唐津市のホームページ
まつり再発見

文章は一部修正しました。
随分前に唐津市に訂正の依頼をしておりますが、
なかなか訂正してくれません。

京町は、唐津城築城時の総町12カ町の一つで町人の町でした。
 江戸時代の文化年間(1804〜1817年)の町内は、戸数62戸、人数144人で、宝暦年間(1751〜1763年)の絵図には、町田口に面して山伏大泉坊があったり、町田潮ノ先の若宮社を西組で代々祭っていました。
 京町東端の町田川には、札の辻橋が架かり、橋の西側には、午後9時に閉まる木戸や高札場、町奉行がありました。
 幕末の商人では、町大年寄の糸屋草場家(鯨組、酢屋)、平田屋草場家(漢方医)、薬屋舟越家、於釜屋岩下家(酒屋)、研家吉家(刀研ぎ)が有名です。
 京町は明治31年鉄道開通により、唐津一の繁華街・商店街として繁栄しました。
 「珠取獅子」は、明治8年(1869年)、細工人富野淇園、塗師棟梁大木夘兵衛、塗師大木敬助らによって、糸屋の屋敷内で製作したと伝えられています。(糸屋の末裔で東の木屋の番頭さんだった草場清二郎氏より吉冨寛氏が生前聞いた話です。
また、参道のヤマ小屋が出来る前は、京裏町(現在の高砂町)、吉冨家の西に小屋を建ててそこに格納していたと故戸川健太郎宮司が言っておられました。
 京町が「珠取獅子」を選んだ理由については、
(1)町内の長門屋(吉冨常左衛門・吉冨善兵衛の父)に伝えられていた唐津焼の「珠取獅子」がモデルになった。
(2)本町の富野淇園が発想した(モデルの焼物も富野が作った)
(3)「珠取獅子」の青色が、ものの始まりの意味をもつことから、一流商人の町・京町が選んだものなどが伝えられています。京町では、安政6年(1859年)の平松文書によれば「珠取獅子」を製作前は「踊り屋台」と呼ばれる造り山笠を曳いていました。
 明治8年の町役員には、ろうそく屋の母里茂兵エ門、酢屋の平田屋草場平左エ門、油屋業の松田喜助、若者取締には質屋業の研家吉善兵衛などの人々がいました。
 明治38年の神祭には、必ず一戸一人参加することが決められ、明治41年には、7時の集合(朝か夕方かは不明)に遅刻した人から、1時間ごとに金十銭を徴収することが決められています。
 第1回目の塗り替えは大正10年に行われています。塗師は一色健太郎、費用は6000円かかったことが記録されています。この時、「珠取獅子」はそれまでの青獅子から朱獅子に塗り替えられています。理由としては、
(1)見栄えがしなかった
(2)青色の漆が入手できなかったからとも伝えられ、昭和37年に元の青色に復元されています。
 京町曳山行事の伝統としては、くんち期間中肉襦袢は絶対に脱がないとか、3日に神社の鳥居を過ぎるまでは、法被を脱がないといった正装をする昔からの伝統が残っていました。
 また、京町アーケードが昭和45年に完成するまでは、二日目昼の曳山勢揃いは京町通りで行われていました。
 町内には豪商も多く、よその町内が木綿の法被のころ、高級な絹を使った法被でした。

アンダーラインの部分は修正個所・追加箇所です。
もし市役所のホームページ管理者がこれをご覧になられたときはこれをそのままそっくりコピーして貼り付けてください。


以下、珠の内側に記載してある文字です。

明治八年十月十六吉日唐津神社奉納

総 代    杉山  慎
大工棟梁 木村幸助
塗      石崎重右エ門
仝      大木敬助
塗師棟梁  大木卯兵衛
細工人    富野淇園
        岡野重左エ門
        母里茂兵エ門
        草場平左エ門
        松岡小吉
        松田喜助
        船越寛三郎
        古賀貞兵衛
        鶴田伊左エ門
        草場利兵衛
        草場惣右エ門
        常安治右エ門
        草場清次右エ門
若者取締  吉冨善兵衛
       岡崎太兵衛
       中島久助
       増田源助
       草場太平治
若 者    石崎利兵衛
       森田栄治
       鶴田正兵衛
       一色平助
       山下彌兵衛
       草場平太郎
       富永勝治
       石崎保太郎
       坂本音次郎
       常安禎治郎
       平尾徳三郎
       原 卯市
       石崎菊太郎
       松岡岩太郎
       草場保太郎
       一丸榮太郎
       岡崎勇治郎
       草場辰太郎
       森田平太郎


前回の塗り替えで誤字が3カ所。
次の塗り替えではそれらを書き改めなければなりません。