初ぐんちと山ばやし

 今日此頃の夜の街を歩けば遠く太鼓の響きが流れて来、何時の間にか足はその方向に早められ、やがて鐘の音色が聞え、引付るような笛の調べが耳に入れば足元に迫った「くんち」に唐津ツ子なら老いも若きも血を湧かし胸の高鳴りを覚えるものである。
 幼なかりし日の初ぐんちに「山んでとる」といって飛出した頃の感激を喚起せずには居られない。毎年見馴れた同じヤマに囃に何故こんなに愛着を感じるのだろう。

 初ぐんちと云えは昔から各町の「若つかもん」が十月九日に山掃除をして飾り付け、近い町々を引廻って車の調子をみたり、供日の前景気をつけたものだが、最近では時代の流れか日曜を利用してこの行事をする町内も多くなってきた。

 然し何時の頃から初ぐんちの夜は神社の境内で奉納太鼓の儀式が催されるようになり、昔ながらの音律で優雅な「道囃子」が年に一度公開され、十四ケ町の持味を発揮したセリ囃子の競演が行われるようになったのは誠に有意義なことと郷土のため慶びにたえない次第である。秋の夜空に各町の印提灯の火が揺れて殷々と響く山囃子を聞くのも又一入の趣がある。

 道囃子について、八十を越した古老の話では、子供の頃ヤマが町々に停つた時よく刀町のヤマで囃され、他の町内の曳子達が集まって聞き入ったものだと云って居られた。恐らく明治二十年代までは囃されていたものと想像される。筆者も子供の頃道囃子があるということは聞かされていたが、それがどんな囃か一度も聞いたことはなかった。自他共に唐津ツ子だと云われる古い人でも殆んど知っては居られなかったゞろう。
 この埋もれていた道囃子の復興をなされたのは、昭和四年熊本放送局開設一周年記念出演を機会に刀町高添翁から木下又蔵、木下忠、市丸一氏等が伝授をうけて放送されたのがきっかけでその後二十六年に木下、市丸氏によって再び平田、宮田、篠崎、一色兄弟の諸氏に教へられ漸く陣容も整い観光に民芸に大いにクローズアップさるゝに至ったのである。然しながら両木下氏は既に故人となられ、会得者も数少く、もつと若い世代に広く後継者を養成しようと各町に呼びかけ、本月一日から八日間第三回目の講習会を神社の拝殿で開かれ、毎晩熱心に教授されている。会得者が各町々に数多く出来てヤマの豪華さに花を添えられるようのぞましい。
 典雅な道囃子に続いて勇壮なセリ囃子(くんちの山囃子)に移る妙なる旋律は唐津ツ子の胸に泌み入る郷愁の香が残されている。ドンテツテツテのセリ囃子は緩に急に大太鼓を数たゝいても囃になる変化の妙味が馴染みやすく、そこに各町内の持味が区別されるのではないかと思われる。

 今一つのヤマ囃子、たて山囃子はローカル色豊かな優美なメロディーで、昔はよく西の浜の休憩の間盛んに囃され、歌われてもいたが、今は知っている人もだんだん少なくなったようである。

 道囃子と共に唐津囃子として永久に残して置きたいものだと思う。
 初くんちの晩の山ばやしを聞くのを楽しみにして、この稿を終りたい。
       (唐津ツ子)

昭和36年10月8日 唐津新聞切り抜き記事