神田五郎宗次

神田、内田を本拠に活躍
 唐津明神二の宮に祀る
   富岡 行昌 (末盧国 昭和47年12月20日刊より)


 平安末期(十一世紀)から戦国時代(十六世紀)にかけて、西肥前地方に松浦党と呼ばれる武士団が勢力を有していたことは知られているが、東松地方には石志、佐志、神田、波多、有浦、相知等を名乗る武士が時代により盛衰はあったが活躍したことが記録されている。
 中に神田氏は唐津市神田字内田に本拠をかまえ鎌倉時代から戦国中期にかけて活躍している。今回は口伝、伝説等も加えて神田氏にふれることにする。


宗次を唐津明神に祀る

 神田氏が史上に出る奈良時代には長松校一帯は一面の海で桜馬場あたりが砂洲となり玄海の波涛をさえぎっていたと考えられる。神田氏の名が最初に出てくるのは唐津神社の縁起である。
 天平勝宝七年勧請、往古神田五郎宗次依夢想到海辺一箇之宝筐拾得、宗次終尊敬孝謙天皇降詔号唐津大明神(松浦記集成)
 松浦古事記には、この神田宗次を応江五郎宗次としているが、同一人物だと思う。
 平安中期になると松浦を称する豪族がこの地を支配することになる。一般に松浦氏は嵯峨源氏である渡辺綱の四世の孫である源久が延久元年(一〇六八)肥前松浦御厨の検校となり北松浦郡今福の加治屋城に居て松浦氏を称したと言う松浦家世伝が通説である。この久の五男広が神田に館を構え神田氏を名乗ったとされている。従って神田宗次と神田広とは別の血統の人物であるが、広は宗次を崇敬し文治二年(一一八六)宗次を唐津明神の二の宮として祭っているので、神田の名跡をついで神田氏を称したと考えられる。又現在長松校区の住民が唐津神社の祭典に奉仕しているのは、唐津神社が神田氏の氏神社であったことを物語るものである。


松浦党と源平合戦

 松浦党の名が日本歴史に出てくるのは小右記の寛仁三年六月廿九日条に「前肥前介源知は肥前国松浦郡に於て合戦の間、賊徒多く射ち、又進んで一人を生捕り・‥」であるが、この知と久との血縁関係は不明である。以後平安末期の源平の興亡の記録には松浦党の名がしばしば見受けられる。
 保元の乱に上京した源為朝が引連れた鎮西の武士二十八騎の中に松浦二郎がおり、平清盛の士大将に松浦高俊がいる。これは松浦久の養子高俊と思われる。
高俊は平治の乱の折は西光法師の首をはね一の谷合戦にて平敦盛と同じ日に須磨の浜にて戦死を遂げている。
 源平合戦の最後を飾る壇の浦海戦では松浦党は平家方につき参戦したが、一戦も交えず源氏に寝返っている。


蒙古来襲の折の活躍

 松浦党が一致団結して戦ったのは蒙古が我が国を襲った文永・弘安の役の時である。蒙古は文永十一年十月(一二七四)軍船九百、四万で対島、壱岐を襲い、平戸、馬渡に上陸し、松浦の沿岸をうかがいながら博多湾に上陸し、十一月二十日向え討つ日本軍との間に激しい戦いが行なわれた。八幡愚童記には松浦党が活躍し、松浦党多く打たれたりと誌されている。
 この合戦は戦の違いから日本軍は壊滅的な敗北となり太宰府まで後退をよぎなくされたが、蒙古軍はそれを追撃せず、一旦船に引返したが、一夜あけると一隻もあまさず博多湾より撤退している。一般には神風のためすべて沈没したと伝えられているが、当時京都にいた治部少輔勘解由小路兼仲が記した「勘仲記」より誤って伝えられたことで八幡愚童記には当日はしとど袂ぞぬらしける程の雨降れりと記されている。又「元史日本伝」には 「至元十一年十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」とあり、高句麗の「東海通鑑」には「忽敦日、小敵之堅、大敵之檎、策痩兵戦大敵非完計也、不苦回軍、復享中流矢先登舟、故遂引兵還」とあり、大風が吹いたことは書いてない。博多浜での合戦は僅か一日であり、蒙古軍が対島に侵寇してから博多に上陸する間は約一か月。その間松浦半島一帯で松浦党などの激しい抵抗を受けていることが、各種の文献より知ることができる。従って蒙古軍は矢尽き戦意を失って撤退したので、そうさせたのは諸般の状況より見て松浦党の活躍に因があると言える。又弘安の役の折も博多守備について奮戦した武将に松浦党の名があり、大平記には、博多湾に停泊する蒙古船に夜襲かけた状況が画かれている。「上松浦、下松浦の者ども…僅か千余人の勢にて夜討ちにぞしたりけり…」とある。
 また、博多を後退して鷹島、御厨沖、壱岐に寄った蒙古軍船を追って松浦党の水軍は旺んに海戦をいどみ、蒙古軍に大打撃を与え、同七月一日に吹いた大台風のため蒙古軍は殆んど沈没してしまった。これがいわゆる神風。この合戦で松浦党も多く死傷した。戦後行なわれた論功行賞に於て松浦党で自領を離れて戦った者に領地知行が行われた。正応二年三月肥前神崎荘等の分配があったが「此志島文書」に神田五郎糺(ただす)筑前国乙犬丸三分一箱崎執行成直跡と神田氏が功賞をうけていることが書いてある。

 
 神田大明神廟一唐津市神田 西浦





南北朝時代

 松浦党は倭寇としても知られている如く水軍として南朝方、武家方から調法がられている。建武の中興の折は九州探題北条英時の命により北条方につきましたが、朝廷方の探題攻撃には寝返ており。やがて足利尊氏が反乱をおこし九州に走った折は菊池氏と共に多々良浜に尊氏を迎え撃ちながら中途で尊氏に降参して尊氏再起の因をつくった。大平記には「溺手に廻りける松浦、神田の者共、将軍の御勢僅かに三百騎にも足らざるけるを二三万騎とも見なし……一軍もせず旗をまき、冑を脱いで降人にと出でにけり」とあり、この記事によっても神田氏は他の松浦党と共にこの地方の有力な武士であったと言えよう。
 この時の神田氏は神田五郎三郎であることが、石志文書の建武三年三月三日付石志五郎入道にあてた尊氏の菊池討伐軍への催促状で知ることができる。また有浦文書の建武三年六月の斑島源六淳の軍忠状にも立会人として神田五郎の名が出る。

 建武五年南朝方の菊池氏が勢を盛返して行なわれた石垣山の合戦には松浦党の多くは武家方として多くの死傷者を出した。神田彦五郎調(右肩二か所射庇)神田五郎時差(大モモ射庇神田五郎入道後家妙恵代十楽弥三郎、神田山口彦六縦等が死傷者の中に記録されている。
 貞和二年(一三六三)武家方として恩賞の知行として肥前国河副庄の分配を受けた中に神田四郎増が他の松浦党の名と共に出てくる。

 正平十四年(一三五九)南朝方の菊池武光が征西将軍懐良親王を奉じて戦った筑後川の合戦には武家方に神田氏もいた。
 なお、貞治元年九月筑後国長者原合戦には神田高、彦五郎明が戦死していることが松浦家世伝に記されている。
 足利義満が将軍となり、応安四年(一三七一)今川了俊が九州探題となるに至って九州は殆んど武家方となる。了俊の弟仲秋は二万の軍勢を率いて呼子港に上陸したが波多競はじめ松浦党はこれを出迎えた。
 有名な松浦党の会盟は数回行なわれた。至徳四年八月十日(一三八七)の会盟(真疑は判然としない)には神田殿(日向守広)又応氷二十八年八月二十八日(一四二一)の会盟には神田中務系浩の名が出ている。

倭寇松浦党説

は藤原定家の明月記嘉禄二年の記事に起因すると思われるが、これは高麗史高宗十三年六月の「倭金州を寇す」に該当する。倭寇の言葉が高麗史に出るようになるのは蒙古来襲以後で松浦党が本格的に侵寇したのはその頃からだと考えられる。八幡大菩薩の旗をなびかせ、日本刀を振りかざして大陸を征くところ人なきが如き勢でヤバン船として恐れられた倭寇だが、当初は貿易を主として人殺しはしなかったようだ。一三七五年高麗に招かれた名護屋の藤原経光が毒殺されようとして難を逃れた時をきっかけに女・子供まで殺傷するようになった。日本史には記録はないが天授六年(一三八〇)鎮浦ロに侵入し半島奥深い雲峰まで占拠した倭寇の大将阿只抜都(アキバット)は李成桂のため殪されたとはいえ高麗の戦史にその名を留めておるが、これも松浦党の武将だったろうと思えてならない。
 朝鮮国は倭寇の侵冦を防ぐため歳遣舟の制度を設け平和的な貿易を行なったが、歳遣舟を派遣した日本の武将の中に足利将軍や大大名と共に松浦党の名が多く見受けらる。朝鮮国の海東諸国記には一三九六年朝鮮太祖四年の項に「小弐殿管下に源徳あり、丙子の年使を遣わし来る。その事に肥前州上松浦神田能登守源徳と称す。神田の地は谷をなす、城内を去ること三里余、約するに歳壱舟を遣すべきを以ってす」とある。神田氏も盛んに活躍したことがしのばれる。


戦国以後の神田氏

 戦国末期神田氏の名が出てくるのは天正十一年五月三日付の神田能登守の唐津神社に対する寄進状で息五郎の病気平癒に対して、人刀、馬、鏡を神社に寄進している。これが文献に出る最後の神田氏で、波多家の家臣録には神田の名は見えない。文献から消えた神田氏の直系は家系図等により加部島片島の神田家かと思われるが神田氏の建立した天端山長興寺が屋形石にあり、波多三河守の墓碑と称すら五輪石が祀られている。
 なお神田氏の菩提寺は内田山浄聖寺といい、神田西浦の神田廟の参道中腹にあったが、これは神田五郎広が波多永より譲り受けたもので、本尊は観世音菩薩とされ寺沢越中守広正がここに一時埋葬されたと伝えられている。
 神田宗次を祀る神田廟は西浦にあるが、これは幕末の万延元年大庄屋波多国兵衛が霊廟の煙減せんことを憂え、石造の小祠を建てて今日に及び、現在の霊廟の位置は当初より北方に移っておるが、これは昭和二十七年境内整備の折り移したもので、廟堂の地下には木棺の中に白骨が残っていたと故老は伝えている。
 (唐津市史、倭寇史考、松浦叢書参照)


    神田五郎宗次千年祭が昭和四十七年九月十七日、唐津市神田の霊廟で催され唐津市長瀬戸尚氏も参列、式典委員長瀬川利一氏のあいさつ、戸川唐津神社宮司の神事があるなど関係者神田、西浦両家を初め百余人が列席した。このあと唐津市屋形石にある天端山長興寺にある波多三河守の供養塔に参拝した。
 波多三河守供養塔=屋形石天瑞山長興寺境内。