唐津松浦潟



唐津
松浦川を隔て満島と相対し東に虹の松原、西に西の濱松原相続き風光明媚、又海水浴の好適地

北九州鐵道株式會社
水都唐津市

往古より対岸支那、朝鮮に渡る要津として知られ、あらゆる自然の幸と豊富な史蹟と伝説とに彩られた水都唐津の地は、九州の西北部唐津湾に臨んだ新興都市、暖流に恵まれて気候温和、天然の風光に育まれて人情また濃やかにして情緒頗る豊かな水都である。
観光地としての松浦潟

 愈々明るい旅行のシーズンとなりました
春の行楽として美はしき詩の國、伝説の里、唐津松浦潟の御探勝を御紹介いたします

博多或いは佐賀より各二時間車窓の風光に誘はれつゝ何時しか其所は九州の北端玄界灘に突出して壱岐対馬を隔て朝鮮に近接し古来大陸との交通の関門に當れば史蹟と伝説に冨み且つ文字通りの山紫水明正に我國代表的の海岸美を發揮せる九州第一の雄大なる海岸景勝地がある
 唐津松浦潟は即ち是であります

春の朧夜に情緒纒綿たる佐代姫の伝説を窺ひ明けては清澄雄大なる玄洋の風光に接し現た秀吉の雄途を偲び或は又杖を取りて内務省史蹟名勝指定地虹の松原、名護屋城趾、奇勝七ツ釜、立神の勝を探り或は東洋のシエクスピヤ近松翁の墓所を訪れ光秀の三羽烏の一人安田作兵衛の猛勇を偲ぶ殊に霞なす花の舞鶴城は風光繪の如き松浦川の詩韻に和して将に之天下の楽園一朝繁雑の都會を離れ俗塵を洗ひて心氣一轉せんか身は仙界の詩人となりて其旅情を満すに之絶好の楽土であります

 此春の行楽は是非松浦潟の御探勝を御撰び下さい
古 歌

     (萬葉集)
海原や沖ゆく舟を
   かへれとか
ひれふらしけん
   松浦佐代姫

     (細川幽斎)
蝉の羽の衣に風を
   松浦潟
ひれふり山の
   夕べ涼しも

      (紫式部)
沈めけん鏡の影や
   これならん
松浦川の
   秋の夜の月
 
畏くも
観光のため御駕を曲げ給ひし皇族御方々
探訪諸名士
有栖川の宮殿下

伏見の宮殿下

朝香の宮殿下

高松の宮殿下

加陽の宮殿下

梨本の宮殿下

季王世嗣殿下
候  爵 大 隈 重 信卿
子  爵 加 藤 高 明氏
男  爵 岩崎小弥太氏
法学博士 高 田 早 苗氏
陸軍大将 大 迫 尚 道氏
海軍中将 佐藤鐵太郎氏
仏教婦人會長  九條武子女史
文  士 島 村 抱 月氏
政治家 尾 崎 行 雄氏
政治家 佐々木照山氏
実業家 貝 島 太 市氏
文学博士 井 上 圓 了氏
男  爵 田  健次郎氏
愛國婦人會長 下田歌子女史
法学博士 達 部 遊 吾氏
文学博士 加 藤 拙 堂氏
文  士 菊 池 幽 芳氏
文学博士 野 上 俊 夫氏
文  士 巌 谷 小 波氏
政治家 床 次 竹 次 郎 氏
政治家 安 部 幾 雄氏
鐵道大臣 小 川 平 吉氏
画 家 山 内 多 門氏
画 家 吉 田 初 三 郎 氏
文献に表はれたる松浦潟
松浦川河の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾ぬれぬ    大伴旅人

松浦潟佐用姫の子が領巾ふりし山の名のや聞きつゝ居らむ    大伴旅人

海原の沖行く舟を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用比賣      山上憶良

音にきゝ目には未だ見ず佐用比賣が領巾振りきとふ君松浦山   三島王後

玉島や川瀬の波の音はしてかすみに浮ぶ春の月かげ        順徳院

木の間より領巾振袖をよそに見ていかにやすべき松浦佐用姫    藤原基俊

君にもし心たがはゞ松浦なる鏡の宮をかけて誓はむ          紫式部

鰭ふりし昔の人の面影もうつる鏡の山の端の月            細川幽斎

濃緑の木かげ真砂路ふみ行けば五月雨青く虹の松原        前田利定

花をしたふひれふすかたや舞ふ胡蝶                   三千風

染ゆかた領巾振る山や下すゞみ                      言琴子

城跡や古井の清水まづ問はん                       徳川頼倫

麦青し徳川前田陣屋あと                          坪谷水哉

まつら佐用姫石にもなろがわしが思ひは水の泡        潮来風 文政年間

山は富士湖水は琵琶湖海の眺めは松浦潟          門鐵活写タイトル

滝沢馬琴著「佐用姫石魂録」 近松門左衛門著浄瑠璃「朝日顔記」宿屋の段
 ……盲目の此身はいかなる悪業ぞや、夫の後を恋ひしたひ石になりたる松浦潟
    ひれふる山の悲しみも身にくらべては……

謡曲 女郎花抄 ワキ詞 是は九州松浦潟より出でたる僧にて候我いまだ都を見ず 






繪に添へて一筆


 霊峰富士の面影や白扇倒にかかるとか、東海の天浪静かに翠松連理の影を落とすは、是れ嘗て漁師白龍が天の羽衣を抱きしめて、天女が玉の肌をなつかしみし三保の松原ならずや。
鐘声静かなる成相の山下、暮色蒼然たる与謝の海に、萬松一路の長橋をなすもの、是れ日本三景の随一と唱われ、うなる童も伝え聞く浦島太郎が呱々の声をあげし天の橋立ならずや。
 さてまた是れは水郷松浦のほとり、仰げば無限の哀詩を伝えて、今も昔を語りげなる領巾振山の影さわやかに、長汀二里の曲浦をなすは、是れ佐用姫が背の君と儚なき恋を物語りし絶勝虹の松原ならずや。
 世に此の虹の松原、三保、橋立をもて日本三松原と称え、又羽衣、浦島、佐用姫をもて日本三大伝説と為す。
 彼の万葉に伝えたる・・・『この別れの易きを嘆き、彼の会う事の難きを嘆じ、即ち高山の嶺に登り遙かに離れ去る船を望み、悵然として肝を断ち、黙然として魂を銷す。遂に領巾を脱いでこれを振る、傍者流涕せざるなし』と曰われし領巾振山の頂に、一度び立って直下の眼界に此の松原を望む時、海と白砂と松林のスバラしき三重弧線は、碧白緑の色鮮やかに、若しそれ夕陽是れに映ゆるの時んば、紅いの一線其の外輪となって、延々二里の長汀は、驚破や茲に大虹閃々として、磯打つ波に舞うは何?踊るは誰?沖の鴎よ、群れ飛ぶ千鳥よ、さては白帆のゆきかえり、正に是れ日本三松原の白眉として代表的の美しさを示して更らに遺憾なし。
 ひとり虹の松原、領巾振山に止まらず、何すれぞ北九州の沿岸、斯くの如く史蹟と伝説に豊富なるや。見よ西には豊太閤が当年の英雄ぶりを偲ぶべき名護屋城趾あり、東には相模太郎膽甕の如しと唱われし元寇の殲滅地あり。清冽無比の玉島川、芳名輝く名島のほとり、畏くも雄々しき神功皇后が三韓征伐の遺跡を伝えて千古に尽きせぬ御花も実もある幡隋院長兵衛が出生地、今や其の地に一大記念碑を置く。のみならず付近には、芥屋の大門、七ツ釜をはじめとして、十指に余る名景奇勝−此の名勝と古蹟とを結びつつ、西、博多より東、唐津に至る沿岸の一線こそ我が北九州鐵道であり、単に北部九州交通の覇王たるのみならず、又以て全九州周回幹線の一たるべき重要なる交通路である。今や再び本図刻成る、冀くば清鑑をこそ。終わりに臨み北九州鐵道 当局の深甚なる知己の恩を拝謝し、併せて恩師鹿子木猛郎先生のご清福を祈り奉る。

昭和5年初夏 日本ライン蘇江々畔の画室にて
吉田初三郎









松浦川は源を天山及黒髪山より発し相知村の南畔にて二流和合し更に鬼塚村に入りて波多川を併せ煙波洋々北流し唐津市を貫き舞鶴公園下に於て唐津湾に注ぐ流れは十余里、松浦橋は長さ三百六十間日本三大橋の一として有名である。
松浦潟

舞鶴の羽根に身を借る夏の空
雲の浮岳 松浦川   
わたしやチラリと一と目でも
波の高島末かけて  
エエコノ 涼ししい晴ぢやえ


春の観光地
松浦潟

 春は物の旬になり易き松浦の
里に果てなき思ひを海原の彼方に
残す佐世姫の物語 あるは金鎧鐵
壁の秀吉の陣跡 杖引く方に伝説
は尽きず
 虹とまぎらふ白沙の汀には女波
男波の柔らかきリズムの中に貝殻
拾ふ乙女もあり
長伸なる松浦の春は牛の尿の尽ざ
る程に長く且つ静かである