山ばやし考補足 田中富三郎

先日掲載していたゞきました山ばやしの唄私考が山曳きの雰囲気から大分遠のいているような気がしましたので更に駄作を補足することに致します

  ◎山囃子の唄

一、舞鶴城下に 初声あげて
  てんまを揺籠に 虹の松風。
  松浦あらしを ねんねこ子守唄
  育った俺らは(おりたちや)
  唐津つ子 唐津つ子
二、玄海灘の 逆巻く波に
  身を躍らせて 潮吹く鯨に
  負けるものかと 鍛えたかいなの
  男俺らは(おりたちや)
  唐津っ子 唐津っ子
三、明神浜から かけ声そろえ 十四の山を
  江戸はら(はらかけ)パッチで
  三つのはやしに えんやえんやと
  曳き出す俺らは(おりたちや)
  唐津っ子唐津っ子

 折角の機会ですから唐津山はやしについて、その由来らしいものを申し上げて見たいと存じます。現在残っております山ばやしは二つありまして、一つは正調山ばやし、今一つはたて山ばやしと申しております。何れも文献が残ってないのでその起源はわかりませんが、資料や云い伝えで江戸時代からあったことには相違ないようです.正調山ばやしとは近年になってつけられた名称で、昔は道ばやしと、セリばやしの二つの部分の呼名があったのでございます。今の音楽的言葉で申せば道ばやしは前奏曲ということになるわけです。後のセリばやしが俗に皆様が山ばやしと云われるいつも聴かれる馴染深い曲でございます。この囃子は専門家の話では雅楽から来た旋律律と思われるが、どうも日本古来の流れというより大陸の影響が強いように思われると申しております。
 道ばやしは明治二十年代までは一番山の刀町のみで囃されていたそうですが、古老の話によれば山が小休止した時一番山の処に集ってこの囃子をきゝ、セリばやしになると各々自分の町の山にもどって曳出しの用意をして居たそうです。私の想像では山は町人が武士に対するレジスタンスという意見とは反対で嘗て藩政時代にはコースも神社から大名小路に出て居たので武家屋敷のある城内を練り歩く間は静かで荘厳な調子の道ばやしをやり大手門をくゞつて町方に出てからせりばやしになって私達の先祖が大いに祭気分をあげたのではないかと思われます
 その後永い間この囃子は途絶えて居て私達の少年の頃は道ばやしがあるということは耳にして居りましたが、実際に囃子を聞いた記憶はございません。ところが昭和四年に熊本放送局の開局記念民芸大会に出ることになった時、当時七十幾才の高添翁が只一人覚えて居られて伝授されたのが、今日まて残った貴重な記録となったのです。
 その後二十六年と三十六年に講習会をやって保存につとめておりますが、短時日では仲々会得し難く今も十人足らずの人しか演奏出来ません。
 この道ばやしも年に一度十月九日初供日の夜神社で奉納太鼓の儀式に演奏されるだけで唐津の人でも大部分の方が聞かれたことがないでしょう。折角の優雅な囃子ですからもつと一般に若い世代の方達に会得してもらって普及したいものだと念願して居ります。セリ囃子はいつも聞かれるし、子供の境から耳にしみこんでいるメロデーですから駄作の唄を口ずさんでいただけばこの上もない光栄です
又もつとよい歌詞を作っていただいて観光唐津の一助ともなれば私の願って已まない所であります。