曳山ばやし 唐津曳山取締会相談役 田中富三郎 十月の声を開けば、つい五六年前まではここかしこの町々で山ばやしの稽古が始り、夜空に段々と太鼓の音が響き、郷愁をそそる笛の音が流れて唐津っ子の血を湧きたたせる供日の前奏曲がかなでられて居たものですが年と共にだんだん稽古場所が少なくなって近頃では市役所の憩の広場と水主町の天満宮で僅かに練習が続けられて居るようです。 山ばやしを愛する者にとっては昔を偲び、云い知れぬ寂しさを感じさせられます。 十月九日の初供日には毎年唐津神社で囃子始めの儀式が執り行なわれ、私共保存会によって正調山ばやしや立山ばやしを奉納し, 次いで各町内からセリばやしが順々に奉納されてその伝統を守って居るのであります。 唐津の山ばやしは古くから三つ残って居りまして、みちばやし、セリばやし、立山ばやしと申します。 昭和の初め頃、みちばやしとセリばやしを一つに組み合わせて正調山ばやしと呼ぶようになりました。 みちばやしは神楽の雅楽から来たものだといわれ専門家筋の話では大陸の影響を多分に受けているとのことです。 嘗て藩政時代に山を神社の前から東に向い、大名小路を通って大手門までの城内を静々と曳く時みちばやしが壯巌にはやされたようで明治二十五六年頃までは一番山の刀町に昔の名残をとどめていたとのことです。 大手門もなくなり、肥後堀の一都が埋められて参道が出来てからは唯今のように道順が変ったのでその後は、はやされなくなった様です。 先日参道から境内に移された石燈籠が当時、木綿町有志から開通記念として献納されたものです。 それから約四十年後の昭和四年、熊本放送局開局記念の民芸大会に唐津の山ばやしが出ることになり、当時八十才に近かった刀町の高添翁がみちばやしを覚えておられ、伝授きれたのが今日残った貴重な資料となったのであります。 当時教わった木下叉蔵木下忠氏等故人となられ唯一人市丸一氏が七十才の今日迄健在で、熱心に後輩の指導に尽されたので郷土民芸として近年観光面に寄与しているのであります。 然しながら太鼓、鉦が三四人、笛が十人足らずしか出来ませんので何年か毎に講習会を開いて後継者の養成に努めておりますが、少しむづかしいのとはやす機会が少ないので仲々一般に普及するに至りません。 みちばやしは唐津っ子と自負される古老の方でもご存知ない方が多いのではないかと思います。 それに引きかえセリばやし一般に山ばやしといわれ、供日の道行にはやすお馴染みのドンチッチのはやしです。 笛は刀町が一部ちょっと異る外は殆んど同じ節廻しですが、太鼓の打ち方にそれぞれ特徴があって代々その町内で受け継がれております。 昔は遠くで聞いてもどこ町の山だと判る位打ち方が違っていたのだが、今では各町共大分似通ってきて一寸聞いた位では判りにくく、なりました。 大太鼓を早く続け打することを太鼓をセルと申します。道ばやしとセリばやしを続けてはやすのが正調山ばやしと申すのであります。 今一つの立山ばやしは山が町々で休んだ時や西の浜のなおらいの時に昔はよくはやされたものでありまして、今日でも何 カ町かは時々はやしております。 このはやしは、太閤秀吉が名護屋城築城の時の石挽唄ともいわれておりまして古い歌詞に朝鮮語が残っている民謡調のはやしであります。節廻しは多少変化しておりますが唐津から西北の方即ち東松浦半島の部落の各所に残っているのがそのことを裏付けしているかのように思われます。 以上が古く江戸時代から伝えられた唐津の山ばやしでありますが、筆者が少年時代の大正の項には農兵節という流行歌も盛んにはやされていたことを記憶します。 唐津曳山取締会 相談役 田中富三郎 |