唐津神社の神祭と曳山に関する抄録 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
編著 戸川 鐵 |
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編著者 戸川鐵 (とがわ まがね) 明治40年 唐津神社第10代神主戸川俊雄の弟戸川兎毛の四男として唐津市山下町に生まれる。佐賀師範学校卒業後は永年旧唐津市内小学校教諭として勤務。昭和31年から59年まで唐津神社氏子総代を勤める。平成11年帰幽。生粋の唐津っ子。 生涯をとおしてのヤマクレイジー。 |
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この貴重な記録を綴った戸川鐵氏の夫人、戸川房枝先生は、長年唐津幼稚園に勤務され、私の黄色組の担任でした。これも何かのご縁。山下町の先生の家にお邪魔したこともありました。ご主人の鐵さんには逢っていません。![]() |
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戸川鐵氏米寿の祝い 房江夫人と (石井信生氏より)2020.11.2 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注:著者の勘違いで明らかに違っている箇所は(正しくは・・)として加筆しております。また、その後の歴史で加えるべきところも赤で記入しています。また、現在では曳山と表記するべきところ山笠と原文そのままにしている箇所があります。 一閑張りという表現も原文のままにしています。 |
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第1部 |
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緒言および記録の趣旨 1 本記録は、唐津神社の由緒、唐津神祭および奉納曳山などの由来、時代に応じたその変遷、神社や神祭や曳山に関する特殊な事柄で、唐津人として日頃の常識として心得ておくべきだと思われることを、各種の資料から収集して平易に綴ったものです。 2 本記録は、唐津神社略誌、唐津神社社報、唐津市史、唐津市観光協会の案内説明書などに原拠しています。 3 本記録は、今後追加するに好適と思われる記事が刊行公表されたときに随時書き加えることにしましたので、時代的または時期的に見て順序不同の部分があります。ただし、各題目ごとの記録年月日は、実際に記録を始めた期日を記しましたが、煩序を勘案しないで取材を行ったので、必ずしも年月日順に編纂されていない部分があります。 |
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1 唐津神社の由緒 −御祭神の御神格と御神徳− (昭47.11.27.記) (1)一の宮 唐津神社の御祭神には、一の宮と二の宮とがあります。主祭神は、一の宮にお祀りする底筒男神(そこつつおのかみ)と中筒男神(なかつつおのかみ)と表筒男神(うわつつおのかみ)の三神であり、これを総称して住吉神(すみよしのかみ)または墨江神(すみのえのかみ)と申しあげます。住吉神と呼ばれる神社は全国にたくさんありますが、もっとも由緒が古いのは、福岡市の元官幣小社住吉神社と下関市の元官幣中社住吉神社と大阪市住吉区の元官幣大社住吉大社の三社です。 底筒男、中筒男、表筒男とは、それぞれ海や川の底部、中程、表面の支配者という意味であり、墨江とは水の澄んだ海湾や河口という意味であり、いずれも禊(みそ)ぎに関係していることは注意すべきことです。 古事記や日本書紀の神話によると、伊邪岐命(いざなぎのみこと)が黄泉国(よもつくに)に行って穢(けが)れを受けられ、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)で禊ぎ祓(はら)いをされた際に、水中に入って身をそそがれると、多くの神々がお生まれになられました。その中にこの三神があられました。これを最初に鎮祭したのが福岡市の住吉神社なのです。その後、神功皇后が三韓征伐のときに、この三神の和魂(にぎみたま)は皇后につき添って御寿命を守り、荒魂(あらみたま)は先鉾となってお舟を導き、大功をたてられました。 唐津神社御鎮坐の由緒も実にこのときであり、社伝によれば、皇后が三韓征伐のための御渡海のとき、西海茫々として際なく、その舟路は不明であったので、「願わくば、一条の舟路を示せ」と言って住吉の三神にお祈りされると、まもなく風波が治まり、海路が明るく晴れて楽々と軍を進めることがごきたということです。 皇后は無事に目的を達成されてご帰還のおり、御神徳が著しいことを感じ松浦の海浜(注1)に鏡を捧げて三神の霊をお祀りされたのが、唐津神社の起源とされています。その後、皇后はこの荒魂を長門の山田村に(下関市の住吉神社の起源)、和魂を摂津の住吉に(現在の大阪住吉区の住吉大社)、それぞれ祀られたと言われています。 この神話の後段によると、住吉神社は古来航海の武神とされ、特に大阪の住吉大社は上代における海外交通の要地にあった関係から、海上守護神として朝廷から特別の尊崇を受けられ、また一般国民からも航海や漁業の神徳に対して熱烈な信仰を寄せられたものです。 また、住吉の神については前段が示すように、禊ぎ祓いの守護神としての霊徳を忘れてはなりません。禊ぎ祓いは、ただ祭の前儀としての大切な意義をもつだけでなく、これによって生まれ変わることができるという信念が古くからあり、人はこの神様にお参りすることによって禊ぎ祓いの霊徳を蒙り、汚れを祓い清め、精神的に新生し、そして新たな意気ごみで生活戦線に立ち向かうのです。これが住吉信仰の根本なのです。 注1)このときの松浦の海浜が現在の西の浜と思われます。 (2)二の宮 二の宮には神田五郎宗次公をお祀りしてあります。 先に神功皇后が住吉三神を鎮祭された御社も、その後数百年も経って社殿さえもわからなくなっていたとき、宗次公(当時の地頭)はある夜、神夢を見ました。すなわち、神様が夢枕に立たれ、「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるを取りて祀れ」というお告げをいただいたのです。公が早速海浜に行ってみると、波間に箱(筐(きょう)というもので、竹を編んで作った四角な寵)が一つ浮かんで来ていました。それを取って開いてみると、それは実に宝鏡でありました。公は「これまさしくその昔、神功皇后が捧げられし神鏡ならん」と神威を畏み、このことを時の帝の孝謙天皇に奏聞されました。朝廷ではその御神徳をお感じになられ、詔命を降ろして「唐津大明神」との名を賜れたのです。 その後、幾星霜を経て、文治2年(平家滅亡の翌年)にその子孫の神田広氏に至り、社殿を再建して祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二の宮としたのです。これが二の宮御祭神の由緒です。つまり、神功皇后が住吉三神をお祀りされた松浦の海浜の御社、すなわち唐津神社起源の御社がすたれ果てて断ち消えようとするときに、それを蘇らせた神田五郎宗次氏の大功績とその尊い心構えを追慕して、二の宮の神としてお祀りしたのです。 【付記1】「唐津大明神」の神号 「唐津大明神」の神号をいただいたのは天平勝宝7年9月29日であり、第46代孝謙天皇の御代で、奈良時代です。 神功皇后が西の浜に住吉三神をお祀りされた年は不詳ですが、皇子の応神天皇の御代が皇紀861年に始まっているので、その年から数えて神田五郎宗次公の奏聞によって「唐津大明神」の名を賜られた天平勝宝7年までは554年かかっています。(昭51.11.16.調べ) さらに、天平勝宝7年から文治2年までは431年あるので、宗次公の功によった唐津大明神も、その子孫の広氏の時代になるまで、だいぶ長い間荒れていたものと思われます。 (3)相殿神(あいどののかみ) 一つの神社に二神以上がいっしょに祀られているとき、主祭神に対してその他の神様を相殿神(あいどののかみ)と言います。 唐津神社では一の宮と二の宮の他に、この相殿神として水波能女神(みずはのめのかみ)をお祀りしてあります。この神様は水の神様であり、慶長7年に寺沢広高公が唐津築城に際して現在地に社地を設定し、社殿を改築し、領内の総鎮守として崇敬し、新たに火伏すなわち火防鎮護神として水波能女神を勧請したものです。その後、唐津地方は火災が少なく、大火がないのは、この神様の霊験によるものとして篤い信仰が寄せられています。 去る昭和15年には、時の消防団が火防の霊験を畏み、その奉賽として大鳥居1碁を建立寄進しました。現在の一の鳥居がそれです。 【付記2】神田五郎公の子孫 神田広氏の功績 神田五郎宗次公を二の宮に祀るにあたり、神田広氏は社殿を改築し、田地を寄進して尊崇しました。また郷党の崇敬の念が加わったものと思われます。 【付記3】霊験の解釈 霊験とは、神仏の不思議な感恩のことです。 (4)祭神鎮坐の位置 唐津神社には、住吉三神(主祭神)をお祀りする一の宮と、神田五郎宗次公をお祀りする二の宮と、水波能女神をお祀りする相殿とがあります。そして、一の宮が神殿の正面に、二の宮が一の宮の東側に、相殿が一の宮の西側に鎮坐しています。 【付記4】「唐津神社」の名称 前述のように、初代藩主の寺沢志摩守は現在地に社地を設定し、社殿を改築し、領内の鎮守護神として崇敬しました。その後、大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主もこの御社を祈願所と定めて、広く領内の総社としてますます崇敬しました。明治26年には郷社に列し、「唐津神社」と改称されました。その後は、境内の拡張や社殿の総改築がなされ、昭和17年には県社に昇格しました。 【付記5】「唐津神社」の由緒 (昭50.4.1.「社報第29号」より) 神功皇后さまが三韓へ御渡海の折、舟路が不明のため、住吉の三神に祈願され、無事目的を達成せられてご帰還の際、松浦の海浜に鏡を捧げておいのりをされたのが起源とされています。 その後数百年も経って、その社殿さえわからなくなっていたとき、時の領主神田宗次公に、或夜神が夢枕に立たれ、「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるをとりていのれ」というお告げをいただき、早速海浜に至れば波間に一つの箱があり、これを開けば正に宝鏡であった。宗次公はこれを正しく、昔神功皇后か捧げられし宝鏡ならんとその神威を畏こみ、このことを時の帝孝謙天皇に奏聞せられたところ、朝廷におか れてはその神威を感じ給い、詔命を降して「唐津大明神」と賜ったのであります。 その後幾星霜を経て文治2年、その子孫神田広に至り、社殿を再建して祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二ノ宮としました。 慶長7年寺沢公が築城に際しては領内の守護神として崇敬し、その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、総氏神として崇敬の誠を捧げました。 明治6年郷社、昭和17年県社に列格、戦後は宗教法人として今日に至りました。 2 唐津神祭の日取りの変遷 (昭47.11.2.記) 唐津くんちで知られる唐津神社の秋の大祭は、古来この神社が遠く天平勝宝7年9月29日(昭和47年より逆算して1217年前で、奈良時代の残り3分の1を余すころで、万葉集が編纂されているころ)に、時の帝の孝謙天皇(第46代)から唐津大明神の神宮を賜った、という御縁起に基づいて行われてきたものですが、古くはもちろん旧暦によって行われていました。 しかし、明治43年からは新暦の10月29日を唐津くんちとして昭和42年までつづけてきました。それは、明治の御代になり、一般に新暦が取り入れられ、当時の内務省からの勧めなどもあり、全国の神社の祭礼期日が新暦を採用することなどがあり、また新暦で1ケ月遅らせることによって、季節をだいたい唐津大明神の御誕生に合わせて祭ることができたためです。実際には、旧暦の9月29日は、新暦では11月になることが多く、年によっては11月の中旬にめぐり来ることもあり、神祭としては寒いという不便も感じられていたということです。そのようなわけで、明治43年(「唐津神社由緒略誌」のパンフレット中の説明では、大正3年となっていますが)から昭和43年までの57年間(大正3年から数えれば54年間)は新暦の10月29日を唐津くんちとして、郷士人が親しみ、楽しんできたのです。新暦とはなりましたが、大明神御誕生の29日という日はひきつづいて重んじられたわけです。 ところが、第二次大戦後(昭和20年以降)は世相が急変し、10月29日と30日にあのような盛大な曳山行事を伴う神祭を行うことについて、神祭に参加奉仕する氏子の中の特に曳山関係の町内から、神幸祭(神様のお出まし祭)の日取りを変更するよう申し出がありました。その主な理由は、次のようなことでした。 (1)曳山関係の町は、商店経営およびそれに関係する人か曳手なので、月末くんちにはかなりの犠牲を払っている。今日の商取引は、旧来のような盆と暮れの決済で済むようなのんびりとした経済状況ではなく、月末はもっとも多忙な時期である。 (2)日取りを11月3日と4日に変更すれば、商取引のもっとも多忙な日が避けられるだけでなく、祝日(文化の日)を含むので他の地に赴いている唐津人にとっても小学生、中学生、高校生にとっても曳手としての参加が容易であるし、また外来の観光客も来やすくなって市の発展に寄与するところが大きい。 このような理由から、数年来言いつづけられてきた諸方の声を集約して、昭和43年6月22日に竹尾彦己商工会議所会頭名をもって、唐津神社に唐津くんちの日取り変更の要望書が提出されました。このことは数年来の懸案であり、それまでにも再三要望されてきたことなのですが、神社としてはその都度審議を重ねてきてはいたものの、日取りの変更には踏み切れず、お断りしつづけてきたことでした。 昭和43年に神社は再三にわたる要望に接し、氏子総代会や曳山関係機関その他にも諮り、充分に審議を重ねましたが、容易に結論か得られませんでした。そこで、戸川健太郎宮司(第12代)が次のような決心をされました。 従来の10月29日は唐津大明神の御誕生の日であり、この日は変更できないので、このゆかりの日を祝って本殿祭を執り行う。ただし、神輿飾りの儀は本殿祭に先立って執り行う。つまり、祭り日でもっとも重要な10月29日は本殿祭を執り行うことで生かし、その日をもって唐津くんちの始まりとし、神幸祭を11月3日に、翌日祭を11月4日に行うことによって、数年来の諸方の要望に応える。 以上のようなしだいで、次のようなことが唐津神祭行事の骨子として決められ、昭和43年の神祭から実施されることになりました。 1、 10月29日 神輿飾儀、本殿祭 1、 11月2日 宵祭、宵山曳き 1、 11月3日 神幸祭(輿移御渡御、氏子総代曳山奉納) 1、 11月4日 翌日祭(曳山行事) このようにして明治43年以来57年間つづいた10月29日の神幸祭は、世相の変化と参加奉納社のおおかたあよび市観光その他の要望に応えて、11月3日に改められましたが、考えてみると、季節的には明神様御誕生の旧暦9月29日とだいたい合致しています。 【付記6】神幸祭の日取りの変遷の要約 唐津くんち神幸祭は、神社が天平勝宝7年(皇紀1415年 西暦755年)に孝謙天皇から「唐津大明神」の神号をいただいた目出度い誕生の日を祝う祭として、人皇第111代の後西天皇の御代の寛文3年(皇紀2323年 西暦1663年)に起こり、その日取りは次のように変遷しています。 寛文3年〜明治42年 (246年間) 旧暦9月29日 明治43年〜昭和42年 (57年間) 新暦10月29日 昭和43年〜現在まで 新暦11月3日 【付記7】御神幸は寛文年間から (昭60.11.2.「毎日新聞」より) 秋空に曳(ひき)山ばやしか鳴り響き、14台の曳山が町を練り歩く。唐津神社の秋季例祭、唐津くんちは2日の宵山で幕を開け、4日まで3日間、祭り一色に塗りつぶされる。 唐津神社の創設は神功皇后が朝鮮半島から帰国後、住吉三神をまつったと伝えられ、その後、豪族・神田宗次が海浜で鏡を発見してまつり、天平勝宝7年(755年)唐津大明神の神号をもらったという。 祭神は一の宮が住吉三神。二の宮は神田宗次をまつる。御神幸は寛文年間(1661〜72)から始まり、みこしに曳山がお供するようになったのは文政2年(1819)の赤獅子(刀町)に始まる。 曳山は明治9年までに15台が次々に奉納され、現在は14台が残る。 くんち以外の唐津神社は住宅地に囲まれ、静かなたたずまい。周辺に曳山展示場や文化会館があり、時折訪れる観光客たちがみくじを引く姿が見られるだけ。年に一度の祭りのために力をためているようだ。 *筆者は、この新聞記事は正確なことを要領よく書いている、と評しています。 【付記8】神幸祭の日取りを臨時に変更した年 明治43年から昭和42年までは、神幸祭の日取りは10月29日と決められていたが、その間、次のような事情で臨時に日取りが変更または削除されました。 (1)大正15年 唐津にコレラが流行したために、神幸祭が11月3日に、翌日祭が11月4日に変更されました。 (2)昭和18年 防空大訓練のために、神幸祭が10月30日に変更され、翌日祭は削除されました。 (3)昭和19年 戦雲急のために、御神幸が10月29日に行われただけの一日祭で終わりました。 3 唐津くんちの起こり (昭47.11.10.記) 唐津くんちは、現在では10月29日の神輿飾りと本殿祭によって始まります。 唐津くんちの起こりは、人皇第111代の後西天皇の御代の寛文3年(注2)であり、江戸幕府時代の元禄より約20年まえ(昭和45年より逆算して307年まえ)のころです。唐津くんちは、遠く天平勝宝7年(奈良時代)に孝謙天皇から、唐津大明神の神号をいただいた目出度い誕生の日を祝うお祭りであり、始まった当時から神輿が氏子中を神幸され、氏子の町々からは思い思いの出し物が奉納されて、賑々しく行われてきました。藩主も必ずこれに供奉して、祭の奉仕を怠らなかったそうです。 今日のような豪華な曳山は、第120代の仁孝天皇の文政2年(昭和44年より逆算して150年まえ)に、刀町の「赤獅子」が奉納されたのが初めてで、いっそう賑々しく供奉奉仕するようになりました。それから明治9年までの57年間に14台の曳山が奉納されて、他の地には見られないほどの賑やかで豪華なお祭り行事となりました。 曳山が全部製作されて勢揃いしたのは明治9年で、15台でしたが、その後、紺屋町曳山「黒獅子」が明治22年ころ取りこわされて廃車となりましたので、現在では14台か勢揃いします。 注2)寛文3年は皇紀2323年、西暦1663年であり、唐津では大久保城主時代の初めで、忠職公の時代になります。 4 唐津神祭と 現在の曳山以前のやマの変遷 (昭47.11.10.記) 唐津には、現在の曳山ができるまえにも、神祭のヤマがありました。神祭で唐津神社の御神幸が行われはじめたのは、寛文3年(第111代後西天皇の御代の江戸幕府時代で、昭和47年より逆算して309年まえ)です。宝暦13年(第116代桃園天皇の御代で、昭和47年より逆算して209年まえ)の唐津藩主土井大炊頭利里の時代に、全町内から傘鉾山が奉納されました。それは「かつぎ山」と言われ、各町の火消組がかついで西の浜へ御神幸のお伴をしていました。そのころは、領主も行列を整えて随行していたということです。 次の領主の水野公時代になると、「かつぎ山」は車のついた「走り山」注3)に変わりました。江川町の「赤鳥居」は常に神前にあるために行列の先頭を進み、次いで本町の「左大臣、右大臣」、木綿町の「天狗の面」、塩屋町の「仁王様」、京町の「踊り屋台」ができてきました。 当時の記録によれば、また走り山であった江川町や塩屋町や木綿町や米屋町が従い、「わあー」っと走りだして、先行の大名行列や御神輿に追いつくと、そこで停まって壊れたところをコトコトと修理して、また「わあー」っと走っていました。これを「溜め曳き」と言ったそうです。京町の「踊り山」は町内の娘たちを屋台に乗せて町に出て、踊りを披露しながら通りました。そして、その後ろに二の宮の神輿が進みました。 現在の第1番曳山「赤獅子」が製作されたのは文政2年(昭和47年より逆算して153年まえ)で、小笠原長昌公が藩主のころです。当時、刀町の石崎嘉兵衛がお伊勢参りの帰途に京都の祇園山笠を見物し、帰唐してから大木小助などの同士とともにこの曳山を製作したと伝えられています。曳山の内側に作者の名前が漆書きされています。 次に、現在の曳山の起こりについて詳しく述べることにします。 注3) 「走り山」については、「曳山のはなし」(古館正右衛門著)の27頁を参照してください。「走り山」がいつごろからできていたかは、明かではありません。 5 現在の曳山の起こり (昭47.11.11.記) 文政元年(第120代仁孝天皇の御代で、昭和47年より逆算して154年まえ)に、水野忠邦に代わって小笠原長昌が奥州棚倉から唐津に封ぜられるとき、現在の刀町曳山「赤獅子」が造りはじめられていました。完成したのは翌年の文政2年ですが、ちょうど長昌か棚倉から入部する途中に、最初の曳山神祭に会われたと伝えられています。 「赤獅子」が製作された経緯は前述のとおりです。つまり、藩主水野公の末ころ、刀町の石崎嘉兵衛という人が伊勢参宮の途次、京都で祇園山笠曳きの光景を見て帰り、自分で土や竹や木などでいろいろと工夫を凝らして山笠を造って楽しんでいました(越後獅子の面に動機を得たとのことです)。これを見た町内の人々がおもしろいことだと言って、大木小助らをはじめ、協同で造りあげたのが現在の刀町曳山「赤獅子」であり、唐津曳山の第一祖なのです。 これを筆頭に、明治9年に至るまでに15台の曳山が次々に数年おきに造られましたが、明治22年のころ第9番の紺屋町曳山「黒獅子」か破損して姿を消し、その後復活しなかったことは誠に惜しいことです。 元祖刀町曳山「赤獅子」をはじめ、曳山はすべて竹や木などの骨組みの張り子漆塗り、すなわち一閑張りでできています。 神祭に曳山を曳く理由は、次のとおりです。まず、根本的な考えかたは、曳山は氏神である唐津神社の神輿に供奉するために曳くのです。この考えかたは昔も現在も変わりません。 次に、町民の武士に対する階級的示威運動として曳山を曳くようになった、という説もあります。つまり、町民が武士階級に対する一種の腹癒せとして曳くようになったということですか、当時の世相から推して断定はできません。しかし、その当時、この曳山を明神社前から明神横小路を経て大名小路に曳き出て、日ごろは低頭平身して通っていた大手門を意気衝天の勢いで喚声をあげて曳き出るときの町民たちの心中には、一年間の鬱積をこの一日に晴らそうとする底意があったものと思われます。神輿のお供であるという観念が充分に彼らを支配して許された日であるとは言え、流れる群集心理は封建制度に対する一種の腹癒せでもあったにちがいありません。 【付記9】昔の「唐津神祭行列図」について (昭48.10.25.曳山展示館にて記) ここに述べる昔の「唐津神祭行列図」とは、明治時代に現在の豪華な曳山が15台揃っていた明治16年ごろに、本町に住んでいた旧唐津藩絵師の富野淇淵氏の54歳のときの作品です。 もともとは旧家西ノ木屋山内家(山内小兵衛氏)の旧蔵だったのですか、昭和30年に唐津神社の1200年祭記念のときに同社に奉納され、現在は曳山展示館に展示されています。この絵図には、西の浜の御旅所から西ノ門あたりを中心に、15台の曳山、曳子、神輿行列、奉納相撲、侍、町人、物売りなど1600余人の人物か表情豊かに描かれています。現在でも唐津神社の所有です。 昭和47年9月1日に、市の文化財(重要民俗資料)として指定されました。この絵図が描かれてから昭和48年まで、実に90年を経ています。この絵図は、昭和48年に縮小された立派な絵巻として印刷刊行されましたので、筆者も11月18日に個人用として1軸ほど買い求めました。この縮小絵巻は、大日本絵画巧芸美術株式会社(東京都千代田区神田錦町1−7 小川誠一郎社長)の謹製で、みごとな美術出版物です。この企画は、大手口の平野書店店主と大手の美術出版界の小川誠一郎社長との親交の間から生まれたものです。 【付記10】漆の一閑張りの曳山 (昭47.11.11.記) 刀町曳山「赤獅子」は唐津で初めてできた漆の一閑張の曳山です。漆の一閑張とは、木型の上に和紙を幾重にも貼り重ね、漆で固めてから木型をはずしたもので、唐津では旧藩時代、紙方役所というものがあって、和紙の生産には特に力を入れていました。 日本各地で産土(うぶすな)の祭りに山鉾を曳き廻すところは多いのですが、唐津の曳山に類するものは例を見ません。現在は県の重要民俗資料(注4)に指定されています。 漆一閑張の作りかたについての詳細は、「曳山のはなし」(古舘正石衛門著)の36頁と37頁を参照してください。 (以上、唐津市文化会館発行の案内書による) 注4)唐津くんちの祭り行事は、その後、昭和55年1月28日に、国の重要無形民俗文化財に指定されました。(平2.10.30.追記) 【付記11】刀町曳山「赤獅子」ができた頃の世相 刀町曳山「赤獅子」ができた文政時代は、庶民文化が華やかな年間であり、唐津領内は水野の圧政から小笠原氏に変わり、領内の気分も一新した時代でした。第一番曳山「赤獅子」をきっかけに、各町内で多額の費用を費やして「、漆の一閑張りづくり」の豪華な曳山を造ったことは、町民の意気高揚と経済力が町人に移りつつあったことを偲ばせます。 曳山の重さは、平均して2トンです。大石町曳山「鳳凰丸」の製作費は、1,750両かかっています。ちなみに、昭和35年に木綿町曳山「武田信玄の兜」は塗り替えだけで100万円かかっています。 6 明神小路および その付近の変遷 (昭47.11.12,記) 維新前の唐津大明神は藩の祈願所として尊崇せられ、その格式も高かったのです。社殿の造営修理などは一切藩費をもってなされていました。ある年、台風で神木が倒れて本殿を破壊したときなどは、藩命で数日のうちに造営がなされたとのことです。 しかし一面では、鎮坐地が城内の真ん中のために、一般氏子は参拝に行きたくても場内への通行が自由にならずに、とかく不都合でした。また、藩は氏子からの鳥居や燈寵などの奉納を一切認めない方針であったようです。それは、藩主が寄進した以上のものを憚ったためであろうと思われます。そのためかどうかはわかりませんが、氏子は年に一度の供日に、町人の意気を示すためのどえらい曳山を造って曳き出して、大いに気勢をあげたのでもありましょう。 明治維新以後は、神社も藩の手から氏子のものへと戻ってきました。そこで、氏子たちは参道の開墾工事を最初に着手しました。これは古い城の絵図面でも判るように、現在の参道にあたる明神小路(神社から大手口までの参道)は半分で切れて、その先は濠によって遮られており、現在のような参道はなかったのです。そこで明治26年に、氏子たちが自らの手で、濠の埋め立てや民地の買収をやってのけたのです。これは今日のボランティアのようなもので、氏子である各町が労力を惜しまずに、畚(もっこ)をかついで働いて奉仕しました。明神小路の参道は、実に氏子たちの汗の結晶でできたものであり、当時開通していた国道に直接に通じ、神社の発展に大いなる貢献をしました。考えてみると、明治4年に廃藩置県が行われた後も、明治26年までの22年間は、城内はもとより外濠の辺りはまったく藩政時代のままであったものと考えられます。 明治26年に、大手口から鷹匠町筋に国道が開通するに伴い、参道である明神小路をこの国道に連結させるために、その中にあった土手や石垣(昔のお城の外郭になっていたもの)を崩して濠を埋め、明神小路の道幅も2間からその2倍半の5間に拡張されました。この工事は、民子たち一同のボランティア労力という、すばらしい貢献によって完成されました。 そして、この参道には、明神様のお出ましの処のしるしとして、木綿町からは大燈籠が、刀町からは大幡を樹てて、その石の杭が奉献されました。また、昭和6年には、刀町の宮崎家(注5)からみごとな石の大鳥居が奉献され、昭和19年には県社昇格を奉祝して市内国民学校・青年学校の児童・生徒・職員一同から堂々たる石の社号標が奉献されました。 このようにして明神小路は、氏子たちの貴いボランティア労力や奉献によって、年々に荘厳味が加わってきたのですが、次のような諸般のやむを得ない事情から、昭和44年9月に大鳥居をはじめ、大燈籠、幟石杭、社号標などを境内に移転させることになりました。 実は、その移転が実施される7〜8年まえの金子市長時代に、佐伯助役からこれらを移転させてほしいとの申し出があったのですか、神社としては当時の交通事情やその他の事情に鑑みて、不問に付していたのです。ところが昭和44年ころになると、車が急増し、車自体も大型・長型・重量化し、大鳥居の辺りは歩行者が急増したので、市当局から神社に、交通安全上および危害防止上、どうしてもこれらを取り除けてほしいという要望が出されました。神社としても、いつまでも旧来の光輝ある由緒をいたずらに固守するのではなく、時代の推移や社会の変革に対応するために、再三氏子総代会議を開いて検討した結果、市当局の要望を容れて、これらを境内に移転させることを決心しました。 大手口から参道への入り口が尊厳味が薄れて遺憾に感じることは否めませんが、市民に封する交通安全と危害防止を、明神様のお情けによって助けていただくことになることでしょう。 注5)この宮崎家は、長年醤油製造業を営んでおられました。 【付記12】木造曳山小屋の向かい側が 唐津小学校であった期間 (昭47.12.1.記) 明神小路にあった旧曳山小屋(昭和44年から明神ビルになっている場所)の西向い側(昭和37年8月から市庁舎になっている場所)は、60年近くの間、唐津小学校でした。 唐津小学校は明治34年11月に新築されました。それまでは松原小学校(唐津神社の前広場の西側で、現在の曳山会館の辺り)とその北側の地とに分かれた校舎を併せて唐津小学校と称していました。明治34年11月に現在の市庁舎の場所に校舎を新築して移転してから昭和32年までの56年間、大規模な唐津小学校が存続しました。その後、児童数の激増に伴い、大成小学校と志道小学校の2校に分かれましたが、分かれてからも昭和35年までは唐津小学校の校舎で運営されましたので、そこまで通算すれば存続年数は59年に及びます。 7 曳山保管場所の変遷 (昭47.11.12.記) −木造曳山小屋から明神ビルへの変遷を含む− 1 町内山小屋時代 その昔は、各町ごとに山小屋を建てて自分の町の曳山を格納していました。 文政2年に刀町曳山「赤獅子」ができて以来、各町に曳山ができるたびに、各町は適当な格納庫を町内に建てて曳山を格納していました。これを「山小屋」と称し、直射日光をできるだけ遮断し、雨漏れはもちろん、多湿を防ぐよう工夫されていました。 町内山小屋時代が非常に長かったのは、文政年間にできた刀町と中町、そして曳山が作られた当初から昭和34年まで自分の町内に保管していた材木町、大石町、水主町、江川町の6町でした。逆に、町内山小屋時代が短かった町の数は不詳ですが、その期間は20〜30年くらいだと思われます。 なお、各町の町内山小屋の位置についての詳細は、「曳山のはなし」(古舘正石衛門著)の156〜157頁、および「唐津曳山の歴史」(坂本智生著)の38〜39頁によると、次のとおりです。
【付記13】市が建設した格納庫ができるまで 曳山を町内で保管していた町 昭和34年に14台のすべての曳山は、市か建設したコンクリー卜造りの格納庫に納められましたが、材木町、大石町、水主町、江川町の4町の曳山は、それぞれ自分の町内の山小屋に保管されていました。その年数は、曳山が造られた年から昭和34年までですから、明らかです。その間、山小屋の場所が変わった町もありますが、町内で長年保管しつづけられたことはまちかいありません。ですから、これらの4町は、次に述べる明神小路の木造山小屋時代がなかったことになります。 材木町………天保12年から昭和34年まで………118年間 大石町……弘化3年から昭和34年まで………113年間 水主町………明治9年から昭和34年まで……‥83年間 江川町……‥明治9年から昭和34年まで………83年間 2 明神小路木造山小屋時代 明治26年に明神小路の参道が開通し、一般の氏子たちが自由に神社に出入りできるようになりました。そして、明治28年からは、その参道に沿った東側の大手口に近い場所にある宮地(明治26年の明神小路の参道開通のときに、民地を買収した残りの細長い土地で戸川家の所有地)、すなわち昭和46年に完成した明神ビルの位置に、各町の曳山小屋が思い思いに次々に建てられるようになりました。 それまでのように各町内で山小屋を設けて曳山を保管しておくと、その管理には便利ですが、火災の危険性も多く、不用心だということで、この宮地にそれぞれの町内負担で次々に木造の山小屋を建てることになり、大正6年頃までに10町つまり10台分の山小屋が建てられました。 「曳山のはなし」(古舘正石衛門著)には、次のような著述があります。「明治28年、肥後堀の一部を埋めて架橋し、現在の国道と明神小路を連結して明神小路の道幅を拡張したとき、現在の明神ビル建設用地になっている余地が出てきた。それで曳山小屋を神社に近いところに移すことにより、各町内のヤマゴヤをなくすることかでき、商業地の繁栄にもつながるという理由と、神社近くに常時ヤマを置くことは神社奉納の趣旨にも叶うということで、商店街が先達となって、神社通りの同地に、刀町、中町、呉服町、魚屋町、新町、本町、木綿町、平野町、米屋町、京町等、町域の狭い町と商店街の町が、自分の町の曳山に似合うヤマゴヤを建てて曳山を格納した。」 いずれにしても、これらの10台の山小屋のうち、最後にできた山小屋でも、少なくとも40年以上の長きにわたって明神前の山小屋として、唐津人にとっては片時も忘れられることなく親しまれてきました。その山小屋の前を通るときは、山小屋の戸の隙間や節穴から曳山を覗き見したものでありました。このようにして、市がこの貴重な文化財である曳山を災害から保護するために、近代的建設の曳山格納庫を造るまで、10台分の木造山小屋か存続したのです。 3 明神小路近代的格納庫時代 他郷に類比を見ないこの神祭曳山は、昭和33年に県の文化財になりました。 市としても、この貴重な文化財をこれまでのような古い不用心な山小屋に保管しておくことが、心もとないと懸念しました。以前から曳山所有町内からの要望も出ていたので、市は昭和34年にこの曳山を災害から保護するという見解で、鉄筋コンクリー卜造りの厳重な格納庫を建設しました。その際、それまで自分の町内の山小屋に格納されていた曳山も、市が建設したコンクリート造りの格納庫に保管されることになり、ここに14台のすべての曳山が明神社前に格納されることになりました。 このようにして、明神社前の木造山小屋として長年親しまれてきた10台の山小屋は、昭和34年に近代的なコンクリート造りの格納庫に建てかえられて、同年8月に14台のすべての曳山を格納するようになりました。そしてその後、この格納庫は、昭和45年10月までの11年と2カ月間、その役を果たしてきました。 4 曳山展示館時代 曳山は年を追うに従って、観光の面でも大きくクローズアップされるようになり、また昭和41年の唐津城の建設と相俟って、唐津観光の二大ポイントとされるようになりました。曳山の観覧希望者が増加して、常時観覧できるような施設の必要性に迫られたため、文化会館の一郭として曳山展示場が建設されるに至りました。昭和45年10月18日に曳山展示場のr落成式が執り行われ、曳山を展示場に納める曳山渡坐祭というお祭りか執り行われました。それ以来、14台のすべての曳山は、この曳山展示場(注6)に格納展示されています。 このようにして、市が建設したコンクリー卜造りの格納庫に11年2ヵ月こわたって格納されていた曳山は、曳山展示場に移されました。その後、神社としては、コンクリー卜造りの格納庫であった建物を市から買収して、神社の所有物としました。そして、氏子総代の協議の結果、この建物は8店舗に仕切って内装改装工事をして、客種業者に貸与することになりました。名称も「明神ビル」と改称して、昭和46年3月17日にその落成式が執り行われました。 注6)曳山展示場の各曳山を格納する扉は、高さ5.5メートル(18尺1寸5分) 幅3.8メートル(12尺5寸4分)あります。(昭48.7..「毎日新聞」より) 【付記14】明神小路開通のときの略抄図 および買収した宮地の使用状況の変遷 左の略抄図は、明治26年に明神小路が大手口に通じたときの様子を示すもで、筆者が昭和47年11月こ唐津神社の社務所に保存されている図面を参照したものです。
明神小路の参道か開通したとき、神社が民地を買収した土地(木造山小屋か建っていたところ、すなわち現在の明神ビルの土地)は、幅が南方に狭く、北方に僅かに広くなっていました。そのために、この土地に次々と建てられた山小屋は、奥行きの短い曳山の小屋が南に、奥行きの長い曳山の小屋が北に建てられていたと記憶しています。 つまり、この土地の利用状況の変遷はつぎのとおりです。 1 空地時代 明治26年に明神小路が大手口に通じ、この土地に各町の木造山小屋が建てはじめられるまでの期間は空地でした。その年数は明らかではありませんが、明治26年以後から大正年間になるまでの年数以内と思われます。 2 木造山小屋時代 昭和34年に市がコンクリート造りの近代的な曳山格納庫を建設するまでの期間は、各町の木造の山小屋か建てられていました。その年数は明かではありませんが、50年内外ではないかと思われます。 3 曳山格納庫時代 市がコンクリート造りの近代的曳山格納庫を建設した昭和34年8月から、昭和45年10月までの11年2カ月の間です。 4 明神ビル時代 近代的な曳山格納庫が昭和46年3月に明神ビル(唐津神社所有の貸店舗)になってから今日までの期間です。 8 曳山についての 根本的な考えかた (昭47.11日.16.記) 唐津の曳山は、つまり神祭曳山であり、郷土神社産土(うぶすな)の神に奉納された曳山なのです。今日では全国各地の観光研究熱が盛んになっており、年とともにわが唐津にも観光に訪れる客が急増し、その中には唐津第一名物の曳山見物を楽しみに来る客が多くなってきています。そのような観光客が容易に曳山を観覧できるようにと、市が曳山展示場を造って積極的に神社や神祭や曳山に関する説明と案内をしていることは、神社はもとより市の発展にも大いに寄与しているものと思われます。しかしながら、この曳山については、唐津人として決して思いちがいをしてはならないことがあります。 それは、唐津の曳山は外来の観光客に見せるために製作されたものではなく、また市の観光宣伝の材料として保存されているわけでもない、ということです。唐津の曳山は、あくまでも唐津大明神に奉納されたものであり、実際上の所有権と維持の義務は曳山を造った町にあるにせよ(注7)、唐津大明神の一種の荘厳な神器とでも考えるべきものです。つまり、年に一度の秋の大祭の御神幸に供奉して奉仕し、お祭りを盛大かつ有意義にお力添えするという、曳山本来の趣旨で製作されたものなのです。 ですから、観光客の勧誘などを考えなくてもよかった時代は、曳山は平素はかなりの部分を解体して山小屋に納めておき、必要なときに必要な掃除や修理をして、年に一度の神祭を待って備えていたのです。神の御神幸のお供でない場合は、曳山はみだりに曳き出されなかったのです。しかし、現在では、曳山が神に奉納されたものであるとは言え、時世の要請をできるたけ容認して、ある程度は開放的に、曳山を外来の観光客にも観覧して喜んでもらうことも大切なことになってきました。そのようなわけで、今日では曳山はいつでも容易に見物できるように、曳山展示場に納められていますが、あくまでも曳山は神に奉納されたものであるという根本の考えかたを失ってはなりません。 注7)唐津の曳山は、14台すべてがそれぞれの町内の人たち、つまり素人が苦心して製作したものです。秋のおくんちには、自分たちが作った曳山を奉納して、お祭りを盛大にしようとする町内の人たちの心意気か伺われます。決して天下の名工たちの手によって造られたものではないからこそ、奉納としての価値が高いものと思われます。 (昭39.10.1.「社報第9号」参照) 9 総行司と当番町 (昭47.11.17.記) 総行司とは、古く藩政時代に唐津総町の年間運営からすべての行事を司る当番町を指しています。唐津の総町とは、本町、呉服町、八百屋町、中町 木綿町、材木町、京町、刀町、米屋町、大石町、紺屋町、魚屋町、平野町、新町、江川町、水主町の16町のことです。これらの町が、言わば唐津の中心街をなしており、その当時は客町に年寄りと、その上に大年寄りが3人いて、総町の運営にあたっていました。これは、明治以後の地方自治の根元であるとも言えましょう。 当然、唐津神祭神輿のことも、この総町運営の一つとして執り行われてきました。総町は、唐津城下町の成立順に、毎年2町ずつ総行司を勤めることが今日でもつづけられています。総行司を勤める町は、神輿飾りから神祭当日の神幸警固や西の浜御旅所祭(明神台の上でのお祭)に関することはもちろんのこと、その年の1年間は神輿に関することの責任町となるわけです。 このような絵行司当番町は、城下町の成立順に2町ずつが1年ずつ輪番で勤めるわけで、昔から「本、呉、八、中、木、材、京、刀、米、大石、紺屋の魚、平、新、江、水(ほん ご はつ ちゅう き ざい きょう とう べい たいせき こんやのうお へい しん こう すい)」というようにリズミカルな口調で16町の順番を記憶していたものです。 総町の運営は、どのようなことをしていたのかは今日では不詳ですが、当時、火消組などもこの順番で編成されていたらしく、本、呉、八、中……の順にい、ろ、は、に……を付して、い組、ろ組、は組、に組…‥と呼んでいたようです。現在(昭和35年の調べ)それが判明している町は、本町のい組、木綿町のほ組、京町のと組、刀町のち組、米屋町のり組、平野町のわ組、江川町のよ組の7カ町です。 近年では、地方行政もしだいに変化してきて、総行司のことも唐津神祭のことだけにしか用いられなくなっており、唐津人からも忘れ去られようとしていますが、このように氏神と氏子の関係が古い形で残っていることは貴重なことです。総行司の当番町が神社に対して責任をもつ期間は、その年の神祭が終わって神輿納めが終了したときから、翌年の神祭が終わって神輿納めが終了するまでの1年間なのです。つまり、神輿納めが終了すると同時に、次の2カ町の当番町に神社に対す一切の責任が引きつがれることになっています。 【付記15】総行司の役割り (昭60.10.29.追記) 総行司は、かつて初代藩主の寺沢公が築城のときにできた城下町の順番に従って当番町を決め、全町内の世話をはじめ祭礼の準備万端を受けもって奉仕したものですが、神社の祭礼に関することについては現在でもひきつづいておこなわれています。 なお、総行司と火消組についての詳細は、「曳山のはなし」(古舘正右衛門著)の70〜71頁に述べてあります。 10 神幸祭神輿渡御の しかたの変遷 (昭47.11.23.記) 唐津神祭は遠く寛文年中に始まりましたが、当時より神輿が氏子中を神幸され、藩主もかならずこれに供奉してお祭りへの奉仕を怠らなかった、と言われています。その神輿の渡御のしかた、つまりどのようにしてお運び奉ってきたかというと、それは次のように変遷しています。 1 お舁(かつ)ぎしてお運びした……………(当初寛文3年から昭和41年まで) 2 自動車に奉載しての御巡幸(ここは御神幸が正しいかも、巡幸は間違い)………(昭和42年から昭和45年まで) 3 神輿台車に奉載しての御巡幸(ここは御神幸が正しいかも、巡幸は間違い)…‥(昭和46年から現在まで) 御渡御はこのような移り変わりをして行われてきました。御神幸の祭の神輿(おみこし)奉舁(かつぎ)は、古くから神田の氏子たちが受けもち、昭和41年までそれをつづけてきました。また、御神幸に必要な神具やお祭りの御道具のお持ち運びは、今日でも神田区でお仕えいたしつづけています。このように、神輿の御渡御にお仕え勤める人を、神輿伴(とも)揃いと言います。 神田区で神輿伴揃いを勤めるのは、申すまでもなく、古(いにしえ)の地頭豪族の神田五郎宗次公が唐津神社の二の宮に合祀されている由縁によるものです。いつまでも宗次公の功を追慕しまつらねばという考えには変わりはありませんが、かつては農村一色であった神田も、第二次世界大戦以後はしだいに時世の推移や要請に伴って、生活状態も生業内容も変化してきました。農業はつづけられていても農具や運搬作業それに交通手段などは、ほとんど近代的機械化に頼ることになり、若者であっても、それまでに比べて、肉体労働力や持久力が目立って低下してきました。そのようなわけで、重いものを長時間舁いで作業をすることもほとんどなくなり、若者のそのような体力が著しく低下しているのです。 神田地区は他地方からの転入者のために戸数は増加しつづけていますが、農家は減少しつづける一方の状態なのです。そこで、神田の敬神長老のかたがたから、毎年神輿奉舁の伴揃いを集めるのに苦心の度合いか重なるとの声か出るようになり、ついに昭和41年に、本年限りで神輿お舁ぎを終わらせていただきたい、との申し届けが提出されました(当時の神田区の代表者は岡本嘉市氏)。 神社側としても氏子総代としても、前々から神輿の御運びについては何とか方法を変えなければならない、と考えていた矢先のことでした。誰しも神輿車のことは第一に考えたのですが、まず予算の問題で直ちに新調はできませんでした。そこで、神輿車ができるまでの当面の策として協議の結果、神輿車としては些(いささ)か不似合いではありますが、松浦通運会社(略称、まるつう)から借りた2台の貨物自動車に適当な幕を掛け、それに神輿を奉載しての御神幸が、昭和42年から昭和45年までの神祭に4年間つづけられました。 ところが、昭和46年4月1日に、唐津神社筆頭氏子総代の花田繁二氏か80歳で急逝されました。御遺族のかたは、氏の御生前からの念願を叶えるために、多額の浄財(注8)をもって製作されたみごとな神輿車2台を奉納されました。氏子一同はもとより、平素から何とかして神輿車を立派な曳車にしたいものだと願っていましたから、そのありがたさは一入でした。 この神輿車は黒地の車体に黄金の金具を打ったものであり、赤塗りの大車輪のいわゆる御所車風のものです。ですから、曳山にもよく調和して、御神幸の行列に精彩を放っています。これに関連して、神田の神輿伴揃いの人たちの服装も曳山の曳子風に、また供奉の氏子総代の服装も裃を着用して一文字笠と白扇と白足袋と白緒の草履といずれも新調し、面目を一新しました。 このようにして、唐津神祭初日の御神幸は、昭和46年から古式ゆかしく、かつ華やかに行われるようになりました。 注8)浄財とは、慈善のために義捐した金銭のことです。 【付記16】進藤幸太郎氏への伴揃いに対する表彰 神田区山口の進藤幸太郎氏は、昭和47年までの67年間、神輿伴揃いを勤められ、それも子ども時代の神様の御旗持ち時代から1年の怠りもなくつづけ奉られたとのことで、昭和47年11月9日(神社の新嘗祭の日)にお宮より感謝状が贈られました。 11江川町で発見された 「大明神扁額」 および「七宝丸」の絵図 (昭47.11.25.記) (昭46.5.1.「社報第22号」による) 江川町で発見された郷土絵師の雪塘による江川町曳山「七宝丸」の絵については別に述べることとして、ここではまず、昭和45年に発見された「大明神」の額について述べることにします。 これは、横1尺2寸、縦2尺2寸の杉の板に「大明神」と刻み込んだもので、明和4年と記してありますから唐津藩主の水野公が入部してから4年後のものであると考えられます。ここで曳山の沿革を調べてみると、もともとは唐津神祭には氏子16カ町の火消組が神輿のお伴をしていました。その後それか舁傘鉾山となり、それから囃子も何もない殺伐な走り山となって、その一番先頭に江川町の鳥居が車に乗って曳かれて先祓いの役を勤めたのでした。そのときの鳥居の額がこのたびの「大明神」の額であることは、ゆめゆめまちがいあるまいと思われます。それは、後年、江川町が「七宝丸」の曳山を製作した後にも、何らかの形で「赤獅子」の前に曳き出ていたように、神祭絵図にあの鳥居が描かれており、その額の文字がこのたび発見された文字と同じものであるからです。 ともあれ、江川町の鳥居が明和4年に始まったとすれば、それは刀町の「赤獅子」が始まった文政2年よりも52年もまえのことであり、江川町はそのころから鳥居を曳いていたことになります。今般その額が発見されたことは江川町町内発展の瑞祥であると町内あげて大いに喜び、川添駐在員および森町内会長以下役員の脇山曳山取締役も参加して、昭和45年11月13日にこの大明神扁額と七宝丸の絵図を唐津神社に持斎(いつ)き、奉告祭が執行されました。そして、大明神扁額と七宝丸の絵図は、市長代理の進藤収入役に目録を添えて現品がひき渡され、めでたく曳山展示場に納められました。 (七宝丸絵図の額椽の文字の図は、昭和48年10月25日に曳山展示場で筆者が記す。) |
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【付記17】 江川町曳山「七宝丸」 の絵図額縁の文字 |
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12 江川町曳山 「七宝丸」の由来 (昭47.12.1 記) (昭39.4.1.「社報第8号」による) 江川町曳山は長い間「蛇宝丸」と呼ばれてきましたか、同町の吉村茂雄氏から「七宝丸」と改めなければならないということで、その説明がありました。昭和38年の塗替えの時に、曳山の鳥居の扁額から「七宝丸」と書いたものが見つかり、また雪塘の絵馬にも「七宝丸」と記されてありました。古くは「七宝丸」と称していたものを、おそらく前方の蛇頭を重く見て、後方の宝を軽く見て「蛇宝丸」と称えていたのであろうと思われます。 ところで、この船の宝の七品とは、どのようなものでしょうか。元来、七宝とは、金、銀、瑠璃(るり)、瑪瑙(めのう)、蝦蛄(しゃこ)、波黎、真珠のことを言いますが、このようなものはこの船のどこにもありません。これらの宝とは別に、昔の絵模様などに鍵や小判や打出の小槌や差団扇などの宝物が描いてあるのを思い出したので、少し探求してみました。すると、たまたま芳賀矢一博士の名数雑談の中の七の部に「七福神か持っている宝物に、隠れ蓑、隠れ笠、打出の小槌など、いろいろある」とありました。そこで、七福神の絵を見てみると、なるほど大黒様の打出の小槌や布袋和尚の差団扇は明らかになりましたが、隠れ蓑や隠れ笠などが七福神のうちの誰の持ち物なのかが判明しませんでした。 それからまもなくして、2月4日の節分祭で豆を撒く福桝の絵模様に、隠れ簑、隠れ笠、小判、打出の小槌、鍵、花輪、そしてもうひとつは何だか訳のわからない宝物の合計7つの宝物か描かれているのを発見しました。これらはみな、人間の理想とする宝物にはちがいなさそうですが、それがいつの頃からの通念なのか、あるいはもっと深い信仰に関するものなのか、まだまだ明らかにはなりませんでした。しかし、このことに関連して、古くから「宝づくし」と言って、絵画や絵柄模様などに、如意宝珠、打出の小槌、隠れ蓑、隠れ笠、丁子(ちょうじ)、鍵、花輪、巻物、宝袋などをとり合わせて描いたものがあったことが判明しました。 上記の、何だか訳のわからない宝物というのは、丁子(ちょうじ)というものであり、これは灯心の燃えさしが固まって丁子の木の実のようになるので、丁子頭と言われたものが丁子と略称されるようになったものです。この灯心の燃えさしは、摘みつぶして油壷の中に入れると、財貨を得るという言い伝えがあるので、これも宝づくしの中の一つに数えたのであろう、ということも判明しました。 さて、江川町曳山「七宝丸」の成案者である田中市治氏は、上記の宝物の中から7品を選択してこの船にそれぞれ格好よく配置し、また蛇頭にも威厳をもたせるなど、かなりの熟考のうえで作成されたことであううと思われます。その苦心のほどは察するに余りあります。すなわち、この船は、護身の宝である隠れ笠をもってこの船を上から覆い、さらにその上には、わが意の如くになるという霊妙なる宝珠の玉を頂かせ、その後方には万物を支配する差団扇と、振れば金出ずる打出の小槌を打ち立てており、船の下の方には隠れ蓑を潜ませ、横の勾欄の枠間には財貨を得るという丁子を互い違いに配し、そして最後の後ろ見には宝袋を飾りつけたものになっています。この「七宝丸」の姿は、それぞれの宝物に金銀青丹の漆塗りがされており、それは美しくもまた世にも珍しく、人々が宝物を願う標(しるし)として、またおめでたいお祭りの曳山としても誠に相応しい勇姿です。 13 先山争いと 大石権現の仲裁 (昭47.12.7.記) 江川町と水主町の曳山が完成した年、一大珍事が起こりました。明治9年に江川町は「七宝丸」の曳山を奉納する目録を神社に出しました。水主町も遅れて「鯱」の曳山を奉納する目録を出しました。ところか、水主町は曳山の形ができると、本塗りをするまえに曳き出して神社に奉納したのです。それで、江川町はそれよりも遅れて「七宝丸」を神社に奉納することになりました。 そのために、江川町と水主町とが、どちらが先でどちらが後かで揉めごとになり、全町15カ町が7町組と8町組の2派に分かれて、大喧嘩になりました。そこで、大石権現の宮司が仲裁に入り、「両町隔年前後致す様取極」によって天神山で円満解決の手打ちとなりました。 それ以後、両町は今日まで前後を交代し、御神幸のときは曳山の行列の中央つまり本町曳山「金獅子」の後ろに「山のみかじめ」として、大石の神輿が随行するようになりました。 【付記18】江川町と水主町の曳山 先山争いの仲直りの覚書き 先山争いの大喧嘩の仲直りができたときの覚え書きが、昭和23年5月に吉村茂雄氏宅から発見されました。吉村氏は当時の江川町の十戸長でした。覚え書きの見出しには「江川町水主町両町新規曳山出来ニ付順序約定書左之通」とあり、末尾には江川町と水主町を除く全14力町(本、新、平、魚、紺、大、米、刀、京、材、木、中、八、呉)の十戸長の連署があります。 平成7年2月14日に岸川龍氏から、この約定書のコピーを寄贈していただきました。 14 紺屋町曳山 「黒獅子」の廃止の理由 (昭47.12.7.記) 明治9年に江川町と水主町の曳山が、時を同じくしてできあがったので、この時点で15台の曳山が揃ったことになります。しかし、残念なことに、明治23年ごろ、9番山の紺屋町曳山「黒獅子」か廃車になり、姿を消してしまいました。この廃車の理由については諸説があります。破損してその維持ができなくなったという説や、山小屋が火災になって曳山の一部も焼損したという説や、ある年に八軒町(注9)の東端のどぶの中に陥ったのを他町から笑われたので廃止したという説などがありますが、いずれが真実であるかは明かではありません。しかし、町内の人たちの間に曳山を維持していこうとする熱意が薄かったことは確かであったようです。 紺屋町曳山「黒獅子」は安政5〜6年頃に製作されたと言われていますので、明治22年に廃止されたとすれば、その間僅かに30年くらいしか存在していなかった算用になります。そして、曳山が15台とも揃っていた年間は、僅かに13年くらいなのです。「黒獅子」がいかなる理由で廃止したにせよ、その後再び復活しなかったことは、返す返すも残念です。 戸川真菅翁が昭和8年10月18日、当時の朝鮮済州島の朝天にいたとき、郷土を偲び、往時を懐かしんで綴られた「唐津神事思出草」(真菅翁が城内の戸川宅に送った文であり、真菅翁は当時75歳。「社報第15号」に記載されています。)の文中には、「黒獅子」の廃止のことを次のように書いておられます。翁が少年時代に実際に見たことを書いたものと思われますので、翁の説がもっとも正しいと信じてよいものと思われます。翁の思出草から一部を引用して次に示します。 「名のみして 今は昔の影も見ず 深山がくりて 思い絶えしか。この獅子は他の三者に比して大いに見劣りせるが如し。一つは色の配合当らざるに起因せるならん。余の12〜3歳の頃なりしならん。其の時他の町々と共に引き廻り、八軒町の東端に於て横倒れとなり、どぶの中に陥りて、大いに物笑いとなりし事あり。若者等もこれ等を恥とし、それよりは祭事に列することあり、列せざることありて、いと冷淡なりしが、終に廃絶となりしは若者等に於て遺憾なきか。唐津名物の歴史より見て復活するか。他の製作を試みては如何。」 これを読むと、「黒獅子」が姿を消した理由がだいたい判りますが、真菅翁が綴られた「唐津神事思出草」は、彼が安政5年生まれであるだけに、その一言一句に藩政時代当時の神祭の模様がよく書かれており、現代の神祭と比べて時代はちがっても、お祭りに対する心がいつも変わらないことを感じさせてくれます。 注9)八軒町とは、大手口から新大橋までの道筋の一部を指した古い町名です。大原松露饅頭店や佐賀銀行あたりの町名であったそうです。国道が開通する以前は、まだ新大橋はありませんでした。 【付記19】紺屋町曳山「黒獅子」の製作年と廃止年 (「曳山のはなし」(古舘正石衛門著)69頁を参照) 「黒獅子」か製作された年は、飯田一郎著の「山笠」では安政5年作と書かれていますが、平松文書の安政6年の曳山順番書には「黒獅子」の記載がありませんので、安政6年から文久2年の間に製作されたものと思われます。仮りに安政5年に製作されたとしても、それは文久2年の4年前のことです。ですから、「黒獅子」は安政年間の末期から文久年間の末期にかけて製作されたと考えるのが妥当でしょう。 「黒獅子」が消滅した正確な時期は不明ですが、戸川真菅翁の「思出草」によると、最後に巡幸(正しくは巡行)に参加したのは明治22年のくんちであり、翌23年9月9日の初くんちにはすでに解体されています。そして、太鼓と鉦は木綿町の所望により昭和30年代に木綿町に譲られています。(古老談) 「黒獅子」が明治22年に廃止されたのであれば、「黒獅子」が存在したのは30年足らずということになります。 15 「ヤマ」の名称 −曳山と山笠− (昭47.12.7.記) 現在の唐津の「ヤマ」は、周知のように、文政2年から明治9年までの57年間にわたって、次々に製作されたものです。この「ヤマ」か製作される以前にも、もちろん各町に定例あるいは臨時の神祭に出す「ダシモノ」かありました。そのような先行の習慣があったからこそ、刀町の石崎嘉兵衛氏が京都の祇園のヤマを見て感激し、帰郷して同志に諮ったときに容易にその同意を得ることができたのであろうと思われます。 当時の「ヤマ」が一体何と呼ばれていたのか、古いことはよく判りませんが、幕末に近い頃には「引山」と呼ばれていました。材木町の平松氏の手記「唐津藩御触御願書諸記録控」が九州大学の図書館に蔵されていますが、それによると、当時は疫病除けや五穀成就のための臨時の神祭に出されるものは「作りもの」または「造山」と呼ばれ、定例の神祭に出されるものは「引山」と呼ばれていたということです。 安政6年9月27日に大年寄から各町の年寄に出された触書の冒頭には「引山順番」として江川町以下13力町の町名があげられており、文久2年9月28日にも同じ趣旨の触書に江川町以下14力町の町名が連ねられています。そして、この触書の中には「神事翌朝引山之儀……云々」という記述もあります。また、前述の明治9年の江川町と水主町の先山争いの仲直りができたときの覚書には、「江川町水主町両町新規曳山出来ニ付順序約定書左之通」と記されています。 このことから、「引山」と呼んでも「曳山」と呼んでも同じことであり、唐津の「ヤマ」は「引山」または「曳山」と呼んでいたことは明かです。 一方また、この「ヤマ」のことを「囃山」と呼んでいたことも明かです。明治8年4月の唐津神社の春祭に「ヤマ」を引きたいと、氏子総代らが願い出たものが蔵されていますが、それには「兼テ奉納之囃山引出シ氏子一同賑々敷参拝仕候条……云々」と記されています。その翌々年の明治10年の春祭にも同様の願い出がなされており、その文面は「兼テ奉納之囃山引出シ」という箇所が明治8年のものとまったく同様です。このことから、唐津の「ヤマ」が「囃山」と呼ばれていたことも事実です。おそらく、唐津の「ヤマ」は、通常は「ヤマ」と呼ばれ、廉(かど)あるときには「曳山」あるいは「囃山」と呼ばれていたのであろうと思われます。 唐津の「ヤマ」は一時期、「山笠」と呼ばれていたことがありますが、これは正しい呼びかたではないことが、今日明らかになっています。博多では「山笠」というものがありますから、その真似をしてそのような呼びかたをするようになったのであろうと言われています。富山県高岡市教育委員会は、全国にわたって莫大な費用と手数をかけて「ヤマ」の調査をして、その結果を報告しています。その調査報告によると、「山笠」という名称を使用しているのは、福岡県の博多と直方と京都(みやこ)郡苅田町のだけで、あとは佐賀県だけだそうです。佐賀県は、概ね福岡県の影響を受けていると考えて差しつかえないと思いますが、唐津の「ヤマ」は博多の「山笠」と形もまったく異なるし、歴史的な系譜もまったく異なっているので、博多の「山笠」の名称を借りる必要はまったくありません。唐津の「ヤマ」のルーツである京都の祇園では、今日でも単に「山」と言っているにすぎません。私たちは通常、「ヤマガサヒキ」とか「ヤマガサバヤシ」とは決して言わず、「ヤマヒキ」とか「ヤマバヤシ」と言います。 以上のような暦的な由縁から、保存会のかたがたのおおかたの意見は、唐津の「ヤマ」は「曳山」と呼ぶのがよい、ということになったわけです。 「ヤマ」の歴史と名称の古い時代の詳細については、昭和39年4月1日発行の「社報第8号」に記述されています。 16 曳山囃子について (昭48.1.15記) 筆者は、次に述べる唐津くんちの曳山囃子についての情報を、唐津観光協会、唐津曳山取締会、曳山囃子保存会の三者から得ることができました。 唐津くんちの曳山囃子は、笛、鉦(かね)、太鼓による三ツ囃子であり、古く江戸時代から次の3種類が残っています。 (1)競り囃子 優雅で勇壮なこの旋律は、唐津っ子の血を湧かせ、胸を弾ませる調べです。唐津神社の秋祭り、すなわち唐津くんちの山曳きでは、ほとんどこの囃子が用いられ、一般には「山囃子」と言われています。この囃子は、曳山が製作された当時から今日まで、曳山とともに伝統を守りつづけています。14力町とも旋律はほとんど同じですが、鉦と太鼓の打ちかたには各町ともそれぞれ特徴があり、各町の気風がそのまま大切に受け継がれてきています。 10月9日の初くんちの儀式に囃し初め(唐津神社での初供日囃初ノ儀)を行い、各町がそれぞれに練習を始め、大人も子どもも近づく唐津くんちを楽しみに待つのです。 (2)道囃子 現代風の表現をするなら、道囃子は前奏曲と言うことができましょう。この囃手は、大陸からの影響を受けた雅楽に基づいた囃子ではないのかとも言われるほど、静かで奥ゆかしい調べです。 かつて藩政時代には、曳山が唐津神社前から大名小路を通り、大手門までの武家屋敷が並んだ城内を行くときだけこの囃子が囃され、やがて大手門をくぐって町に出てからは賑やかな競り囃子に変えて囃された、と言われています。この道囃子は、明治の中頃まで一番曳山の刀町「赤獅子」で囃されていましたが、大手門がなくなり、堀も埋めたてられ、曳山のコースも変わったリしたために、いつのまにか囃さなくなり、長い間忘れ去られていました。 ところが、昭和4年の6月にNHK熊本放送局が開局され、その民芸大会に当時80歳に近かった刀町の高添翁が出演されたとき、この道囃子を覚えておられました。翁は、次代を背負う師匠連にそれを伝授されました。この道囃子は、その伝授された数人の師匠たちによって、辛うじて伝えつづけられてきたものなのです。 現在では、この道囃子は10月9日の初供日の夜の囃子初めのときに奉納される程度であり、唐津っ子にもほとんど知られていませんが、唐津観光民芸としては時折紹介されることがあります。 【付記20】雅楽 @正しき音楽、みだらならざる音楽。 (昭48.3.24.「広辞林」より) A平安朝およびそれ以前の音楽、声楽には神楽歌、久米歌、東遊、催馬楽、朗詠、器楽には本邦の楽および唐楽、狛楽、伎楽、楽器には三絃、三管および鼓類あり。 (3)立山(たてやま)囃子 曳山が各町で休憩のために一時停まっているときや、西の浜の御旅所で休んでいるときに、よく囃されている囃子です。 元歌は江戸時代の民謡で、「越中立山富士の山」とも言われています。しかし、唐津藩は徳川300年間に6代も藩主か変わっており、今から約200年ほどまえに土井藩主と交代した水野藩主が、愛知県岡崎から国替えになったときから伝えられていたのではないかとも考えられます。 【付記21】曳山囃子保存功労者の表彰−市丸一氏− (昭46.10.1.「社報第23号」より) 曳山囃子は、長い間伝統を受け継いできたものなのですが、その数曲の中でも、道囃子はもっとも優雅で優美な曲目なので、その演奏は難しく、演奏の習得はなかなか困難です。明治以降は唐津くんちにも演奏されることがなくなり、幻の山囃子になろうとしていました。昭和初年にこの囃子のただ一人の演奏者としてこの秘曲を保持しつづけておられた刀町の高添氏から伝授された数名も、戦中戦後の混乱期を経て、再びこの囃子が絶え失せようとしていたとき、呉服町の市丸一氏が鋭意後継者養成に力を尽くされたおかげで、今日のような陽の目を見るに至ったわけです。神社では彼のこの大きな功績に対して、昭和47年5月3日の例大祭の神前で表彰を行いました。 17 唐津神社神輿のはなし (昭48.1.15.記) (昭40.10.1.「社報第11号」より) 唐津神社神輿の渡御のしかた(神幸祭)の変遷については、29〜30頁に述べたとおりです。 おくんちの曳山は明神様のお供をして、華やかに曳き出されます。この明神様は2基の神輿に鎮座され、神田から選ばれた若者の肩に乗られて神幸されることが、昭和41年までつづけられてきました。現在では、漆塗りの立派な神輿車に乗られて神幸されますが、神田から伴揃いを勤めることには変わりありません。 この神輿は、一体いつ頃造られたものでありましょうか。記録によると、寛文年間と言いますから、昭和45年から逆算しても300年くらいまえになります。この神輿は鳳輦(ほうれん)型と言われ、簡素な中に気品の高い風格を備えており、見るからに神々しく、胴回りが6尺で高さが1丈余りもので、神輿としては大型の部類です。その当時、大阪の住吉大社の注文で造られたものを譲り受けたものであると言われ、その立派さもうなずかれます。重量がどのくらいあるかはわかりませんが、相当の重さであり、以前は16人で担いでいたと言われています。当時、棒があまりにも長すぎて、街角を廻るのが困難であったために短くされて、8人がかりになったそうです。 この神輿は、毎年、総行司の2カ町の奉仕によって飾りつけが行われます。その飾りつけは、昭和42年までは10月25日に行われていましたが、昭和43年からは神祭の日取りの変更によって、10月29日の本殿祭に先だって行われることになりました。神輿の上のほうは、鳳凰から錦戸帳、鏡、鈴、力綱、締布などの付属品か多く、なかなか手間がかかります。 また、行列の伴揃いともなれば、さらに人事を要することになります。行列の順序は、先頭が太鼓、次に大榊、紅白旗、鉾面一対、大弓、大傘、そして一の宮神輿がつづき、その後に同様に二の宮の伴揃いが行列を作るわけです。奉仕の総人員は70名の多きを数えます。伴揃いの人員は、古くから神田区からの奉仕とされ、今日でも変わることなくつづいています。これは二の宮の御祭神である神田宗次公の由縁の地である神田の氏子から奉仕されるものであり、その信仰の深さが知られます。 神輿も長い年月の間には、たびたびの修理も施されていますが、中でも大正年間には全面的な塗替えが行われ、また最近では昭和30年に1200年祭を期して、金具その他の修理を行い、面目を一新しました。 【付記22】現在の神輿 (昭59.4.1.「社報第47号」より) 現在の鳳輦(ほうれん)型の神輿は明治2年に新調したもので、大阪住吉大社のものと同形ではありますが、二級品とのことです。(「唐津市史」による) 追録中の「神輿物語」には天明2年となっています。 18 道囃子について (平9.1.31.記) (昭44.10.3.社務所にて水主町の田中冨三郎氏の話) 現在、唐津の曳山が囃しているのは「競り囃子」と言って、曳山を急いで曳くときの曳き山囃子です。古い時代の神祭で、曳山の曳き出しから大手口に出るまでの様子を、以下に述べます。 藩政時代から明治6年にかけては、神輿の出発に伴う曳山の曳き出しから大手口に出るまでは、本来の「道囃子」が囃されていました。道囃子とは、曳山が停まっているときや静かに動いているときの曳山囃子のことです。 それは、次のような道路事情があったために、かなり慎重になされたようです。昔は、城内が城の外濠である肥後濠でとり巻かれていたので、現在の明神小路は大手口に通じていませんでした。ですから、明神社前を出発した曳山は、大名小路を通り、大手門をくぐって大手口に出ていました。大手門は現在の大手口広場の東の奥に立っていて、当時はそれがお城への入り口でした。 大名小路は大名をはじめ多くの身分の高いお方が見ているので、ことのほか曳山囃子もていねいに奏し、曳山を緊張して曳いたそうです。また、曳山の装いも充分に凝らし、垂れ幕は隙間なく張り、囃子に合わせてしずしずと進む姿はいかにも厳かで華やかであったということです。曳山はこのようにして大手門をくぐって大手口に出たわけですが、大手門をくぐる前後には囃子に合わせて曳山を低くしたり高くしたりしたそうで、その妙味もまた一入であったことでしょう。 そして、大手口に出た曳山は囃子を「競り囃子」(現在の通常の曳山囃子)に替えて城下の16カ町を廻り、西の浜の御旅所に向かったのでした。当時はまだ現在の国道か開通していなかったので、各町を廻ってきた曳山は名護屋口(現在の下町坂、浄泰寺の西)から近松寺のまえを通り、坊主町を経て西の浜に向かったそうです。 明治26年に肥後濠を埋め立てて明神小路が大手口の西入口に通じてからは、明神小路の入り口には第一の鳥居や石の幟柱や燈籠などが設けられ、曳山は大名小路を通らずに、出発後に直接大手口に向かうようになりました。それ以来、曳山囃子は曳き出しのときから「競り囃子」を奏するようになり、「道囃子」はしだいに姿を消していったのです。 19 小笠原藩政時代 および明神小路開通の頃までの神祭御神幸祭の様子 (昭48.1.15.記「唐津市史」に基づいて) 安政6年の神祭までに、本町曳山「金獅子」までが製作完成していました。当時の記録によると、一の宮の神輿には、また「走り山」であった江川町、塩屋町、木綿町、米屋町が従っていました。これらの走り山は「わーっ」と走り出し、先行の大名行列と神輿に追いつけば、停まって壊れた個所をことことと修繕し、また「わーっ」と走っていました。これを「溜め曳き」と言ったそうです。 京町の「踊り山」は、町内の娘たちを屋台に乗せて、各町で踊りを披露しながら曳いて行ったそうです。そして、その後に二の宮の神輿が静かに進み、絢爛たる刀町曳山「赤獅子」、中町曳山「青獅子」、 材木町曳山「浦島」、呉服町曳山「義経の兜」、魚屋町曳山「鯛」、大石町曳山「鳳凰丸」、新町曳山「飛龍」、本町曳山「金獅子」がそれに従って巡幸(正しくは巡行)し、平安の雅楽から採ったと思われる三ツ囃子も奥ゆかしく威勢よく奏されていました。そして、その後、明治9年までに、紺屋町曳山「黒獅子」、木綿町曳山「武田信玄の兜」、平野町曳山「上杉謙信の兜」、米屋町曳山「頼光の兜と酒呑童子」、京町曳山「珠取獅子」、江川町曳山「七宝丸」、水主町曳山「鯱」か製作され、計15台の「山」が完成しました。 昔の神祭では、曳山は10月28日に各町で飾りつけを終わり、29日の未明に高張提灯と丸提灯に火を入れて飾り、特に「赤獅子」や「青獅子」などは万灯を曳山の前にぶら下げて、大手前広場に集まっていました。やがて、秋冷の朝霧を破って時打櫓から明六ツの太鼓か轟き渡ると、城門が左右に開かれ、曳山は順次城内に曳き込まれ、現在の彰敬館の北にある要の木の脇に、御幣を高く掲げた一番山の刀町曳山「赤獅子」が据えられ、順次日廻りに明神社前に勢揃いしたのです。 午前10時頃、御神輿発輦に随って神田区の氏子の大名行列の出で立ちがあり、槍振、挟箱などの手振は藩の仲間が奉仕しました。(現在の相知の大名行列の道具は、唐津神社のものを譲り受けたものです。社家の戸川、安藤、内山の三家と社僧寛正院は駕籠または馬上にて扈従(こしゅう)されました。)つづいて、曳山は明神横小路から大名小路に出て南行し、大手門を出て八軒町(現在の大手口通り)から本町に入り、京町から東進し、札の辻橋を渡って魚屋町、大石町、水主町を通り、新堀に左折して材木町から塩屋町に入り、再び札の辻橋を渡って京町、紺屋町、平野町、新町を通り、浄泰寺の前を左折して名護屋口の関所を超したのです。名護屋口とは、浄泰寺の前の広場から近松寺に向かう道の入り口のことです。ここは、現在では坂道になっていますが、昔は石段造りの道だったので、土嚢を敷き詰めて曳山を通した一番の難所でした。 そして、曳山は近松寺の角を右折して北進し、坊主町を過ぎて西の浜の御旅所に到着していました。当時の御旅所は、坊主町からまっすぐ浜に通じる狭い道の右側に小さい祠(ほこら)(注10)が祀(まつ)られている場所でしたが、現在ではそこは住宅化されていて、昔の面影がありません。御旅所に曳山か勢揃いすると、各町内人々は曳山の後方に幔幕(まんまく)を張り、弁当を開いてお籠(こも)りをしました。これは直食(なおらい)と言って神人共食の神事なのです。しかし、戦後は、このお籠りが行われなくなってしまいました。 なお、古い神事の一部についての詳細は「社報第15号」(昭42.10.1.)の戸川真菅翁による「唐津神事思出草」に綴られています。 注10)祠(ほこら)とは、神を祀(まつ)った殿堂のことです。 【付記23】昔の御神幸の町廻りが遠廻りだった理由 昔の御神幸のときの町廻りで、曳山が上記のような巡路をとった理由は、次のとおりです。つまり、当時は町田川を渡って内町と外町か通じる橋は札の辻橋(京町と魚屋町の間の)のただ1カ所だけであり、現在の大手口から坊主町まではほとんど外堀だったので、曳山が各町を廻って西の浜の御旅所に行くためには、浄泰寺の前から名護屋口の関所を越して近松寺の前を通らなければならなかったのです。 (余録1)唐津神祭および曳山に関する年号や期間などに見られる 今昔における不思議な数字的一致点 (昭47.11.20.記) 1 一番山の刀町曳山「赤獅子」が文政2年に製作されてから、最後の水主町曳山「鯱」または江川町曳山「七宝丸」が明治9年に製作されるまで、57年かかっています。また、唐津神祭神幸祭の日取りが新暦の10月29日に改まったのが明治43年であり、それが11月3日に再度改まったのが昭和43年であり、その間が57年かかっています。57という数が、今昔共通しています。 2 上記で明らかなように、唐津神祭神幸祭の日取りを新暦の10月29日に改めたのが明治43年でおり、それを11月3日に再度改めたのか昭和43年です。時代の年号は明治と昭和のちがいがあっても、43年という数字が今昔共通しています。 これらは単なる偶然なのでしょうか。いや、時世に適するように改めよ、という神のお導きと思わざるを得ないのです。 (余録2)江川町曳山「七宝丸」の絵図の保存場所の変遷 (昭47.11.20.記) この記事は昭和47年11月27日に、唐津神社社務所において戸川省吾禰宜(ねぎ)から承ったものです。戸川省吾禰宜が父戸川顯宮司のご存命中に聞き受けておられたことを、筆者が戸川省吾禰宜から聞き継いで綴ったものです。 江川町曳山「七宝丸」は明治9年に、あの金銀青丹の漆塗りの異彩を放つ姿でできあがり、それを当時の郷土絵師である雪塘がみごとに描きあげた逸品が「七宝丸」の絵図なのです。 そもそも曳山は唐津神社に奉納されたものですがら、「七宝丸」の絵図も神社に奉納され、以来50余年間も唐津神社に掲げられていました。 昭和3年の大祭典のめでたい年に、この曳山の塗替えが行われましたが、そのときに江川町で塗替えの面を無造作に取り剥いでしまったために、もとの色合いの配合がわからなくなってしまったということです。しかし、幸いにも、唐津神社に「七宝丸」の絵図、しかも形と言い、色合いと言い、感じと言い、その曳山ができた当時のものとそっくりの貴重な絵図か掲げられていました。そこで、江川町町内ではその絵図を神社から借り受けて、それを手本にして立派に曳山の塗替えを仕上げることかできました。その後、江川町では、その絵図を神社に返納することなく、町内の稲荷社に保存していたということです。唐津神社としては、別段それを返納するように催促はしなかったそうですが、江川町としては、なぜ返納しなかったのか、その理由は明らかにはなっていません。 昭和45年10月18日に、14台のすべての曳山か曳山展示場に納められた後に、この絵図も曳山展示館に納められました。ちようどそのとき江川町から「走り山」時代の鳥居ヤマの鳥居の額と思われる「大明神」と刻まれた杉板造りの扁額が見つかったので、それと一緒に「七宝丸」の絵図が昭和45年11月13日に、唐津神社に持斎(いつ)き、奉告際の後に曳山展示場にめでたく納められました。 (余録3)仁孝、孝明、明治の御代と曳山製作年代 (昭48.1.21.記)
*)旧の「鯱」か壊れ、昭和3〜5年に再製されました。 **)「蛇宝丸」と呼ばれた頃がありましたが、昭和38年に「七宝丸」が正しいことかわかりました。 |
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曳山の製作年代を辿ってみると、8番山の本町曳山「金獅子」までは仁孝天皇の御代に、紺屋町曳山「黒獅子」と木綿町曳山「武田信玄の兜」は孝明天皇の御代に、平野町曳山「上杉謙信の兜」以降は明治時代に製作されています。 (余録4)曳山製作時の細工人と塗師 (昭48.10.25.調)
昭和48年10月25日に曳山展示場で調べた各曳山の細工人名と塗師名です。 (余録5)米屋町曳山「酒呑童子」の面製作における苦心 (昭48.1.24.記) (昭40.10.1.「社報第11号」より) 米屋町曳山「酒呑童子」は明治2年に製作されました。作者は吉村藤右衛門と近藤藤兵衛と言われています。当時、作者は、酒呑童子が頼光の兜に噛みついている形相凄まじい形をなかなか造れずに、苦心していました。ところがある日、猫が玉にじゃれついている様子を見て、それをヒントにして造ったと言われています。 また、作者は一計を案じ、ほとんどできあがった曳山を路上に置いて、自分たちは密かにこの曳山の中に入ってじっと耳を澄ませていました。通行人たちは、そんなこととはつゆ知らず、勝手に率直な批評をしながら通って行きました。作者は、それらの批評を大いに参考にして、悪いところを直しに直して、今日見るようなあの逸品が生まれたのだ、と伝えられています。 唐津の曳山は、米屋町曳山「酒呑童子」に限らず、14台のすべてがその町その町の人々によって、言わば素人たちによって苦心に苦心が重ねられて製作されたものです。各町の人たちは、秋のおくんちに自分たちが造った曳山を奉納して、お祭りを盛大にしようとする心意気を見せてくれるのです。 (余録6)曳山幕洗い行事 (昭48.3.5.記) (市観光協会の「説明書」による) 「幕洗い」とは、夏の忙しさから一息ついた8月のお盆過ぎに、各町が曳山の虫干しをして手入れをし、幕を洗って乾かす行事を言っていました。昔は水も清らかだった町田川の上流で、曳山の幕を洗って川原に干し、乾くのを待ちながら町の若衆たちは、のんびりと川原に寝ころんで雑談にふけり、中には酒を汲み交わして秋祭りに思いを馳せていたのでした。 土用干しの済んだ曳山の手入れをして幕を取り込むと、若衆たちは川辺に浮かぶ舟に乗りこみ、笛と鉦と太鼓を持ちこんで囃しながら、興にのってゆっくりと町田川を下り、幕洗いの仕舞酒をおくんちの前奏曲として楽しんだものです。最近はたた幕を干す程度ですが、やはり「幕洗い」と言っています。また、曳山の虫干しは、相変わらずつづけられています。 (余録7)カブカブ獅子(神田区) 神田には、中町曳山「青獅子」の面に似た雄雌1対の「かぶかぶ獅子」の面があります。これは唐津の曳山の「獅子」の原型であると思われます。「かぶかぶ獅子」は、昔は神輿の前後に従っていました。現在では、神祭の早朝に唐津神社の境内で獅子舞を奉納して、神田区を廻っています。 筆者は、昭和49年9月21日に市文化会館内の考古・民俗・歴史資料展で「かぶかぶ獅子」の実物を見物することができました。 以下に、「市報」に掲載された「かぶかぶ獅子」に関する2つの記事を紹介します。 (1)今も伝わるかぶかぶ獅子 −神田の進藤幸太郎さん(79歳)に聞く− (昭53.5.5∴「市報」より) 山に杉を植えて、木の成長を見るのが何よりも楽しみという進藤さんを訪ねました。 進藤さんは、畑作業の手を休めて神田に昔から伝わる「かぶかぶ獅子」のお話をされました。 「かぶかぶ獅子」は、上神田の飯田観音堂に奉納されている。飯田観音様は、昔、菅牟田に祭られていたそうで、大洪水のとき、今の場所に流されてこられたと聞いている。 いつごろから、かぶかぶ獅子が始まったかよく知らないが、唐津くんちの曳山より古いと思う。私も、兵隊に行く前には、獅子舞をしました。 獅子は、雄と雌があって、唐津くんちの日に、唐津神社に日の出揃いで参拝して、一方は内田地区から一方は長松から一軒一軒回って、飯田観音様に集まり、奉納して終わる。明治の終わりごろまでは、唐津くんちのともぞろいに加わっていたが、ちょっとしたトラブルで中止された。」 進藤さんは、今でも、かぶかぶ獅子か、神田に伝わっていることを誇りに思っているという。 又、新聞等で、若い人の非行が目立つが、仕事に誇りを持っていないからではないか。若い人には、特に、規律ある生活をするように望んでいる‥・と、明治青年の気骨に圧倒されました。 ※ かぶかぶ獅子には、1802年・神田・大工・又蔵作と刻(きざ)まれていますので、今から(昭和53年から数えて)176年前のものです。 (2)神田のカブカブ獅子−末廬国の文化財23− (平3.7.1.「市報」より) 市内神田に、観音像とカブカブ獅子で知られている飯田観音堂があります。 唐津神社の秋季例大祭「からつくんち」に奉納されるのが、この神田のカブカブ獅子です。 カブカブ獅子は雌雄一対で、雄獅子は角が一本で、耳まで含めた幅が80cm、角までの高さは58cmあります。雌獅子は、角が左右に一本ずつ、二本付いており、幅72cm、高さ52cmと雄仁比べて一回り小振りです。 獅子は木造漆塗りで全体に濃い緑色をしていますが、ロと内側は朱色、角と目と歯は金色に塗り分けられています。 このカブカブ獅子は亨和2年(1802年)、神田村の大工又蔵が自分の腕ためしにと一心に彫りあげ飯田観音堂に奉納したといわれています。又蔵43歳の作であることが獅子に刻まれた銘によってわかります。 獅子の頭をかぶって行う獅子舞は唐から伝わり、舞楽として奉納していたが、後世、神楽(かぐら)などで五穀豊じょうの祈とう、悪魔払いとして行われるようになりました。 からつくんちでは、11月3日、神田地区の若者に担がれたカブカブ獅子が、午前5時、神社に参拝して獅子舞を奉納し、その後二手に分かれて神田地区の家を廻り、最後に飯田観音堂に落ち合います。 明治初期ごろまでは、神田のほかにも町田、菜畑 ニ夕子、江川町、京町などのカブカブ獅子が神祭の折、みこしの前後に従っていたそうです。 神田カブカブ獅子が製作された亨和2年は、刀町の赤獅子が作られた文政2年(1819年)より17年前です。そして雄獅子の方は耳、目、鼻などや後うに頭髪を垂れているところまで中町の青獅子にそっくりで、中町の青獅子が神田のカブカブ獅子を摸して作られたという説もあります。 また、民俗文化財として極めて価値か高く、昭和61年1月24日に市の重要有形民俗文化財に指定されました。 (余録8)漆塗り一筋 −江川町宮口鍛(きたえ)さん(62歳)− (昭53.5.5.「市報」より) 漆のにおいかぷんぷんする作業室。ここが、曳山の塗り師宮口さんの仕事場である。塗り師として50年近い経験の持主である。 曳山を手かけたのが、昭和28年に新町の飛龍が初めてで、今年の材木町の浦島まで7台、修理は毎年手かけている人である。 漆は、湿度の高い日が、いわゆる漆日和だそうだ。このため「今年は、雨が少なく、異常乾燥の日が多かったので、室内に水を打って、湿度を上げました。」と苦労話を聞きました。「色も、同じ色を出すのが、難しい。」… しかし、「若っかもんが、エツヤー、えんやー。」と曳いている姿を見ると、「苦労なんて吹き飛んでしまうね。」 宮口さんは、根っからのからつっ子である。生まれたのも10月29日だそうだ。 「曳山は、からつっ子が塗ってこそ意義がある。」という宮口さんも「後継者が居ないことが寂しい。」又、「下地から何回も何回も漆を塗る室内での仕事は、若い人には向かないかも知れませんね」と、曳山の裏方を引き受ける顔も曇りがちでした。 「からつっ子の意気で、威勢よく曳くのもよいが、大切にする心もほしい。」と曳山がかわいくてしょうがない様子。私たちも、伝統ある、又、県の重要有形民俗文化財にも指定されている唐津曳山を大切にしたいものです。 (余録9)昭和50年歌会初御題「祭」 −三笠宮妃殿下御詠進− (昭52.10.1.「社報第34号」より) 我もまた 祭に酔いぬ 獅子の山車 兜の山車と 続きゆくみて (1)お歌を拝して−宮司戸川健太郎− 去る昭利49年11月2日、三笠宮崇仁親王殿下、三笠宮百合子妃殿下、三笠宮寛仁親王殿下には、唐津神社へ親しく御参拝に相成りました。 当日は恰(あたか)も唐津くんちの宵祭でございまして、御参拝の後は宵山の勇壮な社頭曳き込みを、又翌3日の神幸祭には社頭曳出しの光景を親しくご覧いただきました。 そして、そのご感想を昭和50年の新年御歌会始の御題「祭」に御詠進になりました。 我もまた祭りに酔いぬ獅子の山車 兜の山車と続きゆくみて このお歌を拝しますと、唐津児か祭りに溶け込んでいるのを見て、はたの者までついその中へ引き入れられるその気持ちを実によく表現なされていて、まことに感激の極みでございます。 今回、妃殿下のお手づからなるお歌を頂戴いたしまして、曳山取締会が事に当たって歌碑となし、曳山展示場玄関前に建立して、永く拝踊することになりましたことは、誠に意義深いことであります。 ここに三笠宮家の弥栄を寿ぎ奉り、又このことにお骨折りいただきました皆様に厚くお礼を申し上げましてお祝いの言葉といたします。 (2)歌碑建立を祝して−曳山総取締脇山英治− 三笠宮両殿下並びに若宮殿下が、昭利49年11月1日に唐津市で開催されました全国リクレーション大会に台臨になり、翌2日の宵曳山と3日の本祭りの当日、神社前の勇壮なる曳き出しの様子を御覧になり、妃殿下にはその折の御印象を翌50年の新年宮中歌会初めの儀の御題「祭り」に 我もまた祭りに酔いぬ獅子の山車 兜の山車と 続きゆくみて と御詠進になり、かしこき宮中を始め全国にまでご披露頂ましたことは、我々にとって無上の光栄であり、感激の極みに存する次第であります。 我々曳山関係者は比の喜びを後世にまで残す方法として、瀬戸唐津市長のご賛同を得て、曳山会館前に歌碑を建立することになり、妃殿下御直筆の御下賜について、昭和52年2月5日に折よくNHK主催の第1回全国郷土芸能祭典に新町飛龍出演のため上京の折、佐賀県東京事務所長安元氏の案内にて、市側から瀬戸市長、草場、大武の諸氏、曳山関係から小生、中野陶痴、尾花の諸君と宮家に伺候致しました。 竹中事務官を通じ一応書類を提出して帰りましたが、思いの外早く講願が御裁可になり、過日瀬戸市長上京の折、拝受して帰られました。 このことは近年に於ける曳山の歴史を飾る画期的な事業でありますので、関係者一同心を浄め、10月中旬完成を目指し、専心工事の進捗に努めている次第であります。これも偏(ひとえ)に市民各位のご愛顧の賜と、衷心より厚くお礼申しあげます。 余談ですが、宮家の応接間で竹中事務官と面談中、我々としては予て折角御直筆を御下賜頂くなら、「山車」を「曳山」と書いて頂きたいものだと身勝手な相談をして居りましたので、少々勇気を出してその事を率直に申し上げましたるところ、じっと設計書を見つめて居られた竹中事務官はやおら顔を上げられ、うつろなまなざしで我々一同を見回しなから「はっ何ですか」と問い返されましたので、再度一呼吸のあと更に勇気を出して「山車を曳山と書いて頂くよう妃殿下に御願いして下さいませんでしょうか」と申しましたら、竹中事務官は「一寸待って下さい」と言いつつ、すーっと椅子を立たれて急ぎ足で別室に行かれ、白い表紙の薄いとじ込みを持って来られ、一牧一枚丁寧に頁をめくられて、妃殿下の御歌の「山車」のくだりを強く指さし乍ら、「山車」と御詠みになっておられます。「「山車」が正しいのです」と直裁明快なる御返事があり、我々の微衷は見事にぺちゃんこになりました。 私は勿論ですが、隣の中野陶痴さんも日頃の唐津っ子の生きのよさはどこへやら、深々と頭を垂れて「ごもっともでございます」と見るも哀れなほど恐れ入ってしまいました。 今更ながら、畏こきあたりの深遠さを、しみじみと感知させて頂いた次第でした。 編集あとがき 本冊子は、編著者戸川鐵叔父様が生前に収集していた唐津神社神祭曳山に関する厖大な資料の一部を編集したものです。編著者は明治40年に唐津市山下町3丁目に生まれ、平成11年に帰幽されました。 編著者は、幼少期から晩年に至るまで自他ともに認める生粋の「ヤマクレイジー」で、現在のように曳山に関する情報が豊かでなかった大正初期から、曳山をご自身の目で観て、手で触れて、耳で古老談を聞いて、生の情報を得て来られました。退職後から晩年にかけては、曳山に関する新しい歴史的事実の発見のためにますます研究心が旺盛になられたとともに、それまでに集積された貴重な資料の成文化に余念がありませんでした。しかし、残念ながら、そのすべてが完成されてはいませんでした。 編著者は、曳山の情報収集と研究にはかなり良い環境に恵まれていました。編著者は、唐津神社戸川家の分家の子息であったし、明治維新以前生まれのヤマクレイジーな親や隣家の叔父のもとで成長しましたし、昭和31年から59年の長きに亘って唐津神社の氏子総代を勤めるなどしておられましたので、曳山に関しては、そんじょそこらの曳山愛好家とは比べものにならないほどの豊富で広くて深い情報知識をもっておられました。 そのような貴重な情報をこのまま眠らせてしまうのはもったいないと思いましたので、せめて身内の者だけでも知っておくべきだと思い、不肖私めが編集させていただくことにしました。編集にあたっては、難しい漢語熟語などは現代用語に翻訳し、文語調の文章は口語調に置きなおしましたが、神道用語はそのまま使用することにしました。 末筆ながら、本冊子の編集についてご快諾いただいた夫人房枝叔母様、何かとお世話とご協力いただいたご令嬢高塚晴子様に深遠なる謝意を表します。 平成19年唐津くんちの日 石井信生(編著者の甥) |
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第2部 |
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1 唐津くんちの曳山行事を国指定へ 昭和54年12月7日、国の文化財保護審議会は「唐津くんちの曳山行事を国の重要無形民俗文化財に指定して、末代まで保存するべきだ」と、文部大臣に答申した。 この知らせを受けた瀬戸唐津市長は、「国際的にも評価され、伝統を誇る“曳山行事”が無二の文化財として指定を受けることは誠に喜ばしいことであります。古い民俗的信仰の特異な表象としての神事と、これを支えてきた唐津ツ子の心意気が認められたのであります。改めて先人の遺業をたたえるとともに、この喜びを市民の皆さんと分かちあいたいと思います。」と述べた。 (以上、昭54.12.20.「市報」より) 昭和55年1月28日に唐津くんちの曳山行事が、正式に国の重要無形民俗文化財として文部大臣から指定されました。これはもとより唐津くんちの祭の行事全体を指定の対象にしたものです。昭和55年3月8日には、このことについての記念祝賀会がシーサイドハイツグリーンホールで行われました。そして、この年の春祭(5月5日)には、全曳山が奉祝曳出しをして町を巡行しました。唐津くんちの2日目と同じ道順を曳き廻しました。 2 唐津くんちの曳山行事を 国の重要無形民俗文化財に指定 (昭55.4.1.「社報第39号」より) 唐津神社の秋の神幸祭、いわゆる“唐津くんち”が文化財保護審議会の答申に基づき、文部大臣より重要無形民俗文化財に昭和55年1月28日付で指定され、2月1日文化庁長官から交付された。 曳山14台は既に去る昭和33年、佐賀県重要民俗資料の指定を受けているが、今回は広く供日の祭の行事全体を指定の対象としたもので一層意義深いものとなっている。 この指定交付式は2月1日、午前11時から東京の国立教育会館で行われ、この指定の対象者たる脇山英治総取締に中野陶痴総取締と神社から戸川省吾禰宜が同行して参列し、親しく犬丸直文化庁長官から交付を受けた。 長官は、その式辞の中で「日本の総ての伝統文化は、実に祭によって生まれ、祭によって支えられ、祭によって伝えられた、と言っても過言ではない」言われた。 昨年から始められたこの大規模指定の対象となった京都の祇園祭、高山の屋台祭、博多の山笠、長崎くんち、また今年指定の戸畑提灯山笠など、そのすべてが神社の祭りに奉納される神事芸能ばかりである。 今回指定を受けた神社並びに曳山関係者はもちろん、市民こぞってこれを喜び、この伝統行事の運営、管理、保存については、これを機会に再検討を加え、改むべき点は勇気をもってその実行を図るなど、正しい伝統の保持に一層の決意を示した。 尚、市においては、この指定を祝って2月20日付の市報に、指定書や曳山の写真とともに市長の喜びの言葉を掲載して、市民とその喜びをともにした。 佐賀県知事祝辞 唐津供日の曳山行事が重要無形民俗文化財の指定を受け、その祝賀会が催されるにあたり、一言ごあいさつ申しあげます。 すでにご存じのとおり、「唐津曳山14台」は県の文化財として指定をいたしておりましたが、今回「曳山行事」そのものか国の重要無形民俗文化財ということで指定を受けたわけでございます。 これは、国のほうで最近進めております「大規模な祭の行事」の保存顕彰施策の一環でありまして、青森のねぶた、秋田の竿灯、戸畑の祇園大山笠などとともに、地域的特色が豊かで規模の大きい民俗行事として今回の指定となったわけでございます。 申すまでもなく、民俗文化財は我々の先祖が汗にまみれ、土にまみれて育てつづけた行事でありまして、日本人の生活と切っても切れないものでおります。 このような身近かな生きた文化遺産も、戦後の生活様式の急激な変化に伴い、衰亡の危機が叫ばれているのでありまして、今、保護、保存、伝承の手を加えないと取り返しがつかないと言われている所以であります。 昨年開館されました本市の歴史民俗資料館と合わせて、今回の唐津供日の曳山行事の指定は、その意味でも意義深いことでございますし、またふるさと唐津を愛する人々をはじめ佐賀県民の誇りである民俗行事の価値が国によって公認されたことは、誠におめでたいことと申さねばなりません。 唐津ッ子の血を沸かす曳山行事が今回の指定を契機として、後継者の養成をはじめ皆さんのご努力により、ますます盛んになり、末永く伝承されることを祈念いたす次第であります。 最後に、今日の良き日を迎えるにあたりまして、長年にわたって種々ご苦労いたされました各町の取り締まりの皆様をはじめ関係者の方々に対しまして、深甚の敬意を表し、お祝いの言葉といたします。 昭和55年3月8日 佐賀県知事 香月熊雄 【付記1】唐津曳山の文化財指定経歴 昭和33年 県の重要民俗資料 昭和55年 国の重要無形民俗文化財 3 曳山の国内他地方への出動 (1)昭和26年4月 「九州観光まつり」(福岡) 刀町「赤獅子」、新町「飛籠」、米屋町「酒呑童子と源頼光の兜」の3台が出動しました。 (2)昭和39年5月 「美わしの日本博」(宝塚) 呉服町「源義経の兜」、魚屋町「鯛」、京町「珠取獅子」、江川町「七宝丸」の4台が出動しました。 (3)昭和42年10月 市制記念商工祭「柳井まつり」(柳井) 米屋町「洒呑童子と源頼光の兜」の1台が出動しました。 (4)昭和49年8月14〜18日 「日本のまつり」(東京・明治神宮外苑) 魚屋町「鯛」、本町「金獅子」の2台が出動しました。 (5)昭和52年3月6日「第1回日本芸能の祭典」(東京・NHKホール) 新町「飛龍」の1台が出動し、曳山囃子と曳山踊りが出演しました。 (6)昭和53年10月 日本橋京橋祭実行委員会主催の「祭」(2日・東京) 日本商工会議所100周年記念「全国郷土祭」(22日・東京) 大石町「鳳凰丸」、米屋町「酒呑童子と源頼光の兜」の2台が出動し、22日は国立競技場を曳き廻しました。 (7)昭和61年10月 「杜の賑わい」(武雄) 大石町「鳳凰丸」の1台か出動しました。 (8)昭和62年10月11日 大阪21世紀計画87「御堂筋パレ一ド」(大阪) 水主町「鯱」の1台が出動しました。 10月11日開催のちょうど5年目を迎える大阪21世紀計画87「御堂筋パレード」(財団法人大阪21世紀教会の主催)に出動しました。 当日は水主町町内や応援の曳山各町取締、また特別参加「曳山踊り」の花柳三祐師匠をはじめ門下生など100名近くが上阪し、在阪唐津人といっしょに商都大阪の目抜き通りである御堂筋の約3.3km(唐津<んちのコーコの約半分)を約2時間で曳き渡りました。「鯱」は今回が初めての出動でした。 (9)平成元年5月1〜3日 博多だんたく港まつり「よかトピア」(福岡) 中町「青獅子」、材木町「亀に浦島太郎」、木綿町「武田信玄の兜」の3台が出動しました。 (10)平成2年5月3日 博多どんたく港まつり「よかトピア」(福岡) 刀町「赤獅子」、大石町「鳳凰丸」、米屋町「酒呑童子と源頼光の兜」の3台が出動しました。 「赤獅子」は昭和26年に唐津曳山が初めて他地方(この時も福岡への出動)へ出動して以来の2回目39年ぶりの出動、「鳳凰丸」は昭和53年の東京出動(米屋町「酒呑童子と源頼光の兜」とともに)および昭和61年の武雄出動以来の3回目の出動、「洒呑童子と源頼光の兜」は昭和26年の福岡出動(刀町「赤獅子」、新町「飛龍」とともに)と昭和42年の柳井出動と昭和53年の東京出動以来の4回目の出動でした。 (11)平成3年5月3日 博多どんたく港まつり「よかトピア」(福岡) 本町「金獅子」、平野町「上杉謙信の兜」、水主町「鯱」の3台が出動しました。 (12)平成4年5月4日 博多どんたく港まつり「よかトピア」(福岡) 呉服町「源義経の兜」、魚屋町「鯛」、新町「飛籠」、京町「珠取獅子」、江川町「七宝丸」の5台が出動しました。 例年よりも趣向を凝らし、曳山飾りで参加して曳き廻しました。 (13)平成7年8月5日 第23回「栄の国まつり」(佐賀) 魚屋町「鯛」、大石町「鳳凰丸」の2台か出動しました。 【寸記2】曳山が他地方へ出ることを「出動」という理由 昭和26年に初めて唐津の曳山が他地方へ出るときに、「派遣」と呼ぶか「遠征」と呼ぶか、「出動」と呼ぶか、で迷いましたが、曳山取締会の会議で「出動」と呼ぶことに決まりました。元来、曳山の組織が火消組の組織に端を発していることを考えれば、消防用語でもある「出動」は適切だと思われます。 4 曳山の海外への出動 (1)昭和54年2月下旬 「世界の祭(カーニバル)」(フランス・ニース) 魚屋町「鯛」の1台が出動しました。このときのテーマは「海の女王」でした。 (2)昭和56年3月28・29日 「第5回ディズニーランド日本祭」(アメリカ・カリフォルニア洲) 平野町「上杉謙信の兜」の1台が招待されて出動しました。 (*)昭和57年8月下旬 「日中国交正常化10周年記念の日中祭」(中国・北京) 江川町「七宝丸」の1台が出動の予定でしたが、曳山取締会および関係幹部が研究協議の結果、残念ながら中止することに決定されました。中止の理由は次のとおりでした。 @ 輸送方法に問題があり、船で輸送するには日本・中国間の輸送便は月に1回であり、帰りの都合や天候悪化などを考えると、帰るのが唐津くんちに間に合わない危険性がある。 A現地での曳きかたなどで、関係諸団体に誤解を招く危険性がある。 B季節的に酷暑期であるため、せっかくの漆塗りの文化財に取り返しのつかないひびや傷がつく惧れがある。 (3)昭和59年8月25・26日「日蘭通商375年記念日本祭」(オランダ・ロッテルダム) 平野町「上杉謙信の兜」の1台が出動しました。一行は25日と26日の両日、ロッテルダム市内を約1.5kmを曳いて廻りました。ロッテルダムの人たちは衣装や小道具類に深い興味を示しました。持って行った大小の采配170本とはち巻き200本は、瞬時のうちになくなってしまいました。 A.ペーパー ロッテルダムの市長からは「唐津の祭をありがとう。市民も十分に楽しませていただきました。」というメッセージをいただきました。 5 古舘正右衛門著の 「曳山のはなし」を読んで 特に感じたこと (昭和60.4‥記) 1 この著書の資料的価値について 唐津の曳山については、故古舘正右衛門氏ほど詳しく調査研究されたかたはいません。また、唐津神社にも曳山をもつ町内にも、それほどに詳しい昔の記録はないので、今後は曳山についてこの著書以上の具体的な詳細または的確な文献資料はできないものと考えられます。 2 この著書における歴史的事実の誤りと曖昧さについて この著書の中で著者ご自身も言っておられるように、歴史的事実や年数などにおいてまちがっている部分があり、筆者はその部分に訂正付箋を貼りつけています。例えば、筆者か昭和31年4月から昭和59年1月まで氏子総代を勤め、特に唐津神社や神祭や曳山に関心が深かった時代のことに関しても、この著書の文中にはかなりの誤りがありますから、ましてやそれ以前のことに関してはさらにかなりの誤りがあることが推察されます。 もともと唐津神社にも、また曳山をもつ町内にも、曳山に関して昔の明確な記録があまりありません。旧唐津藩絵師の富野淇園が明治16年に制作した「唐津神祭行列絵図」と、戸川眞菅翁が昭和8年10月に朝鮮済州島にいるときに昔の唐津神祭を思い起こして手紙に綴った「唐津神事思出草」以外には、昔の神祭や曳山についての異体的な資料は見あたらないとのことです。また、現在(昭和60年)では、明治9年に15台の曳山がすべて揃ってからでも109年経っていますから、昔のことを知っている古老は一人もいないということになります。 ですから、いずれが真実であるかと戸惑って迷う点も多々あるのですが、やはり、この著書は神祭や曳山の沿革または時代に治った発展を知るには十分であり、唐津人としての神社、神祭、曳山についての愛着や郷愁の念が不滅の所以を物語るに足る著書であると思います。 【付記3】中国の四霊と曳山の関係 (「曳山のはなし」(古舘正右衛門著)46〜47頁を参照) 中国でいう四霊とは、龍、鳳凰、亀、麒麟のことであり、神秘的な動物だという伝えがあります。 唐津の曳山には、龍、鳳凰、亀はいますが、麒麟たけが欠けています。 【付記4】獅子曳山の垂れ毛の素材 (「曳山のはなし」(古舘正右衛門著)48頁を参照) 獅子曳山の頭の後ろに垂れた濃紺色の毛は、苧麻(ちょま)と言って、麻の一種で造った糸のことです。また、苧(ちょ)とは、麻の一種で麻やかむしで作った糸のことです。 【付記5】酒呑童子の「シュテン」の書きかた (「曳山のはなし」(古舘正右衛門著)53頁を参照) 酒呑童子の「シュテン」の書きかたには、次のように何とおりかあります。 「酒天」、「酒顛」、「酒呑」、「酒典」、「酒傳」 6 お歌を拝して(三笠宮妃殿下) −宮司 戸川健太郎− (昭52.10.1.「社報第34第」より) 去る昭和49年11月2日、三笠宮崇仁親王殿下、三笠宮百合子妃殿下、三笠宮寛仁親王殿下には、唐津神社へ親しく御参拝に相成りました。 当日は恰(あたか)も唐津くんちの宵祭でございまして、御参拝の後は宵山の勇壮な社頭曳き込みを、又翌3日の神幸祭には社頭曳出しの光景を親しくご覧いただきました。そして、そのご感想を昭和50年の新年御歌会始の御題「祭」に御詠進になりました。 我もまた祭りに酔いぬ獅子の山車 兜の山車と続きゆくみて このお歌を拝しますと、唐津児が祭りに溶け込んでいるのを見て、はたの者までついその中へ引き入れられるその気持ちを実によく表現なされていて、まことに感激の極みでございます。 今回、妃殿下のお手づからなるお歌を頂戴いたしまして、曳山取締会が事に当たって歌碑となし、曳山展示場玄関前に建立して、永く拝踊することになりましたことは、誠に意義深いことであります。 ここに三笠宮家の弥栄を寿ぎ奉り、又このことにお骨折りいただきました皆様に厚くお礼を申し上げましてお祝いの言葉といたします。 7 歌碑建立を祝して −曳山総取締 脇山英治− (昭52.10.1.「社報」第34号」より) 三笠宮両殿下並びに若宮殿下が、昭和49年11月1日に唐津市で開催されました全国リクレーション大会に台臨になり、翌2日の宵曳山と3日の本祭りの当日、神社前の勇壮なる曳き出しの様手を御覧になり、妃殿下にはその折の御印象を翌50年の新年宮中歌会初めの儀の御代「祭り」に 我もまた祭りに酔いぬ獅子の山車 兜の山車と続きゆくみて と御詠進になり、かしこき宮中を始め全国にまでご披露頂ましたことは、我々にとって無上の光栄であり、感激の極みに存ずるしだいであります. 我々曳山関係者は此の喜びを後世にまで残す方法として、瀬戸唐津市長のご賛同を得て、曳山会館前に歌碑を建立することになり、妃殿下御直筆の御下賜について、昭和52年2月5日に折よくNHK主催の第1回全国郷士芸能祭典に新町飛籠出演のため上京の折、佐賀県東京事務所長安元氏の案内にて、市側から瀬戸市長、草場、大武の諸氏、曳山関係から小生、中野陶痴、尾花の諸氏と宮家に伺候致しました。 竹中事務官を通じ一応書類を提出して帰りましたが、思いの外早く請願が御裁可になり、過日瀬戸市長上京の折、拝受して帰られました。このことは近年に於ける曳山の歴史を飾る画期的な事業でありますので、関係者一同心を浄め、10月中旬完成を目指し、専心工事の進捗に努めている次第であります。これも偏(ひとえ)に市民各位のご愛顧の賜と、衷心より厚くお礼申しあげます。 余談ですが、宮家の応接間で竹中事務官と面談申、我々としては予て折角御直筆を御下賜頂くなら、「山車」を「曳山」と書いて頂きたいものだと身勝手な相談をして居りましたので、少々勇気を出してその事を率直に申し上げましたるところ、じっと設計書を見つめて居られた竹中事務官はやおら顔を上げられ、うつろなまなざしで我々一同を見回しながら「はっ何ですか」と問い返されましたので、再度一呼吸のあと更に勇気を出して「山車を曳山と書いて頂くよう妃殿下に御願いして下さいませんでしょうか」と申しましたら、竹中事務官は「一寸待って下さい」といいつつ、すーっと椅子を立たれて急ぎ足で別室に行かれ、白い表紙の薄いとじ込みを持って来られ、一枚一枚丁寧に頁をめくられて、妃殿下の御歌の「山車」のくだりを強く指さし乍ら、「山車」と御詠みになっておられます。「「山車」が正しいのです」と直截明快なる御返事があり、我々の微衷は見事にぺちゃんこになりました。 私は勿論ですが、隣の中野陶痴さんも日頃の唐津っ子の生きのよさはどこへやら、深々と頭を垂れて「ごもっともでございます」と見るも哀れなほど恐れ入ってしまいました。 今更なから、畏こきあたりの深遠さを、しみじみと感知させて頂いた次第でした。 8 三笠宮妃殿下の歌碑除幕式 −昭和52年11月3日挙行− (昭53.4.1.「社報第35号」より) かねて建設中の三笠宮妃殿下の歌碑が見事に完成し、昭和52年11月3日の唐津くんちの佳き日に、親しく妃殿下の御台臨を仰いで、厳粛の中に盛大な除幕式が執り行われました。 このお歌は去る昭和49年の供日に、三笠宮の三殿下かお揃いで唐津神社への御参拝の折り、神幸祭に於ける曳山の巡行をご覧になって、その御感想を翌昭和50年の歌会始の御題「祭」に御詠進になりました次の 我もまた祭りに酔いぬ獅子の山車 兜の山車と続きゆくみて のお歌を徳山産の御影石に彫り込んだもので、建立された場所は曳山展示場正面玄関の前であります。 除幕式当日は、前夜の宵山曳きも賑やかに終わり、当日払暁の浄めの雨もさらりと晴れて、神幸も順調に進み、西の浜お旅所の曳き込みも精一杯の盛り上がりを見せて終わり、一息いれてからとの除幕式が行われました。 妃殿下はこの日の朝、福岡空港にご到着の後、お出迎えの松尾助役の御案内で御来唐、午後2時の祭儀に御台臨いただきました。 除幕式は宮司、禰宜、権禰宜が奉仕して進められ、関係者100名が参列する中で脇山総取締の令孫中里さんが紅白の綱を引いて見事に除幕、妃殿下も拍手を送って祝福されました。その後、妃殿下の玉串奉奠を始め関係者の参拝の後、脇山総取締の挨拶で神事を終わり、続いて席を文化会館に移して式典を行い、妃殿下を囲んで共に盃を上げて完成を祝いました。 やがて午後3時すぎ、御旅所発輿、曳山曳出しとなるや、妃殿下を西の浜お旅所へ御案内して、勇壮な曳出しの光景をご覧に入れました。大変御感動のご様子で曳子全員がお見送りする中を、ご機嫌うるわしくお帰りになりました。 このたびのことはまことに空前の盛事で、神社、曳山取締会、市、警察、その他関係者の並々ならぬお骨折りの賜物でありまして、ここに衷心より感謝の意を表するものであります。 9 唐津んやまこぼれ話 伝え話かれこれ (昭56.10.29.「ピープル放送」より −岩下正忠、田中冨三郎、戸川省吾、脇山英治−) (1)唐津んやまの三大名物(名作) ・呉服町曳山「源義経の兜」の面の作りかた ・魚屋町曳山「鯛」の胴体のかたち ・米屋町曳山「酒呑童子と源頼光の兜」の眼球 (2)唐津んやまの不思議話 ・刀町曳山「赤獅子」だけ、なぜ御幣を載せるのか ・呉服町曳山「源義経の兜」の兜は源氏(源義経)なのに、なぜ台の後方に赤旗を立てるのか ・本町曳山「金獅子」は雄獅子なのに、なぜ2本角なのか (以上の3つが三大不思議と言われています。) ・江川町曳山「七宝丸」はなぜ「七宝丸」と呼ぶのか (実は宝物か8つあるのに−「蛇宝丸」と呼んだ時代もあった−) ・水主町曳山「鯱」にはなぜ髭(ひげ)があるのか (水主町の氏神の大石権現様は山の神であり、虎魚(おこぜ)が大好物です。そこで、 この曳山は「虎魚山(おこぜやま)」上だという説もあります。) (3)その他 ・唐津くんちの三月(みつき)だおれ (これは「貢ぎ(みつぎ)だおれ」というのか正しい。くんち接待のために「貢ぎつくす」という意味です。) ・唐津くんちで饗応(供応)が止まないわけ (唐津くんちは近郷近在の納め供日という意味で、いつまでたっても饗応接待が止みません。) 10 現在の曳山の製作年と 唐津藩主および 戸川家神主との時代関係 (所有町名と曳山名) (製作年)(唐津藩主時代)(唐津神社社家戸川神主時代)
・上表は、現在の曳山が製作された時代と唐津藩主時代および唐津神社社家戸川神主時代とを対照したものです。 ・お宮の名称が「唐津大明神」時代にできた曳山は、1番曳山刀町「赤獅子」から12番曳山米屋町「酒呑童子と源頼光の兜」までの12台(ただし、9番曳山紺屋町「黒獅子」は明治22年頃廃車)であり、明治6年に「唐津神社」と改称されてから明治9年までにできた曳山は、13番曳山京町「珠取獅子」、14番曳山水主町「鯱」、15番曳山江川町「七宝丸」の3台であり、この時点で15台の曳山ガ揃いました。 ・水主町曳山「鯱」と江川町曳山「七宝丸」はほとんど同時期にできていて先山争いとなったので、交互に前後をつとめることになりました。 11 唐津神祭開係の一連の祭り (昭61.10.1.「社報第52号」による) 10月9日 初供日奉告祭 曳山囃子奉納 10月29日 神輿飾の儀(当番町2力町で飾る) 本殿祭 11月2日 宵祭 宵曳山奉曳 11月3日 神田獅子舞奉納(明けがた) 神幸祭(出発前に発輿祭、正午に西の浜御旅所祭) (曳山はすべて神幸に供奉する) 11月4日 翌日祭(曳山は町廻り、曳山展示場へ曳納め) 11月5日 神輿納めの儀(総行司当番町を次年度に引き継ぐ) 10月9日の初供日報告祭に始まるこの祭は、上記のように一連の行事か進み、10月29日の本殿祭を中心に、賑やかな神事祭か繰り広げられます。 このような古い祭りには、代々受け継がれてきた格式が、神社にも奉仕する氏子の町内にも個人の家にもあります。特に曳山町には、自分の町の曳山に関するしきたりがあり、今日に至るまでその町内の人々の心とともに伝えられ、守られてきています。先祖が行った祭りをそのままに、親が曳いた曳山のその綱をその子供が握って曳き、孫が握って曳くという、その姿と心を受け継いでいくことが神様を祀る心なのです。 唐津くんちは昔から、親戚知己(ちき)または顧客を招いて饗応し、祭の楽しみを共にすることが特色とされています。近年は万事が進んだ世の中で、交通の利便もよくなり、郷土の祭りを唐津人だけが奉仕して楽しむだけでなく、他地方の人々もますますお詣り下さるようになりました。 【付記6】曳山の歴代総取締氏名 (昭61.10.29.曳山展示館にて記) 初代 木下吉六 2代 花田繋ニ 3代 平田常治 4代 脇山英治 5代 瀬戸利一 6代 宮田一男 7代 牧川洋二 8代 大塚康泰 9代 山内啓慈 12 水主町曳山の ある時代における特殊な習慣 (明治末期より昭和40年ごろまで) (昭62.1,17,記) 昔は、神幸祭の日に西の浜御旅所から神輿の還御に御供して帰る曳山の順路は、西の浜から江川町、坊主町を経て県道に出て、それぞれの町内または明神小路にあった曳山格納庫に向かっていました。各曳山は江川町を過ぎて裏坊主町の角(現在の江川町の坂本米屋の前の角)を南に曲がり、田辺病院の前を通って県道に出ていましたが、水主町曳山だけは江川町から裏坊主町に曲がらすにまっすぐ表坊主町の角(現在の郵便局の前の角)まで進み、そこを南に曲がって県道に出て東に向かい、自分の町内に帰っていました。このようなことが明治の末期から昭和40年ごろまで、約50年くらい続いていました。 ほんの僅かな道順や距離のちがいではありますが、水主町曳山だけがこのように、江川町から県道に出るまでの道順を他町の曳山とは異なる道順を通るようになった理由や経緯については、現在の水主町の曳子でも、古老の話を聞いていなければ知る由もありません。昭和62年現在で80歳を超えた人で昔からの水主町育ちの人ならば、その理由を知っておられるかも知れません。 その理由について次に述べますが、それはある一種の不幸な事件が発端となっていました。それは、明治40年生まれの筆者がまだ幼少期の頃に起こったことで、母や兄や姉などから聞かされてきた話です。筆者自身はすでに生まれてはいましたが、まだ世の中のことに物心がついていない頃のことでした。 ある年(明治の末期)の神祭で、水主町曳山「鯱」が坊主町の県道から現在の田辺病院通りに曲がる角の、当時米屋営業をしていた山崎松太郎氏の家の軒にぶつかって瓦や庇(ひさし)を壊し、山崎氏と水主町曳子の間で言い争いが起こったとのことで、水主町は縁起を担(かつ)いでか、それ以来その山崎氏の角を曲からないですむような道順をとるようにしていたということです。つまり田辺病院通りを通らないですむようにしていたということです。 水主町曳山「鯱」の胴体は、かつて昭和の初め頃までは現在よりも大型で曳き難く、町中を曳くときは電柱や家の軒先などにぶつけることか多かったのです。ですから、翌日祭のときも、水主町曳山は田辺病院の通りを通らない道順、つまり山崎氏の角を曲がらないですむ道順を通ったのです。水主町は、昭和3年から5年にかけて「鯱」の胴体を少し小型化するように造りかえて再製しましたが、その後でも昭和40年頃までは、山崎氏の角を曲がらないですむような道順を通りつづけました。 これはけっしておめでたい話ではありませんが、水主町町民にとっても唐津曳山にとっても、一つの思い出となる歴史的事実なのです。 また、明治9年に江川町と水主町の曳山がほとんど時を同じくしてできあがり、どちらを先にするかの問題で先山争いが起こったことも、今にして思えば、唐津曳山ならではの一つの貴い歴史的事実であると思われます。 昭和42年頃からは、すべての曳山が田辺病院の通りを通らない道順になりましたので、水主町曳山「鯱」も他の曳山とは異なる道順を通らなくてすむようになりました。 13 唐津神社神輿物語 (昭63.2.29.記) (昭59.4,1.「社報第47号」より) 神輿は、「シンヨ」または「ミコシ」と称し、神幸の祭に神霊が乗り坐す輿のことである。通常は木製黒塗りで台と胴と屋根との3部から成り、その形は4角形、6角形、8角形などがある。屋根の中央には鳳凰を置き、台には2本の棒を縦に貫き取りつける。その起源は不明であるが、奈良時代には用いられたと考えられる。 さて、唐津神社の神幸祭に出て座す2基の神輿は、昭和59年より見て198年前の天明6年の作で、古い型の凰輦(ほうれん)型と呼ばれるもので、大阪の住吉神社の御用品であったものを譲り受けたものと言われていて、当時の一流品と思われる。造りは簡素の中にも品格のあるもので、その時期のどういう経緯でこんなものが手に入ったものか、記録も全くなく詳しいことは皆目わからぬが、当時のこととて、はるばる上方から舟使で送られたものであろう。 材木町の大年寄りの平松家の文書の中に、この神輿の塗替えや金具の取り付けなどについて、安政6年の記録が断片的に記されているくらいである。73年後のことです。当時は供日のみならず、世の中の不景気や凶作の年や雨乞いなどの時は、御祈祷のため神輿を出したり曳山を曳いたりしてお祭りが行われていたようだ。 この神輿を飾りつけるには、色々の付属品がある。神鏡、鳳凰、力綱、締布、鈴縄、擬宝珠、几帳、瓔珞(ようらく)燕などがあり、その他威儀物として大榊、社名旗、紅白旗、赤青鉾面、胡録、薙刀(なぎなた)、大傘、槍、剣、太鼓、賽銭箱などがある。この中で、薙刀、槍、剣は、終戦のときにアメリカ進駐軍の命令で接収され、今は欠けたままになっていて、歴史を物語っている。 毎年供日前10月29日は本殿祭が行われるが、それに先だって当白朝、神輿飾りの儀がある。旧城下町の16町より年番順(町ができた順)で2町が総行司となり、一の宮、二の宮の飾付けを奉仕し、当年の神幸の責任町になるのである。 総行司というのは、藩政時代に城下町の世話をする当番町のことで、当時は只に供日のみならず、世俗的な一切を取り仕切っていたものである。こういう古い習慣がこのような進んだ世の中に連綿として受け継がれて、生きて残っているのは珍しく、神事伝統として尊いものと言えよう。 因みに、16町とは、本、呉、八、中、木、材、京、刀、米、大石、紺屋、魚、平、新、江、水(ほん ご はっ ちゅう もく ざい きょう とうべい たいせき こんやの うお へい しん こう すい)の順で、これは築城当時城下町ができた順と言われて、16町各町の頭文字を取り、口拍子で呼び覚えていたものである。 神祭当日この神輿を担いで実際に奉仕する“伴揃い”は、昔から神田区からこれに当たることになっている。総勢60名で、これは神田が唐津のルーツであり、二の宮の御祭神神田五郎宗次公の子孫が即ち神田の佳人であるということから、現在でも全神田を挙げて奉仕される。 従来は1基に8人の肩によって神幸か行われたが、去る昭和46年からは、元氏子総代、曳山総取締であった花田繁二氏の華麗な御所車の奉納によって行列の様も整い、面目を一新した。 唐津神社御鎮座1230年式年祭(昭和60年)の記念事業での塗替えは、前回大正2年より70年ぶりの総塗替えになる。 神輿庫 神輿は神霊を乗御するものであるので、神聖な専用の庫に納めるのが本儀である。 唐津神社では、藩政時代の古文書に「御輿蔵三間に三間、但産子普請」としてあるように、境内東北隅現在の中町粟島神社の敷地に在ったが、土蔵造りの建物も老巧化して昭和13年神殿改築の際取りこわしとなり、旧拝殿の一部に他の雑用品と同居の止むなき有様が畏れ多く40年も続いた。 1230年式年大祭の記念行事として、現在の拝殿の西側に立派な神輿庫が新築された。1230年の式年大祭は昭和60年4月29日に斉行された。 14 昔の「唐津神祭行列図」と 富野淇園 (昭63.3.6.整理、記) ここに述べる昔の「唐津神祭行列図」とは、明治時代に現在の豪華な曳山が15台揃っていた頃の明治16年に本町に住んでいた旧唐津藩絵師の富野淇園の54歳のときの作品です。この絵は、富野淇園が魚屋町の酒造家西ノ木屋山内家(小兵衛)の依頼で描いたものです。その後長らく72年間、山内家の家宝として伝えられましたが、昭和30年10月に唐津神社の1200年祭記念として同社に奉納されました。現在は唐津市曳山会館に公開されていますが、唐津神社の所蔵です。 画題は幕末当時の唐津神祭の風景で、西の浜御旅所へ15台の豪華絢爛たる曳山が御神輿のお供をして、急調な囃子の音律と勇壮活発な曳子の動作によって曳かれ行く最高潮に達した場面を再現したものです。作者の麗筆は藩政時代の「唐津ぐんち」の模様を活き活きと描き出しており、当時の民俗を知る上でも貴重な資料としての価値を失っていません。 画面には、西の浜御旅所から西の門あたりを中心に15台の曳山、曳子、神輿行列、奉納相撲、侍(さむらい)、町人、物売りなど、1600余人の人物が表情豊かに描かれています。この図絵が描かれてから昭和63年まで、実に105年を数えます。 作者の富野淇園は丹倫齋と号して本町に居住していましたが、その家は旧藩時代は江戸公儀からの使者の宿でしたから、「お使者屋の先生」という愛称で呼ばれていました。淇園は、その自宅に塾を開いて市内の子女に学問を教え、その傍ら絵を描いていました。御使者屋があった場所は、長らく続いていた白石写真館、つまり現在の白石喫茶店の所だそうです。その後、淇園は佐賀師範学校の教師として子女の教育にあたりましたが、4年後の明治20年に58歳で歿しました。 この画面には、当時のあらゆる階層の人々が実にたくさん描かれていますが、昭和48年にこの図絵を縮小して立派な絵巻にして刊行するときの調査で、描かれている人々の正確な人数は1628人であることが判明しました。その縮小絵巻は、椛蜩本絵画巧芸美術(東京都千代田区神田錦町1−7 社長小川誠一郎)の謹製で、みごとな美術出版物です。この企画は、大手口の平野書店店主と美術出版界の大手である小川誠一郎社長との親交の中から生まれたものです。 この神祭行列図は、西の浜での昔の唐津神祭の様子を如実に詳しく、そしてわかりやすく知るうえで、唯一の貴重な資料なのです。 本稿は、昭和48年10月25日の曳山展示館での記事および椛蜩本絵画巧芸美術謹製の縮小判「唐津神祭行列図絵」の説明書きに基づいて、昭利63年3月6日に整理執筆したものです。 社務所で尋ねたこと (昭62.10.5.戸川健太郎、省吾の両氏より承る) (平3.6.9.整理、記) (1)お使者屋があった場所はどこか 本町の白石写真館があったところで、現在は喫茶店になっています。 (2)「平松文書」の著者について 平松家は材木町の西入口の角です。文書の著者は平松義右衛門という人で、当時は大年寄りで、藩政時代の材木町の最古老でした。 (3)昔の「唐津神祭行列図」の大絵巻について この絵巻は、旧唐津藩絵師の富野淇園か明治16年に、魚屋町の酒造家西ノ木屋山内小兵衛の依頼で描いたものです。長らく山内家の家宝として伝えられてきましたか、昭和30年10月の唐津神社1200年式年のとき、西ノ木屋山内家より神社に奉納されました。実際には神社で買い上げた形なのですが、名目は奉納寄贈ということになっています。 現在は曳山展示場に公開されていますが、唐津神社の所有です。 15 氏子総代のつとめ (昭63. .整理) (昭63.4.1.「社報第55号」より) 神社の氏子総代のつとめは、氏子と氏神をつなぐための種々の奉仕が、その主たるものであると言えます。全国には、約8万社の神社で約2万人の神職か祭祀を厳修しておりますが、祭祀が古来よりの姿をそのままに今日そして将来に斉行できますのは、全国8万の神社に奉仕される総代様がたのおつとめによるものであります。 先にも申しましたが、総代のつとめは氏子と氏神とをつなぐための種々の奉仕ということになりますが、これは神社の維持興隆のための奉仕ということで、氏子が歴史的な事実としての神社の直接的な協力者であるということなのです。氏子総代は、氏子と氏神とのつながりの中から、古来より地縁的に自然発生的に醸成されてきた強い絆としての関係で、伝統的な氏子区内から選任されるのを通例とします。 唐津神社氏子総代としてのおつとめは、年間の祭典行事予定の中の各種祭典への参列その他、ということになりますが、次に1年間の概要を紹介します。 1月……新年祭参列 2月……節分祭、紀元節祭に参列 節分祭年男募集の事務 3月……予算審議 4月……氏子奉納金集纏事務 5月……春祭参列 祭典準備 県内研修会参加 6月……神社内研修会 7月……夏祭参列 祭典準備 8円〜9月……県内研修会参加 10月……本殿祭参列 神祭準備各種 氏子奉納金集纏事務 11月……神祭神輿供奉 祭典参列 祭典準備 新嘗祭参列 12月……伊勢神宮大麻 唐津神社大麻 佐賀県神社暦頒布事務 16 全国曳山連合会 正式の名称を「全国 山、鉾、屋台保存会」(会長田中常雄=京都祇園山鉾連合会長)と言い、全国の国指定有形・無形民俗文化財のうち、文化庁の指導もあって11団体が加盟しており、唐津曳山は去る昭和63年から参加しました。 いずれも全国有数の祭礼行事の団体であり、祭礼行事の進行方法、曳山本体の保存、祭り人の育成など基本的な問題も含めて、全国的規模でより良い情報を得ることかできるようになりました。 17 唐津神祭前夜の宵山の 曳きかたの移り変わり (平3.6.11.整理、記) 神祭前夜とは言え、昔の宵山はほとんど夜半の12時を期して各町が思い思いに曳き出していたと言われています。そして、町によって曳き出しの時刻も多少ちがっていたそうです。つまり神祭当日の未明に行われていたものなのです。 次に述べることは、筆者が物心ついて、神事に関心をもちはじめてからのことで、速い藩政時代や明治時代のことではありません。そのような昔のことは、戸川真菅公が書かれた昔の「唐津神事思出草」や古老の言い伝えなどによって、昔はそうだったのかと頷くだけしかないのです。筆者が頭の中で唐津神事のことを明確に覚えているのは、明治45年すなわち大正元年以降のことです。ですから、その頃以降の宵山の移り変わりについて次に述べることにします。 大正初期から昭和36年までは、未明の頃に各町が思い思いの時間に、自分の町から適宜な道順を通って社頭に曳き込んで所定の位置についていました。このような状況が50年間続きました。もっとも戦時酣(たけなわ)な頃(大東亜戦争=第二次世界大戦の頃、戦時の激戦は昭和16年12月から昭和20年8月15日まで続きました=太平洋戦争)は、どの町も夜明け前には曳き出さない年もありました。しかし、とにかくどの曳山も神幸祭当日の神輿のお供の用意として社頭に曳き込んで勢揃いしたのです。 昔は外灯もあまりなく、夜明けまでの道路は暗かったので、曳山に着けた提灯の光は大変な異彩を放ったものと思われます。また、町によっては夜が明けてから曳き出して社頭に向かう町もありました。 昭和37年からは、前夜の10月28日の夜、一定の時間と道順で曳山の順番どおりに外町と内町を廻って大手口に出て、杜頭に曳き込んで勢揃いするようになりました。この年から、宵山のときも曳子はすべて揃いの法被姿となりました。ただし、江川町曳山「七宝丸」だけは外町と内町の町廻りをせずに、大手口または適当な場所で待機していました。それは、江川町は自分の町内を廻って大手口まで来るのに、時間と労力が他町よりも余計にかかるので、そのような取り計らいがなされたものと思われます。 その頃の神祭の日取りは10月28日が前夜祭、29日が神幸祭、30日が翌日祭となっていました。前夜祭の宵山曳き出しは、昭和37年は午後7時でしたが、昭和38年からは午後9時になりました。あまり時間が遅すぎると子どもたちの健康上、補導上、その他に好ましくないと考えられたためです。 昭和43年からは神祭の日取りか変更されましたので、11月3日が神幸祭、4日が翌日祭となり、前夜の宵山曳きは2日の午後9時からになりました。そして、昭和59年から、11月2日の宵山は翌日祭と同じ道順で午後8時から全コースを奉曳されるようになり、この年から江川町曳山「七宝丸」も他の町の曳山と同様に、全道順を奉曳することになりました。これで宵山も曳子もますます活気と底力がつき、城下の西方で見物する者にとっては大変ありがたく好都合になりました。 このように宵山の曳きかたについては、大正に入ってからもいろいろな移り変わりがありましたが、唐津くんちの中心であり、また最大の見どころである神幸祭の前日に、どの町もそれぞれ自分の町で曳山の最終の手入れや飾りつけなどをして、御神幸の供奉に万全を期して構える曳子たちの熱心な喜びに満ちた心掛けは、昔も今も変わらないのです。 18 宵曳山のことなど −唐津神祭今昔譚2− (平9.10.1.「社報第75号」より) 宵曳山が、今日見られるように統一奉曳されるようになって、約40年くらいになると思います。ここで、約とか、くらいとか、思うとか、不確実な言葉を使っていますが、残念ながら判然としない部分がありますので、このような表現になります。 宵曳山は、翌朝からの神幸祭にそなえて、それぞれの曳山を町内から社頭に勢揃いさせるのが目的です。その昔、曳山はそれぞれの町内に曳山小屋があり(町内の曳山小屋の位置については、昭和60年発行・古舘正右衛門書「曳山のはなし」に詳しく紹介されています。)、そこから社頭まで、曳山を勢揃させるため、多くの町々では曳山に提灯飾りを整えて町々で思い思いの時間(午前零時過ぎ〜)を目途に出発し、各町とも伝統の順路を廻り(勝手曳き)、社頭へ集まっていました。 祭礼日の変更(前号)等もありましたが、世情の激変の中で宵曳山も種々変化してきています。藩制時代、明治〜大正〜昭和、現代という時代区分をして、宵曳山の変遷を見ることにします。 @藩制時代 明治時代以前、つまり徳川時代です。曳山14台はまだ全部揃っていない頃です。曳山は、町内それぞれの曳山小屋に納められていた時代です。旧暦9月29日が神幸祭でした。(旧暦9日9日が初供日で、この日に曳山の試し曳きをしていた町内もあったそうです。) さて神幸祭前日の昼から夕にかけて、提灯曳山の飾り付けをして、曳山は町内所定のところで宵曳山出発の時を待っています。29日午前零時を過ぎてから、各町は思い思いの時間に宵曳山行事に出発します。材木町は毎年、午前零時と同時に出発していました。各町の曳山は、各町それぞれ伝統の道順を廻って大手口へ到着します。ここからが現在と大きく違った順路になります。現在のように参道は大手口に直結しておらず、しかも曳山か通れるかどうかという道でした。又、お堀があって、曳山は大手門をくぐって社頭勢揃をしていました。(図1参照−財団法人久敬杜・大正14年8月25日発行「東松浦郡史」所載の城下町図を使用)
大手門をくぐってからの道順は、大手小路(裁判所横の通り)北進→明神横小路へ左折西進という順路で、大広前−その当時は、神社の直く前の広場(春−植木市・秋−お化け屋敷等の広場)で、江戸時代末、明治初めの頃は図2のようだったと伝えられています。大手門は、曳山が自由に往来できる高さではなかったので、その都度、センギを上下させていたそうです。 尚、神幸祭当日の曳出の順路は、明神横小路を東進し、綿屋の所より大名小路へ右折し、商工会館角辺りを右折(西進)し、大手門より大手口−町へと曳き出して行きました。この時、城内部分を曳山が動く時だけ、刀町曳山だけが道囃子を奏しつつ奉曳していました。
A明治〜大正〜昭和 この時期は、曳山にとっては勿論、世情が激変した時代です。 先づ挙げねばならない一大事は、参道の開設です。@でも触れましたが、それまでの参道は狭く、しかもお城の堀の手前で行き止まりでした。そこで御一新(明治維新)を期に、氏子の人々が協議し、先づ参道を唐津の中心たるべき道路に直結し、更に拡幅するという大事業が行われました。県より公有水面埋立許可を得て、氏子民の労力奉仕により、大通りと参道が直接結ばれました。(埋立て部分と参道の拡幅した部分は唐津町へ上地しています。) 勿論、明治になってからのことですので、大手門は解体され、新しい時代と共に曳山順路も新しくなりました。新しい参道を通って曳山勢揃いが始まりました。 さて世の中は、どんどん発展して、これまで各町内にあった曳山小屋は、いろいろな理由で町の発展の負の要因(年中扉が締っているので商店街としての街並が止切れるとか、防災上出し入れが困難等々)のこともあって、移転して集団で管理することとなりました。つまりこれか、昭和36年頃まであった、明神小路の曳山小屋で、10ケ町の曳山が納められていました。この敷地は、参道拡幅に際しこのような事態に備えるべく神社が神社の境内地として確保していた縁地で、曳山町内へ貸与されていました。ですから、ここに曳山を格納していた町内は、この時から、神祭の際はここから曳山を町内へ曳き帰るという行動が一つ増えたことになります。ここに曳山小屋が出来てから、曳山勢揃はこの曳山小屋の前になりました。 (図3)
このころの宵曳山は勿論勝手曳きで、灯りは蝋燭提灯、曳子は法被の町内もありましたが、褞袍(どてら)に下駄履きも多かったと聞いています。又、夜遅くまでくんち用品を扱う町内の曳山は、さしたる宵曳山はせずに、神幸祭の朝を迎える町もあったそうです。 B現代 さていよいよ現代です。最初のところでも言いましたように、宵曳山が現在のような統一奉曳になった時期については、はっきりとしない部分があります。 そのきっかけとなったのは次のようなことです。 ある年の翌日祭は朝から雨でした。関係者種々協議しつつ時を待っておりました処、雨も小降りとなりました。そこで結局、午後から曳出と決し、所定の曳山全順路を曳き廻り、江川町休憩の頃は、夕闇か迫りつつありました。この時、いくつかの町内では急遽「提灯曳山」の飾りをして、曳き納めたことがありました。 宵曳山は、午前零時以降のことですので、知る人ぞ知るというように、一般的ではありませんでした。ですから多くの人が、始めて提灯曳山を見て、これまでとは違う曳山を見て、これまでとは逢う曳山の風情を再認識され、やがてそのことが、何とか皆んなで楽しめる宵曳山にしようということになりました。 最初の頃の宵曳山出発は午後10時で、順路も東半分というものでした。その後4〜5年試行錯誤的宵曳山行事を経て、安全面、神幸祭等々に配慮して、午後9時発、更に午後8時出発、蝋燭からバッテリー方式へと提灯の中身も変り、幽玄の中にも華やかさを加えながら、唐津神祭曳山行事の開幕を飾るに相応しい賑やかな宵曳山になっています。 19 神祭と総行司 (平3.11,28.整理、記) (平3.10.1.「社報第63号」による) 唐津神祭には、総行司と呼ばれる役を努める町内がある。現在ではまったく形骸化してしまって、神祭の祭の唐津神社神輿奉仕のみがその主たる任務として続けられている。これには順番があり、古来一定して変わることはない。この順番は曳山の順番とは全く関係がなく、独特の順を今日まで続けている。 即ち、本町、呉服町、八百屋町、中町、木綿町、材木町、京町、刀町、米屋町、大石町、紺屋町、魚屋町、平野町、新町、江川町、水主町の16力町である。このうち水主町だけは神祭神輿当番が御役御免となっている。これは、大石大神社御役があるからとされている。 総行司というのは、本来、先の16力町が組織する唐津藩主公認の組織だとされている。これには前記した独特の順番により当番町(惣町)が廻ってきて、城下町の行事をすべて取り仕切っていた。そのうちの一つの重要な役目か神祭行事の神輿当番であり、総行司町は現在の曳山取締会をはじめ消防団、商店街、自治会など、あらゆる組織を束ねた権限が藩主から公認されており、唐津町々の誇りであった。この誇りは町々だけの特権として、神祭の栄華を現在も支えている。 20 唐津くんち400年祭 (平4.10.14.記) 唐津くんち400年祭は平成4年10月11日に実施されました。唐津神社秋祭りの唐津くんちでもっとも豪勢で華やかで人気が高いのは、曳山行事ですし,現在の曳山行事は、文政2年に1番山の刀町「赤獅子」か奉納されてから引き継がれていますが、唐津城築城以前の文禄年間に町の祭礼として始まったという説があります。ですから、文禄元年を起源とすれば、平成4年が400年にあたるし、また唐津市制施行60周年にもなりますので、それを記念して、唐津くんち本番の11月2日、3日、4日のまえに盛大に祝うことになりました。 主催は唐津曳山取締会です。 当日、10月11日は午前11時から唐津神社で神事、市民会館前で「400年祭」を記念して市建立の記念碑の除幕、引き続いて同会館で記念式典、午後1時半からは曳山巡行(通称東コース約3km)か行われました。 唐津城の築城は慶長13年に完成しており、完成とともに唐津大明神(後の唐津神社)は城内の守護神として鎮座されていますので、それ以前に西の浜に祀られていた頃から、唐津くんちは始まっていたと考えられます。 唐津くんち「400年祭奉祝会」−あす13台の曳山が町内に− (平4.10.10.「毎日新聞」より) 唐津市の唐津神社秋祭り・唐津くんちの「400年祭奉祝会」(唐津曳山取締会主催)が11日、同神社や唐津市民会館などで催され、13台の曳山が町内に繰り出す。 現在の曳山行事は文政2(1819)年、刀町の1番山・赤獅子を奉納してから引き継がれているが、唐津城築城以前の文禄年間に町の祭礼として始まったとされる説がある。そのため、文禄年間を起源とすれば今年が400年にあたるため、 同市制施行60周年も記念して本番(11月2〜4日)前に盛大に祝うことにした。 当日は午前11時から同神社で神事。市民会館前で「400年祭」を記念した記念碑の除幕をする。引き続いて同会館で記念式典。唐津くんち曳山保存会の囃子(はやし)演奏などアトラクションも。このあと、会館前広場の特設ステージで市内の郷土伝統文化伝承保存グループによる囃子共演会。 曳山巡行は、午後1時半からで曳山14台のうち修理中の14番山・七宝丸を除く13台が通称・東コースの約3キロを予定している。曳子は1台に200人前後と少なくなりそうだが、曳山は本番並みの装いで勇壮な祭りになりそう。 21 前夜祭の宵曳山が 全道筋奉曳されるようになる (平4.10.18.記) 昭和59年の前夜祭から、宵曳山か毎年所定の城下町の全コースを奉曳されるようになったのは、江川町からの提案要望によるものでした。筆者はこのことか決まった直後に、江川町畳屋商の松浦氏から承ったことかあります。宵山が時間と道筋を統一して曳山の順番どおりに巡幸(正しくは巡行)するようになったのは、昭和37年(正しくは昭和38年)の前夜祭からです。これは、筆者が休職の後に復職した年でしたから、よく覚えています。それから昭和58年までは外町と内町を廻って大手口に出て、社頭に曳込み、勢揃いとなっていました。 それまで、江川町をはじめ西の方の町内の者は、宵山を見物したいと思っても、老人や子どもやその他いろいろな都合で遠くまで見物に出かけられない者は、大変に残念であり、また不平の声も起こっていました。西の方の町にも江川町「七宝丸」の奉納曳山があるのだし、また前夜祭は唐津城下全町内の宵祭りなので、坊主町、江川町、朝日町の方面まで奉曳するべきであるという声が起こり、協議の末、昭和59年から江川町からの要望が実現されました。 22 唐津くんちの御神事に備えての 曳山集合所の移り変わり (平4.10.30.記) 1 藩政時代から明治36年に明神小路が開通されるまで 昔は提灯をつけて、各町がそれぞれの道順を選んで大手門あるいは神社前に集合していました。昔は時間も道順も統制されていなかったそうですので、年によって各町の時間も道順も多少はちがったこともあったと思われますが、御神幸に構えて、何としてでも集合しなければならないという考えは、いつの時代も変わってはいないと思います。 明神小路が開通する以前は、曳山をもつ町は、それぞれ町内の適当な場所に曳き山小屋を設けて格納していました。戸川真菅翁か書いた「唐津神事思出草」によると、神社前の集合場所は当時の境内南側の広場であったということです。 2 明神小路に新しい曳山小屋ができてから 明治28年に、戸川家所有地を借用して総合曳山小屋が設けられてから、唐津くんちすなわち唐津神祭神幸祭の前夜は、各町が夜半になるとそれぞれが思い思いに曳き出して、新しい曳山小屋の前に集合することになりました。しかし、曳出しの時間はまちまちになり、戦後はそれがいっそう乱れて、統制がとれなくなってしまいました。 昭和37年から、曳出しの時間と道順が決められ、曳山の順番に東回りして、外町、内町、大手口から曳山小屋前に次々に集まりました。昭和37年の曳出しは、午後10時に大手口から刀町曳山「赤獅子」が出発しました。そして、そのときから神幸祭の前夜であっても、曳子は各町の揃いの法被と肉襦袢姿になりました。曳山が奉曳巡幸(正しくは巡行)する途中の要所でもだいたいの通過時間が決められました。これは、交通上の安全規制が十分に考慮された結果の措置だそうです。このようにして、昭和44年までは、宵曳山は明神小路の曳山小屋前に集合しました。そして、昭和34年に曳山小屋は市建設の鉄筋コンクリー卜固めの近代的な厳重な格納庫に造り替えられましたが、昭利44年までは曳山の集合場所は変わりませんでした。 明治28年に明神小路に曳山小屋ができてから昭利44年まで、実に74年間、曳山は御神幸に備えて明神小路の曳山小屋前に集合していたのです。 3 昭和45年に文化会館の曳山展示場が完成してから 宵曳山は、所定の道順を廻ってから、刀町曳山「赤獅子」を先頭に文化会館前に東面して(彰敬館の方を向いて)北へ並列することになりました。 【付記7】宵曳山の曳出し時間の変遷 宵曳山の曳き出し、つまり刀町曳山の曳出しを、昭和37年の前夜祭からは時間を決め、刀町曳山が東進しなから各町の最寄りの地点にさしかかったときに、各町の曳山が曳き順どおりに宵曳山巡幸(正しくは巡行)に加わって、奉曳することになりました。このとき、刀町曳山」は煙火の合図で大手口から曳出すことになりました。 昭和37年は午後10時に曳き出しましたが、その翌年から昭和58年までは、午後9時に曳き出しました。ただし、昭和49年は11月2日に三笠宮御夫妻か唐津神社を参拝され、宵曳山をご覧になりましたので、特例として午後8時の曳出しになりました。 昭和59年からは、宵曳山か坊主町、江川町、朝日町などの西の方の各町まで奉曳されるようになりましたので、午後8時の曳出しになりました。そして、午後10時過ぎには(遅くとも午後11時までには完了するように)社頭勢揃いをするようになりました。 23 神田区の獅子頭 (平4.10.1,「社報第65号」より) 神田の獅子舞は、神田区の青年団によって奉仕されています。創建は、亨和2年(1802年)と獅子頭に刻まれていますので、今から190年前に製作されています。このことから、神田の獅子は、唐津曳山の刀町曳山・中町曳山の創建のヒントになったとも言われています。 明治中期に描かれた「唐津神祭行列図」には、3結び(3封)の獅子舞の姿が見られます。これは、神田区で1結び、町田区で1結び、菜畑・二夕子で1結ぴの獅子舞だろうと推測されています。神田区を除く他の3区の獅子頭は、それぞれの区の公民館などに眠っているのかもしれません。 神田区の獅子舞も、かつては、神祭の神事と一緒でしたが、近年は早朝に神前に奉納したあと、神田区内を廻っていました。新しい家屋か建ち、人口が急増したにもかかわらず、獅子舞を奉仕する青年団員の数は激減し、現在は神祭の早朝に、神前に奉納するだけとなっています。 地区の発展の陰で、地区を支えてきた伝統が風前の灯のようにあるのは、なんとも淋しい限りです。一昨年暮れには「唐津のれん会文化勲章」をいただきましたし、今回の東京出動で新しい活動が始まることを期待しています。 24 水主町曳山と江川町曳山の 隔年前後についての移り変わり (平5.11.16.記) 明治9年に水主町曳山「鯱」と江川町曳山「七宝丸」とがほとんど時を同じくして造られたとき、どちらを先の順番にするかで先山争いが起きました。そこで、大石権現の宮司が仲裁して「両町隔年前後致す様取極」で解決されました。しかし、この隔年前後については、実際には約束どおりにはなっていませんでした。時代の移り変わりとともに、必ずしもそのとおりではありませんでした。 筆者は大正元年からの神祭曳山のことをよく覚え続けていますが、初日の神幸祭の日は水主町曳山「鯱」が先順の年が多かったし、翌日祭の日は江川町曳山「七宝丸」が先順になる年が多くありました。また、神幸祭の日に江川町の「七宝丸」が先順になる年もありましたが、その年は翌日祭の日も江川町の「七宝丸」が先順でした。ですから、その年は水主町の「鯱」は2日とも後順でした。なぜこのようにしたのかという理由は、聞いた覚えがありません。 昭和40年頃からは、初日の神幸祭の日は水主町「鯱」か先順で、2日目の翌日祭の日は、まず江川町「七宝丸」が先順になって外町と内町を巡幸(正しくは巡行)して大手口を経て坊主町入口(表坊主町入口)まで来ると、そこ(坊主町の県道から西の浜のほうへ行く曲ガリ角)で交替して、水主町「鯱」を先順にするということが続いていて、確実に守られています。その理由は、翌日祭の日は、水主町の曳子たちが巡幸(正しくは巡行)の途中で、自分の町内に曳山を留めて昼食休みをするのが好都合だということで、そのためには神社前を曳き出すときから後順にしておくほうがよい、ということだそうです。 なお、現在は、11月2日の前夜祭の宵曳山のときは、水主町「鯱」が先順で、江川町「七宝丸」が後順となっています。 ところで、明治時代には「1年交替で前後」という約束は、実際にはどのように守られていたのかについては、詳細は判りません。このことについては、大正の頃か昭和の初めに唐津育ちの町の古老に聞いておくべきだったと、平成の今になって悔やんでいるしだいです。 昭和の初めはもとより、遅くとも昭和の終戦前の頃であれば、明治初期の神祭や曳山のことを、実際にご自身が見て体験してよく覚えておられた古老のかたも存命であったので、その大先輩の古老のかたに当時の神事や曳山のことなどを聞いて確かめておくべきであったと残念でなりません。今にして思えば、つくづく馬鹿の後(あと)知恵です。 25 末社・境内社案内 (平7.4.1.「社報第70号」より) 御鎮座1240年式年大祭の記念事業として全面改築された境内社務所(平成6年秋竣工) ◎稲荷神社 (本町奉斎−火伏稲荷神社と称す)……文化年中、当唐津郷の首町たる本町の、町内安全のため勧請す。この時、蜆貝に乗って巻き給ふと伝ふ。火除の霊験あり。明治37年、唐津神社境内へ奉遷す。昭和26年コンクリート造りの社殿に総改築された。 ◎稲荷神社 (呉服町奉斎−白飛稲荷神社と称す)……慶長の頃、京都伏見より呉服町に飛来されたと伝えられ、町内に奉斎す。一時期、平野町木浦山に鎮座ありて、干量院が奉斎していたが、明治37年、唐津神社境内へ奉遷され、町内守護神として崇敬か篤い。 ◎稲荷神社 (新町奉斎−白玉稲荷神社と称す)‥江戸時代末期頃、黒崎坊が町内安全のため奉祀す。その後、町内で奉斎するようになった。昭和55年、唐津神社境内に、社殿を新築し奉遷された。 ※この3社は稲荷の神なれば、衣食住・商売繁昌・農業、漁業振興に特に霊験のある神として、例祭日の旧暦2月の初年祭は盛大である。 ◎天満宮 (木綿町奉斎−鳥居天満宮と称する)‥天明の頃、唐津の豪商、常安九右衛門が、太宰府天満宮へ、唐金の大鳥居を奉献するに当り、木綿町の鋳造場へ、大願成就の旨祈願すべく、特に太宰府天満宮を勧請したものである。このため鳥居天満宮の称がある。大鳥居は無事奉献された後、木綿町町内に守護神と仰がれ、大正年間に、唐津神社境内に奉遷された。3月・9月に祭礼がある。 ◎粟島神社 (中町奉斎−淡島神社とも書く)…もともと中町町内に鎮座あれど、明治末年熊野原神社境内へ奉遷された。其の後、町内しきりに神徳を追慕し、夏越の例祭は、年々怠ることなく町内で執行されているが、昭和32年、熊野原とは別に唐津神社へ社殿を新築して、紀伊国名草郡加太浦淡島本社より勧請された。腰より下の、又、婦人の病に霊験あり。 ◎水天宮 在唐津の筑後地方出身者や、その子孫等によって、郷士の守護神である久留米水天宮の御分霊を唐津神社境内に勧請したもの。水難防除、安産等に御神徳ありと伝ふ。旧暦4月5日前後に例祭がある。 ◎二十日恵比須神社 (刀町奉斎)…江戸時代中期頃、刀町の名家で恵比須講をつくり、毎年宮座を定めて祭礼が執行されていた。その後、町内で祭礼を行っていたが、御神徳の更なる発揚を念じ、昭和58年、唐津神社境内に社殿を新築し奉遷された。毎年1月19日・20日の例祭は盛大に執り行われている。 ◎寿社 少彦名神・国安命を祀る。その昔、松浦の海浜に神亀顕現の瑞祥を寿ぎて、この霊を合祀し、寿社と称するようになった。この神は、蜆貝を好まれるという伝えがある。首より上(頭・目・耳・鼻・咽喉・歯・口等)に霊験がある。例祭日は、旧暦の3月23日。 |
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(付録1) 唐津神社秋祭りのお天候記録(大正元年〜平成9年) 神祭の日取りは、昭和42年までは10月29日・30日で、昭和43年からは11月3日・4日となる。臨時に日取りを変更したのは、大正5年が11月3日・4日に、昭和18年が10月30日だけ、昭和19年が10月29日だけ、に変更されました。 |
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戸川鐵さんは平成9年まで記録されております。平成10年からは管理人が書き加えました。また、一部加筆しました。 管理人 吉冨寛 |
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(付録2) ありがとう、久しぶりの唐津くんち −石井信生のエッセイ− (昭59,11.9.「唐津新聞」より) 天高く文化の日、今年は連休のせいもあって、永年夢に見ていた唐津くんちの曳山見物を17年ぶりに実現する機会に恵まれた。唐津を離れて30年近くになるが、毎年秋になると曳山が恋しくて仕方がなかった。しかし、いつもこの時期になると学会や当地の行事などの都合で曳山に逢う機会を逸してきていた。ただ一度だけ、新婚時代に女房を連れて曳山見物に行き、自分の古里の自慢をしたことはあった。それ以外は毎年10月29日の夜は、山囃子のレコードに合わせて一人で笛を吹き、茶碗を箸で叩いて山囃子に興じ、大酒を飲んで思いを遙かな唐津くんちに馳せるのが常であった。私の書斎の机の曳き出しには、子どものときに父親に買ってもらった白黒写真の曳山の絵はがきが14枚、今も入っている。 私は山下町3丁目で生まれ育ったので、曳山を曳いた経験はない。どうして曳山のある町に生まれなかったのかと、親に小言を言った覚えがある。曳いた経験はなくても、曳山とその囃子は私を幼児期から完全に魅了させてしまっていた。秋の夜長にはどこからともなく山囃子の稽古をする音がよく聞こえてきたものだ。小学生のころは10月29日が待ちきれずに、学校帰りに明神小路に回り道をして、連なる山小屋の扉のふし穴から曳山を1台ずつのぞきこんだりもした。くんちの前日には、各町に泊めてある曳山を見て回ったリ、夜中から曳き始められる宵山を暗くて寒い大手口で何時間も待って見たりもした。勿論、くんち当日は朝から晩まで曳山のあとについて街中を歩いた。高校生のころは、数少ない情報の中から曳山に関する情報等を集めて楽しんだものだった。今こそ唐津を離れてはいるけれども、私は俗に言う「山気狂い」と自称しても決してはばからないと思っている。 久しぶりに見た今年の曳山は、好天候がそのきらびやかさに一段と拍車をかけ、それは比類なく美しく豪華であり、力動感あふれる山囃子とかけ声に躍動する法被姿の筋肉は、現代都市唐津を象徴しているかのように感じられた。そのような情景を目のあたりに見ることによって、曳山の神髄に触れることができたような気がし、永年の夢がかなえられて大いに堪能して帰途につくことができた。それにしても、あの竹紙の艶やかで怪しいメロディーと鐘や太鼓のダイナミックなリズムがつくりだす山囃子のどこに、私の唐津っ子の血を3日間も煮えたぎらせつづける魔力か秘められているのであろうか。唐津に住む人、住んだことのある人は誰でも、曳山や山囃子が心の古里になっているにちがいあるまい。曳山や山囃子は国の重要無形民俗文化財である以上に、人間唐津っ子にとっては最高の精神文化である、と私は確信している。唐津はほんとうにすぱらしいところである。唐津を出生地あるいは古里としてもつ私は幸せであり、それを私は誇りにしている。 今年の文化の日は、私にとって貴重で有意義な精神文化の日を体験することができた。末筆ながら神事と曳山の関係者をはじめ市観光当局、その他多くの関係者および唐津の全市民の方々に対して深淵なる謝意を表したい。 (広島女子大学助教授石井信生) |
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「第2部」の編集あとがき 本冊子は、編著者戸川鐵叔父様が生前に収集していた唐津神社神祭曳山に関する厖大な資料の一部を編集したものです。「唐津神社の神祭と曳山に関する抄録」の第1部に編集しきれなかった資料を追編集したもので、いわば続編というべきものです。編著者は明治40年に唐津市山下町3丁目に生まれ、平成11年に帰幽されました。 編著者は、幼少期から晩年に至るまで自他ともに認める生粋の「ヤマクレイジー」で、現在のように曳山に関する情報が豊かでなかった大正初期から、曳山をご自身の目で観て、手で触れて、耳で古老談を聞いて、生の情報を得て来られました。退職後から晩年にかけては、曳山に関する新しい歴史的事実の発見のためにますます研究心が旺盛になられたとともに、それまでに集積された貴重な資料の成文化に余念がありませんでした。しかし、残念ながら、そのすべてが完成されてはいませんでした。 編著者は、曳山の情報収集と研究にはかなり良い環境に恵まれていました。編著者は、唐津神社戸川家の分家の子息であったし、明治維新以前生まれのヤマクレイジーな親や隣家の叔父のもとで成長しましたし、昭和31年から59年の長きに亘って唐津神社の氏子総代を勤めるなどしておられましたので、曳山に関しては、そんじょそこらの曳山愛好家とは比べものにならないほどの豊富で広くて深い情報知識をもっておられました。 そのような貴重な情報をこのまま眠らせてしまうのはもったいないと思いましたので、せめて身内の者だけでも知っておくべきだと思い、不肖私めか編集させていただくことにしました。編集にあたっては、難しい漢語熟語などは現代用語に翻訳し、文語調の文章は口語調に置きなおしましたが、神道用語はそのまま使用することにしました。 末筆なから、本冊子の編集についてご快諾いただいた夫人房枝叔母様、何かとお世話とご協力いただいたご令嬢高塚晴子様に深遠なる謝意を表します。 平成19年唐津くんちの日 石井信生(編著者の甥) |
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第3部 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
本冊子の用途 1唐津神社の神祭および曳山に関する事項の年代および年数を調査し、記録する。 2 唐津神社の神祭および曳山に関する事項を確認するための簡易記録として活用する。 3 唐津神社の神祭および曳山に関する事項やそれに関する資料などを研究するための手引きもしくは目安として活用する。 4 唐津神社の神祭および曳山に関する事項を、必要に応じて加記する。 |
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T 唐津神社の神祭と曳山に関する事項の年数調べ簡易表 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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U 曳山の内容要点、歴史、謂われなど |
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曳山をもつ各町内の歴史上の事項や特有の風習などについては、「まつら再発見」((財)唐津市文化振興財団)その他の曳山説明書などに詳しく説明されています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第1番 刀町曳山 「赤獅子」 制作年:文政2年(皇紀2479年 西紀1819年) 細工人:石崎嘉兵衛 塗 師:川添武右衛門 製作から平成10年までの経年数:179年 木彫師の石崎嘉兵衛がお伊勢参りの帰りに京都に立ち寄り、祇園山笠を見物し、それをヒントに曳山造りを思いついたのです。塗師の川添武右衛門とともに「赤獅子」の曳山を唐津神社に奉納しましたが、これが現在の唐津くんち曳山の始まりなのです。 「赤獅子」の面は粘土型を原型とした一閑張りであり、その造りかたは、その後の曳山造りの手本となりました。「赤獅子」の角の後ろには、白い大きな御幣が立てられていて、曳山曳き行事の無事を祈っています。 「赤獅子」は、幅が3メ一トル、高さが約5メートル、重さ(推定)が1.6〜1.8トンあります。 カブカブ獅子と赤獅子 飯田氏の著書には、神田の一対のカブカブ獅子の頭が、あたかも「赤獅子」のように記されています。しかし、その根拠になるものはありません。おそらく、「赤獅子」を造るとき、カブカブ獅子も参考にしたとは思われますが、曳山を「赤獅子」に決定するうえでもっとも大きな影響を及ぼしたのは、小笠原藩入部の後に掛川の獅子舞いとその祭りの模様を聞いたことであると確信することかできます。少なくとも獅子頭の大きさは、掛川の大獅子の話しを聞いた結果ではないかと思われます。特に紙を張り重ねた一閑張りの工夫などは、掛川の大獅子頭のことを知っていて初めてできることであると思います。浜玉町の川崎渉助氏の奥様の家(中菊屋)に伝わったという木製漆塗りの25センチ大のカブカブ獅子があり、それが刀町曳山「赤獅子」の原型であると言われていま す。このことも一考察に値します。(「曳山のはなし」(古舘正右衛門著)による。) 刀町の伝統 刀町の氏子たちは、神祭では曳山を収めたあとに、法被を脱いで和服に昔替えてからご馳走をいただきに回ったそうです。これは、神祭第1日目の御旅所までは法被を着用するという第1番刀町曳山「赤獅子」の伝統になっています。 神祭行事の卸先(みさき)を祓い清めながら曳き進む第1番刀町曳山「赤獅子」だけに、伝統が今だに強く伝えられており、神聖な中にもよく保持されていると言えます。 |
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第2番 中町曳山 「青獅子」 制作年:文政7年(皇紀2484年 西紀1824年) 細工人:辻 利吉 塗 師: 製作から平成10年までの経年敷:174年 「青獅子」は一般的には雄だと考えられていますが、諸説があります。天照大神が女性ですから「赤獅子」が雄で「青獅子」か雌だという説や、「赤獅子」が大きいから雄で「青獅子」が小さいから雌だという説があります。しかし、結局は、雌雄を決めかねるというのが実情です。 「青獅子」も「赤獅子」と同様に、面は粘土型を原型として和紙を張り重ねた一閑張りです。頭の後部の毛は濃紺染めの苧麻(ちょま)であり、「赤獅子」に比べてすべてに小ぶりの造りになっています。角は二またになっており、耳は垂れずにぴんと垂直に立っています。また、鼻も「赤獅子」とは多少異なっているようです。 「青獅子」は、幅が2.5メートル、高さが約4.8メートル、重さ(推定)が1.6〜1.8トンあります。 西の浜の曳き込み競争 西の浜に曳き込みのとき、材木町曳山「亀と浦島太郎」の猛追に遭い、「青獅子」は舵棒を2本とも材木町曳山の台車で折られたことがありました。これは、材木町の曳子が多く、力が強すぎて起こる紛争なので、毎年くんちまえには両町の幹部級の懇談会が本部役員を含めて行われ、その席上でこのことについてよく話し合われていました。 昭和34年頃までは、刀町曳山「赤獅子」と中町曳山「青獅子」と材木町曳山「亀と浦島太郎」の3台が、西の浜の曳き込みのときにお互いに所定位置への曳き込み競争をしていました。一般の観衆にとっては、これも一つの楽しみでした。3番目に曳いて来た「亀と浦島太郎」がいちばん早く曳き込んで、所定位置についた年もありました。 川崎家に保存のカブカブ獅子 浜玉町の川崎家に保存してあるカブカブ獅子は、中町曳山「青獅子」に酷似しているという古老談かありました。 昔の中町曳山「青獅子」の特徴 中町曳山「青獅子」は、昔は歯が動くようになっていたとか、後ろ髪が揺れていたとかいう特徴があって、刀町曳山「赤獅子」の「静の曳山」という印象に対して「動の曳山」という印象をもたせる自負があったと言われます。 また、囃子もいわゆる「正調くずし」とでも呼べるような、正調をちょっとだけくずして、音律の高低や強弱を艶っぽく強調して奏され、評判が高かったそうです。 |
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第3番 材木町曳山 「亀と浦島太郎」 制作年:天保12年(皇紀2501年 西紀1841年) 細工人:須賀仲三郎 塗 師: 製作から平成10年までの経年数:157年 昔からのお伽噺(とぎばなし)にも緑のある造りなので、子どもたちによく親しまれる曳山です。完成したのは天保12年で、中町曳山「青獅子」完成から17年の隔たりかあります。その理由は、資金事情や機運の盛り上がり不足もあったものと思われますが、どのような曳山を造ううかと迷い、諸説が出たのが最大の問題であったと思われます。刀町と中町が獅子頭なので、今度は何かちがった曳山を造るうと考えたものと思われます。そして、神輿のお供にふさわしいものをと考え、また他地方のヤマのような同形類似のものでなく、独自の曳山を造るために協議を重ねたものと思われます。その結果、当時の九州三大祭の一つに数えられていた八代の妙見祭の神輿に供奉している、亀や蛇に着目したものと思われます。 材木町は松浦川の川口に接しており、海にはいちばん近い町です。「類集名物考」には、鹿島明神が早亀に乗って長門の豊浦に上陸されたと記されているので、同じ明神である唐津神社の神輿の供奉にふさわしい亀を造ったのであろうと思われます。 「亀と浦島太郎」は、粘土型を原型とした一閑張りで、幅が2.6メートル、高さが約5.3メートル、重さ(推定)が2.5トンあります。 亀が背中に乗せていたもの 初めは、亀は背中に何も乗せていなかったけれど、どうも亀の背中が淋しいので宝珠を乗せてあたということです。そして、それか浦島太郎に替わった時代は、はっきりしていません。 また、古老談によれば、初めに浦島太郎が乗ったけれど、浦島太郎の衣装の損傷か激しいので、宝珠に替わった時代もあったが、やはり浦島太郎に戻されたということです。筆者もそのようなことを、母から聞いた覚えがあります。 材木町曳山「亀と浦島太郎」と神輿巡幸(正しくは巡行)の経緯 筆者は子どものとき、材木町曳山「亀と浦島太郎」と神輿巡幸(正しくは巡行)について、次のようなことを聞いたことがあります。 いつの頃かははっきりしていませんが、神祭の御神幸のとき、刀町曳山「赤獅子」と中町曳山「青獅子」とが神輿の先祓いとして曳き進み、神輿の後に材木町曳山「亀と浦島太郎」が曳き出された時代があったそうです。ところが、材木町の曳子が多すぎるので神輿の後ろから曳き迫る勢いが強すぎて、神輿も伴揃いも落ちついて巡幸(正しくは巡行)ができなかったということです。特に、伴揃いが道端で出迎える観衆から奉納されるお賽銭をゆっくりと受けにくい、などの不都合が生じてきたとのことです。そのような理由から、材木町曳山「亀と浦島太郎」を神輿の前で曳かせるとになったそうなのです。もっとも、このことについての明確な記録などはありませんので、その真否のほどはわかりません。 おそらく、このことを筆者に聞かせた母(戸川リツ)は、明治45年に他界した父(戸川兎毛)からか、当時の古老から聞いたことを伝えたものと思われます。 今思えば、母がこのことをどうして知ったのか、誰から聞いたのか、母の存命中に尋ねておくべきだったと悔やんでいます。 いずれにしても、材木町曳山「亀と浦島太郎」と神輿巡幸(正しくは巡行)について、このような伝え話しがあるということは、かつてそのような経緯があったのかもしれないと思われます。 |
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第4番 呉服町曳山 「九郎判官源義経の兜」 制作年:天保15年(皇紀2504年 西紀1844年) 細工人:石崎八右衛門 塗 師:脇山卯太郎 製作から平成10年までの経年数:154年 呉服町曳山「九郎判官源義経の兜」は、天保15年9月に製作されました。曳山の幅は2.8メートル、高さは約6,1メートル、重さ(推定)は1.6〜1.8トンあります。 この曳山は、材木町曳山「亀と浦島太郎」の3年後に造られました。日本人の判官びいきの思想から神輿の守護にあたる武将として、源義経を選んだものと考えられます。 この曳山には、他町に誇れる町民の自慢があります。それは何と言っても、兜の造りにおける精巧な忠実さでしょう。兜の左右にかけている錣(しころ)が、非常に精巧にできています。兜の鉢にかけてある錣は、一枚一枚古和紙を重ね合わせて1センチ以上の厚さに固め、形を整えて麻布を貼り、漆塗りを3〜4回して仕上げて金箔を施したものであり、それを一枚ずつ麻紐で組み、その上に赤、白、緑の羅紗(らしゃ)布の威(おど)しで配色よくかけ合わせて鉢にかけるという、大変手のこんだものです。錣の数は180枚にも及びます。 兜の正面には頬当て(俗に言う面)があり、その上方に威厳を示す龍頭(りゅうず)と鍬形(くわがた)があります。その鍬形は2種類ほど揃えてあります。城下町内を巡行するときは、電柱や看板などの障害を避けるために小形の鍬形を差し、西の浜の御旅所では、ひとまわり大形の飾り鍬形に差し替えて、その威容を誇ります。鍬形の左右にある吹返しは、木造りに布を貼って漆塗りで仕上げ、据紋(すえもん)は、唐津大明神に敬意を表して三ツ巴の紋にしてあります。兜の天辺(てっぺん)の八幡座には穴がなく、人の出入りはできません。その下の笠印付環(かさじるしつけかん)には正絹(しょうけん)でできた総角(あげまき)の紐を結んで飾って、この兜の優雅さを一段と高めています。 曳山の製作に兜を選択決定した理由は、当時町内に甲冑修理の具足屋があり、そこの主人が兜に詳しく、兜造りに熱心であったためだと思われます。4台の「兜」の曳山の中で、もっともこみ入った精巧な造りになっていると言えます。 具足屋利右衛門の名が当時の記録に残っています。 呉服町と曳山「九郎判官源義経の兜」の伝統 呉服町は、曳山を製作した時代や修復した時代の古い家系が、現在でも多く残っているという伝統的な面をもっています。また、呉服町のその伝統は、例えば、曳山の曳子に他町内の男性とすべての女性を禁止するというような、本来の曳山曳きの姿を今でも留めているとこうにも表れています。 (注)絵を中心とした「唐津<んち説明冊子」には、塗師が「牧山卯太郎」となっています。 |
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第5番 魚屋町曳山 「鯛」 制作年:弘化2年(皇紀2505年 西紀1845年) 細工人:不 明 塗 師: 製作から平成10年までの経年数:153年 魚屋町曳山「鯛」かできた頃の魚屋町は、その名のとおり、魚屋が軒を並べていました。この町名にちなんで、海の幸として日本人の珍重する鯛を神社にお供えすることに決め、曳山「鯛」を造って神輿に供奉したものと思われます。 ちなみに、鯛の伝説を調べてみると、「延喜式(えんぎしき)(延喜5年(905年)の勅により、宮中の年中行事や儀式などのことを記し、撰進された漢文の書物。全50巻)」には「平魚」と記されていますが、これは「鯛」のことなのです。肥前地方では「へいけ」、土佐地方では「うだい」、その子を「へらほ」と言いますが、これらはいずれも「平魚」の転語だそうです。鯛は古くからその名が知られており、海幸彦の釣り針を呑みこんだので口を裂かれたという神話があり、口が大きいのはその名残りだとされています。 紅鱗の美しさと肉の美味は最上のものとされ、また「めでたい」という語呂合わせから、後世においてはあらゆる祝いごとの食膳を飾るようになりました。 この鯛と称する魚には、マダイ、キダイ、チダイなどがあり、チダイは背びれ12棘8軟条、尾びれ3棘8軟条を有し、縦一列の鱗数は60個だそうです。 したがって、唐津の漁師たちは、曳山「鯛」の鯛は棘の数が少ないのでマダイではない、と言っています。しかし、この単純で技巧の懲らしようもない魚をみごとに造形化した感覚には、感嘆するしかありません。肉づけを厚くして前方からの眺めを良くしたばかりでなく、胸びれを開閉できるようにしたり、尾びれたけを後屈させるようにして、頭部と尾部が交互に上下するように仕組み、大手門や細い町並みの軒先をかわせるように工夫されています。 曳山「鯛」の胴体は、粘土型に紙を張り、ひれと尾は木型に紙を張り、漆を塗った一閑張りで仕上げられています。この曳山「鯛」は、幅が2.2メ一トル、高さが約6.7メートル、重さ(推定)が2.0〜2.5トンあります。 (注)曳山「鯛」は、昭和54年にフランスのニースカーニバルに出演して、好評を博しました。(平成8年10月31日追記) |
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第6番 大石町曳山 「鳳凰丸」 制作年:弘化3年(皇紀2506年 西紀1846年) 細工人:永田勇吉 塗 師:小川次郎兵衛 製作から平成10年までの経年数:152年 大石町曳山「鳳凰丸」は、細工人永田勇吉と塗師小川次郎兵衛か中心となって、弘化3年に1750両をかけて製作されました。前年に製作された魚屋町曳山「網」が海の幸であるのに対して、鳳凰を山の幸として考えたことは至極当然であったでしょう。「鳳凰丸」を造るにあたっては、道路を曳き廻るときの障害などを考えると、多大な杞憂があったにちがいありませんが、敢えて京都祇園祭の船鉾を摸して造られたようです。 船の首部に鳳凰を型どったものを造り、それを胴体と結合させて御座船を造ったのでしょう。この曳山は他の曳山とちがって、ほとんどが木組みと木型を中心とし、それに紙を張って一閑張りで仕上げたものなのです。当初は船体も現在より長く、重量も重かったので、浦浜の砂地には行けず、その入口あたりに据えたままでした。近郊からの参詣人は、この曳山を明神様と思いこんで賽銭をあげて拝んでいたということです。(古老談、および「曳山のはなし」(古舘正右衛門著)より) その後、電気電信電話の架線の支柱が立てられるようになったので、巡行の困難性を軽減するために現在の長さに改造して縮められました。その改造の年は不詳です。全体のバランスから見ると、高さが低いように感じられますが、当初大手門を通過するときの関係で低くなっているのであろうと思われます。 この「鳳凰丸」も、材木町曳山「亀と浦島太郎」と同様に、2本の心棒で支えられています。この曳山の幅は2.05メートル、高さは約4.4メートル、重さ(推定)は4トンあります。「鳳凰丸」は、14台の曳山の中で長さがいちばん長く、重さもいちばん重いので、この曳山には前舵も備えられています。前舵があるのは「鳳凰丸」だけです。 大石町の氏子たちの曳山の管理 大石町では、曳山行事に関する記録文書や写真類が、明治後期から昭和に至るまでよく保存されています。 現在の公民館の敷地には、昔曳山小屋がありました。その曳山小屋の奥に曳山を置き、手前には消防ポンプを置いて火災に備えていたそうですが、曳山の車輪が通る部分だけにしか石畳が敷いてなかったので、曳山をその上に乗せるのが大変難しかったそうです。 また、曳山小屋の近くに住んでいる氏子たちは、自分の家が火災で焼けても、曳山小屋だけは焼けないように注意することに、大変気を使っていたそうです。 「鳳凰丸」がこの曳山小屋から曳山展示場へ移ったとき、大石町の氏子たちはほっとしたような、気の抜けたような、複雑な気持ちになったそうです。 (平8.10.31.追記) |
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第7番 新町曳山 「飛 龍」 制作年:弘化3年(皇紀2506年 西紀1846年) 細工人:中里守衛重広 塗 師:中島良吉春近 製作から平成10年までの経年数:152年 新町曳山「飛龍」は弘化3年に製作されました。当時、醤油製造業の岡口屋前川仁兵衛と酒屋の石田伊右衛門の2人が、京都南禅寺にいた中里家の日羅坊という人を訪ね、南禅寺の板戸の障壁画に描かれている飛龍を見て帰りました。2人はそれを祖型にして曳山を製作するために、当時、学にも秀でていた唐津焼の名門陶工の中里守衛重広(第9代太郎右衛門であり、後に人間国宝となった人)と中里重造政之の兄弟に、曳山製作を依頼したのです。ですから、曳山「飛龍」は珍重な工芸品でもあるのです。塗師は中島良吉春近となっています。 飛龍とは、文字通り、空を飛翔する龍を意味します。また、「飛龍天に在り」という言葉があるように、聖人が天子の位にあることを例えて言う言葉でもあります。飛龍は麒麟、鳳凰、亀とともに、中国では四霊と呼ばれるものの一つであり、神秘的な動物とされています。 もともと龍は渕に棲むと言われており、水や雨に関係の深い動物です。日本の神話では、水神とか海神として神聖化されています。 曳山「飛龍」の本体は、前後は上下に、そして顔は横を見るように左右に、自由に揺れるように工夫されています。この曳山は、下向きにすると怖くなり、上向きにするとうれしそうな表情に見えると言われています。しかし、「飛龍」は、やはり龍として自由に天を駆けるように飛んでいる姿が、いちばん良いようです。また、この曳山は、電線や屋根をかわすとき、前後を上下に動かすだけでなく、曳山を捩りながら障害物をかわすこともできます。 「飛龍」は龍ですから雨を呼びます。ですから、他町の曳山が出終わるまでは、「飛龍」は出さないように、とよく言われたそうです。筆名も小学生の頃、この話をよく聞いたものです。 新町曳山「飛龍」の曳山小屋と名護屋口の難所 現在の新町児童遊園地西隣の名護屋口脇には、消防小屋と並んで「飛龍」の曳山小屋がありました。そして、名護屋口は石段だったので、曳山が通るときには、米俵に砂を詰めて敷き、石段を平らにしてから通っていたそうです。昔は、大手口から坊主町入口まではお城の外堀がめぐらしてあって、県道がなかったので、曳山か町方を廻って西の浜に行くためには、名護屋口を通って近松寺前の角を右折して、坊主町を経て西の浜に向かわなければならなかったのです。当時は、曳山の巡路の中で、この名護屋口がいちばんの難所だったそうです。 (注)昭和52年のNHKの「日本芸能の祭典」という番組に出演したときは、東京のNHKホールでせりあげによって体を揺り動かしながら舞台に現れ、曳山囃子に合わせて藤間門下生たちの曳山踊りが演出に加わりました。 |
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第8番 本町曳山 「金獅子」 制作年:弘化4年(皇紀2507年 西紀1847年) 細工人:不 明 塗 師:原口勘三郎 製作から平成10年までの経年数:151年 本町曳山「金獅子」の獅子頭は、おそらく日本一の大きな獅子頭であろうと思われます。「金獅子」も他の刀町や中町の曳山の獅子と同様に、角の後ろに人体の上半身を出せるように、頭毛を表す紺染苧麻(ちょま)との間に空孔が作られているのは、大手門を出入りする際に角を取り外したりもとに戻したりするためと、巡行途中で路上の樹枝や電線などの障害物をかわすために施されたものなのです。金漆がはげたとき、一時的に銀エナメルで修理したこともあったそうです。制作者は不明となっていますが、石崎八左衛門が制作者であると伝えられています。 本町が曳山に「金獅子」を選んだ理由としては、本町が城下町としては一番町なので、一番曳山「赤獅子」や二番曳山「青獅子」より以上の曳山を造ろうと思って「金獅子」を選んだのだとも言われています。狭い町内を通るために、獅子の曳山の中でも「金獅子」だけは両耳とも真上まであがるようになっています。また、「赤獅子」と「青獅子」は後部が竹かごで造られていて軽いのに対して、「金獅子」は全部が一閑張りで造られていて、重量が重くなっています。栓木(支柱)は正角の一角で獅子頭の角度を整えています。このような構造は「金獅子」たけです。 元来、唐津の曳山の一閑張りに使用された紙は古紙札であったという言い伝えがありました。「金獅子」は昭和29年の塗り替えのときに、顎の部分の破れ目から唐津大明神の古いお守り札が、たくさん出てきたそうです。このときの塗替えの際に、本町は市の補助を受けましたが、それが市補助の前例となってしまいました。そのときの塗替え費用は65万円でした。 本町の氏子たちが曳山を曳くときは、どんなに暑くても肉襦袢を脱ぐことを禁止し、決して上半身の地肌を露出しないことが鉄則となっていました。氏子たちが着る肉襦袢の「本」の文字は、常安弘通氏の尽力によって、小笠原長生公の米寿の祝いとして記していただいたものなのです。 「金獅子」の獅子頭の造り 獅子の曳山は「赤獅子」「青獅子」「金獅子j と3台あり、いずれも張子一閑張りでできている点は同じです。しかし、「赤獅子」や「青獅子」は面(獅子頭)の後部が竹編式でできていて麻で作った糸の垂れ毛で被せてあるのに対して、「金獅子」の面(獅子頭)は面頭の後ろの部分まですべて一閑張りで固めた上を垂れ毛で被せてあります。ですから当然、重さは「赤獅子」や「青獅子」よりも重くなっています。 「金獅子」の面相の変化 「金獅子」は、頭髪の部分に火災事故がありましたが、本体は無事でした。 大正9年の塗替えのときに、中野霓林師の発意により、「金獅子」の額の部分に突起を作り、左右の口唇の波形を削り、目を明らかにして面相に工夫をこらしました。また、従来の塗金を改めて初めて金箔を施しました。 |
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第9番 木綿町曳山 「武田信玄の兜」 制作年:元治元年(皇紀2524年 西紀1864年) 細工人:近藤藤兵衛 塗 師:畑 重兵衛 製作から平成10年までの経年数:134年 木綿町曳山「武田信玄の兜」は、紅屋近藤藤兵衛の作で、塗師は畑重兵衛です。元治元年の製作とするのが正しいようです。本体は、粘土型の上に紙を張り、一閑張りで仕上げてあります。鹿角は木型です。兜の鉢の下の、眉庇(まゆおおい)の上の中央にある飾り毛や面の白い毛は、中国産の赤熊(しゃぐま)の毛を使用しています。 武田氏の重宝は葦威鎧であり、諏訪法性の兜の前立は鹿角ではなく、幅の広い鍬(すき)型であり、片方は銀色で、もう片方は金色です。その付け根は金色の金具で飾られ、中央には武田菱が付けられています。また、面は赤熊の毛で覆われ、面の飾りはなく、吹返しは先端を折り返して中央に武田菱を飾りつけ、鉢は大型の鋲(びょう)を付けただけで筋がありません。眉庇も、その先端は凹凸のない学生帽のひさしのように弧形になっています。 木綿町では、武田信玄が上杉謙信から塩の救援を受けたという故事にちなんで、塩を大切に取り扱い、曳山にも決して塩をまくことをしないと言います。 兜の紐(締め苧)の中の籾殻(もみがら)の詰め替えは、幕洗いの日に行うのが習慣となっています。 昭和3年にこの曳山の塗替えを行ったときの塗替えの費用は、100万円であったと言い伝えられています。 昔の町内曳山小屋 明治の中頃まで木綿町町内の中心に町内の氏神鳥居天満宮がありましたが、明治の中期以降に、他の末社に先がけて唐津神社境内に移転されました。その当時、鳥居天満宮の一郭に「武田信玄」の曳山小屋が建っていましたが、明神小路が国道に通じたあと、明神小路の脇の木造曳山小屋に移転しました。 |
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第10番 平野町曳山 「上杉謙信の兜」 制作年:明治2年(皇紀2529年 西紀1869年) 細工人:富野武蔵 塗 師:須賀仲三郎 製作から平成10年までの経年数:129年 古来、町内には伝明(でんみょう)寺(現在の平野町1445番地の位置)と白玉稲荷社がありましたが、現在では、白玉稲荷社は唐津神社の呉服町稲荷社に合祀されています。 平野町が曳山に「上杉謙信の兜」を選んだ理由としては、木綿町が「武田信玄の兜」を選んだことに関連していると考えられますか、詳細は伝えられていません。町内では、松屋文具店西側の1601番地の場所で曳山の台が製作されたことだけが、かろうじて伝えられているにすぎません。平野町曳山「上杉謙信の兜」の台車は、金具を使用せずに隠し木栓を使用して造ったという、町内の自慢の作であったそうです。小豆色の獅子頭か印象に残る兜の曳山です。 平野町曳山「上杉謙信の兜」は、角があることから察してもわかるように、雄獅子を型どった獅子頭を表しています。この長い角が蓮根(れんこん)に似ているところから「蓮根角(れんこんづの)」とか「蓮根山(れんこんやま)」と愛称され、人々に親しまれています。角と頭髪の間には、人が上半身を出せる穴かあり、角の取り外しや路上の樹木などの障害物の回避ができます。 曳山の本体は、粘土型の上に紙を張った一閑張りで仕上げられており、蓮根角と眉庇(まゆおおい)は木型に漆塗りがしてあります。頭髪は、北海道の白熊の毛を使用しています。また、兜の吹返しには上杉家縁(ゆかり)の紋が型どられています。 兜の鉢にあたる獅子頭は、昭和3年に錣(しころ)を短縮したときに、後方の頭髪を金箔にしました。しかし、昭和35年には、「神祭行列絵図」を参考にして、現在の色に塗り替えられました。また、昭和46年には、曳山の台と太鼓か新調されました。 平野町の肉襦袢と法被は、上杉家縁の紋が染め抜いております。上杉謙信が武田信玄に塩を贈った故事にちなんで、曳山の塩まきはたっぷりとまき散らすということです。 曳山「上杉謙信の兜」も他町の曳山と同様に、細部にわたる修復や変更については、幾多の変遷を経ています。また、曳山の管理も以前は厳格で、神祭の終了後は錣をすべて取り外して、顎紐のすぬか(籾殻)も全部抜いて保管していたそうです。 本格造り以前の仮造りの曳山 平野町の町内には、年代物の仮造り曳山の台車が残っていました。それは、幅と奥行きがともに約1.8メートル、高さが40センチほどのものでした。正確な記録はありませんが、平野町には、明治2年に本格造りの曳山「上杉謙信の兜」ができる以前に、江川町や木綿町と同じように仮造りの曳山があったものと思われます。 |
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第11番 米屋町曳山 「酒呑童子と源頼光の兜」 制作年:明治2年(皇紀2529年 西紀1869年) 細工人:吉村藤右衛門 塗 師:須賀仲三郎 製作から平成10年までの経年数:129年 米屋町曳山「酒呑童子と源頼光の兜」は、古くから伝わる源頼光と大江山の酒呑童子の物語に基づいて造られた曳山です。頼光に斬られた童子の首が頼光の兜に、無念と怨嗟(えんさ)のものすごい形相で咬みついた瞬間の有様をとらえて表現したのが、この曳山なのです。斬られた童子の首が宙を飛んで、頼光の星兜の鉢に喰いつき、鋤(すき)型の付け根まで咬みついたということです。曳山の名称も、単に「源頼光の兜」と呼ぶのではなく、「酒呑童子と源頼光の兜」と呼ぶのが正しいのです。 米屋町が曳山に頼光の兜を選んだ理由としては、斬られた酒呑童子の首か宙を飛んで頼光の兜に咬みついたという言い伝えを具象化したかったことと、第9番の木綿町曳山「武田信玄の兜」と第11番の平野町曳山「上杉謙信の兜」に続いて兜の曳山を造りたかったこと、の2つが考えられます。血走った眼球と兜に咬みついている白い歯か対照的かつ特徴的であり、子どもたちにいちばん怖がられている兜の曳山です。兜の頭髪にはヒマラヤ原産の白いヤクの毛と、眉には黒馬の毛と、幕には大麻が用いられています。 最初の塗替えは明治26年に行われました。現在、唐津神社内にある新町の稲荷社に奉納してある「酒呑童子と源頼光の兜」の絵馬には、「米屋町消防組中」という寄進銘があります。この絵馬の奉納は最初の塗替え記念であると伝えられており、曳山の古い姿を伝えてくれる貴重な資料です。この絵馬の絵図によると、酒呑童子の頭髪は現在よりも多く、幕は青い染抜きで、顎紐の縛りかたが現在とはちがっています。 第2回目の塗替えは昭和7年に行われました。このとき、錣を保護するために内側に鉢を作ったり、頭部に穴を開けて曳山の上に人が乗れるようにしました。また、鍬形(くわがた)を大きくしたり、幕を大麻に替えたり、錣を6段から4段に短縮したりもしました。それまで酒呑童子の顔は朱赤色でしたが、この塗替えで栗色に変わりました。兜の眉庇の下の鉄製の面は、以前はなかったそうです。 米屋町曳山「酒呑童子と源頼光の兜」も、塗替えのたびに造りについての部分的な変更が行われています。 「酒呑童子」の面の製作における苦心 米屋町曳山「酒呑童子」の作者は、吉村藤右衛門と近藤藤兵衛と言われています。当時、作者は、酒呑童子が頼光の兜こ噛みついているその形相凄まじい形をなかなか作れずに、苦心していました。ところがある日、猫が玉にじゃれついている様子を見て、それをヒントにして作ったと言われています。 また、作者は一計を案じ、ほとんどできあがった曳山を路上に置いて、自分たちは密かに曳山の中に入ってじっと耳を澄ませていました。通行人たちは、そんなこととはつゆ知らず、勝手に率直な批評をしながら通って行きました。 作者は、それらの批評を大いに参考にして、悪いところを直しに直して、今日見るようなあの逸品が生まれたのだ、と伝えられています。 このように、唐津の曳山は、米屋町曳山「酒呑童子」に限らず、14台のすべてがその町その町の人々によって、言わば素人たちによって苦心に苦心が重ねられて製作されたものです。各町の人たちは、秋のおくんちに自分たちが作った曳山を奉納して、お祭りを盛大にしようとする心意気を見せてくれるのです。 (注)酒呑童子についての昔話的そしてお伽噺的な説明は、「曳山のはなし」(古舘正右衛門著)の53〜54頁に載っています。 |
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第12番 京町曳山 「珠取獅子」 制作年:明治8年(皇紀2535年 西紀1875年) 細工人:富野淇淵 塗 師:大木卯兵衛 製作から平成10年までの経年数:123年 珠取獅子とは、狛犬のことです。狛犬とは、神社や仏門の前に奉献されている獣形の像のことです。その起源はペルシャやインドなのですが、日本ではその異形(いぎょう)の姿を犬だと思ってしまいましたが、日本犬とは異なっているので、異国の犬すなわち高麗の犬だと思ったのでしょう。ですから、日本では狛犬と獅子とを混同したものを見かけることがありますが、平安時代には明確に区別されていました。 京町曳山「珠取獅子」か製作された当時までは、まだ大手門が存在していたので、「珠取獅子」が大手門を通過するときのために、最上部の尻尾の部分を取り外せるように細工がされています。この曳山は、幅が2.6メートル、高さが約5.2メートル、重さ(推定)が1.6〜1.8トンあります。 唐津城下に京町が町としてできたのは古く、大石町、魚屋町から、紺屋町、平野町、新町を経て名護屋口に至る街道筋に位置しており、町内には全国に名を馳せたくじら組の豪商「日野屋」の常安家など、唐津を代表する裕福な商家か軒を並べていました。さらに、京町は明治31年の鉄道の開通によって、唐津でいちばんの商店街として繁栄しました。 「珠取獅子」は、明治8年に細工人富野淇園、塗師棟梁大木卯兵衛、塗師大木敬助らによって、糸屋(いとや)の屋敷内で製作されたと言われています。 京町の「踊り山」 京町には、「珠取獅子」ができる以前には、「踊り山」というものがありました。「踊り山」は、その山が舞台になっていて、京町小町たちが着飾って乗り、曳山巡行の休憩のときに踊りを披露して、神輿の行列に花を添えていました。実は、そのために曳山「珠取獅子」の製作への取りかかりが遅れたのではないかと思われます。 京町が曳山に「珠取獅子」を選んだ理由 京町が曳山に「珠取獅子」を選んだ理由は、次の諸説が伝えられています。 (1)町内の長門屋に伝えられていた唐津焼の「珠取獅子」がモデルになった。 (2)本町の富野淇園が発想した。(モデルの焼き物も富野が作った。) (3)「珠取獅子」の青色がものの始まりを意味することにちなんで、一流商人の京町の町民が好んで選んだ。 「珠取獅子」の塗色の沿革 (1)明治8年の制作完成時は、深緑色でした。 この深緑色は大正10年の第1回塗替えまで、46年続きました。筆者は明治40年生まれなので、大正元年頃からの神祭曳山を記憶しています。「珠取獅子」が造られてから筆者に物心がつくまで40年近く経っています。ですから、「珠取獅子」を見覚えたときは製作当初の深緑色も、多少あせて見えました。 (2)大正10年の第1回塗替えで、赤色(やや朱色がかった)に変わりました。 これは筆者か旧姓唐津中学1年生のときで、当時同級生だった吉田英三君から聞いて、京町曳山か赤色に変わっていることを神祭前に知っていました。 (3)昭和37年の第2回塗替えで、もとの色に近い青緑色に変わりました。 (4)昭和58年の第3回塗替えで、もとの色の深緑色に変わりました。 やはり、赤い珠の上に深緑の狛犬すなわち獅子が乗った姿が、落ち着きと重みが感じられます。筆者が子ども時代から親しんできた「珠取獅子」の感じです。 |
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第13番 水主町曳山 「鯱」 制作年:明治9年(皇紀2536年 西紀1876年) 細工人:富野淇淵 塗 師:川崎峯治 製作から平成10年までの経年数:122年(再製後68年) 唐津城下の外町で火消組みに加入している町のうち、水主町たけが曳山をもっていませんでした。そして、自分たちの町にも曳山か欲しいものだ、という若者たちの声が高まってきました。そこで「龍王丸」という曳山を造ることにしたのですが、同じ頃に江川町で「七宝丸」という曳山を造るという話が出ているのを聞き、しかもその「七宝丸」の先端が龍の形をしているとのことで、急遽計画を変更して「鯱」の曳山を造ることにしたということなのです。 その「鯱」の曳山は、明治9年に細工人の富野淇淵、塗師の川崎峯治と川崎晴房らによって製作されました。鯱は火炎除けの魔力をもっているとされており、屋根の上に置かれてきたものです。水主町の町名が水で始まる町名であるために、火炎とは関係か深いということからも曳山を「鯱」に決めたものとも思われます。 この当時はすでに城内入り口の大手門が撤去されていたので、大きな曳山を造ることになりました。それで曳山「鯱」の尾鰭(おひれ)は3つに分けられていて、鯱が動かせるように工夫されていたそうです。鯱は、尾張名古屋城の天守閣大屋根の棟瓦の両端にも据えられているほどなので、鯱を造ることになったというわけなのです。この当時になると、すでに大手門をくぐるための大きな制限は、ありませんでした。それで、他町に負けないくらいの大きな曳山を造ううということになったわけです。 明治9年の造られたこの曳山「鯱」は、急いで造ったので、紙の張りかたが粗雑で傷みやすく、しかも大きさが大きすぎたので、曳くときの操作が難しく、電柱や町並みの軒先にぶつかることが多かったのです。ですから他の曳山に比べて傷みかたは激しいものでした。そこで、昭和3年つまり昭和天皇御即位の御大典記念の年に、ひとまわり小型の曳山「鯱」に再製しなおそうということになりました。 田中冨三郎氏の話によると、最初は明治9年に造られた大きな曳山「鯱」の塗替えに着手し、「鯱」の表面を剥がしはじめたところ、「鯱」の胴体の全体が壊れはじめたので、これはもう修復不可能と判断して再製することになったということです。そこで、海士町の瓦屋中島嘉七郎氏に再製を依頼することになりました。再製する曳山は、同時代の「鯱」の型を参考にし、胴体は粘土の原型に紙を張り、塗師は輪島の笹杏宗右衛門に依頼して漆で仕上げられました。 尾鰭(おひれ)は木型に紙を張った一閑張りで、昭和4年から5年にかけて紙を張り、昭和5年に漆で仕上げて、新曳山「鯱」として奉納されました。 新曳山「鯱」の製作における中島嘉七郎氏の祈額 昭和3年に新曳山「鯱」の製作を請け負った中島嘉七郎氏は、初めは製作工程が順調に進んだけれど、ある時点まで来ると、このように大きな物を造るのは初めてであり、どのように仕上げればよいのか、何回やりなおしても意に叶わず、途方に暮れてしまいました。そこで、水主町の守り神の大石大神社に三昼夜祈願を続け、その満願の日に、にわかに新たな神示を得て、一挙にできあがったといいます。(古老談) 新曳山「鯱」の一閑張りに要した日数 一閑張りについての詳細は「唐津曳山の歴史」(坂本智生遺稿集)に記されていますが、どの曳山が一閑張りにどれくらいの年月日数を要したかについては、記録がなく、まったく不明です。たまたま古い曳山を廃棄して新曳山を再製作し、昭和5年に完成した水主町曳山「鯱」の例を調べてみると、次のとおりです。 原型を作るのに35日かかっており、これは市内東町在住の瓦師が作りました。 紙張りすなわち和紙を張り重ねて型抜きをするまでが650日(1年9カ月半)で、漆が109日(3カ月以上)です。つまり、曳山製作に要した全日数は794日(2年2カ月あまり)になります。 ちなみに、紙張りは専ら市内の女性たちが公役(くやく)として勤め、漆塗りは能登輪島から笹谷が出張して来て仕事をしました。笹谷は明治時代から唐津地方を丁場(ちょうば)とした塗師でした。もっとも、塗師は輪島に限らず筑後の榎津や地元の者も曳山造りに参加した例が多くあります。 曳山製作に要した経費 昔造られた各町の曳山の製作経費はわかりません。ただ、弘化3年に造られた大石町曳山「鳳凰丸」の製作経費は1,750両であったと伝えられているだけです。再製された水主町曳山「鯱」は4.000円の予算であったけれども、予算を超過したと言われています。 再製された新曳山「鯱」が再製以前の旧曳山「鯱」と異なる点 (1)全体的にひとまわり小ぶりになりました。 (2)両側に耳が付けられました。 (3)頭部の棘(とげ)のような突起が眉の上面だけになりました。 (4)尾びれの先端が前後に開いていたのが、開かないように固定されました。 (ただし、曳山の内部の、尾びれをはずして人が出入りしていた名残りの梯子は復元されて現在に至っています。) (注)明治9年製作の水主町旧曳山「鯱」は、明治9年から昭和5年まで54年間存在していたことになり、再製作の新曳山「鯱」は、昭和5年から平成6年までで64年間存在していることになります。 (注)水主町曳山「鯱」は、昭和50年の100年祭記念の年に台車か新調されましたので、明治9年に製作された台車は、現在は曳山展示場に展示されています。 |
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第14番 江川町曳山 「七宝丸」 制作年:明治9年(皇紀2536年 西紀1876年) 細工人:宮崎和助 塗 師:須賀仲三郎 製作から平成10年までの経年数:122年 江川町は唐津城下の17力町の一つであり、築城時代には武士が居住する組屋敷町でしたが、後には町人も居住するようになった町です。 江川町が曳山に「七宝丸」を選んだ理由としては、江川町曳山製作関係者、つまり製作大工棟梁の田中市次正信と曳山屏風の松竹の絵の作成者である唐津藩絵師の武谷雪渓の2人が、大石町在住であったので、大石町曳山「鳳凰丸」の対の船として龍頭の「七宝丸」を製作した、と伝えられています。 この「七宝丸」は、宝珠、軍配、打出の小槌、隠れ蓑(みの)、隠れ笠、丁子(原文にはありませんが追加しました。)、宝袋、【原文には勾玉(まがたま)とあり。丁子と訂正】、一対の巻物の七つの宝物をもった、龍頭と火炎が特徴の船の曳山です。本格造りのこの曳山「七宝丸」か明治9年にできる以前には、平松文書(安政6年)にも書かれているように、「赤鳥居」と呼ばれる仮造りの「走り山」の時代があり、それは一の宮に続いて、いちばん先頭で曳いていたことが判っています。現在の江川町曳山の「赤采配」は、この「赤鳥居」にちなんだものであり、他町にはない江川町独特のものとなっています。 第1回目の塗替えは昭和3年に行われました。それまで曳山巡行のときに、曳山か家並みの軒先に当たることがあったので、曳山の前方の左右についていた火炎が少し小さく縮められました。第2回目の塗替えは昭和38年に行われました。そのときに曳山の台車を新調し、曳山の名称をそれまでの「蛇宝丸」から現在の「七宝丸」に改められました。 江川町に住んでいる人は、特に曳山を大切にします。江川町は曳山作製のために、町内の所有地を売って資金を調達したという経緯がありますので、曳山を曳くときには大切に取り扱うようにと、代々言い伝えられているとのことです。ですから、江川町の人は神仏の次に曳山を崇敬しており、大切に取り扱って管理しています。曳山展示場には、明治9年製作の幕の端切れと水野公直筆のお稲荷社の額が展示されています。 江川町の曳山行事の特色 (1)曳山を曳くときの掛け声が他町と異なり、「お(よ)いさー」と言います。 (2)お汐井取りは昔からの伝統に基づいて、2日の若潮(満潮時の)を2〜3人の独身の若者が西の浜で桶に汲んでお稲荷社に供え、宵曳山の出発の時に曳山と曳子をそれで浄めます。 (3)女性か曳山を曳くことを禁止しています。 (4)曳山行事の幹部がもつ赤采配(柄が赤色で、これは赤鳥居の名残と思われます)が3本あります。 (5)「七宝丸」の屋根(火炎)の上に登る人は未婚の青年に限られていて、結婚した者は登れないことになっています。 「七宝丸」の造りかたの特色 「七宝丸」は支柱は2本あり、重心か前輪の近くにありますから、舵とりが容易にできます。以前は曳山の幅が広すぎて、電柱や家並みの軒に当たって傷みがひどかったので、昭和3年の改造のとき、幅と長さを縮小するとともに、傘(屋形)の幅も狭められました。「七宝丸」の自慢は、太陽の玉を頂いた屋形と磁器製の龍の歯と爪であり、左右に自在に揺れ動く屋形は「七宝丸」の全体に動きを与えます。船体は木組の一閑張りで、龍の頭と頸は芯まで一閑張りです。 現在の「七宝丸」以前の江川町の「山」 唐津神祭で神社の御神幸が始まったのは寛文3年(平成9年より逆算して334年まえ)です。宝暦13年(平成9年より逆算して234年まえ)、唐津藩主土井公の時代に全町から「傘鉾(かさほこ)山」が奉納されましたが、これは「担(かつ)ぎ山」と言われました。「担ぎ山」は、各町の火消組みが担いで御神幸のお供をして西の浜に向かっていました。 「担ぎ山」から車輪のついた「走り山」に変わったのは、藩主が水野公の時代でした。「走り山」に変わった江川町の「赤鳥居」は常に神前にあって、行列の先頭を進んでいました。当時の記録によれば、まだ「走り山」であった江川町、塩屋町、木綿町、米屋町か郷神幸に従っていて、「わあーっ」と走りだして先行の大名行列や神輿に追いつくと、壊れたところをことことと修理して、また「わあーっ」と走っていました。これを「溜曳き」と言ったそうです。もちろん、囃子は現在の囃子とはちがっていたそうです。そして、これらの「走り山」の後に二の宮が進んでいました。 「平松文書」には、安政6年の御神幸に従った「引山」とその順番について、次のように13町が記されています。 江川町(鳥居)−塩屋町(仁王)−木綿町(天狗面)−京町(踊り屋台)−米屋町(不詳)−刀町(赤獅子)−中町(青獅子)−材木町(亀)−呉服町(兜)−魚屋町(鯛)−大石町(鳳凰)−新町(飛龍)−本町(金獅子) このうち、江川町から京町までは仮役、米屋町は不詳、刀町から本町までは本造りとなっています。 また、この3年後の文久2年の「引山順書」には、先行に江川町(鳥居)と塩屋町(仁王)の仮役、中程に本造リ9台、後行に木綿町(天狗面)と京町(踊り屋台)の仮役、と記されています。列記すると、次のとおりです。 江川町(鳥居)−塩屋町(仁王)−刀町(赤獅子)−中町(青獅子)−材木町(亀)−呉服町(兜)−米屋町(不詳)−魚屋町(鯛)−大石町(鳳凰)−新町(飛龍)−本町(金獅子)−木綿町(天狗面)−京町(踊り屋台) これらの13町のうち、当時すでに現在の本造りの曳山をもっていたのは刀町、中町、材木町、呉服町、魚屋町、大石町、新町、本町の9町ですが、文久2年の時でも江川町、塩屋町、本線町、京町、米屋町の5町には、まだ現在のような造り山はなかったにもかかわらず、「山」を曳いていたとすれば、類似の「山」を持っていたと考えるのが自然でしょう。 |
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(付録1)曳山の製作および修復年表 |
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*昭和3(1928)年の第一回修復は原形の全面改造でした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明治9年にできた水主町曳山「鯱」は急いで造ったために紙張りが粗雑で傷みやすく、大きすぎて操作か難しく、電柱や軒先にぶっつけることか多かったので、昭和3年にもう少し小型にしようと決め、昭和5年にかけて全面改造して奉納しました。昭和5年の神祭から曳き出されました。 (付録2)神田のカブカブ獅子 市内の神田1061番地に、観音像とカブカブ獅子で知られる飯田観音堂があります。カブカブ獅子の雄獅子は前後の長さが50センチで角の長さか23センチ、雌獅子の前後の長さは49センチで角の長さは22.5センチです。獅子の下顎は下方に動くように金具で作られており、人が頭に被って、獅子の内側に取りつけてある取っ手を持ってカブカブと動かすところから、カブカブ獅子の名前がつけられています。カブカブ獅子は、昭和60年1日24日に市の重要有形民俗文化財に指定されました。また、観音堂に安置されている木造の観音立像も、市の重要文化財に指定されています。 唐津くんちでは、11月3日に神田地区の若者たちに担がれたカブカブ獅子が、午前5時に唐津神社に参拝して獅子舞を奉納し、その後、二手に分かれて神田地区の家を廻り、最後に飯田観音堂に落ち合います。明治初期頃までは、神田の他にも町田、菜畑、ニ夕子、江川町、京町などのカブカブ獅子が、神祭のときに神輿の前後に従っていたそうです。 神田のカブカブ獅子か製作された亨和2年は、刀町曳山「赤獅子」か造られた文政2年より17年もまえです。そして、雄獅子のほうは、耳、目、鼻などや頭髪を後方に垂らしているところまで中町曳山「青獅子」にそっくりなので、中町曳山「青獅子」は神田のカブカブ獅子を摸して造られた、という説があります。 神田のカブカブ獅子は大正初期、筆者が小学校に入学する少しまえまでは、神祭のときに神輿の御巡幸(正しくは巡行)のお供に加わっていたということです。しかし、そのとき、他町の曳子の若者たちか面白がって「獅子頭を貸せ」と言ってからかっていました。また、カブカブ獅子が果物屋の店頭で大きな口を開けて、店の人から柿や梨などを一つずつ口の中に投げ入れてもらったりする習慣を、あるとき「物乞いのようだ」と揶揄(やゆ)されたのに憤慨して、神祭への参加を止めるに至ったとも伝えられています。しかし、筆者が子どものときに母から聞いた話では、神祭のとき西の浜で店から果物をもらって、その返礼に獅子舞を舞うのは見苦しいので神輿御巡幸(正しくは巡行)を止めたらどうか、と中傷されたのに憤慨して、神祭に参加しないようになったということでした。 (「まつり再発見」((財)唐津市文化振興財団)25頁参照) |
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(付録3)見借(みるかし)の浮立(ふりゅう) 市内の見借に、庚申祭で知られる猿田彦神社があります。この庚申祭で上演されるのか見借浮立です。浮立とは「風流」の略語とされており、初めは衣服や車力などの上に花などを飾るものを指していましたが、後には囃子ものや鳴りもの拍子で歌舞する一種の雅楽を指すようになりました。浮立は、室町時代に栄えて全国に広まっていきましたが、能が興隆すると衰退して、江戸時代の初期には姿を消してしまいました。しかし、筑前や筑後などの一部地域では残っており、現在でも存続しつづけています。 見借の浮立は囃子と踊りを組み合わせたもので、鐘、締太鼓、男鼓(つづみ)、女鼓(つづみ)、笛による勇壮豪華な囃子と、白鉢巻きに派手な長襦袢姿の男女が踊る優雅絢爛たる舞踊とが一体になっています。踊りは、綾踊り、大黒踊り、牛若丸、猿廻しなど10種類あり、全部演じればたっぷり3時間はかかると言われています。 浮立は、昔から見借の氏神である庚申様への雨乞いや虫追い祈願のために、村人たちが付近の小高い丘に登って、徹夜で笛や鐘を打ち鳴らして踊ったもので、その旋律は山を越え、谷を渡って、唐津の城下まで響き渡ったそうです。 見倍浮立は、現在でも庚申祭のときの旧の初庚申の日に、猿田彦神社に奉納されています。 県内の浮立には、面浮立、行列浮立、踊浮立、太鼓浮立など、いろいろな形がありますが、見借浮立は踊浮立です。踊浮立とは、笛、鐘、太鼓の囃子に合わせて踊るものであり、他の浮立に比べて演劇的な要素か多く、その踊りは、観衆が物語の筋を理解できるような踊りになっています。 特に、見借浮立は岡崎栄華流と呼ばれるものであり、唐津藩の大久保、水野など譜代大名のゆかりの地である三河国の岡崎との関係があったものと思われます。見借浮立の起源は、踊り浮立や庚申信仰の流行が室町時代以降であること、見借庚申社が永禄8年に現在地に移転したこと、現存する浮立の鐘の年号が文政3年または嘉永6年であることなどから推察すれば、おそらく室町時代から江戸時代初期の頃であろうと考えられます。 (「まつら再発見」((財)唐津市文化振興財団)24頁参照) 「第3部」の編集あとがき 本冊子は、編著者戸川鐵叔父様か生前に収集していた唐津神社神祭曳山に関する膨大な資料の一部を編集したものです。「唐津神社の神祭と曳山に関する抄録」の第1部と第2部に編集しきれなかった資料を再追編集したもので、神祭と曳山に関する諸事項の年表と各曳山の説明が編集されています。編著者は明治40年に唐津市山下町3丁目に生まれ、平成11年に帰幽されました。 編著者は、幼少期から晩年に至るまで自他ともに認める生粋の「ヤマクレイジー」で、現在のように曳山に関する情報が豊かでなかった大正初期から、曳山をご自身の目で観て、手で触れて、耳で古老談を聞いて、生の楕報を得て来られました。退職後から晩年にかけては、曳山に関する新しい歴史的事実の発見のためにますます研究心が旺盛になられたとともに、それまでに集積された貴重な資料の成文化に余念がありませんでした。しかし、残念なから、そのすべてが完成されてはいませんでした。 編著者は、曳山の情報収集と研究にはかなり良い環境に恵まれていました。編著者は、唐津神社戸川家の分家の子息であったし、明治維新以前生まれのヤマクレイジーな親や隣家の叔父のもとで成長しましたし、昭和31年から59年の長きに亘って唐津神社の氏子総代を勤めるなどしておられましたので、曳山に関しては、そんじょそこらの曳山愛好家とは比べものにならないほどの豊富で広くて深い情報知識をもっておられました。 そのような貴重な情報をこのまま眠らせてしまうのはもったいないと思いましたので、せめて身内の者だけでも知っておくべきだと思い、不肖私めか編集させていただくことにしました。編集にあたっては、難しい漢語熟語などは現代用語に翻訳し、文語調の文章は口語調に置きなおしましたが、神道用語はそのまま使用することにしました。 末筆なから、本冊子の編集についてご快諾いただいた夫人房枝叔母様、何かとお世話とご協力いただいたご令嬢高塚清子様に深遠なる謝意を表します。 平成19年唐津くんちの日 石井信生(編著者の甥) |
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注:著者の意向を尊重し原文に忠実に載せております。 唐津くんちの曳山囃子に使われるカネですが、ここでは鐘と鉦とが混同して表記されています。唐津くんちでは釣鐘状の鳴り物を使います。つまり鐘が正解です。鉦とは円盤状の鳴り物のことです。 見借の浮立の際に打ち鳴らされる円盤状の銅鑼を鉦と呼べると思われます。(2012.4.10 吉冨寛) |
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