平成17年4月29日
唐津神社春季例大祭
御鎮座1250年祭です
神社の社報に宮司さんがこの1250年と今後のことを書かれておいでで、大変参考になり、また、心に留めなければならないことでしたので、その全文をネット化することに致しました。
29日朝、京町の大幟を立てている時に宮司さんのお許しを頂きました。
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唐津神社社報 第90号 平成17年4月1日 |
御鎮座
一二五〇年祭を迎えて
宮司 戸川惟継
唐津神社がその昔、天平勝宝七年九月二十九日(西暦七五五年)に、唐津大明神の御神号を賜り創祀されてより、本年は真に御鎮座一二五〇年の式年の年を迎えました。爾来、産土の大神として敬神の念篤き、氏子・崇敬者の方々と共に、唐津の里の御栄を祈り続け祭り続けて今日をむかえております。
その間の創祀の頃より、現在地に社地が定まるまでの長きに亘り、松浦の海浜辺りに小祠ありとか申しましても、当時の海浜は今の町田一丁目(旧・汐ノ先)辺りだったであろうと推定されておりますし、ある時は暫く、八百屋町の一隅に鎮座ありしとかと言う伝承等もありますように、多くの神社の創祀の伝承と同じように、唐津神社の創祀も「当社の創祀不詳(つまびらかならず)社伝に曰く、神功皇后その昔三韓へ…」として始まります。その後神田氏の家祖【神田宗次公】の合祀があり、神田地(しんでんち)の寄進があった等々ありまして、しかるべく祭典があり、宮居も整えられて来ました。
こうした歴史の中で、唐津神社が明確に歴史上に認知されるようになったのは江戸期に入る前後の時期から、つまり、唐津の城下町が形成されて行く過程の中で、氏神社でありながら城内に社地が設定され、氏子の神社でありながら、一方では唐津城の守護神としての御神威が尊崇せられ、しかも、御祭神が住吉の三神だから「住吉神社」と呼称されて当然のところ、地名を付して「唐津神社」として祀られている等、実に実務的且つ先駆的・現代的な神社でありましたし、それだけ身近に神社の存在があったように感じられます。
そのような環境の中で祭り続けられ、唐津の城下町が勢いを増して行く中で、やがて曳山の誕生を見ることになります。唐津にとって曳山は「唐津そのもの」と言えます。本年時恰も御鎮座一二五〇年式年大祭を迎えるに当たり、唐津市は隣り合う町村と永年の念願でありました大合併が相成り、新「唐津市」が、今年正月に誕生しました。神社にとりましては、御神恩深きものと感じています。
さて、現在ではほとんど耳にしなくなりましたが、つい最近まで、唐津神社のことは「明神さん=みょうじんさん」と言う呼称で呼び親しまれていました。
ここで、唐津神社の歴史を「由緒書」の通り紹介します。
御由緒
◎神功皇后、三韓へ渡海に際し道中安全を住吉三神に祈願奉る。帰朝の後、御神徳著しきを感じ松浦の海浜に宝鏡を懸げて三神の霊を祀り給ふ。
◎天平勝宝七年(孝謙天皇の御宇・西暦七五五年)時の領主・神田宗次、一夕神夢を得て海浜に至れば一筐の浮かび来る有り。之を採りて開けば一宝鏡なり。之、正しく皇后の捧げ給ひしものならむと畏みて帝に奏聞す。九月二十九日に「唐津大明神」の神号を賜ふ。
◎文治二年(一一八六年)領主・神田廣、社殿を再建し、家祖・神田宗次の神霊を合祀し二ノ宮とす。
◎文安六年(一四四九年)領主・波多三河守親、神田地を寄進し尊崇す。
◎慶長七年(一六〇二年)初代唐津城主・寺澤志摩守は唐津城築城に際し現在地に社地を設定し、社殿を新築し領内の守護神として崇敬せり。且つ城下の火災鎮護として水波能女神を相殿として勧請す。
◎その後、大久保・松平・土井・水野・小笠原の各藩主も祈願所と定め領内の総社として崇敬す。
◎明治六年(一八七三年)郷社に例し「唐津神社」に改称す。
◎昭和十七年(一九四二年)境内拡張・社殿総改築成り縣社に昇格す。
このように、昭和十七年の縣社昇格までの歴史を簡単に記しています。本年、御鎮座一二五〇年祭式年祭にあたり、明治〜昭和にかけての身近な神社の歴史を書き記し、時代時代の氏子の方々の敬神の念篤き姿を顕彰しつつ、更なる繁栄につなげたいと存じます。
徳川幕藩体制下の神社は寺社奉行の取締りの中にありました。これは江戸期の宗教政策上でのことですがそれよりずっと以前、奈良時代にすでに始まっていた神仏習合の考え方が、平安中期から平安末期にかけて「本地垂迹説」として唱えられ、鎌倉期にはその教理が完成し人々の生活習慣の中に根付いていた『仏主神従的思想』をうけて、徳川期もこの生活規範に基づき現実的な宗教政策が執行されていました。簡単に言えば「仏様の御教えが主題で神様の世界は副題ですよ」とでも言える政策の下に、寺院と神社の関係が成立していました。ですから全国の主立った神社の境内、もしくは隣接地には(神様が御仏の御姿になって、この世に顕現せられたという仏像を安置する仏堂があり)僧籍にある方がお仕えされていました。
唐津神社にも、隣接地に「勧松院」と言う寺院があり、『十一面観音』様が御本尊として祀られていました。唐津神祭行列図の中に御駕寵に乗って神幸している人が描かれていますが、この人が唐津神社別当寺院の「勧松院」の僧侶です。神主は三人が馬上にあります。この神主の三人は、三家の神主で、この内二家は明治の御維新の際、神主の名跡を一家に納めて神主を廃し、新時代の先駆者となりました。勧松院は、明治御維新の神仏判然令・廃仏毀釈の中で廃寺となりましたが、崇敬篤き氏子の人々に守られ、御本尊の十一面観音様は、幾度かの遷座を経て、現在は、唐津市西寺町「中臺山大聖院」に安置され、穏やかに唐津の発展を見守っておられます。
さて、明治御維新はその名の通り、これまでの政策を大転換し、全国津々浦々に祀られている「神社」の御神威を以て、維新政府の意向を直接国民に知らせようとして、神社の制度をつくり改めました。端的に言えば、制度として寺院と神社を完全に切り離しました。とは言え、これまで約千年に亘って国民の精神生活を支えてきた形を、号令一下即座に変られる筈はないものの、新政府の意向を受けた神社だけは、一生懸命に新政府の一助になるように努力しました。その一途さが新政府にはかえって負担となり、新政府が目指した神社の新制度は、御維新後程なく骨抜きにされ、その形骸化した制度が今も神社の公式的制度として運用されています。
さて、藩政時代の唐津神社の社地は、旧・唐津城内にあり、日常的に氏子の町々とは隔絶しておりました。これからは、明治御維新後から今日まで神社の維持・発展に尽くしてこられた氏子と神社のことを、現代史的に記します。
一、参道開設
今でこそ神社参道は、それなりに広く国道にも直結し大変便利な道路です。藩政時代の明神小路(参道)は、道幅は狭く又、大手口の国道方面とは城の石垣と堀で仕切られており何のつながりもありませんでした。御維新直後、氏子の人達が先ず最初に取り組んだことは、参道と国道を直結させること、これは即ち氏子の町々と神社を直結させることになると衆議一決して、廃藩置県で県になったばかりの県に(公有水面埋め立て許可)を申請し、これが承認されたので、曳山・氏子が総出で、お堀の埋め立てや石垣切り通しの労力奉仕をして、更に曳山が通れるように道路拡張を進め、お住まいの方々から土地を分けてもらい今に見られる参道が完成しました。完成した参道は、そのまま唐津町に上地し公道として今日に至っております。この時の道路拡張で、更なる先を考慮し曳山倉庫地に活用できるよう、現在の明神ビル用地を参道拡張事業とは別事業で取得しました。これで、神社と町々が直結し、曳山も通れるし…で、一件落着とはなりません。
一、社地の拡張
次に氏子の人達が起こした事業は、社地の拡張でした。それまで唐津くんちの賑わいは、浄泰寺(えんま様)の前付近=新町公園付近に有りました。高もの(サーカス)・縁起物・露店の賑わいはすべて、この界隈にありました。勿論、神社が城内に鎮座していたため、準備・後片付け等前後のことや警衛のこと等のため、神社周辺でのこれら興行が打ちにくかったことが考えられますが、当時の社地から考えますと、社地が狭いというのが正解です。そこで、神社周辺にくんちの賑わいをさせようと、社地の拡張に取り組みました。神社前の(唐津市民会館前庭)民有地を譲り受け境内地とし、ここにサーカス・縁起物などの興行を、広くなった参道に露店という現在のくんちの神社周辺の賑わいが始まりました。
一、社殿総改築
さて、明治御維新・文明開化の勢いを頂き、氏子諸氏の智恵と努力で神社の周辺は活気づいてきました。御維新の大変革期が安定し、世の中は大正期に入りました。ちょうどそのころ、明治期に改築された社殿は、白蟻被害も有り建て替えをする必要に迫られていました。又、神社の制度が出来た時、(郷社)だった社格を(懸社)に昇格させようとの気運が高まりました。そこで先ず最初に取り組まれたのが、会議場・事務所としての「社務所」の建設でした。当時の唐津神社には社務所と呼べる建物は有りませんでした。その上、境内地も狭隘で場所も無い状態でしたので、これもまた近隣の民有地を譲渡してもらって、現在の社務所が、大正十二年に完成しました。と同時に、社殿総改築のため境内北隣の土地を譲渡してもらい、ここにようやく社殿総改築のための基本が整いました。早速、新装なった社務所で社殿総改築のための会議が始められました。唯一とも言える難問は改築のための資金集め、いわゆる寄付金のことでした。と同時に昭和初期の大不況、諸物価高騰等という難題を今回も氏子諸氏は智恵と努力で執り進め、昭和十三年十月九日に、目出度く遷座祭を迎えることが出来ました。とは言え、竣工に至る迄には唐破風は、何とか実現しましたものの、千鳥破風は原材料の高騰と戦時下へ移行していく世情の中、台檜材は移入不可能となり、銅板も不足し始め等々幾重もの困難な状況に陥り、幻の設計図面をのみ残して、設計変更のやむなきに至りました。その後、瑞垣・玉垣等が整えられ、現在の姿に近くなりました。
一、縣社昇格
さていよいよ、縣社昇格への手続きが始められる環境が整い、喜び勇んで県に(当時、神社は県の管轄下にあり、何故か社寺兵事課という課で事務が取り扱われていた。)申請しました。ところが、初めに縣社昇格運動を起こした時より日月が経過し、神社実務の内容が変更されていました。そこで急遽、再び資金集めから起こして、「神饌所」を増築しました。そうしてやっと昭和十七年、終戦で神社制度が廃止される直前になって、念願の縣社昇格が相なり、小笠原公、県知事閣下を始め多くの御来賓の方々御参列の下奉告祭が執り行われました。
こうして、多くの方々の御協賛のもと、数多くの大事業が何ら問題を起こさず順調に遂行出来ましたことは、真に御神恩によることと言うのみならず、氏子各位の日頃の敬神の念篤きを今更ながら深く、強く感じております。
一、戦後
大東亜戦争直後、神社は占領政策の中で、ひょっとしたら(とり潰し)に遭うかも知れない程の、極めて厳しい状況に直面しました。多くの先人達が進駐軍と折衝を重ね、何回かの改正を経て、ようやく宗教法人法の下で神社祭祀を厳修出来ることとなりました。
そのような中、まだ世情が混沌としていた昭和二十六年、福岡市方面から曳山出動のお誘いがありました。史上初めてのことなので、何をどうしたらどうなるのか、手探りしつつであったようですが、(刀町・新町・米屋町)の三台の曳山が意気揚々と出動しました。初めの不安は何処へやら、大評判の裡に第一回の曳山出動が終わりました。
それから四年後の、昭和三十年は、御鎮座一二〇〇年式年大祭。瑞垣・手水舎・神饌所お屋根替え等の大事業が完工しています。昭和五十年には、一二二〇年祭、又、昭和五十年奉祝祭で念願の境内授与所を新築。昭和六十年には、御鎮座一二三〇年式年祭で曳山の祝賀奉曳を始め、神輿庫の新築・外玉垣改修などの記念事業をしました。平成七年には、儀鎮座一二四〇年祭で境内授与所の総改築完成。その間、唐津曳山は幾多のお誘いを受け、国内は東京・大阪・名古屋・宝塚・柳井・福岡・佐賀市などへ、全体を通してみれば全町内の曳山が、最低一度以上は出動しています。又、曳山の海外への出動も、フランス・オランダ・アメリカ(二度)にわたり、それぞれ高い評価を修めております。曳山を考案して実現された多くの先人達の偉業に、ただただ感謝するばかりです。
一、これから
これまで、神社を取り巻く環境は、いわゆる戦前の教育をお受けになった方が多くいらっしゃいましたので、神社を身近に感じておられたように思います。そのような中に有りましたので、氏子の方々の敬神の念に甘えていたように思います。とは言え、一企業として経営優先的に自立する事は不可能ですし、それがもしも可能になったとしたら、それは最早、神社ではありません。宗教法人たり得ないと思います。
戦後すでに六十年を経て、今日の総代様の中には、いわゆる戦後教育をお受けになった方々が多くなりつつあります。今、神社界は過渡期を迎えていると思っています。何をどう変えるべきなのか、変えてはならないものをどう守り如何に伝えるべきなのか等々五里霧中の感ですが、答えはこれまで多くの先代先々代に連なる氏子・曳山諸氏の言葉や御事跡の中に有ると確信しています。これまでのことは、これからのことを予言してくれるのではと思っています。そんなに甘い現実では無いことは充分承知しているつもりですが、先人に範を頂きながら、唐津の里の今の生き様を伝えて参ります。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
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唐津神社御鎮座1250年祭を祝いまして、午前10時より社頭勢揃いいたしました。
新緑に映える曳山は見事なもの。 |
今年は義経の年。
呉服町では曳山フォトコンテストをしておられます。 |
浦安の舞の巫女さんでしょうか。 |
1250年祭祝賀奉曳の模様は後日UPいたします。
また、良い写真がございましたらよろしかったらここに掲載させて頂きたいと思います。
メールでお送り頂きますと助かります。写真提供者の名前を載せたいと思いますが、匿名希望の方はその旨もお書き添え下さい。
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午後から祝賀奉曳
午後1時の火矢の合図と共に一番曳山曳き出し。 |
写真提供 @神田中村様 |
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まさに初夏を思わせる日ざし。
写真提供 @神田中村様 |
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各町祝札を曳山に掲げる。
これは11月本番まで付けておきます。
写真提供 @神田中村様 |
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中町の肉襦袢、11月には変わるそうです。
写真提供 @神田中村様 |
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見た〜ごたる大きな頭です。
我等が県知事!
やはり唐津っ子。
写真提供 @神田中村様 |
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写真提供 @神田中村様 |
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写真提供 @神田中村様 |
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写真提供 @神田中村様 |
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京町、無事に曳き納め、大幟を終い、その後は日浦屋で無事を祝い祝宴を持ちました。
江川町が曳き納め、火矢が鳴ったのが15:57。 |
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異常なまでの暑さの中、無事に曳き終えて、ビールの美味いこと!
カメラを届けてくれた長男達も相伴に預かった。
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先輩方もくんちと変わらず、出てきて頂きました。ありがとうございました。老いも若きも曳山が出ると「おいがおらにゃ曳山ん動かん」という心意気。これでこそ唐津っ子。
取締の挨拶で「20年後の1270年祭にもこのメンバーがこの場所に集えますように」と。「うんにゃ、おいはもうおらんばい。」と先輩の声。
しゃん言わじ、末永く曳山に携わってください。 |
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氏子総代の音頭で
万歳三唱
「京町萬歳・・・・」 |
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唐津神社社報 第90号 平成17年4月1日より |
御鎮座
一二五〇年に思ふ
禰宜 戸川 忠俊
一二五〇年前といってピンと来る方がいるだろうか?これが五〇年前であるとか、一〇〇年前であるとかならば何となく「時代背景」なるものが浮かんでくるし、二万年前とか四五億年前とかであるならば、知り得る情報で想像をふくらまし、イメージすることも出来る。さて、一二五〇年前、日本は奈良時代だった。
唐津神社の由緒書にはこうある「天平勝宝七年(西暦七五五年)時の領主、神田宗次、一夕神夢を得て海浜に至れば一筐の浮かび来る有り。之を採りて開けば一宝鏡なり云々」。よく観光バスのガイドさんが「この神社は神功皇后(じんぐうこうごう)三韓(今の韓国)渡海の折に建てられた神社で…。」と言われるが、これは間違いである。神功皇后は応神天皇のお后様で、歴史年表に照らし合わせてみると、古墳時代に相当する。この神功皇后が渡海の際に、海が荒れぬよう住吉の三神をお奉りし、帰朝した後、その御神徳著しきを感じて松浦の海浜に宝鏡を懸げて三神の霊を祀った。時は流れ、この宝鏡を神田宗次が夢に見て発見し、帝に奉聞したところ、九月二十九日に「唐津大明神」の神号を賜ったのが、唐津神社の起こりである。この年が西暦で言うと七五五年なのである。
さて、この年の前後に何があったのかというと、七一〇年、平城京に都が遷る。七二三年、三世一身法(自分で開墾した土地は三代私有することを認めた法)制定。七四三年、墾田永年私財法(開墾した土地は永久に所有してよいことを認めた法)制定。七五二年、東大寺大仏完成。七九四年、平安京に都が遷る。しかしながら、これらの出来事は教科書で習った歴史であり、「奈良時代」とは教科書の項目でしかない。そして「あん時はキャンやった。」という体験談や「あん時はキャンやったて言いよらした。」という言い伝えが聞けない。つまり現実味が実感できないのである。ゆえに、歴史は学問としてとらえられる傾向にある。歴史を生活の一部と感じている人がどのくらいいるのだろうか。昨今、「歴史は学問であり、今の生活に関係ない。」と言う学生が多いと聞く。 前述の文章の中に登場した神功皇后。この神功皇后と「松浦の郷土」との関係深い話はご存じだろうか?神功皇后が三韓渡海の折に、その渡海がうまくいくかどうか占いをされた場所が、実は今の玉島川。日本書紀には「もし事を成すこと有らば、河の魚釣食えと、因りて竿を挙げたまふに、乃ち鮎を獲つ。時に皇后曰く、メズラシキ物なりと。故れ時の人、その処を名付けて梅豆羅國(メズラノクニ)と曰ふ。今の松浦と言ふはよこなまれるなり。」とある。この神功皇后が立って魚釣りをされた岩「垂綸石(すいりんせき)」は玉島神社の前に存在し、今も伝えられている。しかしながら今日、諸般の事情により、移転の危機に直面している。
現在と過去の結びつき。自分と祖先の結びつき。現代社会と昔の社会の結びつき。今の生活は過去の歴史の上に成り立っているということを実感できる場の一つである神社。唐津神社御鎮座一二五〇年に際し、この神社という空間はこれからも大切に守っていかねばなるまいと、思う今日この頃である。
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