神祭の山笠昔話 岩下正忠


岩下正忠さんの「神祭の山笠昔話」

神祭の山笠昔話
佐賀県文化財専門委員
岩下正忠

黄金の稲穂が波打つ十月の秋空に典雅な「ヤマ囃子」が響いて来ると、唐津ツ子の血は浮き立ち、全町が活気に溢れて来る。豪華にして絢爛たる十四台の山笠への郷愁は唐津ツ子の血脈に沁み込んでいて、十月二十九日の未明から始まる城下町にふさわしい典雅な神祭の気分を三ツ囃子の音調と共に頂点迄盛り上げて行く唐津には現在の「ヤマ」の出来る以前にも「ヤマ」があった。寛文年間より御神幸が行われ、宝歴十三年(一七六三−約二〇〇年前−土井大炊頭利里領主時代)には惣町より傘鉾山が奉納された。此は又「カツギ山」と云ひ、各町の火消組が担いで西の浜へお神幸のお伴をした。領主と行列を整って随行していた。それから二年後の明和二年に今日の鳳輦型の御神輿が新調されている。此御神輿は大坂住吉家のものと同型で其二級品である由である。次の水野時代には「カツギ山」から車の付いた「走り山」に変って来た。江川町の赤鳥居は常に神祭にある為行列の先頭に進み、本町の左大臣右大臣、木綿町の天狗の面、塩屋町の踊屋台等が出来た。然し文政二年(一八一九−一四〇年前)小笠原長泰が領主となった時一番山の刀町の赤獅子が作られた。

当時刀町の住人石崎嘉兵衛がお伊勢詣りの帰途京都の祗園山笠を見て帰国後大木小助等と此山を作ったと伝えられ、山の内側に其作者名が漆書きされている。


又一説には小笠原主殿長昌が水野氏に代って唐津領主となったのが文化十四年で一番山笠が出来たのがそれから二年後の文政二年である事から小笠原の前任地奥州棚倉の神祭の模倣であろうと云ふ説もあるが棚倉には此様な行事はない。尚「ヤマ」は武士に対する町人のレジスタンスとして作られたと云はれるが当時の世相より推してすぐには断定されない。最近博多の松囃子の模倣と云ふ説がある。奥村玉蘭の「筑前名所絵図」の「松囃子の図」に伏きな猪や鯉の山笠を引物として城内に引込み無礼講の接待を受け町中を練り廻る図がある。此松囃子の風流が唐津に流入し、現在では神祭の早朝社頭に神田区の青年が奉納する「カブカブ獅子」にヒントを得て作られたものではないかと考へられている。当時世相は庶民文化華かな文政年間であり唐津領は水野氏の圧政から小笠原氏に変り領内の気分を一新した時であった。此時一町内で多額の費用を費つて豪快な山笠を作った事は町民の意気の高揚と経済力が町人に移りつつあった事が偲鳳凰丸の千七百五十両を要している。又本年木綿町の「信玄の兜」は塚替えだけで百万円を要した。


山笠の重さは略二トンほどである。)以後次々に各町競って金銀丹、青に輝く現在の「漆のいつかんばり」の山が完成した。然し安政六年の神祭迄は本町の金獅子迄完成しているので其当時の記録によれば、一の宮の御神輿には未だ「走り山」であった江川町、塩屋町、木綿町、京町、米屋町が従って、「ワーッ」と走り出し先行の大名行列と御神輿に追い付けば停つて壊れた箇所を「コトコト」と修繕し又「ワーッ」と走っていた。此を「ため曳き」と云っていた相である。京町の踊山は町内の娘を屋台に乗せ町々にて踊を披露しながら通って行った。其の後に二ノ宮の御神輿が静かに進み絢爛たる刀町の赤獅子、中町の青獅子、材木町の浦島、呉服町の義経の兜、魚屋町の鯛、大石町の鳳夙丸、新町の飛竜、本町の金獅子と平安の雅楽から採ったと思われる三ツ囃子を床しく秋の光に金銀を輝かせながら威勢よく巡幸していた。そして明治九年迄に紺屋町の黒獅子、木綿町の信玄の兜、平野町の謙信の兜、米屋町の酒呑童子、京町の珠取獅子、江川町の蛇宝丸、水主町のシヤチの十五台の山が完成した。然し当時一大珍事が勃発した。明治九年江川町は蛇宝丸の山を奉納する目録を神社に差出した処同年水主町は後れながらシャチの山の奉納目録を差出した。処が水主町は山の形が出来ると本塗しない前に曳き出して神社に奉納したので江川町は後れて蛇宝丸を奉納した。その為何れを先山にするかで全町十五ケ町が七町組八町組のニッに分れて喧嘩となった。此時大石の権現様の宮司が仲裁に入り「両町隔年に前後致様取極め」て天神山にて円満解決手打となった。それ以来今日迄江川町と水主町は隔年交互に先山となり、御神幸の時は山の行列の中央本町の後に「山のみかじめ」として天満宮の御神輿が随行される様になったのである。

又明治十三年は唐津地方は大干魃の年で全町雨乞祈祷の為山を西の浜に曳き出し七日間鐘太鼓で祈黙をしたが遂に降雨の模様になかつたので魚屋町の鯛山を台から外し海に入れて泳がした事もあった。其後明治二十二年頃には紺屋町の山は破損して遂に消滅し太鼓だけは一昨年木綿町に移ったと云ふ盛衰にあった。


昔の神祭は二十八日各町内に曳出した「山」は飾付を終って二十九日未明高張提灯、丸提灯に火を入れて飾り、刀町、中町等は万灯を山の前にプラ下げて大手門前広場に集った。やがて秋冷の朝霧を破って時打櫓から明六ツの太鼓が轟き渡ると城門は左右に開かれ、山は順次に城内に曳込まれ今日の彰敬舘の北にある要の木の脇に御幣を高く掲げた一番山刀町が据えられ順次に日廻りに明神社前に勢揃ひした。午前十時頃御神輿発輦に随つて神田区の氏子の大名行列の出立があり、(現在の相知の大名行列の道具は唐津神社の物を譲受けたものである。)続いて十四台の「山」は明神横小路より大名小路に出て南行し大手門を出て七軒町(今の大手口通り)から本町に入り京町から東に進み札の辻橋を渡り魚屋町、大石町水主町と通り新堀に左折し材木町を過ぎて塩屋町に入り魚屋町に出て再び札の辻橋を渡り京町、紺屋町、平野町、新町を通って浄泰寺の前を左折し名護屋口の関所を越した。此処は石段があったので土嚢を敷き詰めて「山」を通した一番の難所であった。それより近松寺の角を北に曲り坊主町を過ぎ西の浜の御旅行に着いた。其当時の御旅行は今の西高校の真裏で坊主町から真直ぐ浜に行く狭い道の右側に小さい詞が祭られている所で今日では住宅が廻って昔の俤はない。御旅所に勢揃ひすれば各町内は山の後方に幔幕を張り弁当を開いてお籠をする。此は直会(ナオラヒ)と云つで神人共食の神事である。戦後此お籠のすたれた事は特に嘆かわしいことである。

愈々待望の唐津神祭も迫つて伝統の雰囲気は今刻々と盛り上りつゝある。

       (終 り)