唐津藩開国論秘話 長行公と山中藩士 |
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佐久間次彦 |
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幕末の唐津藩
勤王か佐幕か。開国か攘夷か。
幕末から明治維新にかけ日本中が大きく揺れ動いた。
あの日本の政治、経済を、最短の期間で最良の方法で成功したと、世界を驚かせた明治維新の前夜であるだけに、日本中の封建社会は例外なく混乱し、動揺した。
わが唐津藩においても例外なく動揺はあったが、その実態は著しく内向的であって、歴史の記録に残るものは殆んどなかった。
小笠原家初代の藩侯として遇され、今の大分県杵築市にはじめて四万石の城主となったのは忠知公である。
忠知公の母は家康の世子、信康の嫡女であり、さらに忠知公の父秀政と長兄忠修は、かの徳川の全国制覇を決定的なものとした元和元年の大阪の陣で、徳川方にあって父子共に壮烈な戦死をとげているのである。
こうして徳川家は、小笠原家を遇すること甚だ厚く、また両家は姻戚の間柄でもあったので、両家の義理・恩愛のつながりは、現代人の感覚では想像し難い主従関係であった。
すなわち、小笠原家こそ徳川家が幕府を開く前からの主従関係である。いわゆる譜代大名であり、小笠原藩の大方針が幕府を助け、支持する「佐幕」の立場で一貫していたのは当然のことであった。
幕末当時でも唐津藩において「尊皇」「攘夷」はもちろんのこと、「開国」を論ずることさえも、藩の方針にそむくこととして、許されることではなかった。
もし敢て開国を唱えようとする者は、決死の脱藩か、閉門切腹を覚悟しなければならなかったことは、容易に想像される。
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唐津藩山中藩士のこと
小笠原藩士山中家は、唐津藩時代は松原小路(現在の西城内)に居住していた。
山中家がはじめて小笠原家に仕えたのは、駿河国御殿場出身の山中重之が、小笠原忠知公の江戸屋敷に出仕したのがはじまりで、以来、大分県杵築城、愛知県吉田城(豊橋市)、埼玉県岩槻城、静岡県掛川城、福島県棚倉城、佐賀県唐津城と、小笠原家の移封と共に行動を共にして幕末を迎えたのである。
この山中家は、小笠原藩士として廃藩時代を唐津で迎えた数百の唐津藩士の中の一家であり、その十代を数える家系は、概ね中級武士の上位程度の藩士としての面目を保って来ている。
藩内における役織としては、各職種にわたっているが、棚倉から唐津時代にかけては、諸奉行職、学舘教師、無外流剣術指南等が二、三代にわたり引き継がれているのが特長といえる。
棚倉から唐津に移った山中之允は、長崎表奉行を命ぜられていることから察すると、藩士の中では比較的学究肌の進歩的な家系であったと思われる。
系譜の主なものを挙げると次の通りである。
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(奇縁にも、筆者の先祖四代の佐久間基左ヱ門知睦の娘が長男系幸篤の妻となり、七代の佐久間儀太夫知雄の次男が養子に入って六男系之允となっており、本資料調査中思いがけぬ姻戚の間柄であったことを知る)
本稿の主人公は、之允の子、山中之頼の男精太郎と、精太郎脱藩後その親友(近藤斧松)が養子となって、山中家の跡目相続をし、さらに精太郎の妹マツを娶り、俊介と改名した山中俊介(重直)との両人である。
この精太郎と俊介の両人は、小笠原長国公と長行公の時代の藩政最後の時代を奇しくも彩る秘話の主人公となったのである。 |
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山中精太郎脱藩
山中之頼の子精太郎は、生来熱血漢で、しかも祖父が長崎表奉行を務める等、比較的進歩開明の家風の中で成人したと思われる。
当時開国の気運が国内にみなぎり、英仏の艦船は琉球に来航し、和蘭(オランダ)国王は開国を進言するなど、国を挙げての騒乱の時代となり、開国と鎖国、尊皇と攘夷が相打つ狂瀾の中で、憂国、憂藩の若者は、動揺の色を抑え得ない状態であった。
佐幕一色の長国公の時代であっては、到底開国の志を遂げることは勿論、その論議さえも許されない唐津藩であるので、ひそかに開国論に血を燃やしていた精太郎にとっては、脱藩という危険を冒険以外に、とるべき手段はないものと決意したのである。
弘化元年(一八四四)三月一日の未明、精太郎は松原小路の屋敷を抜け出し、満鳥に渡り、虹の松原の樹林の間をひたすら東へ向かって小走りに急ぎ、遂に藩境を越えて脱藩に成功した。
山中家の語り伝えによれば、脱藩した精太郎は一路江戸に上り、同志と共に開国の謀議を行ったが、遂にその目的を達せず、志半ばにして安政の大獄に殉じたという。
その末路は詳かではない。
さらに山中家には、精太郎脱藩時の逸話として次のように伝えられている。
精太郎の親友近藤斧松(近藤甚右ヱ門正敏の四男)は、かねて精太郎の行動に留意中のところ、いよいよ此の日脱藩を察知するや、直ちに早馬にてあとを追い、やっと虹の松原 の中で精太郎を捉え、極力飜意を促したが彼の決意は固く、芹松に対し「俺は生還を期していない。お前には申し訳ないが、あとに残って妹のマツを娶り、俺に代わって山中家を継いでくれよ」と言い残して袂をはらって斧松を振り切ったという。
封建社会での脱藩は、現代人の想像を絶する厳しい取り締まりの対象であり、残された家族にも連累の罪を問われるのか通常であり場合によっては家の断絶さえ覚悟しなければならなかった。
この開国論者の脱藩は、唐津藩にとっては前例のない大事件であったと思うが、当時の藩主脳の対応ぶりが、山中家の由緒書の中に次のように記されている。(原文通り)
「精太郎儀不都束の儀有之、御見捨てなされし下しおかれ候様願書差上申候。.近藤常左ヱ門を以て同二日雨の森総兵ヱ殿宅へ精太郎御呼出し有之候へども不快につき、佐久間膳二郎知到名代に差出し候処、不都束の儀有之、新兵ヱはじめ諸親類御見捨てなされ下しおかれ候段願書差出し候に付、御扶持方勤方とも御とりはなち、新五ヱ門へ御戻しなされ候段、御同人仰せわたされ候。同日精太郎俵勘当致候段御届け申し上げ候て、出立つかまつられ候。弘化二年四月二十五日男子御座なく候につき、近藤甚右ヱ門正敏四男斧松養子つかまつり、末々二女と一しょにつかまつる段願書差上候処、即日願の通り仰せつけられ候段、野辺又右ヱ門様○殿仰せ渡され候。」
この文中に出てくる近藤、雨の森、野辺等は、当時唐津藩の人事を掌る管理職と思われ、佐久間(筆者の曽祖父)は山中家との姻戚関係でもあって、いろいろと仲介斡旋したものと思われる。
ただ筆者が意外に思うところは、脱藩というこの大事件が、この記事によると比較的冷静に取り扱われており、あるいは対外的な理由で内々裡に始末され、大目にされたのではなかろうか。
また、この脱藩を、ただ「不都束の儀」(ふつつかのぎ)とのみ表現され、不都束な、つまらない、駄目なことを仕出かした程度に記されているが、これも由緒書は人の眼に触れるもので表現に留意したのであろう。
しかも、虹の松原で精太郎の脱藩を思い止らすべく説得した親友斧松が、反対に精太郎から自分の妹を娶り、近藤等を継いでくれと説得された形となり、それが事件処理の延長線の上でその筋書通りとなり、弘化二年四月二十五日に斧松は養子に入り、俊介と改名、さらに段取りよろしく精太郎の妹マツを娶りて跡目相続となったのである。
ひょっとすると、かねてからこの両名は、相思の間柄ではなかったかとすら考えてみる。
こうして本編は、以上でめでたしめでたしと相成ったかというと、さにあらずである。
すなわち、養子俊介そのものが再び開国論の渦中に巻き込まれ、そのうえ唐津藩士としての禁句「反幕」の思想を持つにいたったことであり、この秘話はさらに悲話の要素を加えることとなる。
山中俊介の割腹自害
近藤家から山中家に養子に入り、山中家の二女マツと婚姻して山中家の跡目を相続した俊介(重直)は、資性英敏でよく藩公長国公を補佐し、御近侍、御馬回り、御徒士頭、御郡代、町奉行、寺社奉行等を歴任し、さらに山中家のお家芸ともいうべき無外流剣術師範を務め、ついで長行公に仕えては、公入国の際、百行方なる貨殖団を組織して藩の財産整理に努力して、長行公の信頼を受けていた。
然るに、この俊介に魔がさしたとも言うべきか、一転して長行公を大いに怒らしめる事態に進展するのである。
脱藩して江戸に上り、開国論の大渦の真只中で水を得た魚の如く活動していた精太郎は、俊介にたびたび書簡を送り、当時の中央政界の様子を知らせ、唐津藩が佐幕一辺倒の現状では近い将来憂うべき事態が必ず起こるぞよと、言葉を尽くして進言したのである。
かくて、熱血の男児であり、憂藩の志では人後に落ちない俊介の考え方にも大きな変革が起こり、遂に意を決して長行公に対して開国論のみならず、幕府に対して反旗をひるがえすことを薦める直言を敢てしたのである。
この場合、長行公は如何に名君といえども反幕の薦めに対して、「そうか、それでは考えてみよう」との返答を期待するほうか無理ではなかろうか。
さらにこの言動のあと、俊介が無事にあり得るであろうことも絶対にないのであろう。
山中家の資料には、次のように記されている。
「長行公大いに怒り、俊介に閉門を命ず。俊介快々として楽しまず、日夜酒を喰いて遂に慶応元年五月十日割腹して果てたり。」
俊介の無惨な自害により、山中家は最悪の悲劇に直面したことは想像に難くない。
長行公と山中幸徳
長行公は、数多い幕臣重役の中で、幕府の慣例を破り、藩主でない世子のままで幕閣に擢用され、再三老中に任ぜられて青史に巨歩を印したことは、衆知の通りである。
しかしながら尊皇、倒幕の大勢に抗すべくもなく、事全く志と反し、朝譴を蒙る身となり、慶応四年二月外国事務総裁を最後に一切の幕府の役職を辞し、同時に一時抗命の罪を犯すの巳むなく北海に落ち、国外に逃亡したと詐称し、さらに家門の累を避けるため世子も廃嫡するにいたった。
明治五年七月、長行公は五年余の韜晦行を終息し、海外より帰朝の旨、明治政府に届出、謹慎命を待つこと三十日、朝廷、公の罪を問わず謹慎解除を達せられ、ここに五年ぶりに青天白日の身となった。
この頃、日本全土には数十万人の元幕臣、旧藩士が充満し、不平不満分子も少くなかったが、開国か鎖国か、尊皇か佐幕かの決闘は終結し、明治天皇の親政の時代に入った。
こうして長行公は、閑雲野鶴を友とし、公事に煩わさるることなく、嗣子長生公の新時代教育に力を注いだ。
このころ、長行公の脳裡には、頻りに生死の間に運命を共にした旧藩士の面影が去来し、恩愛の絆が強く蘇っていたが、殊に忘れ得ないのは閉門の汚名を蒙ったまま悲惨な割腹自害を遂げた山中俊介とその遺族の行く末のことであり、側近の人々にしばしば俊介に対し申し訳ないことをしたと詫びていたという。
後年、長行公は俊介の長男小太郎こと山中幸徳に学資を与え、米国オレゴン州のオーベル大学に学ばしめ、幸徳は勉学につとめて首尾よく卒業し、文学士・神学士の学位を得て帰国し、当時の第三高等学校(現京都大学)及び同志社大学の教授を歴任、高等官五等に任ぜられた。
幸徳は、明治三十年京都において病死し、洛東若王子山のキリスト教共同墓地に葬られた。
国を思い、藩を憂うる心は同じであっても、その立つ還境・立場によっては真反対の結果を生ずることがあり得る。
長行公は、小笠原藩の秩序により俊介を死にいたらしめたが、その子幸徳を見出して大きく生き返らしめたと言うべきであろう。 |
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後 記
一、山中家の由緒書及び諸資料は、水主町、田中富三郎氏の御好意により、そのコピーを借用した。同由緒書は、坂本智生氏の御懇切な解読をいただいた。
二、山中家の後裔
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俊介 |
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重辰(三男) |
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幸徳(長男) |
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賢象(長男) (故人元鬼塚小学校職員) |
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操(長女)
(元愛知大学教授
現早稲田大学教授
黒木三郎氏の妻) |
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田中富三郎氏は賢象氏のふたいとこに当たる。
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三、筆者、幸徳氏の墓参のこと、
昨年一月二十二日、筆者は甥の結婚式参列の為上洛の折、洛東若王子山のキリスト教共同墓地を訪れたが、幾百基の墓石は朽ちるままで残念ながら幸徳氏の墓は見出し得なかった。ただし、偶然に同志社大学創立者新島襄先生と徳富蘇峯氏の墓に詣でることができた。
四、文中に出る人名に敬称を略した。 |
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