巡査大明神全傳
増田巡査の人間像と献身的活動の記録
熊本短大教授 内田 守著
《巡査大明神全伝目次》
題 字 熊本県警察本部長 鈴 木 昇
再々版によせて 増 田 義 孝
序 前熊本県警察本部長 景 山 二 郎
伝記発刊に寄せて 佐賀県警察本部長 山 寺 通 雄
序 四国管区警察局長 稲 留 確
第一章 霊地とは言いがたけれど
一、泗水町の地理 二、山のけむり
三、菊池氏の忠誠 四、泗水は四水
五、田中部落と増田家の歴史 六、増田家と郷友会
七、偉丈夫の誕生
第二章 玉は磨かれて
一、永鳥塾の漢学 二、数学の天才後藤官平先生
三、東京遊学
第三章 登龍はもだえる
一、土木技術員から北海道開拓へ 二、郷士にて再起
三、長崎での貿易商
第四章 その人格のふかさを
一、侠気は隣人を救う 二、レクリエーションへの理解
三、その一言を 四、家督相続権を弟に譲る
五、家運挽回を養蚕業に賭く
第五章 天はこの人を待てり
一、佐賀県巡査志願 二、高串部落にコレラ侵入す
三、部落の混乱 四、鉄壁の防疫陣
五、ああ運命なるかな 六、枕神に立つ巡査の心霊
七、鎮魂の丘 八、よき協力者
九、おがまるる名刺 十、故郷の奥津城
第六章 巡査大明神
一、社殿の造営 二、佐賀県警察界の増田精神顕彰事業
三、新聞はよく伝う 四、松浦十景入賞
五、増田神社の社格獲得運動 六、文部省修身教科書資料に当選
七、増田神社の繁栄 八、地域の顕彰事業
第七章 霊魂は郷土に掃えりしや
一、郷家の発展 二、墓前に祈る人
三、血脈は通う
第八章 焼土に芽ぐむもの
一、日本精神の火打石 二、増田精神顕彰会(熊本側)
三、ベストセラーにも載せられて 四、泗水村の顕彰碑成る
五、二十年の潮待ち 六、ああその部屋に
七、肥前町役場につく 八、高串港の発展
第九章 神はひとなり
一、高串区の防犯問題 二、高串区の伝染病と環境衛生
三、蚊と蝿の居ない理由
第十章 票落つる音きく如く
一、増田神社の「お守り」と「御神体」 二、熊本県警察官の参拝記念
三、血はいよいよ赤し 四、「土の会」発展
五、墓前の誓 六、戦後の祭礼の隆盛
第十一章 警神を護る村人たち
一、熊本側座談会 二、佐賀側座談会
第十二章 祈り信ずる者は幸なり
第十三章 心のひびき
年 譜
附 録 (既発表文献集)
一、洒水町の顕彰碑除幕式の祝辞 横 尾 佐 六
附 録 増田巡査由来記 内 田 守 人
巻 末 記
挿 絵 星 野 二 郎
表紙題簽 石 坂 繁
「巡査大明神全博」の再々版に当たって
熊本県泗水町
増 田 義 孝
「巡査大明神全傳」が十二年ぶりに再々版されるということで、一文をとの依頼を受け、再び「全傳」を読み返し、増田神社の興隆に何十年にも亘る皆々様方の大変なご苦心、ご努力をいただいていることに、遺族として感謝の念を新たにしているところです。とりわけ肥前町並びに高串区の皆様には、昨昭和六十二年秋の台風で大きな被害を受けられたところに、神社再建の更なるご労苦を賜り瞼の熱くなるのを禁じ得ません。
思い起こしますと、「全傳」でも紹介いただいている通り、私の母は警神の姪にあたり警神が明治二十八年高串で永眠した二年後に生まれました。自分の直接の記憶はないものの、小さいときから私の祖母である母親や近くに住んでおられた宝田茂先生などから何回となく話を聞き、その母が今度は私達子供達にも詳しく伝えてくれました。そして、口癖に「神様を先祖に持つものとして、絶対に人様に恥じることのないように」と、申しておりました。
母としても、また私どもとしてもこのことが人生のより所であり、強いバックボーンとなったように思います。
夏の増田神社大祭への出席も私達にとりまして楽しみであり、また神社によって来る所以を再度かみしめ覚悟を新たにする機会でもあります。今でこそ車が発達し楽になりましたが、以前は汽車とバスを乗り継いでの大旅行でありました。
私が初めて連れられて高串を訪れ、神社にお参りしたのは確か十才のころだったと記憶しております。区民の方々始め皆様の歓迎を受け、それまで何度も母から聞かされたあの増田神社の前に立った感激は今でも忘れられません。それから五十年余り訪れる度毎に盛大なお祭りになって来ており、有り難い気持ちで一杯です。
母はいつも「祭られるものが神か、祭る人々が神か、参上致す毎にその感を深くします。」と申しておりましたが、全くその通りであります。
また母は警神に係わるいろんな資料や記録類をよく残しており、それが昭和四十一年に故内田守先生が「全傳」を刊行される際に、佐賀県側の資料や、母の記憶とともに役に立ったものと思われます。
内田先生は泗水町出身の医学博士で数々の社会事業に携わられた方で、著書も数多くあります。同じく当町出身で警察署長をされた故内田貞臣氏とともに多くの資料を集められ、大変なご努力により「全傳」を出版されたものです。その後昭和五十一年に再版され、この度皆々様のご努力で再々版の運びとなった訳ですが、内田先生、同貞臣氏共に泉下でさぞかしお喜びであろうと存じます。
最後になりましたが、昨秋の台風災害以来の佐賀県肥前町、殊に高串区の皆様方の神社再建に向けてのご苦労、並びに泗水町の、逸速く被害の報をいただいた婦人会始め町当局、町議会等挙げてのご協力で多額のご寄付が寄せられたことに遺族一同感激し、深く御礼を申し上げます。
肥前町の「巡査大明神全傳」再々版に当たり心からお祝いの辞と致します。
序
世に「人物」という言葉があるが、いわゆる「人となり」であり、学問だけででき上がるものではない。家庭に於ける両親の影響は最も大きいが、その郷土的環境も重要であり、更に修学によって充実し、その人柄は育って行く。
想うに現代の警察官ほど「人物」が大切な職種はあるまい。それはあらゆる階層の民衆の手本となり、保護だけでなく指導もしなければならない立場にあるからである。
私も縁有って熊本県警察界の責任者となったが、この地において図らずも警神という言葉を聞き、又その本人の故増田巡査の生家が近くにあり、その血縁の人とも逢い得たのである。
今内田教授によって紹介された警神の全伝の草稿を繰りつつ感慨無量である。熊本人は歴史を尊ぶ。それは確かに大切なことであるが、これを読む時代熊本人の心構は果たして充実しているであろうか?増田巡査の業績はまだ生々しい近代のことであり、その影響する力も大きいものと期待できる。
純朴なる佐賀漁村人が、故人の神業の如き働きを率直に受け取り、直に神に祀った心の素直さと直感的信仰心を、我々は限りなく美しきものと思う。
現代の警察官の社会的信頼はどうであろうか、心冷ゆる思出が余りにも多いようである。それは雲がかかっているからだ。我々は真実の太陽を求め仰がねばならない。
増田警神の業績を佐賀県警察界が全県を挙げて顕彰し、警察精神昂揚の具体例として重要視して来られた事に就いて、今改めて認識し深甚の敬意を表するものであるが、その警神の生誕地を擁する吾が熊本県も、大いにこれにあやかるべきだと思う。
この「巡査大明神全伝」は、資料が豊富であり、写真、挿絵もよく考慮され、文章また流麗、秋灯親しむの候の好読物である。望ましき人間像の要求される時、教育資料として貴重なものである。
願わくば警察界ばかりでなく、多くの人に読まれて、熊本自慢の好話題となり、青少年や県民の心の程となるよう期待するものである。
昭和四十一年 中秋
熊本県警察本部長室にて
景 山 二 郎
伝記発刊に寄せて
このたび、熊本短大の内田先生の筆によって私達の先輩である増田巡査の生涯が伝記として発刊されることになった。まことに喜びにたえないと同時に、その御労苦に心から敬意を表する次第である。
一人の警察官が神にまつられるということは、恐らく全国にその例をみないと思う。私は、昨年四月佐賀県に着任して、はじめて増田神社の由来を知った。そして多くの資料を読み、人の話を聞いて、増田巡査がコレラの防疫のために挺身し、不幸にしてみずからも病に冒されたおれるまでの偉大な犠牲的精神に深い感動を覚えたのである。地元の高串部落では、増田巡査の命日を期して毎年例祭をとり行っているが、私も昨年と今年の二回にわたって参列させていただいた。これはまさに部落をあげての祭りであり、村人の心からにじみでた信仰であることを知って、いよいよ感激を深くした次第である。
増田巡査は明治二十八年、二十七才の若さで職務の執行にたおれたが、その魂は今もなお私共の心のなかに生き続けている。世相ともすれば、献身的精神が忘れられがちなとき、 このような立派な伝記の発刊は、まさに私達の待望の事というべきであり、続む人をして大きな感動をあたえずにはおかないであろう。この伝記によって増田巡査の遺徳と精神が広く紹介され、多くの人達によって理解されることを願ってやまない。
昭和四十一年 初秋
佐賀県警察本部長
山 寺 通 雄
序
今から四年前の昭和三十七年の春、私がまだ熊本県在任中の或日、県内菊池郡泗水町の役場の人が来られて、佐賀県の入野海岸で神社に祀られている増田警部補は泗水町の出身であるが、このほど誕生地にも顕彰碑を建てることになったので、是非題字を書いて貰いたいとの申しでがありました。
提示された題字の案を安易に受け取って一瞥すると、「警神増田敬太郎命顕彰碑」となっている。私は「警神」という文字に驚き、何かおそれおおいものを感じて、極力辞退しました。然しそれは結局聞き入れられませんでした。自分が逃避することによって、この意義ある顕彰碑の建設計画が頓座するかも知れない。私は自分の悪筆の恥も、僭越を恐れる想いをも忍んで御引き受けすることにしたのであります。匹夫の勇とでも言うべきものでありました。
その碑の除幕式に列して佐賀側の増田神社奉賛会長横尾佐六元警視の長文の祝詞を拝聴したのでありますが、それによって、「警神」という言葉の生まれて来たいきさつがよく了解させられ、深く感動させられたのであります。
昭和四十年七月、私は「警察人間像の改造」と題する小著を刊行し、その中に 「警神」なる一章を設けましたが、今読んでみても、この顕彰碑の遁字を書かされたいきさつは書いてありません。それはこれという意識に出でたものではないが、私も心の底にある恭謙のおののきがそうさせたのでありましょう。
本年二月従来増田警神の事績を研究して屠られた熊本短大の内相教授が、わざわざ長崎県警察本部長室に私を訪ねられて、増田警神の伝記を執筆中だが、是非序文を書けとの御依頼を受けました。その後四国に任を転ぜられましたが、ここでもまた「警神」の縁が私を待ちうけていたのであります。外でもない愛媛県警察学校に、前記拙著が動機となって、増田神社の御分霊を迎える企てがあったのであります。私は、増田警神の神徳神威がいよいよ広まりつつあることを知って、感動を新たにしたのであります。
内田教授の苦心の著「巡査大明神全伝」の草稿中に、私の著書中の「警神」の事を紹介して頂くことになったことは、まことに有難いことと感謝しています。顕彰碑の題字のいきさつなどにも触れておられるが、回想して感慨無量、何れにしても、増田警神は震天動地の人、即ち神であります。
私が拙著にも、特に「警神」の一章を掲げるに至った所以は、如何に、私が増田警神の人物、言行に心打たれ、畏敬の念圧え難いものであったかを証明するものであると、今更ながら想うのであります。
兎に角、本署は内田教授の苦心の賜であり、これが広く読まれて、民警一致の接点となり、佐賀熊本両県は勿論、全九州、延いては全日本の警察人の魂を震わすことを期待し、併せて高串区の御繁栄と、増田家の御隆昌を祈念してやみません。
昭和四十一年十月
四国管区警察局長
稲 留 確
第一章 霊地とは
言いがたけれど
一、泗水町の地理
熊本市の北方十五粁の距離にある泗水町は、明治初期には合志郡であったが、後に菊池郡になり、六年前から町政を敷いた。南朝の忠臣菊池一族で有名な隈府町(現在菊池市)とは約十粁離れていて、熊本電鉄が町の中を走って、熊本市と隈府町を繋いでいる。
東北に遠く阿蘇の連峯が望まれ、その左に鞍ケ岳の秀峯が仰がれる。その麓から流れる合志川が、泗水町を北から南へ縦走し、肥田をうるおわせている。
従来菊池郡は、隈府町を中心とする東部地区と、大津町を中心とする北部地区と、泗水を中心とする西部地区の三ブロックに分かれ、教育や土木等の連合体があったが、北部の隈府には郡役所があり、又菊池氏の尽忠精神に導かれて、隈府地区と泗水地区との連繋は深かった。
この泗水町の大字吉富字田中に、佐賀地方で警神と仰がれている増田巡査は産まれたのであった。
二、山のけむり
「山のけむりは良えな!」
合志川流域の百姓連は野良からの帰り路に、大抵がこの言葉を云い交わして、明日の天気が晴天であることを予測し、その日の勤労をいたわり合い、信愛の心を通わせたものである。
菊池川の支流として合志平野をうるおわせているこの合志川の川上を遠く望むと、阿蘇の外輪山の一部をなす鞍ケ岳の二鞍のゆったりとした姿が望まれ、その右手ははるかに霞んだ空に、連なる阿蘇の五岳が見える。五岳の一つ、中岳から噴き上げる噴煙は、その日の風向きによってなびき工合がちがう。(口絵参照)
煙が南に傾くと翌日の天気は晴れ、北になびくと殆ど天気がくずれる。この地方の百姓は女性でさえ、
「子供が三つになるまで母親の顔を知らない」と云われるほど働いたものであり、朝は暗い内に野に出ることが多いので、夜が明けてから路上で逢って「お早うございます」と挨拶を交わすのは、何となくてれくさいようなものである。
然し陽が落ちかかって、疲れた体を家路に運ぶとき、阿蘇霊峯から昇る煙が、美しくなびいていて、明日の天気と勤労が約束されると、心から歓びが湧き、村人との親和感も湧いたものである。
肥後人の気性の烈しい原因の一つに、筆者は阿蘇の噴煙を挙げているが、菊池一族の尽忠精神にも根ざしていよう。本書の主人公増田巡査の情動的活躍は、肥後魂の最高峯といってよかろう。
三、菊池氏の忠誠
筑紫なる矢筈が岳の麓には
鬼とりひしぐ武夫ぞ棲む 読人知らず
矢筈が岳は今の八方ケ岳で隈府町の北方に聳え、八方からの山容が同一である。この和歌は徳川時代に渋江松石が書いた「菊池風土記」に収録されている古歌であるが、戦前の菊池人にはよく口ずさまれた歌で、云わずと知れた菊池一族の武勇をたたえたものである。
菊池氏はその祖、能隆の時に後鳥羽上皇の命を奉じて鎌倉の暴君北条義時追討の軍に加わり、敗れて菊池に引きこもっていたが、文永の頃の蒙古来襲の時は、菊池武房(能隆の孫)が大いに武功を立てている。
元弘三年(一三三三)菊池一族は後醍醐天皇の息護良親王の命を受けて、北条氏の横暴に対抗する為に立ち上がり、博多にあった鎮西探題(九州の総元締)の北条英時を襲撃した。この時かねて共同作戦を取っていた大友少弐両氏に裏切られ、決死の覚悟で探題の館を襲ったが、味方の兵数が余りに少なく遂に戦いに敗れた。その時武時は、一子武重を呼び、父と共に死す愚さをさとし、再起を図るために脱出させ、菊池の里に待つ夫人に左の一首を託した。
ふるさとに今宵ばかりの命とも
知らでや人の我を待つらむ
鳴呼この一首は、菊池郷に住む人達の心の糧として、一千年の昔から口ずさまれて来たのである。従来菊池郡出身者は真面目で通り、西合志村で明治二十五年から戦前まで繁栄した工藤左一氏の合志義塾では、菊池氏の「忠魂義胆」を精神教育の拠点としていた。
四、泗水は四水
「泗水町」の「泗水」の語源が何から来たものであるか、言語学や漢学に熱心な人は誰でも一応質問されるのであるが、昭和四十年発行の「泗水町史」によると、泗水平野を貫流する合志川は、鞍岳を水源とする若木川、米井川(平川)、湯船舟川、矢護川、の四支流を合わせたもので、明治二十二年、町村発足の際、豊水戸長役場と住吉戸長役場と合併して、村名決定を迫られた際、初代村長の西佐一郎氏は、漢学の素養があったので、合志を孔子になぞらえ、孔子が生まれた支那の山東省曲阜にある泗水の地名を取って、四水と同じ意味の泗水と名づけたと伝えられている。
合志川流域には石器と縄文土器が沢山出土している。増田家のある田中部落の合志川沿いに古関原遺跡がある。又古墳遺跡も町内に数多く発見されている。合志川の南方平野一帯を合志荘と称し、平安時代正暦三年(九九二)頃は、太宰府の天満宮安楽寺の荘園になっていた。
合志氏は寺領奉仕としこの地に駐在し、菊池氏と共にこの地の豪族として栄えた。現在の合志町の竹迫には、合志氏の居城の跡がある。細川藩は政治の末端に手永を置いたが、郡に二〜六の手永が置かれ、合志郡には竹迫手永と大津手永があった。竹迫手永とは竹迫氏の治める手永をいうことで、竹迫町にあったからではない。それで初期は竹迫にあったが、中期から泗水の福本区に移され、幕末まで活用され、その建物が現在も残っていて本田氏の居宅となっている。
竹迫町は明治の中期まで熊本市と隈府町を結ぶ交通の要衝とし、一面合志氏の旧城下町的風格ある田舎町として栄えた。簡易登記所があったりしたが、明治三十年頃に、熊本隈府間の県道が、竹迫を避けて泗水の高江(旧泗水村の中央より稍西方)を通過するようになり、旧合志郡の中心地は泗水に移るようになった。
泗水村内の政治文化にしても、この道路に支配されているのは面白い。この竹迫道路は泗水村の東北端部を通過し、住吉が要衝の地であり、住吉の西南方に合志川をはさみ、永区と村吉区が隣接していて、部落の団結力も決して弱くなかった。それは明治初期の教育の記録が、東部地区(住吉区と永区)のものが西部地区のものよりも、遥かに詳細に残っておること、村役場も最初村吉に置かれたことでもわかる。
以上のように、歴史を繙いてみると、泗水人は地理的に、菊池郡と合志郡の境目にあり、行政的には合志郡に属していたが、精神的には菊池郡に属し菊池氏の伝統を強くうけていたということがわかる。
五、田中部落と増田家の歴史
田中部落は戸数僅かに十八戸、大字吉富の小字であり、吉富部落と合志川北岸の中間に位していて、前掲の古代遺跡の古閑原遺跡のあることから見ても、古くから住民が居住していたと想像される。部落中央の墓地内に天文年間の板碑があるが、天文廿年(一五五一)今より四一五年前の室町末期の建立である。当時すでに集落があり、寺院が建立されていたことになる。寛永十年(一六三三年)の合志郡内古閑村人蓄御改御帳には、戸数五戸男子六人女十二人となっている。村人の言い伝えに「住吉ながれの古閑ぎつね」と言っており、「古間とは新しく開かれた出村で、江戸時代に住吉から移住したのかも知れない。田中と呼び始めたのは明治中期頃からで、同村内の住吉にも古閑と称する地区があり、当方は水田の中央にあるから田中と呼び始めたらしい。
田中が住吉の出村である証拠として、増田家が住吉区の住吉神社の氏子であり、五十年毎にある大遷宮の御休憩所が、この田中の増田家を使う習慣となっていて、去る昭和四十年の八月にも行われたことでもわかる。
増田家は幕末頃はこの田中部落の年貢取立役を勤めていて、苗字帯刀を許されていたが、火災に逢ったらしく、系図等が殆ど残っていない。しかし所有地は莫大なもので、田中から吉富部落まで五百米以上もあるが、この間の水田が全部増田家の所有であったと伝えられている。
又、この地方の語り伝えに「合志川筋の三家」というのがあり、川上から云えば、北合志村の赤峯家が、泗水の増田家、田島の岩下家であり、増田家が泗水村第一であったことは疑えない。隣家の早田にきさん(昭和十四年六十七才死亡)の生前の話に、幼少の頃増田家の庭には杉並木があり、師走になると小作米を積んだ馬が何頭も繋がれていた。又美しく着飾った士族の奥さんや娘達がお客として来訪するのを垣間見たという。
六、増田家と郷友会
増田家の家格を語る一資料として「報徳郷友会」がある。現在郷友会の幹事である西合志村合生の平田案山子氏から見せて貰った。昭和七年四月調の西部報徳郷友会員名簿は、泗水村六二名、西合志村五七名、合志村四六名、田島村一六名、清泉村五名、計一九六名である。この中に増田作太氏(現町長の父)が加わっていて、又現町長も幼年時代に度々西合志や合志村に郷友会の集会に、父の供をして出かけた記憶があるといっている。
徳川末期に肥後の国には本当の士分の者と、いわゆる金あげ士分とがあり、地方の有力家として郷士と称していた。地主もあり、自ら耕農する者も居て、いわゆる屯田兵的に、一朝有事の際は武器が執れるよう、平生から武技を奨励していた。その稽古奨励費として、細川家から山林十町程与えられていたが、それが明治維新の頃、官林と誤認され没収されていたのが、六十五年後の昭和七年に、昔の所有権が確認されて、地代金弐千円がころげこむようになった。一時は非常に喜んで、郷友会を結び、旧交を温めたりしていたが、敗戦による貨幣価格の下落で、今は殆ど有名無実となってしまった。ただこの名簿に名を列記された家は、その家の歴史を語る一証左とはなるであろう。
増田家が郷友会員であったばかりでなく、敬太郎氏が学んだ、水鳥家も後藤家も共に郷友会員であった。
七、偉丈夫の誕生
僅かに三日の活躍で神様にまでまつられるということは、尋常一様のことではない。環境は人を造ると云われるので、前項で郷土の地勢と歴史を語った。次には愈々増田家の実態に触れなければならない。
敬太郎氏は明治二年八月十日、喜三郎養子の長男として生まれた。母キミは家つきの娘であった。敬太郎氏は生来体格が大きく、性質も鷹揚で、いかにも資産家の坊ちゃんらしく、同情心に富んでいた。
合志川を隔てて一粁位の距離にある福本の母の従弟の本田半四郎の家に、よく遊びに行った。この本田家は、御維新前の会所跡を住宅としている位で、この部落のいわゆる有志家であり、生活も豊かであったので、暇さえあれば敬太郎氏はこの家に遊びに行った。
この福本区に泗水村の小学校が出来たのは明治七年から九年頃であるが、その記録が全く残っていない。
ただこの地区に永烏という家塾があり、敬太郎氏も永烏塾に学んだと言い伝えられているが、小学校の修学状況については何等の記録もない。
第二尊 玉は磨かれて
一、永鳥塾の漢学
増田家の文書に敬太郎氏が永鳥塾に学んだという記録はあるが、永鳥塾に関しては、先年出版された泗水町史にも何等記載されていない。内田貞臣氏の協力を得て、永鳥家の墓碑や居住地の調査をやり、又熊本商大教授丸山学氏により、永鳥家の当主が丸山氏と同じ広島高師出身であることが判り、東京銀座で弁護士を開業している当主と連絡がついた。
又初代の直哉の夫人登喜は筆者と関係の深い西合志村弘生の緒方家の出であることが判ったので、緒方家を訪問、当主勲氏と懇談、台湾から送られた永鳥一家の写真を見せて貰い、永鳥益雄先生の風貌に接することが出来た。
永鳥家は菊池西部郷友会の名簿にも名を列して居り、西部地方切っての名門緒方家から夫人を迎えているところから、士分であったことは疑えない。初代の直哉の墓地が長男直正(二十八才で逝去)の墓と共に、福本区の村木家の墓地内であるので、泗水在住に期間が大して永かったとは思われない。それで筆者の想像では、幕末頃、細川家の年貢取立役として泗水村に在住したのか、或は明治になってから、小学校が福本区に出来た頃、教師として招聘されたものであるかも知れないと思う。
泗水村の小学校教育史には住吉区は明治七年、永区は明治十一年から開設しているが、西部は明治二十一年に豊水、福本、富、村吉の四校を合併して豊水に新校を造営したとあるのみで、福本区の小学校の創立年度が不明であるが、恐らく永区に出来た明治十一年より後れてはいない筈である。
永鳥塾の長は益雄(安政二年生まれ、昭和六年東京にて七三才にて没)氏であると伝えているが、益雄氏は明治十一年には漸く十八、九才であり、独立して漢学や国語を教えることは出来なかった筈だ。父君の直哉(石碑に直懐とあるは間違いであると、現存する孫の九皐=東京在=の言)が五十九才で、最初は父君が教えていたものと推察せられる。又明治十二年に二十八才で死んでいる直正という人があり、これが長男で、益雄先生より三年年上であって、助教もしていたと解すべきであろう。とに角永鳥家は、一家を挙げて漢学の教授をなし昼間は小学校に夜間は私宅に家塾を開いていたものと思われる。古老の話に女子は主として昼間の公立学校の方に通い、男子は夜間先生の私宅に適って勉強したと云う。
福本区に於いての公立学校跡は、殆ど村民の印象に残っていないが、塾のあった場所は、現在県道筋に三姓信義氏住居の処と伝えている。永鳥家の住居の跡は別に存在しているが、この塾跡と云うのが明治二十年頃迄は小学校で、その後が永鳥家の勉強場に使用されたのかも知れない。永鳥益雄氏は福本小学校から、明治二十一年の合併校豊水小学校新設の際、同校の教師に転じたが、後日東部小学校に転任した。なお後記のように益雄氏が後日台湾に渡る際、父の墓の管理を依頼した村木氏宅にフロックコートを一着記念に置いて行ったと云うから、多分校長であったと思われる。
永鳥家への住宅寄贈。年代は判然としないが、門弟達が永鳥氏へ菊池郡花房村の医家加藤家から、古い住宅を譲り受け移築して贈ったという家が、今日も現存している。永鳥家は明治二十九年末に台湾へ渡り、益雄氏の次男九皐氏は台湾師範から広島高師に進み、戦後は東京で弁護士開業の由である。
敬太郎氏は、福本区の、本田家の半四郎氏を全く父親のように慕い、暇さえあればその家に出かけたが、又その隣りが永鳥塾であり、益雄氏が八才位の年長に過ぎなかったので、兄に仕えるように親しみ、勉学にも熱が入ったようである。
永鳥塾出身者で名を成した人は、安武千代松弁護士(西合志村出身)、磯谷新太郎検事(福本出身)大島新陸軍少将等であった。
二、数学の天才後藤官平先生
敬太郎氏は一粁位しか離れていない村吉区の後藤官平先生に数学を学んでいる。後藤先生は天保五年生まれで増田氏とは三十五才の年齢の開きがあった。
後藤先生は木村家の次男であり後藤家の養子に入った。安政元年(二十才)頃から熊本市で有名であった数学及天文学の師範中島先生に師事した。後藤先生は熊本市に米売に馬をひきながら出かけ、帰路に中嶋塾に寄って教えを乞うた。高等数学の代数幾何等もよく理解した。文久元年に算術秘奥の免許、暦術測術皆伝の免許を得、官の恩質にも預かったが、特に郡率直触に列せられ、佩刀を許され、維新の初め士族に列せられた。細川藩主が軍艦万里丸を購入した時、乗組員に起用の内命があったが、義父母への孝養の為に栄達のチャンスを見送った。家業のかたわら人の乞うままに算術を教えながら、更に進んで洋式の高等数学も修得し、小学校令が制定されてから、吉富田島等の教員として、特に小学高等算術科免除を受けた。
後藤家の系図の一節
干時明治二年八月細川君之御治世。算学尺学暦学数測量術等之芸切ニ関而士族ニ被任同十六年七月高等訓導ニ被任同廿一年一月吉富学校兼私立直整黌ノ認可受ス同二十二年六月旧君細川斎護公御子従三位護美公ヨリ直整黌ニ御書額頂戴同二十四年十月為教育公上睦仁帝ヨリ直接黌勅語ノ巻ヲ奉賜ス 敬 白
塾生が多くなり、菊池郡だけでなく、熊本市を始め、鹿本玉名阿蘇各郡或はもちろん県外からも入学希望者が多いので、官庁の許可を得て数学専門の私塾を開き直整黌と名づけた。時に明治二十一年のことでありこれに増田敬太郎氏が「開塾を賀する文」を書いている。
開塾ヲ賀スル文
夫レ国家の盛衰ハ人民ノ腎愚ニ困リ人民ノ賢愚ハ教化ノ厚薄ニ之レ係ル故国ニ学士無ンバ譬エバ欧米ノ富ヲ羨ミ英仏ノ強ヲ慕モ焉ソ之ニ做フ可ヲ得ンヤ故ニ頴才卓絶ノ人競フテ学ニ遊ピ各其好ム処随テ孜々汲々タレバ其業モ速ニ成就ス可シ而シテ其業ノナリ功遂ニ至テ上ニ明政出デ下ニ風俗ナル而シテ後文明開化ノ言唱フ可ク英仏欧米ノ富強モ企ツ可シ鳴呼学ノ国ニ置ケル急ナリト日ツ可シ然而シテ我国維新ヨリ学術漸ク開クト雖算道未ダ疎ナル処有り
今ヤ後藤先生自ラ奮発シテ一塾ヲ合志川ノ北辺吉富村ニ設ケラル不日ニシテ其功ヲ竣工本月本日ヲ以テ開業ノ典ヲアグ而シテ此塾ノ配置南東ニ両シ日光ノ投入大ニ其利ヲ得タリ後ニ竹木茂森シ前ニハ田畝遠ク連々トナシテ麦浪楊々人神ヲシテ清カラシム而シテ清水其南ヲ流レ其他ノ結構構恰モ其処ヲ得クリト日ッ可シ之ヲ以テ知ル先生ノ注目スルヤ如斬卓越ナレハ其授業ノ至レルヤモ亦知ル可キナリ鳴呼此区ニ民タルノ子弟其人ノ教育を蒙ラバ其成立完全タル更ニ疑ヲ入レス故二余ハ殊ニ新築ノ成美ヲ賀スルノミナラズ併テ住民徒労ヲ省キ修学ノ便ヲ得ルノ幸福ヲ祝スト云爾
再 拝
増田敬太郎
敬太郎氏が何才頃から後藤塾に出入し始めたのか判然としないが、十年以上も通い、明治二十年に修了証を戴いている。二十一年の開校式に門下代表として祝辞を述べた彼は、未だ若冠二十才に過ぎなかった。然しその頃彼は前期永鳥塾に於いて充分漢学の素養を養っていたから、こんな堂々たる文章が書けたのである。
後藤氏の直整黌は僅か九年間で塾主の逝去と共に閉鎖されたが、門下生は五百余人に達していた。逝去に先だち、後の合志義塾々長工藤左一氏等が発起人になり石碑を刻み、碑文に氏の功績を讃えている。
三、東京遊学
後藤先生の直整黌の開校式も済み、二十一年(二十才)に敬太郎氏は東京に遊学し、主として法律学を学び、傍ら英語、速記術、鉱山学等を修得し、二十三年に至り徴兵適齢になったので帰郷したが、二年間の滞京で相当の勉強をしたらしい。なお敬太郎氏の勉学を語る一挿話として敬太郎氏の没後二年にして生まれた亥平氏の長女衣恵女が六〜七才になった頃主家の二階へ上がったら、漢文その他の本が長持一杯這入っていて、その中に「日本外史」があったことを判然と記憶していると云う。
第三章 登龍はもだえる
一、土木技術員から北海道開拓へ
明治二十三年三月(二十二才)阿蘇郡馬見原の国陵山脈地帯の用水路の開鑿工事の技術員として招聘されて、相当の実績を挙げ得た。
敬太郎氏の行動は常に凡人の意表を突き、経世救国的事業が多かったが、中でもこの北海道の開拓事業は最初は囚人の徒役と東北地方の士族くづれの救済策として政府が考え出したものであり困難な国家的事業であった。明治二十三年のこと、郷土人数十名を募集し、引率して、北海道に渡ったのである。
一行の中には隣家の宝田八重八氏夫婦や、住吉の皆本三太郎氏や、西合志村野々島の小学校の先生であった古沢左次郎氏も参加した。又玉名郡伊倉町字本村の浦谷吉太郎、浦谷万太郎、仝千太郎(後二人は兄弟)が参加した。(この三人のことは最近、伊倉町の関氏に依頼して調査した。帰郷せず成功している由)宝田夫婦は四反の水田を売却して旅費をつくった。一行は長崎に出て、舟で北海道の小樽に上陸、岩見沢の開拓地に入った。
開拓地の実情は聞きしに勝る悪条件揃いで、土地を買収しなければ耕地が得られなかったので、自分の体のみて稼ごうと思って行った人は、仕事にありつけなかった。住吉から同行した皆本氏は、家に内証で出かけたので、大した資本を持たなかったし、団長の増田氏は相当の軍資金も用意して行ったが、焼け石に水であった。食料は少なく、飲料水が悪くて腹をこわす者が多く、増田氏も腹を病み、開拓地に見切りをつけることになった。泗水から行った者は大部分が引き揚げることになったが、宝田夫婦は泥棒に逢ったりして帰国の船賃に困ったようである。当時の敬太郎氏の手紙が現在保存されているが、団長として苦心は全く血を吐かんばかりである。
手紙全文
極暑之候貴家益々御清安御暮之事ト奉察ス 次ニ生儀無異消日セリ 君意ヲ労スル勿レ 却説先日再三発電致シ貴君ノ御迷惑御心配御苦労モ顧ミズ送金ノ事ヲ委頼シ着金后来ル三日ヨリ帰国スルトノ故ヲ報セシノミ。而シテ御礼モ怠リ其後今日迄何タルコトモ報セズ定メテ徒費否ナ東京若シクハ何レヘカ廻国又ハ如何々々種々御想孝之レアラナント察ス。生カ罪乎鳴呼君ノ想考ヲ起サシムル天ノ生ヲ罪セシム乎今事枚挙ゲ其止ムヲ得サルニ出タル生カ不運ナルニ依レル今回ノ送金を再頼セシノ所以ヲ述べ聊カ赦免ヲ乞ハント欲ス
君之ヲ許赦セヨ 去ル五月廿七日札幌ニテ汽車ニ乗り同日午后小樽港着堺町ニ宿泊馬関行船ヲ待チ居シ所仝 日本郵船会社汽船帰船セリ然ルニ仝船ハ定期航海船ナルヲ馬関迄拾弐円ヲ要ス然ルニ貴君御承知ノ玉名郡古沢佐治彦氏熊本廻ヘノ帰国便宜ヲ計ラン為ノ東京塩田回送店小樽出張ト契約シ熊本百貫迄一人ニ付七円五拾践ノ契約ヲ為シ人数三百人ノ定約セリ而シテ仝卅日出船ノ予約ナリ依テ生利ト便益トヲ以テ其日ノ乗船を后レタリ 然ルニ今回送店汽舟寧静丸仝日迄ニ着セス人数モ亦夕集マラス仍テ一日出舟ト為レリ
其后続延致シ三日トナリ六日トナリ汽船全日午前一時漸ク着港セリ然ルニ数満タス依テ仝金ニテ馬関迄ノ船賃トナレリ 然ルニ又宝田氏ハ札幌ニテ金員ヲ失ヒ仝四日生カ宿所ニ来ラレタリ一種ノ金員モ無シ
宿料ハ素ヨリ生カ困難如何ナリヤ其後仝汽船ハ一航海ヲ為シ十六日ノ出港トナレリ依テ定約破ル益々困難ヲナセリ又古沢氏ハ帆船高砂丸ト約ヲ結ビ人員満タスシテ破約ス依テ生等数輩約ヲ為シ帆船勢丸ト走約シ漸クニシテ種々ノ物品ヲ売り仝八日ヨリ乗込ム然シ海ハ可風モ廿八日午前一時漸ク出雲沖二至ル依テ皆々出雲ニ上陸ス 其ヨリ堺市美保関ヲ過キ表面ノ所ニ宿泊セリ然レドモ嚢中無一物一銭ノ蓄へモ為シ依て止ムヲ得ス発電致シタル訳ニテ書ヲ呈セント欲スルモ之ヲ得ス依テ此状着セシ迄若シ送金無之バ直チニ送金被下度此段奉願候也二白二白
弟へハ此旨御通知上下度慎也
三白
帰宅ハ着金六日ノ後ト察ス
廿九日
増田拝
宝田利三次 殿
(封筒表)
熊本県肥後国合志郡泗水村
宝田利三次 殿 親展
消印
肥後豊水
廿三年八月
三日
ロ便
(封筒裏)
島根県出雲国松江市和田見町
島根屋事 島根徳市方
七月廿九、認 増田敬太郎
消印
松江
廿三年七月二十九日
ホ便
その後一週間経った八月七日の発信で広島から次のような電報が届き、その電報が今日まで保存されているが、察するに送金を待たず出発したようである。
一〇エン ヨオカマデオクレ ワケシメン
ヒロシマカリヤマチ ムロタハエハチ
マスダケイタロ
ムロタリサウジ
マスダイエイ
松山から広島まで船か陸路か不明であるが一週間で移っている。
八重八氏と敬太郎氏は一緒だったが他の団員はパラバラに帰国したらしく、皆本三太郎氏は一年後に一人で帰国し、旅費に困った苦心談が、泗水町史の人物伝のところに紹介されている。
増田氏が団長として土地買収に投入した個人的資金も、相当なものだったらしく、その全権利を放棄して帰国したので、その権利は玉名から同行した団員が無償で承け継ぎ、「増田農場」と名づけて、永く記念した由である。
二、郷土にての再起
遠大な理想に燃えて計画した北海道開拓事業も、失敗に帰したので、敬太郎氏も今度はおとなしい役場吏員となって郷土の開発に尽くしたいと決意したが、泗水村には吏員の欠員がなかったので、隣村の合志郡野々島村役場(現在の西合志村の一部)の書記を拝命、土木勧業を担当したが、期間は明治二十三年秋から翌年の二月迄であった。彼の豪放磊落の性格は平凡な役場の行政事務に甘んじ得なかったのでもあろうか。
その後被は熊本の農村開発の新しい産業として、養蚕業の導入を思い立った。即ち明治二十四年三月から鹿本郡田底村の養蚕家平野藤衛氏に就いて、養蚕の技術を習得し、自家にも桑を植えて一時衰退していた泗水村の養蚕業に活を入れた。
三、長崎での貿易商
増田氏程種々雑多の職業を試みた人は稀であろう。年代ははっきりしていないが、長崎に行って貿易にも手を染めたことがある。それは養蚕を始めて、絹糸が輸出品であったので、海外貿易に着想したのではないかと想像される。
ただ長崎市在住中、佐賀出身の士族の娘が、家の没落の為に芸者になっているのに同情し、家から大金を取り寄せて助けたことがあった。
第四章 その人格の深さを
一、侠気は隣人を救う
幼少の頃から美しい着物を着ることを嫌い、、木綿で茶染の衣服をまとっていた。生来、頭がよく、その上漢学、数学、測量学、土木、農業等あらゆる新しい学問を学んでいるので、世の中のことは何でもやれば出来たのである。性格は極めて磊落で、侠気があり、弱き者、貧しい者には同情せずにおられなかった。家政のやりくりで困っている者には誰にでも金を貸した。特に勉強する金がない者には同情し、貧しい少年等には筆墨等を恵んだ。八十年後の今日迄敬太郎氏の遺墨と共に数通の借用証が残存しているが、これは遂に返済されなかったから、証文だけが残っているということになる。巻末の横尾佐六氏の文の中にある敬太郎氏が貸した借用証書中「この金を二年間で返したら三拾円の賞金を出す」などの奇抜なのがあったが現在は紛失している。中に次のような売渡証があるが、これは、百円で売渡しするが、六年間は決して勝手に買い戻すことなく、その後四年間に先方が手離したくなったら、元値で買い戻してやろうという証文である。この地所は多分増田家に質入れした地所が流れていたものを、本人が買い戻すというので同情しての処置と思われる。
地価金参拾九円五拾銭六厘
此の売渡代金百円也
右之地所今般貴殿へ売渡前記之代金正ニ受取候儀確実也 就イテワ明治弐拾八年十二月迄ノ内買返不申候
明治弐拾九年ヨリ明治参拾弐年十二月三十日迄ノ内原価デ似テ買戻候節ワ無意儀御買戻不可被下定約ニ候
左モ右期日ヲ経過候節ワ定約無効ニ属シ可申候 依ッテ為後証如件
巴患郡泗水村吉富千五百三十四番地
明治二十二年二月 増田敬太郎 印
村上米蔵 殿
○あんどん部屋救い出しの逸話
敬太郎氏が二十一〜二才の頃、或る日田舎ではめったに見られないような大金を、粗末な風呂敷に包んで持っているので、従妹の本田さんが、不思議がって尋ねたら、
「○○どんが先日から熊本の二本木遊廓『あんどん』部屋に入れられて、帰れず困っていると知らせて来たから、この金で救い出しに行って来る」と答えた。
昔は部落の青年が余り金を持たないで女郎買いに行って支払う金が不足すると、あんどんを点した暗い部屋に押し込み、人質として帰さず、家に知らせた。これを救い出してやる者は侠気と金力と無ければならなかった。
二、レクリエーションへの理解
農村の田地持ちの坊ちゃんは、大抵大酒を飲んだり、女遊びをするのが関の山であるが、敬太郎青年は一つもこんな上っ調子なことが無く、常に憂国の青年であった。彼に青年らしい若さの情熱がなかったのではない。彼はよく村芝居の劇団を招待して部落で興業させ、又明治時代に流行した浄瑠璃の人形劇(岩坂座)の座元になったり、或いは一座の座長たちを部落に連れて来て住ませたり、更に人形つかいを自ら稽古したらしく、近年まであやつり人形が蔵の二階にころがっていたとのことであるし、又後出の実弟亥平氏に財産ゆずりの証文の中に「操(あやつり)座一式」というのがあって、相当な価格のものであったと思われる。
三、その一言を
前の項で述べたように敬太郎青年の言動は実に正義感に溢れ、世を裨益することばかりで、自己の損失など全て顧みなかった。多くの農家に融適した金は貸し倒れになり、北海道開拓事業と長崎の貿易業の欠損など相当なもので、さしもの増田家の財産もどしどし減って行った。
それで親類の長老が見るに見かねて、一大忠告を試みたのだった。
「敬太郎どん!貴方のやること始めることは皆人の為国の為になることばかりの様で、他の人はその事業を覚えて栄えているが、肝心の増田家は一向繁栄することはさておき、益々細って行くのは何うしたことだろうかな?」
と詰問に及んだのであった。敬太郎青年は即座に、「貴方のような物の解った人が、そんなことば言われるとは意外ですな!日本中の財産も金も皆天皇陛下のものだし、日本国民のものだけん増田が持たないようになっても、他人が儲け、金持ちになってくれたら、それで良いではありませんか!」と一喝に及んだので、この長老も返す言葉がなく、一緒にいた親類や知己も「やはり敬太郎は変わり者だ」と不満を漏らしたり、「敬太郎さんは偉い人じゃ」と感心したりした。
これは五百余年前に北条家の大家老青砥藤綱が十文の銭を夜の川に落として百文以上を投じて人夫と松明を買って探させ、家来達が笑うのを制して、川底の銭は誰も利用しないが、人夫や松明に使った銭は誰かに役立って居ると教訓した話は有名であるが、増田氏も恐らくこのことを知って居られたであろうし、又西郷南洲の「子孫のために美田を買わず」なども理想としていたと思われる。
然し増田家には亥平という六つ違いの弟があった。兄と違い実直な人で増田家の農業を継ぐべき人だが、田畑を全部人手に渡させては農業が出来なくなる。
前記の親類の忠告を受けた頃、敬太郎氏も考えるところがあり、老母や実弟、特に由緒ある増田家の将来の家運を新に考えざるを得なかった。幸い弟亥平氏は農業熱心なので、この弟に増田家の将来を託しようと考えた。
四、家督相続権を弟に譲る
戦前は家督相続と云って、戸主が認める後継者(主として長男)に殆ど財産の大部分の所有権が譲渡される習慣になっていて、次男、三男は四分の一か三分の一程度、母親は隠居田として極めて僅少の財産を分けて貰うに過ぎなかった。叉明治の中期頃までは田畑の所有権を他人に譲ることは、仲々面倒であり、質地と云って、仮の管理権を譲るだけで、何時でも買いもどすことが出来たのである。
又家督相続に就いては裁判所の財産所有権の認定がやかましく、子供が未成年である場合は後見人が必要であった。増田家も喜三郎さんが早く死んだので、父方の従兄に当たる園田勘四郎さんが後見人になっていて、敬太郎氏は二十四才迄、まだ本当の家督相続をしていなかった。
それで、明治二十五年の春、敬太郎氏の発意で、親族会議を招集してもらい、家督を令弟の亥平氏に譲ることを自ら提案し、自分の借金も同時に処理してもらうように願ったのである。明治時代は、国家社会の為には、自分を捨てて奉仕する人が多く、財産を使い果たし、年老いた両親や勉学中の子供まで路頭に迷わせる人があったが、敬太郎氏はこの点でも聰明さを失っていなかった。
かくて親族会議の結果大部分の財産を弟亥平氏の所有とし、今迄父の死後遺産相続の登記が済んでいなかったのを同時に弟の名儀にして済ましたようである。この当時のいきさつを語る「増田敬太郎分約定書」とい う古い書類が残っている。
○定 約 書(写真参照)
一金三百五拾円也
但し地代金と借金と差引残金
右は明治二十五年五月十三日拙者所有の不動産貴殿へ譲渡致し置候ところ、今般親族会議の上、拙者分家仕り候に就ては、貴殿へ譲与致し置き候地所の内、田一町五反と畑六反歩を拙者所有とし、田一反歩に百五拾円あて、畑一反歩拾五円あてにて売渡し申候については、拙者の借財は一切貴殿に於いて御受け下さるベく候、然るに地代金と拙者これまでの借金は差引き 別記の金額まさに受取り申候うに確定なり。ついては右の地所については、いささかも故障されなく候、依って後日のため親族連署の上定約書如件
明治二十五年十月廿五日
合志郡泗水村吉富
増田敬太郎 印
増田 亥平 殿
増田巡査直筆の家督相続権移譲の定約書(その一)
仝 (その二)
○ 定 約 書
合志郡泗水村大字吉富字中平町千六百四拾四番
一田弐畝弐歩、地価金拾四円参拾参銭
以下弐拾弐筆、合計一町八反九畝弐拾六歩
地価金千百九拾円八拾七銭弐厘也
右の地所別記の代金を以て売渡置候ところ、今般不動産相続仕り候につき、貴殿にお受け戻し相成候とも、いささかも故障の筋無之候、依って後日のため証書一札如件
明治二十五年 月 日
合志郡泗水村吉富
増田敬太郎 印
増田亥平殿
後見人 園田勘四郎殿
○ 走 約 書
一瓦屋一棟 間口七間、奥行四間半
一瓦倉一棟 三間、弐間一尺
一麦稈屋一棟 弐間半-六間
一同 一棟 弐間−弐間半
右は今般貴殿に譲与仕候に付いては後日いささかも故障申すまじく候、依って定約書如件
合志郡泗水村吉富
明治二十五年九月五日 増田敬太郎 印
増田亥平 殿
○ 定 約 書
一操座(アヤツリ座)壱式
右は今般貴殿へ譲与仕り候間、拙者に於いては一切故障申上まじく候、依って後日の為定約書如件
合志郡泗水村吉富
明治二十五年九月五日 増田敬太郎 印
増田亥平 殿
○ 家督相続に付地所譲渡証文
合志郡泗水村大字吉富字川陽千弐百九拾九番
一 田壱反三畝六歩 地価金五拾円五拾四銭
(以下田畑弐拾二筆、地価金合計千百六拾壱円参拾参銭八厘也)
右の地所拙者所有に候処明治廿五年五月十三日貴殿へ家督相続に付、譲渡候儀確定也。然る上は譲地所に付故障一切無之候。依って一札如件
明治二十五年五月十二日
合志郡泗水村大字吉富、千五百四袷参番地
相続人 増田敬太郎 印
同郡同村 譲受人
増田亥平 殿
後見人 園田勘四郎 殴
以上四つの定約書並びに土地譲渡証文により、敬太郎氏が地所は勿論のこと、住宅の殆ど全部と自分の秘蔵の操(アヤツリ)人形一式も弟に譲っていることがわかる。即ち敬太郎氏は自分の借金に責任を感じ自ら分家して財産所得権を弟に譲ったのである。
五、家運挽回を養蚕業に賭く
泗水町誌によると、本町の養蚕場は明治五年頃吉富の神社神職の某氏が飼育したのが始めであり、明治九年頃長野県から桑苗を取りよせて栽培して盛んに飼育するようになった。かくて各部落で点々飼育するようになったが、養蚕は繭の加工即ち製糸業が伴わなければ繭の換金に困るし、又一面蚕は気候の他技術の拙劣の為に急死して、徒労となることなどがあって、明治二十年頃には一時衰微していた。然し二十六年頃には再び盛大になって、生産高は年額八百石、八千貫に達したとある。即ちこの養蚕業を再び盛大にするに就いては、増田氏の功績が極めて大きかったと見られる。
養蚕を盛んにするには、蚕種の製造と繭の加工が大切であるが、蚕種製造は増田家でもやったらしく、その器具が今日も残っている。又糸をつむぐには坐授(ザグリ)や足転(ソクテン)等の機械を購入して加工し、絹糸にして販売したり、或は自家の織物に供したのである。
敬太郎氏は、家督を弟に譲った二十五年の夏から二十八年の春まで約三年間、自宅に於いて養蚕業並びに普通農業に熱心に従事し、特に養蚕は水田が少なく畑地帯の農家に適するので、この畑地帯の農家救済策として熱心に研究指導した。出来るならば普通農家として自立したかったのかも知れない。
後年泗水蚕糸共同組合を組織経営した斉藤長八氏は、田中部落の鼻先になる大字吉富の人で、この地方に養蚕が隆盛となったから、その加工を組織化したのである。泗水村の養蚕は畑地の多い村の東部の住吉、永村、村吉等で比較的盛んであり、筆者等も幼年時代、夏は蚕の桑摘みに追い使われ、冬は毎年糸取り車の音を聞かされたものであった。
増田氏を泗水の養蚕業の開拓者とするのは少し誇張であるかも知れないが、確かに中興の功労者であったことは事実である。
敬太郎氏は常に国を思い良い意味の野心に充ちて、新しい事業を追及し、腰が安定しない傾向もあったようだ。それは自分が食わんが為でなく、他人に食わせ、村や国の富強をはかるためであったのだ。
後年又弟の亥平氏がその志をつぎ斉藤氏と共に泗水の養蚕の発展に努力したことが亥平の墓に刻まれている。
第五章 天はこの人を待てり
一、 佐賀県巡査志願
増田氏が如何なる動機で佐賀県巡査を志願したか不明であるが、察するに、世は日清戦争となり、長男でない者は徴兵に取られて戦場で生命を棄てている。元気な自分が、予ねて国家社会の事を口にしながら、この非常時に安閑としているのは相済まぬ。何か国家的任務に就きたいと思うのは、敬太郎氏の性格として当然である。又家庭的にも独立自覚が迫られていた。それで何かの機会で佐賀県巡査募集の広告を見て、彼の青春の情熱が動いたと見るのが妥当のようである。又明治の初期には士族出身者が盛に警官になっていた。
警官は国民の日常の平和と秩序を守ってくれる者で、戦前は軍人、教師等と同列に国民に尊敬を受けたものであった。士分出身であり、高等の教育を受けている敬太郎氏にとって、採用試験など全く無条件ではなかったかと思われる。
増田家では今度こそ就職したら、勝手には辞められず、敬太郎氏の気性にも適した巡査を志願してくれたというので、大喜びして母堂の隠居田を売って旅費となし、親族一同喜んで送り出してやった。
さて、増田巡査が佐賀県の巡査教習所に入所したのは、明治二十八年七月六日頃であったが、十日足らずの訓練で教習所を卒業、七月十七日に佐賀県巡査を拝命した。管内の任地決定に際し、東松浦郡の入野村高串部落にコレラか流行し、一人居る駐在巡査も病弱で充分働けず、応援を依頼して来ていた。佐賀県警察本部係の音成警部は、新しく教習所を出て今任地を決めようとしている新任巡査の中に適任者がありはしないかと、一人一人面接調査したところ、熊本県出身の増田敬太郎という一癖ありそうな男を発見した。
彼の履歴書を見ると、漢学数学天文学その他一般に亘り相当深く学識があるばかりでなく、北海道開拓団や長崎の貿易事業などにも経験があり、衛生や防疫等にも見識があるらしい。音成警部が二、三質問をして見ると想像以上の学識者である。それで音成警部は増田巡査に向かって「入野村のコレラの流行は全く爆発的に拡大しつつあるので、一日も早く適切な手段を講じなければ、如何なる大事となるやも図り知れない。まだ警察官として実際の経験もなく、特に他県出身者で管内の地理にも不案内の君に、このような大任、しかも困難危険性さえあるコレラ防疫指指導官として、赴任を願うのは、全く気の毒であるが、履歴書を拝見又ただ今種々質問をしてみたが、君の学識と経験並びに気力など、佐賀県警察界にこれ以上の適任者は居ないと断言せざるを得ない。それでこの際、一肌ぬいで佐賀県警察の危急を救ってくれないだろうか」と諄々として懇請した。
義心の強い増田巡査は、音成警部の知遇に感激、欣然としてその乞を入れて、即刻赴任を決意し、コレラ防疫の具体策に就いて意見をのべた。音成警部は大喜びで「君のコレラ防疫対策は全く学問的で具体的であり、我々は君にそれ以上指導すべき何物も持たない。即刻赴任して貰いたい」と話は一決し、直ちに唐津に向かい、唐津町に一泊し翌廿一日には高串入りをしている。
二、高串部落にコレラ侵入す
高申部落は現在は肥前町になっているが、合併前は入野村であった。長崎県と狭い海を隔てて境し、東松浦郡の政治的中心地唐津町とは二〇粁離れ、しかもけわしい山越えの路である。この地区は従来上場地帯と称せられ、地下水が少なく荒地が多く、開発が後れている。今でさえバスが通じているだけで唐津から一時間十分位はかかる。増田巡査が赴任した頃は、人馬が漸く通れる程の狭い坂路だったという。
湾の入りが深く水深も深く、なかなかの良港で、村境近く鯛の鼻炭鉱(長崎県)村内には大鶴炭鉱(現在休業)もあり、魚の水揚げが多く、戦前のバス開通迄は、夜中の二時頃起きて、唐津まで五里の山路を鮮魚の籠を背負って走るように急いで運んだそうである。入野という村名は、西行法師の
松浦がたこれより西に山もなし
月の入野や限りあるらん
の和歌から取ったものだといわれ、九州筑紫の最南端だと考えられていた。西海岸の突端を渡錫の鼻と称するが、これは昔弘法大師が入唐される時に錫を渡した処と伝えられている。
高串部落は現在四三〇戸あるが、日清戦争頃は二〇〇戸位だった。どうしてこの小さな港にコレラが侵入したか、その原因を調査する方法もないが、由来戦争には外来伝染病がつきものであり、南方からの貨物や船客の出入りもあり、その頃は充分な海港検疫なども行われていなかったようである。コレラは元来熱帯病で、日本の国内では冬を越せない伝染病だが、戦時は屡々侵入して来た。それは軍需品の運搬で外国との交通が頻繁となるのに反して、国内の防疫態勢は悪くなっているからである。特に高串港には石炭積の船が出入していたので、南方との連絡が多かったものと考えられる。
明治二十八年六月の末頃、高串部落の土井の浦の牧原ソヨ女を最初に襲い、七月に入り中村幾治の一家を襲い四人の家族を侵し、蔓延の魔の手は楠村吉歳を襲い、遂に評議員として防疫事務に活動していた青木増太郎氏も感染した。
引き続き此処彼処に疑わしい病人が続出するので、区民の不安は高まり、村当局者の驚憚は譬えようもなく、出漁も商売も全く手につかず、全区殆ど火の消えたような有様となった。コレラは猛烈な嘔吐と下痢が続き、短時間の間に脱力憔悴し、二〜三日で死亡してしまうのである。村人はこの病気をトンコロリンとかネジリバラとか称して、これにかかれば死神に取りつかれたも同然と怖れおののいた。それで村人にはいずれも安全な場所を求めて避難し、山の上の村はずれの親族の家に避難する者も多かった。
このように部落内は全く混乱に陥ったので、時の村長桜井宇太郎氏は、助役の坂口政敬氏を防疫主任に、衛生委員中山文作氏を補佐役にし、高串区長伊藤虎之助邸を防疫本部とし、駐在巡査杉本澄太郎氏を始め、評議員川口走次郎、青木増太郎、中山松之助、田中最太郎、山下大蔵、岩本惣助、衛生組長川口彦作、衛生委員井上天倫の諸氏と協議の上、各部署を定め、戦闘の第一線には杉本巡査と衛生委員が当り、坂口主任伊藤区長等は、第一線と本部との連絡を保ち、防護の全般に亘って充分努力が払われた。
高串部落は前にも説明したように、他部落との交通が陸路では非常に不便だったので、陸路からの人の出入りは比較的少なかった。又耕地が極めて少なく、耕農の牛馬が居らず、野莱の生産が少なく、昔から蝿は少なかったと察せられ、消化器伝染病の代表であった赤痢や腸チフスは、この地に流行しにくくなっていたと考えられるので、伝染病の防疫に対しては余り心構えが出来ていなかったように思う。
三、部落の混乱
その平和な漁村に、突然外来のバチルスが海からやって来たので、村人の狼狽は甚しかった。特に総指揮官の杉本巡査が何か持病を持っていて、充分な活動が出来なかったのは致命的ないたでであった。明治大正時代の衛生行政は警察官が全般を握っていて、巡査は総ての衛生行事の第一線に立たされていた。然しコロコロ死んで行くトンコロリンとあっては、警察官にとって強盗殺人の犯人より怖しいのも無理はない。現在増田神社に奉納されている島常也執筆の増田神社縁起書の中に、勇気を欠いた杉本巡査をいささか非難してあるが、之は苛酷であると思う。神様でない者が、悪魔の前にひるむのは当然であり、特に敵は眼に見えない細菌だ。これを防ぐ方法がどうしたらよいか解らないので恐ろしいのも無理はなかった。
それで唐津署に対して応援巡査の派遣が要請された。唐津署でも事態の急迫を心配して佐賀の警察本部と相談し、県段階に於ける第一級の実力警官の人選となったものと思う。犯人捜査ならば腕利きの刑事が本署に待機していようが、何時流行するか解らない伝染病の防疫の実力者を、待機させて居る筈がない。ましてふだん国内に無く、めったに流行したことのなかったコレラの経験者など居るわけはない。それで新進気鋭の教習所新卒の巡査達の中から起用してみたいと考えた音成警部の思いつきは、全く当を得たものであった。そこに吾が増田巡査がいたのだ。全く白羽の矢とはこのことで「天なり命なり」の感があり、運命的なものと考えざるを得ない。即ち世の中に神が存在するならば、増田巡査をして高串のコレラを防ぎ止める為に遣わされたのであり、キリストの言葉の「神の御業の現われんがため」であったといえよう。
増田巡査は唐津署に立寄り、唐津町に一泊、二十一日は未明に起きて、高串からの迎えの者と一緒に五里の山路を高串に急いだ。
増田巡査は午前中早く高串に着いたが、部落内の入口で鐘、太鼓をたたいて疫病よけの祈祷をやっているのを目撃して、部落民の知識の程も察せられ、部落に住む一人の祈祷師が大敵であり、今度のコレラ戦争の容易でないことを意識した。長崎屋という旅館に旅装を解いたが、直ぐに丘の中腹の区長伊藤氏の家でコレラ戦争の謀議に参加した。この区長宅の玄関側に、見張所という前面の港や民家が見下される部屋が作られ、駐在巡査の立寄所としてあったのだ。明治時代は全国的に、一町村一人の駐在巡査であり、入野村の駐在巡査は他部落に駐在して高串には居なかったので、時々巡回してこの区長宅の見張所から村を望見して村の治安を監視していた。
四、鉄壁の防疫陣
増田巡査が着任した項は、コレラの猖獗も頂点に達し、死亡者が続出していた。中村磯治の一家も二名は死に、残る二人も重態で頼りなくなっていた。楠村吉蔵も危険に瀕し、青木増太郎の病状が極めて険悪であった。既に真正患者四十人、疑似患者三十四人、死亡者九人という大量の患者であり、村人の恐怖心は極度に高まっていた。村人は病気を怖れてはいたが、患家との交通遮断や、死人の葬式の場合の飲食等に就いては何等従来と変わらず、病菌の予防措置については、殆ど無神経といってよいのであった。
この部落には現在の東京女子医大の開校者たる故吉岡彌生女史の、御主人の家が代々村医者として栄えており、当時は女史の夫荒太氏の父君が活躍して居た。然し開業医としては病人を治療したり投薬したりしても、病気見舞の禁止とか、死者の処置とかまで指図や干渉をするわけにはいかなかった。
増田巡査は現地を見て伝染の最大の原因は、患者と健康人との接触が極めてルーズであることを知った。それで彼は直ちに患家に縄を張りめぐらし、交通遮断の英断に出たのである。又吐物や便所は厳重に消毒をさせ、健康者の生水使用や鮮魚を食べることを禁じた。
患者の交通遮断は予想せぬではなかったが、秘めて困難な問題が起こった。元来病気を非常に怖ろしがり、死亡者が出るとその死体の始末に困惑していたのであったが、患家の交通遮断のおふれが出てからは、公然と死体運搬を断る口実が与えられたようなものだ。死体運搬の人夫を雇うことは全く不可能となった。
増田巡査が最も精根を傾け尽くしたのは、死体を墓場までどうして運ぶかということであった。その頃は一般に未だ火葬は行われていなかったが、伝染病は特別に火葬することになっていた筈だ。しかし、伝染病の少ない土地だから火葬の前例が少なく、勿論火葬場などあるわけがなかった。そして死体を土葬するのにも、人家近くの一般墓地には皆が嫌がって埋めさせないので、入海を隔てた対岸の丘の奥手にある「流人墓地」と云って、昔から海岸への漂流死体や、行路病死体を埋めている墓地に埋めていたのだ。
それで死亡の届があると、巡査は患家や屍体の消毒を厳重にやり、菰巻にしてから海岸に運び、舟で対岸まで運ばせ、舟から下ろしてからは、自分一人で背負い、三〇度もある斜面を二百米位も登って行ったというのだから、その肉体的過労は全く言葉で現せない程のものであった。
増田巡査は又患家だけでなく、部落内を巡視して、伝染病の予防を教えて回った。或る家で仏事をやって飲食しているのに出合い、多人数の会食は、経口伝染病の蔓延の原因となることを戒めた。又村人の衛生に対する考えの低さは全くあきれるばかりで、薬を飲用しても死亡する者があると、その服薬の時期が既に後れていた為に効果がなかったことは考えようとせず、「薬を飲んだから死んだのだ、あの薬は毒薬ではなかったか?」など、まことしやかに云いふらすので、今度は新しい初期患者で、薬剤の効果が充分あると期待される者までが、「毒薬だとの噂があるからこの薬は飲まない」と拒んだりした。巡査は諄々としてこれを説き伏せて、家人も寄り付こうとしない病床の人々に、慈愛深い看護人ともなったのだ。そしてその神の如き行動は次第に実直な村人の心に浸み込んで行った。
然し病魔は急には衰えず、楠村吉蔵が斃れて、青木増太郎の容態も又刻々危険になって行った。増田巡査は三昼夜に亘って殆ど寝食を忘れる程であったが、青木氏を看護する間に、戸外に出てのどが渇いたからと云って、水甕の水を飲んだので、側に居た人が、「そんな生水を飲まれては巡査殿もコレラに罹りますぞ」と冗談半分にいった。
「僕が若しこれでコレラになって死んだならば、犠牲になって全部高串の病気を背負って行きますぞ」と微笑したと云い伝えられている。この逸話は今日まで高串に伝えられているが、筆者の考えでは、民衆に煮沸しない飲食物を取ることを極力或めている増田巡査が、自分が村民の前で生水を飲んで見せたということは、どうも理解に苦しむことである。その水槽が比較的清潔に保たれていると見えて、その水で病気が伝染すると思えなかったのであるかも知れないし、又不眠不休で飲食する暇もなく、たまたまその時堪えられぬほど喝を覚えたのであるかも知れない。筆者の医学知識から考慮すると、三日間も患者とまみれていれば、その間には如何なるはずみで自分の指(患者に触れてからいちいち消毒出来ずコレラ菌がついていると思われる)を唇に接触させたかもわからない。即ちこの生水飲用の外にも、コレラ菌感染の機会は屡々あったと思う。人並勝れて思慮の深かった増田巡査が、軽率に生水を飲んで、自分も安易にコレラ菌の犠牲になったとは断定したくない。又コレラ菌は極めて酸に弱く、健康人の胃液中の胃酸は、僅少のコレラ菌は殺し得る力を持っている。増田巡査の連日の疲労困憊が、コレラ菌に対する抵抗力を弱めていたことは事実である。
五、ああ運命なるかな
増田巡査が着任してから三日目、即ち二十三日の午後三〜四時頃、防疫本部となっている伊藤区長宅でいろいろの打合わせを済ませ、区長の宅を出て、坂を下り始めたところ、急に気分が悪くなり、嘔吐を催した。それで当夜は区内の巡視は中止して、下宿の長崎屋に帰って休憩することにした。
下宿は長崎屋の裏二階西六畳の間で、床に就いたのが午後六時頃であった。「増田巡査倒る」の報は村中に急報されたが、集まる者は極少数の責任者のみであった。連日の疲労の現れであれと祈ったが、病勢は刻々と烈しくなり、コレラ特有の症状が現れ始め、翌二十四日午前三時には真性コレラと決定した。
二十四日の暁からこの海岸一帯は大暴風雨で瓦も飛ぶ程であった。午前八時頃、急を聞いた坂口助役が馳せつけて病床を見舞ったところ、巡査は打伏せになっていたので、耳許に近寄って「僕は坂口です。貴方までやられましたか?」と云えば、「遂にやられましたよ、直ちに看病人を送って下さい」と細々とした簡単な返事であった。つまり言葉を出す気力もなかったのだ。そして午前十時頃に吉田市兵衛という老人が付添人としてやって来たが、市兵衛老人は病気を恐れて絶対に二階に昇らず、薬や水を階段から竿の先につけて巡査に差出し、その上酒に酔い、病気の恐怖心を酔にまざらしていたという。熊本の実家で病まれたのならば、母君その他多数の近親知己に囲まれ、又医薬滋養等にも事欠かなかったろう。今日までも高串の人達が、巡査に対して報恩感謝の気持ちを忘れないのは、この病床の苦難が、あたかもキリストの十字架と同様の意義と価値とを持つものであるからである。
評議員の川口彦作氏は、午後一時頃見舞ったが、その時は、増田巡査は床の上で苦しそうにころがりながら、体は全く驚く程に憔悴し、音声も嗄れ、呼吸も奄々として絶え入るようで、見るに堪えない程、気の毒な状態であった。川口氏が 「御苦しいでしょうが、充分服薬して、高串区民の為に一日も早く御回復願います。」と云えば、増田巡査は苦悩の中から凛然とした声で
「こうなってはとても回復の見込みはないものと覚悟しています。村人達を世話しようとして来た私が、却ってお世話になるようになって申しわけありません。高串のコレラは、私が皆背負って行きますから御安心下さい。又村人達には、私が指導したように、看病法と予防対策を充分実行して行くならば、遠からず高串から悪病は退散するものと信じて実行するようにお伝え下さい。又将来も伝染病がこの村に流行しないよう私が護ります。どうぞ部落の皆様によろしく御伝え下さい」
二十四日の午後三時増田巡査の霊魂は遂に地上を去ったのである。恰度その頃は昨夜来の嵐が増々激しく天地もこの悲壮なる無名の英雄の死を悲しむが如くであった。発病後僅かに二十四時間、高串の在任四日、警察官就任後僅か七日目であった。
郷里菊池の里には慈愛深い母あり弟ありで、充分な看病も出来たであろうに、国事に奔走し他郷で死ぬのは彼の本懐とはいえ、周囲の者には堪えられない悲痛事であった。
島常也先生の増田神社縁起書の中に、巡査の郷土肥後菊池郡の隈府町(現在菊池市)に鎮座する菊池神社の祭神、南朝の忠臣菊池武時公が筑前博多の地で、北条との戦いに敗れ自害した時の辞世の歌
故郷に今宵ばかりの命とも
知らでや人の我を待つらん
の歌を引用して若冠二十七才を一期として消え去った、増田敬太郎の心中を思い測っているのは全く共鳴を深くするものである。
さあ大変だ、部落のコレラ患者の病状も漸く落ちつき始め、新患者の続発も漸く喰い止めようとしているのに、唯一の頼りであった増田巡査の急逝に逢って、高串部落民の驚愕と落胆とは全くその極に達した。唐津署に報告すると遺体は茶毘(火葬)に付せよとの令があり、翌日人を派遣するとの事であった。勿論郷里熊本にも飛電は発せられた。
二十五日午後永吉巡査部長が人夫を連れて到着し、人夫の手で納棺が行われ、火葬場と定めた小松島に舟で遺体を運んだ。小松島は佐賀県入野村と長崎県鷹島村との間にある日比水道の一小島で、増田巡査は遺体は二十五日の午後五時に一片の煙となった。御供申上げたのは坂口、中山、永吉の三人であった。
翌日部長は遺骨を捧げて本署に引揚げたが、故郷から唐津に急行いた実弟亥平代と親類の人達の手に渡され、葬儀場と定められている唐津の由緒ある大寺護法山近松寺で通夜が行われ、二十七日には唐津警察葬が盛大に取り行われた。法名は成功院釈至道居士と奉られた。
六、枕神に立つ巡査の心霊
高串の患者達の中で最も激烈であった青木増太郎は巡査に先立て永眠したが、まだ中村一家の二人の外に数人の患者が居た。二十六日の夜も更けて父幾治氏が看護疲れで、うつらうつらしていると、白もやがみちて来て洋服の上衣を脱いだ白シャツのままの大男が現れ、抜剣のまま
「余はこの世を去った増田敬太郎なるぞ、高串のコレラは吾が仇敵であるから、皆冥府に伴って行くから、安心して子供達の全快を待て、ゆめゆめ看病を怠ってはならぬ。」と厳かに告げて剣を打ち振りつつ何れかへ消え去った。夢から覚めた幾治氏は不思議に思いながら、翌日巡って来た川口衛生係長に霊夢のことを語った。中村家は末だ増田巡査の逝去のことも臨終に察しての遺言のことも知っていなかったのだ。川口氏から初めて巡査の死去を聞いて、正夢に驚き感激して子供達の看病に励んだので、二人共早々と快復したのである。
七、鎮魂の丘
小松島で火葬に付された増田巡査の遺骨の一部を村人達は戴いて、部落の中央の丘の上にある秋葉神社の見はらしのよい境内に埋めた。元来この高串区には神社が三ヶ所もある。古来漁民は航海等の不安があるので、信仰心が強いようだが、二〜三百戸の部落に三つの宮と一般農村では余り例がないようである。住吉神社というのが、本当の氏神様で海上の神、八坂神社というのが病気の神、夏越しの神、秋葉神社が火の神である。この秋葉神社が景色もよく、部落の中央だし、余地もあったので、その境内の一部に増田巡査の分骨を包めて墓所となし、翌月には早々と墓碑を建てた。写真に見るような燈籠型でありながら前が開かれて、中に「故佐賀県巡査増田氏の碑」と魯いてあり、裏には「君名敬太郎熊本人駐在入野今歳七月於当高串虎列拉発生君挺身従於撲滅不幸感染為終不起悲哉実七月二十四日也患者亦自是絶奇哉冥霊猶所護平仰人想而不措建碑以伝千蔵為」
任期明治二十八年八月上旬建立−これに間もなく屋根を作り礼拝所にし、参拝者が段々増加して行った。
増田神社の御神体となっているのは巡査の墓碑と神鏡で、神鏡は社格運動の時に用意され、碑と並び小さな神殿造りの中に納めてある。終戦前は神体として増田家に伝わっていた日本刀であったが、これは終戦後米軍から没収された。この墓所の出来た丘の上は、三〇〜四〇米の高さで、相当の階段を昇らねばならないが、この墓所が出来た頃、階段の下の家にリウマチで脚の痛んでいるお婆さんが居た。毎日この坂を登って参拝していたら、間もなく脚の痛が治ってしまった。それが又大評判になって、続々と信仰者が増加していった。
八、よき協力者
増田神社(昔の秋葉神社)の下の寺院地蔵院の庵主の井上天倫和尚は熱心に巡査に協力した。この人は奇特な人で、良寛和尚の様な姿で鬚を長くはやし、大きな錫杖をついて胸に布施入れ(米)の箱をつるし、墨染の衣を着て素足で部落内各戸の無病息災、家内安全を祈って廻っていた。コレラ流行の折は増田巡査と二人で防疫作業に当たり、死体処理も一緒にやったそうである。
現存している増田様の遭品中長袖の夏シャツは、この和尚が巡査の息のある時に遺品として貰い保存して居たものである。地蔵院には其の当時和尚の作った増田様の御位牌がある。
他の村人達もそれぞれ増田様を援助したが特に区長の伊藤虎五郎氏は駐在の見張所も管理していたし、特別に熱心に協力した。それでそれが家族内にも影智し、区長の息伊藤直治氏は教員生活四十年中熱心に増田精神の顕彰に努め、郷士史中にも増田巡査を執筆し、郷土歌の中に増田神社を歌っている。
高串郷土歌 伊藤直治氏作
一、「甲士峯山のいや高く 清き姿を仰ぎつつ
幾十年の春秋を 重ね栄えし我が郷土
二、人口三千有余にて 水産農業発展し
海陸交通便にして 唐津平戸の連絡地
三、虎疫の神と仰がれる 増田神苑の一望は
眺めもゆーかし 松浦湾(以下略)
九、おがまるる名詞
又増田巡査に対する信仰心の現れとに就いて次のような話もある。自分の孫の命を助けて貰った老婆が、有難くて仕方がないから、何か拝む手がたはないかと考えていたら、生前の増田巡査から貰った名詞のことを思い出し、これを神棚に供えて毎日拝んでいたら、隣近所の人まで、おがませてくれとやって来るので、遂に庭に名刺を御神体とした小さな礼拝所を作ったという。この増田敬太郎巡査の墓を作った秋葉神社は、恰度高串港の山の方から海岸の村の方にくだって来る坂路のほとりにあるが、段々と境内を裏の方に広めて増田様の方が広くなって行った。僅か三日位の活動で殉職した巡査を、村人達が「神様だ、大明神だ!」と云って拝むのが、隣村の若者達にはこっけいにさえ思われた。それで或時隣村の青年達が、この高串の人達の馬鹿正直さを笑って、増田巡査の墓の方を向いて、罵倒しながら放尿をしたそうであるが、その夏その村に豚の伝染病が流行し、どんどん家畜が死ぬので、「さあ大変、増田様のタタリだ」と云って、お宮に謝罪のお祈祷をしたところ直ちに家畜の死亡が止んだ。こんなことがあって、増田様の御利益は大したもので、最初は病気の神様であったが、後には航海の神様になり、沢山の漁師達が隣村や、長崎等からも船で来るようになった。七月二十四日の巡査の死亡の日を祭礼日としている。
十、故郷の奥津城
熊本の増田家に対しては直に翌二十五日の日附にて東唐津署長名で懇切な死亡状況の報告と弔詞が発せられた。
謹 啓
増田敬太郎君貴下本県巡査ノ職任ヲ帯ラレ明治廿八年七月十九日当警察所へ赴任セラル仝月廿日松浦高串相へ虎列拉病消毒予防ノ命ヲ奉ジ奮然蹶起其地ニ趣カレ爾来豪気活溌専ラ消毒予防に従事努力セラレ該地病勢ノ劇烈ナルニモ拘ハラス不屈不撓一層ノ勇気ヲ振ヒ益々進ンデ病毒撲滅ニ尽力セラル、央一朝病魔ノ侵ス処トナラレシヲ以テ医薬ハ勿論充分御看護御介抱ヲ為セシモ薬品効ナク遂ニ同日溘然永眠鬼籍ニ就カル鳴呼命数ハ天ノ定ムル虚ニ拠ルト雖モ兼テ英敏ナル敬太郎君ニシテ斯ノ不幸ニ遭遇スルニ至ルトハ同僚一同実ニ衷悼ニ堪へサルナリ 然レ共君ノ此ノ不幸ニ接スル素ヨリ国家尽忠ノ致ス處則チ忠君愛国ノ赤心ニ基因スルニアラスシテ他何ニカ有ラン御一同之御愁傷推察スルニ余リアルモ 全ク報国ノ御忠魂ニ出テ事情止ムヲ得サル義ト 宜シク御諦メラレン事ヲ 先ハ署員一同ヲ代表シ御弔詞如ク斯御座候 頓首九拝
明治廿八年七月二十五日
唐津警察署長
警部 東 喜 之 助
故 増田敬太郎 君
御 遺 族 様
実弟亥平氏に抱かれて故郷に帰った遺骨は、直に生家から二百米位の村の共同墓地に埋葬された。田圃の真中にあって大変眺めがよいところで、東は遠く鞍岳を望み、その右手に阿蘇の五岳が盛り上がって見える。
石碑はどっしりとした大型のもので、特に横巾の広いのが眼立つ。これは明治三十四年七月の建立であり、恰度故人の七周忌に当たっている。碑文の中に「同僚悼若死贈吊慰金官亦給祭祀料」とあるので、彼の死後贈られた同僚であった佐貿県警察官の香典と、同警察部の祭祀料などを基として建てられたものである。
碑文は見事な漢文で、署名はしてないが、当時泗水高江にあった菊池西部高等小学校の校長高橋小太郎先生である。先生は隈府町出身で、当主亥平氏はこの学校の第一回卒業生であった。
さて故郷の墓は出来たが、これを神に仰ぐような心構えは郷土人には殆ど出来ていない。霊魂はまだまだ佐賀高串に留っていたと見る。
墓 誌 名
君姓増田名敬太郎明治二年八月生家世業農歳甫拾九出郷里遊東都苦学三星霜帰郷之後従農事一朝有所感応佐賀県巡査募集明治廿八年七月六日命巡査教習所卒業生仝月給七日奉命赴任千唐津警察署所属高串村虎疫會猖獗君奮然當其衝豫防消毒夜以継日鋭意雖圖撲滅病勢尚未衰而不幸君亦感染焉雖旋薬尽術遂無効験仝月廿四日後五時溘然就永眠時年廿七距其奇病僅経十餘時云亦可加以病勢劇甚矣者死後闔村病勢頓衰遂至絶跡亦可謂苛也於是村民為救世恩主以生前熱誠奨死後餘澤益加信仰有志相謀建碑而祭祀以慰君霊且永為當村之守護神云君性宏量開胸襟而接人懇切丁寧能致哀情週日勤務而見人依頼如奨固其所也同僚悼君死贈吊慰金官亦給祀料實弟亥平納遺骨改葬干先瑩之側今茲明治卅四年七月建碑名日以身殉公貽規後昆呼偉哉救世の勲鞍嶽巍々泗水混々
第六章 巡査大明神
一、社殿の造営
秋葉神社の境内に埋めた遺骨に、神殿造りの石碑を建てたのは、その年の九月であったが、翌二十九年九月には。この石碑に屋根のある拝殿を被せた。その後約十年を経た明治三十八年九月に、社殿を増築して、拝殿は約十坪位になって、子供達が遊べる程の広さになった。この年は日露戦争の凱旋記念の意味もあることが、鳥居二本に刻してある。社殿に近き第一鳥居には「増田神社」第二には「秋葉神社」の額がかけてある。社殿に離れて丘の出鼻にある一番大きな第三鳥居は昭和十年の皇紀二千六百年記念に建てたもので、これに「巡査大明神」の扁額が掲げられている。
大正二年には玉垣や狛犬が出来たりしたが、大正十三年九月に在郷軍人の手により神苑を開拓し拡張した。この神社の祭礼は、昔から春秋の二回(皇霊祭當日)に行われて来た。部落内を二〇組に分け、当番制にして供物を奉納して神社におこもりした。春は夏の防疫を祈願し、秋はその祈願の成就を感謝した。又余興で賑わい、以前は相撲が多かったが、境内に筵を敷き桟敷が出来たりして酒肴を持ち込み大賑であった。近年は手おどりなどに変わって来た。後の座談会で他村から高串に嫁に来ている若い奥さんがしみじみ述懐して「他所の部落では彼岸の中日には殆どお寺詣りをするのに、高串では春秋共に増田様詣りです。こんなに増田神社の信仰が村人達の心に浸み込んでいようとは思いがけませんでした」と語っている。これも全国に珍しいことではあるまいか?。
昭和十二年に、現在の社殿を改築した。横尾佐六唐津署長が中心になり、佐賀県の全警察官からの寄附があった。それに、全国から寄附を集めて、寄附総額が約四千円もあった。秋葉神社と境内が同じだから、改築の時に秋葉神社は合祠してしまった。周囲を段々裏の方に拓いて広くなったのである。
この時の寄附者には県内では知事以下の名があり、筆頭は本村出身の林枢密顧問官、日本女医学校の吉岡正明、同彌生氏等が目立っている。又おもしろいことに東京新橋の芸者一同などがある。境内の大きな藤棚の下には、立派な改築記念碑が建っていて、左の寄附者の名が列記してある。
記念碑にある主な人々
佐賀県知事 古川静夫
県警察部長 後藤耕三
同警務課長 本郷要三
佐賀県下警察官一同
唐津警察署長 横尾佐六
入野村長 草野政雄
佐賀県警友会一同
佐賀県防犯連合会
慶応大学総長・枢密顧問官 林毅陸
東京女子大教授 吉岡正明
東京女子大校長 吉岡彌生
東京 俣野健輔
同 田口半四郎
東京日本橋 小布施新三郎
同 徳田昂平
同 南波礼吉
日本橋兎町仲買人一同
熊本県泗水村 増田衣恵
入野村教育会
高串区長 川口茂三郎
外評議員一同
東京新橋芸妓連中
同 一龍外一同
同 小春外一同
同 静江外一同
同 若駒外 百五名
同 氏子総代一同
同 右世話人 田中さわ子
鳥居は三基あり中央が秋棄神社のである。一番社殿に遠く崖の上で海に画している大きな鳥居が皇紀二千六百記念に建てられたもので「巡査大明神」の扁額がかかっている。多数の石燈寵や大型の手水鉢等が置かれ、拝殿に安藤内務大臣揮毫の「神人合一」の見事な扁額がかかり、鳴鈴が下げてある。
二、佐賀県警察界の増田精神顕彰事業
現在も佐賀県の増田神社奉讃会長をしている横尾佐六氏に、筆者は昭和四十一年一月六日に唐津市の日赤病院で逢った。氏の懐古談で、佐賀県警察界に於ける増田精神顕彰状況を知ることが出来た。横尾氏は大正二年に佐賀県の巡査を拝命し、巡査の時代には増田巡査のことを余り開かなかったそうで、大正十二年〜三年頃の警部補時代に、唐津署勤務になった。その頃山口署長が「今日は増田神社の祭礼で案内を受けたから、飲みに行こうか?」とさそい、立派な自転車を用意してくれた。行って見ると、一巡査の為に思いもよらぬりっぱな神社が建っていた。警察官としての責務に厳正な横尾氏には一つのショックであった。小さな舞台が三つも四つもかかっていて余興が賑わい、港には参拝者が乗って来た沢山の船が集まっていた。
佐賀県出身の警察界の名士である連(むらじ)修氏が、昭和四年頃佐賀県警察部長として赴任し、当時刑事部長だった横尾氏から高串の増田巡査のことを聞いて非常に感激し、警察官の精神振興資料として好適のものであるとして、警察界は勿論のこと佐賀県全般に増田巡査の功績を顕彰された。そして「鳴呼警神増田巡査」と銘打ったパンフレットを出版して全県下に配布された。
○連警察部長
増田神社に殉職警官の霊を慰む(唐津新報)
本社の松浦三十五勝候補地として紹介した入野村高串の増田神社、即ち今より三十八年前当時同村に猖獗を極めた疫痢防疫の鬼神となった殉職警官増田敬太郎氏を祭る増田神社参詣のため、十日連本県警察部長は池田警務課長を伴い午前十時頃自動車で来て、唐津署川添高等主任らの案内で、直ちに同神社に参詣、殉職警官の霊を慰め史積を蒐集して、帰途唐津に少憩し帰庁したが、部長は全国警官の亀鑑たるものであるとし、当時の史実を蒐集し、殉職史を編纂して全県警察官に配布し、一方警察協会のフィルムに映写して大いに警察官の士気を鼓舞するはずであるが、既に映画のシナリオは内務省で完成している。
昭和六年に横尾氏が刑事課長の頃、熊本県下で陸軍の特別大演習が行われた。取締打ち合わせの為の九州各県の刑事課長会議が熊本で招集されたので、横尾氏は連警察部長の命で、増田巡査の生家を訪問することになった。敬太郎氏の姪に当たる衣恵夫人(当時三十五才)が中心になって、近隣の敬太郎氏の幼時を知る老人達に集まってもらって懇談した。
その後機尾刑事課長は、佐賀県防犯協会を作ったが、運転資金がないので、増田巡査の芝居の脚本を書いて全県下に巡業し、一には防犯協会の資金獲得策にし、二つには増田巡査の精神を県下全般に高揚することが出来る一石二鳥の策を案出した。当時呼子町長だった医師の大庭忠司氏の協力を得て、増田巡査劇の脚本は書き上げた。俳優は裁判劇で定評ある川村金次劇団に依頼した。後年(昭和二十五年頃)筆者が増田精神顕彰会で熱を挙げている時、郷里の菊池電車の中で、戦前佐賀県で増田巡査劇を巡業したという一俳優に巡り合ったことがあった。
横尾氏は昭和十一年に唐津署長時代に増田神社の改築を思い立ち、前述のように立派な現在の社殿が建ったのである。然し増田神社は全くの無格社であるので、維持費の捻出法がない。それで全国十七万の警察官に呼びかけて何とかして、神社維持費を獲得したい希望を持っている。
増田神社の夏祭に、佐賀県巡査教習所の生徒が毎年総参拝することは、昭和四年から始められて今日もなお続けられており、例のない一つの壮観である。五〇粁も遠く離れた避地への出向である。
三、新聞はよく伝う
増田神社は地区民の純情によって生まれたが、これを本格的に警察精神の昂揚策として取り上げたのは、前記の連県警察部長と横尾署長の熱意である。これが当時の佐賀県地方の新聞に如何に取り上げられて社会的に報道されていたかは重要な関心事であるが、幸に熊本の増田衣恵夫人が、横尾氏始め高串の人達から送って来た新聞を丹念に切抜いてノートに張っていた。
○増田神社の分霊杜を弔った
横尾刑事課長帰来談(唐津新聞昭和六年六月)
十六日から三十日熊本市で開催された、山口沖縄九州各県刑事課長会議に列席した佐賀県横尾刑事課長は十九日帰佐し語った。会議は熊本県青木警察部長の開会の挨拶に次いで直に各県提出議案の審議に入ったが本県提出の五件は無事通過した。移動警察事務の向上に就いては各県ともその成績の挙がらないことに共通の悩みを持っている様だ。会議を終えた十八日午後私は殉職警官増田敬太郎氏を生んだ菊池那泗水村字吉富にその生家を訪ねた。泗水村は山紫水明の地で人情篤く、殊に小学児童の親切振りには往訪私の方で却って面喰った程である。増田氏の生家は同地方きっての豪農で由緒ある家柄である。現在ではその家は増田氏の姪の衣恵女が継いでいられるが、佐賀県に於いて今日この増田神社に県民一致の尽力をなしている事に就いては、増田家でも感涙にむせんでいた。又泗水村でも増田神社の分霊をまつって永久に、村の尊き守護神とする様計画を進めているとの事である。尚熊本県下は大演習を迎えてまず外観を整えるため多忙を極めているが、人心もまた頓に緊張している。
○横尾唐津署長執筆
脚本増田巡査″感激編近く上演
既報コレラ魔の撲滅に一身を投出して殉職した元唐津署勤務増田敬太郎巡査の崇高なる滅私奉公の姿を劇化するために、横尾唐津署長は先頃より感激の筆をとって脚本を執筆中であったが、先月末に完成した。
増田巡査劇は八幕十場の堂々たるもので、同巡査が高串駐在所詰となり挺身コレラ禍の入野村高串に赴任以来、警察精神の本領を発揮して敢然として防疫陣の先頭に立ち、不眠不休の活躍中不幸遂にコレラに感染殉職するまでの如実の姿が描かれている。上演は裁判劇として定評ある川村金次一座で、既に熱心に稽古を続けているが、劇団関係者は公演前に同巡査を祀る高串の増田神社に参拝し、公演終了後興行関係者一同から大燈籠を寄付することになっている。
○噫増田大明神
横尾署長脚本上演
既報−唐津警察署長横尾佐六氏原作「噫増田大明神」増田巡査の殉職劇脚本はこの程完成、増田巡査が明治廿八年秋、東松浦部入野村にコレラ猖獗し、多数の人命を奪い全滅的打撃を受けた際、身を以て村民の身代わりとなり、防疫殉職したのを村民が徳とし警神増田神社を建立しているが、これを劇化し十幕十一場に収め、裁判劇の川村金次一座で上演するに決し、唐津防犯協会が準備を整え来る廿日大鶴炭鉱を振り出しに左記に上演する。
△廿日廿一日大鶴炭鉱 △廿二日廿三日入野村高串
△廿四日廿五日佐志八幡座 △廿六日廿七日唐津近松座 △廿八、九日唐津座 △卅日、五月一日久里村昭和座 △二日唐津炭鉱 △三、四北波多村
△五、六日浜崎座
〇故増田巡査今度は芝居に
十一、十二日佐賀劇場上演
きのう試演会
読み物から浪曲へ、浪曲からレコード吹き込みへ、次第に間口を広げて宣伝され出した佐賀県警察界の功労者、故増田巡査の功績が、今度は劇化され警察部長の舞台監督で佐賀劇場の脚光をあぴることに成った。増田巡査も満足に違いない。部長の意気込みも又格別。これも演ずる役者は錦座一行二十余名で、きわ物を得意とする此の一行の増田巡査劇は必ずや人気を博すに相違なく、座元では既に背景の制作、衣装の選択などを終わり、準備万端を整えて開演を待つばかり。きのうは午後四時から佐賀劇場で警察界のお歴々入場の上、試演会を行った。台本の山来栄えもよく、舞台の効果も予期以上の成績で可成り見応えあるもの、十一、十二日上演一般公開の節は好評を博するに違いない。
○横尾唐津署長作
敬神増田巡査″劇
本社伊万里支局の手で全十二場を絵ハガキへ
現在佐賀県唐津署長横尾佐六氏原作にかかる敬神増田巡査劇は、各地到る所で人気を博しているが、過日伊万里町における上演中本社支局写真班の諸種の好意に感激した同劇太夫元川村金次氏は、この敬神劇を絵ハガキとし一般に配布することを思いつき、わざわざ佐賀劇場開演中本社伊万里支局に急電し、右劇場で十二場面を撮影せしめ五枚一組の絵ハガキを作成する事を契約、同支局では直ちにコロタイプとし第一回三千組を発行する事に決定した。
○増田神社に狛犬奉納
噫増田巡査′の利益金で
唐津防犯協会は今回横尾唐津署長原作の噫増田巡査″を管内で公演、絶讃を博したが、純益金中から五百円を支出、敬神増田巡査を祀る東松浦郡入野村高串の増田神社に、狛犬一対を奉納することになり、目下唐津市池田石材店では制作中だが、石材は唐津石で感激の唐津石材組合が唐津署に寄贈、なお建設に際しては今なお増田巡査の道徳を慕う高串区民が、高串から山上の神社までこれを運搬、勤労奉仕をすることに決定した。
○増田神社の改築資金続々集まる。
四月頃に工事着手
東松浦郡入野村では去る明治二十八年若年にして伝染病コレラ犠牲となった、熊本県出身の増田敬太郎巡査を祠る増田神社を、今回工費三千七百円を以って改築することとなり、かねて醵金中県下警官より一千四百六十二円九十二銭、県衛生課員より百四十八円五十三銭、更に他県警察部長、衛生課長等より九十九円七十銭、地元より一千五百円が集まったが、尚四百八十八円が不足であるところから更に又県下各警察官より醵金することとなったので、この不足金の集まり次第、来る四月頃よりその改築に取りかかりコレラの犠牲者増田巡査の霊を懇に弔い、伝染病予防の神として祀ることとなった。
○敬神劇の功労から
横尾署長ら表彰
唐津署長地方警視横尾佐六氏、東京下谷区龍泉寺俳優川村金次氏は、一日付吉江警察部長から表彰された。
横尾署長は警察事務の余暇を利用、警神増田巡査(神社)の神徳宣場に努め、殊に脚色して之れを劇化し社会の人心を啓発、指導に努力、又川村氏は之れを演じて拍手を受けている。尚警察課ではこの芝居が非常によく出来、社会に裨益するところ多大なところから県下各地で催すことにした。
○虎疫の神増田神社へ大鳥居・狛犬一対
防犯報国会から献納
東松浦郡入野村鎮座の増田神社虎疫の神様だけに、夏ともなれば県下は勿論、福岡・長崎・熊本県下からまでも参詣人の絶えたことがない。増田神社の由来は人も知る如く、祭神は増田敬太郎巡査、明治は八年の夏、入野村を襲ったコレラは日に日に猛威を揮い多数死者を出し、不眠不休防疫に努めるうち遂に同巡査にも感染、同巡査は臨終の間際に「コレラの全部を背負って行くから後は心配するな」と村人に遺言して不帰の客となった。その後氏の遺言通りさしもの悪疫コレラも拭った様に終息したので、同村民は勿論、同地方崇拝の的となり同地に祠を建立、悪疫流行期に参詣すれば霊験新たなところから、遂に昭和十一年大改築を行い日に月に参拝者の数を増している。佐賀県防犯報国会では県下警察官の醵金と、特志寄付によって一千五百円を投じ、高さ一丈二尺余の大鳥居を建設(増田神社の文字は前警察部長吉江氏)一方同会唐津支部では之れに呼応し、五百余円を投じ狛犬一対を寄贈、同神社の面目も一新したが、時恰も伝染病流行期を控え参詣人の絶え間がない。
四、松浦十景入賞
増田神社は高串区の背面の突出した丘の上にあり、適当に樹木も茂り、出鼻の所に第三鳥居の巨大なのが建っており、このあたりより眺むる高串湾を距てた長崎県の鹿島と福島あたりの景観は全く絶景といってよい。
昭和五〜六年頃、唐津新聞の主催で景勝地選定コンクールで増田神社が十景に入賞している。その当時のいきさつが、よく新開紙上に伝えられている。
○連警察部長以下全県下警官の
絶大な応接を得た高串の増田神社(唐津新聞)
内海式で湖沼式であり、あだかも三井寺から琵琶湖を挑むる如き観ある入野村高串鎮座の増田神社は、悪疫予防の犠牲となった故増田敬太郎巡査を祭るもので、三十五勝候補地に列するや、同村の船岡圓太郎氏を始め高串区民は、我等の崇拝せる犠牲者の増田神社の為にとて、大奮戦を続け、一方連警察部長を始め県下警察員が果然応援をなし、栄ある十景に入選したものである。右につき地元後援者は語る。「高串では在郷軍人が主となり寄付募集にあたりました。高串区民全部が真剣になってやってくれましたのと、連警察部長を始め県下警察官其の他一般隠れたる後援者の賜です。喜を早く知らしむる為、只今電報を打ちました。皆喜んでくれるでしょう。増田神社はありふれた神社と異り、かつ世間にあまり知られていなかったのですが、御社の今回の催によって一躍世間に知られました。我々は地元民として是非堂々たる神殿を新築し名実ともに松浦の一名所としたいと思います。貴紙を通じて県下の全警察官各位に謝意を表します。」
五、増田神社の社格獲得運動
神社を国が認め、神祇院に登録されることは、神社の経営上にも重要であり、これを信仰する者も名誉と考えるので、無格社(村社でない小さな神社)として登録運動を起こしたのは大正十二年頃であった。福岡市出身の漢学者で、後の総理大臣広田弘毅の先輩である島常也先生の夫人が高串出身であるところから、増田神社の社格申請の為の縁起書の起草を以来されて、わざわざ熊本の増田家まで調査に行って書き上げたものが、長さ十米以上の巻物として現在も保存されている。毛筆で書かれた見事なものである。當時島先生は増田神社の近くの夫人の家に寄宿して居られ、そこで数ヶ月をかけてこの縁起書を書かれた。その近くの家に居た濱井三郎少年(現町会議員)は毎日墨すりに通ったと云う。
この縁起書を基として、時の内務大臣若槻礼次郎に上申運動を行ったが、遂に受付けて貰えなかった。
第二回の昇格運動は昭和十四年頃地元と警察の協力によって行われた事が、次の大毎小学生新聞に掲載されていることから解る。
◎警官の誉!!
コレラに殉じた
巡査大明神様
佐賀の増田神社由来
(大毎小学生新聞。昭和十四年九月十五日)
佐賀県唐津警察署では、同署受持の東松浦郡入野村と協力し、義人増田敬太郎巡査をおまつりしている入野村字高串の増田神社を、村杜かまたは郷社に昇格する運動を起こすことになりました。巡査を神さまにおまつりした神社は全国でも、この増田神社ばかりですが、それには、次のようなわけがあります。
明治二十八年七月に入野村字高串では、コレラが大流行しました。村民は次々に感染してたおれ、高串部落は、今にも全滅かと思われました。
増田敬太郎巡査(熊本県菊池郡泗水村出身)は、当時やっと警官になったばかりで、コレラ流行中の高串の駐在巡査を命ぜられましたが、同巡査は七月二十一日着任とともに、身の危険を忘れ、一心に防疫のため活動し恐れおののく村人を激励し、自身で患者を看護し、死体を埋めたりして、親切に村人を指導してやるなど涙ぐましい奮闘を続け、村人は増田巡査の熱誠にいづれも感泣したのでした。
こうして着任三昼夜一睡もせず村人の保護のため戦った増田巡査も遂にコレラに感染し同月二十四日午前三時発病、かけつけた村人に「コレラは全部自分が背負って死ぬ。皆さんは安心して働いて下さい」と遺言し、同日午後三時、りっばに殉職したのでした。
増田巡査の活動によりコレラもやがて退散すると、感激の村民たちは、景色のよい高串湾に臨む岡の上に、増田巡査の殉職記念碑をまず建てましたが、翌明治二十九年には同巡査英霊をなぐさめるため、また増田巡査の高徳をたたえて、同巡査を村の守護神におまつりするため、増田神社を同地に創建し、村人は「巡査大明神」とこれを崇めて今日に至り一昨年は、社殿の改築も立派に出来たのでした。
現在も増田神社は衛生の神様として村人の崇敬が篤く、おまいりの人が絶えないそうです。
第三回は、戦争中の昭和十八年頃、横尾氏が唐津市の助役時代、猛運動を起こしたが、軍神ばやりの時節に警官の神社など全く受け入れなかった。やむを得ず警察精神昂揚の先輩として顕彰して行くより途がないと、社格運動は当分中止の状態である。
然し現実として年に三回も祭礼が行われ、多くの人が参拝するのであれば、民間信仰の霊地として、何等かの形で国や地方公共団体が保護しても不思議ではない筈だ。この社格認定運動は将来も継続するべきであると思う。
六、文部省修身教科書資料に当選
戦前(昭和四年頃)文部省の修身教科書資料集に一等当選した、佐賀県の古川という小学校長の「増田神社由来記」を読んだことがある。しかし遂に教科書に載らなかったし、又資料集の原本も入手出来ないのは残念であるが、その筆者古川政次郎先生の手紙が、増田家に保存されているので掲載する。
謹啓 若葉の緑も濃く生気溌刺たる時節でこざいます。さて本日は思いがけなき御懇切なるお手紙を頂きまして感謝に堪えません。私事昭和三、四年頃入野高串の(田野小学校)校長を致していました頃郷土調査の際増田巡査の功績を知り、増田神社の由来を知るに及び、之は現代の社会を救ふべき他に此類なき人である。之を世間の人に知らせ度いと考えまして、最初郡教育会の雑誌に載せました。所がたまたま内務省に出ている某氏がそれを見られて、これは珍しい人であるといふので、全国の警察署に配布されている何とか云う雑誌にその人が戯曲に作って載せられました。これが一時評判になって活動写真になるといふ噂でありましたが、それは実現しなかったでしょう。しかし多分それがもとになってその頃の佐賀県の警察部長連修と云う方が(只今はどこかへ転任)これは大切な事績であると云う事から、増田巡査の実績の大調査が行われ、其時は御地にも必ず調査が来ると思われます。そして佐賀県の警官を集めて「鳴呼警神増田巡査」とか題して講話されたと聞いています。
今度文部省から修身教材の資料文を募集されましたので、増田巡査の事を思い出して、あの職務に忠実な犠牲的精神の発揮と、人類愛に燃えられたあの行動とを、文に綴って小学校の修身教材にでもして貰ったらと思いまして、書いたのが思いがけなくも一等当選したといふ通知に接しました。これは文章になっていませんので文筆の力では勿論ありません。増田巡査のあの涙ぐましい努力、警察精神を発揮された事を、文部省の方で小学校教科書に適当と思ったので御座います。先日田野の校長とあひまして、その内いつか神社に報告祭をしやうと話した事でした。これは多分六年生位の修身本に採用される事と思ひます。高串の人も郷土の名誉として満足してくれる事と存じます。
文章の末尾には資料の出所として、本籍の御郡泗水村吉富の人と云う事を書いておいた筈で御座います。
私の筆が拙なくて、増田巡査の本当の精神を書き現わし得なかった事は御許しを願いまして、本日は御手紙を頂きまして喜びに堪えず、乱筆を顧みず御返事申上げた次第で御座います。何卒御許し下さいませ。
敬具
五月十日
古 川 政次郎
増 田 作 太 殿
増 田 衣 恵 殿
尚昭和三年十一月号の「東松浦郡教育会報」に古川校長は「増田巡査の死」という小文を発表している。
七、増田神社の繁栄
増田神社の繁栄ぶりは、ちょっと聞いた位では、祭神の郷土の者には充分納得が出来ないほどである。ちょうど昭和五〜六年頃横尾警部と連警察部長が中心になって、増田神社の顕彰に努力された後、新開記事が横尾氏から郷里の増田夫人に届けられた。それがノートに張られて今日迄保存されている。特に佐賀新聞の山下記者の名文は、高串の地形をよく説明してあり、熊本人には自分が参拝しているような実感が湧く。
又前掲の新聞記事は、高串の増田神社の風景が松浦十景に当選したいきさつなども判り興味がある。
涼を追うて (松浦三十五勝)高串増田神社
同胞の亀鑑殉職精神の現化
麗しい白鴎飛び交ふ女性的な内海の展望
昭和五年七月二十四日=第二班のスタート日だ。今日も朝来曇天、きちがい日和とでもいうのか?例年なら海岸にいても流汗止めどもなく出る土用に入って益々涼しい。もって来いのピクニックである。今日は恰も増田神社三十七年祭とあって連本県警察部長以下格課長、県下警察署長三十数名のお歴々が参拝するといふので最初の予定の住吉神社、星貿海岸を経て増田神社へ到る行路を変じ増田神社の方から逆コースをとる。
昭和写真部員は数日前増田神社を撮影しているので明朝星賀海岸での会合を約して記者一人プラリと出かける。午後一時半一同唐津署前に集合、記念撮影の後同四十分自動車六台に分乗、唐津署自動車を先頭に我等の車がしんがりをうけたまわって車は辷るが如く音もなく走り出した。坊主町から左折し長松街道を一路高串へ向けひた走りに走る。
我等の車中には野中特高課、加川判事、富永本社長、増田唐毎、竹田佐毎新開社長、支局長に記者の六人、神田駐在北原巡査の挙手送迎裡に車中田園の自然美を賞でつつ雅趣に富める積翠の山又山を縫って爆進する。
筒袖の紺絣に赤の腰巻を巻わした田嬢達が鋤の手を休め我等一行のドライブに奇異の眼を見張って目送する。悪道路で定評の切木道も土木管区大久保さんの肝煎で、道ならしが出来ているのは嬉しかった。切木の部落にさしかかるや我等一行を迎へに来て呉れた高串区の村会議員区長有志の自動車が最後に加わり、堀田切木村長以下役場員の札に答えながら、尚も走ること三十分車中漫談を語るうちに、自動車は高串の宿から三町余の山手で止まる。此処で自動車を乗棄て沿道に迎える有志区民老若男女の緒列の中を下山……記者迄が一躍高等官待遇だ…
十分足らずで海抜百尺の高台に鎮座の増田神社に着く。
まん幕を張り巡らした境内には、我等の神様として信仰を篤うする高串区民が五百余名集合して居り、朝から準備に来た唐津署の川添警部補・甲月(高串駐在)・北村(入野駐在)巡査の顔も見える。初めて来た野中特高課長等が沖の展望に快哉を叫ぶ。神宛付近一帯を自然の公園と称しているが、なる程展望は全く素ばらしい。西は玄海の水が湾入する風光名媚な伊万里湾に臨み前方にはお伽噺にもありそうな美しい元冠の遺跡で有名な鷹島が浮かび、同島に続く平戸、五島が雲煙の間に見える。南方裏は唐津町古川仁一氏が経営中の黒ダイヤ出る甲二峰、一名高串富士の翠嵐眼界を遮り、右は土井の岬長江曲浦、東は田園についで、岳陵連互し近くに高さ七丈の白糸滝があり、内海式であり湖沼式である。
鏡の如き湾内は帆舟、発動船が絶間なく出入りするあたり実に山紫水明のパラダイスであり、ユートピアである。もし高串が東京大阪の近くにあったならそれこそ天下の絶景として盛名を恣にすることが出来たであろう。
このお伽の国の様な天然の美に抱擁され、平和に暮れ平和に明る高串の高台緑樹濃ゆき所に、鎮座まします吾が増田神社は、祭神に故増田敬太郎巡査を祀れるものである。
故増田敬太郎巡査は如何なる人か当時の入野村助役坂口政敬老が、三十七年祭参拝の為態態福岡より老体を運ばれているのを幸い話を開く、坂口老が当時を思い出し鳴咽にむせんで語り出すところは、今から三十七年前の(以下増田巡査の功績は略す)区民は其生前の壮烈なる功労と、その英霊を弔慰せんが為に、同年八月に碑を建てたものである」と。坂口老は当時は連想し感慨無量の面ち、記者も知らず知らずの問に瞼の熱くなるのをおぼえた。老はなお続け、「衛生思想の幼稚にして不潔の部落を以って、年々悪疫に悩まされていた高串区は、その後、春風秋雨三十有余年一名の伝染病を見ないようになったのは奇蹟であろうか、英霊の加護か現在に於いて巳に議論を超越して年と共に信仰の度をますばかりである」と。
同社は目下無資格社で祠殿は、明治二十八年八月建碑し、同二十九年九月小祠を建て、同三十九年九月社殿増築玉垣新築、大正十二年九月神苑開拓をなしたもので、これを機に村社昇格運動をなすことになっている。
三十七年祭典は午後三時から壮厳にとり行わせられ、閉式後同所で連警察部長は感激の面をあげ「我々汚なき人間でも天職に精励する時は神への道程である。即ち故増田巡査が、我等に活模範を示している」という意味の訓話をなし、終わって一同記念撮影の後、同区村会議員有志の案内で下川街に出る。街路が狭くゴチャゴチャしている。これならコレラも流行したであろうとうなづける様な道だ。呉服屋もあれば理髪館、薬店、旅館、雑貨商、酒屋等々日用必需品は何でも間に合うという処だ。
高串区有志松永八十吉氏宅に一行案内され、裏二階三十畳数の客間に行く。同二階の下は青々たる海で鯛うなぎの浮遊が見え、万こくの涼風衣を返す心地よい客室だ。そこには処女会婦人会員の手に依り、二の膳つきの山海の珍味が用意され、連警察部長の挨拶謝辞があって、直に一同ビールの満を引き、午後六時頃増田巡査が下宿していた長崎屋を、連警察部長外二名と記者も同行視察したが、当時を回想してか皆感極まって無言である。やがて帰路につく一行を山の上まで見送って再び松永氏宅へ戻り種々談話中誰かが、今日は増田神社の加護により降雨を見なかったのだといった。まさかそうでもあるまいが、とにかく雨を見なかったのは幸であった。松永氏宅で宿るべくへそを堅めると午後九時頃星賀の井上金二郎氏から電話で、只今船を廻したから是非来いとのこと。モジモジしているうちに発動船が迎えに来て呉れた。絶えて久しき北村巡査(武徳殿寄付金募集の為用件の)と久濶を叙し、二人同行発動船に依り絵の国夢の国高串を後に油を流した如き静かな海上を、爆音立ててすべり出す。さらば高串の諸氏健在なれと祈りつつ。
(山下生)
八、地域の顕彰事業
1 松浦十傑五秀に選定
昭和十三−四年頃唐津新開が、一般読者の人気投票によって、東松浦郡内の先覚者や偉人と称うべき人を選定したことがある。十傑五秀として十五人の人を選定したが、増田敬太郎巡査が五秀の中に入っている。僅か三日間の働きであり、その遺族も松浦には居ないのに、唯入野地方の人達の思慕心によって投票せられたものと思われるが、五秀中に加入し得たことは、その人気が相当なものであったと云えよう。
十傑は矢田進、宮崎吉蔵、山辺浜雄、山下善市、奥村五百子、高取伊好、草場猪之吉、菊池山海郎、川原茂輔、小松仲治であり、その中で奥村五百子は有名な愛国婦人会の創立者として、川原茂輔は近世の政治家として隣県の筆者等もよく知っていた。
五秀には大川謙治、村瀬文輔、増田敬太郎、岸田愛吉郎、吉岡荒太であるが、吉岡荒太は日本女医学校創立者吉岡彌生女史の夫君であり、自分も医学者であり、女医専の校長となった人である。入野村の高串区から、増田、吉岡の二人が出ているから、高串部落は人間培養の底力があると云えよう。
さて問題はこの十傑五秀の顕彰碑が唐津市の図書館側に建っていたのが、道路改修で取り除けられ、碑石が破壊されて、個人の庭に投げ出されていたことである。筆者は苦心してその碑の所在を唐津市図書館長の助力により、漸くつきとめて写真に撮ることが出来た。こんなにして顕彰碑など作る時は熱心に作るが、管理保存の責任者が一定していないので、年数が経つと忘れられて、こんなことになる。唐津市は郡制時代のもので自分の責任でないと云うなら、佐賀県教育委員会が、史蹟として保存すべきであり、今からでも復旧して欲しいと思う。
2 郷土先覚者顕彰碑
唐津市の唐津神社前の広場に天を摩するような高い尖塔が立っている。これは昭和十五年に建てられたもので、そのいきさつは左の「東松浦郡郷土資料集」(郡教育会発行)に明記せられているが、この百二十六人中に我が増田敬太郎が五十七番目(卒年順)に列記されている。
郷土先覚者顕彰会
郷土の先覚者に対して、敬虔の念を捧げその霊を慰め、かつその業績を顕彰して徳沢を讃えようとの企画が昭和四年前後に時の東松浦郡教育会頭、鶴田定治氏の首唱で始められた。
かくて先覚者の業績調査に着手し、在京の先輩、小笠原長生、掛下重次郎、天野為之三氏を相談役にして、その内意を伺い、その指示によって顕彰さるべき先覚者四十二人の伝記を昭和五年二月発行の東松浦邪教育会報に発表し、昭和七年五月、さらに八人を追記して、五十人の先覚者を選定のうえ第一回の先覚者慰霊顕彰祭を行った。
その後、年々調査、追記して顕彰祭を行ってゆくうち、先覚者顕彰碑建設の儀が起こり、唐津市東松浦郡各町村の小学校教育から得た醵金四千百九十五円一銭を建設基金として唐津神社広場に、建碑、その除幕式を挙げたのは、昭和十五年十月二十日である。建碑除幕式には小笠原長生候の帰郷を請い、市郡県の各界有志、市郡教育会員、市郡各小学校からら代表生徒が参加し、総勢二千余人が列席して盛大な式典を挙行した。この大祭典の後、大東亜戦争の苛烈な時代も、ひきつづき祭典は行われ、先覚者の追記もあったが、戦争集結の昭和二十年以後は、世情騒然かつ諸般の事情困難のため祭典は、行われないのみか、時勢の大変革によって主宰者、市郡教育会は解散してしまった。
鶴田定治氏は、この間にあって、新旧教職員中の特志者に極力勧説して祭典継続に努力したが、同志を得ることができないのみか占領軍の威圧におののき教職員中には祭典とは無関係をよそおったり、あるいは、顕彰事業を冷眼視する傾向さえみえる時勢と人心の反転であった。
このような情勢下にあったため、鶴田氏は、先覚者顕彰事業の一切をあげて久敬社唐津本部に一任した。久敬社唐津本部(本部長、常安弘通氏)は、快く本事業を引継ぎ復活第一回顕彰祭を主宰し、昭和二十五年十一月三日、唐津市西寺町近松寺で執行したが、その前後、三日間にわたり、小笠原壱岐守長行卿ならびに、諸先覚者の遺墨展を開催して公開するなど復活最初の祭典にふさわしく、唐津市長はじめ各界有志百余人の参加があった。爾後ひきつづき毎年秋に顕彰祭を執行するとともに、そのつど適当な催物を開催しているが、幸いに、昭和三十五年秋の顕彰祭から、唐津市長と東松浦郡各町村長との本事業にたいする理解と援助が、結集されたため久ぶりで活気ある顕彰祭が営まれた。先覚者名簿に列記されている故人は、次の通り百二十六人ある。(昭和三十五年現在卒去順)
第七章 霊魂は郷土に帰りしや
一、郷家の発展
菊池郡泗水の郷家では、弟の亥平氏が家を継ぎ、農家の経常に励み、着実な発展を遂げた。亥平氏の長女衣恵氏は明治三十年の生まれで、現在六十九才であるが、眉目秀麗、極めて聴明な夫人である。娘ばかりだったので、村内から作太氏を婿養子として迎え、現泗水町長義孝外二男一女を育成し、外出勝ちの義孝の夫人を扶けて、自作農としての増田家の経営をゆるぎなきものとしているのは、全くこの衣恵夫人の力量である。
衣恵母堂は正確な記憶の持主で、また敬太郎伯父に対する種々の資料をよく散逸しないように保存して来た。彼女は筆者の手元に覚え書きを示された。
衣恵嬢が生まれた明治三十年七月には、増田家では亡兄敬太郎氏の三年忌の法要をいとなみ、亥平氏はその妻に向い「高串には兄が神様に祀られているそうだから、その内に参拝に連れて行こう」と云ったと、衣恵氏は母からよく聞かされた。明治三十九年三月に、亥平氏は三十二才の若さで病死し、妻は生後百日の幼児外三名の子供をかかえ長女衣恵氏は漸く十才であった。亥平氏に兄敬太郎が家督相続権を放棄して譲ってくれた田畑は抵当に入っていない無疵のものが二十三筆二町余で、抵当として書き入れてある疵物が一町八反ばかりであった。これだけあればこの地方では上位の自作農であり、亥平氏は若年ながら、その整理に苦労し、増田家の復興に努力したが、残念ながら若死した。その後女児ばかりの母子家庭は農家のことであり、労力は不足し困難は甚しかった。又衣恵夫人が養子の作太氏を迎えてから、物心両面に亘り、神格者の家系として恥じないようとの苦心は全く並大抵ではなかった。
明治四十四年には増田神社の十七年祭があるというので、郷里にも案内が来た。衣恵氏の母堂初恵氏と、祭神の妹ツナ夫婦とが参列することになり、初恵母堂が当時流行の丸髷に結って出かけたが、ツナ叔母は時間が無くて結えなかったので、途中の伊万里町で便乗する漁船を待っている間に結って貰ったそうである。
高串では盛大な出迎えを受け、祭の前夜に一泊することになって、共同風呂に案内された。風呂場では祭神の御遺族だというので大変な敬意を表されたが当日の風呂場は大賑わいをしていた。平生遠海の漁に出ている人も、他村に嫁に行っている人も、皆増田神社のお祭だというので、部落に帰って来て、大混雑をしていた。式典は厳粛に行われたが、後の余興は素人相撲だった。ちゃんとした棧敷の正面の座に据えられ、魚ずくめの折詰など沢山貰って、始末に困ったものを、全部鉄道のチッキにして熊本のみやげにしてもらった。
大正八年の二十五年祭の時は、婿養子の作太氏が入居して居たので、作太氏と伯父伯母義父等五人を加えて参拝した。
昭和六年の三十七年祭の時は、長男義孝(現泗水町長)が小学四年生だったのを連れて、親戚一人と隣家の宝田茂先生(小学校長)が同行された。式の最後に「遺族代表挨拶」と云う次第があり義孝君が挨拶をやった。
義孝君はクラスでも小さな方で目のくりくりした可愛らしい坊ちゃん坊ちゃんしたタイプのたちであった。それが大勢つめかけている顕官有志の前で挨拶するのである。一瞬はっとして、君を見る目が異様に輝いたことであろうが、君は堂々として一言一句も淀むことなくやってのけたので、居ならぶ人々も更に見直したと云うことである。
その挨拶の中に「祭らるる人が神か、祀る人々が神か」と言うことばがあって人々に探い感銘を与えたと云うことである。
昭和十一年増田神社改築の募金の通知を受けたので、衣恵夫人は応分の寄附金を送ったが、子供達も幼少で充分の寄附が出来ず残念でたまらなかったと云う。それで非常に勝気な衣恵夫人は、落成式用に紫の絹地の引幕を贈ることを思い立った。自分自ら繭から糸を引き、お母様に手伝って戴いて、五反という大量の絹ものを織り上げ京染めにし、やっと十二年八月三日の除幕式に間に合わせたのである。祭神が郷土開発の為に始めた養蚕業が、その郷土に根を下ろしたのであるが、その姪御さんが蚕を飼い繭をつむいで、わざわざ菊池神社まで引き幕の作り方を見学に行って、三ケ月を費して織り上げた。その紫の引き幕が、新装成った社殿を包む神々しい雰囲気は、何とも譬えようのないゆかしいものであったと思われる。この社殿改築に際し、泗水村内の東西二つの小学校の生徒が一人一銭あてに、お燈明代として寄進したので、永田、城両校長も落成式に参列された。それで落成式の参拝者は、当主作太氏を中心に、一行八名であった。
なお前記の紫の引幕は、平生も引いて置くと参拝者が「お守り」代りに引き割いて行く怖れがあるので、祭礼用に大切にされた。
昭和十四年の日支事変が始まった頃、増田神社の祭礼でない春の日に、衣恵夫人が農閑期を利用して、長男義孝、妹、従兄とゆっくり参拝しょうということになった。当時鳥栖警察署長であった、横尾氏を訪問したら、一泊せよということで一泊し、翌朝一番汽車で唐津に向かった。唐津駅では熊本県増田と大書したのぼりが建てられ私服の警官の案内で警察の車で高串に向かった。いよいよ高串に着いた時は、区の代表者と共に多数の婦人会員が正服のエプロン掛の上に「大日本婦人会」と書いたタスキをかけて盛大な出迎えで、土地の人の純朴さをしみじみと感じた。そして祭神と最も関係のある衣恵夫人が、初めての参拝であり、四十年も高串の地を踏まなかったことを大変くやまれたそうである。彼女としては、毎年でも行きたいのであるが、祭神の家として物心共に立派な増田家をもりたてようと、心身を砕いていたのであり、又婿養子である主人作太氏を立てて、自分は遠慮されていたのである。
二、墓前に祈る人
その一
増田巡査が殉職して四〜五年たった頃、突然文金高島田にお高祖頭巾をかむった若い芸者風の美人が、泗水あたりは珍しい人力車に乗って、増田巡査の墓所をおとづれた。車から降りた彼女は、大人でなく子供に墓所を尋ね、増田家のことは全然尋ねなかった。墓前に香華を捧げて、久しく黙祷を捧げていたが、立ち上がると若干の金を紙に包み、「後で増田家に線香代として差上げてくれ」と、近くにいた老婆に託して、増田家には立寄らないで立ち去ったのである。
小さい農村のことだから、噂はたちまち隣近所に拡がり、年取ったおかみさん達が弟亥平氏に「是非増田家に招き入れて、お茶でも上げたら」と奨めたのだが、未だ若かった亥平さんは、それだけ枠を利かすことが出来なかった。
明治維新の志士たちは、殆ど行く先々で女があった。敬太郎氏が二十七才迄あちこちと社会の為に奔走して巡る内に、不思議と女気の話を聞かぬ。この話の長崎芸者は、高串の増田神社にも行っているが、佐賀出身の士族の娘さんであったとか。横尾さんの浪曲「噫増田巡査」の中にも出て来る。敬太郎氏も決して木石ではなかった筈、余り神様あつかいするより、少しは人間味があったが面白い。
この佐賀生まれの一婦人のことは巻末付録の筆者の「増田巡査由来記」にも、又藤原逸露氏の浪曲「巡査大明神」中にも出て来る。
現在菊池郡西合志村黒石の開柘団に本田ハツという福本区の本田家に生まれた九三才のお婆さんが居るが、この人は敬太郎氏と二従兄妹に当たり、親類間では似合いの夫婦だろうといわれていたが、敬太郎氏には余りにも学問があり又家に落ちつかないのでハツ女はそれほど好きでなかったらしい。然し佐賀県巡査として愈々出発する時は、「今度こそ落ちついたら、お前を迎えに来るよ」と冗談まじりに云い於いて出発したという。
その二
昭和十六年頃、泗水町と菊池市との間の泗水町吉富の直ぐ上の台地に、飛行場建設が始まった頃の話である。衣恵夫人は敬太郎氏の墓所が、家から余り離れていないので、朔日と十五日には必ず欠かさず参拝していたが、或日巡査の墓前に一銭銅貨が二〜三枚供えてある。不思議に思い二〜三日注意していると、どうも毎朝日参しているらしい。そして或る朝、墓前で四十才前後の実直らしい中年婦人とばったり出会った。
その婦人もそれとさとって
「増田様のご親類の方ではないでしょうか?」
「はい!私は増田巡査の姪にあたる増田の本家の者です」
「実は私は佐賀県の東松浦郡の入野にある増田神社の近くの者でございます。長男がこの近くの飛行場の格納庫の建築工事の人夫として来ましたが、先月屋根から落ちて骨折し、この村の甲斐医院に入院していますので、看病の為にやって来ました。私は村で大変参拝者が多く御利益が深いと評判されています増田大明神のお墓が、近くにある筈だと聞いて来ていましたので、尋ねたら直ぐ判りました。それで、こうやって毎朝日参しているのです。御生家も近くにあると聞きましたので、一度お立寄りしたいと思っていましたが、今朝は大明神のお引き合わせか、墓前で御逢いすることが出来て、本当に嬉しく思います。」
と、感激した口ぶりでしみじみと語った。
その後で増田家にも立寄ったが、春蚕の最盛期であり、又麦の刈入れも迫っていた。この婦人は看病の暇な時にやって来て、数日間仕事を手伝ってくれた。又息子の恢復も早く、間もなく退院して帰った。姓名は坂本クマと云い、その後衣恵夫人が、高串の神社に参拝する度毎に、その家に立寄り親身の交際を続けた。
三、血脈は通う
昭和十六年五月は大鳥居、狛犬の奉納祭で菊池にも案内があった。甲斐義盛村長と衣恵夫人が参列した。この時衣恵夫人は四十四の女ざかりだったが、心の中の感激は押さえ得ない程だったらしい。式典の司会者がそれを見て取って「御遺族御挨拶」の一項がプログロムにつけ加えられた。
積もり積もった四十年間の感激が唇をついてほとばしり出て、涙は幾筋も頬をつたって流れ落ちた。聞く村人達も参列の警察官達も、皆もらい泣きをした。その後、御主人宛の礼状に流石は血を分けた人だ一同拝殿の板を涙でぬらしましたとあった。その頃は、あちこちに軍神と云われ尊ばれる人があったが、それは皆増田巡査とはちがって国家という権力を背景に義務を遂行した人達だといってよかろう。
増田巡査は警官という聖職にあって、義務付けされた職責はあったが、防疫という型の変わった場合の奉仕であり、捨身の活動であり、恐らく増田巡査でなければ、高串のコレラを鎮圧することは出来なかったのではあるまいか。
そのことを村人はよく知っていた。それで誰がすすめ、誰から頼まれたでもなく、巡査大明神が出来てしまったのである。この神社こそ真実の信仰だといえよう。
高串では皆が「増田様」「増田さん」と云う。熊本の「清正公さん」(加藤清正)と全く同じである。それこそ真の民間信仰であり村人達の心の中に全く溶け込んでいる信愛感である。
衣恵夫人のご挨拶も恐らく、祭神の声として皆が聞いてくれたことであろう。
昭和十七年七月には泗水村の全区長(二十余名)を松本助役が引率し、増田家の長男義孝君(現町長)が入隊報告を兼ねて、案内役として同行した。郷土からの参拝者が、次第に増加して行くのも興味深い事実だと思う。義孝青年も既に県立農業学校を卒業して、郷土に必要な人物となっている。然し彼の肉弾が国家の為に是非必要であるならば、その花ばなしい死場所を与えて下さい。無駄な死にかたをするよりも、生還して郷土再建に御利用下さいと祈ったのであろう。彼は戦場に行かずに、無事帰還して農村再建に取り組んだのだ。
昭和十九年九月、内地の空襲が始まった。国家総動員体制のはげしくなった頃だが、時の内務大臣安藤紀三郎氏の揮豪で「神人合一」の見事な扁額が出来た。その除幕式があるというので、熊本にも案内があり、荒木勝太郎泗水村長と、隣家の宝田茂先生、増田家の氏神、住吉神社(村内住吉)の神官坂本経尭先生、並びに衣恵夫人、他に四人の同行者があった。
「神人合一」という言葉は誰が考え、何という書物から取ったのか知らないが、増田神社の実態を知った人は誰しもそのように考えることではないかと思う。
何かといえば、何処の神様でも、神様は神様、俗人は俗人というように離れており、距離がある。そんな神様のようなことは自分に出来ぬと思い、自分では努力もせずに、神のお助けだけを期待しているのが、日本の神社信仰らしいが、必勝の神風はやたらに吹かないのである。終戦前素朴な田舎にこの「神人合一」の信仰が生まれたことは、この増田神社の存在価値を高くするものであると揚言したい。筆者が今年参拝した時も、この扁額の金箔の色の輝きは印象深いものであった。
第八章 焼土に芽ぐむもの
一、 日本精神の火打石
昭和二十年三月の空襲最中に、筆者は病中の体で大勢の家族を引き連れ、「玉砕するならば先祖の墳墓の地で」という気持ちから、青森の病院には自宅療養の了解を受けて帰郷した。はからずもその翌日「赤紙」の召集令状を受けたが、病後の理由で即日帰宅を許された。村内の若い医者は、全部召集を受けているので、安閑と安静ばかりして居られず、村内の医療対策や防空訓練等に奔走している内に、体も大分しっかりして来た。終戦と共に、村には新しい続政喜村長が立ち、筆者と同部落の内田時久氏が助役となった。筆者は医術開発かたわら民生委員、社会教育委員、学校医等いろいろの奉仕的役職を引き受けたが、特に情熱を注ぎ時間をつぶし、手弁当で奔走したのは、自分の部落の公民館長の職であった。
昭和二十二年四月に公民館の落成式と開館式をする予定で何かすばらしい企画はないかと構想を練っていた。たまたま正月の民生委員の例会で、筆者の小学時代の恩師である宝田茂先生が、民生委員会の常任委員長をしていられて委員会の席上で、「君が今般公民館で部落の青年指導に当られるならば、田中出身の巡査で、佐賀県の漁村で神社に祀られている増田敬太郎巡査の事績を紹介されたら効果があると思う」と話された。筆者も県外在住中、熊本県出身の巡査が、佐賀でコレラ防疫中殉職し、神社に祀られているという記事を何かで読んだことを思い出した。増田家ならば若主人義孝君の「土の会」講演会や懇談会に数回出かけていたが、今迄一度もその話を聞かされたことがなかった。筆者は全く狂喜せんばかりに宝田先生と共に会議の終わるのを待って、田中部落の増田家に向かった。 衣患夫人は何時もの落ち着いた態度を失わず、「内田先生なら解って戴けるだろうと思い、何回かお話しょうと恩いましたが、我家の自慢のように思われてはと考え、話し出せずにいました」と大変喜んで、数回の参拝時の感想や、沢山の資料を見せて貰い、日が暮れそうになっているので、急いで一緒に敬太郎巡査の基に参拝した。筆者は資料の一部を借りて、全くいそいそと月明の合志川堤防の草路を帰って来た。
どんなに燃えそうな薪が積んであっても、一本のマッチが無ければ火はつかない。敗戦の村々は全く暗黒であり、肉体の命をつなぐ唐藷はあっても、心の世界に火をともす一本のマッチも無かった。マッチが無いなら火打石を探そうと、筆者は血眼になっていた。増田巡査の事績を知って、全く「これなるかな!」と膝をたたいた。
平和日本の再出発は、増田精神をしっかり握りしめることだと感じた。この人類愛の権化ともいうべき増田巡査の事績ならば、連合国の人達に開かせても、決して恥ずかしくないと思った。戦争好きで非常に殺伐だと、外国人から怖れられていた日本人の中にも、こんなにも人類愛と責任感の強い人が居たのかと、日本人を見直してくれると思った。伝染病のことは進駐軍が非常にやかましくいってくるが、筆者は医師として、増田巡査が伝染病の防疫の為に死力を尽くして戦い、遂にその犠牲となられたことを非常に尊いことだと思った。 「警神」と称して神格化することについては、異なる意見もあろうと思うが、国家権力を背景とした「軍神」などより、自然発生的で永続性があり、庶民的であったことは確かであろう。
公民館の開館式は二ケ月後に迫っている。一週間足らずで「増田神社由来記」六幕の脚本を書き上げ、「増田精神顕彰歌」の八節を作った。青年達もさあ大変だ!
「敗戦おどり」といわれた「股たびもの」は直ぐに覚えても、軍国精神でない尊い人類愛を繰り込んだ、増田巡査劇の精神的バックボーンを呑み込むことに苦労したようである。
劇のラストシーンは、永部落から二粁ばかりの増田巡査の墓前である。公民館の落成式に増田巡査劇をやらして貰うので、警神も地下から御声援下さるように永の青年同貝一同が参拝し、顕彰歌を墓前で合唱する場面である。そこで、筆者は、演劇の当日は早朝参拝するように指導して置いた。青年達は、前夜の最後の仕上げの稽古を終わったのは夜半に近かったが、真正直に会員揃って墓参に出かけた。指導者顔をしていた筆者が、同行出来なかったのを恥じた。
開館当日は県と郡の社会教育課から来賓があったが、部落独自の力で公民館を開館した例は未だ余り多くなかったようである。午後一時から愈々余興の増田巡査劇で、本格的な大舞台を氏神の境内に造り、舞台の前全体にむしろを敷いて、四〜五百人の収容が出来た。
最後の場面は、墓前で増田精神顕彰歌を唱うことになっていたが、この歌は予めプリントして観衆にも渡してあった。田舎芝居には弁當持山しが楽しみの一つ、その上戦後の少ない焼酎も入っていたので、老も若きも男も女も大変な感激で、手拍子の大合唱となったのである。合唱が済むと、多くの観衆の眼には涙が光っていた。終幕が引かれると宝田茂先生は直に舞台に飛び上がって、原作者と熱演の青年達に対する感謝の言葉を述べられた。筆者は衣恵夫人が、多くの親類の人達まで誘って観覧されたことを喜んだ。
この脚本は、その後村の青年団の機関誌に掲載して貰い、抜刷を作って将来上演の為に進駐軍の検閲を受けたところ「日本の財産は全部天皇陛下のものですばい」と云うセリフを「全部国民のもの---」と訂正してあった。
この劇は二十三年頃に泗水村内にある県立西部農業高校の昇格祝賀会のアトラクションに取り上げ、又同校生徒によりNHKのラジオドラマとして放送したことがあった。
二、増田精神顕彰会 (熊本側)
この増田巡査の実績は、日本はもとより世界に誇る価値のあるもので、佐賀地方だけでなく熊本の郷土にもこのことを何とかして普及したい。そこで、村内有志と計って表題のような会を作った。会則も作り事務所を田中の宝田先生宅に置いた。趣意書と会則を印刷して配布して、宝田先生の努力によって、増田家の門側に「増田巡査誕生地」の標柱が建てられた。その裏面には筆者がものした増田精神顕彰歌の八節を細字で書き込んであった。
泗水村にも退職警察官の会「警友会」があるが、その中に佐々木九一氏(元皇居警察警視)、内田貞臣氏(元大阪府消防課長)が居り、自然に増田巡査を警察官の先輩として崇敬する方に傾いて行った。特に佐々木氏は警視庁巡査から、皇居警察署に入り活躍した人だが、増田巡査の事績をよく知っていて、かねて自分の手本にしておられたという。その後筆者は熊本短大教授と開業医の二足ワラジを履くことになり、昭和二十七年春に熊本市に移住してしまい、顕彰会はさっぱり御無沙汰になっていた。
三、ベストセラーにも載せられて
増田神社祭礼がどれほど地域の住民の心に溶け込んでおるか、本当に大衆の血となっているかはなかなか判定が困難である。
昭和三十三年に光文社のカッパ・ブックスの一冊として出版された、安本末子という僅か十歳の少女の日記集の「にあんちゃん」中の七月二十二日中の日記に、増田神社のお祭を取り上げている。小生の書架のは三年後の第一〇〇版であるが、一〇〇万部以上売れている。増田神社のことが、戦後もこの本によって、全国数百万の少女や大人に知られたことになる。
殊にこの安本という少女は、大鶴鉱業所に働いていた労務者の家庭に生まれ極めて困難な生活の中からこの日記を書いたのであって、その不遇の少女の心にも、増田巡査の心の光が届いていたといってよかろう。
「にあんちゃん」
安 本 末 子
(七月二十二日 水曜日 晴のち曇)
ドンドンと、たいこの音がしたので、出てみると、なにかしらないが、ぎょうれつして、えいがかんの方にむかっていました。
光子さんとふたりで、行ってみました。 ぎょうれつは、高串の増田神社の夏まつりのせんでんでした。
増田神社が、どうしてできたのかは、いまから、五十年か六十年ぐらい前の話です。
高串に、せきり(筆者註−コレラのあやまり)のようなひどいでんせん病が、はやりました。つぎからつぎへ、おおぜいの人がせきりにかかりました。
そのころ、高串には増田という名前のおまわりさんがおりました。増田さんは、せきりにかかった人たちを、なんとかして、みんなたすけようと思っておられました。ほかの人は、だれでも、せきりにかかった人を、きらって憎みましたが、増田さんは、少しもそんなことはなく、やさしくかんぴょうしたり、おみまいをしてやったりされました。
そうしているうちに、増田さんに、せきりがうつりました。すると、りょかんの人は、うつるからといって、増田さんをきらい、ごほんなども、竹の先にのせてさしだしていたそうです。それでも、増田さんは、少しもおこらず、みんなのことを心配しておられたのですが、だんだんひどくなって、とうとう死んでしまわれたのです。
そして、その、いよいよ死ぬというとき、増田さんは、高串の人たちに、
「でんせん病のたねは、私がみんな持って行きますから、私が死んだあとからは、みなさんも、二どとおこさないように、よく気をつけてください」といわれたそうです。
そして、それからは、高串では、でんせん病というでんせん病は、どんなものでも、はやらなくなったそうです。
高串の人たちは、増田さんのえらさがはじめてわかり、そこで、お宮をたててまつってあげようということになり、りっばなお宮をたてました。それが、高串にある増田神社です。それから何十年とすぎた、いまでも、よその町では、どんなにひどくはやっても、高串では、でんせん病は、はやらないそうです。
私は、この話を兄さんから聞いて、増田さんのやさしい心に、こころからかんしんしてしまいました。
四、泗水村の顕彰碑成る
筆者が熊本市に出向してから代わって内田貞臣氏に保護司の辞令が降りた。彼は村内の警友会員を糾合して防犯協会等を組織したり、部落公民館長となって、増田精神の顕彰に就いても決して紐をゆるめなかった。
昭和三十六年の夏、泗水村の警友会員が、多数増田神社に参拝し、その報告懇談会があるというので、筆者も参会したが、たまたま顕彰碑建立の議が起こったので、筆者も激励のことばを呈した。
時の泗水町長甲斐正氏の、深い理解があって、村内外から十八万円の浄財が集まってりっぱな碑が建った。碑石は堅二・三米、横一・八米の唐津石を、唐津署の警官達の手で山出しをしてもらったものである。
表面の題字の「警神増田敬太郎命顕彰碑」は、当時の熊本県警察本部長稲留確氏の揮毫である。「警神」という言葉は当方から希望であったが、稲留本部長は非常に遠慮されたそうである。然し結局は、当事者達の熱意に押されて書かれたそうだ。昭和四十年七月に長崎本部長に転任していた稲留氏が、東京法令出版社から出版された「警察人間像の改造」と題する部厚い著書の一章に「警神」という章があり、勿論泗水町の増田巡査の顕彰碑の除幕式に参列したことを書いてあるが、佐賀県の横尾顕彰会長の祝詞を多く紹介して、自分が碑石の題字を書いたことは告白されていない。
文中に
「この記念碑は、佐賀県唐津在にある増田巡査の御霊を分ったものであるが、碑に刻むに、「警神増田敬太郎命」である。私はまずこの警神と云う文字にびっくりした。私も警察二十年になるが、「警神」と言う文字は初めてである。「警神」と云えば、読んで字の如く警察の神様と云うことになる。殉職警友は少なくないが、警神とまで云われた人は聞いたことがない。それはただごとではないと感ぜざるを得なかったが……‥云々j
(この後に佐賀県警友会長、増田神社奉讃会長横尾佐六氏の長い長い祝辞を収録してあるが、ここでは省略し、巻末に附録として加えた。)
これはこの顕彰碑除幕式のために用意されたものであった。聞く者をして、万感交々、感激せしめないものはなかった。式が終了した後、参会者の多くが口をそろえるように「これでよくわかりました」と、退屈を誘うかに見えたこの長い挨拶に、かえって心からなる謝意を連発していた。私もこれで、はっきりわかった。一抹の疑念も残さず顕彰碑を見つめ、警神を仰ぐ心に導かれた。邪念に終始する匹夫(私)も、この話を聞かされて感奮しないではおれない。こんな立派な行事に参列する機会に恵まれたことを、胸中合掌して有難く思った。と紹介されている。
碑文は中学生でも解るように平易に書いてある。
碑 文
増田巡査は明治二年田中区に生れとても情深い人であった。幼い時から塾に入り勉学し大きな志を抱き北海道の開拓や村の養蚕など先に立って始めたが自分の使命は人のために働くことにあると覚り同二十八年佐賀県巡査になり唐津署に赴任した。その時管内入野村にコレラが大流行し死者相次ぎ村人は只恐れ逃げるばかりであった。署長は増田巡査の沈着な人柄を見て防疫の応接を命じた。氏は直ちに現地に着き村人を叱り励まして治療の方法を教えたり患者を介抱したり果は死体の運搬などまるで神のような不眠不休の働きが三昼夜に及び遂に自分も病魔に感染し職に殉じた。死に臨み悪疫を退治せず死ぬるのは残念であるが、今まで教えた方法を実行すれば必ず退散する。自分も念力でこの地から病気を絶やして見せると力ある言葉を残して世を去った。果してその後はこの村に伝染病が発生しないようになった。この功徳に驚いた村民がその遺品を拝み始めてから次から次から参拝者が増し遂には長崎福岡からも悪病よけの神として祈願者が絶えず今日の立派な神社となった。これ全て増田巡査が民衆保護の為に自分を捨てて働いたからで一巡査が神に祭られたという近代に稀な人を生んだこの郷土にもこの事績を明かにしこれを讃えこの社会奉仕の大精神を永く後世に伝えたくこの碑を建てた訳であります。
昭和三十七年四月吉日 増田精神顕彰会
除幕式には稲富警察本部長を始めとし、特に佐賀県からは横尾先生が御病中で参列出来ず、長文の祝辞を代理の野中警友会副会長が代読された。その他田中唐津署長や、地元の浜井町会議員その他数人が列席された。式は泗水中学の鼓笛隊の奏楽の中に進められた。厳粛にしてなごやかな雰囲気に、敬太郎氏の霊も生まれ故郷に喜んでおちつかれたように感ぜられた。
この顕彰碑に一つの問題がある。これは一つの記念碑であって、参拝所ではない。碑前に花立も線香立もない。誰ともなく竹の花立を打ってくれたり、花束が碑台の上に置かれたりしている。筆者は、何等かの形で参拝所を造営したいという念願を持っている。
五、二十年の潮待ち
増田神社の夏祭りが七月の末から八月の初めにかけて、潮時の良い日を選んで行われるというが、筆者の高申詣りの潮待ちが二十年もかかったことは全く恥ずかしい次第である。昨四十年秋に、熊本で、九州に初めての日本社会福祉学会総会が筆者の学校を当番校として開かれるようになった。この学会を記念すると共に、遠来の社会福祉の学者達を歓迎する意図で、筆者は「熊本県社会事業史」を出版したのであるが、その巻頭の「身をこがせし先人たち」の中で、増田敬太郎巡査を社会事業家として紹介したのである。そんなことで、更に若い学徒に与える為に、増田巡査のヒューマニズムを書かずには居られなくなった。増田義孝町長からも以前から執筆をすすめられていたので、断然起稿を決意した。
内田貞臣氏が協力してくれるので、氏の案内役で昭和四十一年一月六日に高串詣でを決行することになった。途中で、唐津日赤病院入院中の横尾氏を訪ねたら、非常に御元気であった。警友会副会長の野中氏も駆けつけて下さって、全く百年の知己の如く、増田巡査の伝記執筆に就いて相談申上げ、全面的な賛同を得た。約一時間ばかり横尾氏の思い出話を拝聴した。
「高串の神社も維持費が無くて困っています。昨年参拝した時も、境内の石燈籠が一基倒れていたりして、修理なり管理なりもっとよくしなければ」と熱烈な言葉があった。
伝記執筆も、多忙な筆者が適任だとは思わぬが、誰か矢を射る人が必要な時期が来ていることは確かだから、菲才を顧みず立ち上がったまでである。
野中氏に案内されて、唐津署長を訪問し、増田巡査殉職の時の警察葬のあった近松寺を訪ねて往時を偲び、次に増田巡査も加わる東松浦郡偉人顕彰記念碑のある唐津神社に行き、カメラに納めた。
それからバスで高串に向かったが、一時間十分位で、バスは坂を下って海岸へ出た。眼前に展開する高串港は、暮色に包まれて静かである。長崎県と一衣帯水であり、炭坑の煙突も見えている。一たん八千代旅館に落ちついたが、夕幕が迫るので、急いで増田神社へ向かった。坂が急なうえに、肥った筆者は案内に立った旅館の老主人に後れながら登った。部落中央背面の山の背の突鼻に、第一の鳥居があり、社殿は余り大きくないが、鳥居が三本あるが最初の一番大きいのに「巡査大明神」の扁額がかかっている。何と感銘深い社名であろうと筆者はしばしながめていた。石燈箆は無数、大きな石の手水鉢、狛犬等もあり、なかなか立派な神社である。拝殿の前の鈴を音高く振って、増田先輩のヒューマニズムに心の底から感謝と敬意を表した。たそがれの港に立てば対岸の福島の鯛の鼻炭鉱の官舎地帯の灯が何層にも高くはなやいで見える。海岸は二○−三〇米巾にコンクリートで囲めた道が続き全部に船がつけるようになっている。この高串海岸には一済汚物を流すことは出来ないとの事である。
六、ああその部屋に
八千代旅館(増田巡査の頃は長崎屋と云っていたが、これは元来最初からの旅館でなく、漁業問屋だったとかで長崎屋とはその先代の屋号であり、間もなく八千代旅館と改められた。)には玄関前に「増田巡査終焉之家」の看板がかけられている。終焉の部屋は二階であり、昔のままに保存されている。その入口の狭い廊下の隅に余り大きくない神棚が祀ってあるが、これが増田大明神の分霊だと聞いて、筆者は深く頭を下げたのである。愈々終焉の室に通された。何の変哲もない普通の田舎町の旅館の一室である。考えて見ると、この八千代旅館がどんなに増田巡査びいきであっても、商売上誰でも泊めねばならないから、室内に神棚など置いたら、却って眠れないと云う人が多いかも知れない。
とにかく旅館が狭くなったので改築に迫まられながら、この昔からの部屋を原形のまま残す為に非常に苦心をして、故人の神霊を祀って下さっている。当時の主人の孫娘さんが給仕に出られたので、いろいろと昔の話を開いていて夕食の味もわからなかった。部落では、伝記編纂の用件で来ると連絡してあったので、歓迎の用意もしていたようだが、ご馳走よりもお話をと願った。高串区長の青木善八郎氏、漁業組合監事で町会議員の浜井三郎氏、商工連盟会長で町会議員の池田清八氏等が、話に来られ、区長宅に保存されている増田神社縁起書その他の資料を、御持参願ったのであった。
島先生が書かれた縁起書は、実に厖大なものである。先にも書いたように二十米位長い巻物になっている。記録を取る為に、カメラとテープレコーダーを持参した。カメラは筆者の子供が買った高性能のものではあるが、技術に自信がなかったので、同行の貞臣氏に朗読して貰って、テープレコーダーにも納めた。これに一時間以上はかかったようだ。その後で、カメラを下に向け、一米位の距離から縁起書を写したら、三十六枚撮のフィルムを全部費やした。
夜も更けてから床についた。枕神に出て戴かなくとも、筆者の信念は既に決定している。如何なる困難に出合ってもこの伝記を完成させねばならぬのだ。
翌朝は早朝から部落の人達の案内で、正式に神社に参拝した。拝殿境内は大して乱れていなかつたが、間もなく四人の清掃当番のお婆さんと子供さん合わせて五人が登って来て清掃を始めた。参拝御神殿を開扉して、中の御神体を拝したが、写真にあるように、石碑は燈籠の様になっており、深い配慮が払われているように思われ、建設者の苦心が偲ばれた。
神殿内に納めてある遺品の中の、白い夏の巡査服を写真に納めた。御神体の鏡は小さな神殿造りの中に納めてあった。故人が身近に持っていた小刀一振も、戦時中供出して写真だけが拝殿で掲げてある。
神社の境内は、樫やその他の雑木が一面に茂り裏手の方は竹山が主になってはいるが、相当高い山になっていて、七十年前増田巡査が、この裏手の山の斜面の雑草を踏み分けて高串に赴任した山路は、今は人の通わぬ叢の中にかくれている。
神社の近くの坂路のほとりに、当時の伊藤区長宅があって、巡査の見張所だった部屋も残っている。その玄関に立つと、元区長の息子の嫁さんだった七十五才のお婆さんが居て、「私の家の前の坂を少し下ってから、腹が変だと云ってかがみ込まれ、嘔吐をされ、今日は巡視はもう終わりにしようと云って、八千代旅館に帰って床に就かれました」と、増田巡査の当時の様子など、こまごまと、坂の路面を指しながら語られるのを開いていると、増田巡査の胸中の無念さが偲ばれて、立ち去りがたいような心地がした。
神社の近くに周囲が三米位大きな「アコウ」の木がある。これは熱帯植物で九州本島では最北限のものだそうで、村人は皆関心を持ち高串音頭にも歌い込まれている。
七、肥前町役場につく
数年前の町村合併で、肥前町となり、町役場は唐津と反対の五〜六秤の所にあるので、高串の区長さんその他にお供を願って、自動車を出して貰った。役場では井上町長と西沢教育長にお会いして、いろいろ増田巡査の顕彰事業に対する御意見を承った。
増田巡査に対する民衆の信仰は絶大なもので、佐賀県内は勿論、海を越えて長崎県からも沢山の参拝者がある。陸路は交通機関がバスだけだから、海上からが多い。入海が深く、この地方に稀な良港で、港が広いので、増田神社の祭礼となると数百隻の船が入港する。神社の御利益も、最初は流行病だけであったが、いつの間にか病気全体に及び、更に広がって、航海の神様、商売の神様になってしまった。その一身を無にして人のため、世のために尽くした増田巡査の人道的精神が、世の中の総ての人を励ましてくれるというのであろう。
それで祭典も春秋二回であったが、更に数年前から夏祭を加えて年間三回となった。明治中期後の新しい神社には、祖先より伝承の氏子は居らず、又社格を持たない、全く非公認の神社だから、その維持の困難なことはいうまでもない。高串区並びに肥前町と横尾佐六氏に率いらるる顕彰会の人達の善意によって漸く維持されている。
増田神社の三回の祭礼に参拝する者が、肥前町地区に薄として行く金も莫大なもので、観光事業からいえば一つの立派な観光資源である。神社に対して、公共団体が特別な保護をしてはならないことは、憲法にも定められているが、肥前町に民間の観光協会が組織され、その協会に町から補助したものを、更に、協会から神社の祭典費に補助することになってやっと維持されているのである。
八、高串港の発展
高串は日比水道に面する良港で、殊に豊富な鮮魚の水揚場として知られ、佐賀県下で唐津に次ぐ良港である。増田巡査が在任した明治二十八年頃は、戸数二六〇戸、人口一七〇〇人、和船(櫓こぎ)一五〇隻位であった。現在は本村の高串が四四九戸、出村の新田(干拓地に出来た新村)が五一戸で、合計五〇〇戸、人口は高串が男九三三人、女一〇六二人、新田が男一〇二人、女一一〇人合計二二〇七人となり、約二倍になっている。
職業を多い順に拾うと、巾着綱漁業一三○戸、一本釣エビ漁六三戸、鮮魚仲買三二戸、船員二八戸、一般商店二六戸、出稼二五戸、事務員(漁協、郵便局)一九戸、農業一八戸、炭坑工員一七戸、大工土建業一六戸、公務員(巡査、教職員、役場吏員)一〇戸、医師二戸、歯科医一戸、看護婦三戸、その他三五戸である。生活保護家庭は二十五戸 (昭和四〇年)
この各戸の職業種別を見ると、自ら漁をする家が約二〇〇戸、魚の仲買人が三二名も居るので、如何に漁港として栄えているかがわかり、年間の水掲高は約一億二千万円(但地元出荷三〇%)余である。又商店が二六戸もあり、相当な商店街をなしており、又筆者等が行った時も、町内のあちこちに大きな雑貨小間物店があり、又店内の商品の夥しいのに眼を見張ったものである。これは近村の漁師達がここで魚を仲買人に売って現金を受取り、家族から頼まれた衣服や雑貨類の買物をして帰るからであろう。
又この港では非常に釣が出来る。夕方高串に来て泊り、翌朝未明から船を雇って釣に出かける客が多いそうである。現在筆者等が泊まった一月六日の八千代旅館にも、他に同宿の釣客があって、朝早くから騒ぎながら出かけていた。第二回目に訪問した十月十五日は、恰度土曜ではあるし、鯛釣のシーズンで旅館はスシ詰め、翌朝は三−四〇台の自動車も押し寄せ、百隻位の釣舟が出ているところであった。
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「高串音頭」
(一)ここは高串 草木も惚れる
生へた生へたよ 「アコウ」が生へた
あこう木の根っこ 岩通す
私しゃあの娘(コ)の心引く ソレ
さあさ踊ろよ 皆出て踊れ
アリヤサ
ホンニヨカトコ よか港
(二)坊主山(ボンサンヤマ)から 出た出た月が
揃ろた捕ろたよ あの娘も揃ろた
踊りゃ音頭で気も揃ろた
甲士峰山さへ 踊るそうな ソレ
さあさ踊ろよ 皆出て踊れ
アリヤサ
ホンニヨカトコ よか月だ
(三)島は松島 大波止沖に
浮いた浮いたよ あのあだ姿
辛い想いは、ままならぬ
私しゃ悲しい ハダカ島 ソレ
さあさ踊ろよ 皆出て踊れ
アリヤサ
ホンニヨカトコ いろは烏
(四)滝は白糸 弘法様よ
かけたかけたよ 願いをかけた
主さん沖で 網を引く
戻りゃ大漁の フラホ旗 ソレ
さあさ踊ろよ 皆出て踊れ
アリヤサ
ホンニヨカトコ よか滝だ
(五)雨は降る降る 潮鳴りひびく
踊り踊って 増田様にまいろ
参(マイ)りゃ 疾患(ワズライ)せぬそうな
とびもなくかよ 涙雨 ソレ
さあさ踊ろよ 皆出て踊れ
アリヤサ
ホンニヨカトコ 増田さま
第九章 神は人なり
一、高串区の防犯問題
巡査大明神を祀り、毎年の祭礼には、県の警察教習所の生徒が毎年全員参拝をしてくれるし、県警本部長や唐津署長等も参列され、警察と特別親しい間柄となった。入野村に駐在所が出来たのは明治十七年であり、二人の巡査が配置されていたが、明治二十二年七月に、第十管区高串派出所を民家を借りて開いた。昭和十八年十一月に田野部落(高串と続いている)の一六三番地に独立したものが出来た。又増田神社の祭礼行事や高串の漁港としての重要性、或は問題の多い鉱業所があるなどの為に、毎回腕利きの警官が配属されることになっている。同行の内田貞臣氏は、泗水町の防犯協会の常任理事であることから、高串の防犯協会長の鬼崎泰治氏に種々質問を発していた。
唐津署管内に、防犯協会が出来たのは、前記のように横尾氏の署長時代で、その頃高串区にも協会が出来て、サービス業者を主体として活躍し、昭和十六年に増田神社に大鳥居を寄進している。高串区の防犯協会は、増田巡査の顕彰に熱意を持ち、昭和二十五年頃から夏祭りを主催し十五年を経過し年々盛大に向かっている。増田神社境内の清掃は全区民が四〜五名ずつ輪番でやっているが、その推進役は防犯協会である。又区内に防犯標語の柱や防犯燈(二〇ヶ所)を立て、犯罪予防に、積極的な活動を続けている。
それでも地域内に炭坑があるので、稀には凶悪犯罪が起こったこともある。又青少年の窃盗なども数件あったという。現在は特定の一〜二名の暴力行為などの外、殆ど事件はないらしい。
漁港であり、炭坑はあり、景気はよく、一寸油断すれば、トバク、売春、傷害などが起きそうな条件が揃っているが、増田精神と巡査派出所に守られている高串は、犯罪を忘れた町とも云えよう。全く村人が増田様を信仰するのも当然であるように思う。
二、高串区の伝染病と環境衛生
高串区は増田様の御加護によって、七十年間、悪病が一度も流行したことがないと言い伝え、又誇としている。医者である筆者は、常識として考えても、七十年間に亘り三〇〇〜四〇〇戸の大部落に、伝染病を一度も出したことがないとは少し眉ツバものであると思っていた。その筆者が、増田巡査の伝記を割くために、高串を実地調査することになったのも深い因縁があるとおもうのであった。
それで泗水町長から、唐津保健所と肥前町の役場に対して、明治二十八年以来の高串区の伝染病に就いて調査方を依頼して貰って置いたが、町村合併その他の事情で資料がまちまちであり、保健所や役場では殆ど資料が得られなかった。戦後のことでは、東松浦郡の他地区のチブス、セキリは比較的判然としているが、高串には、殆ど流行していないようであった。
然し最後は、高串区の責任者や古老の記憶が一番確実だと思って当たってみたが、その証言によると、戦前の昭和五年頃、パラチフスが七〜八名出て、戦後の二十二〜三年頃小児のジフテリヤが一回流行したばかりであると云う。やはり七十年間に一名もないと云うより、この方が信頼性がある。パラチフスもジフチリヤも、外部からの.伝染源の持込みであるが、それがこの地で大して拡大していないのは、伝染病に対する心構えが充分出来ているからである。
熊本から夏祭に参列した人達の異口同音の土産話は、「あの夏の盛りに殆ど蚊も蝿も居ないのは全く不思議だ」ということであった。
三、蚊と蝿の居ない理由
筆者が行ったのは正月であったが、蚊と蝿の居ない理由を逢う人ごとにしつこく尋ねた。高串の人家は全く文字通り、山や崖の根方の猫の額ほどの平地に建てられていて、家も小さく路地が狭く、何しろせせこましい土地がらである。そして裏の崖の上あたりに墓地が多い。それで墓地の竹の花立に湧く蚊が多いので、花立の筒を割って蚊が湧かないようにする運動が戦前から行われていた。
地形が少し傾斜していて、路巾が狭く、下水溝なども、有るには有るが狭くて、水溜めなど殆どない。部落内に井戸は四〜五ヶ所しかなく、以前は用水には大変不自由をしていたが、今から十三年前の昭和二十八年に簡易水道を設置した。お蔭でトラホーム・眼ただれが無くなり、昔は海水で泳いでから放置していたので頭部に膿腫が沢山出来ていたが、水道が出来てから子供達の頭が奇麗になった。総工費は一〇〇〇万円位かかったが、国庫補助が多かったので大して苦労はしなかった。ここに問題になったのは各戸に取りつけるメートル器の問題で、全部で一二〇万円かかり、耐用年数が五〜六年しかないので、部落の出血も個人負担も相当なものとなる。ところで全部落用として備えつけている揚水用電動機の設備料は、僅かに五百万円に過ぎない。そこで会議の結果、各戸のメートル器をやめ揚水電動機を二台にしても維持費は楽になるので、水は使い放題ということにしたと云う。而して給水量は六〇〇戸に対し一昼夜で五五〇〜六〇〇トンで一般の三倍量である。
これを聞いて全く感心し、その抜本的着想に興味を覚えた。成程道端に出来ている洗濯場にはどんどん水が放出されているし、小さな溝川には水が決して停滞していない。これで蚊の前身であるボーフラの湧く場所がないということになる。この水揚電動機倍増案は水量の多い地区ならば最良の手段であり厚生省あたりに行っても大いに自慢してよいケースだと思う。この地区は海岸地帯で、水はどうせ海に放出するのだし、幸いに水量は多いので三倍量を揚水としているのである。但し簡易水道は消毒が大いに問題となるので、用水量が多ければ多い程、消毒薬の量は多くなる。そういうことをぜひ科学的に処置する心掛けを忘れてはならない。勿論高串は厳重にやっている。
蝿の問題であるが、この高串地区は土地が狭く、農作物や野菜を作る畑や田圃が殆どない。従って家畜が殆ど居らず、蝿の生まれる畜舎がない。野莱など少ない為に、台所の廃棄物が少なく家蝿の湧く場所が無い。以前はイワシなどの土干をしていたが、現在はやらなくなった。魚が多いから魚の廃棄物に湧く青蝿金蝿は少し居るらしいが、これらとても蛹になって越冬する場合、身を埋める土地が殆どない。
道路は狭く、殆ど石畳かコンクリートで張りつめてあるし、台所や縁の下或は便所の周囲なども、コンクリートかジャリを敷きつめてあったりして、蛹の越冬には適しないと見た。増田神社の夏祭りは七月末だから、最も蝿の多い頃なのに、熊本のお客さんが一匹も見つけなかったということは全く愉快な話である。この蚊や蝿の居ないことが、この地区に伝染病の流行しない、重要な原因でもある。
第十章 栗落つる音きく如く
一、増田神社の「お守り」と「御神体」
神社参拝などと云っても大抵は物見遊山的気分が多いのであるが、この増田大明神へ対する人々の信仰は極めて真剣である。それは大明神の功績が全く具体的であり、且つ近代のことであって、皆が記憶し知っているからである。それで何かの願事があり祈願の為に参拝した者など全く真剣であり、何か眼に見える「しるし」か「手がた」が欲しいのである。
それでわざわざ参拝したものは何か「手がた」が欲しくて、神社に張ってある幕とか綱とかの一部を裂き取って持ち帰る者が多く、その裂き取った小片を小さな布の袋に入れて「お守り」として身につけている者が多いと云う。又この布を焼いて粉にして飲み下せば病気が治ると云う。後出の座談会にも出るが、大東亜戦の野戦病院でアメーバー赤痢がこの灰でドンドン治った話がある。近年「お守り」だけは作って八千代旅館で販売させている。
又この迷信的なことで夏祭の時「お水」と云って、拝殿に供えた水を戴いて体の痛いところなどにつけると治ると云うのであるが、飲むのは不潔だが、つけるだけは大した故障は起こらない。
終戦後、公安委員会が出来て、横尾佐六氏が増田巡査の信仰に就いて話していたら公安委員長から迷信がかってはいないかと云われた事があるが、迷信と信仰の区別は困難なこともあるようだ。戦前神社改築の際熊本の本家の増田夫人が丹精こめて織り上げた紫の絹布の引幕は、平生まで掛けたままにして置くと、間もなく引き裂かれてしまう怖れがあるので、祭礼の時だけ使用するようにしたいと云う嬉しい悲鳴談もある。
次は御分霊の語である。実は昭和六年佐賀県刑事課長横尾氏が、初めて熊本泗水の増田家を訪問され、帰任された時の新聞記事に、「御分霊杜に参拝した」という風に表現してある。佐賀の増田神社の御神体は石の石塔であって分けるわけには行かない。形はなくとも祭神が生まれた故郷の家には必ず霊魂が帰って居り、又近くに墓所もあるので、「分霊地」と表現されたのである。
然し次の稲留四国管区警察局長の手紙と愛媛県三島撃索署長鈴木氏の手紙は誠に心温まる話であり、今後増田神社も何等かの形で御分霊の出来るよう方法を考えねばならないであろう。
謹啓、御健勝を慶賀申し上げます。
就而、同封の別資料を、近く御発刊予定の書に好適のものではないかと存じ、御届け致してみました。
宜しく御高配下さい。
着任早々の為、取急ぎ、意を尽くさず申訳ありません。
御健康を御祈り致します。 敬 具
昭和四十一年三月二十四日
稲 留 確
増 田 町 長 殿
○警神増田敬太郎命″の分神を愛媛県警にお迎えせんとした動きのあった経緯の概要。
三島警察署長 鈴 木 武 喜
愛媛県警察学校の学校長を在任していた当時の或る日、新築された警察学校の資料室に殉職警察官の遺影が安置され、小野島警察本部長にその完了報告をした時のことである。報告が終ると本部長は、荘重な態度で 学校長、警神ということを知っていますか″と質問をされたのである。あまり突然のことであったので、
ハア!″と答えたまま一瞬硬直したように本部長の側に立ったままであった。本部長は言葉をついで、君、佐賀県の増田神社のことですよ″と附言されたので、『警察人間像の改造』という稲留本部長の著書に出てくる増田警神であることがすぐ想い出されたのであった。
小野島本部長の机の上にはこの『警察人間像の改造』の一冊が置かれ、警神というところが開いてあった。
「稲留本部長の著書を今読ましてもらっているのだが、僕も佐賀県の警務課長をしていた頃、増田神社に参拝したこともあので、大変感慨深く思っているところだ。当時僕も非常に感銘を深くし、景仰したのだが、今改めて警神の記録を読んで、その旺盛な責任感と使命感に撤した行動に深い感動を覚えた次第だ。
学校長、どうかね、増田警神の分神を頂き警察学校にお祀してその遺徳と功績を偲び、警察精神を涵養することにしては」
小野島本部長は、『警察人間像の改造』の警神のところを開いたまま、私にこのように言われるのであった。本部長のお話をききながら私も大変有意義なことであるし、是非分神をお迎えする段取りに取りかからねばならぬと考え、本部長の御意図に副うべく早急に準備を進めることにしたのである。
幸い中央警察学校当時、同室で一ヶ年の生活を共にした納富文豊警視正が、佐賀県警察署長をしていることを知り、早速納富署長に電話でお願いすることにした。増田分神をどのようにすれば頂くことができるかよく調査して返事するからとのことであったが、なお、長崎県本部長さんにも状況をおききすれば詳しいことが判ると思ってお電話したが、本部長は佐世保市の方に御出張中で連絡をとることができなかった。
愛媛県警察学校の資料室には分神をいつでもお祭りすることのできる祭壇や祠をしつらえ、納富署長からの回答を待った。
昭和四十年十月一日 初任科生の入校式が行われ、愛媛県知事代理、松山地方検察庁検事正、公安委員長、県議会議長などの来賓が来校された際、本部長は、増田警神の分神をお祀りすることについての考えを来賓に披露したところ、全員賛成意見であり、検事正や公安委員長などは非常に積極的であった。
それからしばらくして納冨署長から回答があったが、それは分神をお送りすることはむつかしいのではないかということであった。即ち特別にお分けするような形のものがないというのである。まことに残念至極であった。
小野島本部長にこのことを御報告したところ、大変残念に思っておられる様子が窺われ申し訳ない気がしてならなかった。
愛媛県警察に分神をお迎えすることができなかったことは返す返すも心残りであり、小野島本部長の御意図にも副い得なかったことは愛媛県警察のためにも心残りでならない。然し、この愛媛県警察の心意気だけは、知って頂きたい想いである。自己の利害を超越して社会公共のために尽すという崇高な使命感に徹して昇華した警神増田敬太郎命の遺徳をいつまでも偲び、永く敬仰してやまない次第である。
二、熊本県警察官の参拝記
熊本県警察界が警神の生地を持ちながら、余り関心を示して戴けないのを淋しく感じていたが次の橋本署長の話で、筆者は生き還った感がしている。即ち熊本県八代警察署長橋本近氏の手記を紹介すれば、
「私が兄から『佐賀には巡査を神に祭ったお宮がある』との話を聞いたのは今から三十余年前の昭和八、九年頃のことである。
当時、私の兄(橋本貫)は郷里(菊池)の方で朝日新聞記者をしていたので、どこからか聞いてきたものと思うが、それを聞いた私は何だか奇妙な念を抱いたものであった。というのはその頃までの私の常識では、神に祭られる人というのはたいてい神話的な太古の神様か偉人、又は国家的功績の特に顕著な軍人(例えば乃木大将、広瀬、橘両中佐)というのが相場のようになっていたからである。
しかも神に祭られたという巡査なる人は増田敬太郎という、菊池郡泗水村(現泗水町)出身の人で、佐賀県の或漁村でコレラ病が大流行した際、その防疫に活躍し自らも感染して殉職したが、その息をひきとる際『村のコレラは自分が背負って行く』と村人に言い遺したところ、その後奇蹟的にこの村からはコレラ病が出なくなったということで、村人は増田巡査を普通の人間ではなく神の化身なりと信じ、いつの間にか神に祭るようになった……というあらましを聞いて、ともかく珍しいお宮があるものだナーと思った程度で、格別感銘を受けたというものでもなかった。
昭和十一年四月、私は熊本県巡査を拝命と同時に、警察練習所(現在は警察学校)に入所し、六ケ月間の教習を受けたが、同年八月修学旅行が計画された際、私はふと増田神社のことを思い出し、そのことを主任教官の所長代理平山警部に申し出た。平山教官は私の進言に耳を傾けられ、遂に増田神社への旅行が実現したのであった。
愈々私たち同期生二十五名は、教官引率のもとに増田神社への旅に出かけたが、当時私たちの制服は大きな肩章と金ボタンをつけた真白の詰襟服、それに帽子は白の日覆をかぶせ、白ズボンの上から黒のゲートル、そしてサーベルを帯用してのさっそうたる姿は、如何にもりりしいものであった。私たちは真夏の太陽を浴びながら熊本から佐賀に向い、唐津市から船に乗って目的地の入野村高串に着いた。同部落では増田巡査が熊本県出身であり、われわれが熊本県からの客で、しかも警察官一行とあって、至れり尽せりの歓迎ぶりで部落の軒々には日の丸の国旗が掲げられたほどであった。
その日私たちは増田巡査が寄寓していて、病で果てた長崎屋旅館(現八千代旅館)の二階に案内され、土地の有志の方々から身に余る歓待を受けながら、増田敬太郎巡査の業績や同巡査臨終の模様などをつぶさに聞いた。そのとき主として説明やら案内をして下さった人は七十才位の老人の方で、その人も増田巡査とともに防疫に活躍され、同巡査に関する思い出話や、増田神社設立の由来など詳しく語って下さったので、私たちは改めて感銘を深うした次第であった。そのおじさんも現在ご存命ならば既に百才を越えられている筈である。
更に私達は増田神社の現地に案内されて見学したが、時たまたま同社の神殿、拝殿など新築中で間もなく竣工する直前であった。同社は風光明びな海岸に臨んだ小高い丘の上に建てられ、多数の松の木に包まれた物静かな環境に在り、そこにたたずんだわれわれは、勤王菊池の流れを汲む増田精神こそが、いわゆる警察精神そのものであるとの、無言の教示を受けているかのような感に、しばし胸を打たれたのであった。
× × × × × ×
昭和三十四年四月私は県警察本部教養課長の職に就き、三十五年四月その職を解かれたのであるが、在任中県警察界の人たちが増田神社のことを余りにも知らず、強いて言うならば、これを知る物は私たち同期生(現在の在職者僅か六名)位のものであることを甚だ遺憾に思い、少なくとも本県の全警察官にこれを紹介する必要があると考え、佐賀県警察本部教養課に照会したりなどして、いろいろな調査や資料の送付をお願いしたところ、貴重な幾つかの資料を送っていただいたのである。そして私はこれらの資料をもとにして増田神社の記事を書き始めたところ、突然三十五年四月私は大津警察署に転出することになった。
漸く書きかけていた私は着任後の目まぐるしい多忙の故(三池争議などの最中)に危うく執筆の継続を断念しようとさえしたが、何十年来ひそかに敬仰してきた増田精神をこのまま黙視するに忍びず、筆不精のわれを励まして初志を貫徹することにした。
しかし、私は今少しく増田巡査のことにつきその実体に触れてみたかったので、その出身地の泗水町の実家を探すことにした。幸いその頃泗水町巡査部長派出所にかっての部下であった浜本部長が居たので、事情を話し調べて貰ったら直に分かった。私は胸を躍らせて同家を訪ね、増田巡査遺品のかずかずを拝見させていただき、手許の資料と併せ自信を持って『巡査を祭った増田神社』と題する一文を執筆脱稿した。(「警友熊本」三十五年七月号掲載)
その後私は『あけぼの社』へ熊本県警友機関誌)の古川社長にも増田神社の由来などを紹介したが、古川社長は早速これをとりあげられ、三十六年七月二十七日増田神社例祭に際し、地元の泗水町の警友会員を中心に参拝団を組織される迄に至ったことは誠に喜びに堪えないところであり、更に同年十月泗水町に増田精神顕彰会なるものが発足し、超えて翌三十七年四月二十七日には増田巡査の顕彰碑が生家に建立されるなど、心あるひとびとによって増田精神が世に広まりつつあることは、当然のこととは云え何よりもめでたく心強い限りである。
希わくば増田精神が今後ますます高揚し、ややともすれば功利のみに走らんといる現代人の弊風を、打破するための強力な精神的支柱とならんことを祈るものである。
× × × × × ×
なお本文は熊本短大教授内田守先生に初めてお目にかかった際、是非増田神社を紹介するに至ったいきさつを書きよこして欲しいとのご注文により書いたものです。(本文は「警友熊本」昭和四十一年十一月号掲載)
既に増田巡査の伝記を殆ど脱稿した頃、筆者は八代市の高田焼のカマ場で橋本氏と出合った。お互いに菊池出身だと分かり、どちらからともなく増田巡査の話が出た。そして被は昭和十年頃巡査教習所の同期生一同と修学旅行の企画として佐賀高串の増田神社に参拝したと云う。全く驚喜すべきことである。佐賀県の警察では大騒ぎしているのに、地元の熊本や菊池の警察では大した関心を示して戴けないのは、地元民として甚だ淋しいことであった。
筆者が熊本市に移住してから、歌人警官で「警友熊本」の編輯の担当をしていた淵上君から、衛生に関する寄稿を依頼されていたので、泗水在住時代に顕彰に努力した増田巡査の事を寄稿しようとしたら、県警の方で書こうと云う人があるのでと断って来た。その執筆予定者が橋本氏であり、その執筆が後れて三十五年に掲載された事は筆者は知らなかった。兎に角橋本氏の一文を得て私の溜飲は下がったようである。
三、血はいよいよ赤し
増田巡査の人類愛の精神が如何なる形で、後輩を励ましてくれるかは、教育的に考えると非常に興味があることである。又大明神の血統者として神社の祭礼毎に案内を受けている増田家の身の持ちかたは、非常にむずかしく困難であると云えよう。熊本でも相撲の神様吉田家が、家名を保つために払っている苦心は、世間にもよく知られている。熊本の増田家の直系衣恵夫人が、祭神の家として恥じないようにと、物心両面に心を配られている苦心は、全く知る人ぞ知るの感が深い。
母堂の或時の述懐に長男の義孝と二男の義親は、同じ県立農業高校を卒業し、しかも同一の先生の担任であった。その先生が次男の卒業式の日に母堂に向かって「兄も良かったし弟も全く申分ないが、家庭でどんな教育法を取っているか」と質問された際、「やはり先祖(敬太郎氏)のことを話して、恥ずかしくないようにせよ」ということが一番効果があったと答えられたそうである。
さて現泗水町の町長増田義孝君は祭神を大伯父(母の伯父)に持ち、人間として如何なる影響を受けて来たか、教育上極めて興味があることである。彼は小学四年生の時初めて高串の神社に参拝した。隣家に住んでいる宝田茂氏(小学校長)が同行して、いろいろ説明指導されて、彼も深く感動したらしい。神社の立派なこと、村人の尊敬の念の厚いこと、参拝人の多いことなどに驚嘆させられた。僅か三日間の働きだが、命を捨て、部落民を救った活動振りが、どんなに尊いことかちょっと呑み込めなかったらしい。帰宅後の感想談に「私はもっと偉い神様になります」と云ったそうである。これは童心に充ちた発言であるが、大伯父に負けないような人になりたいと思う意欲が、子供心に芽生えたことは事実であろう。
彼は昭和十四年三月、十九才で県立熊本農業学校を卒業し、家庭に於いて熱心に農業を営み、学理を実際に生かすよう努力した。卒業後間もない頃同じ村内の次男三男は、既に始まっていた日支事変で景気のよい軍需工場にどんどん出て行くが、農家を嗣ぐべき長男は、じっと我慢していなければならぬ。この淋しい青年達を集めて「長男会」を作った。そして新しい農業の研究を始めたので、間もなくその名称を「土の会」と改め、しだいに会員が増加して行った。
四、「土の会」の発展
一般の農村青年は、異性の香を求め、酒食の楽しみを追ってその日その日を送っていた。一般青年を尻目に、「土の会」のメンバーは、共通の目標の下に集まる有望な若者の集団であった。それでも夜遅くまで、研究討議を続けると、腹も空くのは当然である。義孝青年は母堂に向かって、他所から買入れたものでなく、家で出来たものでよいから、余っている食物は何でも青年達に提供して下さいと頼んだ。それで毎年冬になると、四斗樽三本の沢庵漬を作った。母家のお座敷では落ちつかないと、庭先に材料三〇〇円で五坪位の小屋を作った。義孝君の父上が「畳位は買わなくては」と心配したが、古畳があったので、「只のが一番よい」といって、それで済ませた、ここを根城にして、アメリカの四Hクラブのようなグループ活動が始まったのである。
この「土の会」の会員達は、夕食後集まる時に、草刈鎌と竹鉾(タカホコ)を持参し、夜おそくまで語り疲れてからその小屋で雑魚寝をして、翌朝は夜明けと共に起きて、田圃の土手の草を刈って担いで帰るのだった。昭和十七年に義孝君が二十一才で現役兵として入隊する頃は、三十名位の会員数となっていた。戦争が激しくなるにつれて、会員の半数以上は戦地に向かったが、残った者はよく「土の会」の精神を生かして銃後の村作りに挺身した。
戦争中彼は幸か不幸か海外の実戦地に向うことはなかった。広島の戦車隊から選ばれて富士の戦車学校の教官として赴任し終戦をそこで迎えたため広島の原爆もまぬがれた。彼は入隊後幹部候補生に合格し予備士官学校に入学したが卒業の際、隊長より『お前は優秀な成績だから現役志願をして正式に陸士、陸大と進み軍人として活躍しないか』とすすめられたと云う。その時彼は「命を懸けて軍務に励み御奉公致しますが、若し戦い終り命に縁があれば農村に帰り、農村を守ります。国の発展の基礎は農村にあると信じます」と答えたと云う。昭和二十年の夏、二十四才だったが、翌年結婚した。田島村の助役松田武彦の令嬢で、農業の経験はなかった。筆者は増田新夫人の外に田作りの経験のない美しい手弱女が、村内の農家に嫁入り、立派に経営している幾人かの人を知っている。筆者の知人が、養護施設の農業実習指導者を求める時は、農業経験者より未経験者の方がかえってよいと云ったが、その理由は経験者は農業を卑しめるが、未経験者はそうでなく、やろうとさえ思えば農業技術など大したことではないと云う。増田新夫人もその一人のようである。
彼の帰村と共に「土の会」の会員は直ぐに集まり、二〇名位あった。殆ど毎晩のように彼の家に集まった。
終戦後の国土開発の為に全国を行脚する篤農家達、例えば梅村登先生(岐阜)の営農。黒沢浄先生(長野)の米作り、丸木長雄先生(愛媛)の甘藷作り等の懇談会の日は、増田家の広間二間を打通しての集まりで、四−五十名も参加した。恰度筆者も永区公民館長として「農業科学研究会」などを主催していたので、増田家の集合には欠かさず出かけた。そして会後必ず相当の接待があり、時として酒なども出ていたようで、増田家の出血は相当なものだと見ていた。
又彼は県内の農村青年指導者の中崎辰九郎、児玉亀太郎、泗水浄信氏等と同志的親交を結んでいた。昭和二十一年秋、「土の会」会員三十名と八十名の泗水村男女青年団員に呼びかけて、天皇陛下への献上米運動を起し、一人一合ずつ献上し三升入と八升入の花嫁俵を差上げることとし、五人の青年と共に東京に持参しようとしたところ、厳重な食糧管理法にひっかかって、米の県外持ち出しが出来ないということになり、大弱りしたが、終戦まで宮内省の皇宮警察に居られた、泗水出身の佐々木九一氏の尽力により献上出来るようになった。増田君は青年と共に勇躍上京し、宮城内にはいって献上の手続きを取った。これが全国的に見て戦後最初の献上米だったろう。
義孝青年はこの際、図らずも瞥見した宮城内の、お庭の荒れかたの甚しいのに驚き嘆き、帰郷後、同志の児玉亀太郎氏に語った。児玉氏も憂国の志士的感覚の人で、直に県内各地の青年団に訴えた。これが宮城清浄青年奉仕隊の組織を生み、後には全国的運動になったが、熊本がその先鞭をつけたものであって、昭和二十二年に早くも実動に移している。
組織力を作り動かす力を持っている彼の、泗水社の復活運動は印象的であった。泗水社は前にもちょっと書いたが、増田家に近い吉富出身の斉藤長八氏が中心となって、発展した蚕糸共同組合で、敬太郎大伯父や祖父亥平実父作太氏等も関係があるし、泗水村民の共同の経済機関であるが、終戦後の経営の見通しがつかなくなった。或る資本家に身売りをしようかということが重役会議に取り上げられているということを「土の会」の会員が知り、義孝君が中心となって、村青年団員を動かし、婦人会員に働きかけ、全員が新しく株金を出資して会社を救おうということになった。
増田宅の小屋で夜半まで評議をこらし、議論が一決した。その頃青年団の与論のまとめ役をしていた、住吉区の等覚寺の住職泗水浄信先生宅まで、数十人の青年がタイマツをかざして、衆議一決の報告に押しかけた。さっそく翌日から村内有志と婦人会員の説得に廻り、二−三日の中にこの泗水社の救援に成功したのであった。
このように全村を動かすような大事業に着想し、実行に移す場合の義孝青年の意見に賛同激励して、いわばカウンセラー的役割を果たす一人の警世者が居た。それは筆者とも関係親交のあった内田束氏で、彼は熊本薬学専門学校卒で、泗水村高江の電車停留所前に薬局を開いていたが、薬品だけでなく、松田喜一先生経営の肥後農友会の種物店をも経営していた。駅の前ではあるし、青年でも大人でも一応ここに立寄って、世間話と共に自分の意見や着想を陳開して、内田大人の御意見を承るのが常であった。選挙ともなれば必ずここが賑わい、良い意味のボスであった。然し彼は実践家ではないので、理論的に過ぎ、空想的なものも多かったが、進歩的改革的な意見には、大抵賛成してくれた。理想に燃えていた義孝青年は、不思謙な程この薬店主になついていた。彼が結婚のことを漏らすと、直に前記の松田武彦氏の令嬢を候補者に挙げた。間もなく義孝君が肥後農友会の松田農場の専任指導者になるに就いても、この内田氏の尽力が多く、昭和二十二年頃義孝君が乳牛購入資金に困っているとき、大した金持ちでもない彼が、その頃の金で一万五千円をポンと出してくれた。
五、墓前の警
国破れて山河あり、山河あれど日本人らしい国民は居なくなった。真に祖国を興こそうという人は少なかった。然し空腹に泣く人は巷に充ち、自ら耕すすべを知っている農民すら、上から強要される供出を果せば、家人の口に入れるものは極めて少なかった。「増産だ、増産だ」の声は山野に満ちたが、その方法手段を教えてくれる人は少なかった。