郷土史誌 末廬國

唐津の旧家  旧藩士族の由緒

大島と河村

 大島氏の初代は宝永年中、即ち小笠原家が遠州掛川に在城のころ、「右筆」として仕官し、七両三人口を給せられたことに始る。四代太左ヱ門は天保年中、「紙方奉行」に抜擢され、天保十二年に始る御趣意楮″の事業推進に当ったが、それ以前の、大島氏の動静を伝える記録を見ない。
 唐津藩の紙方事業は水野時代から藩の専売事業となっており、十人町の紙方役所は、水野時代から継続して廃藩時に及んだ。御趣意楮とは、領内に百万本の楮を植付け、紙の生産高を飛躍的に増大して藩財政の窮乏を救おうというもの。
 五代興義は通称を小三太という。元治元年の御家中列座帳によると「中詰」の席で、「御勝手方」勤となっており、拾弐石四人扶持を給せられている。勝手方は、紙方奉行や蔵奉行、普請小奉行などと同格に近い。興義はその後「御金奉行兼本方」となっており、藩の財政機構の中枢に座をしめたが明治三年の藩制改革では「司計大属」となり、廃藩時の藩財政を一手に牛耳ることとなる。
 興義は廃藩後、旧藩の紙方事業を引継いでこれを主宰し、また旧唐津町大年寄の草場三右ヱ門と協力して旧浦方役所を魚会舎と改め、魚会舎を通して、資金の貸付と産物の集荷、販売を行なった。魚会舎は、のちの唐津銀行の母体となる。
 六代小太郎は安政六年の生れ。少年の頃、藩の英学校「耐恒寮」に学ぶが、のちに上京して三菱商業学校を卒業。帰郷して、父の事業を譲りうけ、明治十八年唐津銀行を創業して頭取となる。彼はまた明治十八年から廿三年にかけて県会議員を勤め、呼子県道や渕上から鹿家、福吉に通じる海岸道路の開削に奔走するが、県議はこの一期でやめ、以後は実業に専心し、九州鉄道・唐津鉄道・肥筑鉄道の発起、特設電話・唐津電灯の設立、唐津魚会社・物産会社の設立、唐津開港等々、郷土経済の基礎堅めを行なった。昭和廿二年の暮、八十八才で没。

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 河村氏の初代は天明年中、即ち小笠原家が奥州棚倉に在城の頃、「遠在施役」として仕官した。出身は加賀国とあるので、唐津藩の藩医を勤めた河村氏と同族らしい。遠在施役という役がどんなものか不明だが、棚倉時代の小笠原家には、伊豆国や近江国に領地があるので、このことに関係のある役職か。食禄が中間・馬一疋・籾一俵″となっており、もともとは資産のある家で、かたちだけの食禄を給されたものかもしれない。
 三代目の如茂は通称右輔。鹿児島藩士川井某の長男ということなので、何かの因縁で河村氏に養子となったもの。普請小奉行などを勤めているので、大島氏とは同格の家といえる。
 四代の如寿を元治席順帳でみると、「御坊主小頭」席で、「寺社方下役」勤となっており、七石三人扶持を給せられている。その後の記録では「御徒目付」に昇進しており、明治三年の改革では「司民小属」となっている。司民小属は旧制の「御代官」に当る。
 廃藩後、旧領内にも、新県によって大小区制が実施され、旧城下については、第廿九大区二小区の郭内外″と内外町″に二分された。如寿は内外町の長に任命されており、このことは、たまたま住いが十人町であったからではないか。如寿はその後、町村制の実施にさいし、唐津村初代の村長に選任された。
 如寿の弟に藤四郎がいる。少年の頃、町田の一色塾に学び、長じて多久の草場船山の門に入った。その学業が認められたものか、若年にして旧藩から食禄を給されている。廃藩後、長崎師範学校に学び、ついで上京して明治法律専門学校を卒業、その第一回生である。帰郷後は志を郷土の政界に向け、たまたま佐賀県が長崎県から分離独立するに会し、明治十六年佐賀県会議員に連出されたが一年足らずで退職し、佐賀師範学校設立幹事として県庁の一員となり、師範学校開校後は西松浦郡長に任命された。明治二十三年、国会開設にともない第一回の総選挙が行なわれたが、その折、郷党会(民党)の天野為之に対立して、郡長を辞した河村藤四郎が実利会(官党)から立候補することになる。実利会のスポンサーは、大島小太郎・草場猪之吉等の唐津財界であり、その流れは、実業青年会につながる。
 選挙の結果は僅差で、天野が勝を制し、藤四郎は政界を思い切り、実業界に入って炭坑長、石炭会社社長、銀行諸会社の重役に選任され、各種名誉職をも持ったが昭和四年五月に投した。七十八才である。
 唐津市初代の市長河村嘉一郎は藤四郎の長男であり、大島小太郎の女婿である。東大法科を卒業ののち帰郷して唐津銀行の支配人を勤め、ついで唐津電気製鋼所を双子に設立し社長となったが、昭和四年四月火災にあって工場は全焼、開散の憂き目に会った。唐津市長に選任されるや唐津は他の市に比べ廿年はおくれている″との日頃の認識に基づき、矢つぎ早やに施策を推進し、唐津築港、鏡山登山道路、上水道、松浦橋の移転架橋、材木町裏の埋立、シーサイドホテル・青年学校の設立等等、その業績は今日高く評価されているが、一部には反市長の動きも激しく、一期のみで東京に移住し、昭和十八年東京で没した。五十八才である。 =坂本智生稿=