名護屋城址
呼子の西一葦の水を隔てた名古屋村に在る。舟で渡ると僅かに十数分間、渡場から石段を上って更に七.八町行くと、千古颯々の響を伝ふる松林の中に「豊太閤征韓陣営之跡と記された木標が建つて居る。
こゝが文禄年間三百三十年前豊太閤が征明討韓の行営を置いたところ、今点々として石壁残り礎石散在して、天下の大軍を集めた当時の偉大な勢力と、規模の雄大な俤を偲ばしむる。更に眼を放てば筑紫の島山を控えへ、左に平戸半島を指し、前面近く渺波の裡に壱岐対馬を遠く雲煙の彼方に霞む朝鮮を望むのである。
天正の昔鶏林八道を呑まん為に、豊公の陣営を此地に卜したことが三百年後の今日、荊棘長く延ぶるところに佇みて尚首肯されるのである。
天正十年豊臣秀吉師を海外に出さんと謀り其冬西海諸侯に課し大に名古屋に城き以て行営と為さしむ翌文禄元年四月秀吉名古屋に至る、諸軍海陸竝び會す凡五十萬人以て朝鮮に入らしむ、八月秀吉大阪に帰る前田利家留まりて軍事を摂す凡我師の韓に在るもの七年、慶長三年八月秀吉薨す遺令徳川家康をして外師を班せしむ  (海東諸国記)



つはものゝ
夢も名護屋の 麦の秋
帆かけた舟か 遠凪か
  わたしや  チラリト一目でも
  兎にも松風  さわさわと
  エエコノ   鳴した城じや江



名護屋城址
呼子と陸続ではあるが渡船(呼子より賃十銭)するを便とする。言ふまでもなく三百四十年前、豊臣秀吉征韓の大本営として築きし史蹟保存指定地で、百五十有余大名の陣営四哩余に亘って、丘陵起伏せる菜圃の間に散在し、当時の計画の奈何に雄大なりしかを想察し得べく、又本丸天主台跡より遙かに蒼海を隔て、壱岐対馬を望めば風光壮絶、轉た英雄の偉業を追想せしむるのである。付近の広沢寺は太閤の籠姫広沢の局の遺跡で、前庭の大蘇鐵は、清正が朝鮮より土産せし太閤遺愛のもの、天然記念物に指定されてゐる。入口の階段は曽呂利新左衛門の築くところと伝へる。
広沢寺
広沢寺は名護屋城趾山里丸の一端、曹洞宗豊公の別殿として籠姫広沢の局(名護屋越前守経述妹)の居館の在った所豊公大阪帰還後、局は兄越前守の病気看護のため止ったが、兄逝いて局も此処に没した。慶長十四年局の菩提を弔ひ、局の居間を移して建立したのが広沢寺で開山は庭察和尚である、境内には加藤清正が朝鮮から持ち帰つて豊公に献したるを自ら山里の前庭に植えたるソテツあり枝幹龍の如く蟠つて数千枝に分れ根廻り約一丈、幹の周囲八尺高さ一丈に達す。
大正拾参年十二月天然記念物の指定を受けた。