山ばやし  白井はま


秋風が立ちそめたかと思うと、もう祭りの稽古ばやしが夜空にとどろいている
 「おや、今夜のはうまい。」
 りようりようと、高音の笛を聞かせて、さて、おもむろに大太鼓が鳴る−道行きの典雅なはやしである
 読書を伏せて、下駄を突っかけ、稽盲場をのぞきに行った。
 某氏が太鼓を、そのお子さんが笛を、鐘は誰だか、太鼓のかげになっていてわからないが。子供が大勢いるが、感心に、静かである。よく見ると、どの顔もいつしんに聞き入っている。
 唐津つ子ならば、普通のはやしは、見なれききなれで、誰にでも出来るのだが緩急の呼吸のむずかしい道行きともなれは、どうしても、先輩の指導が必要になってくる。
 正確な山ばやしを後世に残すには、夏休みでも利用して、子供の頃から養成していかなければ、これを、ほんとうにやれる人はだんだんいなくなる恐れがあるというのが、今は、たいていの若い人は、学校を出ると他郷に就職するリツが多く、祭りは行末ながく行なわれるにしても、正調まつりばやしは乱れ、変化の過程を辿るのではあるまいか。しかし、幸いにも、松下先生の山笠はやしの楽譜も出来ていることだし、私の心配は杞憂であろうけれど、何んといっても、実際にはいやが上にも湧き立つ祭り気分の頂上に於いて、太鼓を打ち、笛を吹き、鐘を叩き、身も心もそれらと一体となって、はじめて織りなされるはやしこそ、親から子へ、子から孫へと伝承される価値あるものではなかろうか。
 風土の美しさに似ず特有の歌も音楽もない唐津の、唯一つのもの、昔も今も、郷土の人心を一つにする力を持つ山ばやしが、宵宮の空にひびき渡ると、私はつい涙の出るほど感動する。セリばやしになると前後もなく、わくわくする。
 神祭は、人それぞれの見かたで、不健康で不経済で人さわがせで、めいわく至極と排斥する向きもある。成程と思う点も少くないがやはり私は祭りは好きだ。
山笠が大好きだし、山ばやしが非常に気に入っている。
 子供の頃の弘は、まつりの二日間、山笠といっしょに歩いた。
 友達がいなくともよかった。
 お小遣いがなくともよかった。
 はやしに歩調を合せながら、あとになり、さきになり、山笠と歩いた。