|
2008.4.12 メール
山内薬局様、
拝復、
ご指摘のように唐津軌道には蒸気動車も存在していたようで、そうなりますとお送りした画像は唐津軌道の蒸気動車である可能性が非常に高いことになります。画像の背景の山並みなど、現在と比較してみて合致するところがありそうか、お教えください。吉川文夫氏の「唐津軌道の蒸気動車」が極めて有力な資料となりますが、残念ながら私の手元にはありません。本件に関しましては引き続き頭に入れて調査機会を模索していきたいと思います。今後ともよろしくお願いします。
|
2008.4.25
うちの掲示板に次のような書き込みがございました。
初めまして、蒸気動車の事をWebで検索していて寄らしてもらいました。 最近刊行されました「日本の蒸気動車(下)湯口 徹 著」という冊子に唐津鉄道の蒸気動車が載っています。 1915年から計7輌の直立形水平火菅式ボイラーの工藤式軽便汽動車を大阪の市川克三商店より購入したが沿線住民の反対請願などで県からの使用認可は1917年に降りた様です。 問題の写真の車輌は、山内薬局さんの観察の通り石油発動機動車ではなく蒸気動車の方と考えて間違いなさそうです。 但し、上記の冊子に掲載の新製時(?)の写真と比較すると側窓の数が違ったりしているなど外見に若干の相違がみられますが後に改造された可能性もありますので否定の材料にはならないでしょう。 また同冊子の巻末に松浦橋を行く蒸気動車の絵葉書も載っていました。 冊子以外でこの希少な蒸気動車の画像に巡り遇えるとは驚きです。
「日本の蒸気動車(下)湯口 徹 著」を確認しておりませんが、貴重な手掛かりかと思います。
ご報告まで。
2008.4.26
山内薬局様、
御連絡をありがとうございました。RMライブラリーの「日本の蒸気動車(下)」については入手可能ですので、早速みてみたいと思います。いずれにせよ、1911年に唐津軌道が設立された以降に馬匹に代わって石油発動機動車が導入されたものの、どうやら九州電灯時代には蒸気動車が導入されたようです。これが石井忠夫氏のいう「工藤式」新規汽動車のことなのでしょう。これで謎がほぼ解消したような感じがします。引き続き、唐津軌道の蒸気動車については注意していきたいと思います。英国の*******氏には、「日本の蒸気動車(下)」の記載も踏まえて、今まで判明した内容を連絡しておきたいと思います。
|
2008.4.30
山内薬局様、
RMライブラリー103、104の湯口徹著「日本の蒸気動車(上)(下)」を入手しましたので、唐津軌道関係のページのみをスキャンして添付します。
|
以下はRMライブラリー103、104の湯口徹著「日本の蒸気動車(上)(下)」より
3−20.九州電燈鉄道→東邦電力
軌問は当初762mmを予定した*1由だが1067mm、
1900年6月11日満島馬車鉄道(合資会社)として開業。
1911年10月11日唐津軌道に譲渡、1913年11月25日九州電燈鉄道に譲渡され動力瓦斯*2に蒸気を加え、1922年5月17日関西電気に合併。同年6月30日東邦電力に社名を変更したが、その後も一般的に唐津軌道(線)と称し、最大7哩10鎖(11.5km)の延長距離を有した。松浦湾に面した虹ノ松原は名高い景勝地である。
1907年5月16日許可で福岡鐵工所(福岡駒吉・大阪難波)製の石油発動車を馬車に併用しており、1915年以降市川克三商店発売、直立形水平火管式ボイラーの工藤式軽便汽動車を導入した。2軸シングルドライバーの工藤式軽便汽動車が一般鉄軌道で旅客営業に従事した例は、他に篠山軽便鉄道(密閉車体)のみだが、この軌道では1929年度まで第一号〜第七号の7輌*3、1930年度4輌に減少している。製造は北村鐵工所と考えられる(→上巻2−8.参照)。
1917年7月18日付佐賀県知事発、総理・内務大臣宛「汽動車使用認可ノ件」は次の通り。
「九州電橙鉄道会社唐津汽動車構造二係ル当庁稟伺ニ対シ本年五月三十一日監第九三九号ヲ以テ御指令相成候ニ付会社ニ対シ右構造ノ件認可ヲ与ヘ置キ候処今般右汽動車使用願出候ニ付検査ヲ遂クルニ各車輌共構造仕様書ノ通完成シ附属品二至ル迄不都合無之(これなく)本月十一日使用認可候条此段及報告候也」
これからは1917年7月11日認可で使用開始と読めるが、1915年5月17日「蒸汽動力併用願」では「最初弐輌ヲ製作シ実地ニ試用ノ上其適当卜認メタル時ハ全部本動力ニ改ム」。同年9月18日満鳥−浜崎同で試運転、12月10日「佐志延長線内西唐津裏線調書」は「車輌弐台ハ已ニ完成」、認可1年半前に就役*5していた。認可の遅れは 一部道路拡幅(買収)難航で最終土地収用、住民の反対請願*6などが原因である。
1916年12月1日「汽動車構造変更認可申請書*7」での2輌は客室扉を開き戸から引き戸に、機関室と客室の仕切りに左右2個の丸窓(中央に小型姿見つき)を設け、デッキ後部に「簡易ナル手荷物用網枠」を設置し、車体外荷台として瓦斯倫動車*8にはるか先立つ事例である。それ以外は既認可と同一とするが、組立図*9ではホイルペース5−6”、定員22(内座席14)人。客室、機関室とも若干伸びて車体実長16−8 1/2"。伝熱面積も34.54平方呎から51.853平方呎に増加=それだけボイラーが大きくなった。
第42回営業報告書(1916年12月〜17年5月)では車輌総数11(対前期1輌増加)、運転車輌数各月215〜281回、同哩数9,333〜14,663哩、乗車人員32,933〜49,052人とある。1日当りでは1,111人〜1,582人。
1926年4月19日「軌道機罐車ハ逆行運転不可能ナルヲ以テ約一里先ノ終点濱崎迄運転セザレバ引返スコトヲ得ス其不便多大」として工事方法変更を申請し、9月13日認可。「北九州鉄道東唐津駅開業(前年6月15日)により、同駅前で引き返せるよう転車台を設けている。
営業報告書では「機罐車」「汽動車」「汽動車」「発動車」等が混在し、「軌道機罐車」は軽便汽動車および石油発動車の両方を指すかのようだが、統計でも車種分類が不明確で汽動車・発動車を蒸気機関車と誤認、あるいは重複認識した報告もある。
なお汽動車、発動車とも双方向に走行できるが片運車とされ、終点では必ず転車台で転向し救助網も前方にしかなかった。その転車台木製(栗材)桁直径がたったの1.770mm*10なのが泣かせる。
本来北九州鉄道開通で補償買収されるはずが、経営主体が大所帯であり、20分毎運行と便利で利用者が毎期(半年)30〜36万人程度。1928年以降毎期平均1,840円程度の赤字ながら存続し「諸般ノ施設ハ総テ著シク老朽、特ニ松浦川橋梁(302間)危険」として1929年9月6日許可、1930年11月28日廃止された。
*1 谷口良忠「肥筑線沿線地方の鉄軌道沿革史」鉄道ヒクトリアル417号.
*2 明治大正期軌道での石油発動車動力は「瓦斯」とされた 「帝同鉄道年鑑j(1928年5月)では 動力軌間馬力二呎六吋」と誤っているが「蒸汽7、瓦斯倫5」=蒸汽が軽便汽動車、瓦斯倫が石油発動車
*3 1917年3月10日「汽動車耕蔵認可申請追申」での「給水ポンプ及インゼクターノ種類」では1〜3号シャーウード複式.4、5号メトロポ(ママ)リタン単式、6.7号市川商店工業部特製メトロポリタン式.輌数だけなら播州→播丹鉄道と並ぶ
*4 りんし=官庁用語で「合議伺い文書」
*5 中川浩一「日本における蒸気動車の沿革」鉄道ビクトリアル256号
*6 煤烟・火災の危惧、石油発動車導入時上質石油からすぐ低質油を使った経緯等からの反対。1915年12月4日「蒸汽動力併用願ノ儀ニ付追申」では「無煙炭及骸炭(コークス)を燃料トスレトモ仝燃焼シ難キモノナルガ故燃焼不良ナアル時ハ誘燃焼補助トシテ流動燃料ヲ併用ス」。
*7 同書には、「大正5年7月21日付監第一〇六八号許可及大正五年十月六日付佐賀県指令保第六〇一七号使用許可ト同一ノモノ」とある。
*8 内燃動車事例では軌道は磐城炭礦円太郎バス改造車(1925年)地方鉄道では播丹鉄道(1928年)、正式の許可取得は長門鉄道キコハ10(1929年)
*9 図の6個窓は1917年5月12日付「誤記アリ訂正」で窓4個に、伝熱/火格子面積は51,853/1.97平方呎と拡大修正。図面日付の29th,Oct.5.は大正5(1916)年であろう。
*10 工藤式軽便汽動車ホイルベースは5-0/5-6(1,524/1,676mm)、石油発動車は3-9(1,143mm)
|
2−8 工藤式軽便汽動車=市川克三商店発売車−1
市川克三商店は大阪市西区江戸堀南通4丁目から1915年6月立売堀北通6丁目に移転。材料部(のち鉄材却)と工業部があるが本来商社で、小島栄次郎工業所と同様合資会社北村鐵工所/株式会社伊藤鐵工所と契約*1して自社工場と称していた。
最初は大手が手を出さない実用新案「軽便汽動車」で、工藤兵治郎は欧州軽便鉄道での2軸蒸気動車を念頭に、より小型車を開発したと思われ1915年2月20日出願し6月19日登録された。ボイラーは超小型の縦型水管式で走り装置との固着はなく、実用新案登録請求の範囲要旨は次の通り。
ボイラーの下部に鍔のような「取付版(ト)」を付し床の凹みにはめ込み固定*2し、抜き取る際は「緩衝梁(ヘ)」を外し、ボイラー下部に枕木等を入れて持ち上げ気味に支え、車体を反対側に押す。煙突にも途中に鍔と継ぎ目があり、上下が分離できる。機関妻部には「塵除板(ホ)」を付して妻下部とする。
鉄道時報1915年7月31日号「軽便汽動車の発明」は「若し汽罐に故障を生じたる際又は掃除する際容易に客車より分離すべき装置をなせば汽罐は取外して修繕をなす間に客車は別の汽罐を据付けて使用し得る」「大阪人工藤兵治郎氏は初めて之が実用新案の特許を得たり」。
以前深川式車でのメーカー能書丸写しの反省か、「未だ実験を経ざるを以て其効果に就て批評を下す能はざるも又参考とするに足るべし」として、実用新案申請図を引用解説している。
要は両オープンデッキのシングルドライバーで、蒸気機関だから双方向周一速度走行は可能だが、「営業運転ニ際シ後進運転装置ハ無シ線路ノ両終点ニ於テ転車台ヲ設置」「但シ構内ニ於テ換線機*3ノ場合ニ於ケル後進ハ機関室ニ於テナシ得*4」。使用気圧は大型車と同じ160封度/平方吋(11.2kg/cm2)、シリンダは33/4×7(95.25×177.8mm)とオモチャ*5のようなもので水槽は25ガロン(114l)。広告には「建転手兼火夫一名、車掌一名ニテ足ル」とある。
|
|
九州電燈鉄道(通称唐津軌道)は1915年5月17日早々と2輌の試用を申請し、同年8月即日北村鐵工所(メーカーであろう)で軌間762mm試作車試運転が実施された。当時貧弱な大井川木橋(富士見仮構)に軌道を併設し、手押しでの人貨輸送実施寸前の藤相鉄道がこの車輌に着目し、同年10月9日「橋上のみ使用」を石油燃焼で申韻*6。
しかし重量、ホイルペース*7に対し富士見仮橋耐久力不足、車輪フランジ厚が既設線路轍叉部に不適等で認可の見込みがなく11月27日取下げ。改めて藤枝新一大手間使用として申請し、これには支障がなかったが1916年3月17日再度取下げた。
試作車は最終北海道の岸尾木材店運材軌道(留辺薬)に納まった*8とされ、以後の消息はわからない。結局一般旅客営業の軌道/鉄道に採用された「軽便汽動車」は後述九州電燈鉄道/篠山軽便鉄道(密閉車体)と、共に軌間は1067mm、総数8輌にとどまった。
軌道用として定員が16/18(内座席12)人とは、1920年以降自動鐵道工業所(→日本鉄道事業)が発売した自動機客車の12人(立席なし)よりは大きい程度。
北九州地区3フィーターも主なターゲットに想定したと思われるが、主要軌道での蒸気機関車転換は大方終了済で供給タイミングがずれ、この時期新規需要開拓には小型に過ぎたのであろう。
九州電燈鉄道採用車はボイラーが直立型水平火管式に変わり煙室扉も付き、ホイルベースが5−0(1,524mm)、全長も若干伸び、シリンダは同じ、水槽容量40ガロン(182l)。最終(であろう)の2輌はホイルペース、車体長が更に伸び、水槽も60ガロンであった(→3−20.参照)。
市川克三商店は1915年1月〜翌年2月にかけ鉄道時報に軽便汽動車広告を10回以上掲載したが、他に売れた記録は得られない。また伊藤鐵工所製造の篠山軽便鐵道ハニキ3には市川商店は関与しなかったと思われるが、詳細はその項(一3−12.参照)に譲る。
*1 白井茂信「機関車の系譜図(3)」432頁。合資会社北村鐵工所は設立1911年4月、資本金10万円、鉄工業及加工作業、大阪市北区樋ノ口下町/株式会杜伊藤鐵工所は1918年2月、100(払込済25)万円、西区桜島町埋立地丙ノ1=銀行会社要録1920年版。
*2 ポイラーの台枠への装着法は川崎造船所製播州鉄道ロハキ1〜3の逆影響ではないか。
*3 人換の意味であろう。
*4 九州電燈鉄道1915年12月4日「蒸汽動力併用願ノ儀ニ付迫申」。
*5 豆相人車鉄道が動力変更に先立ち購入したボールドウィン製軌道機関車(2.7t)は41/2(鉄道時報1905年3月11日号。臼井茂信「機関車の系譜図」417頁では43/4)×10。
*6 臼井茂信「軽便鉄道機関車誌・静岡鉄道駿遠線(1)」鉄道ファン246号。
*7 市川克三商店最初の広告は写真がなく実用新案申請(側面)図、軌間2-6、定員16人、ホイルペース4-9、満載時重量3.72t、ボイラー水管式。藤相鉄道「工藤式軽便汽動車使用願」では5−0、4.3t=九州電燈鉄道と同じ18人乗りで、別車両である。
*8 小熊米雄「日本の森林鉄道(上巻)」。上記3.72tの試作水管式ポイラ一車であろうが、藤相鉄道が予定した4.3t車は製造さ れなかったか、1067mm軌間に修正→九州電橙鉄道納品かは不詳。
吉川文夫「唐津軌道の蒸気動車」鉄道史料31号
|
|
工藤式軽便汽動車実用新案申請説明図。この図では煙室がないから水管式ボイラーなのであろう。 |
|
|
|