「唐津くんちの歴史」

 唐津市教育委員会 文化課 仁田坂 聡

(志道公民館 歴史講座 平成24年10月31日)


 第ー章 はじめに
  現在、日本には数万に及ぶ祭りが行われている。その中でも祭礼として国の重要無形民俗文化財として指定を受けているのは56件となる。この56件のなかに「唐津くんちの曳山行事」があり、まさに日本を代表する祭りと言える。
 ではこの「唐津くんち」はどのように成立していったのでしょう。他の祭りを参考して考えてみましょう。


 第二章 唐津くんち以前

  第一節 山は神様?

 我が国には山そのものを神とする神体山(しんたいさん)が全国各地にあり、神聖なる場所として人の立ち入りを禁じてきた。神霊の鎮まる聖なる山への信仰は我が国古来のものであり i、ヤマやホコはそのような心意を背景として成立した神の依代(よりしろ)iiであった。

  神は去来すると考えられ、その神が依りつく神座(しんざ)は時と場に対応して変化する。ヤマ・ホコもその一つであり、それが形態や装飾に趣向を凝らした作り物へ展開したのが山鉾である。

 ホコは聖なる柱を意味したといわれる。7年に一度の信州諏訪の御柱祭りは、山から聖なる木を伐り出し、木遣り(きやり)で囃して曳歩き、柱としてそれを神殿の四周に立てるという神事で、御柱は神の依るホコの典型である。ヤマは平安時代の大嘗祭(おおにえのまつり)iiiにおける標山(しのやま)がその典型といわれている。
 このようなヤマ・ホコが山・鉾という祭りの造形として、恒常的に現れたのは鎌倉末期のことで、京都の祇園御霊会であるといわれている。


 第二節 唐津曳山のルーツは京都?

 京都に展開した祇園祭は、崇る御霊を鎮める祭りの一つであった祇園御霊祭が例祭化したものであり、その歴史は10世紀後半にさかのぼるが、山や鉾が祇園御霊会に登場し、それが主役となる新しい祭りすなわち祇園祭が成立したのは14世紀初頭の鎌倉時代末期のことであった。山や鉾が登場する以前の10世紀末から14世紀初頭の京都御霊祭は「風流(ふりゅう)」とも呼ばれた風流拍子吻(ふりゅうはやしもの)だった。この風流拍子物とは疫神を鎮め送る機能を本質とする集団の踊りである。それは趣向の作り物を「出し(だし)」とするホコや仮装のものを中心に踊り巡るものであり踊り手が太鼓や鞨鼓・ササラ等の打楽器系の楽器を打ちつつ踊ること、踊りそのものが拍子(はやし)であることを特色とする芸能であった。祇園祭の山鉾はその出しが発展したものである。出しは本来、それをもつホコ(鉾や笠鉾)が神霊の依りつく聖なる存在であることを示す標(しるし)であった。それが趣向を凝らして楽しむ風流の風潮を背景に肥大化し、山鉾という独自な美的構造物となったのである。山鉾へと変容を重ねるなかで二つの流れがみられる。一つは棒や柱などのホコ本体が高くそびえ立つ鉾への流れ、いま一つは笠鉾にのる出しが横へと広がる山の流れである。そこで出しは鉾では先端の象徴的な作り物となり、山では山形の作り物を骨格とする趣向を凝らした作り物へと発展した。
京都祇園のこの賑わいは、都への憧れとともに各地へ影響を及ぼした。そうした意味においては唐津くんちのルーツは京都の祇園祭にあるともいえる。



第三章 全国の祭り
 京都祇園祭は全国各地の祭りに影響を及ぼしているのは事実であるが、いずれの祭りも祭り行事すべてを模倣しているわけではなく、もともとからあった祭りに京都祇園祭の一部を取り入れ、自分たちなりに解釈し山・鉾・屋台を作り上げていったというのが実態である。そのため全国各地に伝承されている山・鉾・屋台は非常に多彩・多様であり、それこそ祭りごとに特色がある。
 ここでは全国に伝承されている山・鉾・屋台について分類しながら紹介したい。





 ホコ系 シンボル的な出しが柱状の先端などを飾り、またはそれを構成するいわば縦型の作り物であり、鉾型と傘鉾型の二形態に分けられる。



 笠・・・・祇園会の鉾が典型的に示すような柱主体の造型に特色をみせるホコ。

 
京都 祇園祭(youtube) 


 笠鉾・・・・傘状に広がる笠や台の頂に作り物を展開するホコ。


 長崎くんちの笠鉾
(youtube) 
 
高岡の御車山
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もう一つyoutube(こちらは梶さばきが面白い) 



 山系 ホコ系に対し山系は、出しが面を構成する横型の作り物である。いわゆる山車とよばれるものの大半がこのタイプであるが、その形態から、作り山・人形山・飾り山及び灯龍山に分けることができる。

 作り山・・・・人形その他で故事伝説。物語等の一情景を表現する山。祭りの度に趣向を凝らして製作し、終われば直ちに破却するところに特色があり、巨大な山形を背景にするものが多いことも特色となっている。


博多祇園山笠 
 
小友祇園山笠



 人形山・・・・特定の神霊や人物を表す人形を主体とする飾り山。

 
角館祭りの山車(秋田) 

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城端曳山祭り(富山)

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 大形の人形一体とするのが基本形であるが、小形のカラクリ人形を伴う場合もある。趣向が固定し、恒久的で工芸的な造型を特色とする。
 その本質はホコであり、系譜的にはホコ系に類別すべきものである。佐原や沼田の山車にはその痕跡である柱が残る。



 飾り山・・・・山や松社殿などが主体となる山。


 播磨総社一ツ山三ツ山神事

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 灯籠山・・・・灯龍を山車風に拵えた風流灯籠
 北陸や東北にかけて分布するものに特色がみられる。弘前や青森などのねぷたがその代表。


弘前のねぷた (青森) 

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福野 夜高祭り (富山) 

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 福野の夜高祭りでは町々が出す七基の大行燈を中心に中・小合せて二〇基ほどの行灯が町を練る。大行燈は大黒、宝船、御所車といった形の趣向を凝らした高さ七メートルほどのものだが、昔は十一メートルを超えたという。外見はねぶたと同じ風流灯籠であるが、その骨格は笠鉾であり、現に「笠鉾」とよぶ傘型の部分が残っている。つまり笠鉾が灯籠仕立てとなり、鉾頭の出しが巨大化してものといえる。


 囃子系 歌舞伎や舞踊・音局などの芸能が主体となるものであり、芸屋台、囃子屋台、太鼓屋台に分けられる。
 芸屋台・・・・踊りや所作事、歌舞伎狂言などの芸能を演じる移動舞台となる屋台。

長浜曳山まつり youtubeの映像



 囃子屋台・・・・屋台専用の囃子を主とする屋台。屋台本体を豪華に拵えるところに共通性をみせる。

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 鹿沼今宮神社祭の屋台行事  youtubeはこちら

岸和田だんじり祭  youtubeばこちら


 太鼓屋台・・・・鋲打ちの大太鼓を屋台に載せて打ち鳴らす屋台。屋台は四本柱吹き抜けの比較的簡素な構造のものが多い。

新居浜太鼓祭り  youtubeはこちら




 第四章 唐津神社の歴史

 第一節 唐津神社の由来

 唐津神社は唐津地方の産土神を祀る神社で、一ノ宮に「住吉三神(筒底男命・中筒男命・表簡男命)」を、二ノ宮に唐津地方の豪族で神社の創建に縁のある神田宗次が配られている。社伝では天平勝宝七年(755)に創建されたとされるが、実は創建の時期は明らかではない。長い神社の歴史の中で次第に失われていったものと考えられる。寛政元年に書かれた「松浦古事記」には神功皇后により鏡を捧げた伝説と、神功皇后奉納以後神社は衰えたため、霊夢により神田宗次が浜辺で宝筐に収められたご神鏡を御神体とする縁起譚が記述される。信憑性に欠ける書物であるが、こうした話しが流布する何かがあったものと考えられる。この何かには海と密接な関係の中に成立してきた、この地方の歴史と海に活きる人々の環境によるものと考えられる。
 唐津神社の存在は唐津市西寺町の大聖院に安置されている十一面観音像の胎内にある造立銘として
  「奉造立 観世音形像一体
    肥前国松浦西郷唐津社本地堂
    本尊事、・・・(中略) 建徳二年八月四日」
  と記載されたものが初見である。建徳二年(1369)の年号があり、時期的には室町時代にあたる。この時期、唐津地方は武士集団、松浦党により治められていたことから、松浦党の庇護を受けたかもしれない。
 またもともとの位置についても定かではない。そもそも神社というものは寺院や教会など他の宗教施設とは異なり、その場に鎮座することに意義があるものである。しかし、唐津神社の初見資料の時期でも位置は不詳である。唐津神社の位置は昔から今の場所であったのだろうか、それとも異なる場所であったのだろうか。唐津神社には室町時代中期にあたる、文安六年(1449)の源親神領寄進状が伝えられる。その文書には「唐津大明神宮之御所在、肥前国上松浦之西郷庄崎(略)」とあり、現在の位置とはどうも異なるようである。庄崎は「潮ノ崎」とも考えられ、現在市街地南側の丘陵地沿いに「潮ノ先」の字名が残り、比定地の候補ともされる。神社の現在の位置は寺沢氏による唐津城下町形成時に定着したものである。唐津城内に位置することについて、坂本智生氏は「唐津神社は唐津藩の宗廟的存在であり、唐津町とその周辺農村の産土であるが、その神社が城中の真中に位置するといふのは、築城以前からの由緒によるほか、唐津神社を城中に取りこむことで、この土地に馴染みのない寺沢公が領民との親近感を深め、波多氏や草野氏の旧勢力を宥める策略」の可能性を示している。寺沢氏は唐津入部後、波多氏らの家臣を庄屋などに積極的に起用するなど、領民支配体制の堅持を心がけていたことから十分考えられる。以後唐津藩の祈願所とされたが、三の丸に位置することから町民や氏子らの参拝は困難であったが、各町は曳山を奉納し、ご神事に参加することで崇敬の念を表した。


 第二節 唐津くんちの歴史

 唐津くんちは一般的には唐津神社の秋季例大祭を指す。「くんち」は「くにち」が転化したもので「供日」「九日」と書く。現在では十一月三日を中心に前後の日程で開催されているが、昭和四十三年以前は旧暦の九月にあたる十月二十九日、三十日に開催していた。
 神事は江戸時代前期の寛文年間(1661〜1672)に始まるとされるが、確実な記録は宝暦十三年(1763)、土井・水野両藩における引継文書にあたる覚書のなかの文書の一節に
 「一、城内唐津大明神九月二十九日祭礼の節西ノ浜へ神輿の行列御座候故寺社役の内より一人同心・・・相勤目付並組足頭致出候、惣町より傘鉾等差出於西ノ浜角力有之候ニ付代官手代頭組の者立会差出候」
 とある。このなかで神輿の列が西ノ浜へ神幸しているのがわかる。またこの神輿に町より現在の「一関張り」の曳山以前の形態である「傘鉾等」が付き従っているのが確認できる。
 この文書より五十六年後に刀町で一番曳山「赤獅子」が制作される。刀町の石崎嘉兵衛が伊勢参りの途上、京都祇園祭りの山鉾を見たことをきっかけにして制作されたと伝えられている。「赤獅子」以後、現在に伝わる唐津曳山が各町で制作されていったが、京都祇園祭りの山鉾とは明らかに構造は異なる。京都祇園祭りの山鉾は御神体を中心にして、銅懸や前懸、見送りなどの懸装品や欄縁などで美しく飾られている。その時代その時代の最新技術、最先端デザイン、巨財を惜しみなく投入し、「動く美術館」とも称されている。また車輪を設け、綱に曳かれる山鉾以外にも八人程度に担がれ、持ち上げられている山鉾も見られる。
 では石崎嘉兵衛はいったい何をみて参考にしたのだろう。石崎嘉兵衛が京都を訪れたと考えられる時期、つまり赤獅子が製作される文政二年(1819)以前、京都は天命八年(1788)一月三十日に発生した天明の大火より復興途中であった。多くの山鉾が罹災したが、徐々に復興しつつあり、京都祇園祭りも大いに盛り上がっていたと思われる。つまり山鉾の構造ではなく、千年の歴史を有する京都祇園の祭りの「雅」もしくは「風流」を見たのではないか。いずれにしても曳山製作と京都祇園の山鉾との関係は明確ではない。恒久的なヤマの製作と維持と祭礼のあり方に影響を受けたのは事実であろう。
 曳山の順番とその道順についても時代と共に変化が見られる。安政六年(1859)の唐津町大年寄布達には、引山順番
「一の宮、江川町、塩屋町、木綿町、京町、米屋町、二の宮、刀町、中町、材木町、呉服町、魚屋町、大石町、新町、本町」
となっている。このときには一番曳山「赤獅子」から八番曳山「金獅子」までが巡幸に加わっているのがわかる。これから三年後の文久二年(1862)では「当年曳山順序・・・、江、塩、刀、中、材、呉、米、一の宮、魚、大、新、本、紺、木、京、二の官」となり、前回参加していない紺屋町が参加している。まだまだ巡幸の先頭を祓うのは江川町である。現在に残る曳山以前として口碑としながらも、「本町の左大臣右大臣、塩屋町の天狗の像、木綿町の仁王様、江川町の赤鳥居、京町のオドリヤマ」があったことを示している。
 その後、所謂「一閑張り」の曳山が続々と唐津神社に奉納され、今日見られる順序となっていた。


 第五章 曳山の造り






i 山本体をご神体とする信仰は縄文時代若しくは弥生時代からあったと考えられる。「日本最古の神社」と称されている奈良県桜井市に所在する大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪山そのものをご神体として成立した神社であり、今日でも本殿を持たず、拝殿から山本体を仰ぎ見る形態である。また三輪山麓には弥生時代の大集落が形成された纏向遺跡が存在し、出土品より邪馬台国の候補地として挙げられている。

ii 依代 神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体や場合によっては神域をしめす。

iii 大嘗祭 天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。一代一度限りの大祭であり、実質的に践祚の儀式。

山・鉾・屋台の類型、分類

  ホコ系  祇園会の鉾 
  笠鉾  高岡の御車山秩父祭の傘ぼこ 
  ヤマ系  作り山  博多山笠角館祭りの曳山 
  人形山  江戸型山車名古屋型山車、大津祭りの曳山 
ダシ    飾り山  三ツ山神事の山 
    灯篭山  夜高行灯弘前のねぷた 
   囃子系 芸屋台  長浜祭りの曳山秩父祭りの屋台 
    囃子屋台  城端の庵屋台岸和田の地車(だんじり) 
    太鼓屋台  新居浜祭りの太鼓台 


*資料のネット化に際しては、仁田坂聡氏に了解を得ております。また、他サイトやyoutubeへのリンクは管理人吉冨が勝手にやっております。
平成25年11月20日ネット化