末廬國 174.175号

伊勢崎市の唐津城図
  (名護屋城博物館 宮崎博司)

 群馬県伊勢崎市の旧家に所蔵され、現在は佐賀県立名護屋城博物館に寄託されている六曲一双の屏風絵は、一隻が名護屋城を、もう一隻が唐津城を描いたものである。
 所蔵者によると明治初期に伊勢崎藩主酒井氏より譲り受けた際には、それぞれの屏風の名称は伝わってはおらず、一隻が肥前名護屋城ということは知られていたが、もう一双の城はどこの城か不明であった。しかし、海に突き出た半島状の地形に築かれた城と、その右側に流れる川、そして周辺に広がる城下町の配置状況から唐津城ということが判明した。
 屏風の大きさは一六八センチ×三八〇センチ。唐津城を中心に東(右)は、鏡や浮岳方面から、西(左)は西寺町や大島方面まで、和多田後方の山から鳥瞰した構図で描かれている。
 この構図は、例えば内閣文庫所蔵の「唐津城国廻絵図」などに始まる歴代の唐津城下町の絵図(平面図)と同じである。このことから平面の絵図を元に絵師が現地で歩いて得た情報を加味して立体的に描いたものと考えられる。
 遠近法を用いず山頂や雲の合間から城と城下町などの都市を俯瞰した桃山時代から江戸時代前期頃までに見られる描写技法で描いている。制作時期については一七世紀後半か、一八世紀〜一九世紀後か未だ研究すべき課題があり、定まっていない。
 また制作した絵師についても、伝来もなく、画中に落款も署名もないことから不明である。細部に至るまで詳細な描写をしていることから、唐津在住の絵師と考えられるが特定するのは難しいといえる。
 次に、描かれている年代(景観年代)については、@松浦川河口の藩の番所に「上り藤」の紋が見られること、A唐津城水ノ門前の屋形船には「七曜紋」入りの幕が描かれていること、それらから類似した家紋を使用する藩主は大久保氏しかいなく、また画中に描かれた人物の服装、頭髪も元禄期以前の特徴を捉えていることから、大久保氏が藩主であった時期、つまり一七世紀後半の慶安二年(一六四九)〜延宝六年(一六七八)までの景観であると推定されている。
 この大久保氏は、大久保忠隣の改易の後、再び大名として再興され、美濃加納、播磨明石、肥前唐津と転封の度に石高が増え、唐津藩では忠職が八万三千石で入府している。
 また忠朝の代になると、将軍綱吉の元で老中に就任し、唐津藩主の中でも異例の出世となっている。このことは唐津藩政に反映され、領内も活気に満ちあふれ、その豊かな情景をこの屏風絵に周辺の鏡山や佐用姫岩などの名所とともに描いたものと考えられる。
 個別に描かれた描写を紹介すると次のとおりである。

 天主台と上屋敷
 本丸一の曲輪中央には、天守閣は存在せず、穴蔵構造の天主台が描かれている。また、その後方には、唐破風屋根の玄関を持つ御殿が描かれ、瓦葺きの屋根と桧皮葺きの屋根の建物が混在する。これが「上屋敷」と呼ばれた御殿であると考えられる。
 東北大学図書館所蔵狩野文庫の「肥州唐津城之図」には化粧櫓付近に建物が配置されているが、本図には亀頭櫓付近に描かれている。さらに天主台の右側には 「一の門」、その下に二の曲輪は、雲を摸した金粉で覆われているが、はっきりと「総締門(二の門)」が見え、そこから下方には登城坂と「坂口門」が、その横には槍を並べた番所が見える。

 二の丸御住居と厩
 「坂口門」を下るとそこには、藩主の厩が三棟描かれ、厩の前には、藩士と馬、そして藩士から指図を受けている中間と思しき人物がいる。厩のある敷地は広く、馬をつなぎ止める柱や方形状の飼い葉入れなどが見える。
 そして左側には、藩主の住居や藩庁である「二の丸御住居(下屋敷)」が見える。「雁木門」と呼ばれた門を抜けると、大待合いの建物と遠侍と考えられる瓦葺き唐破風屋根の建物、そして、柿葺きの玄関があり、藩の行事を執り行う広間の建物は障子が開け放たれ、内部の青畳が美しい。また藩主が住む桧皮葺き御殿は、海際の一番奥手に描かれ、そこには庭や手水鉢が見える。

 舟入門と米蔵
 二の丸御住居の下方には、腰板を黒く塗った長屋門形式の「舟入門」があり、松浦川を下ってきた米俵を乗せた舟が停泊し、領民が荷揚げをしている。荷揚げされた米俵は、門を抜けると一度山積みされ、その左側にある「御勘定所」の役人によって勘定され、そして、現在の「二の丸御住居」の下にあった「切手門」を通って「米蔵」へと運び込まれている。この一連の描写は単なる米の搬入ではなく、豊かな唐津藩の領内の様子を表現しているといえる。

 二の丸と二の門
 現在は産業道路によって失れているが薩摩堀と呼ばれる二の丸と三の丸を隔てる堀には、擬宝珠を備えた太鼓橋が架かり、その先には桝形の虎口と櫓門形式の二の門が描かれている。二の丸内部は、実際と一区画分が省略されているが、長屋門をもつ武家屋敷が建ち並び、広い庭を暗示させる樹木が多く描かれ、上級家臣の屋敷であることがわかる。また、海際の北の門に向かって米俵を背負った馬と馬子が見え、その先には米蔵があったことが想像できる。


 三の丸

 唐津城西側の三の丸は、城の西側に配置された最も広い曲輪である。出入り口は、南側の大手口、西側の西の門口、北側の埋門口、二の丸の二の門口の四カ所がある。それぞれに重厚な門が描かれているが、なかでも大手門が目をひく。現在この大手口付近(バスセンター)は、堀は埋め立てられ、櫓や門跡の痕跡はなく、大手門の古写真も残っていない。
 しかしこの屏風絵を見ると大久保氏時代の大手門が描かれ、大手門の様子を窺い知ることができるのである。大手口と外曲輪(内町)との連絡には太鼓橋が架かり、大手門前面には桝形の空間が、そして桝形空間の南側には二層の櫓、北側が大手門という配置である。大手門は渡櫓形式の門で、屋根は瓦葺きの入母屋である。一般的ではあるが、唐津城の正面入口として堂々とした構えである。ここを通過すると整然と武家屋敷が並び、町人町とは違った武家の世界となる。
 三の丸は上級から中級家臣の屋敷が主に配置されているが、特にメインストリートである大名小路の区域には、家老クラスの屋敷が存在していた。
 大名小路に面した屋敷は門構えも立派で、左右に警護の者や中間達が待機する部屋をもつ長屋門が建ち並んでいる。敷地内には、檜皮か柿葺きの建物が描かれ、身分の高い家臣の屋敷であることを暗示している。この家老屋敷の南側には、二層の三の丸辰巳櫓が措かれ、その櫓の下には柳堀と往来する小舟が見られる。小舟は町田川から柳堀に向かう舟や、中町の付近で停泊し荷下ろしている舟もある。
 大名小路の中程を北方向に向かう埋門小路の先には埋門と単層の櫓が見える。埋門の右側には、小さな番所が描かれ、中には警護をしている家臣の姿が見られる。同様の番所が二の丸にも描かれており、城戸や小規模の門付近にはこのような番所が置かれていたことがよくわかる。
 埋門の下側の通りは西ノ門小路と呼ばれ、現在の産業通りとほぼ重複しているが、ここの武家屋敷は、大名小路と比べ、簡素な門構えであることから中級クラスの家臣屋敷ということが判断できる。屋敷の前の通りには馬に乗った家臣とそれに続く鉄砲(?)を持った従者が西の門方向に向かっており、緊迫感は感じられない。なんとも平和で、ゆったりとした雰囲気が伝わって来るようである。
 さらに三ノ丸西側には西の門が見られる。西の門は南側向きで、大手門よりもやや小規模のように見受けられる。産業道路沿い県営アパート西側には、この門跡の石垣が残っている。この門の西側と南側には水をたたえた堀が見られる。大久保氏時代の城絵図を見ると、北側は砂地で空堀、南側の坊主町付近が水堀であったことがわかるが、なぜか双方を水堀として描いている。現在、南側の堀が水路となり、わずかにこの屏風絵の様子を伝えている。
 西ノ門小路の中程を南に向かうと唐津大明神が見える。朱塗りの柱が拝殿と本殿の建物であることを暗示している。築地塀で囲まれた境内には、石灯寵と梵鐘が見られる。
 このうち梵鐘は、寺沢志摩守広高が慶長十年(一六〇五)年に唐津大明神に奉納したものであった(「松浦拾風土記」)。
 しかし唐津神社の戸川宮司によれば、この梵鐘は唐津大明神の神宮寺であった歓松院(高松寺)のもので、明治の廃仏毀釈以後、所在が不明という。唐津大明神から明神小路を下ると大手口付近、現在の市役所周辺となる。
 このあたりも中級クラスの武家屋敷が建ち並んでいる。肥後堀の堀端に目を向けると、二層の櫓が見えるが右側の櫓が市役所正面入口に残る櫓台のもので、左側が市役所西側駐車場入り口に残る櫓台のものである。


 内町(外曲輪)
 三の丸の南側に位置する外曲輪と呼ばれた内町は、町屋の区域であるが、その名称からも分かるように、「城の内」という意識で配置された曲輪である。屏風絵の内町は周囲を堀で囲まれ、東側や北側は石垣が築かれている。内町の出入り口としては、城内に向かう大手口、名護屋・呼子方面に向かう名護屋口、郊外の唐津村に向かう町田口、そして外町や佐嘉・長崎方面に向かう札ノ辻口が見られる。町屋は碁盤目状に配置され、大手口に向かって縦方向に東側から木綿町、本町、中町、呉服町、米屋町から八百屋町、新町、そして武家屋敷である弓町がある。
 横方向には、札ノ辻口から西側に向かって寺沢氏時代には横町と呼ばれた京町、紺屋町、平野町。大手口の前面には刀町や八軒町と呼ばれた町屋が広がる。また京町の南側、堀端一帯には藁葺きの百姓屋敷が見られる。
 この場所は、土井氏や水野氏以降になると町屋や下級の武家屋敷となる。また、京町から呉服町が城に向かうメインストリートであるが、通りは縦方向よりも横方向の通りが賑わいを見せている。
 特に木綿町から本町・中町へと向かう横方向の通りは、往来に人も多く、買い物を楽しむ人々が多い。さらに寺院の配置をみると、呉服町の名護屋で端坊と呼ばれた安楽寺、本町には釜山海の寺号をもつ高徳寺、そして名護屋口には、寺沢氏の菩提寺である浄泰寺が描かれている。
 特に浄泰寺は豪壮な本堂が描かれ、内町の中では特別な寺院であったことが想像される。この門前には、物を売る人々の姿が見られ、その前面には藩の番所や武家屋敷が軒を連ねる。
 これら浄泰寺や番屋、武家屋敷など、曲輪の防御性を高める配置がなされていることがわかる。反面、町田口には、大きな櫓門以外万一の備えは描かれていない。門の北側には、染め上げた布がはためく描写が見られる。人通りもやや少なく、商家よりも職人達が多く住んでいた区域だと想像される。