唐津神社考

唐津神社社報1号より

 唐津神社由緒
 御祭神

一ノ宮 住吉三神

底筒男命(ソコツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツオノミコト)、表筒男命(ウワツツオノミコト)

二ノ官 神田宗次(コウダ ムネツグ)、相殿 水波能女神(ミズハノメノカミ)

 神功皇后三韓を征し給ふや、西海茫々として一望際なく舟師向ふ所を知るに由なし。時に皇后「願くば一条の舟路を示せ」と住吉の三神に祈り給へば間もなく風波治まり、凱旋の後神徳著しきを感じ松浦の海浜に鏡を捧げて三神を祀り給ふ。然るに其後数百年を径て漸く衰頽し社殿自ら廃滅に頻せんとする時恰も孝謙天皇の御宇地頭神由宗次一夕神夢を得て海浜に至れば、一筐の波に浮び来るあり。之を採りて開けば一宝鏡なり。これ正しく皇后の祀り給ひし宝鏡ならんと驚き敬ひて時の帝に奏聞す。朝廷神徳を感じ詔命を下して「唐津大明神」と賜ふ。時に天平勝宝七年九月二十九日なり。爾来郷党の崇敬加はり文治二年神田広に至り社殿を再建し、祖先神田五郎宗次の功を追慕し其の霊を合祀して二の宮とす。文安六年領主波多三河守親田地を寄進して尊崇す。
 慶長七年寺沢志摩守広高唐津築城に際し現在地に社地を設定し、社殿を改築し領内守護神として崇敬せり。且つ城下の火災鎮護として水波能女神を相殿に勧請す。その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、広く領内の総社として益々崇敬せり。
 明治六年郷社に列し唐津神社と改称す。其の後境内拡張、社殿の総改築成り昭和十七年県社に昇格す。
 戦後杜他社殿旧に変ることなく四時祭礼も怠ることなく、杜頭愈殷賑なり。
 

先ずは松浦叢書(吉村茂三郎編)より

松浦古事記    寛政年中(1789〜1801)?

六  唐津大明神の事
 神功皇后三韓征伐の節、西海蒼々として船路静かならず、其時皇后天に向はせられ祈念し給ふに、我朝神國のしるしにや、海上忽然として浪穏やかになりければ、船路安々と三韓平定なり給ひ、帰朝の後、此所に勧請なさしめ給ふ神所とかや。
 其後帝都三位蔵人豊胤信ずる所の観世音、底江五郎宗次に抱かれ、西海に赴き給ふと夢中に見て覚めければ、豊胤不審におもはれける。さて又底江五郎宗次は在所唐津において、天平勝寶七年九月廿六日の夜、夢中に白衣の老僧来り枕上に顯はれ、三ケ日を待て北方の海邊に出て見るべし、必ず不思議あるべしと宣ふと見て夢は覚めにける。又翌夜も同じ事なるにより奇異の思ひをなし、其日を待得て供の用意をなさしめ、濱邊へ出て遙かに沖の方を眺められしに、奇なるかな一つの寶筐、光明照輝して波涛に浮めり、間もなく渚に寄りければ、潮をむすんで嗽ぎ、直に寶筐をたづさへ帰宅す。宗次つらつら思ひけるは、我此所を領せし事遠きにあらず、然るに今かゝる夢想を承る事、神明の加護に疑ひなし、仍て清浄の地を撰び、寶筐を納め奉り、武運長久をも願ふペしと、其用意をなしけるに、譜代外様の家来を始め、領内の民百姓等までも尊崇し奉りて、則ち先の神所の寶殿ありける所へ納め奉りぬ、時に天平勝寶七年乙未九月廿九日なり。其後五郎宗次帝都へ登られし時、蔵人豊胤の館に行き不思議なりし夢物語ありけるに、三位豊胤も過にし頃、観世音の現夢を物語りあり、割符を合せたる如くの霊夢なれば、終に天聴に達せられしに、時の帝孝謙天皇詔命を下され唐津大明神と贈り給ひぬ。神徳ますます廣大にして舊例の祭祀とどこほりなく、法事の式等又おなじ。
 其後遙か隔りて松浦黨の内、元祖源太夫判官より八代に当って、鴨池源三郎の男神田五郎廣といふ人あり、往古五郎宗次の跡を尋ねて、其名を請継ぎ尊崇して、後鳥羽院の御宇文治二甲辰年、三位豊胤・五郎宗欠の二霊神を唐津大明神の相殿に勧請し奉りぬ。此二神は則ち唐津大明神八座の内にておはします。今城中に鎮座まします。
 高松密寺。宮司 歓松院。社家 戸川美濃守。安藤陸奥守。内山伊織正。
 松浦拾風土記  文化年間(1804〜1818)

唐津大明神 松浦古事記参照

前略 宗次公直筆の文あり、紙の性朽ちて切れ切れに成りし故、文詞の続き定かならず。其外古き證書数多ありけれども、寺澤兵庫頭殿の家中の者、拝見して其儘に返さず紛失せり。

       〇    〇    〇
一  波多氏親の寄進状有り、其文に曰く
     奉寄進田地之事
一  唐津大明神之御所在肥前上松浦の西郷、庄崎之川向八丈田之下、田地三丈之事、四至堺書之作也。
 右件の田地は親当知行無相違所也。然るに尊天長地久・当村安穏・家内長久・子孫繁昌・息災延命.為御油燈奉寄進処也、仍寄進状如件。
 文安六年己巳正月十一曰

            源 親 判
 唐津大明神宮
   文安六年は寶徳元年也、後花園院御宇、武将は従一位右大臣東山義政公の時なり。

        〇    〇    〇

一 天文十二癸卯十一月吉日、田地寄進状
                          隈本右衛門督 判
  高松寺快幸代也。高松寺は勸松院の寺号也、後奈良(平城)院御宇、武将は権大納言の時也。

        〇    〇    〇

一 永禄十一己辰九月二十六日

   日高甲斐守喜 判
 右棟札当社務畑津右衛門太夫
   正親町院御宇、武将義栄征夷大将軍に在ること二ケ月、同年五月に薨ず、依之假御殿建てし儘にし義昭の代に営みあり。

        〇    〇    〇
一 神田能登守寄進状 其文に曰
奉寄進 唐津大明神
 一刀 二尺三寸 備前  一馬 一疋 鹿毛  一 鏡 一面
 右息五郎当病平癒の所也。
天正十年壬午五月三日

 宮司坊 快辰楷
   正親町院御宇、武将織田信長の代
 神田能登守高 判

        〇     〇     〇

一 慶長十五年庚戌八月吉日

右棟札      寺澤志摩守豊臣廣忠
         惣奉行 並河長兵衛尉
         小奉行 加茂 勝助
当宮司頼雅

        〇     〇     〇

一 本地観世音堂の前に掛けたる墨跡は、文禄の頃鍋島信濃守殿に在りし、雲海と云ふ朝鮮人の筆なり。
  慈 悲 靄 々 盈 天 地
  廟 像 *(クサカンムリニ魏)々 冠 古 今

        〇     〇     〇


一 鏡の銘

肥之前州松浦郡、当社大明神、神田五郎宗次以夢想、往来于海邊。一日有一筒寶筐而浮海上、光明照曜、遍満十方。宗次半驚怪之、半尊崇之。忝問。孝謙天皇下詔命、號唐津大明神、于時天平勝寶七年九月二十九日也。
故老所傳、一宮観世音化現、二宮慈氏尊降下也。爾来歴八百五十一星霜、霊験不減昔日、異哉、今也寺澤志州太守廣忠朝臣、令工鋳鐘、祭神妙、在感歎之余賑、烏明神始終祝太守遠大云々太守為尊神徳周。華鯨新鋳祝千秋、鐘聲亦與名聲大、遠近傾頭九々州。
 慶長十年龍集乙巳二月 曰
 前南禅承~誌
当宮司覚信房


      〇     〇     〇

一 唐津宮縁記
夫以大極分而陰陽立、阡陌交而生於五行矣。清而軽者昇成天、陽而重者降成地。天地分而生於萬物、顯其中間。
人者萬物霊而與天地同骸也。気者元大極而與天地人一貫也。故天地之間、莫不充。借気則神而正者之理也。故以正理意願則無不通叶也。于此、当社唐津大明神者、往古神功皇后、泰平於三韓之時、西海蒼々、船路無限、当干時后宮向天而為給合掌也。我朝神国之域而正直之元也。故妙哉、奇哉、海上忽然波静而眼前在光輝。於此皇后傳之、自然得船路、平治於三韓也、仍給號唐津大明神、云々

松浦記集成 第二編神社より   

 二十唐津大明~ (第一巻八四頁及二〇一頁参照)

 唐津城内、祭日九月廿九日
 官之記曰

  祭~
 一宮 磐土命、赤土命、底土命、大直日~、大綾日~、海原~
 二宮 八十任日~、~直日~、大直日~。底津少童~、中津少童~、表津少童~、底筒男~、中筒男~、表筒男~。
 相殿 水~罔象女~寺澤侯御築城之時火災守護として御勧請有之此為す相殿
 
御領主御合力米九石。

  別記曰
 當社は~功皇后三韓征伐之時、船路静ならざるを天に祈り玉ひて、程なく洋濤静に治り、三韓平定御歸朝の後、此所に勧請し玉ふと云。

 宮司勧松院、社家戸川美濃守藤原惟成、安藤陸奥守源政卿、内山一太夫藤原重國、

  一説曰
 天平勝寳七年勧請往、往古~田五郎宗次依夢想到海邊、一箇之寳筐拾得、宗次終尊敬、孝謙天皇降詔、号唐津大明~、
私考、比説疑あり、孝謙天皇の時~田五郎の時と不合、~田五郎は松浦黨渡邊綱に始まる。~田五郎宗次は~田五郎廣とは自ら別人也、廣は則ち鴨打源三郎が二男也、宗次を慕ひ~田と号せり。

唐津大明~別緑記(第一巻八四頁参照)
 (右別縁記は松浦古事と大同小異なるを以て省略したり)

 
松浦昔鑑(龍渓顯亮氏所蔵)より  宝永年中1704〜嘉永2年1848

唐津両大~宮

物川藏人~田五郎廣シ両人之霊を祝ふ社也、右蔵人は公家、~田五郎は則~田村居住にて松浦黨也、或時五郎殿参宮仕給ふ、藏人参會、不思議の縁にて片時も離れたまはず、昼夜ともに語り慰みたまへしが五郎殿下向之時分殊の外御名残惜み給ひ、則病と成藏人殿死去し給ひ、病中望みにて死体を箱に入れ海に流し申なり、有時五郎殿妙見之濱へ御出候時分、箱一個流れ寄る、取揚御覽有り、物川の藏人と書付有り、御歎き無限則今之所に取置、五郎殿仰付は我死ても一所に取置候得と被仰候に付、則此所に放置申す地。則志州公高麗御歸陣後御普請之節、熊の原に御移被成侯ヘども、唐津中に御崇り有之依て復今之御社の前に御移被成候(第一巻二七五参照) 



次に東松浦郡史(松代松太郎著)の記載をまとめた年表を作ってみました

西暦 祭神
364?

日本書紀によれば、仲哀天皇八年、9月5日、神功皇后三韓征伐の神託がくだりました。

神功皇后三韓征伐
755 天平勝寶7年
9月26日
夜夢中に白衣の老僧来り枕上に現はれ、三ケ日を待て北方の海邊に出て見るべし、必ず不思議あるべしと宣ふと見て、夢は覚にける。また翌夜も同じことなるにより、奇異の思ひをなし其日を待ち得て、供の用意をなさしめ、海邊に出で遙に沖を眺められしに、奇なるかな一ツの筐物照り輝きて波濤に浮めり、間もなく渚に漂着しければ、潮をむすぴて嗽ぎ、、直に其の寶筐を携て帰宅す。

755 天平勝寶7年
9月29日
詔命を下して號を唐津大明神と賜ふ

又別記に曰く、唐津大明神は孝徳天皇の御字、當国の住人神田五郎宗次上京して、中将と曰ふ人宗次に懇意となり、唐津の勝地なること委敷語れば、あはれ願はしきところなり、一生の中必ず行きて住居せんと深く契りけれども、公事如何とも為しかたく、末期に及んで我誓って唐津に行かんと、死後棺に納めて其の上に官位姓名年號月日を記し海に入れよと、終焉の日遺言の如く難波の海に浮べたるに、難なく天平勝寶七歳九月二十九日唐津の海濱に流れ者きけり、宗次夢想の生を得て、右棺の入りたる箱を海士人の手に得たり、宗次尊崇し其の趣を具に都に奏上しければ、帝詔を下し唐津大明神の號を賜ふ。以来元和元年(1615)に至て九百余年を経たり、九月二十九日の祭禮怠ることなしと。
1186 文治2年
神田廣に至り、益々尊崇して社殿を再建し、且つ祖先宗次の功労を思ふて其霊を合祀すと。

神田宗次を二の宮として祀った。

其の後五郎宗次帝都に到り、蔵人豊胤の館に行き、不思議なる夢物語りありけるに、三位豊胤も過ぎにし頃に観世音の現夢の物語りあり、符節を合せたる如き霊夢なれば、終に天聴に達せられしに、時の帝孝謙天皇詔命を下し、唐津大明神と神號を給ひぬ。神徳廣大にして舊例の祭祀惰りなく、諸事の式禮等また同じ、其の後遙かに時を経て、松浦黨の内、始祖源太夫判官より八代に當りて、鴨池源三郎の男神田五郎廣と曰ふ人あり、往古の五郎宗次の跡を尋ねて、其の名を請ひ継ぎ尊崇して、後鳥羽院の御字文治二甲辰ノ年、三位豊胤五郎宗次の二霊神を、唐津大明神の相殿に勸請し奉りね、この二神則ち唐津大明神八座の中にておはします、今唐津城中にあり。



松浦記集成
一宮
  磐士命
  赤土命
  底土命
  大直日神
  大綾日神
  海原神
二宮
  八十任日神
  神直日神
  大直日神
  底津少童神
  底筒男神
  中津少童神
  中筒男神
  表津少童神
  表筒男神
相殿
水ノ神罔象女ノ神(ミヅノカミミヅハメノカミ)


同大明神別録縁起
相殿
三位豊胤五郎宗次の二霊神を、唐津大明神の相殿に勸請し奉りね、この二神則ち唐津大明神八座の中にておはします、

松浦昔鑑
物川蔵人、神田五郎広之両人之霊を祝ふ社也
1606 慶長11年 同社鐘銘に曰く。
 肥之前州松浦郡當社大明神者、神田五郎宗次以夢想、往来于海邊、一日有一箇寶筐浮海上、光明照輝遍満十方、宗次半驚愕之、半尊崇之、〇〇孝謙天皇即下詔命號唐津大明神、于時天平勝寶七歳九月二十九日也、故老所傳、一宮観世音化現、二宮茲氏尊降下也、爾来歴八百五十一星霜、霊験不減昔日異哉、今也寺澤志摩大守廣忠朝臣、命工鋳洪鐘、祭神〇〇〇〇大守為尊神徳周華鯨新鋳、祝千秋、鐘聲亦興名聲大遠近傾、願九々列。
一宮観世音化現、二宮茲氏尊降下也
1610 慶長15年 慶長年中寺澤氏唐津城建築成りて、後十五年改めて當社を再興し、
現在

一の宮
 表筒男命
 中筒男命
 底筒男命
  の住吉三神

二の宮
 神田五郎宗次
1873 明治6年 郷社に列せられ唐津神社と改称せり。

次に

−遺稿−
伝統行事「唐津曳山の歴史」 坂本智生著 より
1、唐津神社のこと

 唐津神社は唐津の産土(うぶすな)神であり、他所から勧請された神様ではなかった。それが何時の頃からか、全国的な有名神である住吉神社の系列に入り、住吉三神を一の宮、神田宗次を二の宮とするようになった。明治以前は、一の宮を三位中将、二の宮を神田五郎とする期間がながいので、住吉の系列に入ったのは藩制も末期の頃かと思う。
 唐津神社に一の宮、二の宮の制が生じるのは何時の頃か、またどのような経過によるものか明かではないが、一般的には、地域神としてその土地に密着した産土神も、地域の発展とともに地域外の人との接触、混住が多くなり、産土神の神威の及ばぬ人びとが多くなってくると、より高い神威を持つと信じられる有名神を勧請して一の宮としたものと考えられる。
 唐津神社に関する最も古い記録は、南北朝時代の建徳二年、唐津神社の本地堂が建立された時の御本尊、十一面観世音像の胎内にある造立銘である。
 奉造立 観世音形像一躰
  肥前国松浦西郷唐津社本地堂
  本尊事
  為金輪聖王王徳 陽万民豊楽
  五穀成就 当庄地頭所務源奥
  源税 沙弥聖心 源授 源■(不明)
  源弘 源栄 家内子孫繁昌
   建徳2年8月4日
       大領主幸阿
    湛勝 尼明恵
    湛秀 五藤太郎
       藤三郎
 建徳2年は西暦1371年、この頃の唐津は人影もまばらな砂丘上の一寒村ではなかったのか、そこに本地堂を備えた神社らしい構の神社が一角を占めていたことになる。
 唐津神社の位置は今も昔も変りなかったのだろうか、唐津神社には、文安6年の源親神領寄進状が伝えられているが、その文書のなかに、「唐津大明神宮之御所在、肥前国上松浦之西郷庄崎(略)」とある。庄崎とは潮之崎と理解されているので今の唐津一中の前辺りと思はれる。
 言い伝えにはいろいろあって、唐津築城の以前には廟内の城山にあったとも、廟外の熊の原神社辺にあったとも、内町の八百屋町の四っ角附辺ともいう、いづれにしても築城後は現在位置に落付く訳である。唐津神社は唐津藩の宗廟的存在であり、唐津町とその周辺農村の産土であるが、その神社が城中の真中に位置するといふのは、築城以前からの由緒によるほか、唐津神社を城中に取り込むことで、この土地に馴染みのない寺沢公が領民との親近感を深め、波多氏や草野氏の旧勢力を宥める策略であったかもしれない。
 唐津神社は古くは唐津大明神と称されている。このことは一の宮の存立以前のことと考えられ、二の宮即ち神田五郎宗次こそが唐津大明神の正体ではないかと思われる。もちろん祭神としての神田五郎宗次を個性ある生身の人格とは思えぬし、恐らく唐津の開発領主としての神田氏の祖霊を意味するものであろう。ただし以上は、唐津神社を歴史的民俗的に考察してのことであり、唐津神社では唐津大明神の由来について次のように説かれている。
  孝謙天皇の御宇、領主神田宗次一夕神夢を得て海浜に至れば一筐の波に浮び来るあり、之を採りて開けば一宝鏡なり、是正しく神功皇后の捧げ給ひしものならんと驚き敬ひて時の帝に奏聞す。朝廷神徳を感じ詔命を降して唐津大明神と賜ふ

デジタル大辞泉プラス 「唐津神社」の解説では
 

唐津神社
佐賀県唐津市にある神社。旧県社。社伝では天平勝宝の創祀とされる。祭神は住吉三神(底筒男神(そこつつのおのかみ)、中筒男神(なかつつのおのかみ)、表筒男神(うわつつのおのかみ))、神田宗次。国の重要無形民俗文化財かつユネスコ無形文化遺産にも登録された、秋の例大祭「唐津くんち」が有名。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

 
 日本歴史地名大系 「唐津神社」の解説
 

唐津神社
からつじんじや

  • 佐賀県:唐津市
  • 唐津城下
  • 唐津神社
[現在地名]唐津市南城内

唐津市街の中心、大手口から北へ約二〇〇メートルの旧唐津城内三の丸にある。一の宮に表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神、二の宮に神田五郎宗次(当地方の豪族)を祀る。旧県社。

創建については伝承が幾つかある。神社誌要は神功皇后が朝鮮より帰国後、鏡を捧げて住吉神を祀ったがその後衰え、孝謙天皇の時代に神田宗次が霊夢により海上に浮かぶ宝筐から鏡を得てこれを神功皇后の捧げた鏡として奏上、天平勝宝七年(七五五)九月二九日に唐津大明神の神号を賜った。文治二年(一一八六)神田宗次を二の宮として祀ったという。「松浦古事記」もほぼ同様だが、宗次が宝筐を得て神社に納めた日を九月二九日とし、同じ頃、都で三位蔵人豊胤は観音が宗次に抱かれて西海に赴く夢をみ、のち二人は会ってその不思議を奏上、神号を受けたという。「松浦拾風土記」は「故老の所伝、一宮は観世音の化現、二宮は慈氏尊の降下なり」といい、「松浦昔鑑」は「物川蔵人・神田五郎広之両人之霊を祝ふ社也」という。