末廬國より
(昭和40年3月10日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

唐津 木綿町

牧原・脇山・石井・正田など
 鍛治職の住んだ街
   明治中期は紅灯の町


木綿町が何時の頃から鍛冶屋町とも呼ばれるようになったのか分らないが、もとは木綿町という町名にふさわしい由緒があったかもしれない。元禄の頃には練屋市兵衛という大町人がこの町に住んでいて、平戸の松浦公なども参勤交代の折り立寄っている。
 この町が鍛治屋町とも呼ばれた理由は、町内の半数近くが鍛治職の家だったからであるが、今ではその鍛冶屋も町内には全くみられなくなった。
 木綿町で鍛治職に従事した家は牧原・脇山・石井・正田・大西などの姓の家だが、明治の初年には、牧原姓五軒に脇山姓が七軒、石井・大西の両姓が各三軒に正田姓の一軒となっている。
 牧原・脇山の両家は共に元禄以前にこの町に住みついたもので、牧原家の場合、その家系が岸岳の一族にはじまると説いたり、豊後の刀工・高田河内守や筑前の刀工・信国重宗にはじまるなどともいわれている。


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 木綿町には唐津領内の鍛治職の元締である棟梁が住んだが、この棟梁は一定した家系の相伝ではなく、水野時代には与左衛門という人の名がみえるが姓は分らない。ところで、藩の御用鍛治を勤めたのは代々、牧原安右衛門家らしい。この牧原家は今の長野ブリキ屋あたりで、記録に、
「木綿町鍛治安右衛門用達申付置、郡奉行役所手鎖十手等為致、相応価遣、例年十二月為褒美、青指壱貫文為取申候」とある。


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 今の中道家辺りに益田屋こと大西清兵衛の屋敷があった。この益田屋については記録に
「旅人継人馬之儀日雇頭木綿町清兵衛と申者世話為致来候ニ付五俵弐人扶持宛蔵米にて為取、伝馬役為勤申候……」とある。伝馬役は唐津十二ケ町が負担する公役の一つでもあった。また
「領主入用之節、日雇之者且江戸長崎え遣候町飛脚等、木綿町清兵衛え申付候」ともある。
 益田屋は明治になって、郵便が国営となり飛脚問屋の仕事が出来なくなったので、陸運会社をおこすことになった。


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 益田屋の北隣、今は中道家の屋敷内になるが、ここの姓は古家。畳刺しだったらしく、畳屋伊右衛門という藩の御用畳師の名がみえる。益田尾の南隣で、札の辻に住んだ松尾姓の家は、当時の名物「風呂敷饅頭」の製造元か。


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 唐津明神社の境内にある「鳥居天満宮」はもと、この町の牧原煙草店の辺りに集られていた。天満宮の南側が鍋屋こと吉浦惣平の屋敷で、唐津では数少い旅寵屋。唐津では市中に郷宿と称して、領内の者はそれぞれ、村毎に定宿があったので、旅籠屋は他国の客を相手とした。吉浦家は元禄以前に、豊前中津から移ってきている。明治になって、ここを「鍋荘」と呼んだのは、鍋屋惣平即ち「鍋惣」による。
 この町にはもう一軒、鍋屋と称した森仁左衛門家がある。森家の屋敷は今のあじさいや″辺り。


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 この町の横町筋の、もと券番の辺りが綿屋こと川添茂兵衛の屋敷。綿屋の西隣りが小島屋こと山田丁兵衛の家で、この家は水野時代から蝋燭屋などをやっていた。綿屋の前辺りに合羽屋と称した。高田太次兵衛の屋敷があった。合羽屋は満畠川口出入十品運上″として銀弐貫を納めた有力商人で、町年寄を勤めたこともある。今の券番辺りは瀬戸牧右衛門という人の屋敷があったところだが、ここの屋号も綿屋か。この券番の三階家で料亭をやっていた袈裟丸家は名古屋村から移ってきた人。また、中道家の築山家は市中の東裏町から移ってきた。鍛治の町・木綿町も明治の中頃には絃歌さんざめく紅灯の町となっている。


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 植月の辺りには明治の中頃、魚市場があったそうだが、その植月の北隣辺に西海銀行が創立されたのは明治三十一年のこと。唐津銀行と対立して唐津を二分したこの銀行の重役連の顔振れは、郡部の旧庄屋や地主・網元たち。唐津銀行のそれが旧藩士と大町人だったことと比べて面白い。旧商工会議所の建物は大正の初年、当時の唐津財界有力者をスポンサーとして登場した社交場「自由亭」である。鄙には珍らしいフランス料理店だったが、後年は余り振わなかった。


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 終りに蕃制末の木綿町の町役の顔振れをみてみると
 
   町年寄  大西 清兵衛
    〃   牧原 安右衛門
   組 頭  森  仁左衛門
    〃   吉浦 惣平
 其の後、制度が改められ、
   年行事  大西 清兵衛
   伍 長  脇山 七右衛門
    〃   吉浦 惣平
    〃   石井 常助
 脇山七右衛門は廃藩後、木綿町什戸長を勤めたが、屋敷は小島屋の前辺り、石井常助は今の石井質屋ではないか。



註:は管理人吉冨 寛が記す
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