末廬國より
(昭和41年11月20日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

唐津 本町・紺屋町


明治時代に稲荷社
 本町には御使者屋
    御用紺屋の紺屋町



一般に、城下町の中心となる大手門前の町を「本町」と呼ぶ例が多いが、唐津の本町はそうしたことでもなさそう。もっとも、惣行事役の町順を「本・呉・八・中・木・材・京・・…」と言い馴らして来ているので、本町は城下の首町だという人もいる。
 本町は商人、職人半々の町といえそう。藩の御用米問屋を勤めた米屋こと中川氏、日田御用達を勤めた鶴田屋こと谷崎氏、料理屋の多福屋こと深見氏と糸屋こと寺村氏。それに菱屋こと立花氏、富永屋こと富永氏、伊賀屋こと草野氏なども裕福な商人だったらしい。
 職人についていえば、屋根師棟梁の吉岡氏、樋師棟梁の大西氏、木挽棟梁の楠田氏、それに御用仕立屋を勤めた副田氏がある。


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 中川氏は現在のお茶屋。現在は平岡氏の店になっている辺りも、もとは中川氏一族が住んだ。谷崎氏の屋敷は高砂町に入る東側の角辺り。深見氏、寺村民は、横町筋中町寄りの、旅館組合事務所の並び。
 立花氏は現在の塗料店。ここの菱屋文蔵という人は、なかなかの数寄者だったらしい。この家は明治になって、紙や書籍類を扱っていた。富永氏は現在の米穀販売店辺り、ここの富永鏗之助は新聞記者兼地方政治家として、郷党に親しま れた。草野氏は現在の、松尾氏の住い辺りに住んだ。


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 吉岡氏は木綿町よりの、横町筋の「雨情」辺りに住んだ。大西氏は現在の「ありのいえ」辺り。楠田氏は、中央四辻の床屋の辺り。副田氏は京町通りの、牧川書店の西隣り。
 この町には楠田姓が五、六軒あった。木挽棟梁の楠田家は代々、本町の町年寄を勤めたが、また、「出雲宿」とも呼ばれて、出雲大社の社人が札配りに、この家を足場としていた。また、安政年中、藩の武具方役所で皮座を創設し、皮革の独占的な統制を始めたが、その掛り役として本町の楠田倉右ヱ門が任命されている。倉右ヱ門の屋敷は、桶師棟梁の大西儀七の前辺り。この辺りには、現在唐津神社に移されている稲荷社が明治の末頃まであった。


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 本町には、平野姓の家が明治初年頃に五、六軒あった。現在の中央四辻の平野家は明治の中頃荒物屋のようだが、藩政時代のことは不明。現在の石田印刷所の辺りに住んだ山口姓の家は綿屋という屋号か?この町には、筑前の須恵や、肥前の田代からの売薬行商の定宿があった。


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 現在の白石写真屋辺りに「御使者屋」が出来たのは土井公の時代である。他藩からの公式の来訪客や、城下を通過する幕府の役人などが泊ったが、小笠原公の時代にはあまり使われず、町会所兼郷会所として、町年寄や庄屋連中事務連絡の場所として使われることが多かった。町人の宗門改めの人別などもここで行われた。戸長役所の制度が出来た時には、最初の役所もここに設けられた。
 最後の「御使者屋守」の富野式蔵は、藩の払下米などを取扱っていたらしく、中川氏以上の商人だったらしい。ここの富野淇園は絵師で、何力町かの曳山の原図を書いている。
 曳山といえば、本町の曳山は大石町、新町と同じく弘化三年に作られた。弘化四年とあるは間違いである。


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「肥前物産図絵(天明四年)」のなかに本町の線香屋が出てくる。
 安政頃の記録にもみえ、明治中頃まで、馬場姓の家がそうだったが、馬場家は現在の上滝家辺り。大木屋こと大木小助は馬場家の筋向いに住んだが、中町の大木家(竹屋)とは関係ないらしい。そのほか、現在の新岩井屋の北隣り辺りに三浦姓の家があって、町年寄などを勤めたことがあるらしい。


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 本町通りから大名小路に通じた「本町橋」が柳堀にかけられたのは明治八、九年頃か、その後明治四十二、三年頃、唐津銀行新築のとき橋は取払われて埋立てられた。
 唐津銀行の、赤煉瓦と石材との美しい組合せの建物が典型的な辰野式建築といわれている。


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 紺屋町は文字通り紺屋の町らしい。文化年中の記録では五軒の紺屋があり、他の町内にはみられない。もっとも、同じ記録のなかに紺屋株が町方に十六となっているので、この五軒の紺屋は御用紺屋かもしれない。紺屋町の紺屋は、山口、松岡、渡辺などの姓の家。
山口姓は博多屋といったが、何時頃からそういったか不明。藩政時代の記録に博多屋の文字をみたことはない。山口治兵衛は明治十年の惣代選挙で内町惣代となっており、町村制実施当初の町会では議長を勤めたが、住いは現在の丸岡商店辺り。松岡姓の家は現在の造田自転車屋と、大文字食堂辺りにあった。渡辺姓は吉川スポーツ店辺り。
 現在の、山口氏の住い辺りは堺屋という後藤姓の家があった。堺屋は珍らしく由緒の記録が残っていて、それによると、先祖は茜(アカネ)屋三郎右衛門という堺の商人で、秀吉の時代に九州銀座の朱印状をもって九州に下ったとあり、また南蛮貿易の朱印状の写などが残っていた。文化年中の記録に、この家に「権現様より志摩守え参り候御書状あり」とあるが、恐らく現在唐津城に展示してある田中家蔵のもののことだろう。


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 紺屋町に岡野姓を名乗った大年寄格の町医者が代々住んでいた。岡野家の住いは現在の中島商店辺り。また柿村姓の薬種問屋が、現在の木村印刷所の辺りにあった。柿村や山口姓は、紺屋町の町年寄を勤めている。

註:は管理人吉冨 寛が記す
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