「末盧国」 昭和50年11月20日刊(上)・昭和51年3月1日刊(下)

新史料   十一面観音由来 (上)   善達司 

唐津大明神の本地仏


胎名は南北朝時代


 唐津市西寺町の大聖院に行基御作と伝えられる十一面観音がまつられている。これは数年前まで、舞鶴公園の西側の麓の小さなお堂に祭られていたのであるが、現在お堂はこわされ、この十一面観音像だけが大聖院にうつされているのである。大聖院ではこの像があまりにもいたんでいるので、今年の夏解体修理に出したわけであるが、この時その胎名が日の目を見たわけである。それは唐津の歴史にも関係した貴重なものと思われるのでここに紹介したいと思う。
 まず、胎名は二種類あり、南北朝時代の建徳二年(一三六九)八月四日付のものが腹部の内側に、明治二年五月十九日付のものが背中の内側にある。前者はすでに六百年を経過して一部不明な所もあるが、後者は墨も黒々とあざやかに残っている。
 まず、建徳二年の胎名は次のようである。
 「奉造立 観世音形像一躰
   肥前国松浦西郷唐津社本地堂本尊事
  為金輪聖王王徳 陽万民豊楽 五穀成就 当庄地頭社
  務源奥源税沙弥聖心源授源□源弘源栄 家内子孫繁昌
   建徳二年八月四日
        大領主幸阿
    湛勝  尼明恵
    湛秀  五藤太郎
        藤三郎

        兵藤九郎
    勧進 聖沙門明観
       官師 幸秀
 
この胎名によりまず明らかになった重要な事は、これまで奈良時代の有名な行基の作といわれていたこの十一両観音が、今から六百年前の建徳二年に湛勝、湛秀という仏師により、唐津神社の本地堂の本尊としてつくられたという事である。実は奈良時代頃から神仏集合という考がおこり、その体系されたものとして本地垂迹説が成立するが、それは日本の神々の本地は仏であり、その垂迹が日本の神々であるとするが、この場合、唐津神社にまつられている神々の本地を十一面観音とし、その境内に本地仏をまつる本地堂を建て、その本尊としてこの十一面観音を造ったのである。このような例で有名なものが、天平芸術の典型的優品といれれ、現在大和聖林寺に安置されている十一面観音で、最初三輪神社の本地仏として、その本地堂にまつられていたのが、明治初年の神仏分離の時に聖林寺にうつされたのである。では、次にこの唐津神社の十一面観音をつくるための発起者になったのは誰かというと、それが唐津地方の豪族と思われる幸阿や、その他尼明恵、五藤太郎、藤三郎、兵藤九郎であり、その世話役をしたのが聖沙門明観、官師幸秀であった。
 では、その造仏にあたった湛勝、湛秀とはいかなる人物であったろうか。実は鎌倉初期、中央では盛んに造寺造仏事業が行なわれ、仏師たちは殆んど奈良、京都に定住し、そのためそこには仏師たちの諸流派が分化独立し、互にその系統を保持しつつ南北朝時代にひきつがれていった。その中でも、奈良では興福寺に所属した椿井派(椿井仏所)が中心であり、彼等が時にアルバイトとして東大寺、法隆寺、唐招提寺等の造仏事業に参加した。そしてこの椿井派に南北朝時代に出た人が湛勝、湛秀である。
 特に湛勝は仏師奈良方宰相湛勝として活躍し、椿井派の代表的人物であったが、また地方の註文にも応じて造仏している。特に唐津では文和元年(一三五三)十一月五日、肥前国草野庄鏡神社の本地仏として聖観音やその脇侍像をつくった事が記録に残されている。そしてその十六年後に、今度は松浦庄唐津神社の本地仏として大領主幸阿などの註文により十一面観音をつくったわけである。写真でもわかるように、あたかも天平仏を思わせるように、面相もすぐれ 唐津の文化財としての資格も十分にそなえていると思われる。実は、次号でその全文を紹介するつもりであるが、明治二年五月十九日の胎名の中に、わざわざ行基御作と墨書し、さらにうすくなった建徳二年の胎名の上部に行基菩薩御作と加筆までしている。
 その一方、明治二年の胎名の中にこの観音像が建徳二年につくられ、今、解体修理をする明治二年まで四百九十九年を経過していると記している。この時の仏師中野定七光則なる人物は、建徳二年の胎名を読んでおりながら、なぜこのような矛盾をおかしたのだろうか。またこの時の世話役として、小笠原中務大夫源長国、寺社奉行高原惣左衛門など、錚々たる人物までこれに関係しているのである。
 さて最後に、胎名の肥前国松浦西郷についてのペると、平安時代に現在の東松浦郡全域は松浦庄という庄園で、その所有者(本家、領家)は中央の貴族であったが、鎌倉時代に入ると、京都の最勝光院へ、さらに正中元年(一三二四)に院から東寺へ寄進されている。しかしこの広大な松浦庄も、実は鎌倉初期に分割され、松浦川より東、即ち浜崎、玉島、鏡などが鏡庄(草野庄)として分離し、以後この地域を松浦東郷とよんだ。そして
 松浦川より西を松浦西郷とよぶようになったが、現在の唐津、呼子、鎮西、肥前、玄海の市町などがこれにあたり、平安時代からの松浦庄のひきつぎである。正応五年(一二九二)の佐賀の河上神社文書によると、当時の松浦西郷の総田地四百十町、松浦東郷の総田地三百九十八町であった。唐津社は勿論松浦西郷に属するわけであるが、これを唐津大明神とよぶようになったのは後世の事であろう。ちなみに明治二年の胎名には「この観音像は肥前国上松浦郡の唐津大明神の本地仏である」と記している。(以下次号)


唐津大明神のこと
松浦古事記と松浦拾風土記より
 神功皇后三韓征伐の節西海蒼々として船路静かならず其時皇后天に向はせられ祈念し給ふに我朝神国のしるしにや海上忽然として浪穏やかになりければ船路安安と三韓平定なり給ひ帰朝の後此所に勧請なさしめ給ふ神所とかや。〔前略〕宗次公直筆の文あり紙の性朽ちて切れ切れに成りし故文詞の続き定かならず其外古き証書数多ありけれども寺沢兵庫頭殿の家中の者拝見して其儘に返さず紛失せり。



新史料   十一面観音由来 (下)   善達司
廃物毀釈で受難


 昨年五百年ぶりに世に出た唐津西寺町大聖院の十一面観音の胎名について、前号でその一部を紹介したわけであるが、これによりこの十一面観音が建徳二年(一三七一)湛勝、湛秀により製作され、また唐津社の本地仏として当時の唐津の豪族達により寄進された事が明らかになった。ここで重要な事をつけくわえると、唐津という地名が何時頃から使用されたかについて、明らかに郷土の古文書の中に出てくる最古のもの、一つがこの十一面観音の胎名、即ち「肥前国松浦西郷唐津社本地堂本尊事」という文である。実はこの三年前の正平二十三年(一三六八)の有浦文書にも唐津という字が使用されている。これは佐志授(与三)と千々賀五郎が馬渡島について争った事をのべた文書であるが、この二つの史料が唐津という字を使用した現存する最古の文書ではなかろうか。
 さて次に、「当庄地頭社務源奥源祝沙弥聖心源授源弘源栄家内子孫繁昌」という文について述べると、源奥、源祝、源授、源弘、源栄など、みな佐志一族の人々であるが、特に祝と授がその代表的人物であった。彼等は松浦党として源姓を名乗り、また一字名を特徴としている。まず南北朝時代の建徳二年頃の唐津地方の政治状勢を考えると、松浦庄はすでに有名無実化し、その最高領主である東寺の支配権は殆んど喪失し、一方、南朝方の菊池氏と、北朝足利方に属する松浦党などの激しい戦が続けられていたが、大保原の戦で足利方は惨敗し、ついで康安二年(一三六二)筑前国片岡の戦で当時上松浦党の、また佐志一族の指導者で、また祝の父であった佐志披が、その長子強と共に戦死してしまったのである。これは足利方にとっては勿論、佐志一族にとって大打撃であった。以後、南朝方菊池氏の勢力は全九州をおおい、足利方について活躍してきた佐志族はダウン寸前になり、これを機会に今までの佐志一族の本家として活躍した披家に対して分家の反抗がおこり、父披の跡目についだ祝の地位も不安定であり、佐志一族はお家騒動で四分五裂の状態になりつつあった。これはまた上松浦党内に於ける佐志一族の地位の低下にもつながってくる。建徳二年(一三七一)とはまさに足利氏にとっても、佐志氏にとってもドン底の状態であった。因みに建徳という年号は南朝のものであり、これによっても唐津地方が南朝菊池氏の支配に屈服していた事が思われる。このような情勢を考えた時に、まさにこの十一面観音は単に唐津社の本地仏としてつくられたというより以上に、ドン底にあえぐ佐志一族が再び祝家と、祝に協力的であった分家の授家を中心として統一をなしとげ、かつての繁栄を回復し、更に発展するように神仏に祈りをこめて製作寄進されたものがこの十一面観音であったと思われるのである。そしてこの建徳二年は北朝年号で応安四年にあたり、くしくも此の年、足利義満は九州に於ける足利方勢力の挽回のために、室町幕府の第一級の人物である今川了俊を九州探題として九州に派遣し、その先陣として弟の今川仲秋が建徳二年十一月十九日、呼子に上陸したのである。佐志一族をはじめ、上松浦党の各家は競って仲秋のもとに集まり、南朝方菊池氏に対する総反撃が開始され、やがて大宰府から菊池氏を追払う事に成功したのである。これで佐志一族も息を吹き返し、そのお家騒動も、祝が北朝より大和権守に任ぜられる事により、祝家が佐志一族の本家としての権威が確立し、さらに授の子の勇が祝家の養子となる事によりそのお家騒動は最終的に落着し、佐志家は団結して、次の室町時代における唐津地方最大の武士団として発展していくのである。「家内子孫繁昌」と祈って、この十一面観音を寄進した甲斐があったといえるのではなかろうか。また「当庄地頭社務源奥」について、源奥すなわち佐志奥が松浦庄の地頭であると同時に、唐津社の社務という地位にもついている事は、草野氏が鏡神社の大宮司であると同時に鏡庄(草野庄)の支配者でもあった事と考えあわせる事が出来よう。すなわち地頭としての政治的権力と、社務としての宗教的権力をあわせもつたような形での支配形態が、松浦圧でも佐志氏により成立していた事は興味のある問題である。
 さて、次に明治二年の胎名を紹介する。
  奉 彩色観世音形像一躰
          行基御作
 抑肥前国上松浦郡唐津大明神本地垂迹之ニテ永ク鎮護奉ル


 方今御一新之折柄御廃止候ニ付 吾儕生慈悲深ナルオエンヤ
 右趣者 為金輪聖王天長地久
 南無大慈大悲観世音菩薩宝祚長久五穀豐登万民快楽寺内繁栄祈候
 時ニ建徳二年至明治二己迄凡 四百九十九年
  明治二己年五月十九日
   中台山大聖院江安置ス
   山奇陽産現住法印鳳瑞代
  御領主 小笠原中務大夫
      源長国
   寺社奉行 高原惣左衛門
   寺社下役 佐野菅右門
        湯浅慎治
        緑川金蔵
    久留米産
     仏師 中野定七光則


      講中施主
      新町
       石田伊左衛門
      呉服町
       峯 新平
       刀町
       篠原興一  (篠崎與一と思われる)
       戸田栄助
       勝木惣助
       楢崎徳兵衛