ヤマの歴史と名称 飯田一郎
ヤマの歴史と名称
 唐津神祭のヤマが最近は多く山笠と呼ばれているようであるが、もとは囃山または曳山と呼ばれていたのでやはり囃山または曳山と呼ぶ方がよいと思うので本紙をかりて愚見を披歴し、大方の批判を仰ぎたい。 
一、ヤマの歴史
 唐津神祭のヤマが浜崎の祇園さんのヤマと随分違った形をしていながら、同じくヤマと呼ばれるのは長い歴史的な理由があるからでもともと山の形をしたものをお祭りのときに曳いていた、それが段々に形が変って初めのヤマとは似ても似つかぬものになってしまったのだけれども、名称だけもとのまゝに伝えられたからである。

 記録によれば、今から一千百二十六年前平安朝の初頃仁明天皇が即位せられ、その秋の大嘗祭のときに悠紀主基の新殻を献上するものが共に山を作り、山の上に木を栽え標を張った。これが標の山と言われ、以後歴代天皇の大嘗祭の度毎に作られ、後には車に乗せて引張るようになった。もともとこの標の山は神さまのおでましを表示したもので後の神輿と同じ意味のものであったが、藤原道長の頃京都の祇園の祭に或る猿楽法師が山を作り飾りをつけ囃しをはやしながら引いて廻ったところ非常な人気を呼んだ。当局は不謹慎であるとして圧迫を加えたが、祇園の山は年と共に盛んになった。そして次第に地方にもひろがり室町の中頃には博多の祇園祭にもヤマが出るようになった。


 近世の初め封建制の再編成が完了し民衆の生活が一応安定してくると、各地の神祭が盛んに行われるようになって、この頃から急々全国各地に種々様々のヤマが出来るようになった。ヤマは車に乗せて引いて廻るのが最も普通だけれども、若者たちがかついで廻るのもあり一ヶ所に据つけておくのもあり、信州諏訪湖の辺りや柳川などのごとく船に乗せて廻るのもある。その呼び方も種々様々で、ヒキママ、オキヤマ、ヤマ、チヤンギリ、チャンチキヤマ、チヤンチヤコチヤマ、オフネサマ、カサブキ、オフネマツリ、、カサボコ、コゾテヤマ、シンシユ、ダシ、ネツゼダイコ、ノリツケポウ、ハナダイ、プテン、ホコヤマ、ヨヤシヨ、ダンジリなどと呼ばれている。伊万里の有名なトンテントンの祭りにオミコシと喧嘩をするダソジリのようなのは其の土地の人々もこれがヤ
マの一種であることを知らずにいる人が多いであろう。こんなにして、形も名称も既にヤマでなくなってしまったものも全国的に見ればいくらかはあるだろうけれども、一般的にはなおヤマと通称されているのが一番多い。   (つゞく)
(筆者は県文化財専門委員 飯田一郎氏) 
二、唐津のヤマは曳山または囃山

 現在ある唐津のヤマは周知のごとく文政二年(一八一九)から明治九年(一八六九)まで丁度五十年の間にわたって次々と作られたものである。このヤマが作られる前、各町々に定例或は臨時の神祭に出すダシモノがあったことは勿論で、そうした先行慣習があったればこそ、刀町の石崎嘉兵衛が京都の祇園のヤマを見て感激し、帰郷して同志にはかったとき、たやすくその同意を得ることが出来たのだと思われる。これらのヤマが一体河と呼ばれていたであろうか、古いことはよくわからないが、幕末に近い頃には「引山」と呼ばれていた。九大の図書館に蔵されている材木町の平松氏の手記(唐津藩御触書御願書諸記録控)によれは、当時は悪病除けや五穀成就のために臨時の御祈祷がひんぱんに行われているが、そうした臨時の神祭に出されるものは「作りもの」または「造山」と呼ばれ、定例の神祭に出されるものは「引山」と呼ばれていた。
安政六年(一八五九)九月廿七日大年寄から町々の年寄に出された触書の冒頭に「引山順番」として江川町以下十三ケ町の名があげられており、文久二年(一八六二)九月廿八日同趣旨の触書にて江川町以下十四ケ町の名が連ねられている。
そしてこの触書の中には「神事翌朝引山之義j云々ということばもつかわれている。
 明治九年(一八七六)に江川町のヤヤと水主町のヤマと殆と時を同じうし、相前後して出来たとき、どちらのヤマを先に引くか、その順番のことで喧嘩がおこり、いわゆる七町組八町組の紛争になったことは有名で、今なお古老の間に語り伝えられているが、その喧嘩の仲なおりが出来たときの覚之書が当時江川町の十戸長だった吉村氏宅に藏されているが、その見出しには

 江川町水主町両町新規曳山出来に付順序約定書左の通


と記されている。
 引山も曳山も同じことでどちらも「ヒキヤマ」とよむので、唐津のヤマと呼ばれ、字で書くときは「引山」または「曳山」のいずれかであったことは以上の例で明かである。

 一方またこのヤマのことを囃山とも呼んでいた。江川町水主町のヤマの出来たその前年、明治八年の四月に唐津神社の春祭にヤマを引きたいということを氏子惣代らが願出に蔵されているが、それには


 兼テ奉納之囃山引出シ氏子一同賑々敷参拝任候条


云々と記されている。翌々年明治十年の香祭にも同様の願出をしており、文面は「兼テ奉納之囃山引し」というところ、全く八年のと同様である。

 これによれは囃山と呼ばれていたことも亦事実であって、恐らく最も普通にはヤマと呼ばれ、カドあるときには曳山、あるいは囃山とも言っていたのであろう。
(筆者は県文化財 専門委員飯田一郎氏)

三、山笠の名は借りもの

 昭和十五年に山笠取締会というものが出発、昭和三十二年十月に山笠保存会というものが作られた。町の人たちが普通に話をするときはたゞ「ヤマ」というだけで決して「ヤマガサ」とは言わない。「ヤマガサ」ということばは何か耳ざわりがして、ガサガサした感じがする)このように感ずるのは、私だけではあるまいと思う。


 いつか保存会の席で、どうして 「ヤマガサ」というようになったのだろうかという問題を提起したところはっきりしたことを知った人は無かったが、話が進むうちに、ヤマと言えばいゝのだけれども、文字を書くときはたゞヤマと書くだけでは物足りない感じがするから、山笠と書くようになったのだろう、博多で山笠と言っているから、その真似をするようになったのだろう、と言うことであった。この話は恐らく事実に近いものだと思われる。


 富山県の高岡市教育委員会は、全国にわたって非常な経費と手数を費してヤマの調査をし、その結果を発表されたが、それによると「山笠」という名称を使っているのは博多と直方と豊前市の刈田町と福岡県に三ヶ所あるだけで、あとは佐賀県だけである。佐賀県のは大体福岡県の影響と考えて差支えないのじゃないかと思われるが。唐津のヤマは博多の山笠と形も全然違っているし、歴史的系譜も別々なので、何も博多の山笠の名称を借りる必要はないと思う。ヤマの元祖である京都の祇園では今にたゞr山」と言っているだけである。


 保存会の人たちも、唐津のヤマが、前に曳山または囃山と書かれていたことを知っておられる人は一人も無いようだった。勿論これはこの人たちの罪ではない。唐津の人たちが全部がこうした歴史を忘れていたのである。そしてことばとしてはたゞ「ヤマ」と呼ぶだけで少しも支障もなく毎年ヤマヒキは無事続けられて来たのであった。


 昭和十四年に消防団が解散し、藩政時代の火消組から引続きヤマヒキを担当して来た消防組がなくなってしまって、あらたまった組織を作らねはならぬ時になって「山笠取締会」というものが出来たのである。ただし、山笠の名が使われたのは、この時が最初ではなく、これより前に一二の用例も無いでもないので、大体の見当では、昭和の初頃からぼつぼつ使われだしたものと推定される。

 私たちは普通の会話で、「ヤマガサヒキ」とか「ヤマガサの行列」とか決していわない。「ヤマガサバヤシ」ともいわない。「ヤマヒキ」「ヤマバヤシ」の類である。
 古い「ヤマゴヤ」が取払われて新しい格納庫が建設されることになった。誠に結構なことであるが、この格納庫に例えば「山笠格納庫」と書かれたら、それで「ヤマ」の名称まで半永久的に決定されることになると思うので、私はこの際特に「ヤマ」の名称を以前のように曳山または囃山とするように提唱したいのである。これはたゞ古く歴史的だというだけでなく、ことばのひびきから言っても「ヤマガサ」よりずつと優れていると思う。
 保存会の席では、大方の意見は「ヒキヤマ」(曳山)とするがよいということであった。 (終)

(筆者は県文化財専門委員  飯田一郎
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