末廬國より
(昭和39年3月20日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

唐津 刀町


往時の繁栄物語る
曳山赤獅子≠ノ象徴

藩の御用商人たち




 寺沢堅高の時代に書かれた唐津城絵図″には、城下の部分にそれぞれの町名が書き込まれているが、刀町の町名は見あたらない。それに、刀町などという町名は他の城下町にも例がないようなので、もしかしたら、刀町は片ン町ということかもしれない。というのは、そもそも唐津城下の町割は、本町・呉服町・八百屋町みたいに、城内に向って竪(たて)割の町筋が主要なもの、と考えられるから。しかしながら、この片ン町は、名護屋口から大手前に出る重要な道筋なので、領内の経済が発展し、人や物の動きが活溌となるにしたがって刀町となり、水野・小笠原の時代には実質的に唐津十七ケ町の首町となった。このことは、唐津ひきやま″の先頭にたつ赤獅子″に象徴される。
 刀町の富強はすなわち、勝木・石崎・喜田・篠崎の諸氏の富強ということだが、いづれも藩の御用達か御用付商人だったので、廃藩の後、藩の庇護がなくなると、資本主義の荒波に呑まれて姿を消した。もっとも、篠崎氏の場合は例外で、十数代にわたって連綿と、父祖の店舗を守り伝えて今日に至っている。

 篠崎氏の屋号は鬢付(びんつけ)屋。秀吉の朝鮮陣に従って名護屋に下り、陣中で鬢付油の御用を勤めた泉州堺の商人に始まると伝える。刀町の現在地に落付いたのが何時の頃か明らかでないが、元禄年中よりも以前であったことは間違いない。
 篠崎氏は水野・小笠原家の御用鬢付屋を勤めるとともに、時には御勝手方御用達をも勤めており、小笠原の時代には藩の掛屋を勤めた。掛屋のことを唐津藩では判屋とも称しており村々小物成あるいは浦山方諸運上銀当町判屋にて掛改いたし百目ニ付掛入五分宛其上判賃等指出村方より判屋江相渡申候″といった仕事をしていた。
 刀町には篠崎氏の分家が一軒あって、今日もなお現存するが、この家も小笠原の時代には日田御用達を勤めた有力者だった。日田御用達というのは、幕府直轄領の豊後日田の豪商達が、日田代官の権威をかりて九州の諸大名や、大名領の村々あるいは商人達へ金貸しを行っており、この金を日田金≠ニ称したが、この金の世話をする仕事だったらしい。
 両篠崎家はともに苗字帯刀を許されており、特に本家の方は大町年寄に準じた格式を持ち、藩から五十俵の扶持米を支給された時代もあった。


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 勝木氏の屋号は油屋。出自は明らかでないが、寺沢の時代から唐津に住みついていた。水野の時代、勝木定兵衛という人が藩の御勝手方御用達頭をしており、苗字帯刀は勿論のこと、藩から五人扶持を給されている。御用達というのは、藩の需要に応じて諸品を調達した出入商人だが、また、藩の払米を引受けて現金を調達することもあった。いっぽう商売之儀ハ何品ニ不限町方御用達より支配致候″といった特権を持ち、御用達の定員が古来六人であったことから、彼等のことを唐津六町人″と呼んで、一般の商人達は畏れていた。勝木定兵衛は、その六町人の筆頭であったわけである。勝木氏の本業は作り酒屋だったが、船問屋をも兼ねており、屋敷跡は現在のあかほ″店から池田屋の辺一帯であった。
 勝木氏は天保の頃、勝木五郎右衛門・同苗嘉右衛門の二家に分れている。五郎右衛門の屋敷は定兵衛の跡で御定宿″をやっていたが、嘉右衛門の屋敷は現在の宮崎病院のところで、作り酒屋をやっていた。嘉右衛門の酒屋は明治の初めに、筑前深江の人で牧野幸助という人に譲り、その後、材木町の宮崎清太郎が譲り受けて醤油屋をやっていた。


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 石崎氏の屋号は菊屋。屋号の由来は寺沢志州君之御代因献家酒君公太美之賞而賜菊屋号″とある。
 石崎氏の本姓は大河内姓。黒田家で重役を勤めた歴とした侍だったが、故あって浪人、たまたま怡土郡の石崎村に住んだので石崎姓に改めたという。
 石崎氏の一族は市中に七・八軒あって、それぞれに裕福な商人だったが、刀町には中ノ菊屋・西ノ菊屋と呼ばれた作り酒屋と、他二軒の石崎氏がいた。中ノ菊屋は現在の、金華堂支店から米屋町の角までの一帯で、石崎一族でも最も裕福であった。引山赤獅子″を作ったといわれる石崎嘉兵衛はここの人だが、この人は文政四年、同苗八右衛門の三男に生れ、後に中ノ菊屋の常左衛門の養子となった人。この人を引山の創始者とするのは疑問がある。
 西ノ菊屋は現在の唐津衣料センター辺り。明治の末頃には菊屋という旅館をやっていた。
 藩制最後の頃の刀町々年寄は篠崎与市と石崎啓助だが、この石崎啓助の屋敷は、現在では道路になっているが、鶴田文具店の辺りで、本業は藩の御用仕立屋、長州征伐の時には陣羽織や手甲・脚絆などの注文が殺到して大儲けをしたらしい。
 も一軒の石崎氏は材木町の本家菊屋が移り住んだものと思われ、中ノ菊屋の屋敷内にいた。この石崎氏は材木町時代、東ノ菊屋と呼ばれた作り酒屋だったが、後には医者をやっていた。

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 喜田氏の屋号は米屋。屋敷は現在の山口病院の所で、代々作り酒屋。これで刀町には作り酒屋が四軒あったことになる。喜田氏は土井の時代から苗字を名乗っているが、出自など全く不明。
 勝木・石崎・喜田・篠崎氏の他、旧藩時代から現在まで続いている家は、村井・山岡・花田・美麻の諸氏がいる。村井氏は屋号を綿屋と呼び、治右衛門の時代には御勝手方の御用を勤めたことがある。山岡氏の屋号は米屋、明治の初め頃は現在の山口漬物屋辺に住んだが、のちに現在地に移り屋号も妙見屋と改めている。山岡氏は善太−和吉−善助と続いて、善助は町村制施行後最初の町会議員に選ばれた。花田氏は桶師か?。美麻氏は全く不明。


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 現在は刀町にないが、明治・大正の頃まで刀町に住んで有力だったのが戸田・草場・高添・高崎の諸氏。戸田氏は藩の御用呉服屋、屋敷は米屋町からの突当りだったが現在は道路になっている。草場氏は酢屋、屋敷は現在の藤井病院の所、草場藤兵衛は刀町の年行事や十戸長を勤めた。高添氏の屋号は肥後屋、本業は知らないが屋敷は現在の秋田石油辺り、明治になって刀町の惣代を勤めた。高崎氏は現代の香蘭荘辺りで手広く金物屋をやっていたが、もとは大工職ではないかと思う。
 それから、現在の山口漬物屋の所で呉服屋をやっていた宮崎清介は明治の初め菖津村から出てきて、力武薬店の所で呉服屋を始めたが、後に山口漬物店の所に移ってから一流の店になった。(唐津図書館勤務)



註:は管理人吉冨 寛が記す
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