松浦史談会 『末廬國』 第167.169.170.171号より

諸国巡見使の派遣と唐津藩
神田   山田 洋

 
はじめに

 江戸幕府が幕藩体制を堅持していくためには、諸大名や旗本の動向を把握する必要があった。そのため幕府は、国目付や巡見使を度々派遣し、天領並びに各藩での施政や民情の視察を行っている。
 国目付は、幕府が臨時に諸藩へ派遣した監察役人である。使番と両番(小姓組・書院番)から一人ずつ任命され、例えば、大名が幼少で家督を相続しまだ領国に帰れない場合などに、国政監視のために派遣されたりしている。三代将軍徳川家光時代に制度化され幕末まで存続したが、十代将軍家治時代以降派遣は激減している。
 諸国巡見使は、幕府が将軍の代替わりごとに、幕領・私領の施政・民情の視察のため全国に派遣した。寛永十(一六三三)年三代将軍家光の時、全国を六ブロック(九州・中国・奥州・北国・五畿内・関東)に分け、三人一組で国廻りさせたのが例となり、四代家綱の寛文七年(一六六七)には陸方と海辺に分け、御料・私領の別なく諸国巡見使として派遣するようになった。
 しかし正徳二年(一七二一)からは、全国の幕領に対しては別に御料所村々巡見使を派遣し、以後は諸国巡見使は私領のみに派遣されるようになった。九代家重の延享三年(一七四六)以降は、御料・私領同時に派遣するようになったが、十三代家定に代替わりした嘉永六年(一八五三)派遣が延期され、以後派遣されないまま明治維新を迎えた(『日本史広辞典』山川出版社)。
 唐津へ来た諸国巡見使については、これまで『末廬國』のなかで進藤坦平・小宮睦之・宮崎忠利の諸氏が取上げ論究されている。また、唐津藩の庄屋文書のなかには、巡見使に関するものがかなり残存する。
 そこで、今回は諸先輩の論文や、庄屋文書を活用しながら、唐津藩に来た巡見使についてまとめてみたい。


 
巡見体制の制度化

 寛永十年三代将軍家光は、全国を六ブロックに分け、大名を正使、使番・書院番を相使とする三人一組で国廻りをさせているが、これが先例となり巡見体制が整えられた。
 寛文七年、関東を除き全国を六区分に分け派遣した時から、正使は使番、相使には小姓組・書院番がつくという三名一組の編成となった。従者は、千石以上の正使は三十名、千五百石以上三十五名、二千石以上四十名、二千五百石以上四十五名という編成で、相使もこれにならうとされた。従って、巡見使一行は、総勢百名を越す人数ということになる。
 またこの年、幕府は「諸国巡見使条令」を出し、各藩主や天領の代官が巡見使を迎えるにあたり、留意すべき事項をあげている。

  覚

一、今度諸国巡見仰せつけらるといえども、国の絵図、城 絵図無用の事

一、人馬・家数改め、これなき事

一、御朱印の外、人馬御定めの通り、駄賃銭これを取り、人馬滞りなくこれを出すペき事

一、何方より見分仕り候とも使者・飛脚・音信一切無用たるべし、但し案内の者入り候所は、其の断りこれあるべき事

一、掃除など無用たるべし、但し在り来たり道橋、往行不自由の所は、各別の事

一、泊々の宿所、作事等無用たるべし、并に茶屋新規これを作り申すまじき事

一、国廻りの面々泊々にて、つき米、大豆その所の相場をもってこれを売るべし、その外売り物常々その所の値段に売り申すべき事

 右条々、国主、領主、御代官へ先達て相触れらるべきものなり
 寛文七年閏二月十八日

  覚

一、宿々畳の表替え無用、古く候とも苦しからざる事

一、湯殿・雪隠もしこれ無きところは、成程かろくこれを致さるべき事

一、たらい・柄杓・鍋釜古く候ても、苦しからず候、もしこれ無き所は、かろく支度致さるべき事

一、宿になるべき家、一村に三軒これ無き所は、寺にても、又は村隔たり候ても苦しからざる事

一、其の所にこれ無き売り物脇よりこれを遣わし置きうらせ申すまじき事
          以上


 幕府は諸藩に対し、巡見使への接待が過重負担にならないようにこのような覚を出したのであるが、後述するように、迎える側としては何月も前から、道の改修・宿泊所の整備・さらには質問事項の想定・模範解答集の作製等に追われて大変だったようである。


 
唐津藩へ来た巡見使
 『名古屋家文書』 (名古屋政昭家蔵)には、巡見使が制度化される以前の寺沢時代に、唐津藩へ来た巡見使の記録がある。

一、寺沢志摩守様御代、御上使様両度御廻り遊ばされ候事
 名護屋御城御案内、我等祖父伊右衛門に仰せ付けられ候事

一、寺沢兵庫守様御代、一度御廻り遊ばされ候節、名護屋御城御案内、我等祖父伊右衛門に仰せつけられ、首尾よく相勤め申し候事

一、両度御廻り遊ばされ候御上使様、御家名書付見失い申し候事

 これによれば、寺沢志摩守時代、年代は不明であるが二回、兵庫頭の時一回、計三回の派遣があったことがわかる。
すでに廃城となっていた名護屋城の案内を、名護屋村庄屋の伊右衛門が勤めている。
 巡見使が制度化された以降の西国巡見使の派遣については、前記『名古屋家文書』を始め唐津藩の庄屋文書に多くの資料が残存する。これにより唐津へ来た西国巡見使をまとめると次のようである。

 
西国巡見使の派遣

@寛文七年(一六六七)
 四代将軍徳川家綱の時
 唐津藩主大久保加賀守忠職
 使 番 岡野孫九郎
      御上下四〇人程
 小姓組 青山善兵衛
      御上下四〇人程
 書院番 井戸新右衛門
      御上下四〇人程

A天和元年(一六八一)
 五代将軍徳川綱吉の時
 唐津藩主松平和泉守乗久
 使 番 奥田八郎右衛門
      御上下四〇人程
 小姓組 柴田七左衛門
      御上下四〇人程
 書院番 戸川杢之助
      御上下四〇人程

B宝永七年(一七一〇)
 六代将軍徳川家宣の時
 唐津藩主土井周防守利益
 使 番 小田切勒負
      御上下四〇人程
 小姓組 土屋数馬
      御上下四〇人程
 書院番 永井監物
      御上下四〇人程
 この一行に同行していた俳人河合曾良は「春に我乞食やめても筑紫かな」という辞世の句を遺し壱岐で病没行年六一歳。

C享保元年(一七二八)
 八代将軍徳川吉宗の時
 唐津藩主土井大炊頭利実
 唐津へ来たのは享保二年
 使 番 妻木平四郎
      御上下四〇人程
 小姓組 大嶋釆女
      御上下四〇人程
 書院番 小倉忠右衛門
      御上下四〇人程

D延事二年(一七四五)
 九代将軍徳川家重の時
 唐津藩主土井大炊頭利里
 唐津へ来たのは延享三年
 使 番 徳永平兵衛
 小姓組 夏目藤右衛門
 書院番 小笠原内匠

E宝暦一〇年(一七六〇)
 一〇代将軍徳川家治の時
 唐津藩主土井大炊頭利里
 唐津へは宝暦一一年に来る
 使 番 青山七右衛門
 小姓組 神保帯刀
 書院番 花房兵右衛門

F天明八年(一七八八)
 十一代将軍徳川家斉の時
 唐津藩主水野左近将監忠鼎
 唐津へは寛政元年に来る
 使 番 小笠原主膳
 小姓組 土屋忠治郎
 書院番 竹田吉十郎

G天保九年(一八三八)
 十二代将軍徳川家慶の時
 唐津藩主小笠原佐渡守長和
 使 番 曾我又右衛門
 小姓組 大久保勘三郎
 書院番 近藤勘七郎
 この一行に庄屋の不正等を直訴して厳木幕領一揆が勃発する。


 このように、幕府が唐津藩の施政や民情視察のために派遣した巡見使は、寺沢時代と合わせて十一回ということになる。 諸国巡見使の派遣に当たって幕府は、諸藩の過重な負担にならないように

一 宿々畳の表替え無用、古く候とも苦しからざる事
一 宿になるべき家、一村に三軒これ無き所は、寺にても又は村隔たり候ても苦しからざる事
等々の触書を廻してはいたが、唐津藩に残存する庄屋文書などによると、巡見使を迎えるにあたっては、道筋の点検整備、橋・垣根・家等の破損箇所の修理、宿泊所や食事の準備など、藩側も領民も大変な労力と金がかかったようである。また、巡見使は藩の実情を知るために、直接農民達に質問していたので、藩側は藩に不利な応答をされては困るということで、「手鑑」(質問想定問答集)を作成して、庄屋達に応答の練習をさせたり、藩によっては巡見扇のようなカンニングメモを用意したところもあった。巡見日程が決まると、案内役の庄屋達は、巡見案内コースの下見をしたり、前回の案内記録を写し取って万事遺漏のないように備えるのが普通であった。以下『天明七年御巡見様御用留帳』(名古屋松尾文書)を参考に、巡見使を迎えるまでの様子を紹介してみる。

 
諸事御調掛りの任命

 「未六月四日桜井又右衛門、桜井九市郎、大谷元吉〆三 人御役所へ召され仰せ渡され候は、御巡見様に付諸事御調掛り申付け候間、其旨相心得候様仰せ渡され候」

 天明七年(一七八七)六月四日、桜井又右衛門、桜井九市郎、大谷元吉の三人は、二年後の寛政元年(一七八九)四月に派遣される巡見使に備えて諸事御調掛りを仰せつかった。幕府が派遣する西国巡見使は小笠原主膳長知(使番)・土屋忠次郎利置(小姓組)・竹田吉十郎斬近(書院番)の三人である。
 諸事御調掛りとしての最初の仕事は、巡見使が通る道順の里数調べであった。彼らは旧記を参考にしながら実際に測定をして次のように報告している。

◇御料御境目より呼子までの里数

一 松原御境目より往還通り新堀町境迄村順里数共
 ・御料御境目より水嶋迄  弐拾四丁
 ・水嶋より新堀迄  五丁
 ・新堀より札の辻迄 四丁
  合 三拾三丁

一 観音寺前より桜馬場通り村順里数共、但呼子迄
 ・観音寺前より桜馬場通り
  佐志村迄 弐拾八丁五反
  但札の辻より名古屋口迄 五丁八反
  名古屋口より観音寺前迄 壱町七反、〆七丁五反
 ・佐志村より馬部村迄 弐拾五丁
  但往還より佐志村大庄屋宅迄七丁
 ・馬部村より高野村迄八丁
  但往還より馬部村大庄屋 宅迄四丁
 ・高野村より岩野村迄三丁
 ・岩野村より菖蒲村迄拾丁
 ・菖蒲村より打上村迄拾六丁
 ・打上村より横竹村迄三丁
  但往還より打上村大庄屋許迄三丁三反
 ・横竹村より呼子村迄  弐拾五丁四反
 但旧記よりは横竹村より呼子迄の間に四反相増申候〆三里拾丁九反
 外に五丁八反札の辻より名古屋口迄、壱丁七反名古屋口より観音寺前迄 合 三里拾八丁四反
 但御高札には三里拾八丁四反と御座候へ共、旧記には三里拾八丁と御座候に付、此度四反相暗申候

一 江川町組屋敷先石橋より呼子迄右同断 里数略

一 呼子村より名古屋古城へ陸路(里数)
  呼子村より横竹村迄 弐拾五丁四反
  横竹村より打上村迄 三丁
  打上村より石室村迄弐拾丁
  石室村より名古屋村大庄屋元迄 壱里弐丁
  名古屋村大庄屋許より御本城迄 弐丁
    〆弐里拾六丁四反

一 呼子村より右同所へ海上
 (里数)
  呼子村より名古屋浦船場迄 海上二拾丁
  名古屋浦船場より同村大庄屋元迄 陸六丁
  名古屋村大庄屋許より御本城迄 陸弐丁
    〆弐拾八丁 内弐拾丁海
  上、八丁陸路

一 名古屋口外より御巡見道通り江川町御組屋敷先石橋迄 里数 拾丁八反
 但桜馬場西口より西御組先石橋迄六丁弐反弐間

一 名護屋口外より江川町通り組屋敷先石橋迄里数 拾丁
 但西御組先土橋より同所石橋迄三拾四間


 このように諸事御調掛りは、巡見使が通る道順を丹念に測定している。これまでも巡見使派遣のたびに里数の測定をして、それは旧記に記されているが、「横竹村より呼子迄」は「旧記よりは四反相増え申し候」などと旧記記載の里数との違いを正している。
 また、名護屋口より近松寺を右に曲がり坊主町、江川町を通り呼子までの里数も測定しているが、それによれば、名護屋口より桜馬場(巡見道)を通り二子石橋迄の里数は拾丁八反(約二七七b)、名護屋口より近松寺を右に曲がり坊主町、江川町を通り二子石橋迄は拾丁(約一〇九〇b)と実測して、桜馬場通り(巡見道)を通ると差引八反(約八七b)ばかり遠道になると細かい計算をしている。
 このように実測して、巡見使が通る里数(虹ノ松原御料境から呼子まで)は三里一八丁四反(約一四キロb)であると報告している。


 宝暦十一年御巡見様
  御通り諸調べ書上

 次に前回の宝暦十一年(一七六一)の巡見使派遣に際しては、どのような準備やもてなしをしたかを調べて報告している。巡見使の接待等に当たっては、先例を参考に行うのが通例であったようである。これによれば、

一 水嶋御通り筋掃除等念を入れ、見苦しき家は繕い、垣廻り等仕替え申し侯、新堀も同様に御座候、尤も水嶋御渡船場へ御当日土俵にて波戸場出来申し候

一 桜馬場御用地御組入口垣廻り、御作事より御頼みの由にて在中御通筋御掛り御役手より成され候、尤も入用の諸色は御作事より出し申し候

一 唐津村の内御通筋家繕い垣廻り、水嶋新堀同様にて御座候

一 二子往還脇百姓家の前通歯朶垣にて御囲い切りに相成り、裏口より出入り仕り候

一 呼子村街並・明屋敷等、歯朶垣御出来遊ばされ候

 と、巡見使が通る道筋の修理・点検から始めている。見苦しい所の目隠しにはよく歯朶垣が使われた。

 街道周辺の農民は、家繕いや道の修理に人夫として徴用された。延享三(一七四六)年の巡見使派遣の前年、唐津地方は未曾有の洪水で、巡見使が通る道の修復のため福井〜渕上(浜崎)間に一三一五人、二子〜呼子間に二五一〇人の人夫が徴用されている。

 宝暦十一年の巡見使一行は、浜崎で宿泊、虹ノ松原を通り満島から渡船で新堀へ上がり、市中を抜け名護屋口を左折桜馬場から巡見道を通り、二子・中山峠・佐志・馬部追分・高野・打上・横竹を通り宿泊地呼子に着いている。途中の満島・新堀・二子・佐志濱田・佐志坂の上・馬部追分・打上には、駕寵立場(休憩場)・水茶屋・売物家(販売店)・トイレ等を設置した。

一 新堀へ御駕寵建場一ヶ所、長七間横三間、但御手水場・御小便所御座無く候

一 唐津村の内二子家並に水茶屋壱軒、但九尺に九尺箱葺き堅は藁菰

一 同所へ売物家壱軒但草履草鞋火縄の類
            
一 同所へ御駕寵建場壱軒(ママ)長七間横三間
 但御手水場・御小便所歯朶垣にて少々萩等あしらい出来申し候、仮御雪隠は御座無く候

一 佐志村濱田へ同壱ヶ所、長横前の通り、但御手水場御小便所御座無く侯

一 同所へ売物家壱軒
 但麺類餅菓子の類町方より持参仕り候と相覚え候、草履草鞋類其の家より差出し候と覚え申し候

一 馬部村の内追分
 御駕寵建場壱ヶ所
 但長横二子の通り、御手水場御小便所共

一 同所へ水茶屋壱軒
 但長横前の通り


 佐志浜田の駕龍立場は、佐志川に架かる土橋の近くにあった。巡見使一行は休息をとりながら前方の佐志坂を見て、「これを登るのか、里数はどれくらいか」と聞くことが多かった。
 駕寵立場には用心人足十人と馬五匹が置かれていた。その他、計九十九匹の馬がそれぞれの持場に待機していた。
トイレは四角に穴を掘り中に杉葉を置いて「御小便所は歯朶垣にて少々萩等あしらい」「仮御雪隠は御座無く候」とあり、大便所は設けなかったようである。
 宝暦十一年の巡見使一行は

・上使青山七右衛門  以下一二一人
・副使神保帯刀 以下三二人
・目付花房兵右衛門  以下二七人
の計一七一人である。御三士といってもその部下達を引き連れてくるので、このような人数になるのである。
 彼らの呼子での宿は、青山七右衛門は茶屋、神保帯刀は中川久米作宅、花房兵右衛門は筑前屋惣四郎方であったと記されている。
 呼子には唐津の町から「両替屋その外諸商人相詰め御用弁」を仕った。
 一方、巡見使一行を呼子で出迎えるため、警備その他で出役した藩士は、家老の堀九郎右衛門を筆頭に郡奉行・使番・目付・代官ら総勢二二七人にのぼった。
 巡見使が呼子から壱岐・対馬へ出立する時は「唐津御役々様船場にてご挨拶御引取り、御代官横井御案内の者御宿亭主は海上壱里程も御見送り申し引取」ったが、船奉行一名、目付一人、医者二人は対馬まで同行している。
 壱岐・対馬までの船は上使は唐津藩の永楽丸(六十丁立)護国丸(五十丁立)等大小十隻、副使と目付の船は佐賀・五島・平戸の船十二隻ばかりが使われた。その中の明神丸と濱野丸は御風呂船であった。巡見使一行の船旅は、近隣諸藩に支えられ豪華であった。
 大庄屋・庄屋達村役人も事前に役割分担がなされていた。
『天明七年御巡見様御用留帳』に記されている、「宝暦十一年御巡見様御通行に付大庄屋出役人数」をまとめたのが上の表である。
 御案内役は正副巡見使三名の駕寵の両脇に一人宛ついて、質問に答えながら道案内をした。宝暦十一年に来た巡見使の上使青山七右衛門を、桜馬場から呼子まで案内したのは唐津村大庄屋桜井理平と馬場村大庄屋向平蔵である。向平蔵は巡見使を案内する一月前の三月に、桜馬場から呼子までの案内コースを丹念に歩いて確認したことを『宝暦十一年御巡見様御案内道見分草書』(名古屋松尾文書)に記している。
 藩側はこれ以外にも庄屋の役割分担を決めていた。

  覚

一 近所の庄屋と御呼び成され候節、庄屋壱人兼ねて御極め御座候
 掛り大庄屋見立ての人物
  横竹村庄屋 治一郎

一 浦庄屋と御呼び成され候節、庄屋弐人兼ねて御極め御座候
  唐房浦庄屋 門右衛門
  高串浦庄屋 嘉 吉

一 近所の百姓と御呼び成され候節、庄屋の内より三人兼ねて御極め御座候
  湯野尾村庄屋  善七
  万賀里川村庄屋 喜代八
  加倉村庄屋   恵介

一 百姓の内五人組頭と御呼び成され候節、庄屋の内より四人兼ねて御極め御座候
  新木場村庄屋 孫六
  濱野浦庄屋  惣助
  鳩川村庄屋  幸助
  鶴牧村庄屋  定吉

 これによれば、巡見使が通る近くの村や浦の庄屋を呼ぶようにいわれても、藩はあらかじめ決めていた「掛り大庄屋見立ての」庄屋を差出し、近所の百姓や五人組頭にお呼びがかかった場合でも、「兼ねて御極め御座候」庄屋達を差出すよう手筈を整えていたことになる。これは、予定していない百姓や五人組頭が呼ばれていろいろと藩に不都合な話でもされたらとの危惧があったためで、「手鑑」(質問想定問答集)を作成し庄屋達に応答の練習までさせていた用意周到さと考え合わせると、藩側も巡見使対策には相当に頭を痛めていたことが伺える。


 天保九年(一八三八)の西国巡見使は、使番曾我又左衛門・小姓組大久保勘三郎・書院番近藤勘七郎であった。
 このとき御三方様の案内役として駕籠の両脇に付いたのは、曾我又左衛門に相知村大庄屋田崎猪八郎、畑河内村大庄屋宮崎庄左衛門、大久保勘三郎に黒川村大庄屋福本與助、有浦村大庄屋加茂信蔵、近藤勘七郎には鏡村大庄屋中江新平、今村大庄屋黒岩良吾であった。
 この時どの様な質問があり、それにどう答えたかについては『天保九年御三方様御駕寵副御答書写帳』(岸田家文書・唐津市近代図書館)に詳しい。
 ところで、福岡市総合図書館の蔵書に『順見使西国紀行』という文書がある。著者は不明だが、その内容から天保九年の巡見使一行の誰かが記したものであることがわかる。
 この年の西国巡見使は、筑前筑後肥前肥後日向大隅薩摩壱岐対馬五島の十カ国を約五カ月間で回っている。
 『順見使西国紀行』は、末尾に、

 「此書は九州対州五島共其の荒増を記すのみ、委敷ハ後で清書の節、珎聴奇談、名所旧跡洩さず書きのせんと筆を留る」
とあり、後で清書するために見たまま聞いたままを気軽に書き留めたものであるが、四月廿八日に若松を出た一行が八月廿四日(閏四月を含む)黒崎に到着するまでを軽妙なタッチで記しており、読んで行く内に自分も巡見使一行と歩いているような気分にさせられる上質の旅日記である。
 今回はその中から深江から壱岐までの行程を紹介し共に楽しんでみたい。


 閏四月五日 天気
 辰上刻深江出立、旅宿脇二常夜燈の大き成る有り、宰府天神への峰なりと、宰府迄ここより十二里、此所より左り曲り宿中右に宝満天神宮有り、宿はつれ右へ転じ橋を渡り左高き所に鎮懐石八幡の社有り、社ハ道の辺出さき山の四五丈も高く、古松の内にて至って小社なり、ここより海辺にて左の山に添い行くなり、いささか高ければ、浪そばに寄る心配すれど難なし、此辺西北に筑前国ひめ嶋見ゆ、嶋大きからず、丸く高く見ゆ、嶋に畑有り、家数六七十有り、右深江の方の山の出さきを名とりが崎と言う、是より東北の方の海を玄界なだといふよし、△さなみ村、村より手前右に休所、深江より廿壱丁、ここより二三丁行ハ海辺にて左ハ田地見へさなみ村の本村有り、並木を通り山の出さきを横に一丁余上り下りして又海辺に出、ここにも休所有り、おふにう村の地の由、△大にう村、家数多からず、村中を通りぬけれハ中津領と対州領の領分境の石二ツ在て両家の役人出て待居たり、此所より福井迄の間並木多ければ広り高く波の音のみ聞こゆ、△福井村△福井浦、いささか家有り、海辺の方浦なり、△吉井村、吉井浦、小橋を渡り吉井なり、右ハ吉井浦、左ハ吉井村と分かるるなり、家多し、△松の並木を通り右に山を見て左へ曲がり、五六丁行き坂にのぼり始るなり、橘峠と言ふ上下廿丁ばかりの坂なり、深江より二里、坂の中程左に休所有り、右の方一里ばかりにうきたけ山といふ、此辺にすぐれて高き山なり、いただきに白山宮有りと、高さ壱里十八丁、吉井村の内、恰土郡浮嶽久安寺ハ聖武帝御祈願所、恰土郡十坊七ケ寺の内とそ、天正年中破却せらる、今ハ枝郷の小名に相成る、十坊の内請永坊浮嶽山の麓に有りて白山権現の山伏、差配ハ峠右に愛宿の小宮有り、左志か加村と境の由、印有り、下れバ鹿家村なり、谷合の村にて北の方海に近し、左へ転じ右へけハしき坂三四丁のぼる、せと坂と言ふ、是鹿家村の地なり、ここより左り高き山の半腹を右に海を見て七八丁行て海辺に下るなり、下りさま左の方に休所有り、爰(ここ)ハ鹿家村の内長須隈と言ふ所の由、東海道のさつた峠にほぼ似たり、海より四五丁も高からん、海浜を一丁余り行て又坂を上る、是をつつみ石峠と言う、この峠の上り口の波打ち際につつみ石とて石を重ねたる上に大きなる石有るを言う、左の方山のふところを段々に田畑に開きたるがおち溝をこたに川と言う、つつみ石さして落るなり、是筑前国怡土郡と肥前国松浦との国境なり、前のせと坂より此の坂道の間肥前国、ひれふる山、唐津城、虹の松原、島々など遠く近く風景いはん方なし、つつみ石峠を下り左に山を見海辺を行て玉島川を渡るなり、此の玉島川は松浦川なり、めづら川共言う、神功皇后鮎を釣給ふ処なり、川前より左へかけ淵上村有り、川より二丁ばかり濱崎村の入口なり、濱崎村宗対馬守御手当地、濱崎浦常吉藤右衛門方ニ泊ル、十一ケ村高一万六千石、宗対馬守御手当地     


 六日 天気

濱崎辰上刻出立、呼子へ四里三十一丁、宿中程右諏訪の社有り、宿出はなれ右へ曲り行くなり、真直ぐに行けば長崎海(街)道なり、長崎へ三十六里、廿丁余行き対州領と唐津領の堺有り、濱崎より水嶋村迄の間松原の中を通り中久なり、ひれふる山は鏡山共言う神功皇后御鏡を御覧給いし処といい伝り、この領分界の辺より十丁ばかり左に見ゆ、南方なり、東西に長き山なり、いただきより少し下り松二所有りて青みわたりたる菱山なり、高サ二丁程、鏡社鏡大明神とて此のひれふる山の西の麓に在る由、本社神功皇后、二ノ宮広嗣を祭れるよし、されハ鏡宮の本縁ハ塙氏の群書類従の神祇の部に入れたる漢文の縁起いとめてたく、広嗣の上玉の文は尊信すべき文なりき、今思ひ出る侭に記せり虹の松原に休所あり、△水嶋唐津の入江を隔たるばかりなり、家居よからず、此の入江五丁といへど近きようなり、船中より唐津の城石垣見ゆ、一丁もへだたりぬらん、寅卯の方海へさし出て木しげり、いと高き所の木の間より屋根二ツみつ見ゆ、物見などにや舟を上れば唐津町の入口なり上りて休息所有り、△唐津城右に見ゆ、口町・新堀町・大石町・屋町・京町、此の町より見付を入れ中町・刀町・新町、△唐津枝郷左右に家いささかあれど至ってあしく、畑多し、△双子家居少々有り、右海辺松並木の様に見ゆ、道より二三丁くらいへだてたり左へ転じ中山峠に上るなり、十四五丁もあらん、△佐志村右山近く、左は田畑広し、村の中程左に休所有り、濱さきより此所迄二り十三丁、ここより呼子迄二り十八丁、佐志村の出はなれ右に並木の広き道有り、さしの本村・とうほう村等へ行く道の由、まへさか峠の中程より目下に小家数百むらかりて見ゆ、田地一丁ばかりを過ぎ坂に上るなり、あらひら峠又ハまへ坂ともいう、上り五六丁いと険し、止ノ考マ臆てて左、休所有り、△馬部(まのはまり)村、前坂峠を上りてより平地畑多し、まのはまりよりしやうぶ村迄ハいはば山の上なり、地形尤も高し、されど畑ハ勿論田も有り、馬部村に名こやの分れ道あり、左りへ行くなり、左りの名こや道ハいささか高し、分れ道よりなごや迄一里廿三丁、呼子迄壱り廿九丁なり、△高野村△大久保村△菖蒲村、此村々家まばらにありて、いささか高下有るのみにて記すべき程のこともなし、まるの峠下り三四丁もあらん、一丁余田地有り、谷間を通りあか土の坂を上るなり、ささた峠という、△打上村、家少々有り、谷間めきたり、右家少々有り、高き所に休息所有り、立場より呼子迄廿八丁、立場より三四丁行き横竹村なり、△横竹村、横竹村を過ぎ少々田のある所を通り、又畑中を通り呼子に下るなり、呼子の下り坂屈曲していと嶮し、坂の上よりかべ嶋呼子の向ふに見ゆ、地続きの様なり、いと大きなり、呼子と向ひ片嶌村あり、呼子浦、呼子町中町庄屋啓右衛門宅仮亭主芳蔵方に泊る、庭先海なり、向に弐嶋弁天有り、小嶋なれども景よし、呼子村ハ申酉ハ海岸にて、丑寅卯ハ皆山なり、町ハ巳午より亥子にたちつづけり、町いと狭く横竹村の方より下り坂いとけはし、右に天満宮の祠有り、町より右高き所に呼子権現の社有り、鳥居に目の丸の額有り、加部島の内片嶌へ十四丁名古屋へ海上廿丁、陸壱里十五丁

七日八日九日十日、雨天二付滞留、村々伺い等致す


 十一日天気
辰の中刻乗船、下刻漸く舟出す、呼子を漕ぎ出て左の方名古屋の入江なり、幅三四丁もあらんか、南へさし西へ曲がり廿丁余もあらんか、奥ハ見えず家のうしろ高き所、松一むら有り候なり、東照宮の御陣所の由、夫れより南高き所海辺より八丁、大き成る松林有り、太閤の陣跡なりという、夫れより西北へさし出たる出崎を波戸という、波戸村有り右ハ加部嶌、馬牧あり、所々に子馬居る処見ゆ、○マダラ嶌、是も馬牧有り、○松嶌、嶋の中程ひくし、鞍懸嶌とも言り、○カカラ嶋、いづれも人家田畑も多く見ゆる、かへ嶋、松嶋、かから嶋、嶋を近く右に、またら嶋を遠く左に見て、正北さしてこぎ行くなり、壱岐国ハ松嶋の辺より遥に見ゆるなり、呼子より十三里、壱岐国の南の方にこぎよせ、わつか五六丁はなれ西をさして二里余もこぎ行き、此南向の海辺見渡す所、海辺より高き山まで畑にて三四里は一目に見ゆれど家の一軒も見へず、人家は山かげにのみ有る成るべし、郷の浦より一里ばかり前に西へ差出たるまばら松有り、出崎有り、夫れより丑寅をさして十丁ばかりいれば、左ニ少しの入江有りてまつしき家のみ廿軒ばかり見ゆ、郷の浦のうちなりと言えり、此辺よりいとせまくわつか一丁余と思るるなり、奥へ五六丁もありなん、三方山高く、されど大方畑ならぬ所なし、未の下刻郷の浦へ着きたり、上陸、武生水村宝折庵泊る、別に咄有り、委細ハ清書の節認め入れへくともうせし、三使舟、鍋島小笠原の舟、是も別に留めあれば略す


 十二日
 辰中刻、武生水村出立、勝本浦迄三里十七丁いささか上る、右の方に谷間に田も見ゆ、左右目のかぎり山の高き所迄畑なり、武生水村ハくろめきたる真右なり、並木有り、小坂を下り又小坂を上りなどす、此辺高き所にて、南の方辻山見ゆ、遠見番所有り、○物部村、坂を下り左右田多し、居村ハ右に見ゆ、此村辺より田畑并道筋共赤土なり、鯨伏村、住吉村共言う由、小坂二ツ有り、田畑も有り、立石村左ニ居村有り、橋を渡り坂を下り左右並木松有り、布気村居村ハ道より左ニ見や、左の方高き所に休所有り、此所は外と違ひ家も大きく、一丁行き左ニ海見ゆ、四五丁行く、道より十間ばかり右に鬼の岩穴有り、夫れより二丁ばかり行く、道より六七軒、又鬼の岩穴有り、往古何人か住みたる穴居成りや、十丁ばかり行く、谷合へ下り又上り、一丁もなくて又二丁余さかしき坂を下り又上る、下りて此辺左ニ本宮村、右新城村有り、可須村かす村より前分れ道有り、左へ下りかす村、所々家有り、布気村休所よりかす村迄は左右なみ木松にて、田畑ハをさをさ見えず、小坂いくつも有り、松山多し、田畑山村共赤土なり、此辺高き所より東南に魚つり山見ゆる、勝本の待ちの東の方、嶌の浦のかたちなど見ゆ、左高き所岩をつき立たる松林有り、古城跡のよし、勝本へ下り坂いと険し、花川坂と言う、此坂の所々より勝本の町井并ひの嶌入口の気色こたび鍋島・小笠原の飾りたてたる船数艘見へ誠にめざむる心地する。



 巡見使一行は、町中を通る時は町年寄を、郷方を通る時は村の庄屋を案内役として駕籠の両脇につけて、いろいろの質問をしながら通った。藩としては案内役に勝手にしゃべられては都合の悪いこともあったのであろう、巡見使の派遣が決まるといち早く案内役の町年寄と庄屋を決めて、予想される質問事項を想定し模範解答を与えている。これが『巡見手鑑』と呼ばれるものである。
 案内役になった庄屋達は、例えば馬場村庄屋向平蔵のように、事前に案内コースを歩いて下調べをする者もいた。巡見使の案内が終わると、庄屋達は質問された事項とそれにどの様に答えたかをまとめて報告をする義務があった。庄屋達は質問された内容にはたいてい「承り及び居り候通り申上げ候」と報告しているが、たまには想定外の質問もあったようで、その時は「私儀遠在の者にて委しく存じ奉らず候」と上手に逃げている。
 しかし、案内役の庄屋達は庄屋仲間でも博識の者が選ばれていたので、質問内容によっては滔々と私見を披露することもあったようである。
 庄屋文書に残る巡見使関係の文書には次のようなものがある。


・『鏡御宿亭主覚書 寅三月之写梶山平蔵』(相知峯家文書)
 『延享三歳寅三月日御案内旧記写梶山平蔵』(相知峯家文書・『峯家文書解読書四』)

・『延享三年徳永平兵衛様御案内御挨拶』(名古屋松尾文書4・『新版鎮西町史 下巻』)

・『宝暦拾辰九月御巡見様御通筆記峯命』(相知峯家文書・『峯家文書解読書四』)

・『宝暦十一年御巡見様御案内道見分草書向平蔵』(名古屋松尾文書1)

・『宝暦十一年青山七右衛門様御尋答書 桜井理平 向平蔵』(名古屋松尾文書6・『新版鎮西町史』下巻)

・『宝暦十一年御案内手鑑向平蔵』(相知峯家文書・『相知町史 付巻』)

・『天明七年御巡見様御用留帳』(名古屋松尾文書2)

・『寛政元年土屋忠治郎様御駕籠添御答書上帳』(中里紀元氏所有文書・『新版鎮西町史 下巻』)

・『寛政元年御巡見様手鑑』(岸田家文書)

・『天保九年御巡見様手鑑』(岸田家文書)

・『天保九年御三方様御駕籠副御答書写帳』(岸田家文書)

・『天保九年御巡見様江御伺書ニ御附札ニ而御下書面為心得写被命附候控』(岸田家文書)


 これらの文書は、巡見使派遣の実態を知る上で貴重な資料であると同時に、私達には郷土の遺跡や地名の起こり等郷土に関する様々な事を教えてくれる参考書でもある。今回は、この中よりいくつかを取り上げてみることにする。 


  
ご案内の道順
 巡見使一行は、唐津街道を歩いて来た。案内役の庄屋達は、藩境で巡見使を迎えることになる。唐津街道の藩境は土井時代までは筑前口福井にあったが、水野時代は浜崎までが天領となったので、藩境は虹の松原内にあった。
 『寛政元年土屋忠治郎様御駕籠添御答書上帳』によれば、

 「松原御境目に罷り出、御案内の者共と申上げ候処、手札所持致し候やと御沙汰に付、両人共に名札指出し候処‥‥御駕籠の両脇に付き候様仰せ付けさせられ、左右に添い申し候」

と、虹の松原の分石の所で、手札を差出し自己紹介をすませ、駕籠の両脇に付添い案内をしていくことになる。つまり一駕寵に庄屋二人が付くわけである。一行は松原を通りながらやがて水嶋の渡船場に到着する。
 ここの駕籠立場で小休止の後、五丁程(約五四〇b)の川幅の松浦川を対岸の新堀まで船で渡っている。新堀から町中を通る時は、町年寄が案内をすることになるから、案内の庄屋は先回りして桜馬場で待ち受けることになる。

「桜馬場にて、是よりは何村やと仰せられ候故、唐津村にて御座候と申し上げ候、新堀も唐津村かと仰せられ候故、御意の通り唐津村の内にて御座候と申し上げ候、町は何町何町を通るやと御尋ね遊ばされ候故、大石町・魚屋町・京町・中町・刀町御通り遊ばされ候旨申し上げ候処、新町は通らざるやと仰せられ候に付、新町は刀町御通過ぎ遊ばされ御左へ相見え申し候横町にて御座候と申し上げ候へば、右にてはこれ無きやと仰せられ候故、御左と申し上げ候」

 これによると町中は、大石町→魚屋町→京町→中町→刀町の順で巡見していることがわかる。残念ながら村方のように文書が残っていないのでどの様な会話を交わしたかはわからない。また、新町は通らないのかと聞かれて、新町は刀町の左側に見えると答えたら、右ではないのかと問い返しているあたり、巡見使もかなり下調べをしてきていることがわかる。

 
巡見道のこと
 菜畑に巡見道という地名があり、巡見使が通った道だといわれている。
 これについては『天明七年御巡見様御用留帳』に
 「御通り筋江川町通の筈に候処、俄に変わり御巡見道急に作り御通候」
とあり、『寛政元年土屋忠治郎様御駕籠添御答書上帳』にも、

 「江川町御尋ね、あの方はなぜ通らざるやと御沙汰御座候、江川町平日の通り筋にて御座候へども、先規より此通り御通行の旨申上げ候」
とあるので、巡見使の通る道は江川町であったのが、天明七年(一七八七)に急に巡見道を作り、寛政元年(一七八九)の巡見使の時から新規の巡見道を通ったことがわかる。

 
鏡山のこと
 鏡山についてはどの年の巡見使も必ず尋ねる質問事項の定番である。
 享保二年の巡見使一行は鏡村の二軒の茶屋と恵日寺に分宿したが、恵日寺宿の亭主として接待した平野村大庄屋藤吉は、「当所鏡村と申す哉、この上の山ひれふり山と案内衆申され候、又別に本名これ有るや」と尋ねられて、「当所鏡村に鏡大明神と申す宮も御座候へば、直に鏡山と申し候、歌書にもひれふる山とも、ひれふす山とも申すげに承り候」と答えている(『鏡御宿亭主覚書』)。
 当時庄屋達の間には、短歌や俳句をたしなむ者も多く、藤吉も鏡山というのが本名だが、「歌書」にはひれふる山とも、ひれふす山とも詠われていることを披露したのである。

 
水島か満島か
 東唐津の満島は水島と呼ばれた時期があったようだ。そのことについて『寛政元年土屋忠治郎様御駕籠添御答書上帳』では次のように答えている。

 「満嶋と水嶋の文字、水か満かと御尋ね遊ばされ候故、水にて御座候と申し上げ候へば、満と書き只今は水と替へ訳にてこれ有るやと仰せられ候に付、何の訳迚(とて)も御座無く候、漁人は別して愚痴成る者に御座候故、水と申す文字にては不漁故、満と申す文字に替え居り申し候処、尚又不漁故、又右の水嶋へ御願い申し上げ候わんと存じ奉り候、以前より相用い居り申し候は、水と申し候文字と承り及び申し候由申し上げ候」

 もともとは水島だったのを、豊漁を願って浦島と改名したが、かえって不漁続きとなったので、もとの水島へ戻したということである。今は満島だから水島と満島は二転三転したことになるわけである。


 
大久保村か岩野村か
 「同所(佐志村)辻御立場にて、大久保村・岩野村は何れが本名やと御聞き遊ばされ候故、大久保村にて御座候、岩野村は大久保加賀守様御代、御苗字に指し合せ候故、当時岩野村と替り申し候由承り申し候と申上げ候えば、前方(まえかた)巡見の節は岩野村と申し、此節は大久保、時々に名を替え候ては紛らわしくこれ有りと仰せられ候故、御尤も千万に存じ奉り候、如何様岩野村は当時加賀守様御苗字に指し合せ申し候て、此方にてばかり替り申し候に付、御公儀様には相分り申すまじきと存じられ、大久保村と書上げ御座候はんと存じ奉り候」(『寛政元年土屋忠治郎様御駕籠添御答書上帳』)
 現在の鎮西町岩野は、大久保村といっていたが、大久保氏が藩主となってからは、殿様と同じ名であることを憚って岩野村と改名したことはよく知られていることである。ところが、大久保氏転封の後は大久保村の名が復活したらしい。前回は岩野村と言い、今回は大久保村と言うのは紛らわしいではないかと巡見使に指摘され、「こちらの都合で変更しましたので、御公儀様にはわかるまい」と思いましてとは、これまた正直な回答ではある。

 
名護屋口のこと
 「唐津城下の門、名古(護)屋口と名付候は如何の訳かと御尋ね御候、訳□□存知奉らず候、名古(護)屋太閤様御陣屋、寺澤志摩守様御拝領遊ばされ、右木材を御用い唐津御城御成就と申し傳え候えども、此縁にて名古(護)屋口と門も御座候や、亦は名古(護)屋村の方へ出入り仕り候門故名附き候儀や、聢(しか)とは申し上げられざる由申上げ候」

 唐津城下の内町は周りを堀で囲まれ、外曲輪としての機能を持ち、名護屋口・町田口・札の辻の三つの木戸より出入りをしていた。
 名古屋口は浄泰寺(弓鷹町)の西脇にあったが、巡見使に名前の由来を尋ねられて、太閤秀吉の陣屋であった名護屋城の木材を運んで唐津城を築城したと伝えられていることから、名護屋口と名がついたのか、ここを出て西へ行けば名護屋村に行けるので名護屋口と言ったのか、はっきりとはわかりません、と答えている。

 
二里の松原と
  虹の松原の呼称

 虹の松原は二里の松原とも呼んでいたようだ。
 『寛政元年土屋忠治郎様御駕籠添御答書上帳』では、

 「弐里の濱の事御尋ね御座候、則ち此所にて、惣名虹が濱とも唐土ケ原とも申伝え候旨申上げ候」
と、二里が濱、虹が濱、唐土が原とも呼んでいると答えている。
 天保九年『御料御巡見様御案内記』では、「先に見え候松原は何と申す所にて、誰殿領分哉」と尋ねられて、「二里の松原とも虹ノ松原とも申し候」と答えている。
 さらに続けて「地面は当領凡そ四分通、唐津領六分通位御座在るべく候、長さ壱里余、横四町程御座候、浜崎宿より唐津領満島迄相続き居申し候」と、虹の松原が浜崎領(天領)四分、唐津領六分に分かれていること、その長さは一里(四キロ)余、幅が四町(約四三〇b)程と答えている。
 虹の松原の長さについては、土井時代の『手鑑』でも「虹ノ松原東西一里、南北五丁」と記しているので、松原の長さが一里程度であったことは確かなところであろう。
 では、どうして二里の松原と言うようになったのであろうか?。この疑問に応えてくれそうな問答が『寛政元年土屋忠治郎様御駕籠添御答書上帳』の中の「竹田吉十郎様御駕籠添御答書上」にある。井手野村大庄屋松尾兵左衛門が答えたものである。

 「間もなく二子へ御出成られ候処、土屋様御駕籠立て申し候故、暫く御滞りの内御呼び遊ばされ、濱崎より水嶋まで道矩御尋ね遊ばされ候故、壱里四丁と申し上げ候へば、濱崎にて承り候へば弐里と申し候と仰せられ候に付、虹ノ松原を取り違え二里の松原共申し候故、ふと二里と申し上げ候わんと存じ奉り候と申し上げ候‥‥」

 浜崎から水嶋までの距離を尋ねられて一里四丁と答えたら、巡見使が浜崎では二里と申したぞと言っている。
 これに対し松尾兵左衛門は、虹ノ松原のことを取り違えて(聞き違えて)二里の松原と申す者もいるので、浜崎で答えた者も「ふと二里と申上げ」たのではないかと答えている。
 兵左衛門の見解を正しいとすれば、全長一里しかない松原を二里の松原と言う疑問が氷解するのである。松尾兵左衛門は、後に名護屋組の大庄屋を務める当代きっての博学で知られた庄屋である。この見解は正しいとみていいのではと思う。

 
佐志坂のこと
 中山峠を下って佐志村に入ると、佐志川にかかる土橋のたもとに駕籠立場(休憩場)がある。
 ここには臨時の売物家が設けられていて、麺類・餅菓子の類や、草履(ぞうり)草鞋(わらじ)等が売られていた。巡見使一行は、ここで小休止をとっている。前方に上場台地が見える。ここから一気に登ることになるが、この坂が荒平坂(佐志坂)と呼ばれ、朝鮮出兵に駆り出された兵士達が「佐志峠とて殊の外急なる坂候‥‥人馬共に殊の外草臥(くたび)れ申し候」と登るのに大変苦労した坂である。
 藩政期にも、名護屋〜唐津間の馬賃・人足賃には、十二%の佐志坂引増賃が加算された程である。
 佐志坂は八町余(約八七〇b)あり、巡見使一行もこの急坂には悩まされたようで「佐志村の坂急にこれ有り、馬にては越し難くこれ有るべし」と聞かれた案内役の庄屋が「乗り掛かりにては御意の通り越し難く御座候、当家中より遠乗りなどに罷り出候節は越え申され候」と答えたのに対して、どんな馬具をつければこのような急坂が乗り切れるのかと驚いている。


 
上場台地のこと
 佐志坂を登りきると、大型農道千々賀〜屋形石線に出る。農道脇のこんもりと茂った木立の下に道祖神が祀ってある。ここが『名古屋文書』に記されている「一の城戸」「佐志の辻」である。
 ここから農道を突っ切りまっすぐに伸びる細い道が太閤道といわれ、馬部まで続いている。巡見使一行もこの道を通ったのであろう。宝暦十一年(一七六一)の巡見使を案内することになった馬場村庄屋向平蔵は、桜馬場から呼子までの道を事前に歩いて下調べしたことを『御巡見様御案内道見分草書』に記しているが、その中に馬部追分の道しるべと駕籠立場付近を写生している。
 巡見使一行は、馬部追分に立つ「右呼子道、左なごや道」と刻まれた道しるべを見てどちらを通るか思案したようだ。この辺りでは、必ず上場台地について尋ねている。
 『寛政元年土屋忠治郎様御駕籠添御答書上帳』では次のようである。

「馬部辻にて此の所よき広野にて字何と申し候や、田畑にも相成るべき場所かと御沙汰御座候、惣名上場野(うわばの)と申し、野広に御座候へども、地所宜しからず田畑に相成り申さず候、押して開明(開墾)候へば、都て古田畑の手入れも行き届かず障りに相成り申し候、則ち此辺に相見え候畑の通り、都て土地悪しく至って出来申さざるの旨申上げ候処、如何様此所の麦も細く相見へ、ケ様の畑にも上納(年貢)掛かり候やと御尋ね遊ばされ候に付、ケ様に土地宜しからざる場所は、年長く作物取れ申さず候に付、何程打明(開墾)申し候ても切畑と申し、上納一切仕らざる旨申上げ候」


 
囲米(かこいまい)のこと
 寛政の改革で松平定信は、飢饉対策として諸大名に米の備蓄を求めた。文化七年(一八一〇)には、一万石に付き米五百俵の囲米を命じている。巡見使に囲米の事を聞かれて次のように答えている。

 「百姓不作の節の手当てに何か囲い置き候品はこれ無きやとお尋ね遊ばされ候、囲米と申し下より高壱石に付き米壱合宛、御上より壱ヶ年に米百俵宛作物宜しき年計り指出し、只今凡そ米三千俵・稗(ひえ)凡そ三百俵・海鹿毛(ひじき)凡そ四百俵程に相成り居り申し候由申上げ候へば、何方に囲い置き候や、何年程にて右の高に相成り居り候やと仰せられ候に付、御城下町端に御上より蔵出来仕り囲い置かれ候、仕法立候より凡そ拾五年程に相成り候由申上げ候」

 囲米は藩の蔵米より一年に米百俵、農民達は一石に付き米一俵を納めて、現在まで十五年間で米三千俵を貯えていると報告している。
 また、米だけでなく稗三百俵、海鹿毛凡そ四百俵を貯えているが、海草を貯えているのは、海に面した唐津藩の特徴であろう。ちなみに唐津藩の庄屋文書によく出てくる救荒食糧は、甘藷・大麦・大豆・稗・黍・粟・葛根等で、特に甘藷は享保六年より栽培を始めている。これは、享保の飢饉で青木昆陽が甘藷栽培を奨励した年より十数年早い。


 
江戸に似たことば使い
 寛政元年の巡見使の一人が「当国は風俗言葉つきが、江戸によく似ているが、どうしてだろう」と、案内役の庄屋に尋ねている。
 庄屋は「殿様が江戸近くの参州岡崎より参られたので、奉公人まで連れてくるわけに行かず、すべて唐津の領内から召抱えられました。その者達が自然に主人を見習いそうなったのでしょう」と答えたら、「いやそうではあるまい。大坂筋・中国筋は当国より江戸に近いのに、風俗やことばづかいは江戸とは全く違うのだから‥‥」と言われたと報告している。
 唐津では「城内ことば」というものがあったということだが、譜代大名の転封が多かった唐津藩では、巡見使も気づくような江戸なまりがあったのだろうか。

 
鮎のご馳走
 巡見使の食事は、奢侈を控えるよう幕府の触書も出ていた関係もあってか、比較的質素であった。しかし、迎える側にとってはそうも行かず、時には地元の特産が膳を賑わすこともあった。『鏡御宿亭主覚書』には、朝食に焼鮎を出した時のことが記録されている。

 「十一日朝、御前に焼鮎二ツたて酢にて本膳に付け出し、是は玉島川の鮎と申して名物、未だ細に御座候へ共何にても御座無く候故夕べ相求め候と申し、出し申し候、御勝手に御給仕の衆出られ仰せられ候は、亭主に珍しき鮎出され賞味いたし、未だ焼置き候魚これ有り候ハバ、今少し出され候様にと旦那申され候と仰せつけられ候、鮎四ツ大皿に置き、酢ちょくに入れ差出し申し候へば、残らず召し出され候‥‥」


 玉島川の鮎は、神功皇后伝説にも出てくるほど古来より有名であったが、巡見使の朝の食膳に出したところ、台所に御給仕係が来て、旦那様がとても美味な鮎である、焼置きの鮎が残っていたら今少しと催促されたので、大皿に鮎四匹をのせ差出したところ、残らずぺろりと召し上がられたということである。
 この後、巡見使一行は庄屋達の案内で呼子迄歩き、呼子の茶屋で一泊した後壱岐・対馬へ渡っている。おそらく江戸へ帰ってからも、鏡の宿で食べた焼鮎の味は話題になっ
たことであろう。