末廬國より
(昭和38年10月20日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

肥前国唐津魚屋町

木屋利右衛門




 ここに記される唐津魚屋町西ノ木屋の母屋は、二十六聖人が殉教の旅路の途すがら一泊した宿として現存する唯一のものである。本稿は奥村武氏が『キリシタン研究』に執筆したものの再録である(医博・福岡住)

 唐津の旧家、木屋、山内家は天正十九年(一五九一)名護屋城築城の際に豊臣秀吉の命に従い、築城材木積運搬船船頭として、泉州堺より唐津に移り来たり、徳川二百六十年間、寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原各藩政時代に苗字帯刀を許され大年寄の家位として大阪の鴻池、博多の大賀、島井、神屋、長崎の末次などと共に豪商の一に数えられた。木屋の一族は本家西ノ木屋を筆頭に分家東ノ木屋・中ノ木屋・裏ノ木屋・角ノ木屋などとして唐津に傘下を張り、連綿として繁栄し今日に至っている。
 本家の屋号は木屋と称し、代々小兵衛を名乗り、現当主は十三代である。天明初年同町の東に分家(現当主山内俊美)をなし、同じく酒造業を営み、現在に至る。酒銘『さよ姫』で、佐賀県酒造組合長をされた有力者である。本家に対し屋号を東ノ木屋と称し、本家を西ノ木屋と称するようになった。その後の分家の屋号も本家の位置より中ノ木屋・裏ノ木屋・角ノ木屋と呼称した。

 西ノ木屋は、戦時中、企業整備で酒造業(醸造高一千数百石)を廃止、戦後は慶長年間の建築の母屋を貸家となし、向いの土地で『西ノ木屋醤油の醸造を創業して今日に至る。
母屋の西隣は、大正年間に上棟された日本建築で、その豪華さは、佐賀県の代表的木造建築で、西ノ木屋当居主の住となっている。富豪西ノ木屋の思惑によって故天野為之博士は衆議院議員となりその地位を得たのである。
 西ノ木屋は、博多の商人、神屋宗湛・島井宗室・松永宗也
などが出入りしていた家で、同家には秀吉関係の古文書、宗湛日記(元本)などを多数蔵していたという。
 西ノ木屋の店舗、屋敷は、南北魚屋町に面し、西は町田川、北は松浦川に面した土蔵造りで、石垣の上に白壁をならべ、平戸の蘭商館をみる観があり、北入口より船舶の出入が容易で、荷を満載した船舶はそのまま屋敷内の蔵に入ることが出来て、屋敷の広さは表入口は間口五間。北裏口十一間である。
京都で捕えられた二十六聖人は、魚屋町の北入口より舟で上陸して材木小屋で一泊したと伝えられるも、小屋でなく、魚屋町の店舗、即ち母屋であったのである。当時の唐津の家としては、最高級なもので、船頭利右衛門は密かに好遇したものである。

  木屋利右衛門
 木屋利右衛門は山内姓にして泉州堺の住人である。豊臣秀吉は大陸侵攻(朝鮮征伐)の基地を肥前国垣副城(波多氏の部将名護屋越前守経述の居城)を改め増城を考え、名護屋城の築城をはじめるため、秀吉の命によって大正十九年(一五九一)名古(護)屋御陣材木積運船頭として唐津大石町に移住した。山内家の祖である。
 朝鮮陣御用意として大船仰付らるる覚(甫庵太閤記)
一、東は常陸より南海を経て四国、九州に到り、海に添いたる国々北は秋田より中国に到りて其国々の禄高十万石に付、大船二艘宛用意可在之事
一、水主之事浦々家百軒に付十人宛出させ、其手其手の大船に可用候、若し有余の水主は到大坂可相越之事
一、蔵納は高十万石に付大船三艘中五艘づつ造可申之事
一、船の入用大形勅合候而、半分之通算用奉行方より請取可申候、相残分は船出来次第請取可申之事
一、船頭は見計ひ次第給米等相定め可申候事
一、水主一人に扶持方二人、此外妻子扶持其之宿々へ遣し可申之事
一、陣中小者・中間は下女扶持其者之宿々へ遣し可申候
是は今度、高麗又は名古屋へ出立候者、不残如此可遣之事
右条々然相違令用意天正廿年之春
摂州・播州・泉州之浦へ令着岸
一左右可在之者之者也
 天正十九年正月廿日  秀吉
           ×
 海上兵站線、名古屋釜山間は我軍の作戦及び兵站上の大動脈なるを以て、其聞、数百艘の船舶を以て往復連絡を図り、次の如く船奉行を命じ、また其船頭に対して飯米六反帆の船に対しては十人づつ宛下されそれを船主の中飯となさしめたり。毛利家文書によると
高麗船奉行−早川長政・毛利高政・毛利吉安
対馬船奉行−服部一忠・九鬼嘉陸・脇坂安治
壱岐船奉行−一柳正盛・加藤嘉明・藤堂高虎
名護屋船奉行−石田三成・大谷吉外二名−船頭木屋山内利右衛門
 木屋山内利右衛門は前記の通り名古屋城築城の際、御陣木材運積船頭、朝鮮出兵の名古屋船船頭と活躍し、唐津大石町に住す(七代山内均斉嘉永元年申四月記)
 唐津大石町は水主町、船宮町、材木町などが隣接し、船木材に関係がある人の住居である。
 大石町の屋敷の外に海運商兼木材商を営む店舗を唐津魚屋町に設置した。この地は大阪・関門・博多より名護屋に至る海路の要衝であった。
 慶長二年(一五九七}京都で捕えられ、長崎西坂で磔刑された二十六聖人は山内利右衛門の店舗(魚屋町)に一泊した。
 元和三年(一六一七)新鮮征伐の虜を利右衛門が送還し、朝鮮国王より礼状を拝受す。
 元利七年(一六二一)大石町で利右衛門ノ子(山内均忠)が生る
 寛永年間(一六二四−四三)名護屋城解体家屋石材、瓦で魚屋町の屋敷の増築をなす。
 承応三年(一六五四)山内均忠(利右衛門と号し、小兵衛ともいう)は大石町を引きあげ増築落成した魚屋町の店舗に移住す。屋敷は表口五間、北入口は十二間である。
 寛文九年(一六六九)海外渡航の禁。耶蘇教の禁によって海運業あまり振わぬを以て酒造業をはじむ。酒銘は「蔵六」
 正徳元年(一七一一)十月二十七日均忠九十一歳で死去す。


註:は管理人吉冨 寛が記す
inserted by FC2 system