2019.5.25
原文に忠実にネット化しています。
ここに23箇所一閑張の記載がありますが、この本が出された頃には一閑張が唐津では常識化してしまった時期です。
ここでは敢えてそのままにしております。ご注意下さい。

2008.11.24

曳山のはなし

平成16年11月4日 お供日のどさくさで、古舘鴻輔さんと正典さんに、この本のネット化の話を持ちかけましたところ、快く承諾して頂きました。唐津神祭を研究される方々の一助になれば幸いです。
(このお二人は著者古舘正右衛門さんの息子と孫です)

ネット化にあたり、明らかに誤植の箇所は訂正しています。また、第2水準にもない漢字はヘンとツクリとに分けて書いています。(例:革毎)。人名で明らかに間違っている箇所は訂正しています。富野キエンは淇園に統一しました。

正右衛門さんは米屋町のことは詳しいですが、それ以外の町のことはその当時の古老の話を聞いて書きまとめております。古老の勘違いや想像での話もあるかも知れません。今後それらについては考証していかなければなりません。

ネット化 責任者  吉冨 寛

著者古舘正右衛門翁に敬意を表します。
昭和20年代と思われる曳き出し、正右衛門さんは羽織袴に帽子の出で立ちでした。 

一、 ヤマの歴史


 (1) 日本のヤマ

 日本民族の長い歴史のなかで、氏神様と氏子との関係は切っても切れぬ深いかかわりを持っている。日本のどこの部落にも鎮守社があり、部落の人々は氏子として祭を欠かすことはなかった。日本の鎮守社の存在は世界の宗教観からすれば特異なものであり、仏教を信仰する者が神社の前に額突いても当然とする慣習が受継がれている。この神仏混淆を不思議と思わない国民性は氏神の祭を神の儀式とするだけではなく、自分たちの生活になくてはならぬものにしている。つまり、神祭は氏子にとってはかけがえのない生活であり、祭に参加しないことは部落で暮すことができないほど生活に密着したものであった。
 唐津神社の神祭も唐津に住みついた人々にとっては、生活に欠くことのできぬ行事の一つであり、特に御神幸に参加することは誇りでもあり、この地に生きている証しでもあった。
 曳山を曳いて御神幸に供御する行事も長い歴史の間に創りあげられたものであり、その歴史を繙(ひもと)くことにより、曳山の存在の理由を知ることができる。
 今、この曳山の起源と歴史について触れておきたい。
 標山(しめヤマ) 文献の記すところによれば、仁明天皇天長十年(八三三)の大嘗祭にこの種の山が作られたようである。「続日本後紀」によれば、仁明天皇は天長十年三月に即位の礼を行われたが、その年の十一月十五・十六日の両日大嘗祭を行われた。大嘗祭とは天皇御即位の後初めて新穀を以て天照大神及び天神地祇を祭る一代一度の大事な祭である。十一月十六日に天皇は豊楽院に御して終日宴楽されたが、このとき悠紀主基ともに標(しめ)を立てられた。その標が山の形をしていたので、これを「標の山」(しめのヤマ)と呼ばれた。後記に日く、

 悠紀主基共立標。其標悠紀則山上栽梧桐、両鳳集其上。
 従其樹中起五色雲、雲上懸悠紀近江四字。其上有日像、日上有半月像。其山前有天老及麟像、其後有連理呉竹。主基則慶山之上栽恒春樹、樹上泛五色卿雲。雲上有霞霞中掛主基備中四字。且其山上有西王母献益地図及倫王母仙桃、童子鸞鳳麒麟等像、其下鶴立矣。於是悠紀標怱被風吹折。工人扶持乃興復之(後略)

 これによって、標山の大体の構造がわかり、また、風のために怱ちに吹折られたというのだから、その作り方もかなり簡単なものであったろうと考えられる。その後、醍醐天皇寛平九年(八九七)、村上天皇天慶九年(九四六)後三条天皇治暦四年(一〇六八)、近衛天皇康治元年(一一四二)の大嘗祭にそれぞれ悠紀主基の標山が作られている。殊に、後三条天皇以後は、「標を曳く」「曳退く」「引入る」などと記されているので、車に乗せて引くように作られていたと思う。つまり、祭に際して山を引くという事実はすでに八九〇年前平安時代の中頃近くから行われていたのである。

 このように祭の時作られ、また、引かれた山は一体いかなる意味をもつものであろうか。古代の民族にとって自然の山は神そのものであった。こうした信仰の名残りを信州の諏訪や戸隠で見ることができ、大和の大神神社は三輪山全体が御神体とされるように、今も山そのものを御神体とする神社を見ることができる。次に山は神の住むところ、神聖なる神の住所と考えられた。このことは今も多くの山に神が祭られており、また、里に神を祭る場合にも必ずと言ってよいほど神社に森が作られていることが、このことを物語っている。

 標ノ山に樹が栽えられたのは、山の森を如実に象徴するものであったろうし、そこに標を立てて神の宿りたもうことを示したものであろう。ヤマの起源をなす標山は、この段階における山の意味を帯びたものであった。この意味において後代の神輿に該当するものであった。けれども、後記に書かれたように、当初から幾分か装飾的要素を含んでいたようであり、後にはこの傾向が次第に増長され、本来の神の憑代としての意義を神輿に譲って、ヤマは祭の荘厳ないし景気づけを果すものとなっていった。


(2) 祇園のヤマ

 標山の次に出現したのが京都祇園の作り山である。祇園社本縁録という書に、一条天皇長徳 四年(九九八)無骨という猿楽法師が祭の余興に作山(つくりやま)をこしらえて引いたところ、藤原道長の圧迫を受けた。けれども、人気は益々高まったということを書いてあるという。道長が之を圧迫したのは何故か不明だが、恐らく、大嘗祭の標山を模して民衆の人気に投じたことが、公の尊厳を害するものと考えたからだと思う。
 しかし、その後、朝廷、藤原氏の権勢は衰え、祇園の祭は民衆の祭として盛んになる一方で、遂に京都第一の祭となり、祇園山も今日のような隆盛を見るに至っている。

 京都祇園山についで、古いのが博多の祇園山である。山田兵衛の「日本人形史」に「康正二年(一四五六)の筥崎八幡の文書に祇園の作り物などにすると称して筥崎の松を伐りとることを禁じている」と紹介している。これによっても室町時代の中頃以前既に博多祇園山があったことがわかる。唐津附近に現存する多くのヤマ、例えば、浜崎や呼子小友の祇園ヤマ、鏡、相知などの供日に引かれるヤマの多くは博多の祇園ヤマの系統を引くものと思われる。

 祭のヤマが当初の神の憑代の意義を減じて、余興のための作物(つくりもの)としての意義を増大するに従って種々の趣向が加えられて、其の形もはたらきも種々様々に変化した。一方祭の行列に持ち出されていた鉾を原型として種々変化を遂げたものがあり、後にはヤマを原型として発達したものと、ホコを原型としたものと両者を区別しにくいほどお互いが交錯したものなど多様なものとなっている。そして、その呼び方も多様で、ヤマ、ホコ、ダシなどの名称で呼ばれ、それぞれの起源と伝統を守りつヾけている。
                           (この項は飯田一郎著唐津山笠抜粋)


(3) 唐津曳山(やま)の歴史
                                      
 唐津神社の神祭行事の一つが曳山行事であり、この神祭を一般に唐津供日(くんち)と呼んでいる。

 唐津神社は旧唐津城内三の丸にあり、一の宮に表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神、二の宮に神田五郎宗次(当地方の豪族)を祀る。旧県社。

  創建については伝承が幾つかある。神社誌要は神功皇后が三韓より帰国後、鏡を捧げて住吉神を祀ったが、その後衰え、孝謙天皇の御代に神田宗次が霊夢によって海上に浮かぶ宝筐から神鏡を得、これを神功皇后の捧げた鏡として奏上、天平勝宝七年(七五五)九月二十九日に唐津大明神の神号を賜わった。さらに、文治二年(一一八六)神田宗次を二の宮として祀ったという。「松浦古事記」もほヾ同様だが、宗次が宝筐を得て神社に納めた日を九月二十九日とし、同じ頃、都で三位蔵人豊胤は観音が宗次に抱かれて西海に赴く夢をみ、のち、二人は会ってその不思議を奏上、神号を授かったという。

「松浦拾風土記」には、「故老の所伝、一宮は観音の化現、二宮は慈氏尊の降下なり」といい、「松浦昔鑑」は「物川蔵人、神田五郎広之両人之霊を祝ふ社也」という。「松浦記集成」には「宮の記に曰く、一宮、磐土命、赤土命、底土命、大直日神、大綾日神、海原神。二宮、八十任日神、神直日神、大直日神、底津少童神、底筒男神、中筒男神、表筒男神。相殿、水神岡象神。御領主御合力米九石」と記す。また、同書には神功皇后について「別記曰」と記し、宗次夢想縁起については「一説曰」として書き記している。なお、藩政期の宮司に歓松院、社家に戸川、安藤、内山三家がいた。

 唐津神社について、縁起を除いて最も古い文字は建徳二年(一三七一)の西寺町大聖院十一面観音の胎名である。胎名に曰く「奉造立観世音形像一体、肥前国松浦西郷唐津社本地堂本尊事、為金輪聖王王徳陽万民豊楽■五穀成就当庄地頭社務源興源祝沙弥聖心源授源■源弘源栄家内子孫繁昌。建徳二年八月四日 大領主 幸阿」。

 このことは、南北朝時代、唐津神社は上松浦の松浦党一族の崇敬を受けていたことを示すものである。

 其後も波多家や神田家の祈願所となったことを示す文書があり、寺沢志摩守が唐津城主となると、城の鎮守社として現在地に祀っている。

 秋祭は縁起により旧暦九月二十九日であったが、大正二年(一九一三)より十月二十九曰に、昭和四十三年(一九六八)から本殿祭は十月二十九曰・御神事は十一月三日、町めぐりは十一月四日に変更されている。

 この祭は「唐津くんち」とよばれ、唐津市をあげての祭である。御神幸に従うヤマは曳山とも呼ばれ近世後期から明治初期にかけて十五台奉納された。(現存するのは十四台)。

 戸川家の口伝によれば御神事は寛文年間(一六六一〜七二)から始まったという。従って、神輿だけの御神幸は考えられず、現在のような曳山がお供する以前にも、曳山に代わる何物かがあったと考えられる。古老の口伝には、本町は左大臣、右大臣を、塩屋町は天狗の像を、木綿町は仁王様を、江川町は赤鳥居を、京町は「オドリヤマ」を出していたという。そして、これらは「走りヤマ」と呼ばれていたというが、いつ頃からできていたかは明らかでない。

 宝暦十三年(一七六三)の土井、水野両藩の交替に関する覚書と思われる文書の一節に

「一、城内唐津大明神九月二十九日祭礼の節西ノ浜へ神輿の行列御座候故寺社役の内より一人同心……相勤目付並組足軽致出役候、惣町より傘鉾等差出於西の浜角力有之候ニ付代官手代頭組の者立会差出候」

 とあるので、曳山ができる以前に神幸に従う作りものがあったことが確められる。「傘鉾など」とは如何なるものか、具体的なことはわからない。

 平松文書によれば、安政六年の神幸に従った引山と順番について、江川町より京町までは仮役、米屋町は不詳、刀町より本町まで本物となっており、順に記すと次のとおりである。

 「江川町(鳥居)・塩屋町(仁王)・木綿町(天狗面)・京町(踊り屋台)・米屋町(不詳)・刀町(赤獅子)・中町(青獅子)・材木町(亀)・呉服町(兜)・魚屋町(鯛)・大石町(鳳凰)・新町(飛竜)・本町(金獅子)」の十三町が記されている。

 また、三年後の文久二年の引山順書には、仮の鳥居と仁王を先に、中に本物、後方に仮の天狗の面と踊り屋台と記されている。それを列記すれば次のとおりである。

 「江川町(鳥居)・塩屋町(仁王)・刀町(赤獅子)・中町(青獅子)・材木町(亀)・呉服町(兜)・米屋町(不詳)・魚屋町(鯛)・大石町(鳳凰)・新町(飛竜)・本町(金獅子)・木綿町(天狗面)・京町(踊り屋台)となっている。

 この町の中で、当時現在の曳山があるのは九町で、文久二年の時でも「江・塩・木・京・米」の各町には現在の曳山はないにもかかわらず、引山をしたとすれば、類以の曳山があったと考えねばならない。

 また、文政六年の記事に祭に出た作りものについて、

本  十一日鯉の滝登り、之着物並夏帯にて造物
呉  扇之地形二灯余計之由

中  古田打之由最上との事
木  兎の腕に金羽之形のよし
材  始終山之儘灯し物脇並より減し取メ方並役中差閊旁遠慮歟
京  色々板物之よし十一日ヨリ豆太鼓ニヒンヒン鯛

米  するめれんの形上出来のよし
大  九日祇園山形昼二見ケ浦竹皮笠類にて十日はなし歟

魚  九日ヨ阿蘭陀凧ヨマ迄小てふちん灯数余計極上
平  十日山伏祈念造候由
新  祇園山之よし灯数余計之由
江  虎進居候由
塩  仁王山之儘てふちん二十位

八日九日大石町昼竹皮笠、アミ笠、笠の紐類にて二見浦傘赤にして日之出之形昼夜祇園山造荷ひ歩行賑々敷
十日朝せん征伐のよし
十一日昼大神宮二暦 深更蝶二扇のよし

 以上は安政六年は悪病除け臨時祈祷のときの出しものの記述で、神祭に用いる曳山とは違う、あくまで其の場限りのものと考えられる。

 また、万延元年(一八六〇)三月十五日から五日五穀成就病難除けの祈祷が行われたが、その記述中「三月十五日より五夜五日五穀成就病難除御祈祷上より被仰付候よし右に付御輿之修覆成就……三日三夜引続き廿二日迄八日八夜御祈祷奉納之品左之通……作りもの其外奉納之品
(※記述順は原本と一致せず)」

 本町 夜は歌人形出ス鳴物入・昼ハ石炭殻にて大ワクドを廿一日より出ス
 呉服町 鶴=白黒・元結・亀=鼈甲の櫛・尾首は髪とはし。松=すきくし、木は木櫛。
     竹=たけなか未年儘。梅=子供の赤き髪とはし
 中町  生花
 木綿町 金物一式・食くそにて山・道は鉄略はセンクズ。
     田植=田苗釘、田植簑釘、笠は油皿、苗荷ひ物塵ダメ秤、松之木厚紙、牛の首合槌背薬研馬矢立之類

 材木町 茶接待、干魚物にて鷹造候筈之処止メ
 京町  両覆なし、メゴにて石燈籠一対灯不入
 刀町  松皮にて床の間置もの、獅子一匹
 大石町 昼は子供小踊り並三味線うた、夜ハ浄瑠璃
 魚屋町 さらし木綿にて白鵞子供狂言の打かけにて岩組
 新町  昼夜共小唄浄瑠璃、廻り舞台
 江川町 草刈サンロ八百屋もの一式、牛の躰ヒジキ角連根総テ芋茎童子干物のり類
 紺屋町 惣行事につき何もなし
 米屋町 やうし鉄、筆之類にて大鼓二鶏つがひかんこ鳥歟
 八百屋町・平の町 二丁模合にて御輿堂前に南向浄瑠璃小家ざっと掛る。
 塩屋町・東うら町・水主町・新堀・あま町 いづれも燈寵

 この記述によっても曳山以外に、それぞれの町は祭ごとに出しものを工夫していたことがわかる。
二、曳山の構造

 (1) 共通の構造

 曳山はすべて車のついた台に乗せて大きな二本の綱で引くようになっている。車は四つ。台は樫造りの頑丈なもので、茶漆塗り。大きさは刀町の曳山で高さ一米、前後二米四五、横二米二五、中町の曳山が高さ一米、前後二米四〇、横二米一〇、其他大同小異である。台の中央に四角で中空な筒型の大きな心棒が立てられ、一方獅子頭の重心を支える心棒が上から下に吊されて中空の筒の中に入り、この交錯する二つの心棒を滑車と綱とを以て結びつけ、適当の高さに上下し、心棒の間にセンギを通して一定の高さを保つようになっている。センギは三段で、それによって刀町の場合、台まで含めて最高六米三〇、最低三米七〇、中町の場合最高五米六〇、最低三米七〇の間を上下することになる。このように上下させることを、「センギを上げる。(下げる)」 または、「ロクロを上げる (おろす)」といっている。ロクロとは滑車のことである。

 材木町、大石町、江川町の曳山は前後に長いので、心棒が二本立である。其他はすべて一本である。

 (2) 製作技術

 曳山の主要部分をなす獅子頭乃至兜の部分は漆器である。恐らく日本一、世界でも最大級の漆器であろう。重心を支える心棒の支点には内側に板を張り、その板をネヂ釘式に漆器にボルトで止め、その板を心棒が支えて前後左右に動くようになっている。

 水主町の曳山で一度心棒がはずれて漆張りのところに直接当ったけれどもその重量(水主町の曳山は約二頓)を支えてなおかつ漆張りの部分が破損しなかったそうである。このようにして鉄骨も木心も全く使っていない完全な漆器である。

 なお、漆器部(一閑張)の製作方法については刀町の曳山の項に記載している。

 (3) 各曳山の特質

赤獅子=面は粘土型を原型とした一閑張、頭上の角、耳、歯は木型に漆塗り。
青獅子、金獅子=紙を張り重ねた一閑張。頭の後部の毛は麻苧の濃紺染
亀=粘土型を原型とした一閑張、牙歯、爪先は木型、浦島太郎は人形師の作。
源義経の兜=鉢も錣(しころ)も粘土型に紙を張った一閑張。鍬形や眉庇は型を作って紙張り漆塗りの一閑張、吹返しが木型か紙型か不明。
鯛=胴体は粘土型に紙張り、鰭と尾は木型に紙張り漆塗りの一閑張
鳳凰丸=大部分が木組と木型を主として紙を張り一閑張りで仕上げたもの。
飛竜=鯛曳山と同じ。
金獅子=赤獅子、青獅子と同様だが、角だけは他の二台より大きく高いため、手に持って町中を運んだことがあるので、軽くするため、竹編みの角型の中に差込み用の木を挿入して造ってある。毛は麻苧の紺色染め。
兜曳山=本体は粘土型の上に紙張り一閑張仕上げ。鹿角、鍬型、蓮根角、眉庇は木型。米屋町の酒呑童子の眼は硝子製。毛は木綿町はシャグマ。平野町は白熊の毛。米屋町は山羊の毛。
珠取獅子=全体が粘土型に紙張りの漆塗仕上の一閑張仕上げ。
鯱=胴体は粘土型に紙張り、尾鰭は木型に紙張り一閑張仕上げ。
七宝丸=船体は木組、艫の彫刻は木型、蛇首は粘土型。屋根は一閑張
三,曳山の紹介


 (1) 刀町の赤獅子  文政二年九月作

 獅子舞は古く行れていて、シシはカノシシ、イノシシの事である。古くは鹿の角を持って舞ったり、鹿の皮を着て舞ったりしていたが、仏教の伝来に従い百済から唐獅子と伎楽獅子、中国から舞楽獅子が伝わった。そして、神や仏の祭に獅子舞が奉納されるようになった。また、一人又は二人一組になって唐獅子頭をかぶりながら舞うようになり、時代が下って神輿の神幸が行われるようになると、獅子舞は神輿に先駆するようになった。

 浅草の三社祭には雄(角がある)、雌(角がない)一対が後部でつながっている。飛騨の高山の八幡祭にも一対の獅子頭を台に載せて並べてある。また、長崎くんちにも獅子舞がある。さらに、それを真似て八代の妙見祭にも獅子舞が参加している。

 唐津神社の大祭には、飯田一郎氏の著書には、町田、神田、菜畑、二夕子、京町等にカブカブ獅子が神幸に従ったと記している。また、神祭行列絵図にもカブカブ獅子が六つ描いてある。さらに、戸川真菅氏の思い出草にも六、七頭のカブカブ獅子が参加していたと記している。従って、神祭に参加していたことは間違いないことである。

 飯田氏は神田の一対のカブカブ獅子頭を見て、このカブカブ獅子頭があたかも赤獅子の模型のように記載されている。この根拠となるものはない。恐らく赤獅子を作るとき、このカブカブ獅子頭も参考にはしたであろうが、(注@)赤獅子の決定に最も影響を及ぼしたのは、小笠原藩入部の後、掛川の獅子舞と祭の模様を聴いたためだと確信する。少なくとも獅子頭の大きさは掛川の大獅子の話を聞いて決定したのではなかろうか。特に、紙を張り重ねた一閑張の工法などは掛川の獅子頭のことを知って初めてできることだと思う。

 浜玉町川崎渉助氏の奥さんの家(中菊屋?)に伝わったという(注A)木製漆塗(二十五糎大)カブカブ獅子があり刀町赤獅子の原型だといわれている。これも一考察で参考にはなる。

 この曳山の本体の作り方がその後のヤマの作り方の手本となっているので、その方法を書きとどめておく。

 一色健太郎氏の話によれば、最初に粘土で原型を作る。その上を良質の和紙を蕨煎(蕨を煎じて作ったのり)で張る。乾かしては張り乾かしては張りして二百枚位張る。二寸乃至三寸位(約六〜九センチメートル)希望の厚さになるまで貼る。これを「いっかんばり」という。適当な厚さになったとき、中の粘土をとりはずす。

 次に内側も生漆と麦粉とまぜたもので麻布を貼る。少くとも二回は貼る。次に外側で凹凸を是正し細かい細工を必要とする箇所は「こくそ」(細かい鋸くずと漆とをまぜたもの)を塗る。次に砥の粉と漆とをまぜたもので塗る。一回毎によく乾かして、少くとも七・八回は塗る。これを「シタジ」という。こうして乾燥したものを砥石で磨く。初め荒砥を使い、のち仕上砥を使う。

 最後に上塗りをする。上塗り漆(生漆を精製し−中塗り漆とは製法が少し異っている、染料を加えて色をつけたもの)を塗って、一回毎に蝋色炭で磨き上げる。上塗りも少くとも二、三回行う。そうして、その上に角石(かくせき)と称して鹿の角を白焼きした粉と種油と「すりうるし」(艶つけ専用に作ったもの)とをまぜたもので塗り、手指または綿につけて丹念に磨き上げる。その上に金箔または銀箔などを施す。

  注@ 掛川の獅子頭との関係は再調査する必要があろう。
    A 浜玉町川崎家保存の木製漆塗のカブカブ獅子は中町の青獅子によく似ている。(古老談)

 (2) 中町の青獅子  文政七年九月作

 飯田一郎氏は神田のカブカブ獅子の雄を祖型にしたものだろうと言い、更に、製作方法を刀町がひた隠しに隠したので製作が遅れたと書いているが、赤獅子に比べて角が二股になっており、耳が垂れずぴんと水平に立っているし、鼻形が多少違う等の点はあるが、すべての点で赤獅子より小じんまりに造られており、これを何で雄と断定しているのか判然としない。天照大神が女性であるから赤獅子は雌であるとの言い伝えがあると言う者があるかと思えば、赤獅子の方が大きいから雄で、青獅子が小さいから雌であると言う者もある。結局、雌雄は決めかねるのが実情である。

 青獅子を造るに当り、製法を刀町の連中が教えなかったので、京都まで中町は尋ねに行ったと飯田一郎氏は書いているが、注@赤獅子製作のもととなった掛川の大獅子のことは藩士の口から洩れており、刀町が赤獅子を造って披露したうえはその製法が秘密のままである事は難かしい。ただ財力の点や町の人達の熱意等の点で、五年の遅れとなったかと思われる。また、京都に行ったとすれば、それは刀町の赤獅子の製法に誤りはないか、耐久性等について見聞を広めるためのものではなかろうか。

 私は幼時の頃、紙の一閑張で造られた青獅子の模型を台車(白の焼物の車つき、垂れ幕つき)にのせた巾十センチ位、高さ六十センチ位のミニヤマを前田家から貰って遊んだ覚えがある。この曳山の獅子の鼻頭は潰れて白い紙地が露出していたが、それでも手から離さなかった。それが何時のまにか姿を消してしまったが、同様のものを樋口家で見たと戸川宮司が教えてくれたと記憶している。

 注A青獅子は西の浜曳込みのとき、材木町の曳山の猛追に遇い、材木町の曳山の台車で青獅子の曳山の梶棒を二本折られたことがあった。これは材木町の曳子が多く、力が強く、そのためにおきる紛争であり、毎年くんちの前には両町の幹部級の懇談会が本部役員を含めて行れるが、その席上よくこの事について話合われていた。

 昭和二九年塗替費六五万円。

   注@ この説は著者の推量であり、その記録は見当らない。(古老談)
     A 青獅子と鳳凰丸の紛争についての話である。(古老談)

 (3) 材木町の亀と浦島太郎 天保十二年九月

 中町の青獅子の完成から「亀と宝珠」の曳山が完成するまで一七年間の間隔があるのは、町内の資金事情が関係したことは当然としても、刀町と中町との間は僅かに五年間の巾にすぎない。この違いは外町連中の気運の盛り上りが悪かった点もあろうが、何を造ろうかにまよい、 諸説が続出したためであろう。即ち、獅子頭は二台で充分だとの説と京都祇園のヤマと同様にいろいろの型のヤマ、すなわち、右大臣、左大臣、天狗の面、仁王等に示されるように、神輿のお供に相応しいものを作ろうとの説などが出て、よその地方のヤマのように屋台の一部を替えたりしている同型類似のヤマでなく、異形のヤマを造ろうとしたためで、そのため相当の論議が尽されたろうと思われる。こうした論議の結果、当時九州三大祭の一つとされていた八代市の妙見祭の神輿に供奉している亀蛇に着目したのであろう。しかも、材木町は松浦川川口に接しており、海に一番近い町である。妙見祭の亀蛇は妙見さまの御神体を運んだと伝えられ、日本書紀にはトヨタマヒメが大亀に乗って海を渡って来たと書いてあり、類集名物考には鹿島明神が早カメという亀に乗って長門豊浦に上陸されたと記してあることなどを考え併せて、同じ明神社である唐津明神社の神輿の供奉にふさわしいと思って亀を造った。しかし、背中が淋しいので神田宗次が奉納した御神鏡をのせようとも考えたかも知れぬが、結局、宝珠を載せたと思う。

 浦島太郎伝説の竜宮は日本書記には蓬莱山となっており、風土記にも逢山と書いてある。亀は神秘的な宝山をささえていると信じられ、その山が蓬莱山となっている。逢山は亀の住家でなく亀の支える宝山である。元正天皇の御代の年号霊亀は霊亀の出現によると言われている。
亀については諸国見聞図会に文政十年六月九日紀伊国海草郡の海夫が網置場に入った巨亀(長さ一丈九尺二寸、巾一丈二尺一寸)がいたと記している。この話も伝わっていたのではないかと思う。


 注 或る老僧が亀のヤマを見て、亀の笑った顔の姿は実は怒っている時の表情だと告げたと文化会館の瀧下氏が教えてくれた。そこで亀ヤマを作る頃、唐津の人が八代に行き、たまたま亀蛇を観たときの印象が脳裏に残ってゐて蛇頭の姿が製作時に無意識の中に出たのではなかろうか。そこで、ひょっとしたら神体とも思われる宝珠を乗せているので緊張した顔を表わしているのではないかとも考えている。


 宝珠が浦島太郎に替った時代については詳細は不明だが、神祭行列図は亀ヤマの十六年後の作であり平松ムメ(母の妹)が元は宝珠だったと子供達に話していたそうであるし、戸川真菅氏の思い出記に見出しは亀と書きながらもハッキリ浦島太郎と記しているなど考え併せ、製作後二十年前後に替えられたと思われる。ただし、神祭行列図が幕末風景を誇示したものと解すれば、明治九年の塗り替えられた際取替えられたのではないかとも想像できる。


  亀の浦島が初めで、浦島の衣裳が損ぜるので宝珠に代って、又も、その浦島にもどったと古老から聞いてゐる(古老談)


  (4) 呉服町の九郎判官源義経の兜
                  天保十五年九月作

  中町の青獅子から二十二年材木町の亀ができてから三年後の天保十五年にできた内町での三番目、しかも刀町、中町の獅子に挟まれた呉服町は、世間の理念というべき判官贔の思想から神輿の守護に当る武将を代表するものとして義経を選んだのか、又は平家追討の屋島への水軍発進の際か、或は頼朝に憎まれ九州落ちする時大物浦を舟出する前か、または、灘波して和歌浦に漂着して渡辺荘に行く途中か、或は其後京都奈良吉野等を逃げ廻る途次か、定かではないが、住吉明神に祈願した事実をとらえ、唐津明神との関連を考えて、作成したかははっきりしないが、兜を曳山に作るには相当の論議があった事と思う。

 兜について、当初は顔の面があったとは全然考えられないし、吹返しが、当初のものは錣(革毎)の先端を折り曲げたものではなかった。眉庇も、もう少し手のかからない簡単なものだったと思う。特に眉庇中央上の鉢底部中央の竜頭の装飾はなかったと思う。また、中央後部の飾りの結び紐も無かったものと思う。

 天満座の中の孔が小さく、人の出入りができないが、巡幸途中、各家の庭先に突き出た樹木を払いのけるため別にT字型の長い竹竿を用意していた。なお、頂辺孔(てっぺんこう)は造ってあり、紐を結んだ飾りものを提げる。笠印付環があるのはこの兜だけで他の兜にはない。

  (5) 魚屋町の鯛  弘化二年九月作
     
 町名に因(ちな)んで海の幸として日本人の珍重する鯛をお供えすることに決めて鯛曳山を造って神輿に供奉することにしたのは当然である。

 鯛の伝説を調べてみる。延喜式に平魚とあるが、これが鯛のことで、肥前地方では「へいけ」、土佐では 「うだい」その子を「ヘラボ」というが、これもみな平魚の転語である。鯛は太古からその名が知られ、海幸彦の釣鈎を呑んだため口を裂かれたという神話があるから、後世その口の大きいことは、その名残りとされる伝説がある。その点、紅鱗の美と食用としての美味は食用魚類中最も尊重され、目出度いという語呂合せから後世あらゆる祝儀の食膳に上るに至った。但し、献上祝儀の目録には仮名で「たひ」と書かずに「たい」と書ける書法になったのは、非・否を忌んだ故といわれる。

 鯛と称するのには、マダイ・キタイ・チダイがある。その代表的なものがマダイである。マダイは背びれ十二棘(きょく)八軟条尻びれ三棘八軟条を有し、縦一列の鱗数は六十個である。従って唐房の漁師たちは棘の数が少ないからマダイでないと言っている。しかし、単純な変化の少ない技工の施しようの少ない魚を見事に造型し、しかも肉付を厚くして前面からの眺めを良くしたばかりでなく、胸ひれが開閉するようにしたり、尾だけを後屈するようにし、前後が交互に上下するように仕組んで大手門や樹木の枝を除けるように作った、工法と工芸の美には敬服するものがある。

  鯛曳山のできた頃までは魚屋町は名実ともに魚屋が軒を並べていた。従って魚屋町にちなんで造られたと思う(古老談)

 (6)大石町の鳳凰丸 弘化三年 作

 海の幸を奉納した魚屋町に対して山の幸をと、誰しも考えるであろうし、山の幸として大石町が鳳凰を考えたことは当然である。白雉を鳳凰と称したり、雄を鳳といい、雌を凰ということもあり、また、神鳥であるともいい、瑞鷹鳥ともいう。また、南洋産の極楽鳥との説もある。しかし、この鳥は想像上の象徴的彩色をした鳥の理想図として絵画や彫刻に後漢時代から描かれている。我が国へは彿教と共に伝来し、屋根上にその姿を設けた宇治平等院の鳳凰堂や神輿の頂装、旗竿の頭飾などに用いられている。鳳凰を作るには秀れた木匠が必要であるばかりでなく、道路を曳き廻る時の障害物対策等を考えると、このヤマを造ることは多大の杞憂がもたれたであろうが、あえて、京都祇園祭の船鉾を模型として造られたであろうと思う。舶に鳳凰を型どった首部を造り、これを胴体と結合して@御座船を造ったのであろう。当初は船体もまだ長かったが、電気電信電話等の架線の支柱が道路端側に立てられるに及び、運行の困難を軽くするため、A現在の船長になった。(改造年は不詳)。高さが、バランスから見ると、低いように思われるが、これは当初、大手門を通過する関係から低くされたものであろう。

 この曳山は他の曳山と違って殆んどの部分が木組や木型を主とした一閑張であることである。

 注@ 王朝時代の龍頭益鳥首(げきす)にあやかりたるもの如し
    因みに龍頭は江川町の蛇宝丸と云ふべきか(古老談)

   A この曳山は当初は今のより大分長く、また、重くもあって、浦浜の砂地に行けず入口あたりに据えたままで、近郷近在よりの参詣人はこのヤマを明神様と思い込んで賽銭をあげて拝んだという。(古老談)

  (7)新町の飛龍  弘化三年九月作

 飛龍は空を飛翔する龍を意味する。また、聖人が天子
の位にあるに誓(たと)えていう。中国では竜は麒麟、鳳凰、亀と共に四霊と呼ばれ、神秘的な動物として伝えられている。竜は渕に棲むといわれるように、水ないし雨に関係の深いものである。竜が空を飛ぶという信仰は竜のもつ天上的な要素によるものであると思われる。

 日本では竜は胴は蛇に、角は鹿に、目は鬼に、耳は牛に、それぞれ類似した巨大なはちゅう類として画かれ、足は四足、体には剛鱗をもっている。中国思想の影響もあって、祥瑞のしるしとする信仰がある。日本の古典、神話では水神、海神として神聖視されている。

 以上のような竜や飛竜の説話から想像して新町の曳山を見ると、幅が相当に広いようだし、又尾ひれがついているのも疑問がおきる。これは醤油醸造業岡口屋前川仁兵衛が京都南禅寺の襖絵か板戸か板壁に描かれた飛竜の絵を祖型にし、陶工の中里重広、守衛の兄弟に製作を依頼したことになっている珍らしい工芸品である。中里守衛は学にも秀れていたので、寺小屋式の塾も開いていたのか、長得寺の墓石の台石には弟子の名前と思われる氏名が刻まれていて、古館庄助(正助が正字)の名がある。なお、製作感謝状に「山笠」と書いてあるのはヤマと呼んでいた当時、博多の山笠の字を借用したものであろう。

 参考=前川仁兵衛、石田伊右衛門の醤油屋と酒屋の二人が南禅寺の板戸に描かれている飛竜を見て帰り、陶工中里兄弟に依頼して造った。

一、弘化年中の中里への感謝状に山笠の文字を用いている。この感謝状は額入りである。

一、中国では竜と亀と鳳凰と麒麟を四霊として神秘な動物として伝えたが、唐津の曳山には麒麟が欠ける。

一、飛竜の本体は前後は上下に、左右にも自由に揺れるように工夫されている。

一、昭和五十二年NHK郷土芸能の祭の東京の劇場出演ではせりあげによって舞台に体を動揺させながら現われ、曳山ばやしに合わせ、藤間門下生の曳山踊りで演出をした。

一、昭和二十五年、福岡市の市制施行祝賀に刀町赤獅子、米屋町頼光の兜と酒呑童子と共に街路パレードに参加した。


 (8)本町の金獅子  弘化四年八月作

 日本一大きな獅子頭であろう。他の刀町、中町の獅子と同様、角のうしろに人体の上半身を出せるように頭毛を表す紺染麻苧との間に空孔をつけてあるのは、大手門出入の際、角を取外したり、戻したりするためと、途中路上の樹枝や電線等の障害物を除くため施されたものである。金漆がはげたとき、一時銀エナメルで修理したこともあったという。

一、飯田一郎氏著「山笠」では製作者は不明とされているが、石崎八左衛門が製作者と伝えられている。

一、昭和二十九年塗替えの際、市費の補助をうけたが、これが市補助の前例となっている。塗替費六十五万円。

一、お抜いを受けない采配は、この町内では使わない。

一、肉襦袢(ハッピが正しい)の文字は常安弘通氏の尽力により小笠原長生の揮毫になるものである。

一、曳山を曳く時は、いくら暑くても肉襦袢を脱ぐことを禁止し、決して上半身の地膚を露出しないことが鉄則とされていた。

一、曳山囃しの稽古は年限を必要とするので、幼い頃から仕込んでいる。

一、町内の石田文明堂印刷所の先々代の頃は石版刷りの金獅子を印刷して曳山の形だけを切り出し、これを台車に立てて子供に曳かせた。夜には蝋燭を立て火も点した。

一、昭和四十九年夏、東京、明治神宮外苑で開かれた「日本のまつり」に魚屋町の鯛曳山と共に参加した。

一、獅子の頭髪の火災事故があったが、本体は無事であった。


   大正九年の塗替の節、中野霓林師の発意により、額の部分に突起を作り左右口唇の波形を削りて目を明らかにして面相に工夫をこらす。また、従来の塗金を改めて、初めて金箔とする。
 元来、唐津曳山は一閑張りに、その紙は古神札を用いたとの言い伝えがあるが、昭和二十九年の塗替のとき、唐津大明神の古いお守が、顎のところの破れからたくさんでた。(古老談)

 (9)木綿町の武田信玄の兜 元治元年作

 戸川真菅氏の「思出草」には、諏訪法性の兜は信玄・本多忠勝・山中鹿之助等が着用したと記す。武田氏の重宝は葦威鎧で諏訪法性の兜の前立は鹿角でなく幅広の鍬型で、片方は銀色、片方は金色である。其の付け根は金色の金具で飾られ、真中に武田菱が付けてあり、シャグマの毛でしころ覆れ、面の飾はなく、吹返しも錣(革毎)の先端を折り返して武田菱をその中央に飾り付け、鉢は大型の鋲を付けただけで筋はないが眉庇も其の先端に凹凸のない学生帽の庇(ひさし)に似て孤型に造られている。曳山に造られる時は絵図か文書は参考にしたであろうが、正確な資料が入手できなかったことと、見ばえを良くするため現在の姿にされたのであろう。

 この曳山の製作について岩下正忠氏は文久二年とされている。これは、平松文書文久二年の曳山順に、本町の次に木綿町と記載されているのを根拠とされたのであろうが、この時の曳山は古い張りボテのヤマの事であり、紅屋近藤藤兵衛作の一閑張の信玄の兜ではないので、元治元年が正しい。

一、信玄の兜というので、木綿町では、上杉謙信から塩の救援を受けたという故事にちなんで塩を大切に取扱い、塩を撒くことはしない伝えがある。

一、兜の鉢の下眉庇の上の中央にある飾り毛や面の白い毛は、最初は中国産シャグマの毛を用いている。これは溝上氏の尽力で入手したものである。

一、昭和五年のくんちにこの曳山は大手口の電柱に衝突しせん木が折れ兜が落ちる事故と、昭和四十年の十一月三日、大手口の走り廻り曳きの際、兜が台車の回転についてゆけず台車上に転落した。

一、昭和二十一年無経験の小学生が曳き子として参加して過失死をしている。

一、昭和二十年の塗替費は百万円であった。

一、幕洗いの日に兜の紐(しめ苧)の籾がらをつめかえる。


 ※ 武田信玄=信玄は一五二一年甲府石水寺城で出生甲斐源氏の宗家武田信玄の長男、幼名太郎、元服して晴信、三十九才で入道して信玄と号した。二十二才にして信濃侵略を始める。諏訪頼重、高遠頼継、小笠原長時等を追い、更に手をのばして村上義清を越後に走らせ木曽義昌を帰属させたが、川中島の決戦は信玄に有利でなかった。永禄年間、信玄は年来の願望をはたすため、甲斐信濃駿河の兵四万を率いて遠江に進攻した。信玄は三方ケ原の合戦に徳川家康・織田信長を破ったが、信玄は急病で軍を帰し、翌年五十三才を一期として不帰の客となり、野望をはたすことはできなかった。

 (10)平野町の上杉謙信の兜 明治二年八月作

 赤獅子、飛竜、黒獅子、米屋町の仁王のヤマと、周辺の町に曳山があるのに、平野町に曳山がなく、平野町の若者のハケグチがなく、曳山を作ろうということになった。幸い、木綿町が旧来のヤマ(天狗の面)に変え他曳山と同様に、一閑張の曳山を作る話が進んでいることを知り、双方が相談して信玄と謙信の兜を造ろうということになったという(瀬戸利一氏の談)、加えて、街並つヾきの紺屋町の曳山の出現が最大の影響を及ぼしたとも十分考えられる。

 この曳山は戸川真菅氏が言うように、獅子兜を表現している。つまり、角のある獅子頭を鉢にした錣(革毎)付の兜であり、角があるから雄獅子を型どったものである。しかもこの角は長く蓮根に似ているので私たちの小さい頃にはレンコンヤマと呼んでいた。

 角と頭髪(北海道産白熊の毛)との問にマンホールが作られている。これは角の取り除きや路上の障害物の排除のため、上半身をマンホールから出す位にとどめるべきであるが、信玄の兜と同じくその限界を越え、全身を錣の上に立って采配を振っているのは危険であり、錣を傷めるおそれがあるのでやめるのが本筋である。

 兜の鉢に当る獅子頭は昭和三年顔を縮少して横巾を狭めた時@金箔に替えたが、昭和三十五年の塗替の時もとにもどし現在の色に塗り替えた。兜の吹返しに上杉家ゆかりの紋を描いている。

 昭和三五年塗替の際曳山展示場に展示してある神祭行列絵図を参考にして獅子頭の前面を現在の色に復旧している。

一、肉襦袢(ハッピ)とハッピ(半天)は上杉家ゆかりの家紋を染抜いている。

一、塩を信玄に贈った故事にならい、曳山の時の塩撒きには、たっぷり撤き散らす。

一、昭和三年塗替の際、A黒塗りの笑い面を造り錣(??)も縮小した。更に獅子頭の後の頭髪を除き金色にした。

一、昭和四十六年に太鼓や曳山の台を新調している。

 謙信は仏門に帰依した時の名で、本姓は長尾。春日山城(高田市)で、一五三〇年生。幼名虎千代、長じて景虎、十九歳で家督を継ぐ。管領上杉憲政の家を受け上杉政虎と称し、さらに、足利将軍義輝の一字を貰い輝虎と改名、四十一歳で出家、師宗謙の謙を受け以来謙信と称する。武田信玄と覇を争ったことは知られているが、その間にも二回も上京し皇居の修理などを行っている。一五七九年、天下の覇権をねらい出陣の準備中脳溢血のため春日山城で死去行年四十九歳。

  注@ 昭和三年以前も金箔であった。黒色は明治時代であろう。(古老談)
   A 面は復活である。(古老談)


(11)米屋町の酒呑童子と源頼光の兜  
                           明治二年九月作

 酒呑童子は酒天、酒顛、酒呑、酒典、酒傳とも書く。酒呑童子は丹波大江山に棲んだ強暴性をもった野盗軍団の首領の別名で、京都に近いため、財物の掠奪をはじめ、婦女子をも強引に連れ去るなど、世人に恐れられていたが、たまたま池田大納言の「くりから姫」が拐わかされ、それが一条天皇の耳に入り、正暦元年勇者の源頼光に討伐の命が下った。頼光は渡辺綱、坂田公時、碓氷光貞、占部季武の四天王と藤原保昌と共に住吉明神(一説には石清水八幡熊野権現、高野山)に祈願し、山伏姿となり、神々の加護を受け、また、岩屋の中で翁に会い毒酒を貰い、川辺で血潮に染った衣類を洗う若い婦人に出会い、その婦女の導きにより酒呑童子の館に入り、いろいろの手だてで酒呑童子に会い、毒酒で童子を酔いつぶし、夜半になり鎧兜に身を固めた頼光等六人は童子の手足を縄で四方の柱に結びつけ身動きのできぬようにして頼光は童子の首を斬った。一説には頼光と童子は太刀を抜いて斬り合ったが、頼光の刀が一瞬早く童子の首を落したという。その童子の首が宙を飛んで頼光の星兜の鉢に喰いつき、鋤型の付け根まで咬んだという。

 其の童子の首が頼光の兜に無念と怨嗟の形相物凄く咬みついた瞬間の有様をとらえて表現したのが、この曳山である。だから、単に「頼光の兜」と呼ぶのは誤りで「酒呑童子と源頼光の兜」と呼ぶのが正しい。

 この曳山の製作を担当した人は吉村藤右衛門と近藤藤兵衛(紅屋)の二人である。近藤藤兵衛は元治元年に信玄の兜を造った人で、兜に関する知識は相当博く深いものがあったらしく、鉢の筋目や屋の太さや数など、古いほど少なく太い鋲がついているばかりでなく錣が杉成型で丸味の少ないものを造って時代色を出してあった。しかし、昭和七年塗替の際電柱のため、通行の道巾が狭くなって曳行に支障がでたので、錣を狭めるとき錣の下に鉄製の鉢を造って支えの力を増したばかりでなく、幅員を四十五センチメートルほど狭めたため、錣の上下を締め上げる等の改造をしたのでかなり「まるみ」を見せ、やや饅頭型に化した。これでは最初の製作者の意向を変更したといわざるを得なく、今になって考えると申訳けない。

 現在では、兜により関心を寄せがちであるが、恐らく製作者は兜よりも酒呑童子の姿に心血を注いだものらしく、あの怨嗟に満ちた童子の断末の顔と血走った眼玉を表現するため、当時稀少なビードロを用いた新しい工夫には敬服するほかない。しかも、ビードロを長崎出島のオランダ屋敷の金魚鉢を買って帰り、それを切断して用いたと伝えられている。このビードロはオランダ製とも言われるが、当時長崎にはビードロ製造所があるので、必ずしも舶来品だとはいえない。

 このように酒呑童子については作者も熱を入れたのは違いなく、製作者の意向は十分汲みとるべきである。戸川真菅氏も「思い出草」にこの曳山の事を酒顛童子と書いており、私たちも幼時には「スッテンドウジ」と呼んでいた。

 飯田一郎氏も「唐津の山笠」中、この曳山の名称を「酒呑童子と頼光の兜」と書いている。それがいつのまにか「頼光の兜」の標札を曳山台に立てるようになっているのは残念でならぬ。しかし、近藤藤兵衛の孫次郎右衛門から指摘があって、昭和五十四年の日本商工会議所創立百周年祭には、「酒呑童子と源頼光の兜」と標示して参加したが、これで製作者もほっとしていることであろう。

 昭和七年塗替に際し、もとの朱赤色の黒ずんだ色を栗色に塗り替えたのは失敗である。この件につき、塗師一色健太郎が@色が褪めて旧色になると思って塗ったが色が褪めないのは計算違いであったと告白していたと平田常治、寺村次雄両氏が語っていた。それで次回塗替の際には旧色にもどしたいものである。また、眉毛や髪の毛もかなり黒っぽくなったようだが、取替えをしたが資金不足でできていないと平田氏が洩していたことを思い出す。

 兜の締苧は特に太く、しかも二本の紐を交互に丸くして結んだ型を選び、酒呑童子の面との釣合のとれたものにした構想は実に雄大で実に見事である。当初兜の眉庇下の顔を覆う鉄製の面はなかったので、今後改修が問題になれば旧にかえすべきである。
 このことについては、戸川宮司所有の記録の中に大正時代の米屋町と平野町の曳山の絵葉書がある。これが原型を知る唯一の資料であると思う。

一、ビードロの眼玉は昭和初期片目が破損したため、久留米の硝子工場で新調を依頼したが、実際は佐賀の副島工場で作られたものである。しかし、これは厚さにむらがあり具合が悪く再製を依頼した。それも当初はどのものとはならなかったのは残念である。

一、昭和二十六年福岡新天町の招請に応じて出動したが、唐津では東唐津駅構内の車輪歯止施設の斜面を利用して荷積みをした。また、福岡では焼跡の空地にトラック進入の斜面を掘って曳山の揚げ降しをしたことが印象的であった。

一、昭和四十一年、山口県柳井市の市制記念に招請され曳山を曳いているうちに商家の高価な看板を破損した。その時柳井市の祝賀担当の人が「神様に奉仕している曳山の訪問だから幸運が舞い込んだようなものだ」と、取りなして下さって助かった。

一、昭和五十四年十月、東京日本橋祭に招かれて日本橋と銀座の都大路を大石町の曳山とともに進行し都民の歓迎を受け、翌日から銀座の三愛ビルに陳列して都民の観覧に供した。五日後には日本商工会議所創立百周年記念の祝賀行事の一つとしての「ふるさと祭り」に参加し、国立競技場で二回曳き廻し、昼は天皇陛下御臨席の会場で曳き出しの有様を披露した。夜は同会場で宵曳山を披露した。

一、鬼が衣装を着けて朱塗の大盃をあげて酒を呑んでいる姿を描いた肉襦袢(ハッピ)は大石町住武谷雪渓の作であるが、これが肉襦袢の最初である。その後、三、四回肉襦袢(ハッピ)は作り替えられたが、現在の七五三縄と米の字を染め抜いた肉襦袢はよくできていて、いつまでも続けたいものである。

一、ハッピ(半天)は米の字を染め抜いたものであるが、これは他町にさきがけて米屋町が作ったものである。

  源頼光は平安朝の末期、花園、円融、一条、三条、後一条の五朝に仕えた武士で弓に長じていた。伊豫、信濃、摂津等の国司を歴任する一方、内蔵頭を兼ね、藤原家に接近することを志し、藤原道長の住居新築に当って家具什器等一切を贈って世間をアッと言わせるほど理財の術にも長じていたらしく四天王の第一人者渡辺綱の養母はその姪に当る。栄花物語に肥前の国司に任ぜられたと記されているが、歴史的には疑問がある。彼は一〇二〇年死去している。酒呑童子征伐の時期は一条天皇の時代とされている。酒呑童子の物語は室町時代になって全国に普及し、語り部の口からさまざまの形で語りつがれ、徳川時代に入って浄瑠璃や謡曲、あるいは歌舞伎に公演され、また、出版物ともなり津々浦々に拡がっている。頼光の呼び方も頼朝、頼家等の如く「よりみつ」と呼ぶのが正しいが、語部が「らいこう」と呼び、其の呼び方が物語にふさわしく感ぜられたため、「らいこう」と呼ぶようになったのではなかろうか。
 酒呑童子物語の原典は中国の白猿伝にあると益軒全集に記されている。山の岩窟に棲む白猿が酒と犬を好み、婦女子を誘拐して酒席に侍べらせ、足腰を揉ませていたという物語である。つまり、この山の山麓に住む村人の一人が妻を奪れて、山に入って捜していると婦人に出会い、こんな山奥になぜいるかとたづねて、事情を知り、数匹の犬と大量の酒を持たせ、木陰に隠れて見ていると、大きな怪物が出てきて犬を捕え四足を裂き、次ぎつぎと之を喰い多量の酒をのみ酔いしれて婦人と共に棲家の山窟に入ったので、そのあとを追い、ぐっすり寝込んでいるところを殺してしまった。その怪物を調べてみると、大きな白猿であった。村人は妻とそのほか捕えられている婦人を救い出したという。この物語が酒呑童子が人肉を喰う物語の祖形となっているという。
 後一条天皇の時代に童子物語なるものがあって、比叡山に美童がいて、先輩僧侶から愛されていたが、酒を嗜み、それが度をこし、血をしぼって酒に混ぜて飲み、酔うと興奮し、自ら酒呑童子といったと書いてある。これが酒呑童子物語の原典であるまいか。
 酒呑童子異聞には、近江国柏原の荘園の地頭弥三郎という人が、何か悪事を働き荘園を追われ伊吹山に遁棲して野盗となり、山麓の長者の娘を奪い男子を生ませた。しかし、子供の将来を考えて棄て子とした。この子は野獣に育てられ、長じて比叡山に行ったが僧侶となりえず、大江山に逃げ、ここで野盗の、頭目となった。捨て童子が「すてん童子」と呼ばれ、酒呑童子になったとの説がある。
 また、一説には酒呑童子はロシヤ人説がある。九九七年に南蛮人が対馬壱岐に侵入し、同時代刀伊賊が北九州沿岸に来寇し肥前介源知等が活躍している。伝説であり、時代も下るが、源義経が蒙古入りして、ジンギスカンになった話もあり、当時、外国との交渉があったことは違いない事であり、物語にでてくる石黒童子や茨木童子などの容貌は明らかに西欧系の人間で表現されているので、酒呑童子はロシア人説がおきても不思議ではない。

 注@ 元来漆というものは天候気温に左右されるもので、長い間には風雨に侵されて変化するものであると一色氏が語っている。(古老談)
  A この曳山が大体でき上り、それでもまだ修正のきく頃、街中に引き出しておき、作者はこの曳山に関する世評を参考にして、完成させたという。(古老談)

 (12)京町の珠取獅子  明治八年十月作

 京町には現在の曳山の以前には踊り山という一風変ったヤマがあった。この踊り山は京都祇園の棒踊の山の影響を受けて造られたもののようで、踊りの舞台になる車輪のついたヤマを曳き廻し、神輿行列の休憩場所などでお伴をしている町内の婦人たちが舞台上で踊っていた。

 明治に入り、江川町と同様、ヤマの改造名目で@県令の許可を受けて、四ツ足の青獅子が丸い珠の上にシッカリ腹部をつけた姿の珠取獅子をつくった。
 珠取獅子とは狛犬のことである。神社や仏門の前に奉献されている獣形の像をいう。その起源はペルシァやインドで、日本では其の異形の姿を犬と思い日本犬とは異っているので、異国の犬、即ち、高麗の犬と考えたのであろう。従って、狛犬と獅子とを混同したものがあるが、平安時代には明確に区別している。たとえば、清涼殿の御帖前や天皇や皇后の御帖の鎮子には獅子と狛犬が区別して置かれた。口を開いたのを獅子として左に置き、口を閉じ頭に一角をもっているのを狛犬として右に置いた。しかし、後世になると混同され神社仏閣に守護のため置かれる獅子は次第に犬の形に近づき狛犬と呼ばれるようになり、舞楽では、反対に雄壮な獅子舞いが盛んになるにつれ狛犬の舞踊は哀えていった。

 インドの仏寺や中国の官門、陵墓の前などに獅子などの動物の像をおく風習はエジプト、バビロニア、アッシリアなどの自然崇拝に由来するといわれるが、日本の場合も同様である。

 この種の像は一対とされ、石造が大半で、銅や陶器、木彫のものもあり、形状もさまざまである。双方とも額に一角を有するもの、片方には一角があるが他方にはないもの。双方とも角の無いもの、双方とも口を開いているもの。片方だけ口を開いているもの。双方とも口を閉じているもの。口を開いているのに玉をくわえているもの。また、双方を獅子とする説、一方が獅子で一方を狛犬とする説、双方とも狛犬とする説等定説とはなっていない。

 一般に珠取獅子は神社仏閣の前に奉献されている石造りの狛犬のことで、前足の片方で玉を押えている姿とされているが、京町の珠取獅子は四本の足をまるまる珠の上に乗せているのは稀で、其の姿は前面から見るより後から見る方が見ばえがする。

 大正十三年頃、塗替えの時、町内全員で漆を塗ったり磨いた。その時、当初深緑色であった獅子の色を赤色に変え、漆を入れていた桶五十個を町内各家に一個づゝ記念に配っている。古老の話によれば、その時の塗替え費用は五千円だったという。しかし、獅子の色については、その後問題があり、昭和三十七年塗替えのとき、もとの色に近い青緑色にもどされている。

  注@ 県令の許可の確認はなされていない(古老談)

一、口を開いた方が雌で、口を閉じた方が雄である。

一、この町の曳山の組織は若者、中年、羽織掛けの三階級である。

一、刀町の赤獅子にあげている御幣は神の「ヨリシロ」だから刀町だけでなく、どこの曳山につけてもよいとの説を岩下正忠氏が述べている。

一、A東京国立博物館の唐獅子図に四ツ足を描いた獅子の図があるので、京町の曳山はこれを模して原型を作ったのであるまいか。

   注A 国立博物館の絵図を引用することより、ほかに原型については説がある。中町粟島神社東淋坊高力家に伝えている珠取獅子の唐津焼あたりが原型とも言われる。なお、この珠取獅子像は、京町三浦熊一氏の所有となっている。

 この曳山の幕は珠の内側より張っていたが、町内の物知りが新に木製の幕張を作り珠をその中に入れ、珠の丸味を増すようにした。また、大正時代の色は今の紺色がかったものより緑色の鮮やかなものであった。(古老談)

  (13)水主町の鯱  明治九年十一月作

 唐津城下町の外町で材木町、魚屋町、大石町の三町はそれぞれ亀、鯛、鳳凰丸の曳山があるが、この三町と同じように町火消組(消防組)に加入して同一行動をとっているのに水主町だけが曳山を持たないのは寂しい限りで、若者達の情熱のはけ口を求める声も高まり明治八年十一月竜王丸を造りたいとの願を出したところ、県令から「調整の分は差許候へば、自今新調の儀は難聞届候事」との通達に接した。しかし、同時に改造の申請を出していた江川町が許可を得て七宝丸を造ることが判明したので、水主町は急遽当初の計画を変更して鯱の曳山を造ることにした。鯱は火災除けの魔力があるとされ、尾張名古屋城天守閣の大屋根の棟瓦の両隅に置れているほどであり、これを造ろうということになった。この時は城内入口の大手門がすでに撤去されていたので大手門をくぐるため大きさを制限する必要はなかった。それで他町に負けぬ大きなものにしようと言うことになり、尾鰭は三つに分けて巨大なものにした。田中富三郎氏の話によれば、この鰭は動かせるように工夫されていたという。最初の原型は御使者屋にいた某氏に依頼した。しかし、でき上った曳山は急いで造ったため、紙張りが粗雑で傷みやすく、しかも大きすぎたため、操作が難かしく、電柱や街並の軒先にぶっつけることが多く、他のヤマに比べて傷みが早やかった。

 そこで、昭和三年、もう少し小型のものにしようと、@海士町の瓦屋中島氏に依頼し、同時代の鯱の型を参考にして粘土の原型を造り、昭和四年から五年にかけて紙張りを行ない、五年に漆で仕上げ、新曳山を奉納している。

 鯱曳山の名称について、いろいろ論議がとりかわされているので、一言述べておきたい。私たちの幼い頃は「シャチホコ」という呼び方を知らず塗色も暗赤褐色でオコゼに似てたので、「オコゼ」と呼んでいた記憶がある。それが、昭和五十三年のくんちの日に岩下正忠氏が曳山の名称の紹介に際し、テレビを通じて水主町の曳山の名称をA「オコゼ」といい、水主町の若者たちの憤激を買ったという。

 曳山を神に捧げる献上品と考えれば一理があることである。お伽話に、山の神がオコゼの美しい姿に恋いこがれたが、その心を伝える術をしらず悩んでいると、カワウソが出て来て仲介役を買ってで、この恋はみのり、山の神は大変喜んだという。この話にちなんで現在でも和歌山地方の猟師は山に入るときは必ずオコゼの乾物を懐中に入れ豊猟のまじないにする習慣が残っている。また、実物の鯱にはヒゲはなく、オコゼにはヒゲがあるので、水主町の曳山にもヒゲがあるので、オコゼの説も故ないわけではなかろう。つまり、海の幸として神輿に供奉するのは、哺乳動物の鯱より山の神が欲しがるオコゼの方がふさわしいとの考えをまじえての話であろうと思う。

 しかし、鯱はさきに述べたとおり、火災除けのまじないとして屋根の上に置かれて来たものであり、水主町の町名も水ではじまり、火災とは深い関係がある。その代表的な名古屋城の金の鯱瓦を、模して造ることは十分ありうることであり、曳山の垂れ幕に浪や水主模様をあらわしているのは海の水を示すものでなく、水主町の水の字と火消し用の水をあらわしたと思えば、実物のものと形の一部が違っていても、火災除けのまじないに一番関係のある鯱を造ったものだと思えてならぬ。京都祇園祭のヤマにも種々雑多なものがあり、つきつめた理論にたって先人がこれまで呼んできた曳山の呼名を急に変える必要はあるまい。皮肉な言い方をすれば、酒呑童子の生首を模した曳山にすることなども問題であろう。

一、この町の曳山曳きの役割は、一番組(三十歳まで)、二番組(四十五歳まで)・触れ組、カトワ組となっており、「水組」を組織し、会計、取締は選挙で選ぶ。その人が辞めると一番組に加入した序列により選ぶ習慣がある。この習慣がよく守られているためか、「水主町の曳山曳きはうまく、一番威勢がよい」との定評がある。


 注@ 昭和三年新鯱曳山の製作を請合った中島氏は初めは順調に運んだが、ある時点までくると、このような大きな物を作るのは初めてであり、どのように仕上げたらよいか、何回やりなおしても意に叶はず、迷いに迷った末、水主町の守り神である大石大神社に三昼夜御祈願を続け、満願の日に、にわかに新たな神示を得て一きょにできあがったという。(古老談)

  A 唐津曳山は祝い物、栄光を有する物、縁起物等を表わすもので、オコゼ等は論外である。ただ、町内々々で、他の町を見下げての軽口を言うたにすぎなく問題にするに当らぬ。(古老談)

 (14)江川町の七宝丸(蛇宝丸)  明治九年十月作

 江川町の曳山に関りある資料として次のような事柄がある。万寿元年藤原頼通は自邸の高陽院に天皇と皇太子を迎え船楽を催した。その時前庭の他に竜頭の船を浮べて楽を奏した絵巻が残されている。また、十三世紀前半、明恵上人高弁が梅尾の高山寺を復興した折、描かせた華厳宗祖師絵巻には、義湘大師が入唐ののち、中国の富豪の娘善妙にしたわれ、帰国に際し、義湘の船出を見送った善妙は身を海に投じて竜となり舟を背負って新羅まで送り届けたという物語の絵巻である。

 ヤマを造る時、恐らく長崎に出て、くんちの竜船と宝船(明治初年頃は使われていた)を参考にして造ったものと思う。戸川真菅の「思出草」に蛇宝丸と記し.、市史にも飯田一郎氏は「製作年代と作者一覧表」に蛇宝丸と書いているので、私は蛇宝丸が江川町の曳山の正しい呼び方だと思っていたが、曳山展示場表示には七宝丸と書き、飯田一郎氏の著書にも江川町ヤマに七宝丸と記されているので、本来はどちらが正しいか、判断に因っている。

 岩下正忠氏は江川町の曳山の呼名について、本来七宝丸というのが本当で、天下の最高権威者が東る御座船であり、蛇宝丸とは勝手に付けた名前であり、この曳山の中に七宝丸と書いた掛額もあり、七宝丸と呼ぶのが正しいと説明されている。しかし、蛇は竜の化身と考えると一がいにそう断定も為し難い。

 私たちの子供の頃江川町の曳山には宝が積んであると聞いていたが、屋形の上の宝珠以外、七宝に当るものは積んでいないようで、@七宝丸と呼ぶにふさわしいか疑問が残る。

 なお、製作の当時、水主町は竜王丸を造るつもりであったが、江川町が蛇船を造ることを知り、急遽鯱に変更した因縁もあって竜や蛇の文字の使用を遠慮して七宝丸と呼称したことも考えられる。それにしても七宝丸では形や内容からしても、そうとは肯定できないのは残念でならぬ。

 この曳山は支柱が二本であり、重心が前車に近くしてあるので梶取りがたやすくできる。また、昭和三年の改造のとき、曳山の幅が広すぎて家並の軒や電柱にふれて傷みがひどかったので、幅と長さを縮少すると共に傘(屋形)も幅を狭めている。この曳山の自慢は太陽の玉を頂いた屋形と磁器の竜のツメ、歯であり、左右に自在に揺れ動く屋形は曳山に動きを与えている。

 船体は木組一閑張であり、竜頭と頸は芯まで紙の一閑張である。

一、この曳山は町内所有の土地を売って資金を集めたので、この町は特に曳山を大切にし、親代々曳山のとき大切に扱えと言い伝えているので、神仏の次に曳山を崇敬している。

一、屋根に登る人は清浄無垢の未婚の青年に限られていて結婚すれば登れないことになっでいる。

一、この町では、満潮時の塩水を汲んできて、曳山と曳子がお抜いをする慣習がある。

一、この町の曳山組織には一番組、二番組のはか、年寄組があり、また、子供の参加の多いのも特徴である。

一、昭和四十年旧曳山小屋前に並んでいた時自動車が接触して竜頭に当り、頭の下の頸を捻じりきって白い下紙が露出していたことがある。

一、曳山を曳く順序は、水主町の鯱曳山と一年交替と約束されているが、A実際は約束どおりにはなっていない。


  注@ 昭和三九年宝塚の「美しき日本博」に出場することとなり、吉村茂雄氏の提唱により、この曳山の絵馬より七宝丸の額が見付かったことなどもあり、この曳山をくわしく調べて次の七ツの宝物を探し当てた。@船の上の屋根は隠れ笠 Aその上に宝珠 Bその後方に差団扇と打出の小槌とを竿に立てる Dその下部に隠れ蓑 E横の勾欄間に丁字を互い違いに配する F最後に宝袋を飾り付ける。
 その後、宝塚行きのため解体をしたら、さらに、笠の後方に@長寿の巻物があり、それにA鍵 宝袋の上にはB花輪模様が横にいくつか描かれ、正面勾欄左右に一対の巻物がはめこまれていた。(古老談)

  注A 曳山の順序については約定書どおり、現在にいたるまで堅く守られている。(古老談)
 

 (15)紺屋町の黒獅子 安政五年作

 飯田一郎氏著「山笠」には安政五年作とあるが、平松文書の安政六年の順番書に記載されていないので、安政六年から文久二年の間の製作かと思う。

 黒獅子は現在は消滅して、その姿は御神祭行列図に見るだけである。消滅した正確な時期は不明だが、戸川真菅氏の「思い出草」によると、巡幸に参加した最後は明治二十二年のくんちであり、翌二十三年九月九日初くんちには解体されており、@太鼓は木綿町に譲られている。

 注@ 太鼓と鐘
(原文は鉦)は木綿町の所望により、昭和三十年代、木綿町に譲られている。(古老談)

  ※切絵図はすべて宮島酒造提供




四、曳山行事

  (1)総行司と火消組

 寺沢志摩守が唐津城築城の際、町割を行った。その時所領高十二万三千石に対して一万石一町の割で十二か町を設け、その十二か町を統轄する町奉行の下部組織として農村の庄屋に相当する総行司という役職を設け、毎年輪番制をとった。@その順番は抽選か、町名の命名順か、藩庁の達示によるか明らかでないが、本・呉・八・中・木・材・京・刀・米・大・紺・魚の十二か町だが、其の後、内町に平野町・新町、外町に塩屋町・東裏町及び組屋敷の江川町の五町を加えて十七か町となった。この間、何時から町年寄・大町年寄の制度となったかははっきりしないが、総行司の名称と順番だけは廃藩後も唐津神社の神輿飾りや御神幸の随従に遺り、今日まで受継がれている。しかし、この中に外町の塩屋町と東裏町の名がないのは、何時の頃から、そうなったかわからない。

 次に、町の火消組が何時からできたか、火消組の装束で傘鉾やヤマを曳いたと伝えられているので、刀町の赤獅子が奉納される前から火消組が存在していたことは考えられる。

 火消組の組名は
 本=い、呉=ろ、八=は、中=に、木=ほ、材=へ、京=と、刀=ち、米=り、大=ぬ、紺=る、魚=を、平=わ、新=か、江=よ、水=たの十六組である。其の組番は神社の総行司の年番服をそのまま踏襲しているのも面白い。ただ、水主町は他の町と違って外町の東部に位置し郷方支配下にあったため、総行事の埒外に置かれていたことと、大石神社をかかえていたので、唐津神社の総行司から外されている。しかし、曳山をもっていた関係からか、水に関係ある町名のかかわりあいか、火消組をもっていた。第二次大戦の始まる頃に消防団が警防団に改編されるまでの長期間にわたって、曳山曳きと消防団は不離の関係で曳山の運営に当って来た。

 A神社の総行司は二町づゝ交代で毎年担当するが、毎年、本殿祭の十月二十九日に神輿を飾り、十一月三日の御神幸に従い、五日に次年度の総行司に引継ぐことになる。
  総町に含まれるが、塩屋町と東裏町が総行司を除外される理由については前述したが、現在ヤマを持たない町でも、紺屋町はかつて黒獅子を奉納し、八百屋町も金魚ヤマを造りかけたこともあり、曳山の台車だけは遺作があったとの口伝があるばかりでなく、共に藩政時代に総行司を勤め、当初からの氏子であるので神社総行司として神輿の保存管理するのは理由があると思う。

注@ 順番は町の設立順が定説(古老談)
 A  総行司(事)のうち、塩屋町が材木町に吸収され、東裏町ははずされ、十六か町となった。いま、町々で、本呉中……と唱えられているが、これは塩屋町をふくめて再考を要す。(古老談)


  (2) 
曳山の職務と機能

 曳山(やま)を曳く町内には、伝統的な曳山ひきの組織が伝えられている。

一、若者
 ヤマ曳き行事の中堅をなし、責任を負うているのが「若者」である。若者は「ワッカモン」または「ワカイモン」と呼ばれ、普通は複数の意味に使われる。このはかにヤマ曳き仲間を呼ぶ特定の呼び方はなく、ただ、「ワッカモンが曳く」と言うだけである。
 若者の仲間に入れるのは、昔は十八才位、今は二十才位だという。町の青年がこの年になると、先ず「幕洗い」という行事に参加する。幕洗いというのは、夏の土用の天気のよい日を見て、ヤマを引張り出して虫ぼしをし、そのとき幕を全部はずして町田川に持って行って洗い、乾かして持って帰るのをいう。そして、この晩若者仲間が一杯傾ける習わしで、はじめて若者仲間に入るものが酒一本を買うことになっている。
 旧藩時代は各町の火消組が、その組織そのまヽヤマ曳きを果していた。其後、消防団組織が之を継承していたが、昭和十四年四月消防団組織が解消されてからは、専らヤマ曳きのための若者組織が昔ながらの行事の責任を果している。
 しかし、若者だけではヤマは動かない。次に述べる仲老または二番組と呼ばれる人達の加勢があるのは勿論の事、もっと若い小中高生の加勢を受ける。昔は生徒は学校の授業を休んで曳山に参加したものであるが、現在は学校から、いろいろ規制されているので曳きてを揃えるのに困る場合がある。
 神祭が終ると、各町はお願成就のお参りをしたあと、若者だけ「ナオライ」と称して祝宴をやる。各町とも相当はでにやる。一泊旅行もあるようである。

二、仲老
 二番組若者がその役目を勤めあげて四十才位に達すると現役を退いて予備役に入る。予備役の仲間の呼び方は町内によって違うようだけれど、仲老または二番組と言うのが普通のようである。二番組というのは若者を一番組というのに対するもので、大きな町内ではもとは三番組というのもあった。しかし、二番組と三番組との間にははっきりとした区別はなかったようである。昭和三十三年頃から特別な長老には「山笠元老」という記章を差上げ、この記章はその後曳山取締役と改め、各町内の長老に配付している。
 仲老または二番組と呼ばれるものの仲間に入る時の作法は町内によって違いがある。江川町の場合は若者としてヤマを引いた最後のナオライの祝宴に客分として招待される。当人はそこで会費を出さぬ代りに酒一本を買って出す。こうして若者の勤めを終ったことによって自動的に仲老の仲間に入ったことになる。京町の場合は俗にいう「ヤク入り」の慣習と関連があると思われるので、毎年正月十日に「ヤク祝い」というものがあり、四十二才の者が世話役を勤め、四十一才の者がヤク入りを祝ってもらう。祝ってもらう者は酒一本を買うのが慣例である。

 こうして、仲老または二番組に入ると年令に制限なく達者なあいだはその役目を勤めることになる。仲老の役目はヤマのカジ棒を把ることである。若者以下はすべてヤマの前方にあってヤマを曳くだけ、綱は前方に二本長さ二十間乃至三十間、そこで一番大事な役目は「根綱がかり」といって、曳山の直前にいて綱の根元を握っているもので、これは古参格の若者が勤める。また、道中ヤマの上に登って采配を振るもの、長い綱の途中にいて采配を振るもの、いづれも古参格の若者の勤めである。仲老はヤマのうしろに突出した二本のカヂ棒にかかって、ヤマの動く方向を定める役を勤める。走りながら町角を曲るときなど非常に危険でカヂ棒の把り方は最も緊急かつ熟練を要する。古来カヂ棒は非常に大切なものとされ、行列が停滞してどんなにヤマとヤマとの間が接近しても、うしろのヤマの綱は決して前のヤマのカヂ棒に触れてはならない。必ず一定の距離を保って停止せねばならない。
 ヤマの中にあって大太鼓を打つものの多くは、仲老のうち技能の秀れた者があたり、また、選ばれて曳山取締になるものも仲老の中から出るのが普通である。
 神祭がすんで若者たちがヤマの掃除をし、御礼参りをしてナオライをする頃仲老は別に仕舞祝いだけをして一年の行事を終ったことを喜びあうことになっている。

三、取締・総取締・取締会
 むかし消防組の組織でもってヤマを曳いた時は、消防組の役職にあるものが、そのまヽヤマ曳きのときの責任者としてその役割を果していた。消防組が解散してから各町内に曳山の取締・副取締というものができ、それらが集って山笠取締会なるものを組織し、総取締を選んで其の統制に服することになった。昭和十四年四月消防組が解散し、其の直後に取締・総取締・取締会などという名称や機構が始まったようである。昭和十五年十月十五日に山笠取締会から出された「山笠に関してお願ひ」並びにそれに附した「決定事項」なる文章はこれらの構成と其の機能とを物語る好個の資料であると思われるので、その全文を次にあげておく。


  
山笠に関してお願ひ

 従来山笠に関する諸行事については山笠取締会の決議によって総てを処理執行されておりました。ところが御承知の通り昨年四月全国的に消防組の組織が解消せられ、新に警防団の結成ということになりましたので、今迄の様に消防組頭を山笠総取締に、消防小頭を取締に、同副小頭を副取締にという制度が各町ともできなくなりました。しかし、昨年は解消当時で準備も整はず本格的でないままな状態で神祭山笠曳行事を執行致しましたが、今後このままの状態では山笠に関する諸行事が完全且つ円満に遂行して行けるか如何かと云う事を憂うあまり、去る十月十三日午後七時より魚屋町宮崎氏宅へ現在各区で定められた山笠取締方々のお集りを願い(京町欠席)まず総取締の件を附議し、全員(十三名)一致を以て木下吉六氏をお願い致すことになり、全員で木下氏を訪問の上就任方を懇願しましたところ、熟考の上御承諾を得ましたので緊急な事項もありましたので、御迷惑をも顧みず引続き神祭に於ける諸行事並に役員の選定収支に関する件など協議致しまして左記の様に決議致しました。つきましては特に区長方の御尽力をお願い致しまして此の会に要する一か年の経費として大町(材木町・大石町・水主町・江川町)の四か町(正副三人)金拾参円也を他の並町(正副二人)は金拾円也だけを出費して頂くようになりましたので、来る二十日の集会までに山笠取締へお渡し下さいますようお願い申します。
 終りに一言申させて頂きます。それでは今まで永年の間取締会の経費はどうしていたかという腑に落ちない点がありはしないかと思われますから簡単に申上げます。一昨年までは内町も外町も消防も山笠も一体の統制下に有りましたので、市から補助されていた消防手当の内から天引してそれを本部にまとめて山笠取締会の方の経費を補っていました有様で御座いました。が、それが前に申しました如く警防団という事になりまして内町と外町は分離するし、従来の小頭は大半変ってしまう様な訳で、費用の出所がなくなりましたので山笠所有の各区へ御相談申しとる次第で御座いますから、その意を諒とせられまして何卒御出費方お願い申します。
  昭和十五年十月十五日
           山笠取締会
   役員名
 山笠総取締     木下吉六   大手口 電一九
 仝副取締(会計 ) 宮崎覚之助  魚屋町 電一二七
 仝取締会評議員  花田明治   刀町
 仝           川添惣兵衛  大石町
 仝(庶務)      平田常治   米屋町 電八六五
 仝           吉田精一   水主町

   決定事項
一、神祭の山笠曳は二十九日三十日の二日間
一、二十九日は各山笠八時揃い九時引出し、三十日は九時揃い十時引出し
一、一日は明神社の御輿と共に行動し、二日目は一番山笠刀町と行動を共にす。依て刀町山笠は左の場所に左の時間を休憩し他は行進を続く
 @日の出館前三十分 A大石町姪子小路角三十分 B停車場通り角昼食に付一時間 C刀町清水洋服店角三十分 D江川町終点一時間

一、当番町本年を基順として一番山笠より順次にて本年は刀町とす。
一、当番町は神祭前に山笠引きに差支えなき程度に電灯線看板其他の件をそれぞれ交渉し、山笠曳きに支障なき様完全ならしめておく事
一、当番町は西の浜で山笠のならぶ位置に町名入の標札を建てておく事
一、当番町は集会外臨時の出来事や通達ある場合はこれを迅速に各町取締若くは副取締に通報する事
一、山笠所有区並町金拾円大町金拾参円(一か年の経費)納入の事

  主なる経費
 通信費、被服襟代、役員記章代、消耗品費、協議会席料、仝茶菓料、其他
                                       以上
 こうして、木下吉六氏が初代総取締に就任され、昭和二十五年十一月二十一日年来の病気を理由として辞任するまで満十年間其の任に在って取締会のため尽力された。木下氏辞任後は中町の花田繁二氏が其の後を襲い二代目となり、昭和四十一年平田常治が三代目に就任、昭和四十二年脇山英治氏が四代目に就任して現在に至っている。なお、各町の取締は一・二年乃至四・五年位で交代している。
 各町の取締会を構成して全体としての問題を協議決定し、その執行の責任を負うほか、各自其の町内問題について最高幹部としての責任を負うことになっている。ヤマ引きの際は必ず采配を取ってヤマに附き従い、例えば、ヤマが軒先に触れて瓦を落した場合、或は前または後のヤマ曳きの仲間に触れてもんちゃくを起したような場合、取締が一切の責任を負って其の解決に当るのである。
 昭和十八年は太平洋戦争の最中で恒例の二十九日もヤマ曳きは不可能であった。よって山笠取締会は次のようなことを決定し、執行している。

昭和十八年神祭山笠取締会決定事項
一、唐津神祭は本年に限り十月三十日三十一日の二日間とす。
一、山笠曳きは三十日一日のみにて二日目は飾り置き、特に例年の如き供日詣りの慣例を絶対に廃止する事。
一、十月三十日各町山笠は八時揃い、九時曳き出し。
一、正副取締は八時四十分までに明神社社前に集合し、宰領旗及び記章を受領せられたし。其の際神官によって修祓の式が行なわれるので時間励行にて是非とも御参集ありたし。

  西の浜に於ける行事
一、一番山笠以下西の浜の所定の位置に配列終れば、最終山笠の配列を待って各山笠取締を先頭に町名入りの立札を持って全員明神台前に集合す。そして、次の如き式典を行なう。
一、今年は唐津神社県社昇格最初の御幸祭につき、大東亜決戦必勝祈願祭をも併行す。
  司会者  平田取締
 唐津神社参拝の儀  式順
一、一同敬礼 一、修祓 一、玉串奉典
 木下総取締玉串奉典拝礼と同時に全員二拝二拍手一拝の礼を行う。休め。

  大東亜決戦必勝祈願祭
一、一同敬礼 一、開会の辞(吉田副総取締)
一、宮城遥拝 一、君ケ代奉唱(三・四の合図にて二回)
一、祈念  一、祝詞(神職によって)
一、玉串奉典(木下総取締)一同同時に拝礼


一、万歳三唱(木下総取締の音頭)
一、閉会の辞(花田取締)
一、解散
 解散の命により元の位置に復し解散・昼食。
一、各町の経費負担は昨年通り。
一、役員名を省略す。異動の町は庶務まで御通知を乞う。

 悪夢のような大戦争がすみ、敗戦後の社会が一応安定した頃、そして、木下、花田両総取締の交代が行われた昭和二十五年の終り頃になり、進歩的で民主的な唐津山笠取締会規約が作られた。その第二条に目的を次のように定めている。

 本会は唐津神祭神輿渡御に供奉する山笠曳氏子の志気を作興し勇壮に運行する山笠行事を和楽ならしめ、以て祭礼を盛大にし、一面山笠曳き相互の親睦を図り敬神愛郷の精神を養成し郷土発展に寄与するを以て目的とする。
 そして、第七条は「第二条の目的を達成するために左の業務に勤める」ことを決めている。

一、山笠曳きによる氏神氏子の情操的志操の堅固並に愛郷心の養成
二、山笠曳き行事に関する一切の業務遂行
三、山笠及び山笠曳きの歴史的研究
四、山笠構造の美術科学的研究
五、山笠の保存対策
六、山囃子の保存並に之が普及対策
七、山笠曳き行事の郷土経済面に及ぼす影響の調査
八、山笠曳き行事に際し市内諸官衛公共団体と連絡接衡
九、山笠各町による体育競技会の開催
十、其の他本会の目的達成に必要な業務

  (3) 年中行事

 曳山の行事は一年を通じて取り行われる。

◎正月囃子(はやし)初め     

◎春祭 古くは神社で一重一瓢持寄りで@お籠り行事をしたが、其の前後は不明。今は唐津城祭と同時開催して曳山を社前にならべる。

◎土用乾し 幕洗いともいう。土用の期間中に曳山をヤマ小屋から屋外に出して掃除手入れをする。また、曳山の垂れ幕や浜で神祭の日使用する幔幕などを洗濯するため、思い思いに川原を洗い場・干し場として清掃の行事を行なった。今は船遊びや行楽地での懇親行事に変っている。

◎初くんち 古くは九月九日の初くんちや神祭入りの初めまでに、A曳山の飾り付けをすると共に、囃子の稽古に入る日でもあった。しかし、曳山展示場ができてから飾り行事も簡略化され、やまばやしのB稽古も少し寂しくなって来た。

◎神輿飾り 十月二十五日、総行事として行なう。

◎宵ヤマ 十一月二日

◎御神幸 十一月三日

◎町内めぐり 十一月四日

Cナオライ 町ごとに神祭終了後行う。


注@ 春祭秋祭のあとには町内願成就を社前で行い、そのあと、境内で幕を張って町内総出のお籠りをする。今も二、三の町は行っている。(戸川宮司談)

A 曳山の車の具合や、その他、工作をしたときは、試験的に町内を曳いた。そして、他町と接触して喧嘩になり、その喧嘩を供日まで預けるということもあった。(戸川宮司談)

B 囃子の稽古は近年ますます盛んになっている。(古老談)

C ナオライというより、古くから願成就、願掛けといっている。(古老談)

      
  (4)
曳山(ヤマ)曳きに関する慣習

一、
御幣張り

 十四台の曳山のうち一番曳山の刀町の赤獅子は他と違って頭のうえ角の後に白い大きな御幣を立てている。刀町の人達が伝えているところによれば、これは曳山曳きの行事が無事にすむようにとの意味合で立てるとのことであるが、これは曳山の最初が標(しめ)の山であった当時、つまり、曳山が神の憑代であることを意味していた当時からの古い故実を今に保存しているものではないかと思う。この御幣を毎年新しく張りかえることが刀町の若者たちに課せられている。他町に比べると余分な勤めであるが、刀町の人たちは当然のことだと思っている。御幣は木製で紙を張ってあるので、この作業を「御幣張り」と呼んでいる。
 御幣張りは、もとは十月九日初供日の日に行われていた節もあるが、近年は必ずしも一定せず、その時の都合によるようである。「刀町若者記録」によれば、昭和二十九年は十月二十四日、三十二年は十月二十三日であった。
 この「刀町若者記録」という帳面の表紙裏から扉にかけて

   御幣裁断之寸法鯨尺の事
 として、次のような図が描かれている。左下に「傘紙六十枚大奉書七枚」という文字もある。
 此日若者たちは町のクラブに集まって右の御幣に合わせて奉書の紙を切って丁寧にのりで張りつけ、別に丈夫な唐津紙(障子紙のようなもの)をのりでつぎ合せたものを前の図の如く切り抜き、それを規定の方法で折って、別にこしらえたコヨリで御幣の左右に足の如く出た部分に結びつける。これらの作業に凡そ三時間を要するという。
 こうして出来上った御幣は神祭の日までクラブに保管し、神祭の日の朝早く恭しく奉持して神前に至り、神官によって祓い清めて貰ったのち、赤獅子の頭上に之を安置する。


二、カヂ棒願い

 中町と京町とでは神祭の二、三日前若者仲間の主だった者が二・三人連立って仲老(二番組)のところに、「どうぞ今年もカヂ棒をお願いします」と挨拶にゆく。
 その際、曳山引き用の草履一足を持ってゆく、というしきたりがある。もとは鉢巻と草履とを持っていったが、今は草履だけである。江川町でもこうした習慣があった。刀町と材木町では行われていないというが、現在でも中町京町の外にこうした慣習があるかも知れないし、これはきっと古くからの習慣であろうと言われている。


三、
曳山曳きの作法

 神事の行列は、さきに述べたように、三つの輿をはさんで十四台の曳山が縦一列に並んで行くのだから、前後の距離が最も詰った場合でも、ざっと見積って七百メートルを下らない長さであり、普通は千メートルを越す行列となっている。従って何人も一時に其の全貌を見通すことは不可能である。
 行列の進行速度には緩急の調子があり、従って時によって後の曳山の速度が増して前の曳山に追付いてしまうことがある。こうした場合、後の曳山の綱の先端は必ず前の曳山のガヂ棒から二、三間離れたところで停止しなければならない。カヂ棒に触れることは勿論、余り接近することは禁物である。つまり、後の曳山の両綱で先の曳山を挟むことを禁じている。
 西の浜に到着したとき、一番曳山が一定の位置を占めて停止し綱を下ろしてしまうまで、二番曳山は決して綱を下ろしてはならない。また、浜で並ぶとき後の曳山のカヂ棒は前の曳山のカヂ棒の線から出てはならないことになっている。西の浜から曳き出すとき浜の砂が軟かで車がめり込むので、曳き出すのが中々容易でない。困っているときは隣同志加勢し合うのが礼儀である。
   注 昔のことだが、西の浜御旅所前に勢揃いするときの勇ましさは、あの広大な砂浜のあった頃、刀町・中町・材木町が一斉に並び終えるのを争う有様は見事なもので、曳山の禁を破っての争いではあるが、見る者をして歓声をあげさせたもので、今では見られぬちょっと説明し難いものがあった。(古老談)

 ところで、当日は、いわゆるお祭り騒ぎでみんな威勢がついているので、何かの間違いで禁を破り礼に背くことがないとは限らない。そうした場合、若者同志の喧嘩が起ることになるわけだが、御神幸当日は喧嘩をしてはならないことになっており、このことはみんな承知しているから、この日は喧嘩はない。翌日神輿なしで曳山だけ町を曳いて廻るとき、「お前達は不都合じゃないか」ということから喧嘩をはじめる。暫らく渡り合っているうち取締が出て詫びを入れるべきは詫びを入れて一杯やっておさまることになる。


四、
曳山曳きの為の里かえり
           
 笛太鼓の賑やかな曳山(やま)囃子につれて「アーエイヤエイヤ」の掛声勇ましく曳山を曳いた思い出は、この町に育ったものにとって生涯忘れることのできぬものとなっている。他郷に在れば一しお神祭が近づくにつれて郷愁は堪え難いものとなる。この町に育って近郷近在に住む者はもちろん、北九州方面遠くは神戸大阪方面に働いている若者たちが、神祭には「ヤマを曳きに」帰って来る風習が今もなお盛んである。そして、昔なじみの法被を着て曳山曳きに参加する。それで、神祭の当日実際に曳山曳きに参加する若者の数は不断町内に居住する若者の二倍に近い数となるようである。


五、無礼講
 神祭の日は無礼講といわれるが、これは古くからの慣習らしい。その意味を考えると、およそ次の二つの面があるようである。第一は曳山の行列が誤って家の軒先などに触れて損害を与えても、それは一切お構いなしということである。戸川宮司の話によれば、或る町の角の家の親爺は仲々のやかましやだったが、曳山がよく突き当って軒先をこわしても、曳山のことだけは文句を言わなかった。そして、後では予めその辺の瓦をはずしておくようにしていたという。また、昔ある町の角の家の主人は札幌農学校出身の農学士で、若い頃官途について長く郷里にいなかった。後に帰郷してこの角の家に住んでいたが、或る年たまたま曳山がここの軒先にぶつかって家を少しこわした。農学士先生大いに怒って、不都合だ、弁償させてやるといきまいた。これを聞いた其の町の区長宮尾忠弘が「お前そんなことを言ったらかえってにくまれてどうにもならんばい」と話してきかせ、そのまヽにおさまったという。このように昔は一切弁償の要なしですんでいたが、ともすると不断若者たちが快く思っていない家に対してこの際ということでいたずらをしないとも限らないので、お互に警戒をすることになったのであろうか、最近は場合によって弁償することもある。
 第二は曳山曳き姿の若者はどこの家に入り込んで御馳走を頂いてよいということ。唐津神祭はいつの頃からか三月倒れといわれるようになったほど、各家が御馳走して親戚知人を招く習慣になっている。全く見ず知らずの家であっても、友人に誘れたからとか、何かのついでにという、一寸した引掛りをつけて入りこめば、そこの家では一応お客として歓待し、御馳走を振舞うという慣習になっているが、これは第二義的のもので、第一義的には曳山曳きの姿の若者はどこの家に入りこんでも、その家は歓待し、御馳走を振舞うことになっていた。そうした慣習が拡大されて一般の人々にも適用されるに至った結果であろうかと思われる。昔は士族と町人との身分の違いがやかましく、不断は滅多にうかがうことのない城内の士族の家々にも、神祭の日には曳山曳き姿の若者がよく出入したということである。
 要するに、上の神祭の二日間は曳山曳きの姿さえしておれば、若者たちにとって、いわば一年中の最良の日であって、威多に咎められることもなく、どこに行っても飲み放題食い放題のわがままのできる日である。曳山の綱から離れて三々五々肩をくみ、囃子はないのにエンヤエンヤの掛声だけは威勢よく大道を闊歩し、或は大きな家に出入りする光景は今でも珍らしくない光景である。

六、くんちの御馳走
 十一月三日の秋祭は民俗学的に見れば、もと旧暦九月二十九日に行われていたいわゆる豊作祭であって、新穀で作った神酒や御飯を神前に供え、人間もたらふく飲み飽くほど沢山食べ、お陰でこんなに豊作で沢山頂戴致しましたと、神徳を奉謝するための行事である。それがまた遠近の親戚知人との親睦を図り旧交を温める絶好の機会ともなっている。そうしたわけで、唐津の神祭でも三月倒れといわれるほどの御馳走をしてお客に振舞うのだが、くんちの御馳走として各家毎にこしらえるものの通例は凡そ次の如きものである。
 酒は清酒・ビール・洋酒、それに自家製甘酒。こわ飯(栗を加えると最良)。味噌汁とナマス。ナマス肴は青物で、アジかコノシロがよい。鯛かアラの尾頑つきの丸煮かその丸焼。大家になるほど大きな魚を使う。以上が戦前までの御馳走になくてはならぬものとされている。このほか、さしみ、ぬたもの、赤かぶの三杯酢、魚の煮付。里芋、人参、牛蒡、蓮根などの煮しめ。こんぶ巻きなども作る。しかし、現在では各家庭の工夫で多様化して豪華贅沢なものとなっている。
 なお、御馳走とは別であるが、戦前は神祭の日、町家はどこでも平常の商売を休み、定紋入りのまん幕を軒下に張りめぐらし、入口だけを上げておく。家の廻りをきれいに掃き清め、もとは町田川の砂を玄関の前に敷いていたそうである。しかし、この習慣も神幸の曳山行事が観光行事化した現在は、大半の商店が、このようなしきたりを省略している。
     
  (5)宵曳山(よいやま)

 明治二十八年、総合曳山小屋が戸川家所有地を借用して設けられてから、それまで提灯をつけて各町がそれぞれの道順を選んで大手門前、或は神社前に集合したのに代えて新曳山小屋前に集合することになった。しかし、各町の曳き出の時間もまちまちになり、戦後は一層乱れて統制がとれなくなった。そこで、昭和四十年から刀町の曳山の曳き出しをくんちの暁でなく、前日の夜九時と決め、東行する間に各町が曳き順通りに各町から一番近い場所で参加することとし、材木町から水主町・大石町と通り、新町から刀町・大手口を経て曳山小屋前に勢揃いすることにしていた。しかし、文化会館ができた昭和四十五年から刀町を先頭に東面して北へ並列することになった。

  (6) 曳山の巡路

 第一日日
 御神幸の巡路について、往昔は神社前を出発して明神横小路・大名小路を径て大手門をで、町家の間を巡幸するが、当初は氏子の住居地内町だけを巡って、名護屋口から坊主町を経て西の浜の御旅所に着いていた。宝暦十三年の文書に総町から傘鉾を出し火消組が供奉したとある。また、飯田一郎氏も総町の範囲を確定せぬまヽ記述を進めているので、どの町筋を通ったかは判りかねる。しかも、平松文書の曳山の順序書等から判断すると、水主町が傘鉾を奉納していたか、どうかによって其の巡路に相違があったかと思う。
 二十九日の早暁、大手口の広場に提灯をつけた曳山は、明け六ツの開門と同時に大手門をくぐり、大手小路から明神横小路を経て神社前広場に到着する。
 そして、ヤマは今の彰敬館の北側に在るカナメの木の脇から西へ順次コの字型に、刀・中・材・呉・魚・大・新・本・紺・木・平・米・京・江・水の各町の順に並び、御神輿の出御を待つ。
 或る年は神輿を先頭に、或る時は江川町の島居ヤマを先登に神輿を挟んで行列を組み、大名小路を南下して大手門外にで、八軒町を通って本町を南下し京町を東進し、札の辻橋を渡り魚屋町大石町水主町を経て材木町を西行し塩屋町を南進し、魚屋町を西行、京町紺屋町平野町を経て、新町を北進、浄泰寺前の勢子場で勢いを休め、名護屋口の関門の難所を通る(関門は石段であるので、石段に砂俵を置いて斜面を作る)。西寺町近松寺角を右折し、表坊主町を北進、西の浜御旅所へと着く。この順路は、藩後期火消組の中に水主町の名が出ているので、確信はないが、鯱ヤマが奉納されるまでは、或は大石町の東端蛭子小路を北進して材木町に出ていたのではないかとも考えられる。
 帰路は西高校跡の西北隅の砂丘の低地を過ぎ元旗町から江川町四ツ角の元の江川町の曳山小屋の角を東折して進み、表坊主町を南進、近松寺角で東進、名護屋口を通り新町広場(勢子場)あたりで自由行動に移り各自の町に帰っていった。
 明治二十四年明神小路の南端の肥後堀・柳堀を埋立て材木町の新大橋ができ、鷹匠町北側の道幅が拡張され、西寺町の道路が新設され国道が坊主町を貫通するに及んで神社所有地の明神小路東側の宅地を借用して内町及び魚屋町の曳山小屋を新築するに及んで、暁の曳山の各町から神社前集合をやめて、曳山小屋前に並列するようになった。刀町の曳山を南端に、西面して順次並べることとなった。従って大手小路の北進もなくなり、社前広場の並列もなくなった。

 二十九日の早暁、提灯をつけて曳き込み、曳山を並べて提灯の火を消して曳子は一日帰宅し朝風呂に入り斎戒沐浴したうえ、改めて正装して定刻前に曳山についたものである。
 右のように並列の場所が変ったため、巡幸の順路も変り、明神小路から真直ぐ大手口に出て材木町まで東進、新堀船宮の境の四ツ角を南折、水主町を西進、大石町・魚屋町・京町・紺屋町・平野町と進み、平野町の西端で新町へ北進、浄泰寺前から刀町の方へ東進し大手口の広場で曲って国道を西進、鷹匠町・西寺町を経て表坊主町の四ツ角を北進して西の浜の御旅所に着くように変っている。
 帰路は前述のとおり、江川町を東進して表坊主町を南進して国道を東進、大手口広場、明神小路入口の国道まで御神輿に供奉し、ここで各自の町内へ曳き帰ることに変った。
 そのため、従来城内を通る間、山囃子の最も静寂優雅な「みちやまばやし」は曳山囃子の中から消えた。昭和三年熊本放送局に招かれた時急拵えの練習で刀町の高添氏の教授で呉服町の木下又蔵、米屋町の平田吾市、刀町の市丸一、呉服町の古館清次郎、刀町の木下忠の八氏が出演し、昭和四十年の万国博覧には平田常治らが出演している。
 その後の順路について、外町地区では船宮・新堀の境の南北路を曲らず、船宮の三角屋角を曲って水主町に入り西進したこともあったが、現在は宮嶋醤油の好意により同社所有地を南北に横切り、水主町を西進するようになっている。
 内町でも、京町アーケード街完成の後は、札の辻遊園地西側の町田方面への道路を南進し鉄道用地を西進して市役所通りより平野町を西進したこともあったが、現在では町田への新道から猫川畔にできた市道を西進して中町通を通り国道を西折して大手口、刀町を通り市役所通りを南下して平野町を西進し、新町・刀町・大手口を経て坊主町へ進むことになっている。
 西部も表坊主町を経て有礼坂との交叉点を左折して江川町を通り、済生会病院前を通り、西の浜の御旅所に着くようになっている。 御旅所に到着した御神輿を中心に、曳山はその東西に七台づゝ孤型を画いて整列する。中食や休憩時間に約三時間を費して帰路に着く。
 帰路は済生会病院通りを南進して国道に至り、これを東進して明神小路の交叉点に達し、神輿は神社に向い、各町の曳山はそれぞれの町にかえり、ゆっくり安らかな眠りにつく。

   注 曳山の巡行路は付録「曳山巡行コース」参照。

 第二日目
 唐津神社前から大手口を経て坊主町までの順路は御神幸の道順と同じだが、江川町に入る時、表坊主町から入ったか、裏坊主町から入ったかは定かでないが、私たちの小さい頃には裏坊主町から入り、江川町を西進し、江川町の曳山小屋前で転向して背曳し、暫時休憩して帰途に着く。昔は新町勢子場で自由行進に移り、最近は大手口から曳山展示場に格納している。また、昔は往路紺屋町を中心とする場所で休憩して中食をとったが、京町のアーケード街完成後は市役所前大通の西側に並列して中食をとることになっている。



  (7)神輿と曳山の順列 (一)

 唐津神社の神輿の西の浜への御巡行は寛文年代から行われていたようであるから、供奉者はいたと思うが記録がなく内容は不明である。しかし、最近宝暦十三年の御巡幸の記録が見つかり、傘鉾を担いだ火消装束の火消粗の供奉と藩役人の参加が記されているので、仲間程度の武士も参加していたのであろう。其の後、車輪のついた走り曳山となったが、その順序等は全く不明である。文政二年赤獅子が奉納されてから順次各町から曳山の奉納が続くとともに行列等も定まったことと思うが、材木町の年寄平松儀右衛門が遺した「唐津御触書御願書諸記録控」と題をつけた記録に初めて行列に関する記録がある。
 安政六年九月二十七日大年寄から各町の年寄に配布された神祭関係の文書が記述されている。
 その文面に、
 引山順番=一の宮・江川町・塩屋町・木綿町・京町・米屋町・二の宮・刀町・中町・材木町・呉服町・魚屋町・大石町・新町・本町
 注意書の中に年寄・組頭中は麻上下着用にて御付添可相成と、あるが、神社総代の服装については一言も記入されていない。これは年寄組頭等が当然氏子総代に任じられ曳山とともにお伴することになっていたためではなかろうか。神祭行列図には上下を着けた十数人の参列者が画かれているが、これが氏子総代神社総代であろう。
 三年後の文久二年九月二十八日付の文書に当年引山順左の通りと記す。
 江・塩・刀・中・材・呉・米・一の宮・魚・大・新・本・紺・木・京・二の宮
 右のように安政六年の順序と可成り違っている。従って、曳山の順は、その年、その年によって決められていたようである。西の浜の神祭行列図に描かれた順序は魚屋町を主題に画いたものだから、作為のある順序になっていると想像できる。
 元治元年信玄の兜ができ一閑張漆塗の曳山が十台揃った機会に十台の中間、五台目と六台目の間、即ち、鯛ヤマと鳳凰丸曳山の間に一の宮・二ノ宮の輿をおき、江・刀・中・材・呉・魚・一の宮・二の宮・大・新・本・紺・木・塩・米・京と順序を決め、さらに明治二年、平野町・米屋町の一閑張の曳山ができた折に、江・刀・中・材・呉・魚・一の宮・二ノ宮・大・新・本・紺・木・平・米・塩・京と順序を定め、明治八年京町の珠取獅子ヤマができ、翌明治九年江川町・水主町の曳山が加わり、江川町と水主町の紛争の結果、大石神社の神輿が行列に加わるようになってから、神輿に先駆するとされる獅子舞の獅子頭二台が先頭に並び、つヾいて神を運んだと伝えられる亀(当時は宝珠を負っていた)という因縁のある製作年代順に並び、つヾいて守護の武将源義経の兜というように、奉納順に永久的に決定した。
 つまり、刀・中・材・一の宮・二ノ宮・呉・魚・大・新・本・大石神社神輿・紺・木・平・米・京・江・水となった。ただし、紺屋町ヤマは明治二十二年まで、また、江川町と水主町は隔年順序交代となっている。

  注 曳山の順序=走り山・塗り山併用の時代はそれぞれに変っていたが、刀町曳山より江川町・水主町の曳山の完成後は現在のように一定している。(古老談)

 @平松文書によれば、安政六年の神幸に従った引山順番の町名に「江川町(鳥居)・塩屋町(仁王)・木綿町(天狗ノ面)・京町(踊り屋台)・米屋町(不詳)・刀町(赤獅子)・中町(青獅子)・材木町(亀)・呉服町(兜)・魚屋町(鯛)・大石町(鳳凰丸)・新町(飛龍)・本町(金獅子)」の十三町が記され、三年後の文久二年の引山順書に「江(鳥居)・塩(仁王)・刀・中・材・呉・米(不詳)・魚(鯛)・大(鳳凰丸)・新(飛龍)・本(金獅子)・紺(黒獅子)・木(天狗の面)・京(おどり屋台)」 の十四町があげられている。
 この町の中で当時現在の曳山があるのは九町で、文久二年の時でも、「江・塩.・木・京・米」の各町には現在のヤマはないにかかわらず、引山をしたとすれば、類似のヤマがあったと考えねばならない。
 また、文政六年の記事にA、祭に出た作りものについて
 本  十一日鯉の滝登り之着物並夏帯にて造物
 呉  扇之地形二灯余計之由
 八
 中  古田打之由最上との事
 木  兎の腕に金羽之形のよし
 材  始終山之儘灯し物脇並より減し取〆方並役中差閊旁遠慮歟

注@ 平松文書によれば、安政六年の神事に従った引山と順番について、江川町より京町までは仮役、米屋町は不詳、刀町より本町まで本物。文久二年には仮の鳥居と仁王を先に、本物と仮の天狗とおどり屋台がでている。

A この作りものは神祭だけのものでなく、賑いごとに随時に即座に作られたものではなかったかとも思う。(古老談)

  (8)神輿と曳山の順列 (二)

 平松文書の引山順序書の中の米屋町のヤマについて、飯田一郎氏は米屋町のヤマの名がないと指摘されている。このことについて戸川眞菅氏の「思出草」の文書に注目したい。文中に「ずっと以前には、この外八百屋町は仁王を出し、塩屋町は張り子の鳥居を出せしが、今は如何になり居れるやを知らず」とある。思出草は眞菅氏の九才から十才頃の記憶を喚び起して書いたと思われるので、明治初年頃の事であるが、記憶に混乱があるようである。
 八百屋町の仁王は誤りであり、塩屋町の鳥居とあるのは江川町の鳥居の誤りであろう。また、古老の話として、昔は本町は左大臣右大臣、塩屋町は天狗の面、木綿町は仁王、江川町は赤鳥居、京町は踊りヤマを出したと、飯田一郎氏が記しているが、信玄の兜ヤマから酒呑童子と源頼光の兜ヤマのできた間のヤマとして木綿町のヤマは仁王となっている。しかし、そうすると、或る期間木綿町は信玄の兜と仁王の二つを曳くことになり、それは無理であり、思出草に戸川眞菅の見た仁王ヤマは、飯田氏が問題にしている米屋町のヤマではなかったかと思う。
   注 この項に関しては若者の感違いもあるようだから、読者は他の関係書とつき合せて読む必要があろう。(古老談)

 (9)神輿と供揃い
 神輿は明和二年、大阪住吉神社の神輿と同時に、今日の鳳輦型のものが造られて分けられたものである。御巡幸の際は神田の人たちによって担がれ、担ぐ人たちは神祭行列図によれば奴たちに劣らぬ華麗なハッピを着ているが、しばらくは神社の財政面の負担もあって@白衣に変っていたこともあるが昭和四十六年から現在の姿になっている。しかも、奉仕する神田の若者の減少もあって担ぎ手が減って昭和四十年から現在の御所車に載せ、神主が神輿前に腰掛けて車の上で神輿とともに進むようになった。大石神社の神輿は旧態のまゝ行列に加わっている。神社総代・氏子総代の人々の衣装は藩時代は麻上下であったが、武家消滅とともに上下着も廃り、紋付羽織に袴で従うようになり、染抜きの紋付が縫紋になり袴も段々減って衣装も乱れ始めた。加えて戦後の乱れは甚だしく洋服姿が混在するようになったので、御所車の新調による神輿の運行の姿を変えると同時に藩政時代にかえって道中笠に上下姿に統一することになった。
 神田若者たちの仕事は御所車を曳く牛を扱うことと、神社の宝物の諸什器を奉持し、賽銭箱を二人で担い歩くこと。神輿を社殿から御所車まで運び、帰還後社殿へ納める仕事もその任務の一つとなっている。
                    
   注@ 担ぎ手の衣は元は白丁・のち・軽袗(かるさん)となっている。(古老談)

  (10)御旅所

 浜の西北方に幟を建て幔幕を張廻した一角がお旅所と思われるが、其の幕の空間(出入口)は東北方を向いている様だし、私の若い時代には当時の唐津女学校西北隅の小砂丘の上を御旅所として北側に石垣と石段とを設けて神輿を北側海側に向いて据えて礼拝する所謂明神台であった。それが海岸道路の設定と同時に明神台は道路北側砂浜の地に移され神輿は石段・石垣と共に南面した台上に据えられるようになり、大成小学校建設とともに石垣は壊されて、組立式の現在の明神台となった。大成校建設の後、北部海岸を埋立ててお旅所用の広場を造るため、当時の教育長土井氏と立会の上測量した事もあったが、そのまゝ流れていたが、本年計画の海浜埋立工事に当って済生会病院前を直行した砂浜の巾も百メートル以上の埋立地を造成してもらうよう要望した。

  (11) 
お旅所の幔幕張り

 唐津神社の春祭り当月は所謂鎮守の森でのオコモリ行事として一汁一瓢を携えて家族団欒の数時間を過したものであった。これは戦時中すたれ現在はない。秋の大祭の日は海浜のお旅所を囲んで家族ぐるみ曳子たちの中食を兼ねて町内との親睦を深める意味も含めて一汁瓢を携えて重箱を開いて歓談の機会を作ったのが始まりで、何時の頃から行われたかは不明である。

 明治になってから曳山を持つ町が、それぞれ町のマークの意匠を染めた幔幕を張る様になったのか、明治九年十五町の曳山が出揃った後協議して全町一斉に作ったかは明らかでないが、明治十六年作の絵図には十五町揃って印入りの幕を張っている。昭和初期には天幕まで作った町も数町あった様に記憶するが戦争中及び戦後の人手不足などが手伝って幕張りが年々減少し、いつのまにか消滅して、絵図の風情をしのぶよすがもなくなった事は誠に惜しい限りである。幕内に入り切れない人や海原のすがすがしさを好んで眺めたい人々は砂浜の上で三々五々、小さな車座を囲んで重箱を開き杯を交す人々も点在しているが、今はこの風景は見られない。

 幕の意匠はほゞ提灯の模様と同じように思えるし、幕の一方の端には新調の年月が染めてあったと思う。

 ハッピは現在ほど美しさはないが、現在ほど一つの町の意匠が統一されてはいなかったと思われるし、帯も町内同一の品に揃えるようなことはなかった。唯一つ学ぶ事はハッピ(現在は肉襦袢という)を脱いで双肌を露はにした腹掛・股引・腕抜き・足袋・鉢巻だけの醜態をみせることはなかった。

 神社総代か氏子総代と思われる神輿の後の十数人の上下姿の集団が描かれている。

 飯田一郎の著書には賽銭箱かつぎや獅子舞の員数やそのいろいろな姿態や果物などを並べている露店や休憩所に充てられる幕張りの準備など書いてあるが、どこの町内のものか不明である。提灯の印(模様)と違う町名もたしかめたいものである。神輿関係者は神田部落の人々であるが、絵図の武者行列の参加はどの町内か、何時頃まで存在したか確かめる必要がある。

 確実に明治十四年の頃の風俗を写したものとすれば、権現社(大石八幡社)の神輿が行列の中に在るはずなのにその神輿が画かれていない。これは大町年寄時代を現わすには相応しくないと思ったためではなかろうか。

  (12) 
ヤマ囃子
     
  ヤマ囃子(はやし)一
  
 曳山(ヤマ)を曳かずに集団して歩きながら囃して行くのを「ミチバヤシ」「セリバヤシ」という事がある。此等と区別するため唐津では、すべての囃子に、ヤマを頭につけて「曳山囃子」「ミチヤマバヤシ」「セリヤマバヤシ」「タテヤマバヤシ」と呼ぶべきだ。

 ミチヤマバヤシ=藩政期から明治二十八年明神小路と国道を結ぶ濠堀の上に橋ができるまでの間の約七十六年間、つまり、大手門内の武家家敷町で囃された静かな音律である。一説には刀町の曳山だけ囃したともいわれる。

 セリヤマバヤシ=競りヤマバヤシ、迫りヤマバヤシであるかは定めがたい。曳山が走り出すときに囃すものである。

 タテヤマバヤシ=大言海には、タテヤマとは禁山、留山と書く。なお、越中立山にはヤマバヤシはない。

  曳山囃子の笛
 寺村次男氏の説によると、昔の笛は今の竹よりかなり太かった。笛の音も太く、高い音ではなかった。それが、竹が太いと活息(いき)が多量にいるので段々筒竹が小さくなった。それで吹き易すく馴れも早い。それだけに音も高音となり、ピーピーの昔が多くなった。随って太鼓と笛の音調が不協和になり勝ちとなった。
 刀町の囃子が先頭曳山だから一番ゆっくりしているが、続く曳山の囃子は段々と高くなり、調子も早くなりがちである。
 平田常治・市丸一氏らの使用した笛は確かに太かったと思う。
 なお、古くは祇園山や浮立の祭の囃子を持つ他町村の笛吹きがヤマバヤシの加勢に来てもらった町が多かったので、今のように笛の音律が揃うていなかったと思う。ただ、応援を受ける笛吹きの部落はきまっていたので、同じ町で、年ごとに音律が変ることはなかった。


  ヤマ囃子二
  
 曳山(ヤマ)囃子には「みちヤマばやし」「せりヤマばやし」「たてヤマばやし」 の三曲がある。
 たてヤマばやし(立山ばやし)
 越中立山富士山……という歌詞に合せてやまばやしを符合させたため、立山ばやしといったものだと思うが、田中冨三郎の話では立山にそのようなはやしは残っていないという。上場地方には石曳歌として其の歌詞が残っているそうである。大言海の立山の項を見ると、禁山・留山(トメヤマ)と同じと記し、とめ山の項には狩猟伐木等を禁じ置く山と記しているので、仮名で「たてヤマばやし」と書く方が無難である。この曲は曳山をとめて休息のさい、はやす静かな音調である。

 せりヤマばやし
 競り曳山囃子か、迫り曳山囃子か、問題であり、仮名で「せりヤマばやし」が無難である。この曲は曳山の曳子が勢いついてせる時に合わせる勇壮なはやしである。
 観光協会で宣伝用に作ったビデオ・テレビには、「せりばやし」といい、同好会のビデオ・テレビでは「せりヤマばやし」と違ったいい方をしている。このはやしも必ずしも曳山がせり出す時だけに用いるのでなく、歩くときも用いるので「せりヤマばやし」と統一した方がよい。

 みちヤマばやし
 道ヤマばやし・路ヤマばやしと書くが、唐津の場合は後者が良い。テレビ放映で、歩行しながら曳いている曳山の進行に合わせて奏されている囃子の群の状景の説明に「みちばやし」とあったが、みちヤマばやしといった方がよいと思う。昔は、このみちヤマばやしは城内の明神横小路・大名小路を通るとき、このはやしの静寂優雅な音調を奏したものである。それが明治二十八年から昭和五十三年まで八十四年間奏されることはなかった。それを昭和五十四年に刀町の曳山が復活させている。

 其の他
 現在のはやしはどこの曳山でも同じように感ぜられるが、昔は各町独特のものであった。昔は笛を吹く者は浮立をもっている在郷の人々が応援してくれたもので、在郷の浮立の笛の違いによって、曳山のはやしも少しづゝ違っていて、その笛の音を聴くことにより、何町のヤマばやしかがわかったものであった。昔のように各町の個性をもったはやしの方がよくはないかと思う。
 また、太鼓の打ち方も昔は身体で覚えたもので、現在は腕だけでたたいているように思えてならぬ。もっと、幼ない時から覚えさせておく必要があろう。


   (13)
ヤマ囃子唄

一、玄界灘を ゆりかごに ゆりかごに
  ゆりかごに ゆりかごに
  まつうら嵐を まつうら嵐を
  子守唄 子守唄
  育ったおいらは 唐津ッ子 唐津ッ子
  ア エンヤ エンヤ

二、唐津くんち ドンチキチ ドンチキチ
  ドンテッテ ドンテッテ
  曳き出せ 曳き出せ
  せりやまばやし
  ドンドンドンドーン コテッテ
  ヤマ曳くおりどま
  唐津ンもん 唐津ンもん
  ア エンヤ エンヤ エンヤ エンヤ

※ 岩下正忠氏によれば、この唄は刀町紺屋鶴田其の作という。また、松下又彦氏によれば、この歌詩に一行加えると、やまばやしの譜に一致する。



    五、ヤマの名称


      
  (1) 曳山(やま)の名称の統一

 昭和三十九年、毎日新聞社主催の宝塚「美はしの日本博」に出陳の折に、唐津の曳山は県重要民俗資料に指定されていた唐津山笠の名称を、曳山と変更改称したと、昭和三十九年四月一日付の唐津神社報が報じ、それを機会に、曳子の着る法被(肉襦被)には曳山と染抜き、黒襟にも曳山と染抜きをつけるようになった。また、旧来の山笠格納庫を廃して、文化会館と同時に曳山展示場が新築され、常時観覧できるように造成された。

 これは曳山の関係者としては、この上もない喜びであり、これで名称の問題は解決されたと信じていた。しかし、巷間には山笠の呼称が平気で使われているようである。昭和四十七年二月、志道小学校の児童の作文中に山笠の文字が使われているのは誠に残念である。毎日曳山展示場の看板を見ながら通学している児童がこうであることば郷土教育の立場からも放置できないことである。また、同年の神祭前の十月末に第一中学校で「山笠研究クラブ」ができたことを新聞に報ぜられている。このように教育の場で曳山と山笠が共存で呼称されているのを放置しておけば、せっかく関係者が苦労しても、将来は再びどちらが正しい呼称かわからなくなる恐れがでてくる。そこで、早速、教育長に教育の場でも曳山に統一して貰えるよう要請した。すると、県の重要民俗資料として指定された「唐津山笠」は訂正されぬまゝ生きていることを知らされた。

 これでは呼称の一本化は難かしいので、曳山に統一するためにも、なぜ曳山かを歴史的検討しなければならないと思う。

  (2)ヤマの文字のいろいろ

一、唐津ヤマの文字の移りかわり
 もと唐津藩庄屋福本氏から出たと推察される文書の一節に「城内唐津大明神九月二十九日祭祀の節、西の浜へ神輿の行列御座候故(寺)社役の内より一人同心(四字不明)相勤日付並組足軽致出役候、惣町より傘鉾等差出於西の浜角力有之候ニ付、代官手代頭組の者立会差出候」の末尾に末五月土井大炊頭内大森治郎兵衛とあって、恐らく宝暦十三年(一七六三)土井・水野両藩の交替に関する覚書と推定される。
 傘鉾は傘と鉾の二つではなく、傘鉾という一つのものである。
 これはカツギヤマと呼ばれ、各町の火消組が担いで西の浜へ神輿のお伴をした。
 走りヤマ=水野藩時代にはカツギヤマから車の付いた「走り山」に変ってきた。江川町の赤鳥居は常に神前にあるため行列の先頭に進み、本町の左大臣・右大臣・木綿町の天狗の面・塩屋町の仁王・京町の踊屋台などができた。ただし、@本町・木綿町・塩屋町のヤマが文政二年以前にあったか、どうかは判然としない。

 文政二年(一八一九)小笠原長昌が領主となった時(移封後二年目)一番ヤマの刀町の赤獅子が作られたが、前記のヤマのほか、他の町にも同種のヤマがあったかも判然としない。
  
 引山(ひきやま)=九大図書館所蔵の材木町住平松儀右衛門の手記に「唐津藩御触書御願書諸記録控」によれば、当時は疫病除けや五穀成就のため、臨時の御祈祷が頻繁に行われているが、そうした臨時の神祭りに出たものは「作りもの」または「造山(つくりやま)」 と呼ばれ、定例の神祭に出るものは「引山」と書かれている。

 安政六年(一八五九)九月二十七日大年寄から町々の年寄に出された触書の冒頭に引山順番として江川町以下十三か町(A一の宮・江・塩・木・京・米・二の宮・刀・中・材・呉・魚・大・新・本)の名があげられており、文久二年(一八六二)九月二十八日同趣旨の文書に当年引山順左の通として、「江(走り山)・塩(走り山)・刀・中・材・呉(以上四つはうるし塗り)・米(走り山)・一の宮・魚(うるし)・大(うるし)・新(うるし)・本紺(うるし)(以上五つはうるし塗り)・木(走り山)・京(走り山)・二の宮と、十四か町の名が書かれている。そして、此の触書の中には「神事翌朝引山の儀」云々の文字が使われている。以上の通りヤマを表示するのに引山の文字が使われている。
 囃山(はやしやま)・囃子山(はやしやま)
 明治八年四月氏子総代などが唐津神社の春祭にヤマを引出して賑やかに参拝したという旨を佐賀県令に届けた文書に、

  届

 本月九日第五大区四小区郷社唐津神社春祭ニ就テハ兼テ奉納の囃山引出し氏子一同賑々敷参拝仕候条此段御届仕侯 以上
   明治八年四月四日
    氏子総代杉山慎儀出佐ニ付代印草場利兵衛祠官            戸川俊雄
 佐賀県令 北島秀朝殿


 また、明治十年四月にも「兼テ奉納の囃山引出」という文字を使って同趣旨の届を出しているので、ヤマを表現するのに囃山と書いていたのであろう。
                             
   注=幼時にドンチキヤマと教えられた記憶があるが、これは囃子山(はやしやま)といった言葉の幼児話の名残りかと思う。
                                   
 現在のような台車がほとんど完成して囃子方が台車の中に乗込んで囃(はや)しができるようになったので、囃子山(はやしやま)の語が使われるようになったのであろう。
 
 引物(ひきもの)
 大石町堤家古文書諸事控に
一、文政二年御城内明神様みこし修理大体成就致候いまだ金具出来不申候
一、同年九月明神様付添申候町々の引物杯所々に出来申候
  先づ此度新に出来申候町々には刀町・獅子の首
  この首の中にて囃子ものなどいたし候

注=引物杯所々に出来申候の意味は全町ではなく点々とところどころの町に出来たということで、刀町の獅子首・材木町神子の引物だけでなく、別の町々にも引物、つまりヤマができたとの意味に解すべきだと思う。
 また、神子の引物とは八代市妙見祭のカツギ山(傘鉾)亀蛇から判断すれば亀の意ではないか。
 この文書は塗師と思われる堤氏の私的記録だから公的にヤマの事を引物と称したか、どうかは明らかではないが、引物と記録されていることは面白いと思う。

 注@ 文政二年の平松文書以前には走り山として、本町に左右大臣・木綿町に天狗・塩屋町に仁王の各ヤマがあった。(戸川宮司談)
  A ( )中は走り山

     
  (3) 
曳山(ひきやま)

 明治八年十一月九日付江川町総代山岡惣兵衛・水主町総代高崎俊太郎両氏からそれぞれ曳山之義ニ付願、奉納曳山之義ニ付願として江川町は在来之引山(四ツ車台張子鳥居)造りかえ、水主町は各町通り張子の曳山新調を許可してもらうため、佐賀県令へ願書を提出した時、曳山の文字を使っている。
 此の二通の願書に唐津扱所が付けた副書の中に「右二ケ町ヨリ唐津神社江奉納囃子山新調仕度願出ル。尤江川町者従来車台之鳥居引山有之候分ヲ「外町囃山体裁ニ造作替」云々とある。

 注1=従来の引山がどんなものであったか知る由もないが、割合簡単な構造であり、粗末なものではなかろうか。
 一閑張漆塗の豪華なヤマに成り、さらに従来囃方が車上に乗込めなかったヤマもあったと考えるが、赤獅子以後に製作されたヤマには完全に囃子方全員が乗込めるようになったので、従来の呼び方の引山を気持一新のため曳山と変えた表示をしたのではなかろうか。

 注2=長崎くんちに曳き廻す蛇舟、唐船等を曳山といっているので、それを眞似て曳山と書いたのではなかろうか。

 注3=曳山の文字が唐津名所案内に記載されたのは明治三十五年十月発行の牧川茂太郎著「唐津名所案内」である。

 注4=京都祇園祭のヤマの中には暴れ観音や宇治川先陣争いや二僧侶の像などを積んで曳出したのが二十一台もあるが、このヤマを見た唐津人が造ったのは右大臣・左大臣・仁王・天狗面等ではなかろうか。
 許可指令書には、「江川町には、造換等の儀ハ難聞届候事、水主町には、新調の儀は難聞届候事と書き、それに続いて双方へ、但曳山之儀は郷社祭礼日に限候儀と可相心得事」と書いてある。
 また、右二町のヤマが翌九年殆んど時を同じくして竣工した時、どちらを先に引くか、其の順番のことで喧嘩がおき、所謂、七町組八町組の紛争となり、仲直りができた際の覚書の見出しに

「江川町水主町両町新規曳山出来に付順序約定書左の通」と書いてある。此等一件の関係文書には曳山・引山・囃子山・囃山と四ツの文字が混用されている。

 注1=明治四十一年牧川茂太郎著「唐津名勝案内」の中の唐津神社の項に、九月二十九日が例祭で、神輿が西の浜に渡御の途次、各町を巡幸せらる。此の日の見物は曳山車である。大抵獅子兜又は魚等に形造り、全光燦然たる美麗な張貫の山車総数凡そ十四、盛装して之を曳く。
 此の日には満町の士女群をなして太鼓を叩き鐘を鳴らし、各家には酒肴を備えて全市為に狂うの感あり、神事またはくにちと称え、祭の盛大なること恐らく県内随一であろう。
 と、記述してあるが、曳山車として曳山を意識して書いたものか、どうかは判然としないが、いづれにしても山車(だし)という文字やだんじりという言葉が全国的に流行したものではなかろうか。
 私の小学校二年頃だったと思うが、その頃、私は両親や周囲の人々からヤマという言葉を聞いたが、ヒキヤマダルマは無論のこと、山車(ダシ・ダンジリ)・ヤマダルマなどは全然聞いたことはない。
 明治九年の記録にヤマのことを曳山と書いてなければ、それから三十数年たって再び曳山という書き方、呼び方がなされることはなかったと思う。

 注=曳山・引山・囃子山・囃山の呼び方について
 引山とはヤマに囃子方を台車に乗せていなかった頃の呼び方であろう。
 ヤマの台車上に囃子方を乗せられるような構造になってから、囃山・囃子山等の文字を使って、ハヤシヤマと呼んだのではなかろうか。
 また、これまで引山と書いてヤマと呼んでいたのを囃山と書いて、ハヤシヤマと呼ぶようになったのだが、どうもぴったりせず、曳山と書いたのではなかろうか。その時、博多の山笠(ヤマ)とせず、長崎の曳山を用いたのは、唐津のヤマに似かよう点があったからであろう。

 
 曳山(ひきやま)
広辞苑に
ひきやま=(引山) 山から材木を運搬すること。出し山。
大玄海に     
ひきやま=(引山) 祭のネリ物(ねりもの)として曳く山・山車(だし)・楽車(だんじり)の類。
辞海
ひきやま=(短歌・低い山)

 右のように引山の漢字はあるが、曳山の語彙はない。また、諸橋轍次編の大漢和辞典には、引・曳両字とも、ひくと読み、ひきよせる・ひきずるの意語と同じ、ほかに曳にはひっぱる・地をすり行く、引には綱や車などをひく・弓をひく等の意味を示している。名詞として使う場合、ひっぱる山・山地をすり行く山という意味の含まれる曳山の方が格好も良い。

 幕末時代の文書には引山の文字を使用しているにもかかわらず、明治八年佐賀県令にヤマ作成の許可願を提出する時、曳山の文字を使って公的発表をした。当時の関係者の卓越する識見に敬意を表するのみである。しかし、不思議なことに交通・通信の不便な当時、長崎・富山・滋賀・大阪などに曳山の文字が使われており、それと帰を一にする文字を用いたことは驚くほかない。

 さらに、昭和三十三年「唐津山笠」十四台が佐賀県重要民俗資料として指定された時、県文化財専門委員として、その決定に参与しながら「山笠」を不満として、翌三十四年佐賀県文化財調査報告書第八輯に「唐津のヤマについて」という題目の著述の中で、山笠を非として「ヤマガサ」という読み方は、唐津の者にとってはガサガサとして耳ざわりであるとまで極言された飯田一郎氏の識見の高さに敬意を表せざるを得ない。

 それ故、私は特に「ヤマ」の名称を以前のように「曳山」「囃山」とするよう提唱したわけである。これは古い歴史的な呼び方というだけでなく、言葉のひゞきからも「ヤマガサ」よりずっと優れていると思う。

 それ故、保存会の方々も、「ヒキヤマ」とする方がよいと意見が大勢を占め、「曳山」と呼ぶようになったと思う。
 しかし、これまでくるには幾多の経緯があり、その間の関係者の心労は大変なものとは思うが、文化財の専門員として、あえて一段決った名称を不適当として、関係者の反省と調査を求め、「曳山」と呼び方を訂正するきっかけをつくられた飯田一郎氏の学究と眞摯な態度に頭が下がる思いがする。

  (4) 
曳山の文字及び読み方

 曳山と表示したヤマを持っているところは、石川県七尾市・新湊市・滋賀県大津市・長浜市・彦根市・水口町・大阪府和泉市、そのほか、富山県高岡市・長崎市の御車山も曳山と書いている。そして、大半は是を「ヒキヤマ」と呼んでいるようだが、長崎市・水口町だけは「ヤマ」と呼んでいるようである。
 なお、前述「日本の祭り一〇〇選」に「唐津おくんち(曳山)」の説明文中に、わざわざ仮名でヤマと書き、その下に(曳山・山笠)と併記しているのはいただけない。唐津では曳山と書いても、呼ぶ場合は古い伝統を生かして「ヤマ」と呼ぶのが最も良い呼び方だと思っている。

 私は久留米大学病院で担当医に「唐津のヤマを見られたことはありますか」と尋ねたら「鏡山に登ったことはあるが、ヤマを見たことはない」との返事であった。私たちが自慢するヤマであっても、それほどよその人には知られていない。もっと知ってもらうためには一そうの宣伝が必要で、また、一工夫が大切だと思う。

 唐津のヤマを知ってもらうためには、さきに紹介した「日本の祭り一〇〇選」の標題のように、ヤマの標記の上に副題として「唐津くんち」を付けたら、よその人によく理解されるではないかと思う。例えば、今、志道小学校東北隅の曳山展示場案内標示に、「唐津くんち・曳山展示場」と記入すれば、よその人にも「くんち」と「ヤマ」とを結びつけてわかりやすいのではないかと思う。

 ヤマに関する用語の表し方についても、そのほか、考えておいた方がよいことがある。「ヤマヒキ」は「曳山引き」と、「引」の字を用いた方が正しいと思っている。その理由として、大漢和辞典に、「引」の解説に「綱や車などをひく」と明示してあるからである。しかし、曳山曳きと書いても誤りではないから、この書き方が定着しているとの考えが多ければ、それでも結構だと思う。
 次に、「ヤマバヤシ」は明治初年の古文書に囃子山と囃山の両語が使われているから曳山囃子でも、曳山囃でも支障はないと思うが、曳山囃子(ヤマバヤシ) の方が字数は多いが、格好もよく、柔らかい感じだと思う。或は、「曳山はやし」と書いてもよいが、どれにするか、取締会で検討され、一本化したがよいと思う。



 唐津城まつりの際公募当選した新からつ音頭
         
  ハアー 曳山(ヤマ)がならんだ日本一のネ
  唐津おくんち秋まつり
  エンヤエンヤの笛太鼓 アラ笛太鼓



 この歌詞の「曳山」に「やま」と振り仮名をつけてあったので感心した。このように「ヤマ」と呼ぶ習慣をつけていきたい。

 「曳山おどり」は「ヤマおどり」ではピンと来にくいかも知れないが、「ヒキヤマおどり」は本来は「曳山引きおどり」が正しいのではないかと思う。

  ヤマと呼ぶために僅かな人だけが、昔の呼び方で唐津曳山を「ヤマ」と呼んでいるが、昔を知っているものにとっては歎げかわしい次第だとの便りを時々受取ることがある。私も、唐津曳山は「ヤマ」と呼んでもらいたいと努力をして来たが、マスコミの力は、それを上廻るものがあり、「ヒキヤマ」と呼ぶどころか、一般の人は今でも、「ヤマガサ」と呼んでいることが多く残念である。

 飯田一郎氏の説によると、京都祇園祭のだしは、山(やま)と鉾(ほこ)と区別され、山という呼称も京都だけは生き続けてきた。それが何時の頃からか山と鉾とまとめて「ヤマホコ」と一つのもののように呼ばれるようになり、テレビ放送でも博多の山笠、京都祇園祭の山鉾(やまほこ)と、棒読みにする時代となって、曳山をヤマと呼ぶように努力しても、何時まで続くかわからぬ時代となっているので、せめて私たち「曳山引き(やまひき)人種」だけでも、先祖の遺産である唐津曳山を、「ヤマ」という言葉で永く保存したいものである。

 ただ遺憾なことに曳山という語彙が図書館の富岡氏の調査では、事典・辞書のどちらにもない事である。幸い、小学館の企画で日本国語大辞典二十巻の刊行が進んでおり、曳山を載せてもらおうと、簡単な曳山に関する資料を添付して、市教育長の名で小学館の編集部へ依頼すると共に、曳山の文字を使用している長浜市・大津市・新湊市等の教育長に協力方をお願いした。
    
  (5)
曳山(ひきやま)とよぶところ

 石川県七尾市(青柏祭の曳山)
 滋賀県長浜市(老人はヤマと呼んでいる)
    大津市 ヒキヤマ=曳山
    彦根市 ヒキヤマ=曳山
    水口町 ヤ  マ=曳山
 長崎県長崎市(おくんちの囃子方を乗せた出船、水を吹きだす鯨の汐吹き、唐人船・蛇船等を曳山と呼ぶ。

  大阪府和泉市 ヒキヤマ=曳山
  富山県新湊市 ヒキヤマ=曳山
    城端町 曳山祭(山車六台と屋台六台を曳く)
    高岡市 曳山(前田藩主が豊臣秀吉から賜わった御車山や鉾山車・花傘をつけた人形を飾った山車を関野神社の春祭に曳く。

     
  (6) 
山笠(やまがさ)

 飯田一郎氏著「山笠」に、山笠という文字は昭和三年刀町ヤマ塗替の際、「山笠係」が設けられたのが初見と記されているが、岩下正忠氏は弘化三年作新町のヤマ飛竜の原型を粘土で作った中里守衛、重広あての感謝状に「山笠」文字が見えると紹介しているので、それが初見であろう。しかし、その後長い間「山笠」の文字は使われていない。

 其後、昭和十五年に「山笠取締会」が設けられ、昭和三十一年には「唐津山笠保存会」が結成され、昭和三十三年には山笠格納庫が造られている。なお、昭和二年四月初版発行の「名所案内」に「毎年十月二十九日は其の例祭にて、神輿は西の浜に渡御の途次各町を巡行せられ、各町より揃ひの勇姿をした若者によって曳かれる山笠(やま)十四本之に随従す。」と、記しているので、その頃一般には山笠と呼ばれていたといえる。
 恐らく、博多の山笠が有名になるにつれ、暗々のうちに博多の山笠の呼び方が唐津のヤマに影響したのであろう。かつて、囃山または曳山と書かれたことは忘れられて、ヤマのことを「ヤマ」と書くと、どうも物足ぬと感じ、全国的に知られている博多の山笠と同じ文字を用いるようになったのではないかと思う。
 飯田一郎氏はその著書に山笠という文字を用いながらも、必ずといってよいくらい「ヤマ」と呼んでいるし、岩下正忠氏も唐津市史の文中に「十四台の山笠」「豪快な山笠」「山笠の重さ」「山笠の名称」と山笠の文字を用いているが、その文中に「山(やま)」の文字を用いていて、文字の使用に混乱が見られる。

  (7) 
山笠の文字について

 以上述べたとおり、ヤマについては混乱して各種の文字が遣われており、なぜそうなったかを理解するためにも再度、このことについて触れておきたい。
 飯田一郎氏は、その著書で、山笠という文字を用いながら次のように述べている。
 私たちは普通の会話では「ヤマ」というだけで、決して「ヤマガサ」とはいわない。まして、「ヤマガサヒキ」とか、「ヤマガサバヤシ」ともいわない。いつであったか、山笠保存会の席で、どうして「ヤマガサ」というようになったのかと問題提起をしたところ、はっきりした事を知っている人はなく、話が進むにつれて、「ヤマ」といえばよいのだが、文字に書くときは、ただ「ヤマ」と書くだけでは物足らない感じがするので山笠と書くようになったのだろう。博多で山笠といっているから、その眞似をするようになったのだろうということだった。この話は恐らく事実に近いものだろうと思われる。しかし、唐津のヤマは博多の山笠とは形も全然違っているし、歴史的な系譜も別々なので、何も博多の山笠の名称を借りる必要はないと思う。ヤマの先祖である京都の祇園では、今も「山」(ヤマ)と呼んでいる。
 古い「ヤマゴヤ」が取払われて新しい格納庫が建設されることになった。誠に結構なことであるが、この格納庫に例えば「山笠格納庫」とでも書かれたら、それでヤマの名称まで半永久的に決定されると思うので、私は、この際特に「ヤマ」の名称を以前のように「曳山」または「囃山」とするよう提唱したいものである。
 以上は、昭和三十四年の飯田一郎氏の著書にある意見であり、唐津のヤマを愛する私も、もっともな意見だと思っている。

 なお、一たい、山笠とは何を指すかを吟味すると、山笠と唐津のヤマとは異質なものであることがわかるので、山笠についての一般書の記述を添付してみたい。
一、平凡社の世界大百科事典、巻二十八、四三六頁に、やまがさ=山笠 祭礼や舞踊のときに頭にかぶる装飾された笠。花笠ともいう。中でも有名なのは、福岡市の櫛田神社で行われる山笠で、毎年七月十五日の祭礼前には当番の町で、三メートル四方ほどの台に高さ三十メートルにも及ぶ心木を立て、周囲を色染めにした紙で包み、多様な装飾をこらす。これを六基(現在は七基)造り、当日早朝になると、山笠に御幣をつけて町民が半裸体でかつぎ出し、定められた場所まで駆けていく。これを追山(おいやま)といい、先着を競う行事である。

 そのほか、山笠という語は、葬式の野辺送りに、杖や草履と共に持って行く笠とか、葬式後の四十九日間、墓まいりに行く時に男がかぶる編笠についても「山笠」と呼んでいる地方がある。野辺送りに持参するのは、死者の死出の旅の装束というが、墓参のときの山笠は忌にこもる者の慎みを表わしたものと思われる。

一、平凡社大百科事典(昭和八年版)巻二五、四〇八頁。
  ヤマガサ=山笠 笠の一種、祭礼の時用いるもの。上に種々の飾りをつけてある笠をいう。

一、広辞苑
  山笠=祭礼の時など山に種々の飾物をのせた笠。

一、新辞源
  山笠=祭りのときなど、上にいろいろの飾りものをのせたかむり笠。

 以上の通りであるが、明治から大正時代の辞書には山笠という語彙は見当らない。
 博多の山笠
 博多のヤマについても山笠という文字を使うようになったのも、それはそれなりの経過があると思う。
 博多も祇園のヤマを表わすに京都と同じ文字は使いたくなかったろうし、まして、鉾とも書きたくなかったろう。それで、いつの間にか、誰かが山笠という字を用いたのではなかろうか。

而も当初は山笠と書いて「ヤマ」と呼び、「ヤマガサ」とは呼んではいなかったようである。その例として古い観光関係案内書などを見ると、山笠と書き「やま」とルビがつけてあるのがある。つまり当初は「ヤマガサ」とはいっていないと思う。それが時がたつとともに、博多ッ子以外の人も博多に移り住むようになり、また、新聞などが普及して、文字を忠実に読むようになって、ヤマガサというようになったばかりでなく、新聞も大正期まではルビ付であったが、昭和に入ると、ルビがなくなり、戦後になるとルビ付きの活字は殆んど使わなくなり、自然に「ヤマガサ」と読むようになったと思う。

 唐津のヤマについても同様と思う。第一次大戦後、或は、北九州鉄道開通の前後に、外部との交通が便利になり、人の往来が激しくなると共に、博多との接触は急速に深まり、自然と祇園山笠の見物や山笠の文字にふれるようになり、それが唐津のヤマにも安易に用いられるようになったことは考えられる。しかも、当初は山笠と書き、「ヤマ」とルビを付けていたので、読み方には誤りはなかったが、ルビがなくなってからは、文字の通り読むようになり、唐津の人々も山笠と書き、「ヤマガサ」と読んでも、別におかしく感じなくなったといえよう。

 つまり、急速に山笠が唐津くんちのヤマを表示する文字となり、明治初年に曳山を本命とし、引山・囃山と書いていた、くんちのヤマなどは忘れられてしまったといえよう。

 注1=唐津のヤマは山笠がふさわしいとの意見は、前述した通り問題がある。つまり、事典や辞典の山笠に対する解説は、殆んど笠に力点がおかれている。笠、つまり冠に近い唐津のヤマは兜山四台と獅子頭三台は笠の範疇(はんちゅう)と思うが、他の水棲物四台、飾舟二台、珠取獅子は冠り笠とは思えない。つまり、唐津のヤマをまとめて山笠「やまがさ」と呼ぶには無理がある。また、世界百科大事典にも述べられているように、山笠が葬式の野辺送りに持っていったり、墓参に冠る編笠ならば、なおさら唐津のヤマに山笠という文字を用いるのは避けるべきだと思う。

 注2=山笠の文字を使っている処は、博多・飯塚・田川・苅田・八幡等、福岡県内に限定され、佐賀県の一部に使っているにすぎない。


  (8) 京都祇園祭の山鉾と唐津の曳山

 祇園祭のヤマが作られたのは非常に古く、全国の祭に曳かれる山車(だし)・だんじり・ 曳山(ひきやま)・山鉾(やまほこ)・山笠(やまがさ)・屋台(やたい)・傘鉾(かさほこ)等はすべて京都祇園祭のを模倣したものだといえる。この意味で石崎嘉兵衛が祇園祭のヤマを見て、帰国のうえ、刀町のヤマを作ったことは確かであろうが、それが即赤獅子ヤマだと速断するのは早計である。
 祇園祭のヤマの中には観音・山伏・八幡・太子など人像がある。従って、これらを真似て右大臣・左大臣・天狗面・仁王などを作ったのならばうなづけるし、これらと似たヤマを作って曳いた時代もあったと考えざるを得ない。
一私案だが、神輿に従った走(はし)り山(やま)に張り子の右大臣・左大臣があったが、これらと同様、張り
子のヤマが刀町にあったのではなかろうか。そして、張り子のヤマが長期の使用に耐え得なくなり、永久保存使用可能でしかも工芸品として見ごたえのヤマをと考えていた時、藩主の交替が行われ、たまたま掛川出身の武士が掛川の祭に登場する大獅子頭(かしら)の話を伝え、それを参考にして刀町の赤獅子が作られたのではないかと考えている。

 掛川大祭には日本一大きい獅子頭があり、獅子頭の幕の中には三百人が入れる。獅子頭は雄二頭、雌一頭の三つで、雄には太く長い角があるが雌には角がない。唐津ヤマの金獅子赤獅子と同じ位の獅子頭だと思うが、奥行は唐津ヤマより短かい。面の後部に高さ一・五メートル位の面を支える車が二輌ついている。正面の方は男が三人位で肩に乗せ側面に一人づゝ同じように肩に乗せている。これを胴体の袋と一諸に綱で曳いている。胴体の袋は一メートル位地面から離れていて、胴体の支えには竹を用い、幅も高さも獅子頭の倍ぐらい大きく、その中に三百人も入って獅子舞をする。この獅子頭が張子で作られていて、これを参考にしたという話が城内の@士族の家に伝えられているということを飯田一郎氏から聞いている。

   注@ 城内の士族の話は聞いていないので調査する必要がある。(古老談)


  (9)長崎くんちと唐津曳山

 長崎市諏訪神社の祭は「おくんち」といい、おくんちの囃子方を乗せた出船・唐人船・蛇船等の曳山を華麗な意匠の絹物の衣類の美を競いながら町の巡路を曳いて廻る行事を執行する。
 此等の船型の曳山と唐津の蛇宝丸(七宝丸)、鳳凰丸の屋型船と関連はありそうだし、特に曳山の装束意匠については派手を競うよう唐津のハッピや半纏(はんてん)との結びつきは博多祇園祭の単一色のハッピとは関連はうすい。まして、ヤマという呼び方は博多の山笠とは結び付きは感ぜられず、長崎の曳山と同文字を用いている点等を考えると、ヤマに関する限り、長崎と唐津の関係は深いと思う。
 米屋町の酒呑童子の硝子の眼球は明治二年の混乱期にどうして入手したかは大変面白い。一説には長崎から求めた金魚鉢を二つに切って眼球としたという。また、一説には長崎蘭人使用の金魚鉢を譲りうけたともいう。
 なお、長崎には幕末には、すでに硝子工場があり、其処で別誂したとも考えられる。

  (10) 
山笠から曳山への変更の経緯

 前述の通り、県重要民俗資料に指定された直後から、飯田一郎氏は学究としての良心に従って、曳山妥当性を発表すると共に、山笠保存会の会合にも数回出席されて「ヤマ」の名称の歴史を説き、自己研究の結果を説明して会員の啓蒙に努力されたのであるが、早急に改字に踏切る事はできなかった。しかし、たまたま、昭和三十九年「美わしき日本博」が宝塚市で開催された際、ヤマ四台が出陳されることになった際、「山笠」を「曳山」と改ためられた。

 しかし、この事を決めた会合の通知の写も、この時の議事録も発見されないのは残念である。ただ、昭和三十八年十二月十日の県文化課宛の出陳許可願には、山笠保存会の文字を用い、同年十二月二十二日の出陳町の承諾書には曳山出動準備会の文字を用いて、唐突に曳山の文字を使用しているが、この間の十数日間の動きはさっばりつかめない。

 神社総代会の方も、変更決議の議事録等保管してあるかは不明の様に思うにかかわらず、昭和三十九年四月一日付唐津神社社報に「山笠の名称変更について」の標題で、今回宝塚への出動を期して、従来の山笠の名称を曳山と変更すると、正式に公表している。

 そして、其の理由とするところは、歴史的考証によるもので、このことについては、去る昭和三十四年に県文化財専門委員である飯田一郎氏が詳しい論文を発表しておられるので、ここに転載させていただく事にすると示してあるだけで、変更を何時決定したのか、重要民俗資料の指定をどうするか等は漠然とした記事であったが、すっきりしなかったが、この記事を喜んで読んだばかりでなく、昭和四十年曳山取締会の顧問に推薦されてからは、会う人ごとに、「ヤマガサ」でなく「ヒキヤマ」に文字が変っていることを力説してきた。

 注 かつて、博多新天町の招請に従って三台のヤマを福岡に出動した時、当時の花田総取締に「あなたは困った事に、ヤマガサと言っていたようですね」と尋ねたら、「いんにゃ、『ヤマ』といいよった」と返答されたので、「それじゃ、山笠と書いても、『ヤマ』と読んで『ヤマガサ』と言わん方がよくはないか」と、申上げたほどであった。
 このヤマの表示変更後、本部役員の法被も曳山の染抜きに別誂えされ、襟も曳山の染抜に漸次変更されてきたが、一般の人の口から出る言葉は山笠の方が、曳山よりも多く耳に入り、山笠、曳山名称混在時代をもたらし、混乱の極に達した。

 前述の法被の染抜きは曳山となっても黒襟の一部に山笠取締会の文字が残っているのも見受けられ、また、ヤマ修繕の補助を申請するのに、県へ提出する分には山笠所有者としての唐津神社宮司の名で、山笠修繕費の補助を申請するかと思えば、市への補助申請書には曳山と表示して、十年間文書を作成している例があり、さらに、曳山展示場開館後、案内表示に山笠の文字を使っていたり、展示場の曳山説明の案内テープの中に「ヤマガサ」との言葉を用いたりが見られ、管理者も行政当局も安易に両者を用い混用に拍車をかけている実情である。

 先年前皇太子殿下御来唐の際、ヤマの説明をした市長に「ヤマ」「ヤマガサ」「ヒキヤマ」のいづれを用いているかの御下問に対して、「忘れたけど、早く統一して欲しいと思っております」と御返事申し上げたのを聞いたことを記憶している。
 此の間、観光協会は唐津観光ポスターに、唐津曳山を用いるなどして、曳山の名称宣伝に努力するほか、当地以外発行の観光案内書等に、旧来の山笠の文字発見のときは、其の訂正を要請するなどして、曳山名称の宣伝に努めているのは評価されるべき事と思っている。

 この努力が効果をもたらしたのか、昭和四十七年十一月十五日、秋田書店刊行・萩原龍夫監修「日本のまつり一〇〇選」に唐津おくんち(曳山)の標題で、二百にわたり写真入りで説明してあり、曳山の名称も安定化したかと喜んだが、内容を読んでみると、ヤマ (曳山・山笠)と表現されている箇所があり、まだまだ、曳山の名称は安定して周知されていないと悟らざるを得ないと思わざるを得なかった。

  (11) 名称変更運動のあらまし

 当初記述のような事情で、昭和四十七年唐津神祭後の十一月下旬岩田教育長と相談し、県教委の意向を打診したうえ、文字変更が不可能でないことが判明したので、昭和四十八年二月、曳山取締会総取締の名で、曳山と改字方依頼の陳情書を市教育委員会の副申をつけて県教委会へ提出した。

 申請書が簡単で資料など添付書類も少なかったので、ヤマの歴史に通暁し、資料も保存されている唐津神社宮司戸川健太郎氏に、援助を願ったところ、快諾のうえ、二十八日市教委諒解をとって県教委に提出した。

 其の写しを見て、ヤマの所有者が唐津神社であることを知って自分の無知に恥入った。さらに文化財専門委員に渡す資料として、昭和三十九年四月一日付唐津神社社報と岩松要輔氏稿「末盧国」所載「唐津曳山」、世界百科大事典所載「山笠」の解説欄各十五部のコピーを二月二十九日尾花総務持参のうえ、進藤坦平氏に配布方を依頼した。さらに、別に唐津神社宮司提出の申請書及び資料のコピー一括した書類を進藤坦平・市場直次郎両氏に届け、また、唐津市在住の県文化財専門委員栗原慶義に特別の御助勢を依頼した。また、六月十八日、岩田教育長・戸川宮司・脇山曳山総取締・溝上同副総取締と私の五名が県教委担当者・県文化財専門委員長の鹿島市住の星野氏を訪ねて、曳山への訂正の必要性を説明した。

 六月二十九日開催の県文化財専門委員会で満場一致で山笠を曳山への変更は可決された旨の通知があり、七月二十三日開催の県教委定例会に於て前記可決案件を満場一致で承認された旨、非公式に通知あり、七月二十三日付で変更許可証が八月七日唐津教委を通じて唐津神社宮司へ伝達された。

 これで、長期間の混迷期を離脱して、唐津のヤマは漢字で表示する時は「曳山」一本に統一されることに確定されたのである。
 昭和三十九年四月一日付の唐津神社社報で、「曳山」に変更が正式に決定したと報じてから十年目、飯田一郎氏が史的考証をもとに研究し、ヤマの名称を曳山とすることを提唱されてから十五年目であった。この間、前述のとおり、重要民俗資料の指定に努力された当時の山笠取締会総取締花田繁二氏が宝塚出動の機会をとらえて疾風迅速、抜き手も見せず山笠を曳山と名称変更に踏み切られた勇気と努力には深々と敬意を表わしたい気持で一杯である。また、この運動に尽力をされた方々にも謝意を述べたい。

   六、ヤマのいろいろ


  (1) 傘鉾(かさほこ)とふとんやま

 長崎市をはじめ、長崎県内に非常に多く、唐津でも宝暦年間唐津神社神輿に従った記録がある。京都でも貞観十二年(八六九)疫病流行を祓(はら)うため六十一本の鉾と神輿を神泉園にかつぎこんだ記録がある。これは庶民が山(ヤマ)を造った一条天皇の長徳四年(九九八)に先立つ百三十年前である。このほか、八代市妙見祭には城主より笠鉾が奉納され祭に加わっている。長崎の諏訪神社のおくんの傘鉾は一人でかついで巡行に加わる。
 ふとんやまは番台の上に布団を四枚矩形に敷いて囃子方を坐わらせ、之を直角の棒をつけ、四人でかつぎ巡行するものである。これに類するものとして、広島県安芸郡重尾の秋祭の「ふとん山」と兵庫県津名郡津名町加茂神社の「ふとん山」がある。

  (2) 山 笠(やまがさ)

 博多、祇園山笠をはじめ、博多周辺のものは山笠と表示し、「ヤマカサ」と呼んでいる。唐津周辺では唐津に習って山笠と表示しながらも「ヤマ」と呼んでいるが、最近は「ヤマガサ」と呼んでいる。なお、福岡県文化財専門委員会は、博多祇園山笠について、「ヤマ」と呼ぶならば笠の文字は必要でないと答申したと報じている。

 唐津周辺のものの表示と呼び方を列記すれば、
 湊八坂神社祇園祭  山笠(やまがさ)
 唐房八坂神社祇園祭 山笠(やまがさ)
 西唐津妙見神社   飾り山
 屋形石八坂神社   山笠
 呼子町小友八坂神社祇園祭 山笠(ぎおんやまかさ)
 鏡鏡神社      山笠
 肥前町納所     山笠
 北波多村波多八幡神社  山笠
 相知町熊野神社   山笠
 浜玉町諏訪神社祇園祭  山笠
 鳥栖市八坂神社     山笠
 杵島郡白石町八坂神社  山笠(ぎおんやまかさ)
 小城町須賀神社     祇園山笠(ぎおんやまかさ)
 多久市         山笠祇園祭


  (3) だんじり

 楽車・山車・段尻・舞車・台躙・車楽とも書く。
 愛媛県西条市西条祭の「だんじり」(屋形・神輿型のヤマ)がある。大阪府岸和田市のだんじり。岡山県牛窓町牛窓神社秋祭の船だんじり。屋形だんじり。広島県坂町八幡神社秋祭の屋形型の曳船をだんじりという。佐賀県伊万里市トンテントン祭のだんじり。
 以上のものが「だんじり」と呼ばれる。

  (4) 
屋 台(やたい)

 埼玉県秩父市の秩父夜祭の屋台
 飛騨高山市の高山祭の屋台
 富山県高岡市関野神社春祭の御車山を屋台とも呼ぶ

  (5) 山 鉾(やまはこ)

 京都で、ヤマができたのは新嘗祭に作った山(やま)で、藤原時代に民間人が神社の祭礼の巡行に従うために作ったとされる。

 応仁の乱にこれらの山が焼失したのち、庶民の意気を示すため山を作り、さらに鉾を立てた屋形山をつくった。

 現在二十一台の山と七本の鉾、或は七台の鉾山と合せて二十八台の山鉾が八月の祇園祭に曳き廻わされる。
 山鉾の文字や呼び方は京都にだけ使用される名詞であって、これを唐津のヤマにあてはめるのは適当でない。或る唐津人が曳山展示場の説明書の一部に山鉾の文字を見て、唐津のヤマには鉾に似た構造はないのだから、唐津で山鉾の文字を使用しているのを不似合と強く批判したがもっともの事だと思う。

  (6) 
山 車(だし)

 岐阜県高山市の春の山王祭の山車・秋の八幡祭の山車、これは屋型にからくり人形を積載する。高山屋台会館に陳列してある。
 愛知県半田市神田前神社潮干祭の山車、これは屋型である。愛知県、三重県、岐阜県等に山車が多い。
 昭和五十年十一月三日三笠宮殿下、同妃殿下が曳山をご覧になったが、妃殿下は五十一年の新年お歌会に勅題「祭り」に

  我もまた祭に酔いぬ獅子の山車
  兜の山車と続きゆき見て

 と歌われた。この歌は曳山展示場前に歌碑となっている。


    七、曳山よもやま話


  (1) お旅所

 唐津神社の縁起によれば、西の浜で神田宗次が宝鏡を得たのは天平勝宝七年九月二十九日であり、この日を神祭日と定め、西の浜御旅所まで御神幸が行われる。御旅所は北向きが正しく、御神輿も北の海面に向って置かれるのが正しい。@昔は御旅所は旧西校地の西北隅の砂丘上にあったが、海岸道路と大成小学校の新設のため、現在のように南向きになっているが、これは縁起にもとるものであるから北向きの海の見えるような御旅所にするのが望ましい。

 一、 初くんちは中国では重陽の節で野外へ家族連れ立って遊覧を楽しんだ日で「くんち」と呼んだ。長崎くんちは九月九日、唐津くんちは九月二十九日。唐津の初くんちは九月九日で長崎くんちと同日である。
 一、 旧時代には十月二十五日を神輿飾りの日に決めていたが、昭和四十三年に氏子たちの営業上の関係や観光客誘致の上から十一月三日を御旅所行きの御神幸と定め、旧時代の御神幸日の十月二十九日を神輿飾り日と定め、その日から神祭が始まるとした。なお、旧暦(陰暦)時代には太陽暦の十一月三日が陰暦の九月二十九日に当ることもあるので、昔でも十一月に神祭が行われたことは、水主町のヤマの奉納が十一月になっているのでもうかがえる。

  注@御旅所はそのまた昔には、もと海辺にあって北向きに御輿を据え申し、その南の両側に曳山をならべている。(古老談)

 (2) 曳子の服装

  曳子の服装というとたいていの人は、江戸腹(えどばら)、パッチ・コテというが、江戸腹とは江戸の腹掛のことで、ももひきをパッチと呼ぶ関西地方の用語であり、パッチは木綿布地よりましな布地を使用するばかりでなく、仕事用は長く、旅行用は多少短かくする習慣があり、火消組の服装にはぴったりであった。コテは剣道防具にコテがあり、角力界には「コテ投ゲ」の手があり馴染みの深い名称だが、紐がついていて肩から首の背後まで廻して二本結び合わせるようになったものは風俗事典によると腕抜き(うでぬき)と説明されている。
 昔の江戸の町火消組の大半は鳶職等であったので、其の服装は質素で、布地は専ら木綿を用い、さらに汚れの目立ちを防ぐ意味で黒又は濃紺染を用いたようで、肌に直接触れる部分のハラガケ・モモヒキ、タビ、ウデヌキの類は黒又は濃紺で統一されている。
 それが近年足袋だけ白いのを履く町が段々増えているのは万国博博覧会に曳山囃子演奏出場のとき、白足袋を履いたが、その後、曳山曳きの折の服装として使用したのに始ったという説と、富野淇園の画く神祭行列図に刀町の曳子たちの白足袋姿が画かれているのを刀町の者が、百五十年祭に白足袋を着用したのに始まるとの説があるが、伝統を守る立場からすれば問題である。
 現在は洋服が普通で足袋を着用することはまれで、神祭の時だけ用いるようになった。神輿に供奉するのだから白無垢を表わすため白足袋を着用して悪いとは思わないし、中学生の曳子たちは足袋草履でなく白色運動靴を履いているのも黙認されている状態であるから、このさい、白黒の混在に終止符をうつ意味で、どちらかに決める必要がある。

 
肉ジバンについて
 曳山展示所に曳山の手入れにきた若者に滝下氏が肉ジバンは何かと尋ねたら、二人が腹掛を指し、肉ジバンと呼んでいるハッピを教えたという。
 肉ジバンといっても、京阪神の染物屋では首をかしげるものであり、肉ジバンと呼んでよいか、どうか、取締会で検討すべきだと思う。
 また、曳子の服装で、ハッピと呼んでいるのは半纏(半天)というのが本当で、風俗事典にも火消半天・大漁半天など、身丈の長いのが半天と書いてある。昭和五十一年八月、東京鳶職連中がパリーで悌子上の芸を披露したとき立会った棟染の服装の写真を中野陶痴氏に示して、これが半天だよと説明したら、中野氏も同意された覚えがあるので、正しい呼び方に訂正すべきだと思う。
 ハッピやハンテンの模様は時代とともに変化している。昔はハッピの帯紐は町内毎に同一柄の博多織だったが、近年は多少紊れているようだ。
 草履は滑らないよう、昔は麻裏に限り、緒色は赤白の縄型が多かった。鉢巻は各町別に揃いのものを用いていた。

 参考
 
肉襦袢(ニクジュバン)=大言海に「ニクイロの、ジュバン」。直接膚につけるジュバンと書いてあるだけで、世界大百科事典、風俗事典にも説明はない。長崎くんちの唐人船、蛇船、鯨の汐吹き等の船型の曳山に乗る人、曳く人の華麗なくんち衣装の最下着、つまり直接膚に着るジュバンを「にくじゅばん」と称していると岩下正忠氏は長崎くんち保存会長よりきいたという。また、彼は肉じゅばんは万屋町の鯨の汐吹きの踊り子が彩色の肉じゅばんを使用しているが、昔から着用したのではないと主張している。

 
法被(はっぴ)=大言海に半臂の転化したもので、印入又は家紋入りの短衣。紋入りの短かい着物の意味で、武家奉公の奴が常用したものを称した。同様なものでも少し袖口が狭くなり、身丈が長く印入りのものをハッピと呼ばず半纏といっている。
 ただし、京畿地方では半纏は下級民の着用するものという習慣もあるが、江戸では特別な火事場等では町火消組の人々は法被の上に火消半纏を着ることもあったと記す。
 世界大百科事典には法被は衣服の上に着る短衣で羽織に似ているが襟が折り返えされていない。
 法被は下級武士も用いる事があり半纏より格の高いものである袖は広袖で半纏より袖丈が長くできている。通常胸に乳(ち)がついていて紐で結ぶようになっている。背に紋がついているが、染抜きのほか、紐を置縫いしたものがある。紋のついた法被を看板という。外に能の装束に法被と称するものがある。

半纏(はんてん)=大百科辞典には半天、衣服の一種、羽織の類にして紐のないのと、襟の返えりがないことが羽織とやや異っている。民間における最も略式の防寒服とされている。なお、目印のため商標等を染出した印半纏、鳶職が火事場で用いる長半纏、ねんねこ半纏などがあると記す。

肉襦袢についての私見
 大言海に肉襦袢についてふれているほか、他の事典には記事はない。或る長老にたずねたら、神田祭の意匠を真似たというが、神田祭のは法被で肉襦袢ではない。
 大阪の夏祭には腹掛(腹当)、パッチ、腕貫と同色の祭の装束襦袢を着けている。そして、夏は近所の魚屋などが同じような印入の襦袢を着て商売しているので、この印入り襦袢を肉襦袢と誤ったのではないかと思う。或は現在の法被のように袷せにならぬ前の巣衣の法被時代(法被は単衣で家紋などを染抜いたもの)腹掛・股引・腕貫を持たない幼少年に襦袢と同様じかに膚に着たが、その膚襦袢がたまたま肉色又は肉色に近い染色だったので、誰かが肉襦袢といったのだろうし、また、幼少の時の呼び馴れた呼び方が成長してからも、法被を肉襦袢と呼んでいるのではないかと思う。
 私の幼年時代は棒縞の羽織を着て曳山引きに連れられたことは記憶にあるが、色地の法被に似たものを着た記憶はない。
 京阪の呉服染物業者の大半は肉襦袢といっても説明なしでは理解してくれない。つまり、唐津の肉襦袢は他地方には通用しない呼び方であり、肉襦袢は法被と呼ぶべきだと思う。

 
法被(はっぴ)
 浜松祭は毎年五月一日から五月五日までに行われる。この時、町内ごとに揃いのハッピを着た青年達が中田海岸の砂丘で自慢の大凧をからみあわせる勇壮な糸切合戦は見事である。
 この時着るハッピは色々の印を染め黒襟に町の名を染抜き、唐津くんちに若者の着る法被(はっぴ)(従来はにくじゅばんと呼んでいる)とそっくりで、また、その上腕(じょわん)に腕貫(うでぬき)をはめているなども、唐津くんちの曳子の服装と同様である。 つまり、唐津くんちの曳子の服装の「にくじゅばん」は法被と呼ぶのが正しいことを示す。
 次に、文芸春秋の昭和五十一年九月臨時号ふるさとの祭の田村隆一の「唐津くんち」の紀行文に「藍染めの腹がけにモモヒキ、そのモモヒキも足ンところでピンとしていて、紺の足袋とモモヒキの裾のすき間が指一本ぐらい空いているという凝り方、それに寺のシンボルマーク鉤十字をあしらったデザインのハッピ、茶の細帯をしめて、背中にワラジをたばさんでいる。」
 と、曳子の服装を述べている。これにも「にくじゅばん」は法被として紹介している。

  
半纏(はんてん)
 さ・さ・え・ら書房発行・菅原幹道著「まつりとこども」の「おくんち」の標題で、唐津くんちの曳山行列の有様を紹介している。その文中に
 「すきとおった秋空のもと、華やかな太鼓の音に乗って、エイサ・エイサのかけ声も勇ましく、町のとしよりのさいはいにしたがって、そろいの「はんてん」ハチ巻きすがたの少年たちが十四台のりっぱな曳山を引いて唐津神社から町中をねり廻ります。」
 と、記している。恐らく著者は子供の着ている法被(はっぴ)を半纏と感違いしたものであろう。

   (3) 
垂れ幕

 垂れ幕は曳山の主体である工芸品と台車との間の空間をなくするためと工芸品の補完作用のために意匠を凝らして作られた種々の模様を染抜き、または、染付けて作られたものである。
 それが進行中は幕の裾が風のためもあって太鼓の揆や笛の竹紙や手に触れて囃子方の邪魔になるので、その部分だけまくりあげたり、芯棒(支柱)に結びつけたりしているが、先般仏国ニース出動の鯛ヤマが進行中幕の全部をまくりあげたため、折角の水玉模様の幕が見えず鯛だけ空中を游いでいるように見えて拙づかった。唐津くんちの時にも同じ状態が出現し、外の曳
山にもそんな場面が見られる。@この事をよく考えて垂幕の使命用途を十分いかすべきである。


  垂れ幕の絵模様

 米屋町の垂れ幕は明治十六年作富野淇園作神祭行列絵図では、青色の地に締め縄の染抜きになっているが、現在のものは麻地に黒色の締め縄を染付けてあったが、明治二十六年塗替えの時変更したのではないかと思う。
 締め縄は慶祝の場合お祓いの場合に用いるが、米屋町の場合は頼光四天王の第一人者である渡辺綱の綱の意味も含めて単なる綱だけでは淋しいので締め縄にしたのではあるまいか。幔幕と古い提灯の意匠も同じである。
 水主町の乗れ幕は淇園の描く絵では生麻地に黒染(又は墨)で水玉と波頭の模様を表示しているが、現在は青地に水玉と波頭の染抜きに変っている。
 大石町の垂れ幕は淇園の絵図では白生地(麻か木綿かは不明)に墨の染付で水玉模様が描かれているが、現在では青色の地に白の水玉染抜きとなっている。

 注1 曳山の進行中は幕が風にヒラヒラしていては曳山はできない。幕をまくり上げるのは格好悪いが危険防止上やむえない。しかし、曳山が並び終えたときは幕は奇麗に垂れ下げるべきである。
                                    (古老談)

  (4) 提灯の紋章

 十四台の曳山が挙って提灯をつけたのは明治の中頃以来で、宵山の提灯は昼の曳山と別の美観を呈する。
 さて、この提灯には各町の標識である紋章が付いている。
 曳山の順に言うと、刀町は「刀の柄」模様、中町は「中の字」模様、材木町は「三桝」、呉服町は呉の文字に因んで「五線」、魚屋町は「鯛」、大石町は町内和親提携を表す「金輪」、新町は「三階菱くずし」(又は、稲妻)、本町は「左巻」、紺屋町は「コの字」模様、木綿町は「武田菱」(又は鎖ともいう。昔、火消組があった頃、木綿町は鎖を持って曳倒し組であったので、これに因んでいるという)、平野町は「ヒの字」模様、米屋町は、米と藁に因んで「七五三縄」、京町は「京の字」模様、水主町は「水の字くずし」、江川町は七宝丸に因んで「宝珠の玉」となっている。
 しかし、材木町の三桝や新町の松葉(或は稲妻模様か)、本町の左巻き等は、その由来を未だ詳にしない。
 しかもこれらの模様を調べてみると、此の模様は山笠製作以前のもので各町に火消組ができた頃からのものらしい。その理由としては、徳川八代将軍吉宗は時の名奉行大岡越前守の建白を入れて享保五年江戸市中火災防止の為に、いろは四十七組の火消組を編成したが、唐津でも元文、寛延の頃には火消組ができあがったと思う。
 唐津神社記録には九月十九日の神祭神輿渡御に際し、宝暦年間惣町より傘鉾山を出したとあり、又、社伝には神祭に際し、宝暦以前には火消組が警固供奉の任に当っている。それによると、当日は江戸と同様十六組が編成されたようで、城下町成立の順番に「いろは」を付した。い組本町、ろ組呉服町、は組八百屋町、に組中町、ほ組木綿町、へ組材木町、と組京町、ち組刀町、り組米屋町、ぬ組大石町、る組紺屋町、か組新町、よ組江川町、た組水主町という順に火消組ができている。
 以上の中、刀町のち組、米屋町のり組、平野町のわ組、江川町のよ組、本町のい組、八百屋町のは組、木綿町のほ組、京町のと組の八か町には、火防道具の頭巾や絆纏や龍吐水や纏等に之等の仮名文字が確に記してあったと古老たちは伝えている。
 こうした纏、鳶口や高張提灯・龍吐水等が次第に整えられ唐津城下惣町の火消に当るようになり、また、唐津神社の火伏せの霊験に応えて、神祭に火事装束に威儀を正して神輿のお伴をしたのであろう。
 そして、此の頃に今日伝わっている提灯の絵模様等も考えられたと思われるが、如何なる理由で発意されたかは明らかではない。之の模様が纏の頭に付けられ、火消しの意気を示し、延いては町民の心のまとまりを示すしるしとなったのであろう。
 こうした火消組のお伴から前記の傘鉾山になり、水野藩時代の享和文化頃からは走り山となった。これは囃子もなく掛声のみで荒々しく曳き走るのみで、途中で破損して大急ぎでカッチンカッチンと叩き修繕をして、また、走り出すという殺風景なものであったが、それでも江川町の鳥居、塩屋町の仁王様、木綿町の天狗様、本町の右大臣、左大臣、京町の踊り屋台等見るべきものもあった。
 それから小笠原公入部の翌年文政二年初めて刀町の赤獅子ができ、中町の青獅子、材木町の亀と宝珠、呉服町の兜、魚屋町の鯛とでき上り、此の頃までは走り山と併せて曳出されていた。
 こうした走り山も次第に廃せられて今日の様な曳山になって行ったのだが、刀町の赤獅子創始の頃此の火消組の標識の模様を曳山の提灯に移し、これが今の曳山の提灯の絵模様であろう。
 こんな具合で火消の心意気と曳山曳きの気分とは何か相通ずるものがあって、唐津では「曳山と火事のことなら俺にまかせとけ」と言った様な勇み肌の江戸腹掛けの似合う兄ニイ″連中が町々には必ず居るようになった。之を「火事山進」と称した。火事も曳山も「若ッかし」の独壇場になった。そして、それかどうかわからぬが、この提灯にも必ず町の頭文字をとり「何若」と書くようになった。
 さて、話を宵山にもどすが、私共の幼い頃は、曳出しが夜中の一時頃で、町々は暗く、また静かで、もっともっと寒かったように思う。それが、山囃子や提灯の趣きを味わうには格好な雰囲気であった。それに栗強飯の香りもして私どもは嬉しさと寒さで歯の根も合わず宵山を見に行った。大人になった今でも、町々は明るくなり騒々しくなっても、この気持は変らない。
 こうした宵山の提灯にも各町それぞれの付け方があって、例えば刀町、材木町は高張りを用い、呉服町は錣の下に一列に、大石町や江川町は船と屋根の二段付け、また、刀町や中町は一本の青竹を幾つにも割って多くの提灯を付けている。それ故、提灯の付け方と囃子ぶりだけで、曳山の姿がはっきり見えなくても、何町の曳山だとすぐにわかるものだった。

 続 
曳山の提灯
 曳山の提灯の絵模様について、八百屋町と魚屋町の分に次のようなことが判明したので付記しておく。
 八百屋町の提灯の絵模様は八の字の構えの中に百の字を入れて図案化して八百を表わしたものであることを新町の野口氏によって確かめることができた。
 八百屋町は別記の如く、三ッ尾金魚の曳山を作るつもりで台車を作っていたが、遂に完成には至っていない。
 魚屋町の提灯の古い絵模様は「ウ」の字を横にして図案化したもので、魚屋町の頭文字を取ったものと思われるし、魚屋町の坂本取締の話によれば、現物が東木屋の長持に保存されており、昭和初期現在のものに変えられたという。
 なお、提灯の絵模様については、この外、いろいろ考えねばならぬことがある。材木町の三桝、新町のが三階菱か稲妻か、本町の左巻、木綿町のが鎖か武田菱か、人それぞれ見解があり、今後研究すべき事項だと思う。注=昭和三十七年唐津神社社報参照



   (5) 
曳山小屋

 文政二年、刀町の赤獅子ができてから各町に曳山ができるたびに、これを格納する倉庫が必要となり、@各町は適当な格納庫を町内に建てて格納した。
 これを「ヤマゴヤ」と称し、直射日光をできるだけ防ぎ、雨漏は勿論のこと、多湿を防ぐよう工夫した。
 明治二十八年、肥後堀の一部を埋めて架橋し、現在の国道と明神小路を連結して明神小路の道巾を拡張したとき、現在の明神ビル建設用地になっている余地が出てきた。それで曳山小屋を神社に近い所に移すことにより、各町内のヤマゴヤをなくすることができ商業地の繁栄にもつながるという理由と、神社近くに常時ヤマを置くことは神社奉納の趣旨にも叶うということで、商店街が先達となって、神社通りの同地に、刀町、中町、呉服町、魚屋町、新町、本町、木綿町、平野町、米屋町、京町等、町域の狭い町と商店街の町が、自分の町の曳山に似合うヤマゴヤを建てて曳山を格納した。
 しかし、年を経てヤマゴヤも老朽化が進み、危険にも瀕し始めた。また、各町内に曳山を残置している、江川町、大石町、材木町、水主町の四町のヤマ小屋も、同様に老朽建物となったが、これを各町別に改築するには戦後経済復興期であり困難な事情もあった。
 しかし、曳山は県の重要民俗資料に指定され、保存が重視されるようになったこと、戦後の観光資源として曳山の存在が高く評価されだしたこともあって、市も曳山の保存については真剣に検討しだした。この気運を配慮して、取締会は市と接衝したところ、市は全面的に理解して、全額市費で、Aブロック建鉄板鎧戸付の堅牢なヤマ小屋が昭和三十六年竣工し、山笠格納庫と命名され、従来のヤマ小屋のイメージからはかけ離れた立派なものとなった。
 この時、十四台全部を格納するには社有地だけでは狭まかったので社有地の南続きの樋口氏の建物の一部を提供していただいたことは感謝に堪えない。また、当時の山笠取締会の総取締で山笠保存会長の花田繁二氏以下執行部各位の努力に各町内の役員は感謝の意を表した。
 其後、観光資源としての曳山の存在は、ますます重視されるようになり、常時参観の要望がわきおこり、そのため、施設の整った建物に展示場をつくれとの世論が出始めた。この時、文化会館建設が急速に進展し、これと関連して文化会館の一部として曳山展示場を建設することになり、昭和四十五年十月現在の曳山展示場が完成した。これで市民及び観光客はいつでも曳山を参観できるようになった。
 しかし、この展示場も曳山保存の上からは建設時予想されなかった幾つかの問題がおきている。特に展示場の夏季の高温化は、現在のように簾だれ通風の対策では漆の損傷を早め、支柱や木組さえも傷める恐れがあるので、科学的な改善を急ぐべきだと思う。
 なお、B旧山笠格納庫は曳山展示場ができた時、地主である戸川健太郎氏に払い下げられたが、戸川氏は建物と土地を神社法人唐津神社へ寄進されている。


    注@ 明治時代の各ヤマ小屋の所在地
    刀町=八百屋町通西側、刀町の三ツ角より二軒目東向。
    中町=大手通より南行西側家並の四軒目、東向。
    材木町=大石町に南行する西から三番目(材木町の中心部辺り)
          三叉路の南西の角、北向。
    呉服町=京町境南部、旧於釜屋酒屋の北側。
    魚屋町=最東端四ツ角の西北の角、南向。
    大石町=天満宮参道の東側、旧舞鶴座の南附近。
    新町=中央三叉路八百屋町よりの突き当り、東向。
    本町=高徳寺前、今の本町但楽部あたり、南向。
    木綿町=
    平野町=現在の藤松眼科医院敷地内、南向。
    米屋町=行因寺前、東向。
    京町=高砂町(京裏町)吉富裏辺り、南向。
    江川町=中央四方交叉点角東北(神輿路の曲り角の四ツ角)、南向
    水主町=大石権現社構内
    紺屋町=現在の常盤屋旅館駅前通面、角家三島家の南接地、
          表口二間位奥行二間位、中二階のあった金丸氏家。

 注2 昭和三十八年、山笠格納庫が改築された折、曳山は一時和多田の玄界興業跡の倉庫に移されていた。
 注3 明神小路にヤマ小屋があった頃は各町内は神社に地代として年拾八銭を納めていた。



  (6) 
神祭行列絵図

 此の絵図は山内小兵衛蔵六が大町年寄在任中の思い出を偲び、当時(藩政末期)の風俗を画かせて、自ら観賞したものである。また、息子幸之助の健康を祈って相撲取に息子を抱かせた図や京町水主町江川町の三台の曳山は時代や風俗も違っているのを藩制末期の風俗に溶け込ませて挿入した箇所もあり、必ずしも一定の時限に固定されていない点もある。さらに、ハッピ等の装束も詳細に検討すると、幕末から明治十四年頃のものまで混在しているようで人物のチョンマゲ、帯刀姿は明治四年に廃刀令が出ているので、それ以前のものである。恐らく幕末時代を想定して画いたものであろう。鯛ヤマの脇に帯刀裃衣を付けた人物は山内小兵衛と草場三右ェ門らしく、二人とも町年寄・大町年寄を経験した人でこの二人は画面の重要人物だと思う。
 画かれた時が明治十六年であるので小兵衛の長男幸之助の元服を記念した意味も含めてあるのではないかと調べてみたら、幸之助の姿は相撲取に抱かれているのに認められた。
 以上のことを勘案すると絵図は幕末と幸之助が化粧まわしを着けて相撲取に抱かれた明治八年前後と絵図を画いた明治十六年の三時代を併せて描かれていると考えねばならぬ。
 絵図の風俗=町年寄や苗字帯刀を許された人達は裃をつけ其の居住町の曳山の脇について御神幸に従っている。
 曳子は腹掛、股引、腕貫、足袋の町火消装束の姿であるが、ハッピは今日のように同一意匠のものでないのは注目される。
 魚屋町と刀町の曳子だけが白足袋を履いているので、総行事の町に当るからではないかと、神社の宮司に尋ねたら、魚屋町と刀町が同じ年に総行事になる事はないとの返事を得た。白足袋は藩政時代、苗字帯刀を許された者のみに許された一種の階級制を表わすシンボルである。また、白足袋をはける人達でも登城には白足袋は許されていない。
 従って、絵図が描かれた時代は新政府誕生で、白足袋を制限することがなかったので、好奇心から履いたのではなかろうかと思ったが、さらに検討すると、依頼主の山内が白足袋の優越感を示すため、苗字帯刀者だけでなく、町内全部の曳子達に白足袋を履せた絵図にしたのではないかと推量している。また、刀町は小兵衛の妻の実家である篠崎氏が町年寄であり苗字帯刀を許され藩とも特別の関係があったことから、魚屋町と同様な立場から白足袋を履いた曳子を描かせたのであろう。このように考えるのは、この絵図は私的なものであったので、あえてこのような自己満足の描き方をしたといえる。
 宮相撲の土俵や幕の内弁当風景が描かれているのは嬉しい。曳山の垂れ幕や弁当を開く幕の内を作っている幔幕等に現在の幕と意匠の違ったものや染色の異ったものがある。これらの図は時代考証に役立つと思う。
 兜ヤマ三台に戦将を表わす幟旗が立っているのは面白い。米屋町の酒呑童子と頼光の兜に幟旗がないのは当然である。このヤマは頼光が大江山の酒呑童子を退治した時をあらわしている。その時頼光は変装していたので将旗をもって行くことはないので、米屋町には幟旗はないのは考証に合う。
 神輿と其の従者達の行列の位置順序と違っている様に思えるし、大石権現の神輿が描かれていない。幕末にこんな行列をしたか、どうか。鯛ヤマを主題に描くため故意に神輿の列を後退させたと思われるので、この点研究が必要であろう。
 曳山の本体の上にハッピを着た若者の姿が一つも描いてない。本体の上部のマンホールは大手門や名護屋口の関門を通り抜ける時と途中の樹木の枝や軒先等を避けるために腰から上を出すために造られたもので障害物が無ければ上体を出す必要はないはずだから浜の引き込みの際はおりて綱や梶先に着いたものである。現在は革毎の上に乗ったり、足で踏むべきでない処に登って采配を振っている姿は本来の神祭行列の主旨に反すると思う。つまり祭り行列は本来厳粛であるべきで、格好よさや観光客に迎合すべきでない。

 注=宝暦十三年の文書に「城内唐津大明神九月二十九日祭祀の節、西ノ浜へ神輿の行列御座候、故寺社役の内より一人同心■■■■相勤、目付並組足軽致出役候。惣町より傘鉾等差出於西ノ浜角力有之候ニ付代官手代組頭の立会差出候とある」この者たちは藩主の交替があっても先例に従って参加しており、この絵図にも大名行列の先鋒である露払いや挾み箱かつぎ、毛槍立、鉾持などをはじめ、鎧兜、旗差物つけた出陣衣装の者まで参加した簡単な大名行列を形成している。兜曳山が四台も参加するようになった行列から出陣衣装の人は減って」他の行列の道具を相知町の祭に譲ったのは惜しい。


  補遺
 此の絵図は小兵衛蔵六が家屋改造の際、当時の町絵師冨野淇園に依頼して仕切り襖七枚に描かせたもので、自分が観て楽しむもので、公開するつもりで画かせたものでないことを考慮することが大切である。
 その後、この襖絵は山内小兵衛勘蔵が現住宅を新築した際、軸幅として表装し、昭和三十年唐津神社に寄進している。
 製作時代=明治十六年製作されているが、絵図の状況は藩政期、つまり山内家が大年寄を勤めていた時代が画かれている。

 8 付 録

  (1) 曳山の製作年代と関係者表
番山 町名 呼称 製作年月日 製作担当者 塗師 備考
刀町 赤獅子 文政2年9月 石崎嘉兵衛 川添武右衛門
中町 青獅子 文政7年9月 辻 利吉 儀七
材木町 亀と浦島太郎 天保12年9月 須賀仲三郎
呉服町 源義経の兜 天保15年9月 石崎八右衛門
脇山舛太郎
脇山舛太郎
魚屋町 弘化2年9月 (不明) (不明)
大石町 鳳凰丸 弘化3年 永田勇吉 小川次郎兵衛
新町 飛龍 弘化3年9月 中里守衛
中里重広
中島良吉春近
本町 金獅子 弘化4年8月 石崎八右衛門 原口勘二郎
紺屋町 黒獅子 安政5年? 安政6年の引山順にはない。文久3年の引山順にはある。
明治23年頃解体のため番山の順なし
木綿町 武田信玄の兜 元治元年 近藤藤兵衛 畑 重兵衛 曳山の内側に制作年を記す
10 平野町 上杉謙信の兜 明治2年8月 富野式蔵 須賀仲三郎
11 米屋町 酒呑童子と
 源頼光の兜
明治2年8月 吉村藤右衛門
近藤藤兵衛
須賀仲三郎
12 京町 珠取獅子 明治8年10月 富野淇園 大木卯平
13 水主町 鯱(シャチホコ) 明治9年11月
改造 昭和5年7月
富野淇園
中島嘉七郎
川崎峰治
川崎峯次郎外
14 江川町 七宝丸(蛇宝丸) 明治9年10月 宮崎和助 須賀仲三郎

※水主町の鯱ヤマは昭和5年改造されたが、その時の張師武谷関次郎、図案武谷雪渓、塗師川崎峯次郎ほか3名と輪島の笹谷宗右衛門外5名、箔師京都五明太郎、竹岡佐六等であった。


(2)曳山の寸法

町名 本体(メートル)
巾−奥行−高さ
車体(メートル)
巾−奥行−高さ−地上よりの高さ
地上より総高
(メートル)
重さ
(トン)
刀町 3.00-2.70-2.60 2.21-2.40-0.65-1.01 5.45〜5.11 推定1.6〜1.8
中町 2.50-2.50-2.55 2.22-2.52-0.64-1.01 4.81〜4.76 推定1.6〜1.8
材木町 2.60-4.50-3.40 2.23-2.44-0.58-0.94 5.10〜5.33 推定1.5
呉服町 2.80-3.00-4.00 2.16-2.20-0.62-0.99 6.10〜5.04 推定1.6〜1.8
魚屋町 2.20-4.70-4.60 2.16-2.46-0.60-0.99 6.72〜6.39 推定1.6〜1.8
大石町 2.05-5.10-2.90 2.17-2.77-0.59-0.94 4.49 3.0
新町 2.20-3.60-3.80 2.19-2.49-0.63-1.04 6.24〜6.04 1.4
本町 3.10-2.60-2.70 2.11-2.41-0.61-0.98 5.58〜5.13 推定1.6〜1.8
木綿町 2.70-3.60-3.60 2.09-2.43-0.65-1.02 6.34〜4.75 推定1.6〜1.8
平野町 2.40-2.80-3.90 2.21-2.48-0.63-0.99 6.73〜5.17 推定1.6〜1.8
米屋町 2.80-2.00-3.70 2.15-2.45-0.60-0.99 6.27〜4.94 推定1.6〜1.8
京町 2.66-3.60-3.50 2.13-2.34-0.62-0.94 5.25〜5.20 推定1.6〜1.8
水主町 2.50-5.70-3.80 2.17-2.70-0.60-0.99 5.90〜5.69 1.5
江川町 2.00-3.20-4.50 2.17-2.74-0.70-1.00 6.37〜6.11 3.0

※計測にあたっては、目測を加味した。
※曳き廻し中は曳山が傾斜するものあり、この寸法より若干高くなる。
(4)曳山の修覆年表
赤は「曳山のはなし」より後に塗り替え 青は手がけた業者
町名 製作年
及び製作者
第一回修覆 第二回修覆 第三回修覆 第四回修覆 第五回修覆 第六回修覆 第七回修覆
刀町 文政2年
(1819)

彫師:
石崎嘉兵衛
塗師:
川添武右門

弘化4年
(1847)


28年後
明治5年
(1872)


25年後
明治26年
(1893)


21年後
昭和3年
(1928)

江口鶴一
佐賀水ヶ江


35年後
昭和40年
(1965)

一色

37年後
平成元年
(1989)

八女近松岩吉商店
24年後
令和4年
(2022)

小西美術工藝
(曳山の蔵)

33年後
中町 文政7年
(1824)

獅子細工人:
辻利吉

塗師:儀七
大工棟梁:
小川太郎兵衛
小川定助
小川喜七
弘化4年
(1847)


23年後
明治2年
(1869)


22年後
明治30年
(1897)


28年後
昭和3年
(1928)

永渕興助
栗林茂実
佐賀呉服町

31年後
昭和34年
(1959)

宮口氏

31年後
昭和59年
(1984)

八女近松岩吉商店

25年後
平成24年
(2012)

はせがわ
西の門

28年後
材木町 天保12年
(1841)

製作者:
須賀仲三郎
明治8年
(1875)


34年後
大正3年
(1914)

金丸弥四郎他

39年後
大正14年
(1925)

原口謙一

11年後
昭和8年
(1933)

8年後
昭和30年
(1955)
一色


22年後
昭和52年
(1977)

宮口氏

22年後
平成13年
(2001)

はせがわ
(直方)
24年後
呉服町
天保15年
(1844)


細工人:石崎八右衛門・脇山舛太郎
塗師:脇山卯太郎
大工:佛師庭吉・白井久介・永田勇吉
諸金物師:
房右ェ門


安政4年
(1857)


13年後

昭和3年
(1928)

一色

71年後

昭和37年
(1962)

一色

34年後

平成2年
(1990)

八女近松岩吉商店

28年後
令和6年
(2024)
はせがわ美術工芸
(曳山の蔵)


大鍬形復元新調 
34年後
魚屋町 弘化2年
(1845)


不明
明治2年
(1869)


24年後
明治10年
(1877)


8年後
大正13年
(1924)

江口鶴一
佐賀水ヶ江

47年後
昭和34年
(1959)

宮口氏

35年後
昭和56年
(1981)

宮口氏

22年後
平成15年
(2003)

梅谷周船寺支店
台車新調( )

22年後
大石町 弘化3年
(1846)

細工人:
永田勇吉

塗師:
小川次郎兵衛
慶応3年
(1867)


21年後
明治23年
(1890)


23年後
大正10年
(1921)


31年後
昭和7年
(1932)


11年後
昭和36年
(1961)

江口時次
佐賀水ヶ江

29年後
昭和60年
(1985)

梅谷

24年後
平成26年
(2014)

はせがわ
西の門
29年後
新町
弘化3年
(1846)
原型細工:
中里守衛重廣・中里重造政之
大工棟梁:
太吉(魚屋町)
鹿造(魚屋町)
塗師:中島良吉春近・原利八家次・中島小衛春幸

元治元年
(1864)

中島小平治他、久留米

18年後
明治26年
(1893)


29年後
昭和2年
(1927)

増本勇造

34年後
昭和33年
(1958)

宮口氏
江口鶴一
江口時次


31年後

昭和62年
(1987)

梅谷

29年後
平成30年
(2018)

小西美術工藝社(曳山の蔵)

31年後
本町 弘化4年
(1847)
不明
一説では石崎八左衞門
塗師:
原口勘二郎

大正9年
(1920)


73年後
昭和29年
(1954)

一色健太郎

34年後
昭和47年
(1972)

一色宮口

18年後
昭和58年
(1983)
一部塗替
宮口


11年後
平成9年
(1997)

はせがわ
(直方)

14年後
木綿町 元治元年
(1864)

細工師:
紅屋近藤藤兵衛
塗師:
畑重兵衛

昭和4年
(3年?)
(1929)

江口鶴一 他
佐賀水ヶ江


65年後
昭和35年
(1960)

江口鶴一 他
佐賀水ヶ江


31年後
昭和59年
(1984)
梅谷


24年後
平成22年
(2010)

はせがわ
西の門

26年後
平野町 明治2年
(1869)


細工人:
富野武蔵
塗師:
須賀仲三郎

昭和3年
(1928)



59年後
昭和35年
(1960)

小豆色
原文は
昭和32年とあり

32年後
昭和57年
(1982)


22年後
平成18年
(2006)
金に変わる

はせがわ
(直方)

24年後
米屋町 明治2年
(1869)

細工人:
吉村藤右衛門
近藤藤兵衛
塗師:
須賀仲三郎
大工:
嵜作右衛門・嵜作兵衛・嵜久兵衛・嵜利助

明治25年
(1892)


23年後

昭和7年
(1932)


40年後

昭和39年
(1964)

一色

32年後

昭和50年
(1975)


11年後

平成5年
(1993)
八女近松岩吉商店
台車新調
18年後
京町 明治8年
(1875)

細工人:
富野淇園
塗師棟梁:
大木卯兵衛
塗師:
大木敬助
大工棟梁:
木村幸助
塗:
石崎重右ヱ門

大正10年
(1921)

一色健太郎

46年後
昭和37年
(1962)

本庄仏具
(京町)


41年後
昭和58年
(1983)

生田仏具
(伊万里)


21年後
平成20年
(2008)
鮮やかな緑に変わる

はせがわ
(直方)
25年後

平成27年
亀裂多数、大修理
西の門
はせがわ

7年後
台車新調
(平成30年)
水主町 明治9年
(1876)

細工人:
富野淇園
大工棟梁:
木村與兵衞(平野町)
鍛冶:
正田熊之進(木綿町)
木挽:
楠田儀七(本町)

昭和3年
(1928)
原形全面改造

輪島 五世・笹谷孝次郎
水主町集会所

52年後
新造
昭和41年
(1966)

輪島 五世・笹谷孝次郎
水主町集会所


38年後
昭和63年
(1988)

八女
近松岩吉商店


22年後
令和2年
(2020)

輪島
田谷漆器店
(曳山の蔵)

同時に
台車新調

32年後
江川町 明治9年
(1876)

細工人:
宮崎和助
塗師:
須賀仲三郎
大工棟梁:
田中市次正信
絵師:
武谷雪渓
昭和3年
(1928)


52年後
昭和38年
(1963)


35年後

昭和61年
(1986)

宮口氏

23年後
平成28年
(2016)

小西美術工藝社(曳山の蔵)
同時に
台車新調
30年後

ネット化について、総塗り替えが今後行われるに従い、書き加え続けなければなりません。(吉冨)


※紺屋町黒獅子は明治10〜25の間に消滅と推定
最後に面白い画像で閉めさせていただきます。
昭和35年一中卒業アルバムに珍しいツーショットがありました。
一中体育祭の本部席・来賓席
前列向かって右からこの「曳山のはなし」の著者古舘正右衛門さん
プログラムを見ているのは栗山市会議員さんでしょうか?
胸に花輪を着けているのが「神と佛の民俗学」の著者であり一中の校長であった飯田一郎先生です。
トロフィーの影になっていますがその隣は恐らく石倉先生と思われます。

 曳山研究の二大巨頭、実は余り仲が良くなかったと聞きます。正右衛門さんが育友会(PTA)会長を引き受けられた時の入学式の挨拶でも、快くお引き受けしたわけではないと壇上で申されたとか。「曳山のはなし」でも先に世に出た「神と佛の民俗学」とはまた違った観点から古舘正右衛門さんはくんちを表現しています。