末廬國より
(昭和40年11月20日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

唐津 水主町・新堀


唐津村の枝村で
 船頭が住んだ町

    代表的旧家は横浜屋



 水主町、新堀は、大石町、材木町の町続きであり、住民も町方同様商工の徒が殆んどであったが、町奉行の支配する町方には属しないで、代官役所の支配する村方に属した。寺沢の時代には、船奉行の支配する常備的な御手水主の部落として、唐津藩水軍の根拠地である御船宮の周辺に設けられた「加古町」であるが、寺沢家改易の折、常備的な衡手水主の編成が解かれて、日傭的な日高水主役というものが、領内の沿海漁村に賦課されるようになり、「加古町」は船奉行の支配から代官の支配に移されることになったらしい。水主町、新堀は、はじめ唐津村の一部として村方の仲間に入ったが、土井の時代に唐津村の枝村として独立し、庄屋が任命された。


     ×   ×   ×
 水主町の庄屋々敷は、現在の山口電機店の倉庫辺り。藩政最後の庄屋を長谷川助七郎といい、明治になってからは新堀渡しを受負っていた。
 新堀の庄屋々敷は、現在の井本焼物屋の辺り。藩政最後の庄屋を江口三左ヱ門といい、明治になってからも新堀の惣代役を勤めていた。


  × × ×
 藩政時代の唐津の石炭は、半分専売みたいな恰好で、資金なども地方役所で世話をしていたが、実務は二軒の御用石炭問屋が受負っていた。二軒の問屋は水主町になって、一軒を米屋といい、一軒を松本星といった。米屋は現在の横尾金物屋の倉庫の辺り。姓を吉井といい、のちに魚屋町に移ったが、そのあとには、石炭で産をなし、大名小路で豪荘な邸宅を構えた田代政平がしばらく住んでいた。松本屋は現在の高田履物店の辺り。姓は松本、のちに新堀へ移った。


     ×   ×   ×
 藩政時代の松浦川は領内経済の動脈ともいえるほどに重要であったが、水主町、新堀には、この松浦川を上下する上荷船の船頭が多く住んでいた。これら船頭の頭取格を神田安兵衛といったが、この人の住いは中道屋の西隣か、或はその前辺りらしい。神田といえば、代々御用紺屋を勤めた神田嘉右ヱ門家は、現在の横尾金物店の東半分から東隣にかけて屋敷を構え、屋号を紺屋といっていた。


    ×   ×   ×
 水主町の旧家といえば、横浜屋こと田中惣吉家を落す訳にはいかない。代々の船問屋で、一時御用焼石問屋をも勤めた。焼石とは所謂「ガラ」のこと。明治になって石炭油や煙草の卸問屋として、唐津地方を一手に仕切っていたが、のちに競争相手が現れて振わなくなった。横浜屋の前が、富田屋といった宮島家。代々、魚屋兼小料理屋を営んだが、清右ヱ門の時代には船を手に入れて、仕法方役所の蝋や紙方役所の紙、それに石炭などを積んで各地に往来していた。初代伝兵衛は清右ヱ門の孫。醤油をはじめたのは明治十五年のことである。


    ×   ×   ×
 柳川屋といった林五平家は中道屋の前辺り。中道屋の屋敷も、もとは柳川屋のもの。家業は米穀商らしい。浦野菓子屋の角は、米屋の一族の吉井藤兵衛が住んだ。藤兵衛は焼石問屋をやっていたが、明治になってからは水主町の惣代役をしばらく勤めた。現在、中村ブリキ店の屋敷は菓子屋卯兵衛こと西尾卯兵衛が住んだ。卯兵衛は藩政時代、水主町の名頭など勤めているが、のちに永く水主町の惣代役を勤めている。


    ×   ×   ×
 文化から安政頃にかけて、湊屋権右ヱ門という船持の商人が水主町に住んでおり、彼は対島の殿様宗家から、宗姓を名乗ることを許されていたそうだが、湊屋はもともと権藤といった姓らしい。丸宗公園の宗がその一族だが、屋敷は現在の青木床屋の辺りらしい。その他、水主町で藩政時代、苗字を許された家に、岩瀬、坂本、竹内といったものがある。岩瀬家は小島金物屋東隣辺り、この家は安政以前からの苗字もち。坂本家は筆者の家、塩屋という屋号がついていたらしい、慶応三年に苗字が許されている。竹内家は現在の藤本家の辺り、竹内文斉というから、保利文亮か文溟の弟子で医者と思われる。


     ×   ×   ×
 新堀は、今日では船宮町の一部に編入されており、水主町との境目も入組んでいるが、例えば「新堀の目洗観音」として、一昔前までは町民に親しまれた松浦山俊成坊は水主町の領分だし、「新堀けいらん」なども水主町のうち、といった様に、もともとは川沿の通り一帯が新堀だっわけたである。唯、藩政時代には、今日水主町になっている辺りは、所謂「御用地」といって、新堀にも水主町にも属しない「土場」であり「桝型」などの備えが設けられていた。廃藩後、水主町の住民が早々に移り住んだので水主町の領分になったらしい。


     ×   ×   ×
 新堀には、旅船の船乗りを相手とした小宿が何軒かあったらしい。小宿というのは、呼子の殿の浦や片島にあった様なものである。川口屋とか諸国屋とか或は淡路屋とかいったのはその類か。淡路屋は現在の福井材木店の辺り。姓は内山で、内山定四郎は安政年中から苗字を許されている、明治になって紺屋をやっていた。川口屋は大崎姓、屋敷は現在の楠本綿打屋辺り。新堀では、浦田、井本、後藤などの姓の家も藩政時代から続いた家である。




註:は管理人吉冨 寛が記す
inserted by FC2 system