社説
 曳山宝塚へ行く


(一)
 三月一日雨にもめげず唐津曳山の宝塚出動祈願祭と壮行式が協賛会の人々によって壮んに行われた。
 けんらん豪華な曳山十四台のうち四台(呉服町義経の兜、魚屋町たい、京町珠取獅子、江川町七宝丸が代表として、3月20日かr宝塚市における宝塚劇場五十周年記念として催される「美しき日本博」に出品され入場者に展観されることは、曳山が創作されて以来始めての企である。元来父祖以来伝承された曳山は、唐津神祭の景物として市民や近郊の人々を喜ばせ親しまれて来た。最近では曳山の文化的.歴史的価値が段々喧伝されて観光客にも紹介され世界観光のポスターにも掲載される程有名になった。

 (二)
 事実、唐津が天下に誇りうる文化財は虹の松原と曳山丈けであり共に歴史を背負った自慢しうる財宝である。然し、曳山はその規模や構造が大きい為、郷土から出て他県で曳くことなど凡そ出来得ることでもなく、如何に観光宣伝の為とはいってもこれを持ち選ぶことなど不可能に近かつた。
而も年に一度二日の展覧では宝のもち腐れの憾がないでもなかった。勿論曳山のダイゴ味は神祭を背景とした曳山そのものにあるが、一台一台を観賞してもたしかに日本でも美はしきものの中に入ることは、あながち我田引水の論ではあるまい。

幸に宝塚博の人々がわが郷土の曳山に着目して一切の費用を先方持ちで運び展観させることになったことは曳山の美しさを客観的に評価したわけで一躍天下にその名をほしいままにする機会を得たといっても過言ではない。

 (三)
 今更ながら曳山を創作した父祖の着想と気骨に敬意を表し心から感謝の意を表するものである。
この曳山の出品によってどれ程曳山自体が世間に認識されるかわからないと共に、郷土唐津の名がこの曳山に象徴されてどれ丈の観光宣伝になるか計り知れないものがある。
 わが郷土をあげて協賛壮行、無事を祈願するのも当然なことである。
 この機会に曳山と同時に唐津の観光宣伝を企て一石二鳥も三鳥も考えることが大切であろう。われわれは曳山の出品に誇りをもつと同時に一面「浪華の人々」の商魂に一驚し、流石に大阪人だと感じ入っている。それは企劃や構想が群を抜いているからである。この商魂にあやかってこの際、観光唐津を天下に紹介する絶好の機会をつかむべきである。

  (四)
 単に出品料や曳山を賞めて貰ったということに満足せず進んで唐津を紹介し曳山を機縁の来遊を願うような宣伝企劃を考ふべきである。市当局はもとより関係者一同又とない曳山を他国に旅させる感傷よりも祖先の残してくれた文化財で郷土の為、大気炎を吐くべきである。
 巨費をついやしてもこのような大々的郷土唐津の宣伝をなすことは困難であろう。心から曳山の無事大任を祈ると共にこのチャンスをつかめと進言して曳山壮行の言葉としたい。

昭和39年3月22日 唐津新聞
 
 曳山宝塚に行く
    唐津曳山取締会総務   田中富三郎

去る十五日の朝
 会議所前から先噂は内町編成の山ばやし後尾は外町編成の山ばやしに見送られ、初めて郷土を離れた四台のヤマは翌十六日午後三時四十五分には無事宝塚に到着した。十五日夜「平戸」で先発した我々三人は博覧会事務局で、先日唐津で逢った阪急金子事業課長と落ち合って現場を下検分したところ、秩父の屋台の飾付中で木綿のハツビ姿の七、八人がそうではない、こうなんだと盛んに口論していた情景を見たが何処も同じだと苦笑した次第である。然し居並ぶ山が提灯の多いのに気付き、早速宿舎の阪急旅行会館から会議所に電話を入れ、出発間際の各町に提灯を持って来るよう伝達してもらった、宿の三階随で翌日着く本隊の室割を準備しているとき、小島氏が窓越しに山が来たというので、見れば成程唐津曳山の横幕をつけた一台が会館前を通り過ぎた。とるものもとりあへず表に飛び出し二台目を止め、次々と停車してもらって阪急と連絡をとり裏口に廻って現場に入れさせてもろうことにした。予宅より六時間も早く潜いたので面喰らつた。
 結果的には夜でなく陽も高く車の置き場も何とか間に合い翌日の仕事にも万事好都合だったのは却って幸運だった。通運の宿舎も丁度本隊が来るべく会館があいていたので渡りに船で吾々と一緒にしてもらった.十七日早朝尾花君に三宮まで出かけてもらって本隊を誘導し、一休みすると直ぐ十時から一斉に組立準備にかかった。通運の福本課長以下全員のキビキビした作業と出動諸氏の熱心な努力で仕事は殊の外速かにはかどり、十八日まではかゝると思われた飾付が十七日一日で仕上った。みんなの仕事振りの意気盛んなこと、次次に偉容を表し出来上がって出来上って行くおらが自慢のヤマに並居る関西の人達は驚嘆し絶賛わをおしまず唐津っ子の面目躍如たるものかあった。
翌十八日は更に装備を点検し一同ハツビ姿で到着間もない戸川宮司によりお払いをしてもらい引続き山ばやしをやつて式を閉じたが、金子課長に他の出陣された山ではこんな厳粛に、しかも勇壮壮はやしで盛上りのあることはなかったと賞められ内心鼻高々と喜びを感じた次第である。
 その日は十一時から皆さんの要望によりバスで奈良を見物し後は自由行動として黄昏がるゝ頃大阪駅裏口で解散し、本部に役員と幾人かが宝塚まで帰った。十九日の場内は手すりも出来上がり通路以外は白い玉石が一面に敷きつめられ祭風景の写真の下に説明入りの立て札も立ち開館を待つばかりとなった。唐津のは他より一段と大きく西ノ浜に十四台勢揃いした写真が出ていたが人物の数の少いのが、いさゝか寂しい感がした。西田場内係長が録音は外部と山の中にもホーンが取りつけてあることをテストして見せ、唐津の山は呉服町の山の中に取り付けてあった。

翌二十日の開会式
は生憎のどしゃぶりだったが、第二会場で催され、総取締始め一同列席し市長からの祝電も披露され、より抜きのツカ娘五人が花束贈呈に出て錦花を添え、毎日新聞会長のハサミでテープが切られ茲に美しき日本博の開会の幕は切って落とされた。唯遺憾だったことは江川町の武富君が到着早々急性盲腸炎で入院された気の毒な事件が起こったことだった。
 今回の「美しき日本博」を見て私だけでなく何といっても第二会場の「お祭り日本」が最大の呼び物であることは衆目の一致するところでしょう。次の第三会場の「日本の年輪」だと思います。重要文化財がずらりと並べてある中に唐津焼の壷が飾ってあるのも郷土の為に誠に意義深く感じました。
 第五会場にファミリーランドの一番奥にありますが体育館程の大きさで四方紫紺色のガラス張りで場内は明るく照明もよく工夫されている。表は祭り提灯で飾られ、中は各地自慢のお祭にちなむ山鉾、屋台車が所狭しと並べてある。
 向かって右側の入口をはいると@右手に長崎の蛇船が破損のためかわって蛇踊りの金の玉蛇がとぐろを巻いていたが他の山の重圧感に余りにも貧弱に見えた。その横にA富山県新崎湊市の曳山が直径五尺以上の御所車風の車に鳳凰の模様を銀色の金具で装飾した山が聳え、作りや人形の古き絶頂のホラ貝が異様で立派な山だが上に出ている紅白の差物が新しくはで過ぎて、コントラストが悪く折角の重圧感が失われていろようだった。次のB三重県四日市布の鯨船は総黒塗りに金色の亀んp浮彫りをし、へさきの大房や刺しゆうの大漁旗等仲々古色も豊かだが黒布の小さい鯨をあしらったのは何とかも少しいゝ趣向はなかったろうかとおしまれた。その向い側の左手にはC長野県諏訪神社の大杉を模造し、しめを張って神域をしのばせ、その隣に愛知県津島市の船屋台が大きく場所をとり、この二艘の船の上に大屋台を組み、その庇に忙定紋入りの淡紅色の提灯をめぐらし其処ではやしをし、その屋根の上には櫓を組んで虎の刺しゅうの布で包み、その櫓から割竹の先に三百六十五個の提灯がつき出し、その上にまた八米もの長い竹に十二の提灯がついて夜の海上を漕いで行く海の宵祭りだとのことであった。さぞ壮観であろうと想像された。

通路がカープに
なる所にEさん然と江川町が斜に竜頭を突き出し、その隣に呉服町が金色に輝き面の両側にはボぐみの提灯明るく火がはいっている。その横はG珠取獅子が四つの足む力強くふん張っており、左通りのコーナーがH魚屋町で尾ヒレが天井につかえ両ヒレを開いて鮮やかな赤色の人なつこい姿を大きく浮き出している。
 その隣にはI対照的に地味な栃木県鹿沼市の素地の木彫りの龍を主にした山車がある。その細工は日光東照宮建立の時天下の名工が集まり余暇に作ったものと伝えられ、左甚五郎作もあるとかで見場は悪いが仲々奥ゆかしさのあるヤマであった。
 その次に控えたのはJ埼玉県川越市の山車で天覽はやしが無形文化財であることや中央に供えた能面が重要文化財の指定を受けているとのことであるが、山そのものは余りパツとしない山車である。
 その横にK愛媛県新居浜市の太鼓台が置いてある。
車はゴム輪で巾広く小さいが長さ六間位の四本の棒が山にくくりつけてあり、その捧を押して動かすようになっているようである。この山は金糸の刺しゅうで金色さん然として上り竜、下り竜が抱き合い御殿模様も縫い込んである綺麗な布の山である。
 其の向い側の京町の前に陣取ったのが埼玉県秩父の屋台で大きさも一回り大きく黒塗りの欄干下の波に青龍の浮彫りは見事なもので、寛文年間(三百年前)の作といい天井の墨絵の竜や根も立派で京都、高山と並び「国指定民族資料文化財秩父本町屋台」の立て札は一層箔をつけて居る感じである布も刺しゅうが殆んどで六台あるとの車だった。二百米の坂を引上げ屋台を三倍に拡げて素人歌舞伎をするのが国の指定を受けた秩父の祭行事だとの話であった。仲々大事に取りあつかわれて居り行灯式の提灯が沢山廻りにつけてあったが之は却って浮彫の良さをかくして逆効果だと思われた。
 その後側がM福島県二本松市の灯山だが屋台車の上にピラミッド形に提灯が一杯ついて屠るだけで有名な割に期待はずれで何だか影が薄い感が深かつた。
 場内の天井にはN仙台一と云はれる人が作った七夕祭りの紙飾りが一杯つられ白、赤、紫、青緑と色様々で場内の賑やかさに大きな役割を果たして居たようだ。
 会場の表側は中二階になり、そこで休息所と民芸品売り場になって居る。各地の山囃子が順番に次々とテープコーダで場内に流されお祭気分をそうて居た。

 国指定の京都の祗園山は京都市が博覧会開期中で出ていないし、飛騨高山の山は4月が祭月なので出陳出来なかったと言う事だった。実は之等の国宝級の山を並べて見たかった。

全般的に見て
何れもお国自慢のものだけに一つ一つ特徴があり甲乙は付けがたいが殆どがよく似た木造で黒、金銀の屋形作りが多く動きがなく囃子もゆるやかで盛り上がりが少いように感じた。唐津のヤマは見る者に躍を感じさせ形も色彩もとりどりで、しかも一つの動物なり、勤なりにまとまって居り、又その製法も一閑張りで、本体が和紙だということでも観る人をして更に驚かせ断然異彩をはなった存在と人気で、他と並べても全然遜色を感じさせなかったし寧ろ数に於て圧倒し九州の西の果にこんな立派なものがあるのかと浪花の人のどぎもを抜いたといっても過言ではない様だった。又囃子にしても九州らしいローカル色豊かな勇壮さは一入印象に深いようで金子課長をはじめ逝ふ人毎に一度是非見渡いとくんちの最をよく聞かれた。之が観光唐津の為にどれだけ後日期待が持てるか楽しみなものである。

昭和39年3月31日 唐津新聞