昭和54年10月 新郷土より 
 唐津 "おくんち″
諸井道實

 海水浴で賑わった夏が過ぎ、秋風が爽やかに唐津湾を吹き抜ける頃になると、唐津の町はそろそろ"おくんち″の支度にかかる。
 お盆の精霊流しが終り、ほっと一息つくと、町方ではもうすぐくんちのくるぱい≠ニからつくんち≠待ちわびる会話がきかれる。
 盆、正月には帰ってこなくとも、くんちだけには必ず帰ってくる人達。これらを条件に都会に就職している若者もいるとか。
 それほど唐津(特に内町、外町)の者にとっては、この唐津神社の秋祭りが、年に一度の最大の楽しみであり、生き甲斐なのである。
 かく言う私も三十三才で約十年勤めた新聞社を思いきって辞め、故郷に帰ってきてしまった一人である。
 家庭の事情等で唐津に定着している人も多いが、心のどこかに必ずくんちの響きが忘れ難
くて暮している人も多い。
 幼ない頃から馴染んだヤマ囃子と共に、ウチンヤマば曳きたか-一念の通称ヤマ気狂い≠スちが、からつくんちの伝統を引継いできた。
 唐津神社の戸川宮司の戦時中、男の居らんごてなってん、残っとるもんだけで曳いてきた。
たった一日しか曳かれんときもあったばってん、ヤマ曳きだけは絶対、やめとりまっせん≠フ言葉どおりである。
 戦後、外地からの引揚者を始め、よそからの移住者も増え、生え抜きの少なくなったヤマの町内もかなりある。昔からの古い町方の伝統、慣習を知らない人達も、その町に住み、商いをするようになり、古いしきたりに馴染めないままお義理で参加している人もあると聞く。が、いつのまにか本物のヤマ気狂いになっている人も多い。
 現在ヤマが残っている十四力町には、先祖から受継いだ漆(うるし)の一閑張り(いっかんばり)のヤマの維持、管理、運営を任せられている正副取締がいる。各町の若者にとっては代表の取締りの釆配に従って、統制ある行動をするのが原則である。
 近頃はヤマごとでん、集まりの悪うなってですなァ″と嘆く中年組の声も、時折、聞かれる。各町によって多少のちがいはあるが、通常一番組(四十才前後未満)と、それより年長組の二番組に分れている。ヤマの実際運行に直接たずさわるのが若手中心の一番組なのである。
 爺ちゃん、父ちゃんに抱かれ、肩車にのり、兄(あん)ちゃんに手をひかれてヤマと共に育ち、先綱から除々にヤマの本体に近くなり、危ないが重要な役についで成長していくのがヤマ曳きなのである

 生え抜きの長老は″ヤマは身体(からだ)で曳くもん。頭や理屈で曳くもんぢゃなか!≠ニ後継者にハッパをかける。 
 この言葉が、すんなりと身体(からだ)にしみ込んでいる若者の多い町内ほど、ヤマに関する各行事は円滑に運ばれているのではあるまいか。
 もともと封建性の強い排他的な狭い唐津の町である。途中からヤマの町内に移り住んだ人には、馴染みにくい空気もあったろう。
だが、ひとたび身内となれば、そして、くんちを迎えれば、見ず知らずの人たちにさえ、まあ一盃ぐらい飲んでくれんですかー≠ニ無理に酒肴を奨めるくんち気狂いの心が伝わってこよう。
 昔、三月(みつき)倒れといった派手に接待しようとする習慣の善し悪しは別として、くんちだけはせめて酒と肴ぐらいは−という精一杯の気持は、やはり何らかの姿で残っている。
 戦中、戦後の食糧難に台所を守る主婦の苦労は並大抵ではなかったろう。ヤマを見るヒマさえない裏方の苦労は今でも続いている。家々の男はそれらを承知でヤマ曳きに出かけていく。
 私が育った新町(七番ヤマ)時代(当時十月二十八日夜)宵ヤマが動きだす夜半から夜明けまでも母は台所で煮物をし魚を料理し、甘酒のようすをみ、赤飯を蒸していた。
 家の中にたちこめる、このおくんちの匂いがヤマ曳きに心弾み、なかなか眠れない子供心をますますかきたてるのである。
 宵ヤマも昔は夜半から明け方にかけて各町思い思いに曳き廻し唐津神社々頭に集まり本番を待った。明けると、くんち用に特にたてられた銭湯の朝風呂につかり、さっぱりした体に江戸腹、パッチや肉じぽんで正装する。
 今も私の家でも朝風呂に入り、神前に神酒を供え、正装して参拝。神酒を戴き、ハチマキをしめ、まっさらの赤緒のゾーリで玄関を出る。
 宵ヤマも十年程前から早くなり、午后九時に中心部の大手ロを一番ヤマから曳き出し順次、製作年代順に行列を整えていくようになった。
十月末だった期日も、十年余の賛否大論争のあと、十一月二日の宵ヤマから三、四日の本番となった。が旧来の十月二十九日は本殿祭を厳かに執り行ないヤマ曳きの準備に入るのである。
 文化の日を中心とするように変ってから、神社の参拝客も賽銭も急上昇。観光客も、近郷近在からのくんち参りのお客さんも増え、またまた裏方のご婦人連の苦労も大変である。
 戦後、若者流出で祭りのできなくなった町がふえたが、唐津だけは逆の現象がでてきた。曳き綱をつぎたすヤマもあり、女人禁制の祭りも小学生いや中学生までは−とする町もでできた。
一万昔ながら男子のみ≠ニ毅然と伝統を守り統制されているヤマもある。
 大人が上に羽織るハッピも丹前地模様から各町趣好をこらした粋な正絹のハツピを新調する町もでてきた。
 近頃ンヤマの曳き方は荒か=@ 下手になった∞走りすぎる∞ヤマ囃子の早うして重みんなか!≠ネど痛烈な声もきかれる。
神社に仕え、曳山行事一切をとりしきる曳山取締会に本部役員制ができて十数年。
 昔から有形、無形に伝わってきたヤマ曳きのあり方、各町独特の太鼓の打ち方に少しずつ変化がみられる町もあり、古老を嘆かせているともきく。
 ヤマの管理も曳山展示場に一年中、不動の姿勢で観光に供することへの不安も出始めている。
 更に相次ぐ県外出動。そして今年二月は史上かつてない、想像すらしなかったフランス政府招へいに応じたニースカーニバル派遣。
 最高責任者である脇山総取締の釆配のもと、市、各町の協力で、無事大任を果して帰国できたものの、その蔭の心労はなんと表現していいのか。
 ヤマは唐津くんちだけにして欲しい
 一人でも沢山の人に見てもらっていいではないか
 保存が先か
 貴重な観光資源だ
  ヤマを愛する町の人々の声は多彩である。
 願わくば、先人から受継いだ大きな遺産。日本のふるさとの祭りの、そして曳山の心をゆがめず、後の世代に引継いで欲しい。
 (唐津観光協会専務理事)
 
唐津おくんちの裏方から
後藤米子

 唐津の祭りというと昔から「三月の食い倒れ」等といって、唐津の人は三ケ月分のかせぎを祭りの馳走に使ったという。
 家庭の主婦はこの為早くから多くの人のかせいをうけ、馳走の用意に身を粉にして用意した。此の頃のように電化されない時代、炭火をおこして、ぶりの照り焼や卵焼等、それこそ大鉢に山のように用意して供日を待ったという。現在でも、そのような振るまいをしておられる所もあるかもしれないが、私の迎える供日科理といえば、たいてい仕出し料理の鉢盛ですませている。だから、照り焼きがあったとしても、せいぜい五切れか或はそれに代るものが鉢盛の間から、のぞいているといった程度である。
 それでも、私共主婦は何もしないかというとそうではない。来客に対して少しでも豪華にと思い、えび等四、五日前から冷凍しておき、鉢盛に色を添える。魚屋さんも一役かって保存法とか料理法とか教えて下さる。
 さしみも、ぶりは二日目には色が黒くかわり、見た目もまずい。お客がよっぱらって酒をこぼした様な、さしみは、身ぶるいする程、しょげている。やはり、ひらすか、鯛でないと、二日はもてない。

 最近は十一月三日と四日の二日間になったので、主婦もも客人の来ない合い間をみてお参りすることが出来るようになった。 毎年のことであるから、何か特色のあるものを作ろうと思って苦心しているつもりであるが、毎年同じような鉢盛を揃えてしまう。でも此の頃は食べ物が豊富なためか、吸い物とか、鯛の茶づけ等、あっさりしたものが喜ばれる。今年は、ゴマのきいた、あじの茶づけ等如何なものかと考えている。私も年を老いたせいかもしれない。
 まつりというと山笠であるが、私の住む町内には山笠はない。「山のある町に移ろうよ」と泣いた子供もいるとか。しかし山がないので、かえって公平である。唐津のよさは宵まつりにあると思う。祭りの好きな俳優がいて毎年来ては山をひいているという。
 私の町内は今年初めて、盆おどり大会をした。三十年ぶりだという。山笠のような目玉のない町だから、人々の心もばらばらで、なかなか集って下さらない。それで地域地域でおどりの練習をすると、かなり集って下さった。八月十八日の盆おどり大会には遂に三百人の人々を集め子供も大人も男も婦人も一つになって渦をまいておどることが出来た。バンドマンも楽器をはずし、おどり出した。楽しい夏の一夜で、もう来年のことを言い出している人もあった。
 まつりは人の和を作る。からつの山笠も向じである。見物する人と、山笠をひく人とー体となって、盛りあがりがある。盆おどりも同じことで、人と人との和をつくるのに最もよい方法ではないだろうか。
 供日の御馳走を食べながら、おしゃべりすることも、祭りと一体となることで、そこに主婦のはげみも誇りもあると思う。唐津の町に山笠があり馳走がある。唐津のまつりが続くかぎり人々はカラツに集まり、カラツを忘れないであろう。それが、唐津に生れたカラツっ子のよろこびであり誇りである。
(唐津市町田 主婦)