残る。 【水神社】裏川内村に在り、橘朝臣渋江公英之塚也。元佐嘉領嬉野の人なるよし、いづれの時此里に来りしか不詳、按ずるに今嬉野より来りし渋江権之頭は其末孫ならん。 【鴨打道可之塔】竹有村サンタイと云ふ処に鴨打道可之塔有り、道可は下平野村領主也。 六十九 白水氏之由来 猪ケ城を龍造寺より厳敷攻ける時、城方能く防て落ちず、城内水乏しきを知って水手を断ち切る。城方久部助左衛門治、早く知りて白米に灰をまぜて洗ひ見せけるに、遠方よりは水の如く見へけり。佐嘉勢見て水は澤山なりと思ひ、佐嘉本城へ暫く引取りける、其跡にて能く拵へたり、此武功によりで久部を改め白水氏と給ふ、今も厳木邊に白水氏の末孫あり。 七十 坂本道秀之事 人王六十二代村上天皇の御宇天暦元乙未頃(文化元申子迄凡八百年程)和多田村領主三千石坂本右京之進が末葉、坂本道秀と云ふ小身にて波多氏に属し、武士を止て隠居の体にて歌杯を詠み楽み居けるが、所の宗廟なれば天神を信じて、常に太宰府に参詣被致けるが、或時柿の枝折を持って岸嶽城に可参、瓦屋橋まで被参けるに、異人に行逢ひしに、彼異人歌を詠み、柿を好む体に見へける故に、返歌して柿を参らせんと思ひけれども、俄に歌出来ず、兎角する内、異人は行方知れず失ぜければ、本意なく思ひ、道秀岸岳へも不行、私宅へ帰り思ひ煩ひ居られけるが、遠からずして身まかりける。筑前太宰府より一人参り、此処に坂本道秀と言ふ人有るや、未だ存命成る哉と郷人に問ひければ、郷入答へて其道秀は先達卒し給ふと申せば、旅人より某は太宰府天満宮の御供師なるが、先日より御供飯二つに割りてあり、其上此間夢中に御託宣有りけるは、松浦郡唐津和多田村より何某と言ふ客人有り、以後は供物を二つ宛供ふべしと有り、余り不審なる事故是迄尋ね来れりと語る、其後村民太宰府へ参詣し承り候処、小社建立有って道秀神社と申由言ひ傳ふ。遙の後、又和多田村の民太宰府にて尋しに、社破損いたし今は御殿内に祭るなりと言傳ふ、其類葉大杉村に末孫有り、其家に古書有るよし。傳へ聞まゝに書記す。 葛原親王後胤(和多田村領主三千石) 坂本右京之進 波多家を去て隠士と成波多侯郡手代百石。 坂本次郎平道秀(文禄年中百姓と成る五十三才。) 佐本音左衛門(五十三才) 伊右衛門(七十三才) 久助(六十三才) 藤助・福兵衛・國助。 七十一 平野氏之事 鬼ケ城の與力百騎之組頭平左衛門、御給田の外に大杉村百石を加増して氏を改めて大杉と號す、其子孫大杉千太左衛門波多家に属す、然るに波多三河守死後殉死す、墓所人野村に有り。末葉秀嶋某大杉村庄屋を勤む、退役の後醫を業として秀島了伯・其子玄伯と言ふ。最も屋敷は除地之由申傳ふ、別孫相続彼家に古書持傳ふ。喜兵衛同所にあり、佐左衛門墓所は北の山に有り、醫師了伯墓は東一丁に有り、玄伯同断。 七十二 岡本氏之事 嶋村の後見岡本山城守是吉は峯の舘に住す、後筒井村を築き住居す、其末孫岡本鴨之亟の末葉岡本何某と言ふもの、行合野村庄屋と勤。 七十三 大智院夜討之事附幸松丸之事 下松浦平戸の城主、松浦壹岐守弘定公の嫡男松浦肥前守興信公は、松浦七黨の其一人として國民を撫で仁政成りしかば、次第に帰服の國人多かりける。然るに松浦丹後守政は、相神浦・有田・今福・山代を領して大智院に域廓を構へをはしける。元は当家の一族なりしが、如何なる故にや互に確執に及び、取合ひ及ぶ事度々也。然るに天文七年戊戌三月崎邊関狩を催し、石たけ山南の野をとり巻き、くつわを双べ討手を揃へ、足軽・土民・山を伐り、野に火を放ち、獣を多く狩出すに鹿一つ政の前を走り通りしを、山田四郎左衛門追様に射留めたり。政是を見給ひ推参の至りと甚怒り追出されける、山田兄弟せん方なく、打連て興信を頼り居けるが、狩場の意趣わすれがたく、折を以て相神浦へ御出陣を勧めける。興信も日頃憤り止ざれば相神浦へ寄せよと、天文九年庚子八月二日大野五郎定久を頭として、南入道宗知・西玄蕃・加藤左馬・近藤・一部・籠手田・小佐々・田平の一族都合二百余人、同夜子の刻大智院の城に押寄せ、大手・搦手の手分けをなし、計を定め同時に閧の声を揚る、城方にも爰をせんどゝ守り居る矢先、北の方人知らぬ細道有りけるより、山田兄弟案内にて城内に忍び入り、ひとしく家々に火を掛、思ひもよらぬ方より焼立出れば、下部共逃迷ふ、追かけ切り伏せ、何処に政はおはしますと尋る処に、政は太刀を横たへ童子二人召具して出玉へば、山田兄弟名乗かけ御自害をすゝむ、童子御袖をひかへ、御自害は心静に被遊よと、政を奥に入れまいらせ、狼籍は山田兄弟君に背く天罰思ひ知れ迚小長刀振廻せば、流石に山田も気白けて見へにける、斯の間に寄手乱れ入り火は盛んとなり、政も自害有り、童子も討死しければ、政の首を取り奉り、内室並に子息幸松丸を生捕し、夜中に平戸へ引取りける。幸松丸其時五才、内室は三十七計りにてみめかたち優しかりける、興信憐みて河内に小家を作り、河内殿と申して居らしめける、内室は夫を討れて身は敵に渡りぬる事の悲しさよ、兎にも角にも物うく、良々もすれば自害の色さへ見へければ、興信も此由を察し、幸松丸に頓 て本領を返へさるべきなどいひなだめ給ふにぞ、少しは心とけにける。去程に、相神浦落城の夜、他所にて死を遂げざりし侍共、主君を討たせ御妻子を奪れし事口惜く思ひ、如何にもして此人々を取返さんと、河内の館へ忍び入り見れ共用心厳しければ、奪ふべき便なかりけり、扨一部・籠手田の両人が、興信を諌めけるは彼幸松丸殿成長せらるれば当家の大敵たるべし、虎を養ひて患ひを残すと申事の候、彼の人を誅せらるゝ方宜かるべしとぞ申ける、されども興信許容なければ、両人彌憤り、所詮一命を捨てゝ幸松殿を討奉らば、君への忠節と思ひを定め、窺ひけるを内室密に聞き給へば、或夜忍びやかに、此事を頼み人との文を認め、有田・庄山・池田が方へ遣しける、庄山返事に今福の年の宮は幸松殿氏神にて渡らせ玉へば、御詣成されよ、其節奪ひ奉らんとの由を書て、彼使に参りたる下女の着物の襟に縫入れて返しける、内室此状を見給ひて、十一月十五日年の宮詣りの暇を請ふて、幸松丸殿を被遣、一部・籠手田斯くある事とは夢にも知らず、帰り道にて討奉らんと覚悟して、あながちに御供申ける。今福には兼て期したる事なれば、池田の庄・大曲浦の人々形を替へ、此処彼処に隠れ居て待ち受ける。既に幸松丸殿は年の宮の拝殿に上り玉ふに、大鼓・鈴ふる聲の内に、脇より彼人を盗み行方知れず、頓て有田唐船の城に籠め奉れば、家の子郎徒馳せ集り、昔に替らず栄へ給ふ。其後相神浦、飯盛に移り玉ふ、時に十五才とぞ聞えし。(唐船城主の末葉有田栄墓所、中里村に有り子息與八郎今佐賀の家臣也。) 七十四 相神浦合戦付北野源蔵が事 興信の嫡男松浦壹岐守従四位侍従隆信は、幸松丸を盗れし事を常に甲斐なく思召、相神浦を攻取らん事のみ心にかけ、永禄六年癸亥十月、大野豊前定房・同次郎右衛門・古川治郎左衛門・同兵蔵・一部勘解由左衛門・籠手田左衛門・西常隆信・清田平吾郎・中山治部・船原與一兵衛・大嶋筑前輝家・同舎弟民部・佐々刑部・南蔵人・志方市之允・山田忠左衛門・同弟太郎左衛門・加藤左馬・長嶺大膳・齋藤左馬・志自岐・松江・近藤・小田・田口の一族都合二百五十騎を引率し、佐々村戸屋の城を本陣に構へ、大野次郎右衛門は東光寺に屯す、相神浦にも隠れなかりしかば、東甚助・大官神宮司東五郎・同四郎・松川入道・田丸入道・北川兵部・山本右京・山本庄山・池田・鳥邊の人々三百八十騎、飯盛の城に籠りて待かけたり。そもそも此飯盛の城と申は、高き事雲に聳ち、後は古木枝を重ね、東は巌石、麓は大川、西は滄海、其外堀をほり水を湛へてかしい川西方寺迄、要害厳敷堅めければ容易に攻むべき手立もなく、まさる口の浦にて、兵船に思ひ思ひ幕打廻し、矢尻を揃へて責かけたり、城方に北野源蔵・松尾與三郎・丸田源蔵とて強力の精兵有しが.タフカ山の辻より北野源蔵直勝と名乗り、巴の幕の船に立たる鎗を射折って見せんとて、ひやうと放つ失あやまたず、鎗の柄より射折って船の内に落ちければ、矢は表の閂に根白く射出したり、谷一つ海の面を二丁計り隔るに、扨も射たりと敵も味方も感ずる中に、又一筋放つ矢に、武者二騎射伏せ、剰へ船玉に射つけける、元暦の昔那須の與市八島にて扇の的を射、建武に本間孫四郎・和田御崎にてみさごを射けるも斯くやあらんと思はれたり。此後隆信慎み深くして、数ケ度の戦止ざりき。 七十五 丹頂鶴来る事並休嶽物語の事 永禄七年甲子正月朔日紫加田美濃は隆信の御前へ出仕して、今日は自出度元旦也、四方に霞棚引き日影長閑に昨日の空に似ず候、某が愚室へ光臨被遊、古木の梅を御覧あれかしと進め奉れば、隆信喜ばしく、則ち鷹しやう被成帰りに紫加田が室へ立寄り給へば、實にも其処なる梅今を春べと香を放ち、紫加田も様々*を盡せば、上下悦び酒宴も酣なり未の刻計りに西方より白鳥一つ飛来って庭上に舞ひ下るに、隆信餌をまき玉へば穏かについばみ、暮方に又西の方へ飛び去りける、大野豊前申けるは、斯程に人繁く、鷹など多き処に鶴の来る事、凡慮に不及不思議と申しければ、隆信さる事也、古人も白魚船に入りしを吉兆なりと、我家にも吉例あり、先祖弘定有馬と一戦の折、敵は勢日々に重り、味方は勢日々に落ちうせ力も盡き頼がたなく、臘月晦日の夜小船に取り乗り、船中にて幾度も自害をせんとし給ふに、西濃・宮内・大嶋等心強く自害を止め、多久嶋へ落し隠し参らせたり。弘定今は神力ならでは不叶と、賀州白山の方に向て祈誓し給へば、鳥一羽何処よりともなく船のへさきに飛び来り、少しありて休岳の方に飛去る、弘定思へらく休岳は白山と御一体にて渡らせ玉ふ、今の鳥は権現の使にてこそ有らめと、感情肝に命じたりしに、沖の方より兵船一二艘漕よせるは敵ならんと見れば、筑前より金銀兵粮を送り又武士百余人の加勢にてぞ有ける。弘定喜悦浅からず、頓て其船に乗移り、暫し筑州に忍び居玉ひ開運の後ち本國へ帰らる。其鳥飛来りしも今月今日、符節を合せたれば先の鶴も亦瑞相なるべし。休岳も昔養老年中、白山の明利権現たいちやうに告げて曰く、未申に当り西海の隈に休岳とて神佛の集り給ふ霊地有り、我れ彼山に至って遠國人民の誓願を助けんと、白雲に乗じて西の空休岳に来り給ふ、彌陀・正観音・十一面観音と顯れ給ふ、其年たい鳥来て開張せり、今の安満嶽是也、其時二つの鳥権現に随ひ来り、今に安満嶽をはなれざる由、記録顯然たり、其鳥ならんと弘光も頼母敷思召されけると、昔物語りに有りと宣ふに、傍に居ける酒屋と言ふもの、横手を打ち鳥の飛来るは君・國郡を取り給ふ喜瑞と興じける、天晴いさぎよき哉と座中えつぼに入って笑へば、隆信も快く夜に入て帰城せらる。 七十六 半坂合戦の事 同年八月朔日大野次郎右衛門定時は東光寺を堅めて居りけるが、蜂の久保の東一黨を追落さんと既に打立ける処に、老僧定時に申けるは、某が弟子に傳育とて幼少より召仕ふ悪僧の候、力は三四人に勝れ候、是と具せられんや、さあらばとて呼出し見るに、丈七尺計、眼三角にて、胸・手・足に至るまで髯深く、黒糸の鎧に白星の甲を猪首に着なし、三尺余りの太刀をはき、筋金入たる樫の棒をつき、仁王立に立たりける、定時悦び此僧を件ひ、辰の刻計りに蜂の久保へ押寄る、東五郎秀勝百余人にて半坂に出合、双方入り乱れ戦ひけるが、追下し追上され、勝負も未だ付ざる処に、傳育件の棒をふりて左右をにらみ、敵勢を蜂の久保に追籠めければ、戦ひ暫し止にける、申の刻計りに東四郎秀次と名乗りて、十五騎にて喚めいて出けるを、傳育進み出で、哀れや此棒にて汝ばらを打殺さん事よと、走せ上り上り棒を振り廻しけるが、或は甲をひしがれ、或は髄を打たられ、倒れ伏すもの多かりけり。秀次叶はじとや思ひけん、引き退く所を傳育、きたなし返せと追かくるを、出丸より放つ矢に傳育が眉間より首の骨迄射付られ、どうと伏して空敷なる。其後東光寺の老僧も破れたる鎧を着し、今日の勝負如何と尋来りしが、傳育が打死を聞て、扨は生て甲斐なしとて夜中に長刀を横たへ、敵陣へかけ入るを定時見て、老僧を討たすな、続け続けと下知しければ、味方数十人切先を揃へ、打ち入り戦ひしが、後にはかゞり火踏消し双方へさっと引きしが、哀れ老僧も終に射られけり。 七十七 飯盛攻之事 永禄八年乙丑五月五日飯盛攻と、兼てひそかに陣触れせしかば、五島より奈留三郎左衛門七十騎にて走せ来り、遠藤勘解由左衛門・弟與助・四十騎にて馳せ来る、其勢合せて一千余騎、速に半坂を打越し、先づ蜂の久保の東一黨を追立て、其邊に放火しければ、敵中里大宮表えさゝえず引行く処を、先手の大嶋・一部・籠手田・等白魚川を打越、城を乗取らんと勇むを聞て、隆信使を以て被仰付けるは、今朝より西の岳雨ふり、里迄もくもり来る、一定今夜は大雨なるべし、城乗停止たるべしと有れば、其旨一同に申せども、是は何事をか触れ給ふ、今夜の城乗何の子細かあらんと思ふ者も多かりけり。斯る処に大雨車軸を流し降って、川田原迄流れあぶれければ、寄手も武邊の辻迄引退く、今半時御下知をそかりなば、皆溺れて死すべきものをと悦びけり。兵法にも雨ふりて水至らば渡らんずる者其定まるを待つと言ふは是なるべし。城方にも屈強の侍討取られ、恐る処に牛の叫び計りなりしが、大水に寄手少し引取りけるにぞ心を休めける、翌日川水も減じければ、今日城乗りと定め、辰の刻に寄手大手の川向へさし寄る、城方には今日を最期と思ひ定め、東甚助時忠雑兵三百人引卒し出向ひ、北野・松尾・丸田等の精兵三十余人、指し詰め引詰め射たりければ、寄手少々漂ふ所を、いざ川を渡れと、さつさつと打入る、小勢なれば一つに成って走せ込めよと、まっしぐらに面を振らず掛り入るを見て、隆信下知して曰く、敵の気を疲らせよ、急にせまる事勿れと、魚隣にかゝれば鶴翼に開き、東はさわがず敵兵と思ふ様に気を合せて半坂をさして引玉へば、勝に乗りて追かくるを、後陣中野まで、五六度返し防ぎ、両陣漸く隔たりけり。 七十八 大島筑前兄弟自害の事 斯くて寄手栗村の小山に退きける処に、奈留三郎左衛門は醫王寺を心にかけ引取りけるを、北野源蔵追かけ放つ矢に、三郎左衛門首の骨を射られ馬より落ちければ、源蔵心眼をたゝいて奈留殿を射留たりと叫べば、大曲・甲斐瀬・武邊・波瀬・松の川・神宮司の族は桟敷山にはせ廻り、旗本を打取らんと心がくるに、古川兵蔵いまだ十八才なりけるが、引返し大勢を追払ふ、青野が首を取り、鮎川・松江・奥浦・紫加田は眞空寺山をさして引く、宮崎蔵人と名乗かけてひやうと放つ、紫加田も放つ、蔵人は胸板を射られやにはに伏す、紫加田は疵もなかりけり。大島筑前照家・弟民部進三次は殿りして敵を防ぎしに、佐々・南・中山・紫加田は大嶋に力を合せんと、眞寶寺前へ取って返し、開きつ合ひつ戦ひしに、中山治部兄弟・山田忠左衛門兄弟・紫加田市之丞・南蔵人・佐々刑部・船原・城・遠藤兄弟討死す。筑前頼み少く如何せんと見る所に、江羅の前より観音堂・本山・小川・内江迄敵兵さゝへたり、横尾は相桐山家の山賊矢尻を揃へて待かけ、進退是極りたれば、澄月に最期の言葉を交し、少し高き塚に走り上り、郎徒五六人に防ぎ失射らせ、心静に自害せんとしけるが、澄月矢疵より血の流るゝを押止め、 澄月の村たつ雲に誘はれて暫しは影の見えぬ有明 と云ひ捨て、刀を胸板にさし付け伏ければ、筑前涙を流し矢立を取出し 定めなき雲かくれとは思へとも見へすは惜しき有明の月 と書付、さらば澄月が弔ひ軍せんとて、三尺余の太刀のさゝらの如くなりしを、小刀にて押けづり、かけ出しけれ共、今朝武邊の辻より二十七度返し合せ、三十四人切伏せける程の事なれば、切疵明所なきに力弱り、是迄と思ひ頸当を引切裏着突貫き自害する所に、北川兵部が郎徒走り寄り、首取らんとすれば、筑前大の眼と見開き、某の首汝等が分として叶はぬ事とわめけば、其勢にへき易して見ゆる処に、北川太刀をかざし寄って言ひけるは、筑前殿今は叶ふまじ御首を某に給るぺしと言へば、筑前あざ笑ひ、身は石火の如し、風に向て辟易し、生は朝露に向つて消へ易し、心得たるか兵部と有ければ、兵部聞て石火(牡蠣)は吸物によし、朝露(長老)は佐徳寺の住持よとて首をとり帰る、其怨念にや兵部頓て病ひ付、是に澄月あり、彼所に照家有るなど、物狂ひして怒りける、同霜月五曰に佐徳寺に塔婆を建て供養しけると言ふ、斯て隆信討死の侍を尋る所に、宗徒の者四十余人、雑兵三百余人と申す、隆信手負には醫療を加へよ、斯る時節、親討たれ子討たれ、愁ひの泪に沈み.用心怠らば夜討に逢ふことのあるものぞ、役所役所厳敷して、夜廻り怠る事勿れと申渡し、本陣には伽の者に舞をまはせ、笛を吹かせ、睡眠の障もなかりけり、如案城兵今日合戦に打勝と云ふ共、屈強の侍討死しければ、長き籠城も成り難し、いざや夜討せんと夜に入り半坂を打越、忍び寄るに役所々々用心厳敷、本陣には舞なぐさむ聲して静まりかへりたる体を見て、いやいや思案に違ふたり、なまじひなる事仕出したらんよりはとて皆引取けるなり。 七十九 平戸相神浦和睦之事 永禄九年丙寅夏五月五日、飯盛勢江迎迄打寄せ戦ひしかども、双方共に討死数十人に及び、墓々敷勝負なかりけり。明れば永禄十年丁卯三月二日、平戸勢七百余人中野を焼き払ひ、武邊の邊迄に陣を取り川際迄攻め寄せたり。城方には北野源蔵・松野尾與三郎・丸田源蔵に射手数十人を添へ、三つの口を堅めさせけり。其此稀れなりし鐵炮を隆信方に持ちたれば、先三人を忽ちに打殺す、城方手兵と頼みたる三人を打れ力落したり。されども飯盛は地の利を得たる城廓、其上河水増さりければ急に乗取るべからずとて、隆信は佐々東光寺を本陣として、野武士を催し、相神浦を夜討強襲させ、城・鴨川・野中の一族に城の通路をふせがせ、同乱暴などさせられければ、相神浦の士民飢に及び死をまつ計り也。昨日迄頼みたる人も今日うせければ、光宗作と言ふ連歌師有りけるが、古人は栄へし時も有りしに、頃日の騒動に憐む者も無く、糟糠も有らざるを見て、永禄十一年戊辰春の頃何物かしたりけん大手の椎の木を押けづりて人はみな四月五月に田を植ゆる宗作ばかり春うゑをすると書きたり又夏の頃其傍に 春過ぎて夏きの変もなかりしに腹を干すてふ事をかく山 と書添けるを丹後守見給ひ、扨も我一人の故に士民労れぬる事よと切に思はれし故、龍造寺の後室・主殿高明が再三の取計ひにより、丹後守を家人分に成し、隆信の三男九郎親を養はしめ、娘を妻はし、其子源次郎定は秋月家より縁組せしめ、泉州の堺へ證人として三年の程居る事、其後高麗にて討死也。是より以前、丹後守家人池田が嫡子を丹後守聟に取らんと言ひ居りて異変せられける、池田是を恨みに思ひ、有田山代の者をかたらひ龍造寺へ降参す。 八十 志佐加勢之事 志佐には源次郎純正・舎弟源七郎純元・名護屋に一城を構へて居けるが、純正は有馬の修理太夫が聟となり、純元は隆信の聟と成る。然るに純正死去の後、士民純元に帰伏の志有って、純正の子息源十郎純員十才なりしを、後室と談らひ純元に隠し、密に欺き出し有馬へ帰し、龍造寺・松尾・平川・馬場・押淵・森の人々純元を主君と頼み守護しける、有馬修理太夫此事を口惜く思はれ、共後十五才に成る純員を大将として、三百人差添へ名護屋の城に押寄せ、閧の聲を揚る。城方には夢にも知らざる事なれば、周章騒ぎ防ぐべき手立なし。有馬方へ降参の者有つて、案内者と成りければ、要所を越へ攻め入りける程に、二三の廓を乗取られ、本丸の嶮岨を頼み籠りたる計りにて、轍魚の小水を望む心地にて侍る処に、平戸より加勢二百騎出て来りて、有馬勢を追払ひ、差詰引詰射たりける。折節嶺に霧かゝり谷も分明ならざれは、有馬勢行方を失ひ落ちころぷ者多かりけり。岩井原にて一返し返しけれども、引立たる臆病神に、我先にと逃げ行く処を、此処彼処にて打取り首百余生捕五十人、純元の實見に備へければ、今度の厚恩忘れがたしと御感あり、士民も彌帰伏せり、其外深江将監は江迎の邊を領して被居けるが、隆信になつき属しけり。 八十一 波多三河守後室之事 波多三河守鎮は上松浦郡と壹州を領せしか、三河守に子無ければ、誰をか跡に立つべきと評定しけるに、三河守の舎弟志摩守の子息高・重・正・三人の内をと、家の子共は思ひけれども、後室許容なく、有馬修理太夫の二男藤童丸こそ、三河守殿の孫にて侍れば、此人にこそ波多家を継しむべしと、隠密の諸令に及び、同心すべき侍には美女金銀を取らせ、否む者を遠ざけられ、何卒して藤童丸を取りたしとの事なりしが、家中一致せざれは後室是を恨み、是は日高大和が力よとて、遊宴の折節鴆毒を與へしこそ恐ろしき。幾程もなくして大和死去せしかば、嫡子甲斐後室を深く恨み、永禄七年甲子十二月廿九日岸岳城に出仕して、歳末の祝賀終り退出せしとき、それと相図しければ城に火をかけ焼立ける。此煙を見てすはや心得たりとて、甲州同意の者ども、我も我もと馳せ来りて、憎しと思ふ者をば、射伏せ切り伏せ散々に追立ければ、後室もせん方なく後ろの谷を傳ひ、近き女共七人計り召具し、其内に甲斐が娘を人質に取り、打連れて草野をさして落ち給ふ。其後甲斐は己に助力したる侍に俸禄を與へ、上松浦と壹州を守護し、岸岳の城を堅め居ける、後室密に龍造寺を頼み、甲斐を追落さんとの企有るよし、其のこと隠れなかりしかば、永禄十二年己巳冬の頃甲斐方ひたすらに隆信に加勢を乞ひければ、鎮信を大将として其勢三百余騎、兵船に取り乗り同十二月廿七日に星賀浦まで出給へども、北風烈しく吹きければ、鎮信思し召すには、折節月廻りにて人々油断すべし、斯かる時節を伺ふて龍造寺よりひそかに岸岳へ押寄せたらんには、如何にして助力せんと、思召しけれど、波涛静ならざれば一両日を過しける。案の如く歳の夜、龍造寺勢押寄せ、閧の聲を揚げたり、甲州兄弟来客を集め遊宴の央ば成りければ、是は是はと騒ぎたる計りにて、一支へもなく追立られ、城中は早焼け出しければ、甲斐兄弟漸く小船に乗り、壹州の方へ漂ひ行く。永禄七年甲子の今夜は後室を追落し、今年今夜は其身追落さる、實に転変の世の中也。 去程に舎弟信助は、家の子竹下伯耆を近付て、斯様に落ち人に成り、行末も知れぬ身と成る、付ても甲州の息女何方へか隠し置き、如何なる浮目か見給へると、心細く泪を流し被申けれは、伯耆さん候、是は過し年後室落去の時、質に取られ給へば定めて草野にて候はんと申せば、日高兄弟彌愁の泪袖に浮ぶ計也。伯耆斯て泣かせ玉ひては愈々心も乱れ、頼み甲斐なき事に存候、御心強く思召されよ、息女は某たばかり出し、壹州へ御供可申候、所詮此事成難き時は姫君を一刀に差し殺し、某と共に黄泉の旅に赴候共、中々人手にはかけ申すまじ、片時も早く壹州へ御着候得と、我身は小船に乗移り海士の形と成り、上松浦へ漕ぎ戻し、其日の暮に草野へ尋入って見るに、古木森々として人目稀なる古寺かと覚敷処に、四方に堀を堀り、用心厳敷体、必定比内にぞ御座すらんと、門外を見廻る処に、番の者何者ぞと咎めければ、某は日高甲斐守が妻に使はる下郎にて候、岸岳を追落され候故、今生の暇乞とて娘の方へ文と形見を贈られ候、是を届け給はれと言へば、番の者不審なる者ぞ、打てや殺せやとひしめけば、彼の男大聲をあげて手を合せ、助け給へと泣叫ぶ体、余り不便に思ひ、たい松をとぽし能く見れば、色黒く身に綴れを着し、疑もなき下郎なりしかば、斯く思ひ入ったる心底哀れさよとて、姫君に逢せける。 斯て夜も更け、殊更大晦の夜なれば、番の者も酒に酔ひ、前後も知らず寝入りしを伺ひて、姫と乳母とを盗み出し、堀きはまで出けれ共、堀を渡すべき様もなければ、傍に竹の有りしを切りて堀に渡し、其上を傳はせ二女を渡し、我身は走り帰りて、番の者能く寝入りたるを三人刺し殺し、彼の竹より打渡り、三人打連れ未明に船を押出し、明日元日に壹州に着御、両親に見せ参らせしに、数咋見ざりしうき思ひ、悲みの中の悦びと、泪はいとせきあへず、是偏に伯耆が忠節と日高氏も喜ばれたり。 八十二 壹州より諸加勢の事 去程に日高甲斐守兄弟は、壹州に安堵せしか共、上松浦より如何なる企にて爰へ寄する事もやあらん、隆信を頼まばやと、夜遊の序に、意中を図書に斯くと申せば、図書はにっこと笑ひ、日頃某も左様に存ずれ共、他人の心如何と存ぜしに、扨は日高・立石斯の如くの上は誰か同ふせざらんと、立石・日高誓紙を取り替し、壹州一國御手につくべき由、隆信へ使者を立て、其上證人として甲斐の息女を渡せしかば、隆信悦び舎弟豊後守信實と夫婦の約束をなさしめ、壹州へ渡されける。人々悦び大将とぞ仰ぎける。 斯て土松浦よりは壹州を取りかへさんと船を渡せしかども、はかばか敷勝負はなかりしに、日高信助・中尾主計・都合其勢三百余人、元亀二年辛未四月十日に船を出し、其暮れに名護屋に着き、翌三日地方に陣を取れば、有浦中務・堀野源五郎と言ふ者、敵の将と成り出たりしが、失軍計りにて勝負つかざるを口惜くや思ひけん、中務は長刀杖につき進み出て、中尾殿すなほに手並を見せ申さんと廣言すれば、主計爰にありと太刀振り廻はし戦ひしに、中務手疵を負ひ叶はずとや思ひけん、寄れ組んと言ふ内、中尾心得たりと、上に成り下に成り、終にさし違へて死しけるを、源五郎走りより中尾が首を取らんとす、信助推参なり源五郎と、長刀横たへ出んとすれば、中間馬の口をひかへ、大将の勝負を決するは時に寄るべしと引留る、信助彌こらへ兼馬より飛下りつと走り出て、源五郎が首打落す、夫より両軍入乱れ戦ひしが、日暮れければ相引に引きにけり。夜に入り中尾の家人、主の死骸を尋んと日の丸の付たるを印として、死骸を肩に引かけ、源五郎が首を提げ本陣に帰りける、明れば十二日信助兄弟数多の首を實検し、壹州へ帰陣されけり。 八十三 佐高合戦之事附山本右京之事 有馬修理太夫の子佐高と言ひしは、元は松浦丹後守の養子なりしが、去る永禄年中相神浦籠城の刻に有馬を呼び置き、平戸和睦の後丹後守へ返しけれ共、親を養ひたる後なれば、佐高をば唐船の城に籠め置ける。佐高此事を無念に思ひ、有田あたり居住の侍に恩を以てなつけ、元亀二年辛未十二月二十九日有馬将監と内談し、侍共を呼び寄せ、来正月相神浦へ押寄せ一戦を決すべし、運を開くに於ては恩賞は功によるべし、各々別心なき印に熊野の牛王に、誓紙可被致と皆々に書かせける、山本九郎私宅へ帰りつくづくと思ふ様、武士は二君に仕へざるを本意とす、誓文はさもあれ重代の主君に弓を引ん事叶ふまじと思ひ切り、夜ふけ方に懐妊の女房と五才になる幼子を打連れ、家財は打捨で西岳さして落ち行きしに、折節大雪降り続き何処を道とも弁へがたく、折節、女房産の紐をときければ右京甲斐甲斐しく取扱ひ、妻子を山家に預け置き、其身は漸く西岳を越へ親方へ参り、佐高が逆心を具さに語りければ、無類の忠節なり当座の褒美として、小三河と言ふ所を馬の飼料に給はりける。扨親より早馬にて鎮信へ注進あれば、則ち鎮信出馬有り其勢三百余人、元亀三年壬申正月二日春分まで押寄せ給へば相神浦勢馳せ加り、同二十日相榴ケ原にて合戦有り、両将一家の事なれば親子兄弟敵味方となり修羅の巷ぞ浅ましき。 甲斐瀬佐右衛門は兄の首取り帰りしかど、或る木蔭に馬の足を休めて居たる敵の有りしを、遠矢に射落し見れば我兄の美濃なり、心ならずも五逆の罪を得たる事よと、泪を流し二つの首に札を添へ、親へ送り其身は山王山にて腹かき切り失せにけり。斯て平戸勢勝に乗って挑み、兵庫を初めとして叫めいて掛れば、佐高勢は四五十人に打ち残され、心ならずも有田へ引にけり。 八十四 壹州合戦之事 波多三河守後室は日高に恨み深き縁者なれば、対馬へ日高退治の事を偏に頼み被申候、成就に於ては壹州半國は対州領たるべしとの約束なり、対州よりは順風次第に壹州に渡り、日高を退治すべき由にて、壹州勢の内に忍びを求めんと.家来の縁者たるより立石図書方へ、波多の後室日高に恨み有るによりて、我に加勢を乞はれ、来月順風を待ち其地へ渡り、日高を退治すべし、其節我に心を合せられ、事利運たらば賞功不浅との状を遣はしける、図書此状を披見すると、等しく信助方へ持参し見せければ、信肋悦び、いざや対州をたばかり見んとて、立石の一族内々日高に恨み有る処、隠書の趣渡りに船を得たるが如し、来月順風の時分、本宮浦海の方へ出て待ち受け、貴方の帆かけを見分け次第、在家を焼き立つべし、それを相図に着岸候べし、先手仕り日高を追払ふべしとの返状遣しける。対州是を見て、壹州を早く掌握したる心地してけり。扨壹州には日高信助を大将として、同宇右衛門・同宇兵衛・同安藝・本田修理・牧山刑部・同宮内・同越後・久間六郎左衛門・立石図書・同三河・深見助左衛門・都野川勘介・久家兵部・大内掃部・佐々木越前・横田安藝・同七郎左衛門・同石見・山口・吉井・福井・鶴田等其勢五百余人、一手は松浦豊後守を大将として七百余人、相図の約束を竪めける、然るに七月二日対州の兵船六十艘計り、順風に帆を揚げ見ゆると言ふ程こそあれ、本宮の在家を焼立ければ、國中の侍は布気浦野の邊に馳せ集る、対州勢は此焼けるを見て、たばかられたるとは知らず、立石が相図よと會釈もなく軍兵を船より上る所を、思ふ様に引受け、味方の勢は打違へかけ破れば対州勢散々に打ちなされ、漸く船に乗り逃げたれ共、西風烈しければ上松浦をさして走らせ行くに、中程にて上松浦の兵船に出合せしかば、是と一つに成りて鷹嶋へ着せんとすれども、大曲休彌・同右京等の人々追立ければ、伊萬里へ落ち行く処に、一部小午田・星賀口にさゝへ相戦ひ、打もらされたる軍兵纔かに百人余り、本國へぞ帰りける。その頃波多高正、安國寺の中輪禪師をかたらひ、謀叛をせられしかども、信助事故なく鎮め、國中安全にして平戸へ帰られける。 八十五 佐世保日宇手につく事 其頃佐世保、日宇・早岐の村々は大村の家人、遠藤千右衛門守護せしが隆信に降参せり。早岐へは佐々清左衛門、日宇・佐世保へは遠藤但馬を番兵に被遣、然るに遠藤如何なる天魔の見入にや、龍造寺へ降参の逆意ありて内通するの聞へ有り、爰に遠藤が聟赤崎伊興此事を密に聞き、遠藤に尋ぬけるに、風聞の如くなりければ、さらば諌めんと思へども、斯程に思ひ入られたる逆意止むべきにあらざれば、せん方なくは思へども、遠藤に組すれば主君に背くの不義なりと思ひ、但馬に申けるは、如何に舅殿是程の大事をよもや他人には御語り有るまじけれ共、壁に耳あり、隠密に仕給へと言ひ捨て、筑地六郎左衛門にありの儘に語る、築地驚き打連れて隆信へ斯と達する所へ、又後藤是明より飛脚到来して、遠藤但馬親子龍造寺へ内通致し、謀叛の企候由早く討手を差し向けらるべしと許へける。さらば疑ひなきとて、但馬が討手には古川治郎左衛門・山本相模・小川龍彌・山田四郎左衛門なり。嫡手右近が討手には、佐々清左衛門・指方杢兵衛・西富田左市・中倉早右衛門二男の彌五郎、討手には赤崎築地と定めらる。去程に十二日二十八日遠藤方へ使者を遣し、古川治部左衛門が御領分仕置之為に罷越候、急ぎ親子両人参會すべしと也。遠藤かゝる事とは知らず馳来るに、飯森川深くして、浅瀬を尋ねて半渡りける所に、山田四郎左衛門進み出で、いかに但馬、逆心顯はれたり覚悟せよと言儘に、鎗にて突かんとするを、遠藤心得たりと刀を披き打払へば、山田鎗を切をられ、脇差を抜んとせしに、遠藤さしかゝつて山田が眞甲を切り割れば、川は深し水は速し、痛手なれば山田たまらず、馬より逆さまに落るを見て、遠藤は引返し逃んとす、山本相模・北川龍彌・馬をさっと打入れ、遠藤逃げるな免るさじと追かけ挟み討ちにしたりける、郎徒ども踏み止り戦ひしを追払ひ、中里・山田にて討取ける。又早岐には嫡子右近と、佐々清左衛門・四方山の物語りをせし所に、兼て相図しければ、夜の戌の刻悪多田左市、いかに、右近殿、余り下座也、上座にあれと引立さまに押伏すれば、右近下より跳返すを押伏せ、押返し騒ぎしが、燈火をふみ消し暗さは暗し、座中振り動く甲斐瀬鬼之助さぐり寄って、大男は右近ならんと、筋高なる足をつかめば、右近したゝかに踏みのくる、鬼之助目玉ふみ出されながらに刀さしければ、佐々清左衛門火を持出して、敵味方を見分けたりとて、右近が首を討落す。此騒動に右近が家人門外に有りしが、抜き連れ切て入りけれ共、是も残らず打敗れけり。二男彌五郎は妻の神山にて安々と打取る、翌二十九日逆徒三人の首を平戸へ奉れば、隆信父子喜悦不少、歳末と悦と言ひ聞し、彼甲斐瀬鬼之助は夜討に馴れたるあぶれ者、其上此度踏出されし目玉終に入らず、*(臣頁)も不自由なりけるが、元来面に疵多くして、彌をそろしくぞ見へにける。 八十六 針尾三郎左衛門討たるゝ事 針尾三郎左衛門は心定まらざる者にて、或時は大村に付き、或時は平戸へ付き、今度又大村へ付き、今迄の番代を平戸へ戻せし事を、中倉軍右衛門悪多田佐市一人不届に思ひ、人数を隠し置き、両人は家かげに隠れ居て、三郎左衛門が他所へ出るを伺ひける、如案雑兵四五十人召連れ船より上ると見て、中倉つと走り出て、鎗にて三郎左衛門が胸を突けば、悪多田躍り出て、細首打落し郎徒共を追ひ払ふ所に、隠し置たる味方はせ集り、頓て地下の人質を取り納め、番兵を留置きける。 八十七 下松浦の諸名所旅行日記 人皇五十二代嵯峨天皇第十二皇子従一位左大臣源融公・源光・源燈・源敬・源周・源網(天慶九五月卒)・源充(満仲の聟也)源仕・瀬口太夫・十代目渡邊太夫判官源久・松浦黨の大祖也、文壽二乙亥年薨ず、下松浦郡今福村海晏山宛陵禪寺葬、人王七十六代近衛院治世十四年久壽二乙亥年崩ず、此後文化元甲子年九月十五日六百五十年遠忌御法事あり、右寺へ今福千九百石(今納米、三千石)願主松浦伊右衛門殿より年々現米十石、現麦十石寄附也、久公之御墓本堂の南の岡に五輪の塔あり、現に今宮大明神と崇む、社は佐賀領山城郷の大里と云ふ所に祭る(伊萬里とくやくの間濱通の道筋に霊寶色々あり。)其道筋諸所に祭る、今福にも寺里と云ふ所有り。 今福古城を勝屋の城と名附く、厳重に大なり、石垣等今に現然たり、城の前を久野と云ふ、若し野火有れば三日之内に雨ふる、其後をきけ濱と云ふ、久公当城御移居の時輿にて御通りの跡、巾三四尺、一町計ぎいぎいと鳴く、両方小溝を限り余の濱は聞て立るなし。不思議なる事なり.其所を濱の脇村と天ふ、其南に茶臼石と云ふ有り、金輪峠と云ふ坂を登り九浦の観音の庵室あり、久公卿建立の霊佛なり、谷を越へ東に九浦稲荷大明神有り。 江迎平松と云ふ所の北の岡に石碑有り銘に先太夫春叟府君戦死、朝鮮平壌之役實に文禄二癸巳七月七日なり。年之宮大明神は往古若殿幸松丸敵にをそはれ此宮に越年有り、後有田の城に落行れるの由、軍記は別に有り。 今宮大明神 若宮大明神 此両社は江迎橋の元より八丁南に有り、今福町浦役宮本何某案内にて委敷見物いたす、事永き故に略之、今福より一里半程行。 志佐町入口に淀姫大明神有り、町家二百程、海道を南に行く鹿の爪坂と云ふ所の坂の登り口に、往古猛を鹿住て諸人恐る、故に数多の勢子追しに、立岩諸所に鹿の爪の跡顯然たり、此間一里程平戸海道也、坂下り切りて小川の流れあり。 児権現とて小き山なれども、一山聳へ、麓より一丁余岩を登るに細き石祠有り、童形の石像安置す、傍に願物と見へて木太刀・鎗・長刀等数多あり、頂上は十畳敷もあらんか絶景なり、此道筋より御厨、川原邊田、星賀浦に見へ渡る、其先に古戦場有り、是加治屋の城なるべし、不大とも見事成る山にて、一山海中に差出し、絶景言計りなし、久公初て松浦郡御下向有りて、此城を御築き有りし由、然れば今福勝屋の城より巳前に御築成りし城なるペし。 夫れより平戸へ来り、諸方見物致し候、諸記は下松浦風土記に委く出たり、便船に乗りて長崎に至る所に珍しき事見聞いたし、あら増書留置候を爰に記す。 八十八 和藤内由来 肥前國下松浦那河内之浦に和藤内三宮と言ふ者あり、其父は大明國之官人老一官と言ふ者、讒言によって肥前下松浦郡に来り、河内の浦より船揚りして、二里北なる平戸境の浦に来り住居す、船着之湊故折々は河内浦へも往来す、河内に美麗なる女有りけるに契りをこめ、和里なき中と成り、老一官は程なく大明國へ帰る、彼の女懐胎なりしが、一官大明へ帰る時申置きしは、其子女ならば此國何方へも嫁せしめよ、若又男子ならば大明國へ呼取るべし、互に便り忘るまじと申かわし、女月満て男子を産む、和藤内三官是他、此者成長に随ひ、知勇兼備、尚又力量萬人に勝れたり、母常に老官の事を物語りしけるを聞き覚へ居たりしが、程経て大明國大乱の由聞傳へ定て我が父上も御難儀ならん、大明國へ渡海し父上に対面致し、如何様とも御加勢仕るべしと思立、遙の海路を遍て大明國に至り、勇猛をあらはしたる事挙て計り難し、然れども都を取り返す事を得ずして、漸く台湾國を切り取り、域廓を構へし事は軍談諸記に見へたり、依って略す。 老官の住居は平戸城下本挽田町、納谷平左衛門濱屋敷なる事、数百年の今に顯然たり、此納谷氏に和藤内の手跡古き掛物あり、文化二乙丑仲冬是れを披見す、墨色筆勢凡筆ならず、又同人の長刀余程用立ち候と相見へ、砥ぎ減らし柄より抜けず、往古納谷不動と言ふ人あり、和藤内のゆかりと申傳候得共、家系不詳。 八十九 河内浦道の記 文化二季冬平戸城下より、長峯・大臣原・高麗町、左に不動岳山道を行く、眼下に古泊浦見へる、大野村民家六七十軒あり、通り抜け磯道を下り、千里が濱見事成る白砂の廣濱なり、和藤内漁濱と言ひ傳ふ、往古鴫と蛤とあらそひたる所あり、濱中の浪打ぎわに大成る五輪の塔建築有しが.打崩され白砂に埋り常には見へず、風により白砂薄くなれば塔の角々、砂の上に出る、堀り候得ば五輪の形急度見へる、此濱に無名の貝出る事あり、磯邊を廻りて河内浦漁夫家六七十戸あり、諸網十余帖なり、湊廣く船掛りよし、浦より上の方新田となる、浦の産土神鎮座あり。 七宮大明神 右花と表門に額掛けあり、案ずるに此社天神七代を崇る、依って河内の天神と称す、和藤内信仰ありし社と言ふ、宮の右の岩岸より松の大樹生ひ出て次第盛んなり、廣道の地に付て小川を隔て、新に延る事数十間、其勢強く若木の如し、異曲なる名木なり、是れを和藤内肱掛の松と言ふ、新田の極詰に和藤内の屋敷跡あり、前に石垣所々崩れたり、後ろわき木山と成る、昔の事故名而己残れり。 此河内浦に黒崎某と云ふもの二軒あり、皆是は和藤内に由来ある者と云傳ふ、河内村に河内峠あり、高山にて遠望致すに、東に深月・哥か浦矢竹九艘泊(但唐船九艘繁きたる事あり依て名付)・船越の泊・早岐崎(是より早岐に近し)・皆島内と云ふ、此間に九十九島あり、此邊都て平戸領にての絶景なり、凡そ山道一里許り行て、元の高麗町の大臣原に帰りけり。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
巻三の上 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一 寺澤家中分限並古文書之写 古高八萬三千石の時 一 高二千石 奉行 熊澤三郎右衛門 一 高二千石 岡島治郎左衛門 一 同千五百石 今井新右衛門 一 同千五百石 家門 澤木七郎兵衛 一 同千五百石 家老 片岡九郎左衛門 一 同千五百石 家老 石川三左衛門 一 同千石 親大学本戸にて討死 佐々小左衛門 一 同千石 親九兵衛天草にて討死 並河大学 一 同千石 中江與惣衛門 一 同千石 中村右馬允 一 同千石 稲葉四郎左衛門 一 同千石 親又右衛門天草にて討死 林又右衛門 一 同千石 並川大左衛門 一 同八百石 山田将監 一 同八百石 柳本五郎左衛門 一 同七百石 鐵砲頭 渡邊與次右衛門 一 同六百石 天草にて中村藤左衛門と喧嘩相果 川瀬十右衛門 一 同六百五十石 島田十郎左衛門 一 同五百五十石 古川傳左衛門 一 同五百五十石 柴田彌五兵衛 一 同五百石 記 落 一 同五百石 佃 勝左衛門 一 同五百石 古江孫兵衛 一 同五百石 山田三之亟 一 高五百石 大竹嘉兵衛 一 高五百石 吉川理兵衛 一 同五百石 奥村五郎兵衛 一 同五百石 親は有馬にて討死 関善左衛門 一 同五百石 山略彌左衛門 一 同五百石 戸田団右衛門 一 同五百石 中路新之亟 一 同五百石 高藤半兵衛 一 同四百五十石 古川浅右衛門 一 同四百石 熊澤権六 一 同四百石 武藤伊兵衛 一 同四百石 美野部五郎右衛門 一 同四百石 松村権右衛門 一 同四百石 川岸茂右衛門 一 同四百石 仙石六郎右衛門 一 同四百石 川崎伊右衛門 一 同四百石 高藤金左衛門 一 同三百五十石 藤江作右衛門 一 同三百石 建部又左衛門 一 同三百石 親天草にて討死 佃勘十郎 一 同三百石 親天草にて討死 冷山源左衛門 一 同三百石 佐藤市左衛門 一 同三百石 國枝権兵衛 一 同三百石 磯野吉左衛門 一 同三百石 天草にて討死 今井重兵衛 一 同三百石 田中平兵衛 一 同三百石 片岡治郎右衛門 一 同三百石 國府兵太夫 一 同三百石 吉川勘兵衛 一 同三百石 戸田角右衛門 一 同三百石 横野勘兵衛 一 同三百石 川崎喜左衛門 一 同三百石 澤木彌五左衛門 一 同三百石 安井十之亟 一 同三百石 野藤助之亟 一 同三百石 明石善兵衛 一 同三百石 高藤六左衛門 一 同三百石 山路嘉右衛門 一 同三百石 天艸新助 一 同二百五十石 西川八兵衛 一 同二百五十石 野中小兵衛 一 同二百五十石 和田十左衛門 一 同二百五十石 山田太兵衛 一 同二百五十石 戸田太郎兵衛 一 同二百五十石 吉田仁兵衛 一 同二百五十石 西川長左衛門 一 同二百五十石 田伏治左衛門 一 同二百五十石 鹽田市左衛門 一 同二百五十石 山路清兵衛 一 同二百五十石 安田作兵衛 一 同二百五十石 櫻井新左衛門 一 同二百五十石 有浦伊兵衛 一 同二百五十石 石川理左衛門 一 同二百石 中川角兵衛 一 同二百石 林市郎左衛門 一 同二百石 山口忠兵衛 一 同二百石 鹽井三右衛門 一 同二百石 中島帽四兵衞 一 同二百石 佐々才兵衛 一 同二百石 河合四郎右衛門 一 同二百石 牧善右衛門 一 同二百石 親富岡にて討死 上月治郎大夫 一 同二百石 杉山與兵衛 一 同二百石 記落なるぺし 一 同二百石 福富善右衛門 一 同二百石 石川宇右衛門 一 同二百石 古橋源太夫 一 同二百石 大橋與三右衛門 一 同二百石 蒲野茂右衛門 一 同二百石 須摩七左衛門 一 同二百石 田崎彦左衛門 一 同二百石 大津市郎左衛門 一 同二百石 坂崎助左衛門 一 同二百石 廣瀬七兵衛 一 同二百石 佐藤作左衛門 一 同二百石 木村権左衛門 一 同二百石 関 儀太夫 一 同二百石 松本安太夫 一 同二百石 堀田金左衛門 一 同二百石 江口彌左衛門 一 同二百石 掘地與右衛門 一 同二百石 鳥谷諸右衛門 一 同二百石 鳥谷佐左衛門 一 同二百石 富岡にて討死 岡原彦兵衛 一 同二百石 高原久右衛門 一 同二百石 河原八郎右衛門 一 同二百石 岡村清左衛門 一 同二百石 野中権之亟 一 同二百石 喜多休庵 一 同二百石 中村新兵衛 一 同二百石 休加七左衛門 一 同二百石 呼子平右衛門 一 同二百石 田伏七郎左衛門 一 同二百石 冷山仁右衛門 一 同二百石 津田十郎兵衛 一 同二百石 山原作右衛門 一 同二百石 吉田半右衛門 一 同二百石 吉田勘四郎 一 同二百石 清水八兵衛 一 同二百石 冷山忠左衛門 一 同二百石 記落なるぺし 一 同二百石 人見惣左衛門 一 同百五十石 有浦五兵衛 一 同百五十石 澤木九左衛門 一 同百五十石 中村吉蔵 一 同百五十石 吉原七右衛門 高百五十石宛 井上覚右衛門 坂井孫右衛門 吉田久兵衛 高藤七右衛門 佐牧武兵衛 多治見又市 島田與四右衛門 竹内九郎兵衛 内山彦右衛門 青岡彌平治 田代又兵衛 有浦仁右衛門 鹽田杢右衛門 内柴五太夫 稲葉彌次兵衛 山口四郎兵衛 川瀬市右衛門 大津勘左衛門 大槻六郎右衛門 山口助十郎 松尾治兵衛 高百石宛 稲葉藤太夫 岡半左衛門 吉川九助 吉川助大 山鹿理左衛門 稲葉市郎兵衛 藤掛長兵衛 周藤平左衛門 難波與左衛門 松本七左衛門 石橋茂兵衛 大竹三十郎 福富與惣兵衛 西川市左衛門 林久太夫 今井八左衛門 川列茂左衛門 草場安右衛門 野瀬彌次兵衛 平田惣右衛門 竹内新左衛門 小川彌左衛門 土屋彌市右衛門 青木勘右衛門 明石喜右衛門 藤田九郎右衛門 坂本甚五右衛門 岩本彌三右衛門 鐵砲鍛冶 桐野浅治 一 高百十石 御朱印加部島社人 平野内勝之亟 一 高百石宛 西寺町 近松寺 名古屋 浄泰寺 一 高五十石宛 東寺町 龍源寺 有喜村 東雲寺 一 高三十石 東寺町 少林寺 一 高二十石 黒岩村 醫王寺 知行高合計 五萬八千二百六十五石 諸士都合百八十士 社司一軒 寺六ケ寺 右者給人以上の知行高也、外に小身之輩数多有り、慶安元年戊子十一月記是、公料之時也。 考ふるに天草一揆は十一ケ年以前寛永十五年戊寅年也 兵庫頭殿逝去は正保四丁亥年十一月八日也、其翌春は則慶安元年也、然れば御落去之後ち書記したりと見えたり。 去る朔日之書中令披見候其件町中年寄中より為歳暮之祝儀銀子二枚到来令祝着候謹言 極月晦日 志摩 廣高 花押 今井十右衛門殿 右は寺澤君より町奉行今井氏宛にて被下候御返書之写 去る四日之御状拝見申候、大廻之御船去三日相着候由、一段御満足被成候、船中御荷物無事に相届候旨、大慶に被思召候恐惶悼謹言 十一月十四日 岡本二郎兵衛 花押 片岡十左様 三宅藤右様 此度於尊様御儀、戸川土佐守様へ御縁組相済嘸御喜悦可有御座奉存候、我等式迄大慶無此上奉存候、且御前へ宜敷御執成可被仰候恐惶謹言 八月十日 國府兵太夫 久剛花押 片岡十左様 先達て之御状被仰遣候、難船乗入候足軽津の水より四人三日之夕着いたし候、荷物類は松原近所、今伊と申処へ流着申候、蒲団又は渋紙・蓆・苧綱・味噌等之類は、急々湊與士船に被遣候、直七委細可申候、恐惶謹言 十月六日 蔭山源左衛門 蔭山市之亟殿 猶々岩松のぶこ遣候へば状も別に遣候間母か様へ為御見可被成候 考ふるに此分限記には原田伊豫・三宅東兵衛等之大身なし、記す時分は断絶にても可有之か不詳不分明之事。 尚又安田作兵衛と云ふ人、高二百五十石を知ると上に記す、右大臣信長公へ鎗付けし安田改名して天野源右衛門と申すこと、寺澤家臣に来りし学外巻に有り、同姓同名之者と相見へ候、改易の事故に跡尋問すべき手達てなし、依て有の儘を書記する可成。 二 大久保加賀守家中分限 一 高三千石家老 服部清兵衛 一 高二千石 松浦平太夫 一 同千百石 加藤孫太夫 高千石宛 大久保又右衛門 須田太郎兵衛 大久保彌右衛門 岩瀬長左衛門 辻十兵衛 一 高八百石宛 近藤庄右衛門 山本十右衛門 一 高七百五十石 孕石勘兵衛 一 高六百五十石 石原善右衛門 渡邊三左衛門 一 高五百石宛 礒田六兵術 倉加野久右衛門 吉野傳右衞門 加藤十左衛門 服部與三兵衛 片桐徳右衛門 大久保彌太夫 後藤忠右衛門 一 高四百五十石宛 相馬七左衛門 喜田惣平 一 高二百五十石宛 富塚文左衛門 角田太左衛門 郡八郎左衛門 早川茂右衛門 若林五兵衛 堀彌次右衛門 陽川新五右衛門 稲田與一左衛門 長谷川伊左衛門 河合彌助 一 高二百石宛 中村見介 進士杢右衛門 岩瀬藤太夫 若林甚五兵衛 大久保安兵衛 山本五兵衛 鹽川団七 山本儀太夫 吉岡儀太夫 小野了仙 鈴木権太夫 倉加野市郎兵衛 関名半平 若宮七兵衛 白江兵左衛門 松下郷内 坂邊新右衛門 小笠原太左衛門 竹内郷左衛門 川村又八 澤田周鐵 牧半太夫 武藤権兵衛 酒井七郎兵衛 角孫右衛門 岡村三徹 久我貞右衛門 篠崎千助 佐藤次郎左衛門 木村助右衛門 平野新左衛門 鳥井金兵衛 田中鍋之助 折見小兵衛 三浦久左衛門 木曾長右衛門 小川與五兵衛 大鹽六右衛門 戸田半兵衛 築間源左衛門 佐津川勘助 柴田権右衛門 一 高三百石宛 加藤市太夫 礒田所左衛門 飯野半左衛門 近藤吉左衛門 黒柳彌五左衛門 宮崎源兵衛 戸田六左衛門 横井甚五兵衛 近藤彌右衛門 寺田嘉右衛門 千賀九郎兵衛 板倉理右衛門 山本彌右衛門 一 百人扶持 大河内藤左衛門 一 高二百四十石宛 葛沼彌一郎 正木徳太夫 中垣惣太夫 関小左衛門 堀江三太夫 原佐太夫 蜂谷杢左衛門 黒柳孫左衛門 一 高百五十石宛 松原兵左衛門 郡八郎左衛門 金子市郎左衛門 加藤久兵衛 篠崎喜左衛門 牟礼九右衛門 後藤五左衛門 中村與右衛門 厚見五右衛門 倉加野源五右衛門 市橋與一郎 服部儀左衛門 柳瀬武右衛門 蜂谷角太夫 戸田與兵衛 石川市郎兵衛 高室源五太夫 堀尾彌一兵衛 有浦角右衛門 有浦好右衛門 島養常右衛門 一 高二百九十石宛 高島十郎左衛門 日下部孫兵衛 片桐角兵衛 松山又左衛門 中根源左衛門 一 高百石宛 鶴田喜平 星合傳五郎 内田七郎兵衛 奥平安右衛門 片桐亀之助 内田彌次兵衛 岡本又助 都築長五郎 柴田與四兵衛 戸田新五兵衛 長谷川仁右衛門 伊田宗傳 大山市兵衛 島善太夫 久下伊右衛門 岡田作右衛門 坂部喜右衛門 辻虎之助 築間仲右衛門 一 高五百二十石 山中杢太夫 一 高 記落ち 塚本彌五兵衞 一 高七十石宛 大津安右衛門 岡部市平 一 高五十石 坂部又太夫 士数合百五十四人 但高五十石以上 三 土井大炊頭家中分限 一 高三千石 御名代 土井内蔵允 一 百人扶持 御名代 土井図書 一 高千百四十石 家老 小杉長兵衛 一 高五百石 家老 堀外記 一 高五百石 本地四百四十石 家老 小杉長右衛門 一 高五百石 本地四百石 家老 吉武九郎兵衛 一 高六百石 城代 長尾新五郎 一 同五百石 番頭 小谷治左衛門 一 同三百六十石 番頭 岡野郷左衛門 一 同三百石(役料高二百石にて家老本地二百石)用人(前に有るは如何) 吉武九郎兵衛 一 同三百石 用人 堀八左衛門 一 同四百五十石 用人 堀甚左衛門 一 同三百五十石 用人 千賀又左衛門 一 同二百二十石 用人並 朝倉藤三郎 一 同三百石 用人並 千賀幸之助 一 同三百石 奏者持筒頭兼帯 大久保儀左衛門 一 同二百石(役割高百石にて掛へ)奏者持筒頭兼帯 藤掛五郎左衛門 一 同百五十石(外役料五十石にて)持筒頭兼帯 井上主膳 一 同二百石 旗奉行 早川與一右衛門 一 同二百二十石 旗奉行 山本所右衛門 一 同二百石(本城百六十石にて) 留守居 岡村忠右衛門 一 高二百石(本城百六十石にて役料百石にて)奏者郡奉行 幸田孫太夫 一 同二百石 郡奉行 秋田孫左衛門 一 同二百石(本城百六十石にて) 先手者頭 和田孫右衛門 一 同二百石(本城百六十石にて) 先手者頭 井伊彌五兵衛 一 同二百石(本城百七十石にて) 先手者頭 小島彌右衛門 一 同二百石(本城百六十石にて) 先手者頭 野村金左衛門 一 高二百五十石 先手者頭 松高三右衛門 一 同二百石 (本城百石にて)先手者頭 浅賀半六 一 同二百六十石 先手者頭 近藤安兵衛 一 同二百石(本城百二十石にて)町奉行 川岸惣左衛門 一 同二百石(本城百石にて) 町奉行 山本藤兵衛 一 同二百石(本城百石にて)小荷駄奉行 生江八右衛門 一 同二百石(本城百六十石郡奉行にて)小荷駄奉行 高橋杢右衛門 一 同二百石(本城百石大豆十二俵にて)吟味役 落合五郎兵衛 一 同二百石(本城百五十石にて)吟味役 河添源八郎 一 同二百石(本城百石にて)鎗奉行兼寺社奉行 不破五郎右衛門 一 同二百石(本城百二十石にて)鎗奉行兼寺社奉行 布施長左衛門 一 同二百石(本城五十石大豆十二俵小荷駄奉行にて)使番 成尾平兵衛 一 同二百九十石 使番 堀武左衛門 一 同百八十石(本城百六十石にて)使番 岡野小左衛門 一 同百八十石(本城百四十石にて)使番 速水重太夫 一 同二百石(本城百石にて)使番 三池五兵衛 一 同二百五十石 使番 鷹見十郎左衛門 一 同二百石 使番 宮野呂之亟 一 同百五十石 上座也使番 小杉左膳 一 同二十人扶持(本役に成り役料八十石)使番並 岡野生馬 一 高二十人扶持 使番並 長尾右門 一 高百石 供扈従頭 山岸左次兵衛 一 高百石 供扈従頭 関戸政右衛門 一 同百石(外に三十石大豆十二俵) 船奉行 金田甚之亟 一 同百五十石 船奉行 三浦次郎右衛門 一 同百四十石(城付百二十石にて)目附 布施長左衛門 一 同百四十石(城付百二十石にて)目肘 小野田儀右衛門 一 同百二十石(同百石にて) 目附 斎藤源右衛門 一 同百二十石(同百石にて) 目附 山中儀太夫 一 同二百石 目肘 時田友右衛門 一 同百石 御膳番 北脇半左衛門 一 同百二十石 普請奉行 神谷四郎左衛門 一 同百石 普請奉行 岡村與次右衛門 一 同八十石 普請奉行 森田與市 一 同百二十石 大納戸元方 堀與市左衛門 一 同百石 大納戸元方 高橋兵太夫 一 同九十石 大納戸元方 川村忠左衛門 一 同九十六石 大納戸払方 加藤七太夫 一 同九十六石 大納戸払方 赤見次郎左衛門 一 同百七十石 大納戸払方 石黒清助 一 同百石 小納戸 浅野源助 一 現米十石十人扶持 小納戸 堀新次郎 一 高十石五人扶持 小納戸 堀次太夫 一 同十石五人扶持 小納戸 岡村仁右衛門 一 同八十石 投料十俵 地方掛代官 刃羽次郎左衛門 一 同百石 地方掛代官 笹川兵助 一 同八十石 投料十俵 草野掛代官 渡邊七左衛門 一 同百二十石 草野掛代官 信太治兵衛 一 同二百石 廣間大番 中村彦太夫 一 同八十石 廣間大番 奥村仁左衛門 一 同百石 廣間大番 吉武団四郎 一 同百石 廣間大番 茅根杢左衛門 一 百二十石 廣間大番 井伊清太夫 一 同二百四十石 廣間大番 平尾市十郎 一 同二百石 廣間大番 奥與太夫 一 同百六十石 廣間大番 加藤五郎兵衛 一 百二十石 廣間大番 曲淵彦兵衛 一 同百二十石 廣間大番 一柳加右衛門 一 百二十石 廣間大番 舟橋彌左衛門 一 同百石 廣間大番 松井才兵衛 一 百二十石 廣間大番 鷹見清右衛門 一 同二百石 廣間大番 同暮七郎左衛門 一 二百三十石 廣間大番 朝路甚五兵衛 一 百石 廣間大番 中村彌市兵衛 一 九十石 廣間大番 齋藤七郎右衛門 一 百六十石 廣間大番 堀江半左衛門 一 八十石 廣間大番 粕谷彌惣兵衛 一 百七十石 廣間大番 岡本平助 一 八十石 廣間大番 岡本半蔵 一 百六十石 廣間大番 貝六太夫 一 現米十石三人扶持 廣間大番 関平七 一 八十石 廣間大番 福島市右衛門 一 百二十石 廣間大番 服部善八 一 百石 廣間大番 石川仲右衛門 一 八十石 廣間大番 芦澤弥次右衛門 一 八十石 廣間大番 山中金太夫 一 百四十石 廣間大番 川島新左衛門 一 二百十石 廣間大番 長尾新平 一 百七十石 廣間大番 菊地藤八 一 二百六十石 廣間大番 関八兵衞 一 二百四十石 廣間大番 青山善右衛門 一 二百二十石 廣間大番 小宮久左衛門 一 九十六石 廣間大番 上野八郎右衛門 一 百五十石 廣間大番 川添彦右衛門 一 百二十石 廣間大番 鈴木六郎兵衛 一 二十人扶持 廣間大番 瀧傳蔵 一 十人扶持 廣間大番 市川彌一右衛門 一 百石 廣間大番 市川平之亟 一 百六十石 廣間大番 牧田次郎太夫 一 百六十石 廣間大番 長尾三彌 一 十五人扶持 同 市川初右衞門 一 八十石 同 近藤紋右衛門 一 現米十石十人扶持 同 仙石直右衛門 一 現米十石十人扶持 同 芹澤兵蔵 一 現米十石十人扶持 同 川添二五右衞門 一 三百石 幼少之衆 千賀幸之助 一 二百石 幼少之衆 宮野左治馬 一 八十石 同 朝倉求馬 一 八十石 同 鷹見甚助 一 十人扶持江戸 同 朝田兵蔵 一 十人扶持 同 原田猪五郎 一 百五十石 同 三浦梅之助 一 十人扶持 同 佐久間虎五郎 一 七人扶持江戸 同 曾我夕之助 一 十人扶持 同 近藤松之助 一 五十人扶持 御代官並扈従 東舎人 一 百六十石 大番並扈従 服部彦市 一 八十石 扈従 近藤安之助 一 百六十石 扈従 小杉多門 一 十人扶持 同 中村又五郎 一 十人扶持 同 高木善蔵 一 十人扶持 同 苅部亀之助 一 八十石 同 姓名不分明 一 現米十二石三人扶持 力番 石川又右衛門 一 現米十二石三人扶持 力番 布施藤七 一 現米十二石三人扶持 力番地方見習 渡邊新平 一 現米十二石一二人扶持 力番 生江重蔵 外に金二両宛羽織代江戸詰二人扶持増 一 二百石 大番並右筆 用土清蔵 一 現米 右筆 森川小平治 一 十石五人扶持 右筆 高橋三郎左衛門 一 十石五人扶持 右筆 只見武七 一 十石五人扶持 右筆 姓名不分明 一 十石五人扶持 同 姓名不分明 外に金二両羽織代銀二十四匁筆代江戸詰之節二人扶持増 一 現米十石三人扶持 御次番 上野雲八 鈴木與惣左衛門 井伊條右衛門 井伊新平 松島又八 外に二両宛羽織代銀二匁宛道中用 一 現米十石三人扶持 大小姓 金田健右衛門 和田新助 野村又助 小杉彌源太 速水金左衛門 岡村理左衛門 武多造酒右衛門 地方見習 丹羽與左衛門 成尾清八 長井清左衛門 大久保喜四郎 伯々部五右衛門 一 現米十石八人扶持 馬役大小姓 川野三四郎 一 現米十石五人扶持 鷹匠頭大小姓 桑原長四郎 一 百石 呼子番代 清水忠兵衛 一 百二十石 名古屋番代 金子清左衛門 一 十人扶持 内野尾番代 鈴木権兵衛 一 現米十石三人扶持 内野尾番代 服部勘左衛門 一 十人扶持 岩屋番代 井上平左衛門 一 現米十石三人扶持 岩屋番代 秋田郷兵衛 一 五十石 中小姓並馬渡島番代 牧野善左衛門 一 五人扶持 隠居馬渡島番代 田中馬介 一 目見息男 甲川惣七 幸田四郎右衛門 浅賀甚平 不破勘兵衛 山下熊蔵 三池傳八郎 関戸孫三郎 加藤勘左衛門 小宮孫七 服部安左衛門 金子彦三郎 赤見久次郎 加藤善七 服部庄八 一 三十人扶持 本道醫 法橋谷玄道 一 三十人扶持 本道醫 神戸玄尚 一 十人扶持 本道醫 上田宗眠 一 三十人扶持 本 醫 上田三仙 一 三十人扶持 儒 醫 平野有節 一 二十五人扶持 外に銀二匁 外療醫 川口了閑 一 十五人扶持 外療醫 水澤順安 一 十人扶持 本道醫 田中際仙 一 十人扶持 本道醫 淡川玄笑 一 二十人扶持 針 醫 得能意十 一 七人扶持 針 醫 淡川杏仙 一 本道見習 神戸耕庵 一 本道見習 平野有庵 一 十人扶持 醫 奥村玄了 一 七石二人扶持 供小姓 河井市郎右衛門 松高勘太夫 清水治平 加藤林左衛門 松井七郎治 井伊惣内 鈴木縫右衛門 青山又八 井伊小郎右衛門 外に金一両二歩羽織代銀四十五匁道中用 軍用御備 大井内蔵允組 二十五人 秋田孫左衛門 和田孫右衛門 松高三市衛門 小野儀右衛門 渡邊七左衛門 鷹見清左衛門 石黒清助 奥與太夫 堀與市左衛門 山中俵太夫 松井才兵衛 川村源五郎 平尾市十郎 芦澤彌次右衛門 一柳加右衛門 鈴木権兵衛 用寺清蔵 粕谷彌三兵衛 中居岩次郎 中村彌市兵衛 服部彦市 角田重左衛門 今村彌太夫 鷹見勘助 小杉長兵衛組 十五人 幸田孫太夫 川岸惣左衛門 三浦次郎右衛門 笹川兵助 上野八郎右衛門 石川何右衛門 青山善右衛門 神谷四郎左衛門 菊地藤八 川添喜右衛門 佐々木九郎治 齋藤三郎兵衛 野口権左衛門 田丸七兵衛 秋田郷兵衛 堀外記組 十五人 近藤安兵衞 山下権兵衛 布施七左衛門 馬庭安右衛門 茲山又左衛門 末次幾之助 岡村與次左衛門 信太治兵衛 高橋三郎右衛門 関八兵衞 川添源八 川鳥新右衛門 芹澤兵蔵 牧田次郎太夫 関平七 小杉長右衛門組 十五人 野村金右衛門 浦野文右衛門 森田與市 山中金太夫 朝路甚五兵衛 村田友右衛門 齋藤七郎右衛門 金子清左衛門 茅根杢左衛門 奥村伊左衛門 清水忠兵衛 川田右平治 荒川與兵衛 森川小平治 山木角右衛門 井上新左衛門組 十五騎 小杉彌右衛門 斎藤源右衛門 中村彦太夫 長尾新平 堀江半左衛門 鈴木六郎兵衛 吉武団四郎 苅部亀之助 服部勘右衛門 関六太夫 端山浅右衛門 樋口善左衛門 伊藤孫兵衛 仙石直右衛門 関小右衛門 岡野郷右衛門組 十五騎 井伊彌五兵衛 赤見次郎左衛門 小宮久右衛門 日暮七郎左衛門 井伊清太夫 曲淵彦兵衛 服部善八 川添五右衛門 井出平左衛門 玉置庄左衛門 遠山小右衛門 武井小郎太夫 岡本平助 岡本半蔵 奥津茂太夫 長尾新五郎組 十五騎 長尾三彌 舟越彌左衛門 丹羽次郎左衛門 近藤安之助 福島市右衛門 不破五郎右衛門 加藤五郎兵衛 河井七右衛門 浅賀半六 近藤紋右衛門 福浦友右衛門 四人不足 右表組備七組役付け知行高別所に出す 本陣備 留守備 江戸組備 若殿供備 土井家分限申通 一 現米十三石三人扶持大船頭大小姓並 浦田茂兵衛 一 現米十二石三人扶持大船頭大小姓並 茨木為右衛門 一 現米九石三人扶持 蔵方目月格 豊島武右衛門 平野彌五右衞門 斎藤庄助 木村新兵衛 外に金二両紙筆代 一 現米九石三人扶持 台所目附 梅野與助 松本甚太夫 一 現米七石三人扶持 台所目附 早乙女源蔵 外に金一両紙筆代 一 八石三人扶持 浦奉行金一両紙筆代 川上佐助 一 七石三人扶持 浦奉行金一両紙筆代 山田九太夫 一 八石三人扶持 山奉行金一両紙筆代 浅井六太夫 一 七石三人扶持 山奉行金一両紙筆代 瀬戸源太夫 一 現米七石三人扶持 徒目付 岩脇喜太夫 山田平六 吉原只右衛門 河児又六 高森武兵衛 一 七石二人扶持 蔵米封附 辻彦八郎 一 七石三人扶持 鷹匠 桑原平次右衞門 一 七石二人扶持 鷹匠 同 儀助 一 三石二人扶持 鷹匠 同 又四郎 一 八石五人扶持 馬役 関口 孫右衛門 一 十石七人扶持 馬役 中村喜太夫 一 四石二人扶持 馬役 川野孫助 一 三石二人扶持 馬役 関口 孫助 一 四石二人状持 馬醫 草場仲左衛門 外に金二両薬種代 一 七石二人扶持 船奉行金一両紙筆代 小林長太夫 一 六石三人扶持 船奉行金一両紙筆代 中森佐次郎 一 六石二人扶持 船奉行金一両紙筆代 青木與次右衞門 一 六石二人扶持 次物音 斎藤判五郎 豊島金左衛門 一 六石三人扶持 荷物奉行 中森彦左衛門 留田惣右衞門 一 五石五斗三人扶持 鐵砲師 小山玉右衞門 一 五石三人扶持 鐵砲師 同 三七 一 金一両一人扶持 鐵砲師 同 兵七 一 五石五人扶持 目醫師 板並養白 一 三人扶持 針醫 御目見紺屋町 岡野易庵 一 四石三人扶持 具足師 岩井七郎兵衛 一 六石二人扶持 代官手代金一両紙筆代 北方 三塩小助 北方 内山平蔵 北方 高田利兵衛 北方 藤松六左衛門 草野 片岡初右衞門 草野 茨木傳左衛門 草野 加唐三郎兵衛 草野 竹内利太夫 一 四石五斗二人扶持 台所付賄 中島岡右衛門 鈴木小野右衛門 一 四石二人扶持 献上万 年木曾右街門 原田武者衛門 一 四石二人扶持 用聞手代 羽山金蔵 中村金兵衛 一 六石三人扶持 切付師 福原六右衛門 一 五石三人扶持 張付師 上村薗右衞門 一 二人扶持外に銀三十目鼻紙代絵図師 木村五左衛門 一 五石五人扶持 大工 河村小之丞 一 二石一人扶持鼻紙代 河村勘兵衛 一 五石二人扶持 矢師弦掛兼 坂垣直右衛門 一 四石二人扶持 勘定手代 柴田理左衛門 中村幸太夫 遠藤銀平 安藤善兵衛 一 三石二人扶持 薗作頭 県市左衛門 一 五石五斗三人扶持 足軽目附 姓名不明 一 四石五斗三人扶持 同 同 一 四石二人扶持 宗旨手代兼鎗同心 籠島與左衛門 徳田尾野左衛門 森尾辰右衛門 井草善太夫 一 四石二人扶持 蔵手代 是松左野左衛門 一 四石二人扶持 浦、山下役 浦、藤五兵衛 浦、熊本金太夫 浦、清水峯右衛門 浦、田口数右衛門 山、峯猶右衛門 山、濱田宅右衛門 山、伊藤千右衛門 一 三石五斗二人扶持 旗同心兼杖突 早川組 田口惣五右衛門 早川組 礒野加野右衛門 山本粗 森田甚右衛門 一 四石二人扶持 山本組 安田傳左衛門 一 五人扶持 小林重兵衛 一 一人扶持金一両 同 彌平治 一 四石二人扶持 普請杖突 本田重太夫 安藤金兵衛 堀越金左衛門 廣田九郎右衛門 坂本平次兵衛 岩田伊右衛門 一 現米五石二人扶持 持筒頭 高木平太夫 安藤谷右衛門 一 百二十六石五十六人扶持 組子代二十八人一人四石五斗 二人扶持宛 一 四石五斗二人扶持 家老組小頭 土井 田中庄左衛門 同 馬場加左衛門 小樽 早川幾右衛門 掘 山本仲右衛門 長右衛門 吉田金兵衛 井上 伊藤傳兵衛 同 山口岡右衛門 一 三百四十三石百九十三人扶持 組子九十八人一人三石五斗二人扶持宛 一 四石五斗二人扶持 先手組小組頭 伊藤澤右衛門 石崎籾右衛門 板倉角右衛門 手島瀬兵衛 谷口美次兵衛 池田亀右衛門 野澤仁太夫 植 源六郎 西十右衛門 坂口善右衛門 一 四百九十石二百八十人扶持 組子百四十人一人三石五斗 二人扶持宛 一 四石五斗二人扶持 郡組小頭 秋田 川島此右衛門 桑田 足立六兵衛 一 六十三石三十六人扶持 組子十八人三石五斗二人扶持宛 一 四石五斗二人扶持 町組小頭 川岸 堺田幸左衛門 山下 西川尾儀右衛門 一 四十九石二十八人扶持 組子十四人三石五斗二人扶持宛 一 二石五斗二人扶持 丁田口番 鈴木庄太夫 大馬物右衛門 一 二石五斗二人扶持 丁田口番 瀬谷伊野右衛門 一 米六俵一人扶持 丁田口番 姓名不明 一 一石七斗二人扶持 柳堀番下番一人 杉浦作右衛門 一 二石二人扶持 柳堀番 古川峰右衛門 一 四石二人扶持 和田多茶屋守 前田藤次右衛門 一 三石二人扶持 名古屋古城番 草場幾右衛門 一 二石二人扶持 名古屋古城番 古館五兵衛 一 三石五斗二人扶持 名古屋番所 平野平左衛門 一 二石二人扶持 名古屋番所 遠藤銀平 小松半右衛門 一 一石五斗一人扶持名古屋古城及番所 下番一人 一 三石二人扶持 呼子定番 西林角太夫 西林平作 一 二石二人扶持 呼子定番 島井源右衛門 牧勘太夫 一 二石 呼子定番 久保勘兵衛 一 一石五斗 呼子定番 下番一人 一 三石五斗二人扶持 馬渡島定番 牧野平八郎 丹野六大夫 川合平左衛門 一 一石五斗 馬渡島定番 下番一人 一 三石五斗二人扶持 向島定番 松本茂兵衛 小山陸右衛門 一 二石 向島定番 並野徳兵衛 一 一石五斗 向島定番 下番一人 一 三石五斗二人扶持 加唐島定番 古川市右衛門 金子七右衛門 丹野六右衛門 一 一石五斗 加唐島定番 下番一人 一 二石二人扶持 福井境目番 柴田與次右衛門 阿部新八 青木儀右衛門 一 二石二人扶持 笹原境目番 北川市郎右衛門 中山裏右衛門 宮川八郎兵衛 一 二石二人扶持 川原境目番 吉原好右衛門 金丸善左衛門 米倉寅右衛門 一 二石二人扶持 府招堺目番 小形門左衛門 出野喜蔵 吉村太左衛門 一 十石三人扶持 側坊主四度之仕着外に金一両 浅井当斉 一 一石一人扶持 側坊主四度之仕着外に金一両 早川白齋 一 一人扶持 四度之仕着外に銀二匁 平坊主 亀田新賀 一 二人扶持 四度之仕着 平坊主 駒井勘齋 一 三石二人扶持 平坊主 若井改齋 谷野林賀 平川惣齋 一 三石五斗二人扶持 焼物師 中里太郎右衛門 大島彌五兵衛 一 三石五斗二人扶持 台所帳役 早川宗白 一 一人扶持金三両二歩 代官内手代 丹羽内 前田九兵衛 笹川内 大草権平 渡邊内 松本彌五八 信大内 小野紋六 一 現米二十八石八人扶持家老内物書四人一名に二人扶持宛 一 百二十六石五十六人扶持家老用人内若黨二十八人家老五人宛 用人二人宛四石五斗ニ人扶持宛 一 二十一石十二人扶持物泰行内若黨六人三石五斗二人扶持宛 一 二十二石五斗十人扶持家中へ被下中間二石五斗五升半人扶持宛 一 米八十俵十人扶持小役人被下中間米八俵に一人扶持宛 一 三石五斗二人扶持 中間頭 小島惣八郎 谷口九兵衛 奥田礒右衛門 荒井喜右衛門 一 郷足軽小頭十四人高十四石宛 但七反也 一 郷足軽卒百二十七人高十石宛 但五反也 一 高千四百六十石 田数七十三丁三反也 但七反宛小頭十四人 鏡六十人 小麦原八人 五反宛卒百二十七人 大川野三十人 中原七人 和多田二十人 畑津六人 中島十人 餌 秡 一 高五石二人扶持 岡本金兵衛 一 同三石五斗二人扶持 岡本勝右衛門 峰市平 一 金二両一人扶持 中江源六 一 高二石五斗二人扶持 犬引 中居彌助 一 米六百八十八俵八十六人扶持 八俵に一人扶持宛 若殿供二人 椀方四人 行水二人 前代番二人 掃除四人 台所夫八人 部屋五人 献上方一人 台所食焼九人 納戸夫二人 作事方四人 鷹飼二人 蔵帳箱持五人 馬口取十五人 油掛り一人 人割遣二人 鐘撞四人 歩行一人 馬飼料三人 料理方一人 張付遣一人 馬渡島一人 供水姓二人 一 一人扶持 盲目に成る 三九郎 一 高七石二人扶持 船手小頭 竹内新右衛門 一 同六石五斗二人扶持 船手小頭 吉田銀右衛門 一 同六石二人扶持 船手小頭 浮須幾右衛門 渋谷仲右衛門 後藤傳五右衛門 吉崎戸右衛門 一 同五石五斗二人扶持 小船頭目附 高木厥右衛門 井上平左衛門 一 高六石二人扶持 小船頭 山中里右衛門 松下彦左衛門 内山與次右衛門 一 同五石五斗二人扶持宛 小船頭百四石五斗三十八人扶持 十九人 湊 伊助 大島金左衛門 藤田伊兵衛 内山銀太夫 川口理右衛門 高濱九左衛門 宗野六兵衛 原田関右衛門 浦田茂右衛門 阿賀傳右衛門 川合金七 武井重右衛門 梅田紋兵衛 阿賀能右衛門 吉村所兵衛 江口太左衛門 森尾佐五太夫 一 高二十二石十人扶持 小島角右衛門 松下伊右衛門 後藤梶右衛門 山崎五太夫 一 同十八石五斗八人扶持水島番三石五斗一人扶持 宗野文六 幸原藤五兵衛 浦田彌市兵衛 筒井傳七 一 同十九石八人扶持哥人上 四石一人五石三人 山崎菅右衛門 小宮宗助 湊初右衛門 吉田勘太夫 一 同四石五斗二人扶持 船大工 山口善八郎 一 高五石二人扶持 鍛冶 坂本作兵衛 一 四石二人扶持 木挽 柴田太助 一 現米百三十一石五十八人扶持乗組二十八人五石五斗より三石五斗迄 川口九兵衛 柿村喜太夫 高濱辻右衛門 西川権右衛門 湯浅右衛門 坂本恒右衛門 田中久右衛門 湯淺太郎左衛門 小川権太夫 湯浅此右衛門 藤田幸左衛門 牧川六右衛門 野崎四五右衛門 森中勘四郎 森與右衛門 松下加右衛門 阿賀菊右衛門 牧川三右街門 西川幸太夫 渋谷作左衛門 橋本甚平 山崎與左衛門 林茂右衛門 渋谷清七 一 現米百二十三石六十二人扶持平組三十一人五石より三石迄 堤孫八郎 小宮間左衛門 湊助十郎 小島兵左衛門 野島元右衛門 吉田長助 林加左衛門 高濱金兵衛 辻五左衛門 大田平六 鶴田助市 峰岡右衛門 吉田助右衛門 小官十右衛門 山崎喜平治 森中七郎兵衛 高濱伊太夫 深田七兵衛 渋谷源兵衛 高濱初右衛門 岩井定右衛門 本庄善太郎 吉田喜七 川口理衛門 梅田庄六 足井角太夫 高濱惣右衛門 森田市右衛門 浮須與郎兵衛 島崎梶兵衛 田山理助 船手百八軒大船頭共ニ現米五百二十三石二百十八人扶持也 一 高二百石 東寺町 正定寺 一 高五十石 正定寺隠居 息風軒 一 米三十俵 同 龍源寺 一 現米六石 黒岩村 醫王寺 一 現米六石 宇木村 来雲寺 一 高二十石 和多田村 寿同坊 一 現米一石三斗 鏡村 恵日寺 一 高五石 志州公御墓守 道祖 一 同九石 城内 観松院 一 現米七石 大石村 聖持院 一 同一石五斗 佐志社 宮崎大和 一 同九石 鏡 御宮 一 同二石五斗 鏡 寺二軒 彌宜二軒 一 二人扶持 唐津町人三人 一 三人持 八百町刀鍛冶 高田河内 一 二人扶持刀町金具師 甚右衛門 磨屋宇左衛門 本町使者屋敷守 嘉助 魚屋町馬脚清五左衛門 新町日用頭理助 材木町網打 文六 一 一人扶持 呼子度屋 四郎左衛門 満島渡守一人 一 八石四斗 山崎山番 一 二人扶持 馬場村鯉取り 孫二郎 文右衛門 一 三人扶持 流人 千根勘四郎 馬渡島 源蔵 作兵衛 一 現米十二石但四石宛佐五右衛門九郎左衛門四郎兵衛 四 大久保公追鳥狩之紀 一 延寶五乙己年正月二十一日大久保出羽守源忠朝公(其の年加賀守と御改名なり)大嶋山に被遊御狩、辰の上刻御二男大学様と御一所に御出被遊、二の御門外勢たまりにて勢揃へ、郷中より出申候勢子、共頭々に付罷在、御本陣の貝を相図に行列相決り、大名小路御通り、宮の前に御出、西の御門へ被遊御出、御先大旗二本、御まとひ一本立つ、其の次に陣貝、次に大野村天寿院父子両人御先供仕候 一 御本陣御供は御手人ばかり 一 大学様はじめ、御家老・同御子息方・拾頭御本陣ともに巳上拾壹組、御使番衆之内、ほろかけ三騎御座候 一 勢子惣町方、唐津組・神田組・佐志組と出て、拾頭に分り御供仕候、最も壹頭に百人づゝ、其の外同館出入のもの等大勢夫々に付申候、町勢子は一町かぎり御供仕候 一 勢子衣類自分自分仕度思ひ思ひに拵へ申候 一 かぶりもの其の頭よりほかは笠かかぶとを麦藁にてあみ候ものも御座候 一 白青赤三色ねりまぜの五寸廻り程のたすき掛け申候、白鉢巻前にて角結び致候も御座候 一 才料の大小庄屋、大紋付の羽織に股引竹杖つき申候 一 勢子其所の相印紙小旗さし申候其時かぎりに大旗も壹本づゝ 一 拾頭と申は、御三男大久保大学様、御家老大久保又右衛門殿、同人子息新五郎殿、大久保彌右衛門殿子息武太夫殿、脇部清兵衛殿舎弟重左衛門殿、近藤庄左衛門殿子息熊之助殿、岩瀬長左衛門殿子息平左衛門殿、杉浦平太夫殿舎弟佐兵衛殿、吉野傳右衛門殿子息惣左衛門殿、近藤吉左衛門殿 以上 一 御出之節四十挺立御手船より小早まで五六艘御出し、御往来ともに御船にて被遊御渡海候、勢子は歩渡仕候 一 大嶋へ御あがり遊され候て、村の前濱に御床机被為立御休息、御供の衆勢子共に渡り仕舞ひ申候て、大嶋西端より東の磯邊迄、行き渡候節、御差図にて時の聲を揚げ申候、夫より片押しに狩りはじめ申候、後々は入れ乱れ鳥を取り申候、最大嶋山備々請持の場所には、朝五つ頃より大竹立申候 一 諸浦より船数十艘出、大嶋西の鼻より妙見・唐房の方まで取り廻し、海に入り諸鳥を取り申候、右鳥取り得候ものへは為御褒美、銀貳匁づゝ被下候 一 御帰陣と見へ候時分、御旗本・足軽衆へ鐵砲三十放し計りつるべ打に御打たせ被遊候、後諸方の勢子一所に集り、兼て大嶋南の鼻へ山芽積み置き御座候に火を掛させ被成候、焼立候節十一手に分れ、一同に玉なしの鐵砲為打候半ば、焼候節山上より被遊御下候、亦々郷足軽衆へ、鐵砲つるべ打に被仰付候、打仕舞候得ば早速被遊御帰陣候 一 大嶋にて惣勢子共へ御酒被下候 一 大学様御供勢子まで御台所仕出しにて御座候 一 外九頭は其屋敷より御賄に御座候 一 暮六時過ぎ、右鳥を大竿に掛け御先へ為御持られ、坊主町通名古屋口より御帰り被遊候、刀町は家々の前に提灯一つ出し申し候、大手御門より御帰城被遊候 以上 忠朝公其翌年総州佐倉へ御所替あり、無程相州小田原へ御所替あり、只今迄御代々箱根御関所御勤被遊候 一 此舊記虫入切々に成り、其の上書誤りも所々に御座候間不慥字も有之候に付、あらまし書記し置くもの也 五 土井公追鳥狩之記 一 其の後四十四年後、享保五庚子十一月十六日之処風雨にて同二十二日に相成り申候、土井公御所替より三十年目大炊頭源利實公、奉称室直院殿と御家督八年目地、文化元甲子年迄八十五年に成る 一 御狩場之御本陣は馬部村岩森村山也、實は高野村内也 ○掟 一 今度追鳥狩場に於て喧嘩口論等彌堅く謹慎し、若し相背くものは可為不忠之事 一 大酒すべからざる事 一 下々無礼無之様に、支配之面々並主人より急度可申付事 一 末々存じ違ひ萬一無礼有之候共、諸事穏便に可取計事 一 差図無之面々、弓・鐵砲持参無用之事 一 他人の取候鳥を外より取申間敷候、若し両人一度に補り候はば頭を取り候方へ相渡すべき事 附共外可准之事 一 鹿追出候はば鎗にて可突留候、立場の外追掛申間敷事 一 猪追出候はば鎗にて待掛可申、一人づゝ鎗付候事無用、尤も旗本の内、弓・鐵砲並土井図書・吉武九郎兵衛組、足軽兼て相室候通り、三人づゝ申付置き矢先見届け可申事、鹿猪之外鎗不可用事 一 人数くり出し候節、馬上並下々迄笠可免之事 一 三管之定め兼て可承置候事 一 双子嶋にて行列之事 一 濱田邊に於て馬上之面々下り、立馬は佐志村へ可遣事、馬宿は兼て可申付置事 一 勢子の者共へ前日勢子の相印渡之、当日七時受取場所へ揃置き候様に可申付事、勢子之頭外は高捷燈可為無用事 一 狩場に於て鳥其の外獲物、旗本の面々は改所へ持参いたし芹澤助左衛門方へ相達、先手之面々は組頭之方へ相渡し、吟味の上可差出事 一 千賀源治・吉武門鹿・長尾右門・小谷次源太・右四人は銀笠被せ 諸手可遣之間、可得其意事 一 帰路の節は、二の門の外にて馬上下り立、組足軽並下人乗馬共、鐘搗堂の下、両小路より差戻し、供は少々召連れ月見櫓之下へ可集事 一 旗本も右同断たるべき事 右之條々堅く相守るべきもの也 子十一月 ○覚 一 御先勢五十間、蔵前より下厩之前通り、並支配面々同所より五軒町・新馬場迄、惣人数段々相定可申候、立場は前以て見分可致事 一 御旗本は不残御城内へ罷出、二番にて切手御門の内立場へ可罷出、是又前日見分可致置事、御馬先は切手御門番所より、水御門脇、御蔵前まで段々相揃可申事 一 御旗本の面々、若黨・草履取・切手御門内へ召連可参事、乗馬其外下人は、江戸長屋の内へ差置、太鼓次為に繰出し可申候、最立場は前日に可致見分置事並乗り下り人、江戸部屋の内へ入り候て、前後に門を閉ぢ繰出し候節、東の方門計り明け、順之通り混乱無き様に段々繰出し可申事 一 御旗本惣人数繰出候節、御門当番・物頭・御留主の目附一人、芹澤助左街門・山本藤兵衛.込合不申候様可致差引事 一 御先勢段々繰出し候節、御旗本之諸士、従者等、切手御門外へ不罷出候様可申付事 一 御道筋、月見櫓下より二の御門、大名小路・堀八左衛門屋敷通り、大手前・小杉佐次馬・和田藤蔵屋敷脇小路より中村伊左衛門・金子甚介屋敷脇、西御門通り、井澤五兵衛屋敷後より可児又六屋敷後通り、高見・江川町組屋敷・二夕子・中山・濱田まで騎馬之事 一 御帰り高見迄前之通り、高見より直に坊主町、名護屋口・刀町、大手御門に入り大名小路通り被遊御帰候勢子頭人数立揃候はば、御旗本見得候処にて、勢子印振り可申事 一 御使番相印銀之笠、御用有之候節は、右之笠にて招可申、早速下人差出、様子承り届、其己後御差図次第に主人可罷出事 一 御目附相印茜松、是又御用有之節は、招振可申候間、同前に可心得事 一 勢子頭一人宛案内百姓可申付事 一 御従士御道筋之間を計り、御供羽織り相用、勿論狩場にては取可申事 一 御旗本御徒士以上赤之相印之事 一 押足軽、黒塗陣笠、木綿之御供羽織相用候事 一 行列に立候足軽のものにも、鐵砲為持可申候、御持筒は黒羅紗之袋、其外は猩々緋之袋、狩場にては可相渡事。右鐵砲に小頭可附置事 一 右山に於て二番貝之巳後、失先見届け、空鐵砲つるべ打に為打可申、但し御旗本より打始め之事 一 暮に及び候はば郷(ゴウ)方下役並足軽小頭等、下々は切火縄為持可申事 一 御帰の節は乗馬ども佐志村大橋の脇に、順之通り段々繰出可申、且又馬纏同所へ建置可申候、右中村小六左衛門指引可致、最馬宿も可申付事 一 馬共引出申候はば、御供の御目附より可致差図事 一 御先勢金鼓路次之内、堀治太夫・越路五兵衛之両人に差引可致候、御狩場に於て吉武九郎兵衛方へ可相達事、附御帰り之節も同断之事 一 鳥其外獲物銘々可致付札事、猪鹿は諸手共に早通御旗本へ可差出事 子十一月 ○貝・太鼓之事 一 一番貝御旗本より惣人数揃、但揺り七つ三返 一 二番貝、月見櫓下より御先手繰り出し、人数立致すべきのこと但揺り五つ三退 一 三番貝、御先手繰出向貝、御旗本初め山に差掛の節、此貝にて勢子追立てる。 一 山一番貝、右同断にて人数揃 一 同二番貝、右同断にて先手繰出す、何れも三度宛吹き可申事 一 押太鼓二つ宛、中山佐志大坂静に打つ先手は月見櫓の下より出る前より押太鼓、御旗本は押太鼓にて繰出す。 打切り四つ、濱田にて下立候節、追立より近付内は破三つ宛急打切りの節、旗本諸士働く事、但御旗本は諸士働く前は太鼓不用之事 御帰りの節の御道筋、濱田より馬上にて御門外下立の節、右に同じ ○鐘 追留の節五つ、人数押萬一の用ある時は七つ 一番貝揺り七つ三返 二番貝揺り五つ三返 次に押太鼓序一つ 同急太鼓、途中御用の節押留る時用ふ三つ 同急太鼓、一つ 同急太鼓、二つ、是は佐志村濱田にて御先手より打ち可申候、下馬の節は二ヶ所にて 同押太鼓佐志村大坂の内、静に打ち可申事 貝揺り五つ、是は御狩場、三返 同破の太鼓、数二つ、是に勢子すゝめの時、山の内にて進む度々打可申事 同急太鼓、停める事、是は追留所にて 三つ鐘、序の拍子にて、是は惣人数繰揚げ申す時也。送貝揺り五つ三返、惣人数揃の事 同貝揺り三つ三返、是は炊つき候へば為知也 同一番貝、二番貝、但御道中押太鼓御出の節之通りに打ち可申事 二の御門外にて急太鼓五つ、但御先手より打出の事 ○定 一 御旗本諸士一番貝にて御城へ罷出、二番貝にて立場へ可罷出事 一 御旗本切手御門の内へ相備、先手と混雑仕る間敷候、御馬より前は切手御番所より水御門前まで立、御馬より後は坂口御門より馬屋前まで立可申事 但切手御門両方へ当番之物頭、留守目附罷出、繰出し申候事 一 従者馬共に江戸長屋の内に罷在候て、一番貝人数揃へ両方門打可申候、人数繰出し候節は、東門明け順に出し可申候、山下藤兵衛裁許可致候事 一 高見にて人数一行立候節、右之先より進み可申事 一 井上主膳は濱田より村の前立場へ可罷出越候 但両人共に御帰の節も、場所へ出迎供可仕事 一 岩室山御着候はば、諸士絵図の如く備立、打敷可有罷在候、御下知無之以前に、えもの来候共一人越進申間敷候、急太鼓にて備を散し進み働可申候、御可知無之一分之御許容無之候、但し従者召し連れ、鎗其の外得道具帯可罷在候事 一 奥與太夫小納戸一人、鈴木重左衛門近習二人、醫師側に可相詰事 但小助より近習の面々申合、半途にて替り替り働可申候、醫師病用之節は、跡明き不申候様仕り、先手へも可罷越候事 一 大印は山本角左衛門、小印は坂田市兵衛、始終付添可罷在事 但支度の内、手替いたし候得ば目附へ断り、其場所に可罷越候事 一 弓・鐵砲の面々、旗本諸士働き至り候はば、御床机の前へ参り差図可受事 伯猪近寄候はば見合矢玉をちらし打可申候、鹿の出候はば、御仮家邊へ、小役人手廻り同勢、前後群居仕侯もの御目通りへ追出可申候事 一 大坂・濱田・中山・高見にて行列の萬端御出之通り御城内にて、馬・従者銘々屋敷へ戻し、御門の内.朝之順に可致候事 一 夜分に候はば御馬の左右、朱の桃灯を以て、是を目当に可仕候事 右之趣上下一々可相心得候、若其余存じ寄り又は伺ひ候も有之候得ば、来る十三四日之内可申出事 子十一月 ○鐘太鼓貝之事 一番貝 ゆり七つ 御旗本より吹く 惣人数揃 二番貝 ゆり五つ 月見櫓へ罷出 人数立 三番貝 ゆり三つ 右同断 御免手繰り出 四 押太鼓序二つ、御先手月見櫓下に出候前より押太鼓、御旗本は押太鼓にて繰出す、但中山・佐志・大坂の間、 最初は押太鼓静に打ち可申候事 五 急太鼓打切、高見にて一行に成る事、三つ宛三返 六 同断濱田にて騎馬下立の事、四づ宛三返 七 押太鼓大坂にて序、静に打 山へ御着之上 一 一御旗本より向貝ゆり三つ、但此貝にて勢子追立初る、御先手は貝に不合、太鼓にて進む事 二 破太鼓三つ宛、但追立より進候へば不用候 三 急太鼓打切四つ宛、但打切の節旗本諸士働きの事、附御旗本は諸士働き急ぎの外は太鼓不用候事 四 追止の節、鐘数五つ、但御備・前同断 一 番貝、前同断、山にて人数揃 二 番貝、ゆり五つ、獲物不残御旗本へ御持参 送り貝、御先手繰出し、伯何れも三度づゝ吹く事、押太鼓序.前に同じ、但御路次御出の節の通り、御帰りの節御道筋、濱田より馬上にて御門外下立の節、右に準す御人数押 萬一御用之節は鐘七つ打ち申候事 一 御先手十五人預り相組 御家老土井図書、但此外も預り先手の先に組立申候、小旗は絹、上(カミ)は小紋下(シモ)は浅黄に水車の紋付、小組も出る、先手の押太鼓貝鐘も出る、以上 一 御先手十五人預り、相組の外も預り、御家老吉武九郎兵衛、印紅(モミ)の吹貫、絹小印も出る、御先手の御狩場に放ては吉武に付申候 一 勢子預り 一 勢子百二十人預り 御用人 堀甚左衛門 一同 五十人預り 御先手若頭 川岸惣左衛門 一 同 百二十人預り 御用人 井上主膳 一同 五十人預り 御郡代 中村與右衛門 一 同 百人預り 御用人格 朝倉求馬 一同 五十人預り 町奉行 神谷甚兵衛 一 同 五十人預り 御奏者 東舎人 一同 百人預り 御使番 長尾刑部左衛門 一 同 五十人預り 御持筒頭 近藤安兵衛 一同 百人預り 御使番格 岡野左仲 勢子印其頭より思ひ思ひに、色々の印相渡申候、最其大将分は御出之節は濱田まで馬上、御帰りは二の門外まで馬上、其外御先手、旗本に歩立にて御座候、委敷は此末道中行列牒面に書き付け置申候以上 六 御行列之次第
右之者十三歳以上四十歳以下、郷中・市中・御狩勢五千七百三人、犬四十四疋 其後土井利延公(奉称諦了院殿)へ御在世寛保年中に、御場所は切木村バンパの辻にて、勢子之御狩有之筈にて、 日々西濱にて其御稽古御座候得共、殿様御病気にて相止み申候と及承候。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
巻三の下 七 唐津領惣寄高 一 北方唐津組
|