末廬國 174号

秀吉が遊んだ唐津茶屋
  (塚本三郎)

 豊臣秀吉が朝鮮出兵の大本営とした、肥前名護屋城へ滞在するにあたって、上松浦の領主波多氏が「唐津茶屋」を建てている。
 これまでこの茶屋の所在地が何処であったのか、唐津茶屋ということから、その頃の唐津村で「唐津会所」があったといわれている、現在の大石天満宮付近か、あるいは松浦川河口に浮かぶ佐用姫岩を目の前にした景勝地、和多田村先石の地ではないかと言われたりしていたが、確証を得るには至っていなかった。
 ところが今回名護屋城博物館に寄託された、群馬県伊勢崎市の旧家に所蔵されていた六曲屏風絵の「唐津城図」の中に、佐用姫岩を目の前にした所に本号掲載の写真のような柴垣で囲まれた所に茶屋と思われる建物が描かれている事から、ここがその所在地であった可能性が濃くなって来た。
 さらに、名護屋城博物館の学芸員宮崎博司氏の御教示によると、神奈川県小田原市立図書館に保管されている有浦家所蔵の「肥前国唐津城絵図」には、今回発見された群馬本「唐津城図」の中の同じ場所にある建物に「和多田茶屋」と明記されているという。
 しかし、これらは唐津藩大久保民時代の資料であり、『地名辞典』によると「和多田茶屋」は大久保氏が造営と記されており、寺沢氏時代に茶屋があったのかどうかは、資料に乏しく不明だという。
 また『地名辞典』には「小田玄蕃」が豊臣秀吉から拝領した地と記されていて、代々藩主の御茶屋が建っていた場所とあることから、「和多田茶屋」即ち「唐津茶屋」と推定されて、最近同所跡に記念碑が建てられている。
 有浦文書「二一三・浅野長吉長政書状」には「唐津茶屋」と記されているが「和多田茶屋」という名称は藩政期になってからの呼称と思われる。
 さて今回発見された群馬本「唐津城図」は、これまでどこの地の城を描いたものか長い間不明であったという。この屏風絵の所在地であった群馬県伊勢崎市の文化財保護審議会の委員から、名護屋城博物館に問い合わせがあって、始めて当地の唐津城絵図であることが判明したという事である。
 俯瞰技法を用いて描かれた「唐津城図」は、名護屋城博物館の解説では、絵図にある藩の番所の幕に大久保家の家紋である「大久保藤」が描かれている事から、慶安二年(一六四九)から延宝六年(一六七八)間の唐津藩大久保氏時代に描かれたものと思われるという。
 唐津城を中心に描かれた城郭本丸には合わせて十六の櫓と櫓門があり、本丸に天守閣は存在しないが本丸最上段には天守台と六棟の建物が見える。二の丸には藩主の御住居と藩役所の建物があり、三の丸には上級家臣団の屋敷が並んでいる。城下の松浦川河口には上流から川舟によって運ばれて来たと思われる年貢米を藩の役人が検分し、米蔵に運び込む様子などが描かれている。
 城の東側には遠くに浮岳や鏡山、西側には高島、鳥島、大島、手前に城下町を描き写実的な描写は詳細を極め、描かれている人物の多さには驚く。拡大鏡を当てて見ると、「御茶屋」と思われる前の長崎・佐賀街道を往来する人馬や旅人と思われる人物など、また城下を足早に急ぐ武士や町人、行商人や領民など、そして城下の内町、外町の店先を往来するさまざまな人物が生き生きと描かれていて城下の賑わいが伝わってくる。
 また「虹の松原」や「鏡神社」「恵日寺と白糸の滝」「百人町の馬場」「和多田御茶屋」などが描かれている。「百人町の馬場」などは初めて見聞するものであり、外にも新たな発見が出来るかも知れない。
 ところで私は相知の「峯家文書」にある馬場組大庄屋であった向平蔵が、宝暦七年(一七五七)に有浦下組大庄屋の日高氏と共に、唐津界隈の諸           
人に代わり、五穀成就の祈祷(ねぎごと)に英彦山参拝に行った時の日記「英彦山代拝道の記」があるが、この中に帰路を博多から唐津へとり、藩役所に帰着の届けを済まして郷里の馬場村(今の相知町相知)へ帰るとき、里から迎えの馬が船宮まで来ていたが、ここでは馬に乗らず「御茶屋前から馬に乗り」という記述があることから、「唐津茶屋」は船宮より相知寄りの街道筋にあった事が考えられ、佐用姫岩を目の前にして、鏡山が眺望出来る景勝地和多田先石の地ではないかと思っていた。
 この付近の昔の往還は松浦川の川岸に沿っていて、大土井から今の鬼塚駅踏み切りまでの川岸には遠くからでもよく見える高い黒松の大木が並木となっていた。また対岸の旧久里村側の川岸にも同じような黒松の大木が連なっていた。
 しかし昭和四十年代から始まった河川改修と、その後の開発によって松並木は切り倒された。終戦後の昭和二十年代までは今の大土井の野球場や総合グラウンドから和多田排水路までは家は一軒も無く、葦が生い茂った湿地帯であった。満潮時には今の佐賀行きバス通りの市道付近まで潮が満ちて来ていた。
 さて有浦文書に「唐津茶屋」に関する書状がいくつかある。天正十九年と思われる十月晦日付の、地元案内役の有浦大和守宛ての「二〇四・浅野吉治書状」の「追而書」には

 「尚々、於唐津、御茶や御普請之由、御大儀存候」

とあり、天正十九年十月には唐津茶屋の造作中であったことが判る。
 秀吉が初めて名護屋城に入城したのは、天正二十年四月二十五日で、筑前深江から安宅船に乗り、その日のうちに名護屋城に入っている。
 この時出征軍の一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正、鍋島直茂、波多三河守らは同年四月中旬には相前後して釜山に上陸し、破竹の勢いで進撃し、秀吉が名護屋城に入城した時には首都漢城を攻撃中であった。そして五月二日に日本軍は漢城を攻略し入城している。この年の十二月八日に文禄と改元された。
 天正二十年五月五日付「二〇八・山中橘内俊長書状」には、「波多家からの進物献上については目録の通り申し上げました。大変御機嫌よく御朱印発給なされました後日お渡しする事になります。また茶屋造作の苦労なども申し上げました。そこで波多家に馬一疋を下されました。まことに名誉なことであります」。

 「然らば三州御子息藤童殿、御礼ニ参候而可然候ハん哉、不可過御分別候」

とあり、この時期三河守は既に朝鮮に出陣しており、書状の宛先は地元案内役の有浦大和守であるが、三河守の子息藤童殿が御礼言上に名護屋に参上するのが礼儀ではないのかと叱責し、分別を誤まらないようにした方がよいと忠告している。詳しくは徳末甚左衛門尉に言って置きましたと結んでいる。
 この書状によって波多三河守には紛れ無く、実子が居たことが実証される所以である。そして有浦文書「二一三・浅野長吉長政書状」には、
  (読み下し文)
 「唐津御茶屋に於て、太閤様御機嫌能く御膳上がり申し候由、目出度く存じ候。
  随って名護屋にて丸一我等に御流し成され、大造作仰せ付られ候。然らば陸板・ふき板ならびに材木・竹御馳走候て給わるべく候、縄なども成り次第御肝煎り頼み申し候。此の度の儀候の間、別けて精を入れられ候て給うべく候。恐々謹言
   浅弾正
   (天正二十年・一五九二)
  七月廿五日 長吉(花押)
 有浦大和守殿」
 唐津茶屋で一日遊んだ秀吉は茶席の接待を受け、料理を召し上がり上機嫌であった事は大変目出度いことです。名護屋城にてその様子のすべてを我々に御披露なされました。そして「大造作仰せ付けられ候」と言っているので、名護屋城にも茶屋を建てるよう命じたのではなかろうか。大造作と言っているので、これが「山里丸」の茶屋を含めた建物の増築であったのかも知れない。
 山里丸の黄金の茶室は大坂城から船で運んだと言われているが、この黄金の茶室で初めて茶会を催したのは五月二十八日(天正二十年)であった。
     (『神屋宗湛日記』)
 茶屋は田舎風のものがもう一つあったといわれているが、その田舎風の茶室はすべて竹で造られていたということから、書状にも竹を用意するよう申し付けており、唐津茶屋での遊びを大変喜んでから、浅野長政に命じている事から考えて、城郭の建築とは考え難い。
 そしてこの書状の日付けが七月廿五日付(天正二十年)であり、秀吉は大政所(おおまんどころ)の危篤の報に接し、七月二十二日には急遽船で名護屋を発ち上阪している。
 従ってこの造作を秀吉が留守の間に、完成しておくようにと命じられ、その造作の材料は特別に吟味して揃えるようにと、有浦大和守に申し入れている。
 秀吉は大政所の臨終には間に合わなかったようだが、京都の大徳寺での葬儀と満中陰法要を済ませて、再び名護屋に戻ったのが同年十一月三日と言われている。
 この時の帰路がどのような経路であったのかは明らかではないが、九州に入ってからは陸路をとったようで、現在の佐賀市大和町の嘉瀬川に架かる名護屋橋という橋の名は、秀吉がここを渡って名護屋に行った事から名付けられた橋の名という。
 秀吉一行はここで龍造寺隆信の母で鍋島直茂の義母となる「慶汲ッいぎん」から握り飯の接待を受けている。この時の秀吉の出で立ちについて見物衆の物語りとして、
 「太閤は小男にて眼大に朱さしたる如く、顔の色、手足まで赤く、華やかなる衣装にて足中(あしなか)を履かれ、朱鞘に金の慰斗(のし)&tきの大小をさされ、刀の鞘にも足中一足を結び付け、馬上の御旅行也」
という記述が「直茂公譜考補」の中に記録されている。
 これ以後もどのような経路をとったのか明らかではないが、この頃になると朝鮮での戦況は、抗日義兵の反撃に悩まされ、朝鮮水軍の巧みな戦術によって制海権は奪われ、日本軍の兵站輸送は重大な脅威にさらされていた。このため飢えと寒さに馴れない風土の中での戦いに、戦意は喪失し次第に危機的戦況が報告されていた頃であり、秀吉は一刻も早く名護屋に戻らねばならなかったと思われる。
 名護屋までの最短距離となる経路は佐賀・唐津街道であり、有浦文書に出てくる「町切関所」(相知町町切)を通り、名護屋城に戻ったのかも知れない。